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2008年10月26日 (日)

「ICHI」 想像していたよりオーソドックス

本作いくつかの点で興味がある点がありました。
まずは綾瀬はるかさん(おいおい)。
「僕の彼女はサイボーグ」を観た時にかわいい人だなあと思ったのですが、その彼女が時代劇で女座頭市というキャスティングが意外性があって、どのようになるのだろうというのが興味がありました。
あとは曽利文彦監督が久しぶりの実写で、それも時代劇をどのように撮るのかという興味。
曽利監督作品では「ピンポン」でCGを上手に取り入れた演出が新鮮でした。
その後フルCGアニメの作品を作っていますが、その中で手に入れたノウハウを時代劇に持ち込んだときに新しい映像を観ることができるのではないかと思ったわけです。
特に殺陣などではいろいろできるのではないかなと思っていました。

さて蓋を開けてみると、思いのほかオーソドックスな作りでかえってびっくりしました。
まずストーリーはそれほどヒネリはありません。
これはつまらないということではなく、最初の設定から順当に積み上げられた正攻法のシナリオであるということです。
市が女性であるということ、刀を抜けない侍、宿場町で対決する二つの勢力などの設定から導きだされる全うなストーリーだと思います。
全うなので、その分、驚きはありません。
観賞前に期待していた新しい時代劇の映像ですが、これはそれほど新しさを感じませんでした。
スローを巧みに取り入れているとは思いますが、驚くというほどでもなく。
CGを使いこなすことができる曽利監督ならではの、もう少し新しい映像を見たかったような気がします。
特にいただけなかったのがキャスティング。
外しているキャスティングではないのですが、あまりに俳優に対しての役柄が今までのイメージ通りのため、その後そのキャラクターがどう動くかというのが想像できてしまうのです。
中村獅童さんとか竹内力さん、窪塚洋介さんの役柄は、彼らそれぞれが今まで演じてきたキャラクターとかなりかぶっているために新鮮味がありません。
それしかできない役者さんではないので、もう少し違った使い方ができたように思います。
逆にキャラクターが先にできているのならば、毛色の違う役者さんをはめてみるという勇気も必要だったのではないでしょうか。

伝統ある時代劇という題材だったからか、全体的に既存のイメージに囚われすぎているのではないかと思いました。
もうすこし若い世代ならではの時代劇というのを表現できるのではないかと感じました。

ええっとあと綾瀬はるかさんは、文句なくかわいらしかったです。
これが収穫でしょうか(笑)。

綾瀬はるかさん主演「僕の彼女はサイボーグ」の記事はこちら→
曽利文彦監督作品「ベクシル -2077 日本鎖国-」の記事はこちら→
香取慎吾さん主演「座頭市 THE LAST」の記事はこちら→

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「トゥームレイダー」 天性の存在感

公開時、劇場に観に行った時は特別におもしろいと思ったわけではないのですが(つまらないということでもなかった)、改めて観てみると残っている印象よりはおもしろかった。
ストーリーの中心になる冒険のネタが、惑星直列とか、秘密結社とか、古代の失われた文明等の、トンデモ系だったりするので、これらを大らかに受け止められれば、たぶんこの映画は楽しめます。
それらを「えーっ?」と思ってしまうとダメでしょうね(たぶん初見のときはそうだったのだと思います)。
とは言っても、本作品は脚本がいいとか、演出がいいとかいった類いの映画でもありません。
ただひたすらにアンジェリーナ・ジョリーという女優の存在感を観る作品と言っていいでしょう。
「ウォンテッド」のところでも書きましたが、アンジェリーナ・ジョリーという人はスクリーンの上での他の人とは異なる存在感があります。
そのときは「肉体のある実存在としての存在感」と書きましたが、やはり本作品でもそれは感じます。
その存在感は、彼女の持つ印象的な美貌、そしてアスリートのように引き締まっていながらも女性らしいフォルムを持つフィジカルな見た目によるものだと思います。
また特にアクションシーンで観られるような、男性顔負けの彼女の動きもその存在感に寄与しています。
チャン・ツィイーなども美しい上に動ける女優さんですが、彼女の動きがあくまで女性らしい優美さをベースにしているのに対し、アンジーの動きはもっと男性的です。
本作でも彼女が全速力で走っているシーンが幾度もありますが、大きく手を動かし広いストライドで走る彼女の動きはまるで男性のよう。
けれども荒っぽいのではなく優美さというか、官能さみたいなものを持っているのが、アンジーの特徴でしょう。
本作でそれが感じられるのは、自宅の豪邸で中吊りになりながらのアクションシーンですね。
ここはなかなか見応えがありました。

アンジェリーナ・ジョリーが演じるララ・クロフトが感じる肉体の痛みというのは、何故かリアリティがあり生々しく見えます。
アンジーの持つ独特の生々しさ(いやらしい意味ではなく)があるからこそ、ビデオゲームをベースにしたララという非現実的なキャラクター、荒唐無稽なストーリーであっても、不思議に地に足が着いたように見えるのです。
これはたぶん演技のテクニックとかそういうものではないような気がします。
彼女が持つ、他の人とは異なる輝きを持つ個性というものをスクリーンを通じて感じてしまうような気がします。
そういえば「ベオウルフ」は映像はすべてCGでしたが、アンジーだけは何故か生身の人間のような生々しさを感じました。
そうすると彼女から伝わってくる存在感というものは、単純な見た目によるものではないのかもしれません。
たぶんそれは彼女の些細な仕草、些細な動き(動きはアンジーの演技がキャプチャされている)が、観ている側にリアリティのある存在感を伝えてくるのでしょう。
彼女の存在感というのは天性のものなのかもしれません。

アンジェリーナ・ジョリー出演「ウォンテッド」の記事はこちら→

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本 「悪夢のエレベーター」

コメディサスペンスという分野になるのでしょうが、こちらの作品、かなりおもしろいです。
舞台となるのはタイトルにある通り、ほとんどが密室化されたエレベーターの中。

ある日バーテンの佐藤は気がつくとエレベーターの中に閉じ込められています。
いっしょに閉じ込められているのは、自称不動産関係という中年男、ニートという青年、怪しげな魔女風の雰囲気をもつ若い女性。
佐藤はバイトの女の子を送った帰りに、妊娠中の妻から出産しそうという電話を受け、エレベーターに乗ったところまでは覚えています。
四人はエレベーターから脱出しようとしますが、そのうちに佐藤以外の人間のほんとうの正体が明らかにされていき・・・。

同じシチュエーションを何度も繰り返す中で、新たな視点が提示され新しい事実が判明していくという構造で、ぐいぐいと引き込まれていきます。
物語の構造としては映画の「バンテージ・ポイント」とかが近いかもしれません。
「えっ、そういうことなの?」みたいな感じで、読み始めると後をひく作品です。
二転三転するミステリーですが、読み心地は軽妙なので、サクサクと読んでいけます。
著者は舞台の作家ということで、こちらの作品も舞台にもなったようですね。
映画にしてもおもしろいかもしれません。
ほとんどエレベーターの中なので、難しいか・・・。

映画化作品「悪夢のエレベーター」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢の観覧車」の記事はこちら→
木下半太作品「悪夢のドライブ」の記事はこちら→
続編「奈落のエレベーター」の記事はこちら→

「悪夢のエレベーター」木下半太著 幻冬舍 文庫 ISBN978-4-344-41023-7

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2008年10月25日 (土)

「その日のまえに」 残す人、残される人、互いに想う

死の告知を受けた妻とその夫の物語、映画を観る前の情報はそれくらいしか入れていませんでしたので、死を扱うテーマだけにやや重い映画であるのだろうと覚悟して観賞しました。
でも始まってみると思いのほかも明るいトーンで、最初はややとまどいました。
最後まで観終わるとその明るさみたいなものに意味があるのがわかります。

