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2008年7月27日 (日)

「ニュー・シネマ・パラダイス」 人生を経るに従い感じ方が変わる作品

大学生になってから本格的に映画に夢中になりました。
学生時代は東京には住んでなかったため全国ロードショー公開の大作しか見ていませんでしたが、いろいろな映画を幅広く観るようになったのもこの頃。
おりしも単館ものと呼ばれるジャンルも定着してきた時でした。
「ニュー・シネマ・パラダイス」はそんなときに観た映画でした。

僕がはじめて観たのは先に書いたように大学生のとき、120分程度の尺の劇場公開版と現在は呼ばれているバージョン。
次に社会人になってから、150分のオリジナル版が再びシネスイッチで上映され、観に行きました。
そして今回ディレクターズカット版(3時間弱)を観賞しました。
本作は初めて観た時から好きで、観る度ごとに心を動かされます。
でも毎回その心を揺さぶられるポイントが異なります。
特にラストのキスシーンを繋いだフィルムをトトが観る場面は、その意味合いがバージョンによってかなり変わってくると思います。

初めて観たバージョン(劇場公開版)は、僕の記憶ではトトの子供時代がほとんどで最後の占めていたと思います。
ラストシーンで流れるキスシーンのフィフムはトトが幼い頃、アルフレードににねだったもの。
そのときアルフレードはフィルムをトトにあげるけれど、それは自分が大事に保管してやると言います。
アルフレードの死後、渡されたそのフィルムはずっとアルフレードが大事にしまっておいたものでした。
この作品ではラストのシーンの意味合いは、ずっと故郷を離れていたトトが、父親のようであったアルフレードの愛情を感じるというものだったと思います。
二度目に観たオリジナル版では劇場公開版で大幅にカットされていた青年期のシーンが増えています。
青年時代のトトは、生涯一の恋の相手エレナと出会います。
彼女と恋に落ちますが、彼女の両親の反対、自身の徴兵により彼女と引き裂かれてしまいます。
徴兵後、故郷に戻ってきたトトは彼女の姿を見つけることはできませんでした。
トトは恋に破れた失意の中、夢を叶えるためのローマへの旅立ちます。
このバージョンではラストシーンの意味が大きく変わり、劇場公開版の意味合いに、初恋の相手と叶えることのできなかった恋をトトが思い返すという要素が加わります。
フィルムに映し出される数々のキスに、トトは初めての、そして一度だけの恋、エレナへの思いを重ね褪せて観たのでしょう。
そしてディレクターズカット版。
こちらではトトは中年期にエレナと再会し、一晩だけ結ばれます。
このバージョンでもさらにラストシーンの意味合いは変化します。
オリジナル版でも明らかになっていますが、エレナとトトが最後の日に出会えなかったのは、アルフレードがエレナの伝言を伝えなかったからでした。
アルフレードはトトの映画にかける想いや才能を信じていました。
彼にはチャンスが必要だと考えていました。
そのためには小さな村を出なくていはいけない。
アルフレードはそのためにはエレナとの恋におぼれてはいけないと思ったのです。
トトがローマに旅立つ日、アルフレードはトトにこう言います。
「ノスタルジーに惑わされるな」
自分の夢をしっかりと持ち、過去ではなく、未来を見よという意味でしょう。
ディレクターズカット版ではトトがエレナと一度だけ結ばれたことにより、かえって二人の関係が過去のものであるという印象が強くなります。
またアルフレードは人生は映画とは違い、過酷なものだというようなことも言います。
彼はトトがどこかでエレナか、仕事かを選ばなければならない局面になることになるということを気づいていたのでしょう。
けれどもトトは若く、それらを選ぶことができないことにもアルフレードは気づいていた。
そこでトトが傷つき、二つともを失わせてしまうわけにはいかないとアルフレードは思ったのでしょう。
彼はトトの夢を叶えるために、嘘をついたのです。
このバージョンにおいては、ラストの往年の映画のキスシーンの場面は、アルフレードの上記のようなトトへの想い、配慮を強く印象づけることになりました。
劇場公開版がトトの子供時代へのノスタルジーが、オリジナル版がトトの青年時代へのノスタルジーが中心だったのに対し、ディレクターズカット版はアルフレードのトトへの愛情みたいなものが強く感じられるものになっていたと思います。
編集によってこんなに印象が変わる作品というのも珍しいのではないでしょうか。
どれがいいとか悪いではなく、どのバージョンでも少し異なる視点での感動があるのは間違いありません。

つらつらと上記のように分析っぽく書いていますが、実は編集などよりも、その作品を観たとき自分がどのような状態であったかというのが、作品への印象が変わるような気もしています。
初めて劇場公開版を観たときは学生の時。
まだ10代で社会の厳しさや、深い恋愛なども知らぬ頃でした。
そういう時にディレクターズカット版を観ても、あまりよくわからなかったかもしれません。
そのときは子供時代へのノスタルジーというのがわかりやすかったのだと思います。
そしてオリジナル版は社会人になってから。
仕事にも恋にも悩み多き頃。
失恋なども何度も経験しているわけで、そのとき観たオリジナル版には恋人を失ったトトの姿に共感をしたりもしました。
そして今。
多少は人生経験も積んできたこのとき、ディレクターズカット版を観ると、アルフレードのトトの人生への配慮というものが強く心に響きます。
憎まれようとも、トトのことを想い、彼が傷つかず成功することを考えている。
そういう愛情に気づくことができる年になったということでしょうか。

