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2008年9月28日 (日)

本 「かもめ食堂」

こちらの小説の映画化作品はお気に入りの一本ですが、原作未読だったので読んでみました。
映画と作品の雰囲気はよく似ています。
登場人物たちもほぼいっしょなので、やはり小説を読んでいても小林聡美さん、片桐はいりさん、もたいまさこさんの顔が思い浮かびましたよ。
それほどボリュームがある作品でもないですし、文体もさらさらと読みやすいので、1日もかからずに読み終わってしまいました。
著者の群ようこさんの作品は前に一度だけ読んだことあります。
この方の作品は章がとても少なくて、その章がけっこう長いという印象があります。
個人的な印象なんですけれど、章が長い作品というのは、読んでいても息継ぎができないような感じがあって疲れるイメージがあります。
けれども群さんの文体は上に書いたようにさらさらと読めるので、章が長くてもそれほど辛くはありません。
映画化作品は、観られた方はご存知のように、それほど起伏があるストーリーではなく、逆にまったりとした時間を感じる不思議な雰囲気を感じる映画です。
小説の方も、長い章をさらさらまったりと読んでいく感じがあって、それが映画の雰囲気と同じ(というより映画が小説の雰囲気といっしょなわけだけど)。
気軽に読めますし、なにしろ厚くないなので、どこか旅行に行く時のお供の作品にはいいかもしれません。

映画「かもめ食堂」の記事はこちら→

「かもめ食堂」群ようこ著 幻冬舍 文庫 ISBN978-4-344-41182-1

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「アイアンマン」 D.I.Y.ヒーロー

アメリカのヒーローものを観ていると、よく"gift"という言葉が出てきます。
これは「天からの授かりもの」「神に賜りしもの」という意味だとは思いますが、多くのアメリカン・ヒーローは生まれながらもしくは偶然に通常の人間を越えた力を手に入れています。
自分では意図をせず手に入れた力のために、そのヒーローの物語では"運命”や"使命"といったものが大きくテーマアップされます。
この方向はドラマとして深みがでて見応えがあって僕も好きなのですが、どうしてもその物語はダークな雰囲気にならざるを得ません。
本作「アイアンマン」はそのようなヒーローとは毛色が違っています。

主人公トニー・スタークは、兵器開発企業のCEO。
彼はアフガニスタンでの自身の拉致事件をきっかけに、自分の会社が売っていた武器が味方にも敵にも渡り、それが戦いを終わりないものにしているということを目の当たりします。
彼は自分の工房でパワードスーツ(のちに「アイアンマン」と呼ばれる)を作り、自らの会社が売った兵器が産む戦いを阻止しようと決心します。
つまり彼は、他のヒーローのように"運命"でヒーローになってしまうのではなく、自分自身でそうなることを選ぶんですよね。
もともとトニー・スタークは親が創立した企業を継いでいる、言わばボンボン。
技術開発は天才的ですが、会社経営に関してはそれほど関心がないようで親の代からの役員ステインに任せきりです。
ほとんど道楽のような開発、そして賭け事、女遊びに彼は明け暮れています。
見かけはいい年をした大人なのですが、才能もお金もあって不自由がないため苦労もしてこなかったスタークはたぶん子供のまま成長してきたような性格なのでしょう。
いい意味で大らかで素直な性格に見えます。
けれどもアフガンでの拉致によって、彼は自分がやったことが世界にどんな影響を与えていたかということをまざまざと見せつけられます。
彼にとっては初めて現実の世界というものに直面したときだったのでしょう。
けれども彼は生来の素直な性格、そして技術者としてのチャレンジスピリッツによって、彼自身の力で立ち向かおうと自分の意志で決心したわけです。
このあたり最近のヒーローものに多い陰性の性格でないのが、彼に幸いしているような気がします。
陰性の性格であったならば、辛い現実に直面した時に動けなくなってしまうかもしれません。
育ちの良いポジティブな性格だからこそ、彼は現実に立ち向かうことができたのでしょう。

このポジティブさというのが、最近のヒーローものにはない方向性のような気がします。
たぶん最近の傾向にあわせ暗く重たい方向で話を作ることはいくらでもできるでしょう。
ただそちらの方向を突き詰めた大傑作「ダークナイト」が登場した今、なかなかそれを越えることは至難の業かと思います。
本作のストーリーをヒーローもの本来のポジティブさの方向で展開したのは、正解だったと思います。
けれど陽性の方向に舵をきっているからといって、本作はシナリオが子供だましというわけでもありません。
込み入った伏線を張っているわけではありませんが、ちゃんと回収すべきところはきちんと回収している丁寧な脚本になっていると思います。
観ていてワクワクするヒーローものっていうのも、やはりいいです。

自分の意志で戦おうと決心したスターク。
技術開発は天才的でも肉体は普通の人間です。
彼はまさにD.I.Y.(Do It Yourself)の精神で、自分の工房でヒーローにふさわしい力を試行錯誤しながら手に入れます。
「アイアンマン」を開発している時の様子は、子供が模型を作っている時のような嬉々とした感じを受けます。
僕自身も子供の頃思い出しますが、ああでもない、こうでもないといろいろ工夫をしているときがなんだか楽しいんですよね。
なんだかこの映画のこういうところにもワクワク感を感じてしまうんですよね。

シリーズ第二作「アイアンマン2」の記事はこちら→

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2008年9月27日 (土)

本 「占星師アフサンの遠見鏡」

恐竜が主人公の小説は以前に「さらば、愛しき鈎爪」(恐竜が主人公のハードボイルド!)という作品を読んだことがありますが、そもそも珍しいですよね。
本作の著者ロバート・J・ソウヤーは好きな作家なので、こちらのブログでもしばしば紹介していますが、「さよならダイノサウルス」という恐竜(とタイムマシン)がテーマの小説を書いています。
本作では恐竜(ティラノサウルスっぽい)が知性を持った世界が舞台になっています。
その世界は僕たちの地球で言えば中世ヨーロッパくらいの文明・技術レベル。
キンタグリオ(その恐竜たちは自分たちのことをこう呼ぶ)は天空に大きな姿を見せる「神の目」を神とあがめる宗教を信じています。
恐竜が主人公というのはあまりにファンタジーな感じがするかもしれませんが、その生態や社会の成り立ち、また後半のSF的な展開はしっかりと考えられているので、読み応えがあります。

<かなりネタばれあり>

タイトルにあるアフサンというのは、若いキンタグリオで、星を観察するのが仕事です。
そして「遠見鏡」というのは、望遠鏡のこと。
彼は望遠鏡を手にし、星を観察していく中で、世界の仕組みを解き明かしていきます。
そして世界の仕組みを知っていく中で、自分たちの大地は球体であること、彼は自分たちがあがめている「神の目」は惑星の一つであること、そして自分たちの住んでいる球体は「神の目」を周回している衛星の一つであることを発見します。
それは彼らの宗教においては冒涜以外のものではなく、アフサンは僧侶たちから迫害をされます。
まさにアフサンはキンタグリオのガリレオのようです。
これだけだと歴史物語を恐竜に置き換えただけなのですが、さすがソウヤー、これにSF的要素をうまく織り込んでいきます。
アフサンはさらに他の惑星を観察しているうちにそれらがリングを持っていることに気づきます。
そしてそのリングは小さな岩でできていること、それらはもともとは衛星で惑星に近づきすぎたために壊れてしまったと類推します。
さらに自分たちの衛星も惑星に近づきすぎており、いづれは崩壊するであろうという結論に達します。
そしてキンタグリオたちが生き延びるためには、自分たちの住む星から脱出しなくてはならないと考え始めます。
作品中では説明されていませんが、描写から「神の目」は木星であり、キンタグリオたちが住む世界はその衛星の一つのように見えます。
本作は3部作の1作目だということ。
2作目以降ではキンタグリオたちの衛星脱出が描かれるのでしょうか。
また先に書いたように「神の目」が木星だとすると、僕たちの地球にかつて存在した恐竜とキンタグリオの関係も気になります。
このあとどのように展開するのでしょうか。
楽しみです。