告知を受けた妻、とし子(永作博美さん)と夫の健大(南原清隆さん)は、一時退院の日に夫婦が初めて住んだ街を訪れます。
この時の二人はまるでつき合っている時の恋人同士のよう。
なかよく手をつなぎながら、いっしょに暮らし始めた頃の思い出をたどっていきます。
死を前にしているのに、とし子のように明るく振る舞えるものなのかと最初は思いました。
この明るさは彼女がとても無理をしているものなのではないか、とも。
少しは無理をしていないわけではない。
けれど最後までこの物語を観て、とし子はほんとうにそれまでの夫と子供たちと暮らしてきた生活が幸せだったのだろうと思いました。
新婚時代の街を訪れたとき、駅前は二人が住んでいたときと様変わりしていました。
ごちゃごちゃとしていた商店街はなくなり、そこはバスのターミナルになっていました。
健大が「残念?」と聞くと「なくなっていて良かったかも」ととし子は答えます。
楽しかった思い出が変わってしまったのを見てしまうよりも、ずっと心の中で残っているのが良いととし子は思ったのでしょう。
とし子は病院に入院してからも、子供たちがお見舞いにくることは許していませんでした。
自分が死んでしまうことを知ってしまうことによって、子供たちが悲しみにくれて欲しくなかったのです。
彼女は夫や子供たちが自分の死を知ったあとも、そして死んだ後もずっと悲しみ続けることを望んでいませんでした。
とし子にとって、夫が仕事をしている姿を脇で観ていて、子供たちが自分の手料理をおいしそうに食べているのを観ていて、そういう楽しい一瞬一瞬が幸せだったのでしょう。
その幸せな時間を、自分の死によって失いたくないというのが彼女の気持ちだったような気がします。
彼女が家族に残したかったのは、悲しみではなくみんなが笑顔で暮らしていける普通の日々だったのだと思います。
だから最後の手紙の言葉が「忘れてもいいよ」だったのでしょう。
たぶん夫の健大もそういう妻の気持ちをわかっていたと思います。
だからこそ彼女の前では明るくいつのものように振る舞っていました。
彼女が望んでいるのは、悲しむことではなく明るく笑顔で暮らしていくことだから。
残す人も、残される人も、「その日」を迎えるそのときまでずっとお互いに相手のことを想っている、この夫婦がとても羨ましい。
ときどき挿入される宮沢賢治と妹とし子の描写、そしてクラムボンの歌がそのような健大ととし子の関係を暗示していてこれも良かった。
そういうふうに互いに想い合っていられる生活こそが幸せなのですね。

大林宣彦監督の作品はとても久しぶりでした。
この作品を観て思い出したのは「異人たちの夏」。
確かあの作品も、死んだ両親の若い頃に子供が会うという話だったような気がします。
「死」と「生」が交錯するようなちょっと幻想的な世界というのが、なにか雰囲気が似ていたような気がしました。

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本 「反米主義」

アメリカが好きか嫌いかと言われると、ちょっと答えに悩みます。
現政権のやっていること(イラク戦争や環境問題などへの積極性の無さなど)は、世界全体のことではなく一国のみの利益を追求しているようで、指示しがたい。
自由や人権などは大事なことだけれど、片方ではアメリカ自体が他国への介入などでそれらを侵害しているようにも見える。
いわゆる二枚舌、ダブルスタンダードなところがどうにも鼻持ちなりません。
とはいえ、嫌いな国かというとそうではなく、映画に代表されるようなアメリカ文化みたいなものにはやはり魅力を感じるわけです。
イラク戦争後、世界各国でアメリカを嫌いという人が増えているということですが、上に書いたように嫌いと好きが混在するアンビバレントな状態であると言えます。
この著者はこのアメリカに対するアンビバレントな気持ちというのを、冷静に細かく分析しています。
まず経済の側面。
90年くらいよりグローバル・スタンダードという言葉がよく聞かれるようになりました。
グローバル・スタンダードというのは世界基準ということですが、アメリカでのスタンダードがそのままそうなることが多いわけです。
経済のアメリカ一国支配みたいなものに、世界の人々は何かしら不安のようなものを感じているわけです。
というのもアメリカ的な経済というのは問題がないわけではなく、環境問題の深刻化、あと現在世界中を席巻している金融危機もアメリカ的な経済が万能ではないということを表しているのだと思います。
けれども共産主義がほぼ崩壊した現在、我々は資本主義に変わるような経済システムを持っていません。
アメリカ的な経済の方法論に対しての反発というのは、「よりましな資本主義」「品位のある資本主義」というのを模索している「自分探し」であると著者は言います。
次に文化の側面。
世界各国にアメリカの文化が流入しています。
ここで問題になるのは各国、各地域の伝統文化が失われていくのではないかという不安。
昔の日本のように、海外の文化は排斥しようという反応も起こるわけです。
でも著者は単純に文化的な侵略というのはそう簡単には起こらないと言います。
圧倒的なパワーで文化が押し寄せてきても、それを取り入れるか否かというのはやはりその国に暮らす人々の選択なのです。
確かに明治の時代に西洋文化が入ってきた時も、日本人はその一部分を取り入れたり、捨てたりしています。
例えば靴は履くようになりましたが、家の中までは入らないといったようなことです。
文化というのはそもそも純粋というものはありません。
日本の文化というのも、各時代に中国や朝鮮半島その他から入ってきた文化が多層的になったものです。
そのように今まで海外の文化をとりいれてきたわけなので、一概にアメリカの文化が蔓延するといたずらに危機感を持つのもおかしいわけです。
ただ自国の文化が失われ、なんとなくアメリカに従属していってしまうような不安感もまたあるのです。
たぶん「反米主義」というのは対アメリカという「主義」「イズム」ではなく、世界が「込み合った場所」になってきているという新しい世界においての、新しいシステムを生み出そうとしているあがきなのかも知れません。
昨今の金融危機に関しても、アメリカ以外の国が危機感を持ち話し合いながらこの苦境を乗り越えようとしています。
先は見えないですが、これらを乗り越えたとき、アメリカだけに頼るのではない新しいスタンダードができているのかもしれません。

「反米主義」近藤健著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287956-9

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2008年10月21日 (火)

「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル」 子供の頃の夢が実現

昨年末から今年にかけてBSで放送されていたウルトラシリーズです。
放送終了後に雑誌で知りましたが、先日CSで一挙放送をしていたので、観てみました。
やはりウルトラ世代ですからね。
観る前に知っていた情報としては、ウルトラシリーズなのにウルトラマンが主人公でないこと。
タイトルにもあるように往年の人気怪獣同士が戦う話であるということ。
バンダイのアーケードゲーム「大怪獣バトル」がベースとなっているということ、でした。
観る前の期待度としては、所詮ゲームの販促タイアップの番組で、着ぐるみも「メビウス」の使い回しで、怪獣同士の戦いと言ったって「ウルトラファイト」みたいなものだろうという、極めてネガティブなものでした。
けれども観始めてみると意外にもおもしろい。

ここでちょっと脱線。
先に書いた「ウルトラファイト」とは。
僕と同じくらいの世代の人は知っていると思いますが、「ウルトラファイト」とは円谷プロが作った低予算の5分番組です。
もともとは「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」の怪獣と戦っているシーンをダイジェストにしたものだったのですが、途中から何故か造成地みたいなところで着ぐるみな怪獣同士がプロレスみたいな肉弾戦を繰り広げるということだけを映していたへんてこな内容になっていました。
特殊効果もなくてほんとにどつきあいみたいな戦いで、それにプロレスの実況中継みたいなアナウンスが入るのだからとてもシュール。
チープ感満載だったのですが、これはこれで子供ゴコロにはけっこう楽しく、喜んでみていたものでした。

さらに脱線。
小学生の頃、「怪獣消しゴム」というのが流行りました。
これも知っている方は知っていると思うのですが、ウルトラ怪獣の形をしている消しゴムなんです(そのまんま)。
「キン肉マン消しゴム」みたいなものです。
ガチャガチャ(コインをひねるとカプセルがでてくるやつ。ちなみに「ガチャポン」はバンダイの登録商標です)で1個十円でゲットしていました。
これを休み時間に友達と、教科書の上でトントン相撲をするんですよ。
勝ったら、相手の消しゴムをもらうんです(メンコみたいなものです)。
ちなみに作品中ではウルトラ兄弟を倒してしまうほど最強な存在だったゼットンやキングジョーはとってもトントン相撲では弱くて人気なかったなあ。
しっぽがないから踏ん張りが効かないんですよ。
バルタン星人も弱かった、ほとんど雑魚扱いでした。
ガチャガチャやってもいつもバルタンで、「ちぇ、またバルタンかよ〜」みたいな感じでした。。
やっぱりゴモラとかが強かった(しっぽ太いし)。

と脱線しまくりですが、何が言いたいかというと怪獣VS怪獣というのは、とても男の子心をそそられるものがあるということです。
ウルトラシリーズでは基本的には怪獣と戦うのはウルトラマンなんですよね。
けれど人気怪獣同士が戦ったらどっちが強いのだろーと思うのは当然なことで、そういう場面ってみたいものなんですよね。
それを実現してくれたのが「ウルトラファイト」であるし、自分たちでやっていたのが「怪獣消しゴム」のトントン相撲だったわけです(ハリウッドでも「エイリアンVSプレデター」とか「フレディVSジェイソン」とかありますし、これは普遍の男の子心理に違いない)。
その怪獣ファンの夢想みたいなものを大真面目に作ったのが、本作「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル」だと思います。