「ニュー・シネマ・パラダイス」、人生を経るに従い、感じ方も変わっていく映画です。
次はアルフレードの年くらいになったら、またこの映画を観てみたいと思います。
きっとそのときはまた感じ方が違っているのだろうと思います。

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本 「ウェブ社会をどう生きるか」

ブログというのものは一時期流行語のように使われていた「ウェブ2.0」の最たるものです。
有史以来、個人が世界に向けて簡単に情報発信ができるようになったのは初めてのことでしょう。
90年代後半からのHP、昨今のブログの激増によりウェブ上に情報は溢れかえっています。
それらはすべてが同じ水準にあるわけではなく、自分にとって意味のある情報を得るためには「Google」などの検索エンジンを使うしかありません。
昨今の大学生の間では「コピペレポート」なるものが横行しているということ。
ネット上にあるさまざまな情報を集めてきて、コピペをしてつぎはぎしたようなレポートです。
そういえば、仕事でも若い人はそういう資料を作る人がいるなと最近思いました。
この本で著者が繰り返し語っているのが、「情報は小包ではない」ということ。
小包のようにネット上で見つけ出してきた、文字の連なりはそれだけでは情報になり得ないのです。
なぜかというと「情報」というものは、それを受け取る受け手の解釈によって初めて成立するものだからです。
例えば同じ文章を読んでも、人によって感じ方、それによって起こされる考えの変化というのは違うでしょう。
そうというのも人はそれぞれの持つ生物的な特徴、文化的な特徴、個人的な経験などにより感じ方が異なるからです。
「情報」というのは受け手との関係性があってはじめてあるわけです。
さきの学生の「コピペレポート」というのは、多くの人がその「情報」というものを誤解していることからきていると思います。
文字やその意味だけでは「情報」足り得ない。
それぞれの人の解釈があって「情報」になるわけで、実は人によって「情報」は異なるのです。
そのあたりの認識がないと、今後爆発的に増えていくネット上の「情報(これは一般的に言われているもの」によりおぼれてしまうようになり、それに疲れて結果的にはみなが画一的な「情報」にしか接しなくなるということになりかねません。
これは本来ウェブとういものが持っている可能性を否定することにも繋がるような気もします。
あふれるばかりの「情報」をほんとうの「情報」にするためには、それらを見る目というものを個人個人がもたねばならぬということでしょうか。

「ウェブ社会をどう生きるか」西垣通著 岩波書店 新書 ISBN978-4-00-431074-7

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2008年7月26日 (土)

「テネイシャスD 〜運命のピックをさがせ!」 大バカ者!大好きだ!!

「大バカ者!大好きだ!!」
予告ででていた「USAトゥデイ」のこの作品の映画評です。
まさに観た後、同じことを言いたくなりました。
ジャック・ブラックとカイル・ガスがバンドを組んでる実在のバンド、テネイシャスDが主役のオバカ映画。
予告ですっかりやられてしまい、これは観なくてはなるまいと初日に観賞です。

JBらしさが爆発していて(本人役だから当たり前ですが)、なかなかに楽しい。
下品で、思い込みが激しい、暴走野郎。
どう見ても明らかに問題児ですが、でもJBが憎めないのはやっぱりロックにかける思いがマジなところでしょうか。
彼のロックにかける真剣さがジンジン伝わります。
真剣過ぎるだけに、バカバカしい。
人が真面目に入れ込んで本人がそれしか見えていない時って、なんだか周囲から見るとおかしかったりしますよね。
JBは「スクール・オブ・ロック」でも歌を披露していますが、本作では劇中のほとんどでJBが歌っている印象があります(ロック・ミュージカルなところもたくさんありましたね)。
やっぱり一番好きな場面はJBとKGの出会いの場面でしょうか。
KGの超絶ギターテクに魅了され、JBが「ファッキーン&ロッキーン!」と歌い叫ぶこのシーン。
なんていうか・・・、これは運命の出会いってやつですよね。
この場面はバカバカしくて大好き。
KBがヅラをとられてしまうところも!

まったく頭を使わずバカになって観れる楽しい映画なのですが、最近の映画にありがちで、予告でおいしいところを見せ過ぎですよね。
気に入った場面も全部予告でかかっていた部分でしたし。
せっかくおもしろいところあるのにいいところ全部先に見せられていてちょっともったいない。

JBの子供時代を演じていたのは子役ですよね?
あまりに表情がJBに似ていてびっくり!

ジャック・ブラック主演「スクール・オブ・ロック」の記事はこちら→
ジャック・ブラック出演「トロピック・サンダー」の記事はこちら→

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「ドラゴン・キングダム」 ドリームマッチ!