ロバート・J・ソウヤー作品「ターミナル・エクスペリメント」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「さよならダイノサウルス」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「イリーガル・エイリアン」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「フラッシュフォワード」の記事はこちら→
エリック・ガルシア著「さらば、愛しき鈎爪」の記事はこちら→

「占星術アフサンの遠見鏡」ロバート・J・ソウヤー著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011053-0

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「ペネロピ」 呪いを作るのは僕たちの心だ

一族にかけられた呪いによって名家の娘ペネロピ(クリスティーナ・リッチ)は豚の鼻と耳を持って生まれてきてしまいます。
名家の息子と結婚すればその呪いは解けるという言い伝えを信じ、母親はペネロピの相手を見つけるべく日々お見合いのセッティングに余念がありません。

呪いをかけられた娘が、愛する人と出会ってその呪いが解け、めでたしめでたしというというおとぎ話のようなストーリーかと思いきや、生き方などを考えさせられる好印象の作品でした。

今までに京極夏彦さんの作品のレビューのところでも書いていますが、「呪いをかける」という行為は相手の心にある強迫観念を植え付けてしまうことと言えます。
「呪い」の言葉は「あれをするべし」「あれをしてはいけない」といったような縛りを相手に与えるのです。
呪いをうけた人間は次第に考えも行動も縛られてしまいます。
その呪縛こそが「呪い」なのです。
また「呪い」は自分が自身にかけてしまうこともあります。
「どうせ自分は醜いから」「自分は人に好かれないから」という思い込みも一種の「呪い」と言っていいかもしれません。
そういうマイナスにとられる(と自分が思い込んでいる)要素(目に見えるものでも、精神的なものでも)というのは、人には見せたくない、言いたくないものです。
けれどもそのマイナスな要素というのも、実際は自分が思っているほどに他人は気にしていないことだったりもするのですよね。
またそういうことというのは、自分が隠そうとすれば隠そうとするほど、余計に恥ずかしくなってしまうものです。
その人が恥ずかしいと思ってしまうことによって、意外にも他人から見るとそれは恥ずかしいことに見えるんです。
逆に堂々としていると、それは見ている側は欠点などには見えないのです。
それが愛嬌に見えるくらいに。
たとえば太っているということはネガティブに見えがちですが、男女問わずそれを愛嬌にしている人もいます。
また一昔前はオタクというのもネガティブに見えましたが、堂々とアニメ好きとか言っていたりするとそれは格好悪いことでもなんでもなかったりするわけです。
ようは相手に恥ずかしいと思われると思っている自分の気持ちこそが、恥ずかしいことなんだなと相手に思わせてしまうんですよね。
この作品の中でペネロピの「呪い」を解いたのは、王子様のキスでもなく、愛する人との結婚でもありません。
彼女自身が、彼女自身を堂々と認められた時、彼女の「呪い」は解けたのです。
醜いとか美しいとかそんな基準ではなくって、丸々自身の存在を肯定できることが「呪い」を解く術なんですよね。
劇中ラストでペネロピの生徒の一人が「呪いを作るのは僕たちの心だ」と言いますが、これはまさにそのとおりだと思います。

目が大きくて派手な顔立ちのクリスティーナ・リッチがペネロペ役にぴったりでした。
あれだけ目鼻立ちがはっきりしていないと、あの豚鼻で可愛らしく見せるのは難しいでしょうね。
見ている間にペネロピの豚鼻顔もキュートに見えてきて、呪いが解けた後の顔だともの足りなく感じたりもして(笑)。
「ウォンテッド」に出ていたジェームズ・マカヴォイはこういう役の方が合いますね。
どなたかのブログで、ジェームズ・マカヴォイを評してイギリスの堺雅人と書いていらっしゃいましたが、この作品を観て、なるほどその通りと思いました。
悲しそうに笑ったりするところなどは、ほんと堺雅人さんみたいです。
顔立ちは全然違うんですけれどね。
演技の雰囲気が似ているのかなあ。

ジェームズ・マカヴォイ主演「ウォンテッド」の記事はこちら→

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本 「天を衝く」

高橋克彦氏の陸奥三部作と呼ばれる「炎立つ」「火怨」に続く、「天を衝く」を読みました。
「炎立つ」はNHK大河ドラマにもなりましたが、奥州藤原氏3代を描いた作品。
「火怨」は征夷大将軍坂上田村麻呂に討伐される、蝦夷のアテルイを主人公としています。
本作「天を衝く」では、全国制覇を行おうとする秀吉軍と戦う九戸政実を取り扱っています。

これら三部作は基本的な構造はかなり似通っています。
東北の地に暮らす人々を中央の政権が支配しようと戦いを仕掛けてくる。
それに対し、戦上手で地の利もある奥州側は果敢に迎撃するが、物量に勝る中央軍に次第に追いつめられていき滅ぼされてしまう。
けれども、アテルイにしても、藤原経清にしても、九戸政実にしても、彼らの戦いで勝利できるとは考えていない。
座して滅ぼされるのではなく、東北人としての気概、武士としての誇りというものを、その戦いによって残された人々の心に刻み込むということを考えます。
その心に刻み込まれたものは何年後か、何十年後か、何百年後かに東北人として誇りの持てる国を作れるのではないかという希望を残そうとします。
おもしろいのはその東北人という魂が継承されているのが、生粋の東北人ではないこと。
「火怨」のアテルイは蝦夷出身の侍で、戦ったのは田村麻呂率いる京の中央軍。
「炎立つ」の藤原家はそもそもは、京の藤原家の系譜なんですよね。
アテルイの戦いのときは敵側であったものが、支配者として東北の地に住み付き代を重ねていくうちに次第に中央人ではなく東北人としての魂をもつようになっていったわけです。
また本作「天を衝く」の九戸政実はもともとは源氏の系譜。
源氏は奥州藤原家と戦った相手ですから、これも勝利者側が東北に住み着き、次第に東北人としての意識をもつようになったものです。
そういう意味ではアテルイから続く、奥州の魂というのは、支配する一族や人が変わっていったとしても連綿と受け続けられていったということなのでしょう。
東北人は中央との戦い自体では負けたかもしれない。
でもその魂はずっと受け継がれているわけで、それは実は東北の勝利なのかもしれないと思いました。

この3部作、それぞれの作品としてもおもしろいですが、すべてを読むとよりおもしろさが大きくなると思います。

「天を衝く1」高橋克彦著 講談社 文庫 ISBN4-06-274915-7
「天を衝く2」高橋克彦著 講談社 文庫 ISBN4-06-274916-5
「天を衝く3」高橋克彦著 講談社 文庫 ISBN4-06-274917-3

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本 「メディチ家」

タイトルにある「メディチ家」はご存知の通り、ルネサンス期にフィレンツェの政治の中心となった名家です。
メディチ家は銀行家でありましたが、次第に政治にも進出し、家門の中からローマ法王を輩出し、そして家としてもトスカーナ大公となった家柄です。
あとルネサンス期の様々な芸術家たちのパトロンとなったことでも知られています。
現在フィレンツェが観光名所となり、そこを訪れる人々が観ている芸術作品のほとんどはメディチ家のパトロネージによるものだと言っていいでしょう。
そういうことでメディチ家という存在には興味があったので、この本を読んでみました。
また中世ヨーロッパを舞台にした小説なども時折読んだりしていて、その中でもメディチ家の人物は何人も出てきます。
ただそのあたりの歴史というものがあまり詳しくなかったので、そのあたりについて知りたいというのもありました。
そういう点で言うと、メディチ家の創始のころから没落までの主な人物についてかなり詳細にまとめてあるので歴史的な流れというのは分かりやすくなっているかと思います。
ただなんとなく歴史の教科書的なところもあるために、入り込んで読みやすい本かというとそういう感じはありません。
何かこの時代やメディチ家について調べたい方にとっては、とても使いやすい本のような気がします。
読んでいて今まで小説で読んだことのある人物などが出てきたときはちょっとワクワクしましたね。
実際はこういう人物だったのか・・・みたいな感じがありました。
逆に小説家という人は実際の人物像を発展的に解釈して新しい人物像を作っていくというのは、また凄い力だなと改めて認識しました。