こちらの作品、比較的低予算で作られているように思います。
まず着ぐるみは最近の「マックス」「メビウス」で作られたものを流用しています。
あとロケは全くなくすべてスタジオでの撮影(「ウルトラ」シリーズを生み出し続けた東宝ビルドの最後の作品!)。
そうするととてもチープになりそうな気がするのですが、これをこの作品は逆手に取っています。
舞台となるのは地球ではなく、惑星ボリス。
そのころ地球人は宇宙に進出していて、ボリスはその植民地星の一つです。
その惑星に突如、かつて地球にいた怪獣たちが現れて破壊の限りを尽くします。
救難信号をうけた貨物船スペースペントラゴンのクルーはボリスに駆けつけますが、船は故障し不時着してしまう・・・。
そこでクルーは謎の青年レイに出会いますが、彼は怪獣を使役することができる能力を持っていました。
なぜ惑星ボリスに地球の怪獣たちが出現したのか、なぜ例は怪獣を使えるのかという謎が、シリーズのストーリーをドライブする力になっています。
今までの怪獣の着ぐるみを流用しなくてはいけないという制約を、地球の怪獣がいるという謎に転換し、それをストーリーの軸に持ってきてしまった設定が見事です。
また舞台を地球ではなく、街を破壊された惑星ボリスにするということにより、ドラマの背景となるのは貨物船の内部か荒れ果てた荒野ということにし、ロケをせずにスタジオないだけの撮影にしても不自然なことにしていません。
このあたりは予算がないうえでの制約を見事設定でカバーしたアイデアの勝利と言えるでしょう。

でも何よりも興奮するのは怪獣同士の戦いに30分のうちのかなりの部分を割いているということ。
この戦いも脈略もなく戦っているのではなく、全体のなかでのストーリーとしては必然となっています。
「メビウス」のときも感じたのですが、オリジナルの怪獣が持っている背景というのをうまくストーリーに織り込んでいます。
これはまさに「ウルトラ愛」。
四次元怪獣ブルトンの使い方などは見事でした(ちなみにブルトンはフルCGで描かれていながらとても質感が着ぐるみぽかった。円谷特撮の可能性をちょっとみた感じ)。
エレキングVSゴモラなんて、観れそうで観れなかったのが、観れるのはやはり嬉しい。
子供の頃からの夢が実現です。
長いことウルトラファンやっている自分としては満足です。

こちらの作品評判よかったようで、第二弾が作られるようですね。
今度はBSでちゃんとチェックしないと!

続編「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル NEVER ENDING ODYSSEY」の記事はこちら→
劇場作品「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE」の記事はこちら→
テレビシリーズ「ウルトラマンメビウス」の記事はこちら→
映画「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」の記事はこちら→
映画「大決戦!超ウルトラ8兄弟」の記事はこちら→

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2008年10月19日 (日)

本 「ハリー・ポッターと死の秘宝」

「ハリー・ポッター」シリーズ、とうとう完結しました。
最初の「賢者の石」が日本で発売されたのが、1999年ということですから、10年近く経っているんですね!
そう考えてみるとなんだかあっという間だったような気もします。
「賢者の石」を読んだときは児童向けのファンタジーという感じがしましたが、「秘密の部屋」以降は巻を追うごとにダークな印象が強くなってきました。
それはヴォルデモードという人の負の側面を表した絶対的な悪のキャラクターの存在がひとつ大きな要素になります。
このシリーズが持つダークさというのは、ヴォルデモード自体によるというよりも、彼への恐怖というものによって人が容易く良き心というのを失ってしまうことによると思います。
ハリーも決してものわかりのよい良い子ではなく、両親を殺したヴォルデモードへの復讐心、そして彼と戦うための力への指向など、ダークサイドへ堕ちてしまいそうな危うい道をたどってきました。
最終管を読むと、著者が描きたかったのは、人の心がどうにも弱いものであるということ、けれどもその弱さを自覚した上で、それでも愛や勇気というものも人の心にあるということなのでしょう。
正直、このシリーズの途中でハリーが生意気になっている数巻は話ももたつき感があり、やや読むのが辛かったこともあります。
けれども最終巻で、それらのもたつき感こそが、10代のハリーが迷い、間違いを犯しながらも、自分の良心に従いながら進んできた道のりだったということがわかります。
最終巻の特に下巻は今までとは打って変わって物語の展開のスピードが早くなります。
もっともっと先を読みすすめたいという気持ちになりました。
これは「賢者の石」以来かもしれません。
今まで登場してきた人物が再登場しその役割を果たし、さまざまな伏線も最終巻で決着をつけられています。
ホグワーツでの最後の戦いでは、悲しいこともありますが、「ハリー・ポッター」の最後を飾るにふさわしい大規模なものになっています。
個人的には、あのネビルがとても逞しくなり、リーダーとしてがんばっているところがとても良かった。

10年近くひとつのシリーズにつき合うということもそうそうないですが、その期間新たな巻が発売されるのを待ち遠しく待っていた方にとっては、その期間は無駄ではなかったと思わせるラストであったと思います。

「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の記事はこちら→

「ハリー・ポッターと死の秘宝<上>」「ハリー・ポッターと死の秘宝<下>」J.K.ローリング著 静山社 ハードカバー ISBN978-4-915512-63-6

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2008年10月18日 (土)

「イーグル・アイ」 敵役の魅力

「ディスタービア」のD・J・カルーソ監督とシャイア・ラブーフが再びタッグを組んだスリラーです。
コピー店で働くジェリーはある日突然、口座に自分が全く与り知らぬ大金が振り込まれ、そして自宅にはこれも見知らぬ武器や物資が山と詰まれ、愕然とします。
そしてそのとき携帯電話になぞの女の声で「今すぐ逃げろ」との指示が。
なにが起こったのかわからないまま、電話の直後にジェリーはFBIに急襲されてテロリストとして逮捕されてしまいます。
また別の場所でシングルマザーのレイチェルもまた携帯電話に謎の指示が送られてきます。
息子の命を守りたければ、指定の場所へ向かえと。
二人へ次から次へと送られる指示。
命令者は彼らの行動を監視し、彼らが指示に従わざるを得ないように操っていく・・・。
指示を出しているのは何者なのか、何をさせようとしているのか・・・。

<ここからネタばれ全開なので、観ていない方はご注意を>

以上が予告でわかる映画のつかみの部分です。
予告を観る限りテンポもよさそうですし、誰が指示をしているのかといったような謎の部分も興味があったので、アクション・スリラーとして期待が高まっていました。
「ディスタービア」も予想以上におもしろかったですしね。

んー、でも命令者が「あれ」だったとはちょっと残念。
「2001年宇宙の旅」のHALを思い出しちゃいました(読唇術も使っていたし)。
監視システムを駆使する命令者と、ジェリー、レイチェルとの騙し騙されの頭脳戦・心理戦みたいなのを期待していたんですけれど、ちょっと違いましたね(それだと「エネミー・オブ・アメリカ」みたくなっちゃいますが)。
相手がコンピューターだと(あ、言っちゃった)物理的攻撃に弱いということになってしまう(HALもそうでしたが)ので、幕の引き方が予想ついてしまうんですよね。
人間同士の戦いの方が、どう転ぶかどうかわからないおもしろさがあるような感じがしていたのですけれど、コンピューター相手だとそういう心理戦というわけにもいかないですから。
HALのように極めてロジカルだと、人間ではないものとのコミュニケートできないような気持ち悪さみたいなものからくる緊張感を感じますが、本作のコンピューター、アリアが作ったシナリオは人間的な心理すら解析しているようなので、HALのような異質感は感じません。
人間の心を理解した人間同様のコンピューターでもなく、人間とは異なるものとしての異質感のあるコンピューターでもない感じで、主人公と相手となる命令者としてのキャラクターがアリアは薄かったような気がします。
ようは敵役としての魅力が少ないということなのかもしれません。
正体がわからない前半の次から次へと携帯へ指示がはいってきて振り回される段階(予告でかかっていたところ)はスリラーとしておもしろかったように思えました。
でも正体がわかってからは、やや物語としての牽引力が弱くなっていしまったような気がします。
ああコンピューターか、スイッチ切ってしまえば終わりでしょ、みたいな感じがしちゃったんですよね。
やはりスリラーは敵役となるキャラクターが魅力的・個性的でないと、おもしろさが半減してしまいます。

スリラーとしてはやや不満があるものの、アクション映画としては見所はいろいろあったように思います。
空港の荷物を振り分けるゾーンでのチェイスシーンはなかなか見応えありましたし、自動車で逃走しているところを無人機が襲うところもハラハラしました。

ラストでジェリーが自らの命を犠牲にしても、人を守ろうとした場面はこの物語でのクライマックス。
もともと今まで天の邪鬼で自分から進んで何かをしようとしなかったジェリーが、正義感にあふれる双子の兄の行動の意味を理解し、またともに行動するレイチェルの息子のために何でもしようとする想いを知り、はじめて自分から行動したこの場面はもっと盛り上がっていいように思えました。
確かに映画としては盛り上がっているのですが、ジェリーの心がこの逃亡を経て一段、成長した感じがもっと心に響くように伝わってくるような感じだとよかったような気もします。

