「バットマン(1989)」 ジョーカー論
昨日観た「ダークナイト」のヒース・レジャーの演じるジョーカーに衝撃を受けたので、ジャック・ニコルソン版ジョーカーが登場する「バットマン」を観直してみました。
ティム・バートン監督の「バットマン」は1989年製作なんですよね。
もう20年近くも経ったんですね。
最近はアメコミヒーローの映画は毎年何本も作られるようになっていますが、あの頃はほとんどなかったように思います。
アメリカでも日本でもヒーローものというのは、子供向けという印象があったからでしょうか。
今では大人の観賞に耐えうるヒーローものというのが、続々と作られていますが、時代も変わりました。
大人でも楽しめるヒーローものがありうると示したのが、ティム・バートンの「バットマン」だったように思えます(1987年の「ロボコップ」もそうだと言えるかもしれないですけれど)。
それまでのヒーローものの映画というのは「スーパーマン」に代表されるように基本的に陽性で物語でした。
けれども「バットマン」に登場するバットマン=ブルース・ウェインは、明らかに陽性ではありません。
マイケル・キートンのヒーローっぽくない容姿によるところもあるかもしれませんが、過去のトラウマを背負い、悪を制裁せずにはおられないバットマンというヒーローの設定は初めて観た時に驚いた記憶があります。
ヒーローが人間的な弱さを持っているというのはとても斬新でした。
バットマンから昨今の「悩めるヒーロー」の系譜に繋がっていくのは言うまでもありません。
さてジョーカーの話です。
「バットマン」では上に書いたように、当時として新しいヒーロー像を提示したという点で驚きがありましたが、もう一点の驚きはやはりジャック・ニコルソンが作った破天荒なジョーカーというキャラクターにあるでしょう。
終止、芝居がかった行動をとり、冗談めいた言葉ばかりを吐くジョーカー。
ジャック・ニコルソンの振り切った演技と相まって、常識では捉えられないキャラクターとなっています。
彼の行動は、善や悪といった枠外にあるように見えます。
自分が楽しけりゃ、正しかろうと間違っていようとなんでもいいというような。
そういう善悪とは違ったところで行動する不条理な相手というはつかみ所がありません。
やや無機質なアールデコ調のゴッサム・シティの街並、夜のシーンが多いこの作品の中で、ジョーカーだけはケバケバしく異彩を放っています。
陰鬱としたゴッサム・シティのなかで、ジョーカーだけが色のある存在、陽の存在にも見えます。
それまでのヒーローとは異なった陰のバットマンに対し、陽のジョーカー。
陰陽がそれまでのヒーローと逆転しているのが、新しかったのかもしれません。
ジョーカーというのはトランプでは「何でもあり」の力を持つカード。
他のカードを縛るルールには捉えられないカードです。
バットマンという作品群の中に登場するジョーカーも、とらえどころのない何を考えているかわからないキャラクターとして描かれています。
「バットマン」のジョーカーと、「ダークナイト」のジョーカーも何を考えているのかわからないという点は共通しているように思えます。
けれどもそれぞれから受ける印象はまったく異なります。
ジャック・ニコルソンのジョーカーは善悪を超越した別次元の存在としてとらえどころがありません。
ヒース・レジャーのジョーカーは悪を越えた言わば超悪として想像できないところにいっている。
陽のジョーカーと陰のジョーカーとも言えるかもしれません。
「バットマン」のジョーカーはとても印象的で強烈なキャラクターでした。
それでもあえてジョーカーを新作「ダークナイト」に登場させるというのは、スタッフにはなみなみならぬ覚悟があったと思います。
けれどもそれは成功しました。
「ダークナイト」で新しいジョーカー像を造った、クリストファー・ノーラン監督と演じたヒース・レジャーに敬意を表したいです。
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