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2008年8月31日 (日)

「20世紀少年」 原作漫画を見事に映像化

原作漫画の作者浦沢直樹さんは大好きな作家さんです。
かなり前から(「パイナップル・アーミー」の頃)単行本が出るのを楽しみにして待っています。
その浦沢さんの作品の中でも、最も映画化しにくいだろうなと思っていたのがこの「20世紀少年」。
いや作品としては映画向きの話だと思うんですよね。
ただこれをきちんと映像化できるのかがどうかちょっと不安でありました。
不安な点は3つでした。
1つは長い長い原作を映画としてきちんと脚本に落し込めるかという点。
最近の浦沢作品の傾向としては、チャプターごとに時間軸や中心となる登場人物が変化するのですよね。
それが作品に深みを与えているのですが、これを映画でやろうとすると何かを省略したり、また話の流れをもう少しきれいにしたりしなくてはいけません。
2つめは映像のスケール感。
この作品は人類は世界の終わりのような経験をするわけですが、それをしっかりとクオリティの高い映像にできるかという不安です。
もともとの漫画がかなり映画的な構成になっているので、半端な特撮やCGで作られてしまったら興ざめしてしまいます。
最後にして最大の不安はキャストでした。
原作にはかなりの人数の登場人物がでてきます。
主人公ケンヂだけでなく彼らはそれぞれに作品の中で役割を持ち、重要な役を担っています。
またこれだけの作品となると漫画のキャラクターのイメージも強い。
それぞれ重要な役に見合ったハイクラスのキャスティング、そしてこれは原作のイメージを壊してはいけないという条件が重なるわけで、かなり苦労するのではないかと思いました。

映画を観てみて、それらの不安はかなりの部分で杞憂だったと思いました。
まず1点目の不安については、映画化作品を3部構成にしたということでかなり救われたと思います。
もともとの原作もほぼ3部のような構成になっていますから、その流れを踏襲できます。
また映画の脚本には原作者の浦沢直樹さんも参加しているのですね。
ですので、大きな物語の流れやキャラクターの個性などといったところはほぼ原作どおりのイメージを保てたと思います。
2つ目の不安点も問題なし。
最後の12/31のクライマックスがどうなるかと思いましたが、これまた原作のイメージをそのまま映画にしたような感じがしました。
暗闇に沈む東京の街を破壊していく謎のロボット。
原作でもその姿ははっきりとは描かれず、それだけに不気味な感じがでていたと思いますが、その感じがそのまま映画になっていました。
そして3つ目の不安点、キャスティング。
これは予想以上ではないでしょうか。
実は制作状況の発表の中でキャスティングが明らかになったとき、僕はこの映画は原作を大切にしているなと感じました。
それだけ原作のキャラクターのイメージを活かしたキャスティングをしています。
だいたい一人くらいはなんだか違うという配役があったりするものですが、そういうキャラクターはひとりもいませんでした。
ケンヂの唐沢寿明さん、オッチョの豊川悦司さん、ユキジの常磐貴子さん、ヨシツネの香川照之さん、マルオの石橋英彦さん、モンちゃんの宇梶剛士さん、ケロヨンの宮迫博之さん、ドンキーの生瀬勝久さん、フクベエの佐々木蔵之介さん・・・。
錚々たるメンバーです。
まったく原作と違和感ありません。
すごいキャスティングです。
中でも一番原作イメージとぴったりだったのは、万丈目の石橋蓮司さんでしょうか。
「ともだち」の右腕とも言える万丈目の怪しさがたっぷり出ていました。
あとヤン坊、マー坊の佐野史郎さんもなかなかでした(二人の子供時代の子役のキャスティングもイメージぴったり)。
1作目でそれほど活躍しないメンバー(ヨシツネとかマルオとかケロヨンとか・・・)も第2章では見せ場ありますから、それを見越した豪華なキャスティングです。
そういえば、ユキジの子供時代の役で「電王」に出ていて松元環季ちゃんがでていましたね。
また男の子を蹴ったり投げたりする役です(笑)。

監督は堤幸彦さん。
本作はどちらかというと堤ワールドというのを押さえた作りになっていると思います。
いかに原作のイメージを映像化するかということにこだわって作ったように感じました。
堤監督は、いろいろな作品をとれる懐の深い方ですからできるのかもしれません。
堤テイストは薄いですが、でも堤監督だからできる作品だと言えるのでしょう。

「20世紀少年 -第2章- 最後の希望」の記事はこちら→
「20世紀少年 -最終章- ぼくらの旗」の記事はこちら→

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2008年8月30日 (土)

本 「DIVE!!」

今年映画化された「ダイブ!!」は期待以上に爽やかな青春スポーツドラマとして仕上がっていました。
お気に入りの映画のひとつになったのですが、原作の小説も読んでみました。

小説もかなりおもしろかったです。
そういえば青春スポーツ漫画というジャンルはあるけれど、青春スポーツ小説というのは思いのほか少ないような気がします。
若者の、スポーツマンの活き活きとした動きというのはやはり絵や映像の方が伝えやすいからでしょうか。
けれど森絵都さんのこちらの作品は、文字でありながら知季、飛沫、要一といった主人公ダイバーたちを活写します。
先に映画を観たからというのもあるとは思いますが、文章を読みながらも映像が浮かんでくるようです。
映画では知季を主人公とした構成になっていましたが、小説は4部構成で、1部が知季視点、2部が飛沫視点、3部が要一視点、そして4部が彼らがオリンピック出場をかける大会を描くという構成になっています。
飛び込み競技の大会は10回のジャンプでの得点を競うということですが、4部はそれをジャンプの回数に合わせ10章構成にし、それぞれの章を登場人物の一人称で描くという凝った構成になっています。
巻末の解説を読むと、この構成は元々予定していたわけではないらしいですが、とても洒落ています。
こういう構成がとれるのも小説ならではですね。
逆にこういう構成をとっている原作小説を、知季中心の客観視点にした映画化作品のほうは、映画という表現方法の特性をしっかりわかって作っている感じがします。
知季を主人公にしているわけで、飛沫や要一の心情については小説ほど深堀できていないのは確かですが、でもそれでも十二分に伝わってきました。
表現方法は違えども、作品を通して伝わってくる彼らの想いは小説も映画も変わらない。
映画は小説のエッセンスをとても上手く表現しているようにあらためて思いました。
同じテーマでありながら、文章と映像という異なる表現方法でどのようにすれば同じことを伝えることができるかというのが、「DIVE!!」の小説と映画化作品を読み、観ることによってわかるような気がします。

「DIVE!!<上>」森絵都著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-379103-3
「DIVE!!<下>」森絵都著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-379104-0

映画「ダイブ!!」の記事はこちら→
森絵都さん作品「カラフル」の記事はこちら→
森絵都さん作品「リズム」の記事はこちら→
森絵都さん作品「いつかパラソルの下で」の記事はこちら→

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「ハンコック」 気になる分断感

ヒーローものはコミック原作が多い中で、完全映画オリジナルのヒーローというのは珍しいですね。
嫌われ者のヒーローというのも、なんだか新鮮でした。
ハンコックは嫌われ者と言っても悪人ではなく、口が悪い乱暴者というか鼻つまみ者といった感じですね。
根っからの悪人ではないけれど鼻つまみ者のヒーローにウィル・スミスは敵役だったと思います。
物語は予告から予想される通りの展開で進みます。
ハンコックは人とは異なるスーパーパワーも持っていて、それを人助けに使っていますが、どうも性格や行動が乱暴なためにせっかく助けた市民からも嫌われています。
そんな中、ハンコックが出会ったPRマンのレイは彼をみんなに愛されるヒーローにしようと活動をします。
市民への謝罪、自ら率先しての服役、そしてヒーローにふさわしい行動を通じて、次第にハンコックは市民の信頼を勝ち得ていきます。
そしてハンコック自身も、人々が自分に期待しているということ、自分が必要とされていることを自覚することによって、世の中を斜に構えて見ていた態度が改まっていきます。
と、ここまでがテンポよく、というよりサクサクとストーリーが進んでいきます。
これらは予告でほとんど言っているような話なので驚きはなかったのですが、その中でレイとの友情などがもうすこししっかりと描かれると思っていたら、思いのほか淡白でした。
ここまででが上映時間の半分くらいだったと思います。
このあとどうするの?と思ってしまいました。

<ネタばれあり>

ここからストーリーは違う展開を見せ始めます。
レイの妻メアリーは、ハンコックをレイが連れてきてからずっとよそよそしい態度をとっていました。
何かメアリーはハンコックのことを知っていて、二人の間の秘密を隠しているようです。
実はメアリーも、ハンコックと同じようなスーパーパワーの持ち主でかつてはハンコックの妻であったこともあったのです。
これは驚きの展開ではあるのですが、このあたりもサクサクと新たな事実を明らかにしていきます。
最近、僕は「LOST」とか「HEROES」などといったアメリカンドラマをよく見るようになって、謎をひっぱって、ひっぱって、ひっぱりまくる展開に慣れていたせいか、このあたりの謎をすんなりと明らかにしていくのは、ややもの足りないと言えばもの足りない感じがしました。