メディチ家を描いた藤本ひとみ著「暗殺者ロレンザッチョ」の記事はこちら→

「メディチ家」森田義之著 講談社 新書 ISBN4-06-149442-2

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2008年9月23日 (火)

「次郎長三国志」 清水湊の名物はぁ〜

清水と言ったら、ちびまる子ちゃんと次郎長くらいしか知らない。
と言っても次郎長についてそれほど詳しいわけでもなく、知っているのは浪曲の「清水ぅ湊ぉの名ぃ〜物はぁ〜」のフレーズくらい。
あと森の石松か。
劇場はほとんどおじいちゃんおばあちゃんペアで、若い人はほとんどいなかったですね。
あとはちょっとテキ屋風のお兄さんくらいでしょうか。
次郎長は渡世人だものね・・・。

今の時代に撮るのだから、なにか今風のアレンジでもされているかと思ったら(あの浪曲は宇崎竜童さんがアレンジしてましたが)、まったくそのようなことはまったくありませんでした。
義理と人情の渡世人。
王道の時代劇といった感じでした。
往年の時代劇ファンにはたまらないのかしらんと思いつつ、だいぶ退屈してしまったのでした。
子供のころ親の脇で観ていたので時代劇は嫌いじゃないんですけれど、あまりにオーソドックスすぎて。
それにちょっと尺が長過ぎたような気がします。
もうすこしコンパクトにまとめられれば、もうちょっと退屈せずに観れたかもしれません。
全体的に演技が、芝居調でしたね。
これも狙ってのことだと思いますし、これも往年のファンからすれば懐かしくて良い感じなのかもしれませんが、僕の感覚だとかなり古くさい感じがしてしまいました。
立ち回りも刀を合わせる風の芝居調の殺陣でした。

いいとか悪いとか言う以前に、ターゲットが僕のようなタイプではないのだろうなあと観ていて実感。
そうじゃない僕が観に行ったのが、違っているのかも。
でももっと年配の方がターゲットだったら2時間越えはやはり長過ぎるような気がしました。

あまり思い入れも持てなかった映画だったので、記事が淡白になってしまいました・・・。
間を持たせるためにちょっと「清水次郎長」で検索をしてみると、実際の次郎長は江戸時代末期から明治時代にまで生きたということ。
明治になったら渡世人稼業を止め、地元の振興に努めたそうです。
行ったのはお茶を流通させるための清水湊の整備だということ。
そうか、清水にはお茶もあったなぁ。
そういえば冒頭にあげた歌の続きも「お茶のぉ〜香りぃとぉ〜」だった・・・。

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2008年9月21日 (日)

「おくりびと」 安らかな旅立ちのお手伝い

幸いなことに両親はまだ健在なので、納棺に立ち会ったことがありません。
葬儀屋とは別に納棺士という仕事があることも知りませんでした。

宗教的な視点、哲学的な視点を抜きにして、極めて現実的に考えると、人は死んでしまったらただの物質となってしまいます。
ヒトではなく、モノになってしまうわけなんですよね。
人に限らず生命というものはそういうものなんですが、故人が身近であればあるほど、1日前までは呼吸して生きていた人が動かぬモノになってしまうということは、少なくないショックを遺族に与えると思います。
身もふたもない言い方をしてしまえば(くどいようですが宗教的哲学的見解は置いておいて)、死というものは、それが訪れてしまえば本人にとってはその先は全く意識しようもないわけです。
本人にとっては時間は止まります。
けれど近しい人々の時間は過ぎていきます。
残された人々にとってはその後の時間を、その方の死をなにかしらの形で受け入れなくて過ごさなくてはいけません。

この映画を観て、初めて納棺師の仕事というのを知りました。
遺族の方たちが見守る中、亡くなった方を綺麗にして、「安らかな旅立ちのお手伝い」をする仕事。
劇中で納棺師を演じていた本木雅弘さん、山崎努さんの所作は美しいと感じるほどに丁寧で繊細でした。
一見儀礼じみたその所作の一つ一つには故人の尊厳、遺族の気持ちへの細やかな配慮が感じられました。
驚いたのは彼らの仕事は遺族の方の前で行うということでした。
でも観ているうちに思ったのは、それも遺族の方が気持ちの踏ん切りをつけるために必要な過程なのだなと思いました。
劇中の中でもいくつか描かれていましたが、家族というものは近い分だけ、生きていれば意見の食い違いや対立などが生まれるものです。
それによって不仲になったり、そうでなくても縁遠くなってしまったりもするものです。
けれどそういう中でその誰かが亡くなったとしたら、残された者はそのわだかまりや後悔というものを持ちながら生き続けなくてはいけません。
それは辛すぎます。
だから納棺の儀というのは、遺族が次第に綺麗になっていく故人を見守りながら、わだかまりや後悔といったものを浄化していくプロセスなのだと思います。
納棺師はゆっくりと丁寧に故人を扱って、残された方はその静謐な時間の中で気持ちの整理を行っていく。
「安らかな旅立ちのお手伝い」というのは、故人を送ってあげることはもちろんなのですが、旅を見送る残された方々が気持ちの整理を行うためのお手伝いであるのだなと思いました。

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「ウォンテッド」 アンジェリーナ・ジョリーの存在感

予告は文句なくカッコ良かった。
登場する暗殺者たちは、野球の投手がカーブを投げるように、卓球の選手がボールにカットをかけるように、拳銃の引き金を引く際に軽く手首にスナップをかけることによって弾丸を曲げる。
物理学的には「ありえねー」のだけれど、カッコいいから許します。
予告もポスターもパンフレットもアンジェリーナ・ジョリーが主役のように見えるのだけれど、主人公はジェームズ・マカヴォイ。
彼の一般の人への知名が低いからか、アンジェリーナの露出を増やしているように見えます。
映画を観てみても、ストーリーとしての主人公はジェームズ・マカヴォイ演じるウェズリーなのだけれど、カッコよさでいうとアンジェリーナ演じるフォックスの方が断然カッコいいので、こういう打ち出し方になるのも仕方がないのかもしれないです。

アンジェリーナ・ジョリーという人は社会派的な映画にも好んで出ますが、やはりアクション映画に出た時の存在感は格別なものがあります。
「映える」とでも言いましょうか。
アクション映画に登場する女優の「映え」というのは、美人だから、スタイルがいいからということだけでは醸し出せないものがあります。
このような映画で「映える」には体の動き、表情を含めた生々しいほどの存在感が必要なような気がします。
昨今のワイヤーやCGを駆使したアクションというのは、観たことのないような刺激を与えてくれますが、ややもするとそこにはなんともどうしようもない「軽さ」を感じてしまうことがあります。
その「軽さ」というのは非現実感、嘘くさい感じとも言えます。
そのような「軽さ」を相殺するには、やはり役者の肉体ある実存在としての存在感(ややこしくて申し訳ないが)が必要な気がしています。
そういう点では彼女の存在感というのは希有なもので、あの目に込められた力、エキゾチックな美貌そして表情、肉体の所作、動き自体が、艶やかで生々しさを感じます。
これは天性のものなのかもしれません。
彼女に感じる強さ、艶やかさというのが、肉体を持つ人間としてのリアリティのある存在感であり、それが昨今のCG過多なアクションの中で、彼女が「映える」理由になっている気がします。