悪い出来ではない。
悪くはないのだけれど、もう少し良くできたような気もします。
ジェリーの心の成長を描くドラマなのか、命令者との丁々発止のサスペンスなのか、次から次へと繰り出されるアクションなのか。
それぞれの要素をもう少しずつレベルがアップできれば、もっと満足度が高い作品になったような気がします。
惜しいなあ。

D・J・カルーソ監督、シャイア・ラブーフ主演「ディスタービア」の記事はこちら→

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本 「花粉戦争」

実はここ数年で花粉症になってしまっています。
どうもスギ花粉ではなく、ブタクサとかハウスダストに弱いらしく、乾燥し始めたこの時期くらいから症状があらわれてきます。
すでに今年はもう症状がでてきていて・・・。
ここから半年くらいこの鼻がズルズル、目がショボショボでつらいのです。

さて本作「花粉戦争」です。
舞台となるのはイギリスのマンチェスター、けれどもこのマンチェスターは我々の住むこの世界とはかなり様相が異なります。
そこに暮らすのは、人間だけではなく、犬人間やロボ人間などの異生物混血種たちです。
そのマンチェスターにある時から、爆発的に花粉症が広がっていきます。
それはただの花粉症ではなく、異世界からの侵略であったのです・・・。

こちらはなんとも形容しがたい作品です。
現実と非現実(夢の世界、物語の世界、ドラッグの世界)が交錯する感じはフィリップ・K・ディックの作品やサイバーパンク小説のような印象があります。
ただ交錯する世界はサイバーパンクのようなテクノロジー的な世界というよりは、もっと人間の奥底にある集合的無意識みたいなものをイメージします。
そもそもこの作品において現実世界を侵略しようとするのは、人間が作り上げてきた物語世界です。
この小説においては「ヴァート」なるもの(装置のようなドラッグのようなもの)で、物語世界に没入することができるようになっており、それらの世界は現実的な世界の一つととらえられているのです。
このあたりは「不思議な國のアリス」のようでもあります(本作の中でもアリスはでてくる)。
ディックとかサイバーパンクとかあまり好きでない人にはあまりおすすめできません。
読みやすいとも言いがたい作品なので、万人向けではないかもしれませんが、現実と非現実が入り乱れる酩酊感みたいなものが好きなかたにはいいかもしれません。

「花粉戦争」ジェフ・ヌーン著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011199-5

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「ヴィドック」 フランスの実相寺昭雄

「デリカテッセン」や「エイリアン4」でビジュアル・エフェクトを担当したピトフによる長編映画です。
はっきり言ってストーリーにはいろいろと言いたいところがあるのですが、映像は非常に個性的なところがあるように思えました。

タイトルにあるヴィドックというのは18世紀のパリに実際にいた人物で、彼はもともとは犯罪者でありながらパリ警視庁の基礎を作り、そして世界初の探偵事務所を設立しました。
彼の存在はその後の探偵小説の成立に影響を与えたとも言われています。
本作ではそのヴィドックが、謎の仮面の男と対決し、死んでしまうシーンから始まります。
ストーリーはヴィドックの伝記を書こうとしているエチエンヌという若い作家がこの事件の真相を探るべく、ヴィドックの足取りを追っていく様子とともに展開していきます。
作品は耽美的、退廃的な雰囲気がただよっているオカルト色の強い世界観。
そこで連続猟奇的殺人の謎が次第に明らかになり、そしてそこにはその犯人と思しき鏡の仮面の男の姿が表れてきます。
ネタばれになるので書きませんが、その犯人を解き明かすところ、そしてその正体は驚きましたが、やや安易な感じもしました。
オカルティックで幻想的な雰囲気がそこで一気に普通の事件になりさがってしまったような気もしたのです。
犯人の一連の行動は証拠隠滅のためのものであり、超常的な力を持っているように見受けられる仮面の男としてはとても現実的という感じがしたのです。
超常現象の皮をかぶった本格ミステリーにするか、あくまで超常現象をテーマにしたオカルトにするかがどうも中途半端だったような気がします。
その中途半端さがラストの犯人明かしのところに出てしまい、微妙なズレ感みたいなものをもってしまいました。

映像に関しては冒頭に書いたようにとてもこだわりを感じました。
「デリカテッセン」「エイリアン4」もあのジトジト陰々滅々とした感じが特徴的でしたが、本作でもそのような雰囲気がでています。
これは苦手な方は苦手な雰囲気でしょうね。
またこちらの作品は本格的にデジタル撮影を試みた作品ということで(その後このような作品はたくさん作られますが)、フィルムとは違った質感がでているような気がしました。
本作を観ていてイメージとして浮かんできたのは実相寺昭雄監督でした。
細部を比べれば全く違うのですが、画作りへのこだわりみたいなものにピトフと実相寺昭雄監督には共通点を感じたのです。
例えば、画面の構図などはかなり凝ったものが多い。
手前に人物を画面の半分くらいになるように置くという構図、また顔の一部分を大きく映すようなカットは実相寺昭雄監督が好んで使っていました。
引きの画にしてもデジタルで合成をやっているのだと思いますが、絵画的なレイアウトを意識しているような場所がいくつもありました。
このときの空の色などかなり作り込んでいて、フィルムとは違う幻想的な雰囲気がでていたと思います。
このあたりも実相寺昭雄監督が「帝都物語」でいろいろ試みをしていたような感じと似たものを感じました。
光と陰を極端に使うというのもピトフ、実相寺は共通しているような気がします。
アメリカの映画のようなきれいになんでも見せるというのとは、違うところを意識しているような感じがします。
本作ではヴィドックの死を追うパリの警察の刑事が出てきます。
その刑事がいつもハンカチで口の上を拭いているのです。
やや偏執的な癖なのですが、これも実相寺昭雄監督の作品に登場する人物を思い出させました。
「ウルトラセブン」の「第四惑星の悪夢」の中に登場するロボット署長です。
こちらもずっと口の中にキャンディー(?)をいれ、それをこりこりとやっているのですが、この仕草を実相寺監督は執拗に映します。
それによりこの人物の偏執狂的な感じを出しているのですが、同じようなことを「ヴィドック」でも感じました。

ピトフ監督が実相寺作品を観ているかどうかはさだかではないのですが、映像に関してのそれこそ偏執狂的なこだわりというものは二人に共通して感じました。
見比べてみてはいかがでしょうか。
(どちらの監督の作品もとても趣味的ではありますが)。

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2008年10月13日 (月)

「お姉チャンバラ THE MOVIE」 無敵な爽快感

なぜにテンガロンハット?
なぜにビキニ?

とは聞いちゃいけないんでしょうねぇ。
これは見た目のインパクト勝負ということなのでしょう。
なんともB級の臭いがプンプン漂うタイトルですが、やはり中身もそんな感じでした。
もともと原案が美女がゾンビを斬りまくるという内容のアクションゲームということで(やったことはないけれど)、まさにそれを忠実に再現しているような印象でした。
「バイオハザード」+「DOA」というイメージかな。
たぶんオリジナリティというところにはさほどこだわっていないような感じがして、世界観などは「バイオハザード」等でよく使われているゾンビが現れ荒廃している世紀末風の未来という感じでした。
そういう意味では目新しさはありません。
ゾンビもいろんな映画で見慣れた雰囲気でしたし(笑)。
ストーリーは「バイオハザード」ほどしっかりとしたものではなかったですが、これはもとのゲームもそうなのでしょう。
これもたぶん確信犯ということなのでしょうね。
制作サイドがやりたかったのは、「セクシーな美女がゾンビをぶった斬りする」というシーン、これ一点のみなんでしょうね。
これはこれで割り切っていて、いいのではないのでしょうか。
このあたりの割り切りの良さというのは「DOA」を観たときに感じたのと同じことだと思います。
「ぶった斬り」に集中しているだけあって、アクションシーンは期待していたよりも見応えありました。
ワイヤーやCGを適宜使ってテンポのいいアクションになっていて、けっこうやるなという感じでした。
ユニークなカットもいろいろあって、大量のゾンビの群れを切り結んでいく主人公彩(乙黒えりさん)を俯瞰で撮ったカットはなかなか印象的でした。
こういうアクションは「マトリックス」を最初に観たときにびっくりしましたが、もうB級クラスの映画でも普通にやれるようになっちゃいましたね。
あんまり自分ではやらないのですが、「HELO」などの銃撃ちまくりゲームや、「三國無双」などのぶった斬りゲームというのは、ある種の爽快感があるのだとと思います(子供を持つ親御さんは眉をひそめるとは思いますが)。
撃って撃って撃ちまくる、斬って斬って斬りまくるというゲームのは、ある種の気持ちよさがある(もちろんゲームだからこそ)。
同じアクションゲームでも「バイオハザード」は爽快感というよりはゲームから与えられる緊張感、ストレスを楽しむ感じですし、一斉を風靡した対戦ゲームは技術のレベルアップに快感を求める感じでした。
それらと違いさきほど例にあげたゲームはやはり無敵の爽快感を味わう種類のものなのだと思います。
そういう意味でその映画化作品である本作もゲームと同様の爽快感を狙っていると感じられます。
本作の主人公たちはめったやたらに強く、襲いかかるゾンビは恐ろしく弱い。
つまり襲撃者たるゾンビはバッタバッタと斬られるだけの存在。
スプラッターな気色悪さはあるものの、そこには無敵の爽快感があります。
まさにここで感じる爽快感は、昔のチャンバラの百人斬りみたいなもので感じるのと同様のもので、そういう意味では本作のタイトルは内容を素直に表しているなと思います。

そういう気持ちよさに特化している作品なので、どうしてもストーリーはなおざりになってしまっています。
結局ゾンビを作ったマッド・サイエンティストと主人公彩は直接対決しているわけではありませんし。
最後の姉妹対決はドラマとしてはクライマックスなのかもしれませんが、アクションとしての盛り上がりはその前の彩VSゾンビ軍団で終わっています。
そういう点から言っても、本作はゲームの忠実な映画化作品と言えるのかもしれません。

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「僕らのミライへ逆回転」 映画、大好き!