ジャッキー・チェンとジェット・リーが夢の共演!
中学校の頃にカンフー映画に夢中になった僕としては、これは観ないわけにはいきません。
劇中ではジャッキーとリーの対決もあるということ。
これは「スーパーマンVSバットマン」よりも「エイリアンVSプレデター」よりも、カンフー映画好きにとっては興奮してしまうことではないでしょうか。

オープニングからして懐かしのカンフー映画の雰囲気たっぷりで、気分は盛り上がり。
本作品は全編にカンフー映画に対するリスペクトが感じられます。
主人公(の割に影が薄い)ジェイソンがジャッキーとリーの弟子になったあとの特訓シーンなどでは、懐かしい感じがしましたね。
「酔拳」でジャッキーがやっていたスクワットの静止のポーズのところは膝の上に、ぜひともおちょこを置いて欲しかったですが。

二人の直接対決は映画の前半からあります。
ジャッキーは、嬉しいことに酔拳を披露してくれます。
その他にも鶴拳、蛇拳、虎拳など懐かしいカンフー映画でジャッキー自身が使っていた拳法を見せてくれます。
かたやジェット・リー(んー、リー・リンチェイという呼び方のほうがしっくりくるのだが・・・)は「ワンス・アポン・ア・イン・チャイナ」風でしょうか。
裾さばきなどが相変わらず見事です。
この二人の対決は「夢にまで観た」という形容詞がふさわしいくらいのドリームマッチと言っていいでしょう。
二人が手合わせしている様を観ているだけで嬉しくなってしまいます。
ワイヤー使いもほどほどに、往年のカンフー映画のようなリズム感のある立ち回り。
攻め、受け、攻め、受け。
攻守が目まぐるしく変わる二人の立ち会いは、舞踏を観ているような感じになります。
最近のワイヤーアクションは綺麗なんですけれど、無重力感と言えるような非現実感はつきまといます。
二人のアクションはそういう感じがないですよね。
肉体の鍛錬としっかりとした技術に支えられているアクションに見えます。
思えば二人のカンフーアクションを観るのも久しぶりなんですよね。
直接対決は思いのほか長い時間見せてくれて、満足度が高いです。
そういえば昔のカンフー映画というのはストーリーそっちのけで立ち回りがずっと続いていたなあ。
結局そこが観たかったので、それで全然OKでしたが。

ドリームマッチが観れるなら、ストーリーはヘボヘボでも許してあげようという気分で観に行っていたのですが、思いのほかしっかりとした脚本で、見応えありました。
ジェット・リー演じるサイレント・モンクの正体が実は・・・だったりとか、ジャッキー・チェンが扮するルーは不老長寿になって実は・・・とか、けっこうストーリーも考えているじゃないですか。
アクションに華を添えてくれる善悪の女性武道家もそれぞれ美しかったですし。
中国の女優さんというのはアクションやっても動きが美しいですよね。
それに対してジェイソン君は、あの二人の師匠について特訓しても、全然強そうに見えなかったなあ。

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2008年7月25日 (金)

「崖の上のポニョ」 一途な想い

宮崎駿監督の最新作。
今回は全編手描きのアニメーションにこだわって作ったということです。
僕の小さい頃は、手描きのアニメーションというのは当たり前のものだったわけですが、今では手描きが話題になってしまう時代なのですね。
隔世の感があります。

本作を観ながら、思い出したのが同じ宮崎駿監督のテレビアニメ「未来少年コナン」です。
まずその一つの理由は、映像的な雰囲気の類似でしょうか。
「ポニョ」は海が重要な舞台になりますが、「コナン」でも同様。
「コナン」では超磁力兵器によって世界の都市がほぼ水没した未来の世界が舞台になっています。
「ポニョ」で大水の後に取り残された宗介の家がひとつだけ海の中にぽっかりと浮いている様子は、「コナン」の「のこされ島」を思い出させましたし、宗介とポニョが船で海の没した森の間を進んでいく場面では「コナン」でバラクーダ号がハイハーバーに向かっていくシーンが浮かびました。
宮崎駿と方は浅瀬の海中のシーンを描くのが、誰よりも上手な気がします。
太陽光が海中を通り、そして海底の砂も明るく照らす。
アニメーションなのになぜか透明感を感じさせる色使い。
「コナン」でもラナが海底に沈んだコナンを助けようとするシーンは屈指の美しい場面ですが、「ポニョ」でもオープニングの海中のシーンはとてもきれいでした。

最近の3DCGアニメというのはコンピューター上に設計された図面をもとに作画されています。
アニメだけでなく、例えば「スピード・レーサー」のような実写映画もほとんどコンピューター上で作られていると言っていいでしょう。
この手法を否定するわけではありませんが、実写であるにも関わらず、なぜか人肌感みたいなものが薄れ、作り物感が出ているような気がします。
今回久しぶりに宮崎駿監督の手描きのアニメーションを観ましたが、絵であるにも関わらず、実写以上に人が、生き物が、活き活きと動いているように感じます。
水や波や飛沫でさえも生きているように感じます。
手描きというのは、コンピューターに比べれば正確さにかけます。
例えば厳密に見るとパースが狂っていたりもするでしょう。
でもそれが動きの中で自然に見え、逆に正確に描くよりも活き活きと見えるのならば、不正確でもいいわけです。
本作ではリサの車の疾走シーンなどは、宮崎駿監督らしいデフォルメが効いた絵で、とてもスピード感、臨場感がありました(「カリオストロの城」のフィアットが思い出され嬉しかったです)。
リサの車を波が追いかけ、そしてその上をポニョがタタタッと走っているシーンは宮崎アニメの中でも屈指のシーンだと思います。
次から次へと押し寄せる波。
波から波へとリズムよく跳んでいくポニョ。
これはコンピューターじゃできない絵のような気がします。