ハンコックとメアリーの二人はお互いが近くにいて気持ちが通じ合えていると、お互いのスーパーパワーが無くなっていってしまうという関係にあるようです。
ヒーローもののヒーローというのは、完全無欠の強さを持っているとそれゆえにドラマが成立しません。
なにかしらの制約や弱点があってそれを観る側が知っているから、ハラハラするのです。
(ウルトラマンが3分しか戦えないとか、スーパーマンはクリプトナイトに弱いとか)
ハンコックにおいては、人生の伴侶というべき相手と一緒にいるとパワーがなくなっていくというのが、この制約になると思います。
この設定はおもしろい。
これだけでもドラマが十分作れそう。
でもこのあたりもハンコックとメアリーの関係、感情にあまり踏み込んでいくこともなく、あっさりと物語は展開していきます。

総じて「ハンコック」という作品は、オリジナルなアイデアが詰め込まれている新しいヒーローものだと思いますが、そのアイデアを駆け足でみせていくために、なにか活かしきれていないような気がします。
特に構造として、前半の嫌われ者のヒーローが真のヒーローに更生するというアイデア、後半の生涯の伴侶と一緒にいるとパワーがなくなってしまうというアイデアが、どうもうまくリンケージしていなかったような気がします。
それぞれのアイデアで別の物語が作れるのではないかと思ったりもしました。
そういう分断感があるため、レイは後半ではほとんど存在感がなくなってしまうという気の毒なキャラクターになってしまいました。

原作ものばかりでオリジナリティがなくなってきていると言われて久しいハリウッド映画において、映画オリジナルの新しいヒーローを作ろうとした意気は感じます。
おもしろくなかったわけではなく、普通に楽しめます。
けれどアイデアがやや消化不良だった感じも否めません。
もうすこし脚本を練り上げれれば、もっとおもしろい作品になったような気がします。

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2008年8月29日 (金)

「イントゥ・ザ・ワイルド」 同世代だから感じる苛立ち

1968年生まれ。
エンドロール前に実話を元にしたこの作品の主人公クリス・マッカンドレスのプロフィールが表れ、この作品を観ている間に感じていた自分のもやもやが氷解しました。
彼は、自分と同じ年に生まれていました。

この作品を観ている間ずっと、主人公クリスになぜかずっと共感できずにもやもやとしていました。
もやもやというより、イライラとしていたかもしれません。
なぜか落ち着かなかったのです。
クリスは大学を卒業後、家族に何も告げずに失踪します。
彼はずっと互いに仲の悪い両親に怒りを感じ、また自分たち兄妹の出生の秘密を知り苛立っていました。
彼は両親を通じて人間というものに幻滅を感じていたのかもしれません。
また恵まれた環境を捨て、親とは無関係の一個の人間として生きていけると証明したかったのかもしれません。
普通なら、映画を観て僕は主人公クリスに共感してしまいそうなところなのですが、それはなかったのです。
どちらかというと感じたのは苛立ちでした。
劇中で誰か登場人物が言っていたと思いますが、僕が彼に感じたのは、頭でっかちな理想主義であり、若者特有の無鉄砲さです。
学生運動世代やヒッピー世代の方なら共感できたのかもしれません。
登場人物たちが彼の生き方を認めているところにもなにか違和感を感じたりもしました。
両親の行いが褒められたものでないにしても、彼が行った仕打ちというのもいかがなものかという感じも受けました。
ただ僕には、彼の行動は後先考えない暴走にも見えたのです。

けれど最初に書いた通り、彼の生まれた年を知り、観ていた時に感じたイライラの理由がわかりました。
彼は自分とまったく同じ世代で、僕は彼の生き方に嫉妬したのだと思います。
彼が旅立ったのは1990年、そして亡くなったのは1992年。
僕が社会人になったのは1991年ですから、ほんとに同じ年齢。
大学を卒業し、普通に会社に就職して働きだしました。
そういうことにそれほど疑問を持ったことはありませんでした。
ちょうど会社入ってすぐくらいに沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読んだことがあります。
ご存知の通り、こちらは沢木さん自身がバックパッカーとしてアジアからヨーロッパまで旅をしたときのことを綴った作品です。
何も決めず、何も背負わない旅というものに、やはり読んでいるときは憧れました。
ただ自分が実際にそんなことができるかというと、そういう勇気はありません。
日々の仕事やいろんなこともおもしろかったりするわけで、そういうものも捨て去ることもできません。
なにもかも捨てて旅立つという生き方が良いかというと、今でもそれは良い生き方ではないだろうと思います。
それは本人は自由だと言いながら、そして周りの人は自由な生き方で憧れると言いながらも、なにかそこには偽善というか、かっこつけみたいな臭いを感じてしまうのです。
でもそういう生き方は否定しません。
ただそういう生き方もあるのだとも思うだけです。
多少の憧れも含めて。
たぶん僕が映画を観ながらイライラとしていたのは、同世代でありながら、かくも自由にしがらみを捨て去ることができたということに対する妬みみたいなものがあったのでしょう。
自由な生き方というよりも、そういう生き方を選べた自由な考え方に、と言いましょうか。
上手く表現できないですが。
決して僕自分が選ぶことができない生き方を選べた、同世代の彼の考え方に嫉妬したのだろうと思います。

主演のエミール・ハーシュ、ほおひげをはやしている時、ジャック・ブラックを思い浮かべてしまいました。
似てません?

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2008年8月27日 (水)

「スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ」 「スター・ウォーズ」廉価版

テレビゲームに出てくるようなキャラデザインがあまり気に入らなかったため、観に行こうかどうしようか迷いました。
でも「スター・ウォーズ」で映画やSFへの興味をもった自分としては、やはり行かねばと思い直して、観に行ってきました。

んー、やはり微妙・・・。
やはり一つはキャラクターデザインでしょうか。
「スター・ウォーズ」世界に登場してくる異星人、ドルイドなどはまったく問題なし。
最近のシリーズでもほとんどCGで描かれているので、違和感はありません。
でも実写では俳優が演じている人間は、本作ではデザインのカリカチュア具合がとても微妙。
昔のアメリカのアニメを3Dにしたような感じという印象を受けましたが、これがとても安っぽい。
またプレステ1くらいの時代のテレビゲームのような単純にテクスチャをマッピングしただけの表現もいただけない。
最近のピクサーやドリームワークスの3DアニメはCGとはいいながらも、その動きやテクスチャについては驚くべき表現の幅を手に入れていますが、そういうのを見慣れてしまっているためか、今回の「ウローン・ウォーズ」は10年くらい前の3Dアニメを観ているような気がしてしまいました。
映画表現の最先端を走っていたはずのルーカス・フィルムがこれでは、悲しい・・・。

ストーリーとしても、派手な戦闘シーンが多いのは見応えがあるのだけれども、それだけではややつらい。
もともと「スター・ウォーズ」にキャラクターの深堀りを期待しても仕方がないのですが、それにしてもあまりに人物が描けていないのではないでしょうか。
キャラクターとして中心になるのは、アナキンと彼のパダワンとなるアソーカの関係ですが、彼ら師弟の関係が次第に信頼感が深まっていく過程をもう少しきちんと描いてほしかったところです。

その他にも不満点が・・・。
実写と同じキャラクターを登場させるなら、やはり声は同じにして欲しかったですね。
クリストファー・リーやサミュエル・L・ジャクソンは声の出演していましたが、主役系が声が違うのはどうも・・・。
音楽もジョン・ウィリアムズじゃなかったんですねー。
「スター・ウォーズ」のテーマは使っていますが、なんだか全体的に軽めにアレンジされていて、これもイメージが違いました。

映像にしても、ストーリーにしても、俳優、音楽、様々な面で、「クローン・ウォーズ」は「スター・ウォーズ」本篇の廉価版的な印象を受けました。
オリジナルの劣化コピーみたいな感じです。
まさにクローン・・・。
こういう作品作っている時間あるなら、エピソード7を作って欲しい・・・。

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2008年8月24日 (日)

「団塊ボーイズ」 思い切ってやってみる

ウディ、ダグ、ボビー、ダドリーの四人の男は、それぞれに人生に煮詰まっていました。
毎日が淡々と過ぎていくけれど、これは若い時に思い描いていた人生となんだか違うのではないか、と。
人生はもっとワイルドで、自由だったはず・・・。
人は生きているといろんなしがらみに段々と絡みとられていってしまうもの。
いい年をした男性ならば、四人の男のいずれかに自分の人生と同じようなものを感じてしまうかもしれません。