「エターナル・サンシャイン」や「恋愛睡眠のすすめ」など独特の世界観を持っているミシェル・ゴンドリーの最新作です。
それまでの現実と夢や記憶といった曖昧なものがボーダレスになっているあの感覚みたいなものは、こちらの作品ではほとんどありません。
あのミシェル・ゴンドリー調が好きなファンには不満なところがあるかもしれませんが、普通の観客にとっては観やすい作品になっているような気がします。
それでも「恋愛睡眠のすすめ」でもあったハンドメイド調はこの作品でも十分にあって、というよりそれこそがテーマだったりするわけで、そのあたりのミシェル・ゴンドリーのセンスは楽しめます。

ビデオ店に勤めるマイク、その友人のジェリーは店番をしているときに、ちょっとした「事件」でお店のビデオテープをすべて消去してしまいます。
けれどもお客は来て、作品をすぐに観たいと言う。
マイクとジェリーは急場凌ぎでその作品の「リメイク」を手作りで作ることにします。
意外なことにその「リメイク」版が大好評。
ビデオ店は行列ができるほどに繁盛し始めます。
といったストーリー。

ちょっと話が変わって。
前にも書きましたが、大学時代に自主映画を作ったことがありました。
僕のいた大学には映画のサークルが二つありました。
片方がいわゆる「自主映画」調で、若者にありがちの哲学的なんだかよくわからない作品を作っているサークルでした(僕はこういう独りよがりの作品が嫌いなのでこちらのサークルはパスしました)。
もう一つは映画はエンターテイメントと考えている人たちのグループでした。
アクションとかコメディとかホラーとかそういうエンターテイメントを作りたいと考えている感じでした。
といってもやっていることと言ったら、あの映画のこんな場面を撮ってみたいみたいなことでしたが(笑)。
学生なので当然のことながらお金も機材ものないので、それはもうアイデアと手作りでやるしかない。まるで本作のジェリーとマイクのように。
例えば・・・。
ある先輩が「レイダース」のトラックのシーンみたいなのを撮りたいと言い出しました。
みなさんもご存知だとは思いますが、インディがナチスのトラックに引きづられるシーンです。
当時車を持っている人はいなく、持っていてもそのままやったらかなり危険なので、車を使う案は却下。
どうしたかというと校舎の裏にあったリアカーを拝借し、その上に8ミリカメラを設置。
リアカーの後部からロープをたらし、それに掴まり引きずられる主人公を撮るといった感じでやりました。
僕は下っ端だったのでリヤカーを引っ張る役でした(笑)。
人を乗せながら地面を引くので、それほどスピードは出るもんではないですが、それはカメラのハイスピードで対応(もったいなかったけれど)。
引っ張られる役も当時スタントマン志望だった学生をスタンドインで使ったり。
今思えば対したことがない出来だったと思うんですけれど、それを作っているときは楽しかったし、出来上がりもとてもおもしろく観れたんですよねー。
僕がとった作品(作品というのもおこがましいが)では、カーチェイスをやりたかったのですが、そんなことはできるはずもなく、チャリンコチェイスをやりました。
スピード感だすためにやたらカットが多い作品になってしまったなあ。

長々と僕の思い出を書いてしまいましたが。
本作観てそんなことを思い出しました。
学生の頃に感じていた映画って楽しいって思いみたいなものを、本作「僕らのミライへ逆回転」からはとても感じます。
映画っていうのはお金をかければいいっていうものではありません。
楽しい作品というのは、作っている人たちがとても楽しんで作ったということが伝わってくる映画なんだと思います。
本作は作り手の「映画、大好き!」という愛情をひしひしと感じた作品でありました。
最後のシーンは「ニュー・シネマ・パラダイス」へのオマージュかな。
そんなところからも映画への愛情を感じます。

ミシェル・ゴンドリー作品「恋愛睡眠のすすめ」の記事はこちら→
ミシェル・ゴンドリー作品「エターナル・サンシャイン」の記事はこちら→
「ニュー・シネマ・パラダイス」の記事はこちら→

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2008年10月12日 (日)

「ゲット スマート」 アン・ハサウェイに釘付け

スパイコメディというと、「オースティン・パワーズ」を思い出しちゃいます。
オースティン・パワーズはとってもオバカな男でしたが、こちらの作品の主人公マックスはいたって真面目で頭がいい。
マックスは分析官としての才能を評価されているのに、やはり現場に出たいと、けっこうがんばってスパイになります。
真面目であるがゆえに、ちょっと周囲の状況とズレているところが笑いを誘います。
コメディなのに終止生真面目な顔をしつづけるマックスに、スティーブ・カレルは合っていました。

観る前はさほど期待していなかったからか、思っていたよりも笑えたなあという印象は残りましたが、さてこちらの記事で具体的にここがおもしろい!と書こうとすると自分で驚くほど覚えていない・・・。
本日、二本観たうちの最初の一本だったから印象が薄くなったということもあるのですが、もう一つ理由が・・・。
アン・ハサウェイに視線釘付けになってしまっていたので、あまり他のこと覚えてないー。
「プラダを着た悪魔」のときも綺麗な人だなーと思いましたが、本作でも美しい・・・。
もともと目鼻がぱっちりとした人でさらにメイクもばっちり、化粧品のコマーシャルのように作り込んでいる感じもしましたが、でもやはり美しい方は見惚れてしまいます。
スタイルもいいですし、最初の"コントロール"の本部のシーンではボディコンシャスなドレスで登場、ズキューンと胸を打ち抜かれてしまいました。
あとはアン・ハサウェイの印象のみしか残っていないのです。
まともなレビューが書けません、すみません。
とはいいつつ、真面目な男が主人公だからかそれほど下品なところがあるわけでもなく、劇場でワハハと気持ちよく笑えて、何も難しいことを考えずに気楽に観れる作品だと思います。
(一応まとめてみたけど、んー、言葉に重みがないなあ・・・)

あ、おもしろかったところ思い出しました。
飛行機のトイレのシーンはなんだか妙にツボでした。
ああいうくどめの笑いは好き。

アン・ハサウェイ主演「プラダを着た悪魔」の記事はこちら→

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2008年10月11日 (土)

本 「空の中」

「図書館戦争」の有川浩さん作品です。
実は「図書館戦争」を読んだ頃からなんですが、有川浩さんって誰かの小説に印象が似ているなーってずっと思っていました。
本作を最後まで読んで解説までいって、それが誰かやっとわかりました。
新井素子さんですね。
本作の解説を新井素子さんが書いていました。
新井素子さんの「星へ行く船」シリーズがあるのですが、その主人公ペア森村あゆみと山崎太一郎というのが、有川さんの小説に出てくるキャラクターに雰囲気が似ているんですよ。
特に山崎太一郎というキャラクターの、賢くて強い男なのにとっても男女関係は不器用な感じというのは有川さんの男性キャラクターに影響を与えているような気がします。
そういえば「星へ行く船」シリーズでも頭をナデナデっていう場面もあったような気がします。
ベタに甘い雰囲気も感じが似ているような気がします。

さてこちら作品。
有川浩さんというのは女性の作家ですが、こういう自衛隊などの軍事、航空、SF的な設定(本作では未確認生物)というのを苦もなく使いこなしますよね。
ご本人、こういうのが好きなんでしょうね。
女性としては珍しい・・・。
これらのハードな道具立てと少年少女の持つ純粋さ、残酷さと成長、恋愛などを織り交ぜていって、最後まで一気に読ませるのは、なかなか見事です。
この作品は文庫としては新刊ですが、ハードカバーとして以前に出ていたようで、有川さんとしては二作品目なんですね。
有川さんは電撃文庫というライトノベルでデビューされたようですが、二作目ですでにそういうジャンルを飛び越えているような気がします。
とはいえ、高尚な文学ではなく、あくまでエンターテイメントとしてレベルアップしているような気がします。
このかたの作品はまだ読んでいないものが多いので、これからもいろいろ読んでいってみたいと思います。