そのような存在感を放っているアンジェリーナ・ジョリーに対し、ストーリー上では主人公であるジェームズ・マカヴォイはどうしても役不足感はいなめません。
ただの孤独なサラリーマンが暗殺者になるという話ですから、最初は弱々しくてもいいのですが、そこからタフネスな暗殺者になっていくというのが、彼ではどうもしっくりとした感じがしなかったのです。
アンジェリーナと一緒に映っている場面では、どうしても存在感を彼女に喰われてしまいます。
映画としても、ウェズリーが最後に乗り込んで行く場所での銃撃戦は、観ているときはなかなか見応えがあると思っていたのですが、観終わってみると驚くほど残らない。
なんというかやはり「軽さ」を感じてしまったのかもしれないです。
これはジェームズ・マカヴォイに、アンジェリーナに感じるほどのリアリティのある存在感を感じられなかったからのような気がします。

ジェームズ・マカヴォイ出演「ペネロピ」の記事はこちら→
アンジェリーナ・ジョリー出演「トゥームレイダー」の記事はこちら→

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2008年9月15日 (月)

「パコと魔法の絵本」 「強い」と「弱い」

こうやってブログで映画の話を書いていますが、基本的に良くても悪くても観た作品については何かを書くという方針でいます。
そのため心がほとんど動かなかった作品というのは、何を書こうかなぁと悩んだりするものですが(おもしろくない映画は逆に書きやすい)、観たあとすぐに感じたことを書き留めておきたいと思う作品もあります。
本作はいろいろ感じたので、忘れないうちに書いておきたいと思った作品のひとつです。

劇中で医師の浅野(上川達也さん)が、大貫(役所広司さん)に言う台詞でこういうのがありました。
「強くなくてはいけないんですか?」
大貫は小さな会社をはじめて、それを一人の力で大企業に育てていきました。
たぶんその過程ではたくさんの困難があったのでしょう。
その中で大貫は「周りの者はすべて敵、だから強くなくてはいけない、負けてはいけない」という風に思うようになっていったのだと思います。
これはたぶん大貫だけの話ではなくって、今、大人になっている人、いやもしかすると子供でさえも強くなくてはいけないって思っているのではないでしょうか。
「勝ち組」「負け組」ととかく言われますが(僕はこの言い方がスゴく嫌い)、「勝ち組」に残るためには強くなくてはいけないと多くの人は思っています。
けれど、たぶん人間ってそんなに強くはないんです。
僕も一時期いろいろたいへんな時期があり、強くならなくては、がんばらなくてはと必死になっていたときがあります。
けれどもそんな心身ともに疲れがたまったのか、寝込んでしまいました。
そのとき自分の中には「負け組」になってしまったような、「弱虫」になったような呆然とした思いがありました。
けれどしばらくするうちに、別に負けてもいないし、当然勝ってもいないし、そもそも勝つとか負けるとか、どうでもいいと思うようになりました。
自分は弱いんだなと認められたんですよね。
正確には弱いところもあるし、強いところもあると自覚したということでしょうか。
大貫という男もずっと自分は強いと思って生きてきたと思います。
けれど体をこわし、会社から必要とされなくなった自分はなんなのだろうと思うようになったのでしょう。
妻夫木聡さんが演じていた室町も同じようなキャラクターだと思います。
子役のときの演技では評価されたけれど、大人になってからは誰にも注目されなくなった彼も自分は何なのかと思い悩んでいたように思えます。

たぶん強いとか弱いとかということの前提というのは、「一人で」周りの者と戦わねばならないという思い込みなのですよね。
「一人で」戦うのだから、強くなければならないと考えるのは道理です。
でもその前提が間違っているのだとしたら。
なにも「一人で」戦う必要はないんです。
大貫が、病院のみんなの力を借りてパコのための演劇を行ったように。
ガマ王子が、池のみんなの力を集めてザリガニ魔人と戦ったように。
みんなで戦うんだったらそれぞれ弱いところなんてあっていい。
必要なのは誰かのこと、お互いのことを思って力を合わせられるということ。
それが結局は強いということなのだと思います。

僕は自分が弱いと自覚してから、周りの人の力を借りることに素直になりました。
そして一人でしゃかりきにやっていたときよりも、結果的にはいいものができるんですよね。
周りのこともよく見えるようになりました。
大貫もパコと出会った時、内向きにしか向いていなかった自分の目線が、外に開いていくのを感じたのではないでしょうか。

大貫の目を開くパコ役のアヤカ・ウィルソンちゃんは天使のようにかわいらしかったですね。
大きな声でガマ王子の絵本を読んでいる姿がとても天真爛漫で。
あの無邪気な笑顔を観るたびにパコが背負っている大きなものを、少しでも肩代わりしてあげられたらと思ってしまいました。
登場人物たちもみんなそんな風に感じていたのでしょうね。

中島哲也監督の作品は「下妻物語」も「嫌われ松子」も観ておらず、初めての観賞でした。
独特の色使い、そして後半の演劇に入ってからの現実と物語世界の行き来の表現はうなってしまうほど巧みだったと思います。

久しぶりに心の琴線に触れる作品でありました。
不覚にも中盤からは目と鼻は壊れた水道状態でした・・・。

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「ギャラクティカ シーズン1」 テレビシリーズとは思えない

「宇宙空母ギャラクティカ」ってアメリカのドラマを知っている方ってどのくらいいらっしゃいますか?
ちょうど「スター・ウォーズ」をきっかけにこういうSF映画がブームになったときに制作されたテレビドラマです。
こちらの作品、日本でも放映されていたんですよね。
人類の植民星が突然サイロンというロボット軍団(もともと人間が作り出したもの)に襲われて、人類は滅亡の危機に瀕します。
生き残った人類は空母ギャラクティカに乗り込み、伝説の星、人類の故郷である地球を目指すというストーリーです。
今思えば話もそれほど目新しいものものもなく、特撮シーンもバンクフィルムの使い回しが多かったため見所的には少ないような気がしますが、やはり他にこういう毎週放映する特撮がなかったので毎週一生懸命チェックしてました(まだビデオがなかったため)。

さて本作「ギャラクティカ」はその「宇宙空母ギャラクティカ」をリ・イマジネーションして作った作品ということです。
サイロンに壊滅的な打撃を受けた人類が地球を目指すという、ストーリーの骨子は同じですが、それ以外はまったく新しい作品になっています。
共通点としては空母ギャラクティカやその戦闘機のシルエットなどはかなり近いですよね。
あと序章の中での大統領の歓迎式典のところで旧「ギャラクティカ」のテーマがアレンジされて使われていました。
旧作との最大の違いは、サイロンに「歩くトースター」のタイプだけではなく、人間をコピーしたようなタイプが存在しているということ。
人間そっくりのコピーは同タイプがいくつもあって、それらは人類の中に紛れ込んでいます。
そして紛れ込んでいるサイロン自身が、サイロンとしての自覚がない者もいるのです。
また前作よりも、行政を代表する大統領と、軍を掌握するギャラクティカ艦長の対立というのが多く描かれます。
ともに人類を守るために行動しているのですが、やはり立場としての考えから協力したり対立したりをしていきます。
正体のわからない敵、そして行政と軍の対立という中で、ドラマは緊張感を持続していきます。
このあたりはなかなか見応えがあります。
あともう一つ見応えがあるのが、特撮シーンでしょう。
これはテレビシリーズなのかと思えるほどに特撮シーンには力を入れています。
毎回毎回戦闘シーンがあるわけではないのですが、そういうシーンが描かれる場合はほんとにテレビドラマだとは思えないほど。
全体的なカメラワークも、ロブ・コーエンの「ステルス」の空中戦のような感じで臨場感があります。
スゴいですよね、アメリカのドラマって。

シーズン1のラストは衝撃の終わり方でした。
あれからどうなるの?という感じでしたが、今週からスーパードラマTVで、シーズン2がオンエア開始。
楽しみです!