僕自身は自由気侭な独り身なので、ダドリーが一番近いのかもしれません。
なので、しがらみみたいなものは少ない方ですが、昔よりもやはりなんだか活動的ではなくなってしまっているような気もします。
そういえば昔は夏になると、4WDの車にテントやらなにやらキャンプ道具を積み込んで、行く先を決めることなく旅行したりしていましたねー。
住んでいるところは関東なのですが、四国までフェリーで行って四万十川などに行ったりしました(それも三度も)。
とりあえず行けるところまで行って、テントを張れるところを探して、そこで野宿。
寂れたキャンプ場や河原や海岸など・・・。
ややシーズンを外していっていたので、キャンプをしていても周りには誰もいません。
真っ暗なところに一人だけ。
寂しかったり怖かったりもするのですが、これはこれでなんだかワクワクするような気持ちになったことを覚えてます。
それこそ、ワイルドでフリーな感じ。
ある頃からこういうことをやることがなくなっていたのですが、この映画を観て、ふとそんなことを思い出しました。
今年の夏もずっと仕事が忙しく、カレンダー通りに出勤してました。
うちの会社はお盆などに決められた夏休みがなく、各自が自由に休みを取るんです。
なのでさっさと取らないと、ずるずると秋まで休まないままになんてこともあったりします。
先日やっと二日ほど休みを取ったのですが、なんだか空気は涼しくなっていてすっかり秋の気配・・・。
今年の夏は何をやっていたんだ・・・とやや後悔の気持ちを持ったりして。
そんな時にこの映画を観たので、仕事が忙しいからといろんなことを後回しにしてしまうと、いつか後悔してしまうかもしれないなあと思ったりしました。
年齢を重ねていくと、しがらみが増えるだけでなく、自分自身もだんだんと普段の生活パターンから飛び出すことが億劫になってきてしまうのかもしれません。
登場人物4人もウディの離婚がなければ、ずっとそのままだったかもしれません。
後悔しないために動けるかどうかは、たぶん自分の思い切り次第。
ああいうことしたいなあと思い描くだけではなく、思い切ってやってみる。
そうすることが後悔しないことに繋がるんでしょうね。
僕も今年のうちに何かをやろうと考えることにしました。

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2008年8月23日 (土)

本 「エモーショナル・デザイン」

僕はデザインに関係する仕事をずっとやってきましたが、経験的にデザインをするということについてだんだんとわかってきたことがあります。
今はその経験知を使って日々仕事をしていますが、こちらの本にそのあたりのことが整理してまとめてありました。
著者はデザインを
 ・本能レベルのデザイン
 ・行動レベルのデザイン
 ・内省レベルのデザイン
と分類しています。
良いデザインというのはこれらのバランスがうまくとられているというわけです。

本能レベルのデザインというのは、美しいと思ってもらったり、買ってみたいと思ってもらえるような魅力的なデザインということです。
そんなのあたりまえじゃないかというかもしれません。
デザインって美しいものじゃないの?と。
でもマスプロダクトではそうはいかないのです。
会社などでデザインを決めようとするとき、本能レベルのデザインというのを通すのはとても骨が折れるのです。
会社にはいろいろな人がいます。
デザインというのも、会議などで最終的には決まるわけでいろいろな人の意見を聞くうちにどんどんカドがとれて(いわゆる丸くなって)つまらないものになってしまうことがあります。
理屈抜きにこれが美しいじゃないかと言ったとしても、それはなかなか通りにくいのですよね。

行動レベルのデザインというのは、いわゆる使い勝手がいいデザインということです。
本能レベルのデザインで美しいものというのは、時折とても使いにくいものだったりもします。
飾っておくにはいいかもしれませんが、日常使いには向かないものというものがあります。
美しいからいいじゃないかというわけにはいきません。
でもこれはテストなどにより、何がよくないかを明らかにすることはしやすい。
それらの結果などにより、ある意味説明しやすいといえるかもしれません。

内省レベルのデザインというのは、デザインが製品にまつわる物語、コンセプトというものを語れるかということです。
いわゆるブランド価値をデザインが持つということです。
これをデザインで表現するには、とてもコンセプチュアルな作業が事前に必要になります。

これら3つのデザインレベルというのを、デザインするときにはうまくバランスをとってあげなくてはいけない。
特に日常使いの製品は。
技術者系の設計者というのは、比較的行動レベルのデザインを重視しがち。
逆にアーティスト系のデザイナーというのは本能レベルのデザインに重きを置くことが多い。
著者はどちらかというと技術者系のようですね。
著者はずっと行動レベル、内省レベルのデザインというのを重視してきたようですが、この本を書く前あたりから本能レベルのデザインの重要性に気づいたというようなことらしいです。
だから「エモーショナル・デザイン」というタイトルがついたのでしょう。
マスプロダクトというのは得てして行動レベルのデザイン、そしてそれ以外の要素(コストとか)に偏りがちです。
けれどもだれでもより美しかったり、楽しそうだったり、おいしそうだったりするものの方がいいに違いないのです。
それらのデザインレベルを上手くバランスとれるかというのが、デザイン・ディレクターの腕の見せ所と言えるでしょう。
こういうことを確認できた本でした。

「エモーショナル・デザイン」ドナルド・A・ノーマン著 新曜社 ハードカバー ISBN4-7885-0921-0

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「デトロイト・メタル・シティ」 メタルヒーロー

クラウザーさん、存在感がスゴいっす。

「デスノート」の”L”で漫画のキャラクターをイメージそのままに、血が通う人間として演じきった松山ケンイチさん、今回もすばらしい!!!
”L”以上に漫画的なキャラ、ヨハン・クラウザーⅡ世(以下クラウザーさん)を、見事にスクリーンに降臨させました。
松山さんというのは、なんだかキャラクターが憑依してきたかのような演技をしますよね。
演じているのではなく、そのキャラクターそのものに松山さんが変わってしまったかのように見えます。
この映画では崇一と、崇一が演じているクラウザーさんの二役をやっているようなものですよね。
崇一はお洒落系のポップミュージックアーティストを目指しているわけですが、これがクネクネっとしてややキモい。
(「舞妓Haaaan!!!」の阿部サダヲさんを思い出しました。あのナヨナヨ走りはどっちが早い!?)
クラウザーさんは、某閣下を彷彿とさせるキャラクターで、まるで本当に悪魔が出現したかのような迫力。
クラウザーさんの時は声質も変えていて、これは同じ人に見えないです。
この松山さんが演じている二つのキャラクターの落差だけでも十分楽しめます。

基本的には、崇一がクラウザーさんというもう一人の自分との間でドタバタしてしまうことによるおかしさ、周りのクセのあるキャラクターたちとの絡みで笑わせてくれるギャグの映画なのですが、よく考えてみると、この映画は典型的なヒーローもののお話ともいえます。

 ある日、普通の青年が、意図せずにヒーローになる力を手に入れてしまう。
 ヒーローは皆の夢を叶え、賛辞される。
 でも変身する前の青年はそのことを親しい人にも秘密にしなくてはいけない。

これだけ読むと「スパイダーマン」などを思い出してしまいます。
これは日本のヒーローものやアメコミにある典型的なヒーローものの構造なんですよね。
好きな女の子に嫌われるんじゃないかとか、本来の夢を捨てなくてはいけないとか、崇一の悩みがおもしろおかしく描かれますが、まさにそれはヒーローの悩みそのもの。
ヒーローになる力を一時期放棄しようとしますが、けれども自分しかできないということを自覚し再び闘いの場に戻ってくる。
物語の本質は王道ともいえるヒーローものの構造に沿っていたりするので、最後は観ていて達成を共有できるようなものを感じたりできます。

最後のメタル対決の、クラウザーさんのシャウトはものスゴかった!
今度は「テネイシャスD」のJBと対決させてみたい!
相手は悪魔退治は得意ですけれど。

アニメ版「デトロイト・メタル・シティ」の記事はこちら→
松山ケンイチさん出演「デスノート the Last name」の記事はこちら→

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2008年8月22日 (金)

「たみおのしあわせ」 「自分空間」への侵入

予告と作品の印象がけっこう違っていました。
結婚を題材にしたコメディかと思っていたのですけれど。
予期していた印象と違っていたので、テーマとか、メッセージをつかみづらくて戸惑ってしまいました。
そんなわけで、いつもはテーマなどに触れた話を書くのですが、少々違う話を。

この作品の中では、携帯電話を登場人物の周囲の人々が使っている場面が度々あります。
喫茶店の中で、ただひたすらケータイの画面を見ながらメールしている人々。
人と食事をしているのに、電話をかけて中座してしまう人。
彼らは周りの人がいる場所、空間でも、自分のことだけしか気にしていないように見えます。
瞳さん(麻生久美子さん)の台詞で
「ケータイってなんか未練たらしいよね」
っていうものがありましたが、これは名言。
公の場所つまりは他の人と共有している空間であっても、自分の私的な関係、コネクションを未練たらしく持ち込んでしまえるのが、携帯電話なのかもしれません。
ケータイは持ち運べるということによって、「自分空間」を他の人々との共有空間にも持ち込むことを可能にしたのですね。
持ち込む方はそれは便利だし、「未練たらしく」心地よい関係に繋がっていられるので、あまり気にすることはありませんが、持ち込まれる周囲の人々はとても不快な気持ちになるもの(映画館でのケータイの操作はとても不愉快!)
なぜ不快になるかというと、それが自分が関与している空間への、無遠慮な侵入行為と感じるからだと思います。
侵入された側は、不愉快な上、なぜか居心地の悪い気分になってしまうので始末が悪いのです。