上に「コナン」を想起したと書きましたが、そのもう一つの理由は宗介とポニョの関係と、コナンとラナの関係の類似性でしょうか。
「コナン」ではコナンが好きになったラナを救うために、一途にガムシャラに行動していくという物語でした。
そのラナへの想いに一片の迷いのないコナンの姿に清々しさを感じたものでした。
本作では「コナン」と同様に、ポニョの宗介への一途な想いが描かれます。
ポニョの想いもまっすぐで迷いがありません。
その一途な想いがとても清らかに見えます。
思えば宮崎駿監督の多くの作品は「少年少女と大人」「自然と技術(これは科学技術という時もあれば、魔法といった技術である場合もある)」の対立の構図を持っています。
特に「もののけ姫」あたりから10年くらいの最近の作品はそういう傾向が強く、そして以前のように「少年少女」が単純にハッピーエンドを迎えることが少なくなってきているような気がしていました。
それは宮崎駿監督の変容していく社会、現実への諦めみたいなものが感じられなくもないなと思っていました。
本作では昔の宮崎駿監督の作品のような「少年少女」が一途な想いで幸せになるという物語になっていて、そのあたりがとても懐かしく嬉しくなりました。

最後に・・・。
宮崎駿監督の描く食べ物ってなんでこんなにおいしそうなんでしょう。
リサがいれてくれたハチミツ(?)入りのお茶、インスタントラーメンでさえごちそうに見えます。
「ハイジ」の白パンや、「カリオストロの城」でルパンと次元が食べるスパゲッティもとてもおいしそうだったよなあ・・・。

宮崎駿監督のインタビュー、対談集「折り返し点 1997〜2008」の記事はこちら→
宮崎駿監督作品「ルパン三世 カリオストロの城」の記事はこちら→

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2008年7月23日 (水)

「コールドケース シーズン1」 感情と記憶を解きほぐす

ジェリー・ブラッカイマー製作のクライム・サスペンスです。
このドラマを観るまで知らなかったのですが、アメリカでは第一級殺人罪には時効はないそうです。
そのような未解決の凶悪事件をタイトルにある「コールドケース」と呼びます。
ちなみに日本では死刑に当たる罪については公訴時効は15年。
その理由としては、時間が経つことによる証拠の散逸、また長期間の捜査による納税者の負担などがあるようです。
殺人等の重い事件について時効があるべきなのかという意見もあるようです。

時間が経てば経つほど、事件解決の可能性が低くのは容易に想像できます。
上に書いたように物的証拠はどんどんなくなっていきます。
けれどもこのドラマで、解決困難なコールドケースを解決する足がかりになるのは、事件に関わる人の感情、気持ちです。
主人公のリリーをはじめ、コールドケース担当者は事件に関係する人々の証言をとっていく中で、事件当時の人々の気持ちを解き明かし、それを事件究明に繋げていきます。
時間が経つことにより、逆に感情が変化し事件のことを証言できるようになる人もいる。
当時は重要視していなかったことに気づいたりもする。
関係者が事件後過ごしてきた時間というものが、彼らを感情を変化させ、記憶を甦らせ、事件への手がかりを与えてくれる。
このドラマにはよくある刑事ドラマやミステリーにあるような派手な銃撃戦やトリックはありません。
けれども少しずつ明らかになっていく関係者の愛情や憎悪などのさまざまな感情、その変化というものがとても見応えがあります。
同じブラッカイマー製作のドラマ「CSI:」がテクノロジーを駆使して事件解決を行うのとは、好対照と言えるでしょう。

事件当時と現在の関係者がオーバーラップさせる手法はこのドラマの本質を上手に表現していると思います。
オーバーラップにより、その間の年月(事件によっては数年、数十年と差がある)による変化というものを視覚的に直感的に伝わってきます。
また事件当時に流行った歌をBGMに使い、また当時のポピュラーな映像手法(数十年前だとモノクロフィルム風、十数年前だとホームビデオ風など)で再現するなど、時代性を表すことに気を使いかなり凝って作っているように思えます。

一話完結形式なので、シーズンを通しての大河ドラマ性などは薄いのですが、それでも主人公リリーの恋愛はなしや、彼女の過去に(家族との関係っぽい)何かあったようににおわせるので興味は持続します。
これらについてはシーズン1ではほとんど明らかにならないのですが、その後のシーズンでは徐々に明かされていくようです。
主人公リリーを演じているのは、キャスリン・モリス。
パッと見た目は甘い顔立ちなのですが、役としてはワーカーホリックとも言えそうなほど仕事に打ち込んでいるクール・ビューティの役柄。
やはりこういう感じの女性に弱い・・・(最近「SP」のところでも書いたなあ)。
リリーは刑事として仕事をしている時は髪をずっとアップにしているのですが、家で気を許したときに髪を下ろす場面が何回かあり、これがとてもキュートに見えるのも何かよいデス。