「ギャラクティカ シーズン2」の記事はこちら→
「ギャラクティカ シーズン3」の記事はこちら→

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2008年9月14日 (日)

「ディスタービア」 制約の逆転

劇場でスティーブン・スピルバーグ製作総指揮、シャイア・ラブーフ主演の「イーグル・アイ」の予告がかかっていました。
けっこう面白そうと思って監督名を見てみるとD・J・カルーソーという名前が。
知らないなあと思って調べてみると、こちらの作品「ディスタービア」の監督だったんですね。
この作品は劇場ではスルーしていたので、知りませんでした。
「イーグル・アイ」の予習も兼ねて、「ディスタービア」をDVDで観賞しました。

しまった、面白かったです。
劇場で観れば良かった・・・。
以前よりこのブログで、何度かアクション映画というのはいくつかの制約、約束事という縛りがあるからこそおもしろくなるということを書いています。
その制約の設定、そしてそれをいかに主人公が乗り越えるかというのがハラハラドキドキを生むのだと思っています。
本作はまさにその制約を上手に設定した作品だと思いました。
予算をかけなくても、アイデア次第でおもしろい映画は撮れるんですよね。

<ネタばれチックなのでご注意>

高校生ケール(シャイア・ラブーフ)は教師をなぐってしまったことにより、3ヶ月の自宅謹慎処分を受けてしまいます。
彼は足首に発信器みたいなものを取り付けられてしまい、それによって自宅を出るとすぐさま警察に通報がいってしまうのです。
自宅を出ることができない。
これが本作の主人公に課せられた制約です。
隣人に連続殺人犯と思しき人物がいたとしても、それをケールは直接的に調べることはできません。
どうしても友人や好意を寄せる同級生頼みになってしまう。
事件が起こっている現場を主人公が訪れることができない。
これはおもしろい設定だなと思いました。
彼が見ることができるのは自宅の窓から見える範囲のみ。
当初は観客も彼と同じ範囲しか見れないので、ケールと同じようなドキドキ感を感じることができます
先に書いたようにこの映画の制約は自宅から「出られない」ということ。
けれども物語の後半はこれが逆転するのがまたおもしろい。
殺人犯に自宅に潜入されケールは襲われます。
逃げ出そうとするケール。
彼には発信器がついているのだから、自宅から離れられれば通報が警察に入ります。
ケールは必死に発信器が作動する境界線を越えようとします。
ここで制約は逆転し、自宅から「出なくてはいけない」が制約になるのです。
このアイデアはなかなかおもしろかったですね。

連続殺人犯と思しき隣人をデヴィッド・モースが演じていました。
この方、いい役も悪い役もこなす人なので、犯人かどうかがなかなかわからない。
実は殺人犯を捕まえようとして張り込んでいる刑事だったとか、いろいろ考えて観てました(笑)。

「イーグル・アイ」も、主人公がなかなか状況がわからない事件に巻き込まれてしまうサスペンスらしい。
期待して待っていよう。

D・J・カルーソ監督、シャイア・ラブーフ主演「イーグル・アイ」の記事はこちら→
スティーブン・スピルバーグ監督、シャイア・ラブーフ主演「トランスフォーマー」の記事はこちら→

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本 「別冊 図書館戦争Ⅱ」

これにて幕引き。
結果的に本編4冊、スピンオフ2冊と大シリーズになった「図書館戦争」、本作にて完結です。
初めて「図書館戦争」を読み始めたときはこんなことになるとは思わなかったなあ・・・。
しみじみ・・・。
さて、本作では「図書館内乱」でなんとなくいい感じになりそうだった手塚と柴崎のその後が描かれます。
別冊Ⅰでは、図書隊きってのバカップル(失礼!)の堂上夫妻の話だったので、ベタ甘度アップの山盛りパフェみたいな感じでしたが、別冊Ⅱは冷静な手塚と柴崎の話なのでベタ甘度は抑えめに、代わりにちょっとビターな感じで仕上がっていました。
本作が扱っているテーマがストーカーですしね。
それにしても手塚と柴崎は幸せになれてよかったですねえ。
両者ともに不器用さを持っているややこしい性格ですけれど、それでもストーカー事件をきっかけに二人とも素直になって。
特に柴崎が素直になったところは手塚でなくとも抱きしめたくなります(「大事にして」のところね)。
けれど素直になってからの二人は堂上夫妻に負けず劣らずベタ甘度あがっていましたね。
「あとがき」によればラストはあとから付け足したということらしいですが、明るくハッピーに終わるのはやはり「図書館戦争」らしくってよかったんではないでしょうか。

しばらく次はないような気がしますが、また彼らに会えるのを楽しみに待っていることといたしましょう。
次は堂上夫妻に子供ができて!なんていうのもおもしろそうなのですが・・・。

図書館戦争シリーズ「図書館内乱」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「図書館危機」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「図書館革命」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅰ」の記事はこちら→
アニメ版「図書館戦争」の記事はこちら→

「別冊 図書館戦争Ⅱ」有川浩著 アスキー・メディアワークス ハードカバー ISBN978-4-04-867239-9

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本 「太陽がイッパイいっぱい」

作者は三羽省吾さんという方ですが、まったく知らず、なんとなくタイトルの響きだけで買ってしまった小説です。
けど、おもしろい!
登場人物たちは「マルショウ解体」というビルの建築の型枠を解体する業者のいわゆる肉体労働者です。
なんとなく今流行の「蟹工船」のような話をイメージしてしまうのですが(表紙のデザインもなんとなくプロレタリーアート文学っぽい)、青春小説でした。
登場人物たちがとても魅力的で活き活きと描かれています。
肉体労働というのは3Kと言われたり、社会的には下請けの下請けみたいな状態で弱者的な存在に思われますが、登場人物本人たちはまったくそういう風には思っていない。
きっつい仕事をしている彼らには何か力強さのようなものを感じます。
それは理屈や言葉で語ってしまうとなんだか陳腐になってしまうようなものなのですけれど。
人は社会に出ていくとき、必ずその仕組み取り込まれてしまいます。
それはいたしかないと考える人、それは正しくないと考える人といろいろいると思いますが、そんな考え休むに似たりというような力強さを「マルショウ解体」の面々に感じるわけです。
彼らは自分たちは弱者などとは思っていません。
それぞれが背負うものがあるにせよ、仕事終わりのビールの旨さ、達成感の旨さを彼らは知っているのです。
それは頭で考えるものではないのでしょうね。
頭でいろいろ考えすぎて、不満ばかりがたまりながら仕事をしていくっていうのは、とっても不健康なことなのかもしれません。

この小説、とっても映画向きだと思うんですよね。
どなたか映画にしてくれないかなあ。

「太陽がイッパイいっぱい」三羽省吾著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-771901-0

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2008年9月13日 (土)

「フライング☆ラビッツ」 別腹だから!