ケータイの話をつらつらと書きましたが、この映画は父親と息子の二人の世界への他者の侵入を描いた物語ということができるのかもしれません。
会社の詮索好きの同僚、よくわからん老人たち(ほんと何をしてんだかよくわからなかった)、「屋根裏の散歩者」のような叔父は、父子の生活への無遠慮な侵入者です。
そして父親の恋人である宮地さんも、さらには民男の婚約者の瞳さんでさえも、彼らにとっては彼らの世界への侵入者だったのかもしれません。
明らかに宮地さんは自分の都合で彼らの生活を浸食してますし、瞳さんもはっきりと描かれていませんが自分の事情で動いているような何か問題がありそうな人にも見えます。
伸男、民男の親子は自分たちが15年かけて作っていた居心地のいい「自分空間」を、無遠慮な人々に浸食されたように感じたのかもしれません。
いいか悪いかは別にして自分の作り上げてきたライフスタイル、「自分空間」というものは、そう簡単には変えられないものなんですよね。
結婚というものはそれをチェンジせざるをえないイベントなんですよね。
あ、書きながらやっとなんだか映画のテーマがわかったような気がします・・・。

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2008年8月16日 (土)

「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」 薄味なライド感

古代史好きなもので2、3年前に東京国立博物館であった兵馬俑展を見に行ったことがあります。
兵馬俑というのは秦の始皇帝の陵墓に副葬品として埋められた兵馬をかたどった土で作られた焼き物です。
それらは二千年以上前に土で作られているとは思えないほどで、まさにすぐに動き出しそうなほどリアルに作られていたので驚いた覚えがあります。
この映画では、その兵馬俑たちが動き出します。

「インディ・ジョーンズ」が19年振りに製作された今年、その影響を受けて作られた「ハムナプトラ」シリーズも新作が登場です。
一作目の「ハムナプトラ」は期待度も低かったからか、初めて観たときは意外におもしろいなという印象でした。
けれど二作目は同じくエジプトで展開したからか、ほとんど印象に残っていませんでした。
さて久しぶりの三作目は舞台を中国に移しています。
「クリスタルスカルの王国」ではインディとその息子マット、そしてマリオンのアドベンチャーとなっていましたが、偶然か意図したものかわかりませんが、本作もシリーズの主人公リックその妻エヴリンとその息子アレックスの冒険となっています。
同じような時期に公開されたのでやはり「クリスタルスカルの王国」とは比べてしまいますよね。
やはり差は歴然としているように思います。
「インディ」シリーズは「ジェットコースター・ムービー」と例えられるように物語が動き出すと止まることなく展開していきます。
そのシリーズの特徴もそのままに「クリスタルスカルの王国」もまさにアドベンチャー・ライド感覚で楽しめました。
対して「ハムナプトラ3」は、アクションシーンそれぞれは迫力もあり工夫もあって楽しめるのですが、全体としてみてみると「インディ」に感じるような途中下車できない感みたいなものが少ないような気がしました。
途中で小休止があるような印象なんですよね。
なぜだろうかと考えたのですが、やはりこれは主人公の存在感の差なのではないかという気がしています。
「インディ」は次から次へと繰り出されるアクションの中心は必ずインディなんですよね。
タイトルにもなっている主人公なので当たり前といえば当たり前なのですが、観客はずっとインディに次から次へと降り掛かってくる災難や難題を観ているわけです。
だから一難去ってまた一難というのをインディといっしょに体験しているような感じになります。
対して「ハムナプトラ3」ですが、多彩なアクションはありますが、それはリックだったり、アレックスであったり、はたまたジェット・リー扮する皇帝であったりと場面場面によって中心になって描かれる人物が違っていたりするんですよね。
だから観ている側はリックといっしょに冒険というよりは、やや客観的な視点にたってしまうような気がします。
そのあたりがライド感みたいなものが「インディ」に比べて薄いなあと感じたような理由なのではないかと考えています。

「クリスタルスカルの王国」では宇宙人が出てきたところが物議をかもしていましたが、本作の雪男の方がびっくりしました。
まるで世界観が違うんですけれど・・・。

なによりもエヴリンがレイチェル・ワイズから変わったのが痛かった。
もうレイチェル・ワイズはこういうのは演ってくれないのでしょうか・・・。

シリーズ一作目「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」の記事はこちら→
「インディ・ジョーンズ/クリスタルスカルの王国」の記事はこちら→

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本 「ジャンパー -跳ぶ少年-」

ヘイデン・クリステンセンが主演で映画化された「ジャンパー」の原作小説を読みました。
映画の方は、ジャンプのシーンのスピーディな展開でけっこう楽しませてもらえました。
主人公デヴィッドの性格が幼いとかそういうことは他のブロガーさんの感想などで多く見られましたが、あまり世間的には評判は良くなかったですよね。
され小説の方ですが、高校生のデイヴィッド(原作はデイヴィッドと表記)がある日テレポーテーション能力を手に入れ、それをきっかけに家を出て、銀行からお金を拝借するという冒頭の流れはいっしょです。
ただし多くの点で違いもあります。
まずデイヴィッドのジャンプ能力ですが、映画では写真などで見たことのある場所だったらどこでもOKなようでしたが、原作では行ったことがありそこを記憶していないとジャンプできません。
なので映画のシーンにあるようなスフィンクスの上で昼寝などはありません。
あと大きなのはデイヴィッドの戦う相手というのはパラディンではなく、アラブのテロリストであったり、アメリカのNSAだったりします。
テロリストを相手をする設定というのは、あまりに使い古されたものなので(政治的にいろいろあるでしょうし)映画では避けたのでしょうか。
あと小説ではデイヴィッド以外にはジャンパーは登場しません。
実はけっこう映画と原作は設定が違っておりました。
違わないのは、デイヴィッドの性格設定でしょうか。
映画版ではあまり気にならなかったのですが、原作小説ではデイヴィッドの幼さみたいなものがとても気になります。
ある意味、自分の都合の良いように自分の能力を使っているように感じました。
もともとは銀行から奪ったお金なのに、浮浪者を憐れんでお金を恵んであげたりしているのですが、このあたりが偽善者っぽくて気になりました。
恋人ミリィに対する態度も、とても子供っぽかったですし。
映画の方は映像の方を堪能するということでその辺りは気にしませんでしたが、小説では主人公の性格、行動がとても気になりました。
そのため最後まで主人公に感情移入することができず・・・。
この原作をあそこまでもっていったのだから、映画の方はなかなかよくやったのではと思いました。

「ジャンパー -跳ぶ少年-<上>」スティーヴン・グールド著 早川書房 ISBN4-15-011651-2
「ジャンパー -跳ぶ少年-<下>」スティーヴン・グールド著 早川書房 ISBN4-15-011210-X

映画「ジャンパー」の記事はこちら→

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2008年8月15日 (金)

「百万円と苦虫女」 自分探しなんてしたくない

実は人と付き合うのが苦手な方であったりします。
とても親しくなってしまった人とはまったく平気なのですが、中途半端に顔を知っているだけとか言葉を交わしているだけの人と、二人だけになったりするとどうしようと思ったりしてしまいます。
ですので鈴子(蒼井優さん)が、人に親しげに声をかけられたりする時のとまどっているような様子や、目をそらしながら話す感じ、ちょっと苦虫を噛み潰したような迷惑そうな表情というのは、自分でもよくわかったりします。

人との距離感というのが近くなってくるといろいろと面倒くさいことが起こります。
無神経で自分勝手な人に振り回されるようなことも多くなります(最初のルームシェアの話はひどい!)。
そういうことが嫌だから、人と距離をおいていたいというのも、なんだかよくわかるんですよね。
でも鈴子も別に人が嫌いになっているわけではありません。
どちらかというと自分のことが嫌いな人なんでしょう。
「自分探しなんてしたくない」
という台詞がありましたが、これに鈴子の性格が表れています。
自分探しなんてしなくたって、自分というのはすぐそこにあるのがわかっています。
頑固で、人付き合いが下手で、何度も同じような失敗をしてしまう自分が。
そういう自分だとわかっていながらも、それに向き合うのが嫌で、鈴子はさまよってます。

「自分好き」か「自分嫌い」かと言われたら、僕は後者なんですよね。
一度知り合いとそういう話になった時、僕はみんな「自分嫌い」なのだろうと思っていたら(自分がそうだから)、「自分好き」といういう人は多いので、驚いた覚えがあります。
「自分嫌い」というのは自分の性格がわかっていて、そのダメなところもわかっていて、それがなかなか直せないところが嫌いなのだと思います。
どうしてもそれを見たくないと思ってしまいます。
僕なども、仕事などで忙しくしているのは、あまりそんなこと考えないようにとか思っているような気がしたりもします。
時折、自分の性格に直面することもあり自己嫌悪に陥ってしまいますが・・・。
たぶん鈴子もそうなんだろうなあと思って観ていました。