AXNではシーズン1終了後、すぐにシーズン2に突入。
続けて観れて嬉しいなあ。

「コールドケース シーズン2」の記事はこちら→
「コールドケース シーズン3」の記事はこちら→

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2008年7月21日 (月)

「SP 警視庁警備部警護課第四係」 まるで映画みたい

映画化決定ということで、遅ればせながらテレビドラマ「SP 警視庁警備部警護課第四係」を観ました。
オンエアが土曜日の11時過ぎという時間帯だったので、見逃してしまったんですよ。
深夜帯なのに平均視聴率15%越えをしたドラマというだけあっておもしろかったです。
テレビドラマという感じではなく、まるで映画みたいな丁寧な作りで、制作者のこだわりを感じました。
アメリカの映画では大統領警護等を担当するシークレット・サービスが題材の映画はいくつもありますが、日本で要人警護を担当するSP(セキュリティ・ポリス)を取り上げるのは思えば珍しいんですよね。

SPは「動く壁」と言われ、犯人の逮捕などよりもまず警備対象者(マルタイ)の安全をするのが仕事。
自分の命よりも、警備対象者の生命を優先させ、銃弾の前に自分の体すらも楯としなくてはいけません。
ドラマの中でも何度も語られていますが、彼らの最大武器となるのはマルタイの信頼。
警備対象者がSPが自分を命をかけて守ってくれると信じることが、彼らに楯になる勇気を与えてくれるのです。
SPというのは文字通り自分の命をかける仕事で、それは本当に相手との信頼関係がなければできないですよね。
仕事だからというだけでは、命はかけられません。
でも、思えば命をかけるほどのことではないですが、これは普段の仕事にもあるような気もします。
自分の仕事でもいっしょに仕事をしている相手と信頼関係を結べている時は、あきらめたくなるような苦しい局面でもなんとかしようという気力が沸いてきます。
相手のことを考え、そして相手も自分のことを考えてくれていると信じられるときこそ、がんばろうという勇気が与えられるような気がします。

テレビドラマというのは、一話一話のおもしろさというのもなければいけないのですが、やはりシリーズを通した構成というのが大事。
その点は脚本の金城一紀さんの仕事が見事でしたね。
導入編のEpisode1で主演の岡田准一さん演じる井上を中心にメンバーを紹介。
Episode2の病院占拠事件は映画かと思うような大掛かりな事件。
「ダイ・ハード」を彷彿させるようなテロリストを一人一人制圧していく様はなかなか見応えありました。
Episode3で、上に書いたようなSPという仕事の本質を描きます。
そのあとのEpisode0で、それまで時折挟み込まれていた井上の過去を描き、最終Episodeへの助走をつけます。
そしてEpisode4で井上の過去と深い繋がりのある総理大臣襲撃という大事件で、ドラマをクライマックスを迎えます。
このシリーズ構成がやはりすばらしい。
一つ残された尾形の振る舞いの謎が収集されていないぞと思ったら、映画への伏線でした・・・。
映画を観に行かなければならないじゃないかー。
まんまと制作者の意図通りに、観に行ってしまいそうです。
やはり結末は確認したいですよね。

脚本の金城さん、主演の岡田さんがアクションにこだわったということだけあって、そのあたりなかなか見応えあります。
攻撃するのではなく、相手を無力化することに主眼を置いた格闘術などは、なかなか見た目にも新鮮に見えました。
岡田さんのアクションもキレがあって、カッコいい。
映画ではもっと派手なことになるのかな。

最後にこのドラマでブレイクした真木よう子さん(笹本巡査部長)。
クールなスーツ姿がカッコいいですねー。
「アンフェア」の篠原涼子さん演じる雪平刑事とか、本作の笹本巡査部長とか、ツンツンしているクールな美人に弱いです・・・。

映画版「SP 野望篇」の記事はこちら→

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「ショーン・オブ・ザ・デッド」 「ホット・ファズ」お気に入りの方は必見!

「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン-」があまりにおもしろかったので、エドガー・ライトのこちらの作品もぜひ観たいと思っていたのですが、いつも行くレンタル屋さんでは置いていない様子・・・。
家から離れた別の店でようやく見つけました。
期待に胸を膨らませて観てみましたが、その期待に違わず、やはりおもしろい!
僕の一番のお気に入りの場面はクイーンの歌に合わせてゾンビをボコボコにするところ。
ゾンビに襲われて逆襲する恐怖に満ちた場面のはずなのに、なんだかクイーンの盛り上がっちゃう音楽で、その落差がなんともおかしい。
ここは是非注目です。
主演のサイモン・ペグ&ニック・フロストのコンビは「ホット・ファズ」とは違う役柄ですが、息が合っていますね。
ビル・ナイも出演していてびっくり。
さりげなくいい俳優さんを使いますよねえ。