有川浩さん作品 図書館戦争シリーズ「図書館内乱」の記事はこちら→
有川浩さん作品 図書館戦争シリーズ「図書館危機」の記事はこちら→
有川浩さん作品 図書館戦争シリーズ「図書館革命」の記事はこちら→
有川浩さん作品 図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅰ」の記事はこちら→
有川浩さん作品 図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅱ」の記事はこちら→
有川浩さん作品「塩の街」の記事はこちら→
有川浩さん作品「海の底」の記事はこちら→

「空の中」有川浩著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-389801-5

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「地上5センチの恋心」 分相応の幸せ

フランス映画の邦題というのはいいのが多かったりします。
「あるいは裏切りという名の犬」とか。
英語の映画だと安易にカタカナにしてしまっても、観客はなんとなく意味をわかってくれますが、さすがにフランス語をカタカナにしてもほとんどの人はさっぱりでしょうから、担当の方も頭をひねるんでしょうねえ。
本作も作品の中身を理解したセンスのいい邦題ですよね。
原題は主人公の名前ですから、こちらをカタカナタイトルにしたら誰もわからなかったでしょう。

幸せというのは、なにか叶ったとしてももっと、もっとと際限なく求めてしまうものですよね。
前よりは幸せになれてるはずなのに、幸せになった気がしないというのは、そういう人間の性なのでしょうか。
そうすると、たぶん幸せを感じるというのにはスキルが必要で、昔の人が言うように「足るを知る」ということなのかもしれません。
この程度で十分という、自分にとっての分相応の幸せというのがわかっているというのが、人が幸せになれるコツなのでしょう。
主人公オデットは愛する夫に先立たれ、二人の子供を女手一つで育て、その子供たちもそれぞれ多少問題を抱えていたりします。
親子三人(+居候一人)でこじんまりとしたアパートに住み、日々職場を行き来している毎日。
でもオデットは不幸せそうには見えません。
日々の仕事にもちょっとした満足感を得ることができるし、なにしろ大好きな作家をゆっくりと読んでいる時間に彼女は幸せを感じることができるのです。
その好きな作家バルタザールは、人気作家でありお金もあり、美人の妻をもち(そして愛人もいて)、端から見たら成功者。
けれども彼は幸せを感じることができません。
彼はもっともっと自分が評価されたい、愛して欲しいと思ってしまうのです。
だから心が幸せで満ちることがありません。
その対照的な二人が出会い、バルタザールはオデットから幸せを感じるコツというのを学んでいきます。
幸せというものは空高く手の届かないようなところにあるのではなく、足下の手を伸ばせるような身近なところにあるのかもしれません。
その幸せは気分がちょっとウキウキとするというような小さな幸せかもしれません。
けれども大それた望みがかなわずにいつも落ち込んでいるよりは、そんな小さな幸せの方が人生に満足を与えてくれるのかもしれません。
「足るを知る」「分相応を知る」ということが幸せのコツ。
「地上5センチの・・・」という邦題は、上手くつけたなと思いました。

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2008年10月 5日 (日)

「ブリュレ」 やりたいことはわかるけれど・・・

シネトレさんのブロガー限定試写会に行ってきました。
無料で見せていただいて心苦しいのですが、今回とても辛口です。
すみません・・・。

率直に言えば、作り手のやりたいことはわかるけれど、それを表現できるほどに完成度があがっていないという印象です。
タイトルの「ブリュレ」という言葉は、クレームブリュレなどの洋菓子でもおなじみですが、「焦がす」という意味です。
主人公の双子の姉妹日名子と水那子は幼いころに親を火事で亡くし、それぞれ叔父と祖母にひきとられ別々に育てられます。
そしてあるとき日名子のもとを突然水那子が訪れます。
日名子は放火癖を持っていて彼女の起こした火事によって、二人は逃避行を始めます。
ずっと離れていた双子の姉妹の間にある強い絆。
互いを想う焦がれるような気持ち。
火というモチーフ、そしてタイトルの「ブリュレ」にはそのような意味が込められているのだと考えられます。
けれど。
それならば二人の間にある気持ちを、もっともっと切実に、ジリジリと焦げるような狂おしさをもって表現して欲しかったです。
そこまでにならなかったのは、まず一つは演技の問題。
主演の二人の演技がそのような想いを表現するレベルまでに至っていないような気がしました。
台詞回し、場面に応じた表情などに課題が見られます。
インディーズの場合は、あまり有名ではない、俳優ですらない方を起用することは多々ありますが、その場合は演技をしない(できない)迫力というものがあります。
けれども彼女たちは芝居をしようとはしていて、それだからこそ表現しきれていないところが目についてしまいます。
もう一つは脚本。
前半に状況説明を台詞で行う箇所が多く、これによってやや興ざめしてしまいました。
台詞はその登場人物が自然に発するようなものではないと、どうしても不自然さを感じ作品世界に入るのを妨げられます。
あと元キックボクサーと日名子の幼なじみがほとんど登場人物として効いていません。
この二人は主人公姉妹の交通手段となってしまっています。
交通手段として割り切っている登場人物でもいいのですが、それぞれ意味ありの台詞を口にするので、これもまた中途半端な関わり方になっています。
あと水那子の最後の台詞もいただけなかった。
あまりに唐突感がありました。
この台詞は高校生は言わないと思います。
上に書いたように台詞は登場人物が自然に発すると考えられる言葉でないといけません。
そうでないとこれは脚本の要請によって言わされているように感じられ、それに気づいた瞬間に作品世界から引き戻されてしまうのです。
どうも脚本がコンセプチュアルに作られすぎているような気がしました。

学生の頃、サークルで自主映画作りに関わっていました。
そのときに思ったのですが、自主映画やインディーズというのは、ややもすると独りよがりになりがちです。
映画がアート(つまり自己表現の手段)なのか、エンターテインメントなのかという議論はさておき、観客が見せるからには、独りよがりはいけません。
わかるやつだけわかればいい、自分が作りたいから作るというスタンスは、僕自身はあまり好きではありません。
伝えたいから作るのだから、与えられた条件の中で伝えるために最善の策をとらなければなりません。
そういう意味で本作は、脚本などについてはもう少しやりようがあったのではないかと思うわけです。
製作費が少ないという懐事情もあるでしょう。
それもわかったうえであえて苦言を呈させていただきました。

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「容疑者Xの献身」 愛は割り切れない

昨年テレビシリーズが放映された「ガリレオ」の劇場版です。
テレビシリーズは毎回欠かさず観ておりました。
このドラマは帝都大学物理学科の准教授湯川学が、一見不可能に見えるオカルトじみた犯罪を解き明かすというミステリーでした。
「ガリレオ」というあだ名で呼ばれる湯川は「すべての物事は合理的に説明できる」という考えを持っていて、そして物理学の広範で深い知識と論理的な思考、そして天才的なひらめきで、難事件を快刀乱麻を断つがごとく解決していきます。
湯川が展開する論理は、彼の持論通りに反駁のしようのない実験によって再現できる合理的な説明で、それによって謎が一気に解明する場面は、観ていてスッキリと気持ちよさを感じました。
この気持ちよさというのは、帳簿の計算がぴったり合った時とか、パズルが解けたときに感じるような快感なんですよね。
たぶん湯川という人物は、その快感が味わいたいために事件に向かっているのでしょう。

けれどもその湯川は今回、その合理的な精神では説明できない事件に向かい合います。
合理的な考え方では、犯罪というのはある目的、これは犯罪者にとっての利益(金であったり愛情、または恨みを晴らすということ等)と言ってもいいですが、によって引き起こされます。
つまり犯罪者はそれによってなにかしら得をしなくてはいけません。
そのためには自分自身が存在していなければなりません。
ですので湯川的な考え方でいうと、タイトルにあるような「献身」とか「自己犠牲」というための犯罪というのは、犯罪者が犯罪をするけれども自分自身はなんら得をしないということで、合理的に矛盾してしまうものなのです。
湯川自身は自分で思っているほど人の感情に鈍い人間ではないため、今回の犯罪が旧友の石神の恋に関わることが明らかになるにつれて、合理的な事件の追求がいつものようなキレは感じられなくなります。
そのために上記のテレビシリーズであったような気持ちよさは明らかに減っています。
ただ物理学や数学では人の感情・愛情というのは割り切れないものであるということこそが本作のテーマであるわけなので、スパッと切れるような気持ちよさを演出で選ばなかったのは正解だったかと思います。

<ここからややネタばれ気味>

ミステリーとしても出来が良かったと思います。
石神の「献身」が、本当の相手のための「献身」なのか、それとも自分自身が得をする(愛情を得る)ための偽の「献身」なのか、これが観ているうちに二転三転する構成はなかなか見応えがありました。
アリバイ作りのトリックも、盲点をつくようなアイデアであったので、これもおもしろかったです。
これは原作のアイデアが良かったのでしょうね。
原作は映画を観るまで我慢していたので、これから読んでみようかと思っています。