人との関係を深くするのが不得意な人というのは、やはり失うのが恐いのだと思います。
勇気を出して親しくなったとしても、ちょっとしたことがきっかけで別れなくならなくてはいけないことがあります。
何度かそういうことで傷ついたり、傷つけたりしてしまうと、そんなことになるくらいだったら、つき合うのを避けようと思ったりしてしまいます。
でもそれでも人というのは人と親しくしていたいと思うものなんですよね。
ずっと苦虫を苦虫を噛み潰したような表情の鈴子が中島と付き合い始めたころは輝くばかりの笑顔になっています。
それでも別れというのはやってきたりします。
だから別れるのが嫌だから出会わないようにする。
でも実はそうではなくて、鈴子が言っていたように、出会うために、別れがあるのですよね。

そうはわかってもなかなか実生活では難しいものなのですが・・・。

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ブログ2周年

気がついたらブログを立ち上げてまる2年の日を迎えておりました。
飽きもせずによくぞここまで続いたものです。

ブログが2年目に入った頃はちょうど仕事で異動になり別の職場に赴任したばかりのときでした。
わけも分からない状況で、仕事もかなり激務だったのでこの1年はたいへんだったのですが、仕事が忙しくなればなるほど、「映画観たい」欲が高まっていくのに気づきました。
現実逃避と言われればそれまでですが・・・(笑)。
そのためか、この1年は今までにないくらいの本数を観ているような気がします。
一部思い返して記事を見直してみると、数を観ているために記事自体の書き方がちょっと以前よりやや練りが足りないなという反省もあったりもします。
また忙しかったからというのもあるのですが、こちらから皆さんのブログの方に積極的にお邪魔してコメントさせていただくこともちょっと少なくなっていたかなとも思っています。
今年はちょっとそのあたりの質をあげていこうかなと思っていたりもします。

とはいえコンスタントにこちらに訪れてくれる方も多くいらっしゃていて、たいへん感謝しております。
昨年も同じことを書いたのですが、こちらのブログは僕自身が映画を観た時の気持ちを書いていたりすることが多いのです。
ですので映画自体の評価とはちょっと違うようなことを書いていることも多々あるのですが、不思議なもので自分そのときの状態で思い入れが強くなった映画というのの記事は何かが伝わるようで、何故か多くの方が反応していただけます。
たぶん僕のブログはそういうスタンスでこれからも続いていくと思いますので、気に入ってくれた方は末永くおつきあいをお願いできればと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。

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2008年8月14日 (木)

本 「西の魔女が死んだ」

今年映画化された「西の魔女が死んだ」の原作を読みました。
原作を読んでいた方のブログで、映画はかなり原作に雰囲気が似ているということが書いてあったのを見ましたが、確かにその通りでした。
映画を先に観たからかもしれませんが、小説を読んでいてやはりおばあちゃんはサチ・パーカーさんの顔が浮かびましたし、まいは高橋真悠さんを思い浮かべてしまいました。
やさしくまいのことを受け止め、諭し、導いてあげていく小説の中のおばあちゃんも映画で観たおばあちゃんと変わりませんでした。
文章で描写されている小説ならではで、まいが感じたこと、思ったことについては、映画よりさらに伝わってきます。
例えば、こういう描写。

 もう一度目が覚めたとき、やはりママの姿がなかったので、突然またあのホームシックに襲われた。
 今回のはきっかけが明らかなので、わけもわからず襲われるよりは、まだましだ。しかし、その原始的、暴力的威力は同じで、心臓をギューとわしづかみにされているような、エレベーターでどこまでも落ちていくような痛みを伴うような孤独感を感じる。

これはまいがおばあちゃんの家に来て、そしてまいのママが帰ってしまったときの気持ちを描いた箇所です。
読んでいて、とてもストレートに気持ちが伝わってくるような文章だなと思いました。
この作者の文章はとてもやさしい文体で絵本を繰るようにすらすらと読めるものなのですが、とてもまいの気持ちが素直に伝わってくる書き方をするんですよね。
他にも、まいがゲンジさんに感じる怒りや汚らわしさみたいな気持ち、おばあちゃんとわだかまりを持ったまま別れるときの気持ちなどが、自分がそう感じているかのように伝わってきます。
わりと読みやすい作品なので、子供にも読むのを薦める本としてよいかもしれません。

「認めざるをえない」
 まいは小さく呻るように呟いた。この言葉は初めて使う言葉だ。まいはちょっと大人になった気がした。
「それは認めざるをえない」
 まいはもう一度呟いた。これですっかりこの言葉を自分のものにできたような気がした。

こういう描写もあるのですが、ここはけっこう子供が知的満足を得る瞬間みたいなものを上手く表現しているような気がします。
この本を読んだ子もそんなことを感じてくれるのではないかな。

映画「西の魔女が死んだ」が気に入った方へ。
この本にはその後のまいについて書かれた短編も収録されています。
ちょっと強くなったまいが登場しますので、こちらも是非読んでみてください。

「西の魔女が死んだ」梨木香歩著 新潮社 ISBN978-4-10-125332-9

映画「西の魔女が死んだ」の記事はこちら→

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2008年8月13日 (水)

本 「疑似科学入門」

タイトルにある「疑似科学」というものをこの本では下記のように定義しています。

<第一種疑似科学>
現在当面する難問を解決したい、未来がどうなっているか知りたい、そんな人間の心理につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの。これには占い系、超能力・超科学系、「疑似」宗教系などがあげられています。

<第二種疑似科学>
科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの。
例えば科学的根拠が不明確なのに効果があるように見せる健康食品のたぐいなどはこれになります。
第二種疑似科学には他にもいろいろなタイプがあります。

疑り深く理屈っぽい性格のためか、僕はこの手の「疑似科学」にどっぷりはまってしまう気持ちがあまり想像できません。
もちろん映画や小説が好きなので、お話としての「疑似科学」というのは嫌いじゃない(むしろ好き)なのですが、それに怪しげなもの人生やお金をかけてしまうことはないと思います。
けれどこの本であげている<第三種疑似科学>という視点は、新鮮で自分でも陥ってしまう可能性があると思いました。

<第三種疑似科学>
「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの。

こちらの場合、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロとかクロとか決めつけると疑似科学に転落してしまう危険性があります。
これは自分でもそうなってしまう可能性があると思いました。
大切なのは、結論を出せる材料がないのだったら、あえて判断を保留すること。
確からしさが低いのに、あせって仮説を結論だと思ってしまうことは危険性があります。
ただそれが思考停止になってしまってもいけません。
判断を保留にするにしても、その際は最も安全だと考えられる方法を選ぶことが大事。
そこにはしっかりとものを考えるという力が必要になります。

著者がこの本で、最近の世の中を心配しているのは、人々が判断を他人に委ねてしまうことが多くなっていないかということです。
テレビなどで訳知り顔のコメンテーターやもっともらしい番組で言っていることを信じてしまう人が多くないか(テレビの健康番組で紹介した食品が売り切れるといったことですね)。
また聴きさわりのよい単純化した中身のない政策を言っている政治家ばかりが選挙で勝ってしまうこと。
なにかわかりやすい単純な説明に一足飛びに飛びついていないか、それは結果的に自分たちにとって良くないことではないかと。
たぶんこれだけ情報が増えてくるとそれを処理する力が必要なのだと思います。
けれどもそれにはそれなりのスキルもいりますし、かなりたいへん。
だから人は楽な方へ、人に判断を委ねてしまう方向へ動いてしまうのでしょう。
けれども乗せられて踊ってしまっても、騙されては後の祭り、自己責任というものになってしまいます。
やはり自分を守るのは、自分自身で考える力なのでしょうか。

「疑似科学入門」池内了著 岩波書店  ISBN978-4-00-431131-7

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2008年8月10日 (日)

「バットマン(1989)」 ジョーカー論

昨日観た「ダークナイト」のヒース・レジャーの演じるジョーカーに衝撃を受けたので、ジャック・ニコルソン版ジョーカーが登場する「バットマン」を観直してみました。
ティム・バートン監督の「バットマン」は1989年製作なんですよね。
もう20年近くも経ったんですね。
最近はアメコミヒーローの映画は毎年何本も作られるようになっていますが、あの頃はほとんどなかったように思います。
アメリカでも日本でもヒーローものというのは、子供向けという印象があったからでしょうか。
今では大人の観賞に耐えうるヒーローものというのが、続々と作られていますが、時代も変わりました。
大人でも楽しめるヒーローものがありうると示したのが、ティム・バートンの「バットマン」だったように思えます(1987年の「ロボコップ」もそうだと言えるかもしれないですけれど)。
それまでのヒーローものの映画というのは「スーパーマン」に代表されるように基本的に陽性で物語でした。
けれども「バットマン」に登場するバットマン=ブルース・ウェインは、明らかに陽性ではありません。
マイケル・キートンのヒーローっぽくない容姿によるところもあるかもしれませんが、過去のトラウマを背負い、悪を制裁せずにはおられないバットマンというヒーローの設定は初めて観た時に驚いた記憶があります。
ヒーローが人間的な弱さを持っているというのはとても斬新でした。
バットマンから昨今の「悩めるヒーロー」の系譜に繋がっていくのは言うまでもありません。