すいません、石原さとみちゃんと真木よう子さん目当てで行きました。
お二人ともお美しいです・・・。
と言いながら、感動屋なもので、こういうがんばる系のお話は嫌いじゃないのです。
特にスポーツものは弱いですね、ついついほろりときてしまいます。
本作では実際の実業団バスケットボールチームの「JAL RABITS」を題材にしています。

早瀬ゆかり(石原さとみさん)は、幼いころから念願のキャビン・アテンダントになることができました。
ちょっとした間違いから彼女の住まいは「RABITS」の合宿所になってしまいます。
そうした中、ゆかりはチームの監督(高田純次さん)に見いだされて「RABITS」に参加することになってしまいます。
ゆかりはCA実習生とバスケチームの二足のわらじを履くことになってしまうのです。

どう考えてもCAの仕事というのはたいへんそうだし、それを実業団チームをやりながらやっていくというのは、並大抵のことではないと想像できます。
物語の中でも、チームの先輩たちは、仕事か、チームか、そして恋かという選択肢に悩んでいます。
けれども主人公ゆかりは、そういう究極の選択に悩んだりしません。
彼女にとっては仕事も、チームも、恋もすべてやりたいことであり、それならば全部やりたいと思っています。
ゆかりは食事をするとき、ラーメンかチャーハンのどちらかを選ばなきゃというふうには思わず、好きなんだから両方食べればいいじゃないと思う子なんですよね。
ゆかりの彼氏卓也は、家の都合で実家に戻らなければならないことを、CAとバスケで忙しいゆかりに気を使って何も言わずに帰りました。
ゆかりが卓也を追っていった時、彼氏はこう言います。
「さすがにおまえも、ラーメンとチャーハン(仕事とバスケのこと)でお腹パンパンだろ」
ゆかりはこう答えます。
「卓也のことは・・・、別腹だから!」
この台詞でハッとしました。
なんだかしらないうちに、人は何かを選択しなくてはいけないと思ってしまいます。
仕事か、恋かどっちを選ぶ?みたいに。
もちろん両方やるのはたいへんだから、不可能だからというのはあります。
けれど、たいへんかもしれないけれど好きならできるかもしれない。
両方好きだったら、両方やってみたらいい。
二者択一、三者択一なんて誰が決めた?
選ばなくてはいけないと思ってしまうのは自分なんですよね。

とは言いつつも・・・。
たぶん今の世の中では、男性よりも女性の方がこういう選択を迫られることが多いですよね。
男は大概の人が仕事を選ぶという感じになっていると思います。
ある意味、男はこういう究極の選択を迫られることが少ないわけです。
でも女性は違う。
選ばなくてはいけない状況になってしまう。
でも両方好きならあきらめずに、ゆかりのようにできたら素敵だと思います。
最近はやっと自分が勤める会社でも女性が育休をとって復職というケースが増えてきました。
そのためには男性のサポートが必要だったり、社会の仕組みが変わらないといけないのですよね。

ラストでCAの制服に身を包み、バスケのファンにサインをして颯爽と歩いているゆかりがとてもカッコ良く見えました。
やりたいことをやっている人というのは、輝いて見えるのですよね。

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「大決戦!超ウルトラ8兄弟」 二匹目の泥鰌はいない

一昨年の「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」が全編からウルトラマンシリーズへの愛を感じる出来映えで満足したので、初日に観賞に行ってきました。
やはりウルトラマンには特別な思い入れがあるのです。
けれども不安がなかったわけではありません。
まずは平成3部作と呼ばれるティガ、ダイナ、ガイアを、僕が全く観ていなかったこと(ネクサスからまた観るようになりました)。
特撮や映画に興味をなくしていた時期でもあって、この3部作にほとんど思い入れがありません。
そのため前作「メビウス&ウルトラ兄弟」ほどに入り込めるかどうかが心配でした。
あともう一つの心配は、平成3部作はそれぞれが、「ウルトラマン」から「レオ」そして「80」、「メビウス」と連綿と続くウルトラ兄弟サーガには属さない作品であるということです。
それら独自の世界観を持つウルトラマンをウルトラ兄弟の物語に結びつけるということに、無理が生じないかということでした。
やはりティガ、ダイナ、ガイアはウルトラ兄弟ではないだろうと。

事前に抱いていた心配は作品を観始めて現実となりました。
平成ウルトラマンに思い入れがないのは自分に原因があるとしても、彼らをウルトラ兄弟サーガに取り込む手法というのがとても安易なものに感じました。
その手法は最近、使い古されていると言っていい、並行宇宙(パラレルワールド)という考え方です。
並行宇宙という考え方は便利な代物で、理論上は考えられる限りのすべての世界はあり得るというものです。
その考え方をとればウルトラ兄弟サーガと、平成ウルトラ3部作のウルトラマンがいっしょにいるという世界もあり得るのですが、そこには物語が求める必然性というものはあまりありません。
並行宇宙は昨年から放映されていた「ULTLASEVEN X」でも最終回に披露されていてげんなりした覚えがあります。
安易な並行宇宙という設定は、「夢オチ」と匹敵するぐらいに安易な気がします。
では何故、ティガなど世界観が異なるウルトラマンを、ウルトラ兄弟の物語に組み込まなくてはいけなくなったのでしょうか。
このあたりにとても「商売っ気」というのを感じてしまうのです。
一昨年の「ウルトラマンメビウス」は旧作ファンにも新しいファンにも受け入れられました。
それは過去のウルトラ兄弟サーガの設定を真正面から引き継ぎ、その集大成として作られたからです。
それはシリーズへの愛情がふんだんに注ぎ込まれた作品でありましたが、獏とした心配も持ちました。
ここまでシリーズをまとめあげてしまうと、その後に続く作品は作りにくいのではないかと。
「メビウス」でウルトラ兄弟シリーズは最終回を迎えた気がしたわけです。
「メビウス」は好評価を受けました。
だからこそ制作者は二匹目の泥鰌を狙ったのではないのかと思います。
でも大団円を迎えてしまったウルトラ兄弟サーガに続編は作りにくい。
そのため新味を出すための平成ウルトラマンの登場だったのでしょう。
それならば新しいウルトラマンをすべきだったと思います。
けれども悲しいかな、制作の円谷プロにはそれほどの力は今はないように思えます。
意欲的に新しい仮面ライダー像を造り続けている東映とは体力の差があるように見えます。
新味を出したいが、新しいものを作る余裕はない。
だからある程度当て込める平成ウルトラマンを登場させたのではないのでしょうか。
そのために物語は安易な設定で作られ、人気のあるキャラクターや怪獣を登場させるだけの話題性のみでの勝負する映画になってしまったような気がします。
映画としての見せ場も「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」で驚いたウルトラマンたちの空中戦を越えるほどのものも感じませんでした。
印象としては「メビウス&ウルトラ兄弟」の焼き直しのように思えてしまいました。

「ウルトラマン」というのは「仮面ライダー」と並んで日本が作り出した偉大なキャラクターだと思います。
けれどもキャラクターというのは常に新しい方向に進化していかない限りは、いずれ古くなります。
「仮面ライダー」や、海外の「スーパーマン」や「バットマン」が作品としての進化を志向しているのに対し、「ウルトラマン」というのは過去の遺産に頼りすぎている気がします。
昨年円谷プロは経営難からTYOに買収されました。
これは昔からのファンとしては寂しい思いもありますが、逆にこれをきっかけに「ウルトラマン」というシリーズを更に進化させていっていただきたいと思うわけです。
苦言を呈するようですが、進化しない限り、柳の下に二匹目の泥鰌はいないのです。

「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」の記事はこちら→

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2008年9月12日 (金)

「幸せの1ページ」 冒険とは何か?

人気冒険小説「アレックス・ローバー」の作者アレクサンドラ・ローバー(ジョディ・フォスター)は極度の対人恐怖症で潔癖性で引きこもり。
彼女が小説の取材をきっかけにメールをやり取りをするニム(アビゲイル・ブレスリン)は、物心ついた頃から父親と二人きりで無人島で暮らす少女です。
ある日、ニムの父親ジャック(ジェラルド・バトラー)は海に出たきり島に戻りませんでした。
ニムからのメールで彼女がひとりぼっちになってしまったアレクサンドラは、彼女を助けようと長年閉じこもっていた自分の部屋を飛び出し南の島へ旅立ちます。
無人島なのにメール届くの?ということは言いっこなし(笑)。
このお話はファンタジーなのですから。