石神役の堤真一さんの演技は良かったです。
「クライマーズ・ハイ」といい、最近の堤さんはほんとに演技がすばらしい。
堤さんはもともと背も高くがっちりとした体格の方ですが、誰にも注目されずに毎日をただ繰り返し生きているような石神を演じているときは背丈も縮んでしまったかのように見えました。
感情を押し殺しているように見えた石神が、最後に溜め込んだ想いあふれてきてしまったような嗚咽の場面は圧倒されました。
物語的にも堤さんが主役と言ってもいいくらいです。

とここまで書いてふとテレビ欄を見たら、今日(4日)「ガリレオ」のスペシャル版やっていたんですね・・・。
気づかず見過ごした・・・(泣)。
放映しているときこちらの映画を劇場で観てました・・・。
自分のバカ・・・。

映画の中で湯川と石神の会話で数学の難題でホッジ予想とかリーマン予想とかが言葉で出ていましたが、ご興味のある方はこちらの本を。
「興奮する数学 -世界を沸かせる7つの未解決問題-」の記事はこちら→
読んでみましたが、僕は何が問題なのかもよくわかりませんでした(笑)。

原作「容疑者Xの献身」の記事はこちら→
テレビシリーズ「ガリレオ」の記事はこちら→
堤真一さん主演「クライマーズ・ハイ」の記事はこちら→

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2008年10月 4日 (土)

「劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」 線路は続くよ、どこまでも

異例中の異例ともいえる、同ライダーでの劇場版3作目です。
長いこと放送していた初代「仮面ライダー」は別にして、テレビシリーズ終了後もこのように劇場版が制作されるのは、なかったですよね。
電王人気恐るべしです。
タイトルに「さらば」とあるし、「ファイナル」ともあるし、これで最後ということですが、人気があればまた続編を作るのではと期待しちゃったりします。
本編前の「イマジンあにめ」ではその続編をネタにしていたのは、笑いました。

しかし、春に「デンキバ」作って、テレビで放送中の「仮面ライダーキバ」は夏に映画もありましたし、今年、制作スタッフは死ぬほど忙しかったのではないでしょうか。
ライダーのスーツアクターの高岩さんは、「キバ」との掛け持ちどうやっているんでしょうね。
主人公良太郎を演じる佐藤健さんも他のテレビドラマがありましたし、けっこうスケジュールも大変だったと思います。
そのためか良太郎の出ている場面は実はそれほど多くなく、どちらかというとモモタロス他のイマジンたちが主人公なのではと思えるほど。
でもそれはマイナスではなく、イマジン中心の話でもおもしろかったりするから、「電王」という物語は懐が深い。
これができるのもイマジンというキャラクターを育ててきた「電王」ならではだと思います。
このあたりのキャラクターが育っていったという感じというのは、従来の特撮番組の感覚ではなく、むしろアニメ番組の感覚に近いですね。
視聴者の反応を見つつ、番組にフィードバックをして制作という、良いスパイラルが働いたような気がします。

今回の劇場版は出演者やスタッフのスケジュールなどの制約が通常よりも厳しかったと思われますが、その制約を制約と感じさせないストーリーになっていたと思います。
良太郎の場面が少なくなってしまうということを、上記のようにイマジンたちを中心に置くことと、良太郎の孫、幸太郎=NEW電王という新キャラクターでクリア。
NEW電王は新ライダーとして劇場版としてのトピックになりますし、また幸太郎というキャラクターによって実は良太郎の存在感も増すという効果にも繋がっています。
登場時幸太郎は祖父良太郎のことを悪く言っていますが、彼が負けたとき、改めて祖父のほんとうの強さを知るという脚本になっているのが、なかなかよくできている。
これによって登場場面が少ない割に、良太郎がしっかりと物語の軸になっているんですよね。
安易に作ろうとすれば人気もありインパクトもあるイマジンたちに頼ってしまいがちですが、ただのキャラクター祭にしていないところが良かったです。
さすが小林靖子さん。
イマジンたちの登場場面が増えるということで、アクションシーンは前2作を上回るボリュームだったと思います。
監督がJAE(ジャパン・アクション・エンタープライズ)の金田治さんということで、アクションシーンは見応えありました。
アクションシーンはほとんど着ぐるみばっかりで、ほとんどJAEのメンバーがスーツアクターでしょうから容赦がないです。

<最後だけネタばれあり>

予告を観て、「死んじゃうかもモモタロス」と思っていたら、やっぱり健在。
やはり「電王」はハッピーな終わり方がいいですよね。
あるかもしれない、「帰ってきた仮面ライダー電王」(笑)。
線路は続くよ、どこまでも。

「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!」の記事はこちら→
「劇場版 仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事」の記事はこちら→
「劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」の記事はこちら→
テレビシリーズ「仮面ライダー電王」の記事はこちら→

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本 「折り返し点 1997〜2008」

こちらは宮崎駿監督の「もののけ姫」から「崖の上のポニョ」に至るまでの期間の対談やインタビュー、エッセイなどをまとめたものです。
特に「もののけ姫」の頃は、全体の半分くらいを占めていますね。

宮崎駿監督はブログでも何度か書いていますが、「カリオストロの城」とか「コナン」の頃から好きでした。
これぞアニメーションという感じでキャラクターが動き回り、そして物語はポジティブで、観ていて心地よい、そういった感じでした。
それが「ナウシカ」を観た時、ちょっと意外な気分になったのを覚えています。
「なんだ、幸せになれない気分で終わってしまった」
という印象で、どうも「ナウシカ」は好きになれませんでした。
実はその後何回も「ナウシカ」を観ているうちにこの作品のことは好きになっていきます。
どうも僕は以前のイメージで宮崎駿監督という人をみていて、彼が考えていることにやっと追いつけた時その作品のことを好きになっていくようです。
同じことは「もののけ姫」でも起こります。
これも観たときは「なんか違う・・・」と思いました。
けれどこれも何度も観るうちに作品のいいたいことがなんとなくわかってくるんですよね。
どうも宮崎駿感という人は、世間の人よりも一歩も二歩も先を考えているような気がします。
実際今回ご紹介している本でも「以前の作品と同じことはしない」「期待を裏切るようにしている」と語っています。
ジブリ作品というと、環境にやさしい、人にやさしいというブランドイメージをなんだかみんな思っているように思えます(僕はちょっと違いますが)。
監督ご本人もこれはちょっと違うと思っているようです。
今でこそエコという考え方が一般的になってきましたが、「もののけ姫」公開当時はさほどではなかったと思います。
現在のエコというのは、自然を守れということを声高に言いますが、じゃあ人は今の便利な生活を捨てられるのかということについてあまりきちんと話ができていないような気がします。
環境破壊というけれど、人の歴史といういうか文明というのは自然を切り開いて作ってきたものです。
今の僕たちが大自然と思う山の木々にしても実はほとんどが植樹されたものだったりするわけです。
ありのままの自然などというものは実は意外なほどに少ない。
極端な自然崇拝論とか文明否定論というのは人間の営みというのを本質的に理解していないような論議なのです。
最近はそのようなことも言われるようになってきましたが、この本で宮崎駿監督は「もののけ姫」に関するインタビューの中でそのような趣旨のことをお話ししています。
そういう視点で「もののけ姫」を観てみると確かにそのようなメッセージは汲み取れ、いかに宮崎駿感という方が、物事の先を見ていたかということがわかります。
監督の作品は公開当時はいつも賛否両論がわかれます。
けれど次第にその内容は理解されていく。
だんだんと監督のものの見方に、世間が追いついていくんでしょうね。
やはり凄い人だと思います。

ひとつ宮崎駿がお話ししていた言葉を引用させていただきます。
「映画と言うものは、作品としての価値が真空の中に存在しているんじゃない。どういう人間とどういう状態のときに出会うかによって意味は変わるんです。それはその映画のもっている星であって、どういう瞬間に出会うかは受け手の運なんです。」
これは日頃、僕がぼんやりと考えていることをはっきりと言っていただいたような気がしました。
僕が書いているこちらの記事は、評論と呼べるものではないと思っています。
どちらかというとある映画に出会って、そのとき自分がどのように感じたか、どのようにメッセージを受け取ったかということを書いているつもりです。
宮崎監督がおっしゃるように出会う時の状態で意味は変わります。
悩んでいる時に見るのと、はつらつな時に見るのでは同じ映画でも受け止め方は違う。
それはそれでいいと思うんですよね。
客観的は作品の分析ではなく、その時自分がどのように感じたか、そしてどうしてそう思うようになったのかということをここでは書いていきたいと思っています。

宮崎駿監督作品「崖の上のポニョ」の記事はこちら→

「折り返し点 1997〜2008」宮崎駿著 岩波書店 ハードカバー ISBN978-4-00-022394-2

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2008年10月 2日 (木)