さてジョーカーの話です。
「バットマン」では上に書いたように、当時として新しいヒーロー像を提示したという点で驚きがありましたが、もう一点の驚きはやはりジャック・ニコルソンが作った破天荒なジョーカーというキャラクターにあるでしょう。
終止、芝居がかった行動をとり、冗談めいた言葉ばかりを吐くジョーカー。
ジャック・ニコルソンの振り切った演技と相まって、常識では捉えられないキャラクターとなっています。
彼の行動は、善や悪といった枠外にあるように見えます。
自分が楽しけりゃ、正しかろうと間違っていようとなんでもいいというような。
そういう善悪とは違ったところで行動する不条理な相手というはつかみ所がありません。
やや無機質なアールデコ調のゴッサム・シティの街並、夜のシーンが多いこの作品の中で、ジョーカーだけはケバケバしく異彩を放っています。
陰鬱としたゴッサム・シティのなかで、ジョーカーだけが色のある存在、陽の存在にも見えます。
それまでのヒーローとは異なった陰のバットマンに対し、陽のジョーカー。
陰陽がそれまでのヒーローと逆転しているのが、新しかったのかもしれません。

ジョーカーというのはトランプでは「何でもあり」の力を持つカード。
他のカードを縛るルールには捉えられないカードです。
バットマンという作品群の中に登場するジョーカーも、とらえどころのない何を考えているかわからないキャラクターとして描かれています。
「バットマン」のジョーカーと、「ダークナイト」のジョーカーも何を考えているのかわからないという点は共通しているように思えます。
けれどもそれぞれから受ける印象はまったく異なります。
ジャック・ニコルソンのジョーカーは善悪を超越した別次元の存在としてとらえどころがありません。
ヒース・レジャーのジョーカーは悪を越えた言わば超悪として想像できないところにいっている。
陽のジョーカーと陰のジョーカーとも言えるかもしれません。
「バットマン」のジョーカーはとても印象的で強烈なキャラクターでした。
それでもあえてジョーカーを新作「ダークナイト」に登場させるというのは、スタッフにはなみなみならぬ覚悟があったと思います。
けれどもそれは成功しました。
「ダークナイト」で新しいジョーカー像を造った、クリストファー・ノーラン監督と演じたヒース・レジャーに敬意を表したいです。

クリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」の記事はこちら→

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「劇場版 仮面ライダーキバ 魔界城の王」 サービス精神旺盛、ゆえにまとまらず

1986年の過去と2008年の現代で物語が、連携しながら並行して展開していくという斬新な手法をとっている今年のライダーシリーズ「仮面ライダーキバ」。
錯綜し混乱し破綻しそうな設定にも関わらず、きちんと物語を制御しているのはやはりシリーズ構成をしている井上敏樹さんの豪腕ゆえだからでしょうか。
テレビシリーズの方は過去篇の音也とゆりがいい感じになりつつ、クイーンがどう絡んでくるか目が離せないですし、現代篇は渡と新キャラクター深央との関係もなかなか見逃せない感じになってきました。
このあたりはさすが平成ライダー、大人が観ても見応えあります(井上敏樹さんが全脚本を担当した「仮面ライダー555」に通じるものを感じます)。
そしてまず主人公ライダーであるキバがケレン味たっぷりでカッコいいというところが好感度高いです(「侍ジャイアンツ」のハイジャンプ投法ばりのキック技がカッコいいです)。
やはりヒーローは有無を言わさずカッコいいのがいいですね。

さて劇場版ですが、こちらもテレビシリーズ同様に井上敏樹さんが脚本を担当しています。
井上さんという方は、たぶんサービス精神が強い人なのでしょう。
テレビシリーズでもそうですが、魅力的なキャラクターや設定というのをこれでもかと繰り出してきます。
長いテレビシリーズでは、それらを収束させることも可能ですが(収束させないときもある)、短い劇場版ではそれはなかなか至難の業。
今回の映画でも、新しいライダーの登場、強大な敵の登場、過去篇と現代篇の交錯などを盛り込んでいるために全体的に忙しい感じは否めません。
キャラクター映画的にいろいろな要請があるのだろうと思いますが、もうすこしすっきりさせて欲しい感じはしました。
とはいえ、テレビシリーズを観ている観客にとってはファンサービスがいくつかあって嬉しくもありました。
例えば、テレビシリーズでは相見えることのない、音也と渡、ゆりと恵が共闘する場面などというのはやはりぞくぞくとします。
映画的な見せ所ですが、やや今回はストーリーが散漫だったためか、この一つというような場面はなかったですね。
「カブト」のときの宇宙のシーンとか、「555」の時の埼玉アリーナのシーンとか。
テレビシリーズと並行で撮っているから仕方がないのですが、どうも映画的なスケールの大きい場面はなく、全体的にこじんまりとしていたのは残念なところでした。

渡がキバだと誰でも知っている状態になっていましたが、あれ、テレビシリーズもそうなっていましたっけ?
それとも劇場版は別の話っていうことなのかな?

初日に行ったためか、コアなファンも劇場に多くて。
近くに座っていた(イケメンくん目当て?)若い女の子が、何かが出てくるたびにキャーキャー声をあげていて(アイドルのコンサートじゃないんだから)やや迷惑でありました。
ちっちゃいお子様もマナーを守って静かに観ているんだから、ちゃんとしてほしいところです。

あと最後に昨年のシリーズ「仮面ライダー電王」の新劇場版の予告が入っていました。
まさかやるとは思っていなかったので、すごいびっくり。
仮面ライダーで前年度のシリーズを映画化するというのは初めてですよね。
それだけ「電王」が人気があったということでしょうか。

テレビシリーズ「仮面ライダーキバ」の記事はこちら→
「電王」と「キバ」が共演「仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事」の記事はこちら→
「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!」の記事はこちら→

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2008年8月 9日 (土)

「炎神戦隊ゴーオンジャー BUNBUN!BANBAN!劇場BANG!!」 オーソドックスなぶん、もの足りない

今シーズン放映しているスーパー戦隊「炎神戦隊ゴーオンジャー」は、戦隊ものの原点回帰のようなオーソドックスな作りとなっています。
最近の戦隊シリーズは年間を通して凝ったシリーズ構成となっていたのとは対照的です。
基本的に一話完結型、敵も味方も明確で、子供たちにはわかりやすいのかなと思ったりもしますが、長いこと特撮を観てきた自分としてはもの足りないのは正直なところ。

本作ではおなじみのゴーオンジャーが次元回廊を通ってまるで江戸時代のような「サムライワールド」に来てしまったという設定。
最近のスーパー戦隊シリーズでは、夏頃に京都太秦で撮影をした時代劇篇、いわゆる「京都篇」を放映しますが、それが今年は劇場版になったというところですね。
劇場版はテレビシリーズの延長線上にあるので、もの足りない印象はテレビシリーズと変わりません。
嬉しかったことと言えば、平成ライダーの名作「仮面ライダー555」の主演半田健人さんがゲストで出ていたことでしょうか。
声が渋くなっていたような気がするのですが、気のせい?

テレビシリーズ「炎神戦隊ゴーオンジャー」の記事はこちら→
昨年のスーパー戦隊の劇場版「電影版 獣拳戦隊ゲキレンジャー ネイネイ!ホウホウ!香港大決戦」の記事はこちら→

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「ダークナイト」 悪意の増殖

この物語には対立的な概念が繰り返し現れてきます。
善と悪。
光と闇。
表と裏。
「善と悪」を表現するため「光と闇」、「表と裏」を比喩に使うことがありますが、よく考えてみると実はちょっとその概念は違うことに気づきます。
劇中でハービー・デントが言うように「表と裏」の関係は、フィフティフィフティで対等なものです。
「表と裏」は二者択一的な関係であり、そのような関係は「善と悪」にはありません。
そういう点においては「光と闇」の方が「善と悪」の関係に近いかもしれません。
「光と闇」というのは二者択一的な関係ではなく、そのあいだに光にも闇にも属さない(逆に両方に属するとも言える)グレーゾーンがあるわけです。
黎明や薄暮のように。
「善と悪」の間にもグレーゾーンは存在しています。
そこは「光と闇」の関係に似ています。
けれども「光と闇」は、片方があれば片方は必然的に存在する関係です。
陽があたれば、必ず陰ができるように。
「善と悪」はそうはいかない。
なぜならば「悪」だけが存在するということも考えられるからです。
「善」というものは「善」であるが故に制約があります。
物語の中で、再三ジョーカーがバットマンに言っていたモラルや良心といったものです。
「善」は良心を守ることによってなされるものであるがために、それらが制約になります。
「悪」にはそれがありません。
「悪」は無制限であるわけです。
たがを外してしまえば、「悪」は無制限に増殖していくパワーを持っています。
そして「悪」は伝播する力も持っています。
がん細胞が体を侵していくように。
だから「善と悪」は対等な関係ではありません。
その点が「光と闇」と異なります。