冒険とはなんでしょう?
深いジャングルや大海原、古代の遺跡に行くことだけが冒険なのではないのですよね。
ずっと自分の部屋の中に引きこもっていたアレクサンドラからすれば、郵便受けに郵便を取りに行くことも、配達の人と会うことも彼女にとっては大冒険。
たぶん冒険というのは、いつもの自分の生き方やスタイルといったものを越えたことをやってみることなのでしょう。
そうすることによって今までの自分とは違う自分を発見することが冒険なんですよね。
でも自分の生き方と違ったことをするのは、実はとても勇気がいること。
部屋を出ることだけであってもそれをするには勇気が必要で、その勇気を出すことができたならばその人は冒険家なのですよね。
そういう意味ではアレクサンドラだけでなく、ニムも冒険家なのだと思います。
これは無人島に暮らしているとからではありません。
父親と二人だけの島というのは、ニムにとっては家のようなもの。
彼女にはとって、島は誰にも侵されたくない場所で、これはアレクサンドラにとってのアパートメントと同じ意味を持っています。
その島に知らない人間が訪れるというのは、今までの自分の生活を越えたことをするという意味では、やはり冒険なのです。
訪れたアレクサンドラを受け入れるということは、ニムにとってはたぶん勇気のいることだったに違いありません。
だからそれができたニムも、やはり冒険家なのです。
アレクサンドラも、ニムも、冒険をする勇気を持ったからこそ、今までとは違う自分を見つけることができ、そして幸せも得ることができました。
ほんの少しでも自分の生き方を変えてみようとする試みはどれも冒険であり、それが幸せを得るための最初の1ページとなるのかもしれません。

引きこもりの作家をジョディ・フォスターが活き活きと好演。
こういうコメディタッチの役も彼女は似合いますよね。
「フライトプラン」では縦横無尽に飛行機の中を駆け回っていた彼女が、本作では飛行機が大のニガテというのはちょっとおかしかったです。

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2008年9月 9日 (火)

「デトロイト・メタル・シティ(アニメ)」 こちらは「ハルク」か

映画「デトロイト・メタル・シティ」でクラウザーさんの魅力にすっかりはまり、アニメ版もレンタルで一気見してしまった・・・。

クラウザーさん、やっぱスゴいっす。
いきなりオープニングがカッコいいッす。
オープニングの「SATSUGAI」も映画と同じ曲なんですねー、びっくり。
エンディング「甘い恋人」も、劇中で使われるその他のDMCの曲も映画と一緒でした。
そのためか最近脳内で「甘い、甘い、甘い、甘〜い」とリフレインされて困ります・・・。

漫画原作は一話完結仕立てのようで、アニメ版も基本的にその構造に則っています。
アニメ版はなんていうか、独特のテンポですよね。
台詞の言い回しがわざと抑揚のない感じにしていて、淡々と根岸くんの日常が描かれていきます。
この淡々感が曲者です。
そんなことしたくない根岸くんの日常が、いつもなんだか知らないうちに結果的には異常な世界にどっぷりと浸かってしまう、この落差がなんともおかしい。
でもアニメと映画で違うのは、根岸くんの根本の性格でしょうか。
映画の方は、根岸くんは基本的にはクラウザーさんにはなりたくないという感じがします。
アニメの方は、根岸くんはなりたくはないのだけれど、いろいろなことで激情にかられクラウザーさんになってしまうとき(自分の曲がバカにされたときなど)があります。
映画のストーリーは前にオーソドックスなヒーローものの構造になっていると書きましたが、映画の根岸くん-クラウザーさんの関係が「スパイダーマン」的だとすれば、アニメの根岸くん-クラウザーさんの関係は「ハルク」的と言ってもいいかもしれません(笑)。
アニメの根岸くんはクラウザーさんになるのを自分では止められないんですよね。

映画でも楽しめたお気に入りのエピソードがアニメでも満載です。
相川さんとの待ち合わせとアルバムイベントを掛け持ちする話。
相川さんのデートを根岸くんがストーキングする話。
クラウザーさんが実家に降臨するというエピソード。
いやはやなんとも下品で楽しいです。
でもさすがに「資本主義の豚」さんは映画には出せないでしょうねえ。

アニメ版は相川さんの声を長澤まさみさんが演じていて、これまたびっくりです。
ええ、こんな下品なアニメに出ていいの?と思ってしまいましたが、ご本人はDMCが好きなんだとか。
これまた意外。
そうそう、実写版の松山ケンイチさんと加藤ローサさんもアニメにゲストで出演しています。
松山さんは、実写のクラウザーさんとも、根岸くんともまったく違う役。
ほんといろいろ演じられる方です。

映画、アニメと「DMC」を観たので、次は原作漫画にチャレンジ!
どんどんDMC信者になっていく自分がコワい・・・。

映画「デトロイト・メタル・シティ」の記事はこちら→

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2008年9月 7日 (日)

本 「功名が辻」

歴史小説も好きなのですが、実は歴史小説の大家司馬遼太郎作品は読んでいなかったんですよね。
今更ながらっていう感じがして、ずっと手に取れていなかったということなのかな。
そういうことで僕の初司馬遼太郎作品が「功名が辻」です。
二年前の大河ドラマの原作ですが、ドラマの方を観ていた時も読んでみようかなあと思っていたんですよね。
やっと読みました。
読んでいるときはやはり千代は仲間由紀恵さんのイメージになっちゃいますね。

千代という人物はやはり賢い人なんですよね。
いろいろ情勢を分析してその対応を考えている。
けれどもそれを声高に主張するのではなく、決める人(多くは伴侶の山内一豊)が判断できるようにやんわりと意見を言っていきます。
相手がそれを聞きやすいように上手に。
決断する人はいつの間にか、それは献策されたアイデアではなく自分の考えとして考えるようになるんですよね。
またその相手である一豊も実はなかなかそうはいないタイプの人物です。
一豊は戦国大名としては凡庸だと言われますが、決してそんなことはないような気がします。
確かに戦略家でもないし、武勇があるわけでもありません。
けれども自分が凡庸であると自覚し、人の意見を聞く(多くは千代の場合が多い)という姿勢を持っています。
これはできるようでなかなかできない。
最近流行の言葉で言えば「聞く力」を持っている人物と言えるかもしれません。
人の意見を聞けるトップと、彼に違った視点で物事を見て意見を言えるセカンド。
そして彼らを信頼する部下たち。
そういう点で、山内家というのは発展する可能性を持った組織だったのかもしれません。

NHK大河ドラマ「功名が辻」の記事はこちら→

「功名が辻(一)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-766315-5
「功名が辻(ニ)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-766316-3
「功名が辻(三)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-766317-1
「功名が辻(四)」司馬遼太郎著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-766318-X

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「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」 市原隼人というキャラクター

あんまり話題になっていなかったような気がする本作品、結局劇場では見逃したのですが、DVDがレンタル開始されたので借りてきました。
自宅でお気楽な気分で観たせいか、思いのほか楽しめました。
ママチャリを始めとした悪童たちと駐在さんとのいたずら合戦は、しょーもないと言えばしょーもないものばかりなのですが、そのしょーもなさが楽しかったです。
悪童たちの敵役となる駐在さんの佐々木蔵之介さんもいい感じでした。

さて今日は主演の市原隼人さんの話を。
市原さんは最近主演が多く、それらの役は本作のようなタイプのものが多いですよね。
僕が観た作品であげると・・・。

 「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」
 「神様のパズル」
 「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」(本作)