「ホット・ファズ」は刑事ものへの愛にあふれる映画でしたが、本作はタイトルからわかるように「ゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)」への愛に満ちた映画。
ホラーものは苦手でまったく観ないので、どの程度のパロディ度なのかはわかりませんが、愛に満ちているのはわかります(劇中で売れない女優のダイアンが、ゾンビ風の歩き方を指南しているところが笑えます)。
「ゾンビ」以外にも、いろいろ他の作品へのオマージュがありましたね。
ショーン(サイモン・ペグ)が頭に怪我をして赤いネクタイを包帯代わりに縛って銃をぶっ放している姿は、「ランボー」かな。
ショーンと一緒に逃げる嫌みな男デイヴィッドは、なんだか「ハリー・ポッター」風でした。
4人で銃(とビール瓶)を向け合うのはジョン・ウー作品みたい。
エドガー・ライトの作品はそれらのネタがいかにもパロディというのではなく、ちゃんと作品の中にそれらがきちんと必然的に織り込まれているというところが特徴なんですよね。
なんか登場人物はその作品の中で(変なヤツはいるけれど)それぞれは真面目に動いている。
でもそれがなんだかおかしいっていうのが、ただのオバカムービーとは違います。
またただのパロディムービーではなく、作品としてもいろんな楽しみ方ができるのもこの監督の作品の特筆すべき点。
本作もホラームービーとしてはもちろん、恋愛もの、アクションものの要素も含むので、やはり何度でも楽しめそう。
「ホット・ファズ」が気に入った方は、是非観てください!

塀越えのネタは「ホット・ファズ」でも出てましたが、監督お気に入りのネタなのかな。
次回作でもまた出るか?

エドガー・ライト作品「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン-」の記事はこちら→

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2008年7月20日 (日)

「ミラクル7号」 周星馳的ドラえもん

あんまりな出来で愕然とした「少林少女」にエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ねていたチャウ・シンチー監督。
チャウ・シンチーの「少林サッカー」は好きな作品ですが、やや最近はその手腕が陰りが出てきているように見え本作を観ようか迷っていましたが、ようやく観てきました。
結果としては「少林サッカー」ほどおもしろいというわけではありませんでしたが、「少林少女」ほどひどくはなく、ほっとしたというところでしょうか。

貧乏な親子のところに、得体の知れぬ生物がやってくるというようなお話だということは知っていました。
予想通り「ドラえもん」というか、藤子不二雄が原作かと思えるようなお話でした。
その分、チャウ・シンチーらしい感じはやや薄れ、まとまってしまっている感じはしました(ま、うんちネタは藤子不二雄はやらないので、このあたりはチャウ・シンチーらしいですが)。
「ドラえもん」的なお話であるのに、予告を観た時はその生物、ナナちゃんことミラクル7号があまりかわいくなさそうだったので大丈夫かと心配していましたが、動いているところをしばらく観ているとかわいく見えてくるのが不思議。
特に百面相のところは愛くるしかったです。
あのうるうるした目のせいでしょうか。

全般的にチャウ・シンチーの映画としてはもの足りなさを感じましたが、この映画で収穫といえば、ティー(チャウ・シンチー)の息子役のディッキーを演じるシュー・チャオ。
男の子役ですが、本人は女の子だそうです。
チャウ・シンチーの大抜擢だそうですが、それも頷けます。
ほめ言葉ですが、まるでアニメのようにくるくると豊かな表情をつくれる子ですね。
初めてナナちゃんがジャッキーのところにやってくる場面のリアクションはなかなかのもの。
相手はCGだと思いますが、本当にそこにナナちゃんがいるような芝居がなんとも上手。
これからが期待されます。
チャウ・シンチーの作品といえば変な(顔)キャラがたくさんでてくるのも注目ですが、本作はややおとなしい。
本作でもジャッキーに恋する大きな女の子とかはいるのですが、やはり「少林サッカー」のあの変なダンスをする人には敵うべくもなく・・・。
このあたりのややもの足りないと感じたところでしょうか。

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「ジャージの二人」 大人のリセットタイム

大人になったら、しっかりと自分で決められる。
いろいろなことに悩んだりしなくてすむ。
だって大人だから。
子供の頃はなんとなく大人というものはとても大きな存在で、なんの疑問もなく「大人は偉い」って思っていました。
でも、いざ自分が大人になってみるとそんなことはまるでなく・・・。
大人になったほうが悩みは大きく、深くなっているような気もします。
大人だって普通に悩むし、時々は逃げだしたくもなる。
主人公の二人の親子(堺雅人さん、鮎川誠さん)はある夏、群馬の別荘にやってきます。
二人はなにか飄々としているように見えますが、実はそれぞれに悩み事を抱えています。
父親は仕事のことや娘のこと、息子は妻の浮気。
それぞれ悩みは深いように見えますが、その別荘では淡々と(ほんとうに)何もなく時間が過ぎていきます。
熱暑の東京とは違い、過ごしやすい高原は、二人にとって格好の逃走場所でした。

タイトルにあるように、その別荘では親子二人は小学校や中学校で着ていたようなジャージ姿で過ごしています。
ジャージ姿というのは、だらしない姿の代名詞のようにも感じたりもします。
けれど考えてみるとそれはとても自由で開けっぴろげな格好なのかもしれません。
なんてったって、寝る時も、起きているとき時もずっと同じ格好。
家の中でも外でも、まったく同じ。
人というのはやはり内面と外面というのがあると思います。
外に出かける時というのは、人の目線というのを気にするもの。
それが外面であって、だからみんな出かける時には服に気を使ったり、化粧をしたりするのでしょう。
人の目を気にすることもない別荘地でジャージ姿というのは、その外面を装着しなくてもいいという気楽さ、自由さのある格好のような気もしました。