強い「悪」の力に対抗するには、さらに強い力が必要とされます。
それは前作でブルースが到達した結論であり、彼がバットマンになった理由でもあります。
けれども「悪」に対抗する力は、「悪」に転落する危険性もはらんでいます。
ブルースにしてもハービーにしても。
彼らは対抗しようとするが故に「善と悪」の間のグレーゾーンを歩かないわけにいかないのです。
二隻の船に仕掛けられた爆弾。
乗客たちは、自分たちが助かるためにもう一隻を爆破するかどうかという選択を迫られます。
相手が囚人ならば、相手を爆破し自分たちが助かるのが「正しい」のか。
ジョーカーは、ブルースが、ハービーが、ゴッサムシティの人々が、ダークサイドへの転落していくの後押しを行っているのです。
これが彼が言っている街を支配するということ。
何かのきっかけがあったら誰しも転落してしまう可能性を持っている。
自分が二者択一を迫られたとしたら?
自分は「善」を選べるのだろうか?
そういうことを考えさせる恐ろしさをジョーカーは持っています。

ティム・バートンの「バットマン」でのジャック・ニコルソンが演じたジョーカーがいかれた存在感があったので、本作でのヒース・レジャーのジョーカーはどのようなものになるのか不安がありました。
けれども本作のジョーカーは予想を越えた存在となっていました。
たぶんジョーカーにとって犯罪は楽しみですらないのでしょう。
彼にとって悪事というのは自分自身の存在意義、レゾンデートルであるように思えます。
彼の価値観には「善」というものはありません。
そういう意味では絶対的な「悪」であるわけです。
彼は自分の見かけも心も醜いということを意識しています。
でもその状態が彼にとって普通の状態なのです。
彼は「善」であるということを知らないが故に、他人も自分と同じように考えると思っています。
そういう意味では、本作のジョーカーは、ジャック・ニコルソンのジョーカーよりも恐ろしい。
狂っているようにしか見えないのに、本人はそれが普通のことであるかのように行動しているということが恐ろしい。

本作は光輝くヒーローの物語ではありません。
「悪」の、ジョーカーの、物語なのです。

クリストファー・ノーラン監督、クリスチャン・ペール主演「プレステージ」の記事はこちら→
ティム・バートン監督「バットマン(1989)」の記事はこちら→
「バットマン」のオリジナル・アニメーション「バットマン ゴッサムナイト」の記事はこちら→

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「カンフー・パンダ」 相手を信じろ

アメリカでも大ヒットをして、中国でもこんな映画を中国人が作らなくてはいけないと偉い人が言ったとか言わないとか。
世界中ではヒットのようですが日本での人気はどうなんでしょう。
会社にもこの映画で去年から商品タイアップをしないかという売り込みがよくあったので、配給会社などは力を入れているのだなと気になって観に行ってきました。

3DCGアニメってピクサーの作品は好きなのですけれど、ドリームワークスの作品はどうもあまり好きじゃありません。
うまく言えないのですが、画の肌合いみたいなものにいかにもコンピューターで作ったというテイストを感じるからでしょうか。
ピクサーはコンピューターで作った画というのが感じられないんですよね。
ライティングとテクスチャー表現が際立って上手なのが理由のような気がします(それとストーリーがいいので3DCGであることが気にならない)。
本作もやはりドリームワークステイストみたいなものはあって、そのあたりはやや馴染めない印象を受けました。
オープニングの「アフロサムライ」のような無国籍アニメ風なタッチはかっこよかったので、このテイストで作ってくれれば良かったのに。
でも全然楽しめなかったわけではなく。
タイ・ランが脱出する場面とか、タイ・ランVSファイブの闘い、師匠とポーの特訓のシーンなどは、ジャッキー・チェンの頃のカンフー映画のアクションをベースにしながらも、アニメーションならではの動きを見せてくれて楽しめました。
タイ・ランは悪役でしたが、脱出シーンはカッコ良かったですね。

お話は普通に子供に見せるための教訓めいたテーマでややもの足りない感じもありました。
「自分を信じろ」というのが広告コピーになっていましたが、自分を信じればなりたい自分になることができるということでしょうか。
一歩踏み込んで、この映画のテーマとしてはコーチングということも読み取れるような気がします。
ポーの師匠となるシーフーは、初めはポーを認められません。
それは今まで自分が指導してきた弟子たちとポーはあまりに違い、自分の価値観が通用しないからです。
コーチングで大事なのは、指導する側が相手を受け入れ信じてあげることが大事です。
人間は千差万別であり、コーチする側がそれまでに経験したことのないタイプの人(会社で言ったら部下)がつくことがあります。
その際に、無理矢理に今までの自分の成功事例に基づき指導したとしても、うまくいかない場合があります。
相手の能力、性格を知り、それを認めた上で、ふさわしい指導をしていく。
これがコーチングの基本です。
つまりこの映画はポーが「自分を信じて」成長していく物語でもありますが、シーフーが「相手を信じて」成長していく物語でもあります。
指導する側にも指導される側にも相手に対する信頼が重要だということでしょうか。

ポーの声はジャック・ブラックが担当するということでわざわざ字幕版を観に行ってきました。
アニメでもJBはすぐにわかりますねー。
これはナイスなキャスティングだと思いました。

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2008年8月 3日 (日)

「ハプニング」 自然への畏れ

「シックス・センス」のM・ナイト・シャマラン監督の最新作です。
たぶん彼は「シックス・センスの」と言われるのは、いい加減いやになっているだろうなあ。
それだけ「シックス・センス」は衝撃的ではあったのですが、あの作品以降、人々がシャマラン監督に同じようなドンデン返しのインパクトを期待してしてしまっているように思います(自分も含め)。
でもドンデン返しがくると身構えているときは、それはなかなか驚きにはならないものです。
観る側もシャマラン監督を色眼鏡で見るのを止めてあげた方がいいんじゃないかと思ったりもします。

ある日、アメリカの東海岸でおかしな出来事が発生します。
突如、人々が自殺を始めるのです。
その原因はまったくわからず、けれどもその出来事は次第にそのエリアを拡大していきます。
フィラデルフィアで教師をしているエリオットは妻と友人の子供を連れ、わけもわからないまま、原因不明の出来事から逃れようとします。
劇中ではその原因はテロリズム、または植物が吐き出す有毒ガスとも言われますが、まったく最後までその真の原因は明かされません。
ドンデン返しみたいなものや、この出来事への説明がないことから、またシャマラン監督への非難の声が聞こえてきそうですが、僕はこれはこれで良かったかなと思いました。
よく考えてみれば、人間の周りで起こる出来事というものに合理的な説明がつくようになった(と人が思うようになった)のは、科学が発達してきたほんのこの400年くらいなもの。
それまではさまざまな自然現象には合理的な理由など人間にわかるわけもなく、神の御技か何かと思われていたわけです。
科学を発展させ、テクノロジーを革新させ、人間は次第に自然をコントロールする術を学んできました。
科学が万能だと思われた20世紀以来、人間は物事はすべて説明できると思い込んでいるのかもしれません。
新しい出来事が起これば、それが起こった原因をまことしやかに皆が語る。
でもそのすべてが予想できたり、説明できたりするものでは決してないのでしょう。
自然をすべて理解できると思った時、実は人間は驕るようになってしまったのかもしれません。
理解しがたいもの、説明できないものであるという気持ちがあるならば、人は自然に対しもっと謙虚になれるのかもしれないと思ったりもしました。
西洋流の考え方だとここに神という視点が入ってくるような気もしますが、シャマラン監督の場合はそれすらもとりいれず、この映画に描かれている原因についてはまったく説明をしません。
それはとても東洋的な見方のような感じがします。
自然というのはやはり人知を越えたものなんですよね。
この映画を観て、物語の中に展開される出来事に僕は不思議な怖さを感じました。
説明できないことへの怖さ、そして確実に自分に襲いかかってくるであろう怖さ。
それは原初の人類が、自然に対して感じていた畏れと同様のものだったのかもしれません。

M・ナイト・シャマラン監督作品「レディ・イン・ザ・ウォーター」の記事はこちら→

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2008年8月 2日 (土)

本 「エヴリブレス」

本作はTOKYO FMのラジオドラマの原作として書き下ろされたということです。
そのためか作中でラジオが重要なアイテムとして登場します。
ラジオは音声を伝えるメディアです。
電波を通して伝えられるのは話し言葉。
その言葉やコミュニケーションについて、いくつかなるほどと思ったところがあったので、とりあげたいと思います。

作品の中である登場人物が、人が言葉を使うようになった理由を語っている場面があります。
「地球上の生物は呼吸をしてエネルギーを得ている。呼吸をする器官があったからこそ声を発して、言葉を使うようになった。<中略>私たちはどこかで必ず息継ぎをしないといけなくて、その呼吸(ブレス)が音節というものをつくったんだそうです。言葉が途中で節目をつくって、構文ができたのも、だから息継ぎという肉体の制約のおかげだって。呼吸をするからこそ言葉はいまのようなかたちになったんだそうです」
確かにコンピューターが読み上げる言葉というものが不自然に人工的に感じるのは、そこに呼吸がないからなのだと感じました。
そして人間が、そこに生命らしさというものを感じる時、無意識的に相手に呼吸を感じているのかもしれません。
逆に機械がコンピューターに呼吸を感じるようになるほど進化したなら、それは生命だと言っていいのかもしれません。