「ブロークン・アロー」 戦いを目的とする男

昨日試写会で観てきた「レッドクリフ PartⅠ」がかなり欲求不満だったので、ジョン・ウー監督作品の中でも好きな「ブロークン・アロー」を観ました。
ジョン・ウーというと「MI:2」とか「フェイス/オフ」が話題にあがりますが(もちろんこれらの作品も好き)、僕は「ブロークン・アロー」も好きなんです。
この作品の良さはやはりシナリオだと思います。
脚本家はグラハム・ヨストで、あの「スピード」の脚本を手がけた人ですね。
「スピード」は次から次へと息もつかせぬほどに危機また危機が主人公におとずれ、観ている側はハラハラしっぱなしでしたが、本作「ブロークン・アロー」でもその緊張感が味わえます。
グラハム・ヨストはいい脚本家だと思うのですが、「フラッド」以降は名前を聞いていないですね。
引退しちゃったのかな。
惜しい・・・。
本作はやや脚本や編集に荒っぽいところはあるのですが、それを差し引いてもあまりあるスピード感あふれる展開が楽しめる映画だと思います。
だいたい100分くらいの作品ですが、ジョン・ウーはこのくらいの長さが合っていると思うんですよね(「レッドクリフ」は長過ぎ、終わらないし)。
スローモーションとかズームとか、彼のややもするとあざとい演出(僕はこれが好きなのですが)は、テンポのいい作品の方が活かされると思います。
あの演出は非現実的なアクションの方が似合うんです。
最近のジョン・ウーの作品があまりおもしろくないのは、以前のような思い切りがなくなり、なんだか普通の監督になってしまったようなところにあるのかもしれません。

あと本作見所はジョン・トラボルタ演じるディーケンズというキャラクターでしょう。
トラボルタが活き活きと悪役を演じています。
彼が演じるディーケンズという男は、アメリカ空軍の核爆弾を搭載した爆撃機のパイロット。
ディーケンズはその核爆弾を盗み、アメリカ政府から金を脅し取ろうとします。
彼は自分を評価しない軍に対しての反目から、そのような行為に至ったように見えます。
けれど理由はそれだけではないのでしょう。
ディーケンズは湾岸戦争で100回も出撃したと言っています。
彼は戦うこと、その興奮の味を覚え、それを忘れられなくなったのだと思います。
湾岸戦争後、通常の軍の任務では演習はあっても本当の戦いはありません。
彼はそのような平穏な時が苦痛だったのに違いありません。
このディーケンズというキャラクターからは、別の作品のキャラクターが想起されます。
そう、グラハム・ヨストが書いた「スピード」の主人公ジャックです。
彼は犯罪者と戦っていますが、その理由は任務ということの他に、そもそもがそういう危険な場面にいることに興奮を覚える男だからなのでしょう(劇中アニーにも指摘されている)。
アドレナリン中毒ともいえる危険への指向は、ジャックはそれが犯罪者との戦いという方向に働きますが、本作のディーケンズは犯罪という方向に向かいます。
ディーケンズは作品のラストの方では、金への執着がほとんどないことがわかります。
彼を元相棒のヘイルが追いつめた時、ディーケンズの顔に浮かんだ表情は笑みでした。
彼は好敵手と戦い続けることが楽しかったのでしょう。
ディーケンズの目的は、金などではなく、戦い続けることでした。

本作おもしろいと思うんだけどな・・・。
あまり評価している人が少なくて、ちょっと寂しい。
観ていない方がいらっしゃったら、是非ご覧になってください。

ジョン・ウー監督作品「レッドクリフ PartⅠ」の記事はこちら→

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2008年10月 1日 (水)

「レッドクリフ Part Ⅰ」 PartⅠって・・・?聞いてないよ

試写会っていうのは、日頃自分では観に行かない映画に出会えて、自分の興味が広がったりする場だったりしますが、やっぱり自分が好きなジャンルや監督さんの映画がいち早く観れるっていうところもいいですよね。
さて抽選で「レッドクリフ」の試写会が当たったので、行ってきました。
僕はジョン・ウー監督も好きですし、さらに「三国志」も大好きだったりするので、無理矢理仕事を片付けてワクワクとした気持ちで行ってきました。

僕が「三国志」に初めて触れたのが、NHKで放送していた「人形劇 三国志」です(知っている方、います?)。
こちらの作品、人形劇と侮ってはいけません。
人形を川本喜八郎さんという人形作家が手がけていて、造形としても美しく、そしてこの人形がほんとうに活き活きと動き回るんですよ。
観ているうちに人形であることを忘れてしまうくらいです。
これですっかり「三国志」の世界にはまり、この作品の原作となった「三国志演義」や吉川英治さんの「三国志」などを読んだりしました。
厳密に言うと「三国志」というのは史書で、一般的に物語として「三国志」として言われているのが「三国志演義」の方です。
こちらは羅漢中が書いた歴史小説ですね。
その「三国志演義」には有名な場面がいくつもありますが、その中での一番と言っていいのが「赤壁の戦い」でしょう。
本作「レッドクリフ」が描いているのがこの「赤壁の戦い」です。
「赤壁の戦い」は中国を席巻しようとしていた曹操の勢いを止めた、魏呉蜀の三国鼎立のきっかけとなる「三国志演義」の中でもターニングポイントとなる場面です。
有名な場面なので知っている方も多いので書いてしまいますが、その戦いのクライマックスは呉に押し寄せてくる曹操の水軍を劉備、孫権の連合軍が火攻めにするところです。
これは小説を読んでいてもなかなかに映像的なので、これをジョン・ウーがどんな映像にするのが、それが楽しみでした。

しかし・・・。

試写会場に入って席に落ち着いた時、会場アナウンスが入りました。
「本日は、『レッドクリフ PartⅠ』の試写会にお越し下さり、ありがとうございます・・・」
へ・・・?PartⅠって?
PartⅠってことは、PartⅡがあるの?
そんなこと劇場の予告で言っていたかな、チラシにも入っていなかったよな、なんて不思議に思ってしまいました。
そうか、「赤壁の戦い」のあとの「三国志」の続きを続編にするのかーなどと勝手に納得しながら、上映が始まるのを心待ちにしていました。

オープニングシークエンスはいきなり「長坂の戦い」でした。
劉備勢の主な登場人物をその戦いっぷりで紹介しつつ、また大軍同士のぶつかりあいはなかなか迫力ありました。
ここでは僕の好きな登場人物の一人である趙雲が活躍する場面があります。
これも有名なシーンなのですが、趙雲が主君劉備の子であるまだ赤ん坊の阿斗を敵陣の中から一人で救い出すという場面です。
ここはカッコ良かったですねー。
劉備の臣下の中では、張飛より、関羽より、趙雲が好きなので、満足度は高かったです。
ちなみに「演義」では無事敵陣を脱出した趙雲が、劉備に阿斗を渡そうとすると、劉備はその子を地面に叩き付けようとします。
劉備は阿斗にむかい「おまえのおかげで、私の大事な部下を失うところだったのだ」と言います。
劉備が自分の子よりも、自分の部下たちを大事にしている徳の高い人物だということを描いてている場面でしたが、さすがに映画ではここはなかったですね。
さてオープニング後、早く「赤壁の戦い」にならないかなと思いながら観ていると、急速に物語の展開のスピードが遅くなります。
劉備の軍師孔明が、孫権と連合するべく彼を説得するために呉を訪れるのですが、このあたりが無駄に長い。
ややイライラとしてしまいます。
それを我慢して耐えていると、いよいよ「赤壁の戦い」に突入。
その前哨戦となる曹操軍と、劉備・孫権連合軍の陸戦の場面はなかなかに見応えありです。
曹操軍を覆うように展開された連合軍の陣が、孔明や周瑜の指揮でまるで生き物のように陣形を変えていくのは迫力がありました。
「演義」の中では戦いの中の陣形の話がよくでてきますが、やはり映像の力はものすごい。
この戦いは一見の価値ありでしょう。
陸戦は連合軍の勝利に終わり、さあさあいよいよ水軍の戦い!
呉の軍師周瑜が、模型の曹操の水軍の船に火をつける!
はじまるぞ!っと前のめりになったところで・・・。

「つづく」・・・。

って、おい!
一番肝心の場面がないじゃないかぁぁぁ。
そのとき会場全体がどよめきましたよ。
なんとも中途半端な終わり方・・・。
これはまるで「お預け」状態です。
このフラストレーションのやり場をどこにもっていったらいいのでしょう。
二部作なら最初からそう言ってくれ・・・。
そういうつもりで観に行くから。
たぶん今までの試写会でも同じような怒りの声があがったんでしょうね。
だから「Part1」ってとってつけたように入っていたんだ・・・。
がっくり。

「レッドクリフ partⅡ -未来への最終決戦-」の記事はこちら→
ジョン・ウー監督作品「ブロークン・アロー」の記事はこちら→

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