そんな自由な場所であっても、主人公の息子を含め、人はケータイのアンテナが立つたった一カ所の場所に立つことで安心します。
しがらみから離れられる場所であっても、人は煩わしかったり、逃げ出したくなるような繋がりをもとめてしまうものなんですね。
何からも自由であること、何かと繋がっていること、人は相反する二つのものが必要なのでしょうね。
主人公二人にとって、あの別荘での時間はその相反するものをバランスをとるための、一年に一度のリセットタイムなんでしょう。

ちょっと余談。
昔、中学生の頃、学校の行事でスキー教室がありました。
初めてのスキーだったのでワクワクして行きましたが、そのときの格好といえば学校の体育の授業の時に着るジャージの上下。
ジャージに防水スプレーをかけ、それを着てスキーをしたのでした。
初めてだったし、みんな同じ格好だったので、その時は疑問を持ちませんでしたが、たくさんの中学生が全員ジャージ姿でスキーをしているのはすごい光景だったに違いありません・・・。

「アフタースクール」、「クライマーズ・ハイ」そして「篤姫」と最近活躍が目覚ましい堺雅人さん。
本作でもいい味だしていましたね。
堺さんにまさにぴったりの役でした。

堺雅人さん出演「アフタースクール」の記事はこちら→
堺雅人さん出演「クライマーズ・ハイ」の記事はこちら→

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2008年7月13日 (日)

本 「磯崎新の『都庁』 -戦後日本最大のコンペ-」

現在の東京都庁舎が新宿に出来上がったのが1990年で、僕が大学生の時。
自分がデザインを勉強していたときでもあり、そのデザインには衝撃を受けた。
ノートルダムを思わせるシンボリックなツインタワー、そしてファサードのデザインは未来的でもありながらなんだか伝統も感じさせられた。
その庁舎を作ったのが丹下健三。
そして彼とコンペを争ったのが弟子の磯崎新。
建築家には疎い僕でもこの二人の名前くらいは知っている。
この本は、その戦後史上最大のコンペを決して現実には見ることができない磯崎新の都庁のデザインができるまでを通して描いている。

日頃仕事としてデザインをしていて思うのは、デザインというものはものの考え方が現れたものということ。
すなわちコンセプトである。
自分の感覚で言うと、コンセプトができたら、仕事は先行きが見えたような気がする。
コンセプトができるのはすぐの時もあるし、全然でてこないときもある。
でてこない時はまさに五里霧中状態。
コンセプトの出し方、方法論というのはたぶん各人各様だと思うのだけれど、この本を読むと磯崎新という建築家の考え方というのがわかる。
その考え方というのは、その人の歴史、どのように育ち、どのようなものを見、どのような人に影響をされたかというのが、色濃く反映される。
そのあたりをこの本の著者はとても丁寧に描いている。

コンセプトが出来上がると先行きが見えたような気がすると書いたが、それはただ方向性が見えただけとも言える。
その考え方にふさわしい具体的なデザインができるかどうかは別問題。
それがなかなか悩ましいところではある。
ただ具体的な表現に関しても、自分が見聞きした経験というのが反映される。
コンセプトがあって、無意識のうちに自分の経験の中からふさわしいモチーフなどを引っ張りだしてくるという感じだろうか。

分野はちょっと違うが、偉大な建築家である磯崎新のものの作り方というのが垣間見え、非常に勉強になった本である。
建築に関しては門外漢であるけれども、とてもわかりやすい内容で、ボリュームの割にすらすらと読むことができた。

今の東京都庁舎も好きなのだけれど、磯崎新の庁舎も見たかった気がする。

「磯崎新の『都庁』 -戦後日本最大のコンペ-」平松剛著 文藝春秋 ソフトカバー ISBN978-4-16-370290-2

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2008年7月12日 (土)

「闘茶 tea fight」 自己との闘いが浅い

実はけっこう楽しみにしていた作品。
料理を題材にして対決する物語は漫画やアニメ、映画でも数々と作られてきましたが、お茶で闘うというのはなかなか新しい。
お茶というのはどちらかというと「静」なイメージがあるので、それが闘いという「動」のイメージにどのように変換されるのかというのに興味がありました。

オープニングはアニメーションで「鉄コン筋クリート」のスタジオ4℃制作していて、これはさすがの出来。
期待度は高まりましたが、良かったのはここまででした。
展開がどうにも良くありません。
話を進めようという脚本の意図が見えてしまうところが、とても辛い。
例えば、台湾で美希子(戸田恵梨香さん)がお金がなくなったときに合わせたように村野がやってくるとか。
物語の語り手である伝説の茶人陸羽が、圭(香川照之さん)をお茶の先生のところに導くところとか。
そのような都合のいい展開がいくつもあり、やや興ざめしてしまうのです。
当然フィクションなので、登場人物の動きや出会いというのは脚本が意図して作っているものなのですが、それをいかに物語の中では自然に行うかというのが大事かと思うのです。
そういう意味では、脚本の練りが甘いと言わざるをえません。
また観賞前に期待していたお茶の「静」が闘いの「動」にどのように変わるか、映像化されるかというのも、それほど驚くことはなく、こんなものかという印象に終わりました。
「闘茶」とは相手と闘うのではなく、自分との闘いだという答えはなるほどと思ったのですが、その自分の内面の闘いが、回想シーンだけというのはなんとも浅いような気がします。
自分との闘いというからには、闘う登場人物の背負ってきたもの、内面について深く描かれるべきなのですが、圭以外についてはさらりと描かれているだけなので、その自己との闘いがどれほどのものなのかというのがあまり感じられません。