またある登場人物がこう言います。
「共鳴(シンクロシニティ)という言葉の意味を、ずっと考えてきました。私たちは共感(シンパシー)でお互いに深いところまでつながり合うのだと思います。<中略>心を同調し合って、お互いに頷き合って、温もりを分かち合うのが共感の力だとしたら、そこから先の理解はや、希望や、勇気は、きっと言葉といっしょに育まれるのだと思います。<中略>自分とは違う他者とわかり合おうとすること、それが共感からもう一歩進んでわたしたちができること、つまり感情移入(エンパシー)なんだと思います。」
ここは人のコミュニケーションについて語っている場面です。
シンパシーという言葉と、エンパシーという言葉について語られていますが、この違いについてもなるほどと思いました。
これを読んでの僕自身の解釈ですが、シンパシーというのは自分が相手から伝わっていることに対して自分が感じること。
これは自分が感じることというのはあくまでも自分の中での解釈としてなんですよね。
そしてエンパシーというのは、相手も自分も相互に伝えようとし、理解しようとすること。
これはお互いに理解しようと歩み寄る努力がなければ成立しません。
「一歩進んで」と書いてあるのは、エンパシーを成立させるためにはそれなりの努力が必要だからでしょう。
伝えようとすること、それを受け取ろうとすること、それがエンパシー。

思えばラジオというのは、実際はマスメディアの一つでありながら、なぜか人のぬくもりを感じる不思議なメディアなような気がします。
テレビはその圧倒的は情報量の多さ、パワーによって受け手は圧倒されますし、新聞などの紙媒体は文字であるが故に、受ける側は感情よりも理性で受け止めます。
でもラジオは、一対多というマスメディアでありながらも、自分に語りかけてくるような感情的なものを感じます。
作者の瀬名秀明氏は、ラジオドラマというお題の中で、ラジオというメディアの特性、そしてそこの中での話し言葉というものの重要性というものを考え、この作品を作ったのでしょうね。

瀬名秀明作品「第九の日」の記事はこちら→

「エヴリブレス」瀬名秀明著 TOKYO FM 出版 ハードカバー ISBN978-4-88745-195-7

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「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」 10代の抱える閉塞感

"キルドレ"、それは外見が思春期の少年少女でありながら、年をとらず、大人になることのない子供。
彼らは戦死しなければ死ぬことがないと言われています。
彼らはパイロットとして戦争に投入され、来る日も来る日も敵との闘いを繰り返しています。
"キルドレ"の彼ら自身も自分がいつ飛ぶようになったのか、いつから戦争を続けているのかという記憶はぼんやりとしています。
その戦争もいつ始まったのか、いつ終わるのかも誰も知らぬかのよう。
物語の中で草薙が言うように、戦争が人類が平和を認識するためのものだとするならば、その戦争は終わりが見えぬものと言えるでしょう。

思春期の少年少女が、同じことを永遠に繰り返しているという物語から、同じ押井守監督の「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」を想起しました。
「ビューティフル・ドリーマー」の物語は文化祭前夜の楽しい日々が永遠に続くようにと願ったラムの想いから引き起こされます。
そこにあるのは10代の日々=輝かしく楽しい日々という考え。
ちょうど「ビューティフル・ドリーマー」が作られた時は、自分自身も高校生であって、10代の生活はいろいろその年頃らしい悩み事はあったにせよ、やはり楽しい日々だったように思えます。
10代でなくなった年になって「ビューティフル・ドリーマー」を観ても、何か懐かしい日々を思い返すような気持ちになります。
けれども「スカイ・クロラ」は同じく少年少女が繰り返し同じような日々を送っているという物語ではあっても、そこには輝かしさや楽しさというものはありません。
どちらかというとそこにあるのは出口のない閉塞感。
自分が戦わなくてはいけない理由もわからず、日々闘いに暮らす彼ら。
ほとんどの"キルドレ"はそれに疑問を持たずに暮らしている。
けれども草薙だけは、他の"キルドレ"よりも多く生き、多くを見てきてしまった。
だからこそ、自分たちの生き方、存在意義みたいなものに疑問を感じ、強い閉塞感を感じています。
これは現在の10代の若い人たちが感じている閉塞感と共通しているのではないかと思いました。
現在の日本は、僕の世代が若かった頃に比べ、より生き方の自由度がなくなってきているようになってきているような気がしています。
親が偉ければ、それを世襲的に引き継ぐことも多くなっているような気もします。
がんばれば、努力すれば、上に上がれるというようなことというのが感じられなくなっているのではないでしょうか。
何か若い世代にはそのことに対する諦めみたいなものがあるような気がしてなりません。
昨今起こる痛ましい事件というのは、何かこのような出口のない閉塞感みたいなものが、自分に対して、他人に対して暴発しているのではないかと思います。
劇中、草薙が銃をいつも身につけ、自殺願望のようなものを口走るのは、その閉塞感からの脱出を計ろうとする気持ちからなのかもしれません。
草薙は、自分を撃つように函南に言います。
けれども函南は撃たない。
草薙は"キルドレ"でありながら子供を産んだ存在であり、そして"キルドレ"=永遠の10代であることに疑問を持っている人間です。
彼女がそれを考え続け、苦しみながらもその過程で大人になる為の何かをつかむことを函南は期待したのだと思いました。
現代は若い人にとって閉塞感がある時代であるのは間違いないでしょう。
けれどもそこから逃げ出すために安易な行動に走るのはやはりいけない。
苦しみながらも、ひとり一人がそこに何かをつかまなくてはいけない。
そういうメッセージがこの作品に込められているような気がしました。

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2008年8月 1日 (金)

「インクレディブル・ハルク」 哀しみを背負うヒーロー

マーベル・コミックスの中でも特に有名なキャラクター、ハルク。
アン・リー監督で一度映画化していますが、ルイ・レテリエ監督のもと、キャストも一新して「インクレディブル・ハルク」として再登場です。
アメコミ映画は好きな方ですが、アン・リー監督の前作には特に感銘を受けたわけではありませんでした。
最近のアメコミ映画「スパイダーマン」や「バットマン・ビキンズ」のようなヒーローの内面を描くことがなかったからでしょうか。
ハルクに変身してしまったあとは猛獣のようなものですから、そこに共感性というものは描きにくい作品なのかもしれません。

本作「インクレディブル・ハルク」はその共感性というものを、変身前のブルース・バナーという人間をしっかりと描くことにより獲得しようとしたように思えました。
科学実験により、予期せぬ力を手に入れてしまったバナー。
そのパワーは自分ではコントロール不可能なため、周りの人々に危害を加えてしまうかもしれないということを恐れ、そしてその力を利用としている者たちから逃れるようと、彼は南米に姿を隠しています。
愛する女性ベティに連絡もとらず、自らの力が解放されてしまうことに恐れながら、”ミスター・ブルー”の治療に一縷の望みを繋ぎつつ、彼の逃亡の日々は続きます。
けれども自分と同じ力を得たブロンスキーを止めるために、バナーは自ら自分のパワーを解放し、彼と戦おうとします。
このようなハルクになってしまったことへの恐れ、そして暴走するブロンスキーと戦うことの決意などのバナーの気持ちが前作よりも描かれているような気がしました。
このあたりは観ていて、石ノ森章太郎の「仮面ライダー」に代表されるヒーロー像に共通するようなものを感じました。
自らの意志ではなく、強大なパワーを手に入れてしまった主人公。
彼は自分を悪のために利用しようとする組織の追っ手から逃れようとする。
自らの力を恐れる主人公ですが、やがてその力を自らの意志で守るべき人を守るために使おうと決心します。
石ノ森ヒーローには、人とは異なるものになってしまった者の哀しみ、そしてその力を正義のために使おうとする強さが共通しています。
まさに今回のハルクはアメコミヒーローには珍しく、石ノ森ヒーローが背負っているような哀しみがあるように思えました。
主演のエドワード・ノートンが演じるバナーが、前作よりもとても繊細でナイーブに見えたところからもそういう印象を持ったのかもしれません。
そういう点では、前作より共感性はあがっていると言えるでしょう。
ただ変身後のハルクというのは、失礼ながら共感性があるように思える姿には見えないのが残念なところ。
あの怪物じみた姿が、彼の背負う哀しみを表しているのはわかります。
でも変身後のヒーローというのものには単純にカッコいいと思えるところを求めたい。
ラストのハルクとブロンスキーが変じるアボミネーションの闘いは派手ではあるのですけれど、どうも怪物同士のどつき合いに見えてしまい、自分の中ではヒーロー作品としてのカタルシスは落ちていってしまったような気がします(これは「ハルク」という作品が内在するものだからしかたがないのですが)。

作品のラストに、秋公開予定のマーベルのあの話題のヒーローを演じるあの人がチラリと姿を見せます。
リンクとか考えているのでしょうか。
やや商売っ気を感じてしまったのでした・・・。

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