共通しているキャラクターの性格づけは、周囲の大人からすると、なんだかあんまり将来のことなど考えずにちゃらんぽらんに生活しているように見えるということ。
でも熱いエネルギーを注ぎ込めるものは持っている(もしくはもとうとしている)ということ。
あんまり今風ではない感じがするということ。
けっこう共通点があります(あと、この3作品とも市原さんの役のモノローグがあるですよね)。
市原さんは演技は達者とも言いがたく、松山ケンイチさんのように役に合わせて変化するタイプではない感じがしますので、そういう役しかできないタイプ(織田裕二さんタイプとでも言いましょうか)の役者さんかもしれません。
とはいえ、立て続けに主演をしているわけなので(そして特別にイケメンでもない)、何か制作者を魅了するものがあるはずです。
それは何でしょうか。
それは上にもちょっと書いたのですが、彼自身が持っている今風ではないところではないかなと思います。
本作などは如実に出ているのですが、昭和の時代の高校生みたいな感じといいましょうか。
今の高校生・大学生を含めた子供たちというのは、とてもしっかりものを考えている感じがします。
特に将来についてとか。
受験の二、三年前から受験準備ですし、大学生も2年生の終わりになったら就職活動に勤しんでいます。
これは将来について考えているというわけでもないのかもしれませんが。
というよりも将来に追われているような感じすら受けるわけです。
僕が学生の頃は受験勉強は3年生になってからでしたし(それも夏休み頃から)、そして現役合格など鼻から無理だと思ってました。
親にはいい迷惑だったと思いますが、それなりに学生の時は勉強以外にもいろいろやったりして。
70〜80年代というのは時代としてゆとりがあったのかもしれませんが。
でも今の子供たちというのはそういうのがないまま、将来に追われている。
映画の中で描かれるのは、現実にはないファンタジーであることが多かったりします。
今風ではなく、しょーもないことに一生懸命になれる役がぴったりの市原隼人さんが主演を多くやる作品が多いということは、とりもなおさずそういうタイプの子供たち(役者でも)が減ってきているということなのかもしれません。
なのでそういうタイプの青年を描こうとしたとき、市原隼人さんしか選べないということなのかもしれませんね。

市原隼人さん主演「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」の記事はこちら→
市原隼人さん主演「神様のパズル」の記事はこちら→

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本 「発想法 -創造性開発のために-」

著者の川喜田二郎氏はKJ法の発案者です。
KJ法というのは川喜田氏が本業である民俗学のフィールドワークを通じて作り上げた情報の整理の仕方とそれに基づく発想法です。
最近のグループワークなどの方法論は元々はKJ法などをベースに開発されているような気もします。
この著書ではKJ法のテクニックというよりは、その方法を通じて人がどのようにものを考えるかということをまとめています。
本著は初版が1967年(僕が生まれる前!)ですから、古典といってもいいかもしれませんが、この考え方はまだまだ使えます。
僕は会社に入って数年くらいの時にKJ法の研修を受けましたが、そのときの印象は目からウロコといった感じがしました。
僕の仕事はデザインですが、デザイン系の人間はどちらかというと感覚的に決めてしまったり、逆に事務方の人間は理屈っぽく説明をもとめたりということがあり、どうもそのあたりのデザインの課題の出し方、コンセプトの作り方の方法論を求めていたところでもありました。
そのときにKJ法を知って、一度体験してみたら自分の求めていたような方法であることがわかりました。
このメソッドはまずは知り得る情報を小さな単位に切り分け、それらを近しいもので感覚的にまとめてタイトルをつけ、そしてその分類をさらに近しいものをまとめという繰り返しを行います。
これらの作業によって空間的な図のようなものが出来上がります。
この感覚的にまとめあげたあとに、なぜこれらを同じくくりにしたのかということを考えます。
そしてそれを説明するために簡単な文章にまとめてみます。
矛盾点があれば図に戻り、また文章に戻りといった作業をします。
そうすると今まで見えなかった思考の流れみたいな何かがあります。
それが課題であったり、物事の本質だったりするわけです。
KJ法はグループワークでも使えますし、僕はときおり一人でも簡単にやります。
本著ではその単位とまとめあげの道具として、分類をするために小さな紙片とのりを用意と書いてありますが、最近であればポストイットなどの付箋紙を使ったりするのが便利でしょう。
あとコンピューターを使ってエクセルなどでテキストボックスなどを使ってやることもできます。
文章にまとめあげる作業は普通にワープロソフトでもいいですが、パワーポイントなどのプレゼンツールなども有効だと思います。
この方法は物事を俯瞰的に空間的に眺める視点(個々の情報の関係性を見る視点)、そしてそれを論理立てて繋げていく視点というのを何度も繰り返します。
会社の仕事だといきなり企画書や説明資料を作るのはなかなか難しい。
これはある流れを作らなくてはいけないからです。
簡単な内容であれば問題なくできるかと思いますが、複雑であればあるほどこれは難しい。
文章ははじまりがあって終わりがあるリニアな構造ですが、人間の思考というのはリニアであるかというとそういうものではありません。
KJ法の作業で分かるように基本的にはそれは図的なノンリニアなものであるわけです。
ただこれをノンリニアなまま人に説明するのは難しいため、リニアな構造に整理するのです。
これはベテランであれば無意識的に慣れでできるかもしれませんが、KJ法のようなものを身につけているとそれが容易になります。
これは仕事以外のところにも活かせる技術だと思います。
こちらのブログの記事なども難しいテーマで自分が感じたものをうまく文章に書けないときは、簡単にノートに図で書いてみたりします。
そうするとなんとなく自分の思考みたいなものがわかってくるのですよね。
企画などどのようにやっていいかよくわからないと思っている方、この本を読んで、KJ法を一度試してみるのをお薦めいたします。

「発想法 -創造性開発のために-」川喜田二郎著 中央公論 新書 ISBN4-12-100136-2

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2008年9月 6日 (土)

「落語娘」 真打ちには及ばない

昨年あたりから「しゃべれども しゃべれども」とか「やじきた道中 てれすこ」とか落語を題材にしている映画が多いですね。
落語といえば、笑いとそして人情味。
冒頭にあげた二作品もそういうテイストを持っていましたが、本作はそれに加えてミステリーの要素も入っているのがユニークなところです。
ミステリーの作品では、しばしばホームズとワトソンなどのように二人組が登場します。
本作では主人公香須美(ミムラさん)とその師匠三々亭平佐(津川雅彦さん)が、そういう役回りになります。
ミステリーの二人組というのは対照的なキャラクターであることが多いですが、これは謎をまるで違った視点で観ることにより真相が明らかになっていくという醍醐味を出すためでしょう。
本作も若いしっかりとした勝ち気な女性の香須美、老齢でちゃらんぽらんな老爺の平佐とまさに対照的な設定。
ミステリーの部分もさることながら、この師匠と弟子の関係とやりとりは落語本来の笑いと人情を出すことにも繋がっているかと思います。

と設定自体はしっかりとされている感じはしますが、笑いと人情とミステリーという三兎を追っている本作はどれも追いきれていない印象が残りました。
笑いとしては劇中で披露される落語の古典(寿限夢とか)でとれますが、映画本体として笑いが多かったかというとさほどではないような気がします。
人情という点でも師匠と弟子の関係で感じなくもないですが、「しゃべれども しゃべれども」ほどではありません。
この作品のユニークな点としてあげられるミステリーとしての盛り上がりもややもの足りなかった印象です。
ミステリーのオチ自体は悪い出来ではないと思います。
なるほど、と手を打ちたくなるオチだったのではないでしょうか。
ミステリーというのは、謎が解くことは不可能そうだと観ている者に思わせて、それが解決してしまうということに醍醐味があるかと思います。
本作はその深い謎というのがいまいちその深刻度が伝わりきれていない。
封印された落語のネタを披露するとその噺家は死んでしまう設定をもっと深刻に、というより観客にリアリティがあるように伝えなければラストのカタルシスは得にくいと思います。
つまり平佐がその落語をやらないわけにはいけなくなるという強い動機、そしてそれにより死んでしまうかもしれないと思わせるリアリティが必要なのです。
そしてそれがしっかりと組み上げられていればいるほど人情話としても、もっとほろりとした気持ちにさせられたはずです。
そのあたりの切迫さがやや薄かったように思います。
そのためラストでのヤラレタ感も薄くなってしまったように感じました。
繰り返しになりますが、ミステリーのアイデアとしてはおもしろいと思います。
落語というのは最後のオチのひとことが効きます。
それを効かすにはそれまでの組み立てが大事であり、それが噺家の力なのだと思います。
そういう意味では本作、真打ちには及ばなかったような気がします。

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