おもしろいテーマを扱っているし、日本・台湾の俳優・スタッフで作っている映画なので、期待はあったのですが、残念な出来であったように思います。
香川照之さんの「だめおやじ」っぷりが良かったのでもったいない。
戸田恵梨香さんがかわいかったのだけが救いです。

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「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」 前作の不満点を見事に払拭

昨年公開された「ゲゲゲの鬼太郎」については記事を見直すと、かなり手厳しい内容を書いていました。
脚本はかなり甘かったと思いますし、特殊効果もお粗末、俳優陣はがんばっているように見えましたが、全体的にはただのコスチュームプレイを脱しきれないような印象がありました。
普通でしたらそのような印象の作品の続編はスルーするところですが、予告がちょっと前作とは違う印象だったので、気になって観てきました。

前作は子供の観賞にもきびしいかと思いましたが、一転して大人の鑑賞にも堪えうるとよくできている作品になっていたと思います。
前作との大きな違いはテーマをきちんと設定しているということではないでしょうか。
今回の作品のテーマがしっかりしているということにより鬼太郎というキャラクターがしっかりと地に足がついているようになったという気がします。
日本人というのは八百万の神というように、古来より自然の至る所に人とは違うものというような存在を感じてきました。
神とは言っても、西洋で言う神とは違います。
キリスト教の神は絶対神であり、それは絶対的な善を表しています。
けれども日本で言われる神というのは、絶対的な善ではなく、いいこともすれば悪いこともする、極めて人間的なものです。
雨の神は、人間にとって恵みの神にもなりますが、時には洪水を引き起こすやっかいな存在でもあるわけです。
それは自然の擬人化と言っていいかもしれません。
「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪というものも同じような存在と考えてよいでしょう。
妖怪というのは自然を擬人化した存在なのです。
本作では妖怪総大将であるぬらりひょんが人間に対し戦いを挑みます。
けれども彼らは決して悪ではありません。
いいように自然から搾取し続けてきたのは人間なのです。
我慢に我慢を重ねてきた妖怪たちは人間に戦いを挑む。
何かこれは昨今の地球温暖化などの諸問題の発生を想像させます。
ぬらりひょんは、裏切り、嘘をついてきたのは人間だと鬼太郎に言います。
なぜそれなのに人間に味方をするのかと。
それに対し鬼太郎は「人間は悪いということを反省して、それを直そうとすることができる。それを信じたい」と言います。
これを言うことにより鬼太郎というキャラクターの存在感が、前作に比べしっかりと大きくなった気がします。
言うなれば鬼太郎は、人と自然の間にある存在であり、陳腐な言い方になりますが、その架け橋となる存在です。
搾取だけする人間、その搾取に反乱する自然。
ただ何もしなければ両者は決して相容れることはありません。
けれども歩み寄りの努力はできる。
特に人間は。
文明を維持しつつ、けれども破滅的な搾取はなるべくしなように工夫をしていく。
我々には見えない鬼太郎のような架け橋となってくれる存在が自然側にもいてくれると信じられれば、そういう努力をしていかなければならないだろうと思えるような気がします。
子供たちもなんとなくそのようなことは感じてくれるのではないでしょうか。

前作の不満点の改善ポイントとしてはテーマをきちんと設定しているということに加え、キャラクターが存在する世界観の構築というところもあります。
前作はキャラクター造形がどうも画面で描かれている世界に馴染めておらず浮いているような気がしました。
デパートの屋上にキャラクターのぬいぐるみが来ているような、へんな非現実感、安っぽさとでも言いましょうか。
けれども今回は映像のタッチをダークな方向に振り、またキャラクターの造形もややおとなしめにしたからか、作品世界の中では妖怪がとても馴染んでいたように思います。
映画の中の世界に普通に妖怪がいそうだと思える感覚でした。
この感覚というのはその作品に没入する際にはとても重要で、本作は前作の反省点をきちんと消化してできているように思えました。

映像的にもかなり見所あるところがありました。
個人的に感心したのは、最後のガシャドクロのシーンです。
巨大なガシャドクロが動き出すところは、歌川国芳の浮世絵の骸骨(『相馬の古内裏』)を彷彿させるようなところもあってこれはなかなかいいセンスをしているなあと思ったりしました。

監督も、主要な役者も同じで、こうも前作とイメージが違うのはけっこう意外ではありました。
唯一違ったのは脚本家。
やはり映画は脚本がしっかりしているかしていないかということが大事なのだなと改めて思いました。

前作「ゲゲゲの鬼太郎」の記事はこちら→

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2008年7月11日 (金)

「ピューと吹く!ジャガー THE MOVIE」 笑いのツボ

興味は合ったのですけれど、単館ロードショーだったので見逃してしまっていた作品。
DVDがリリースされたので、やっとレンタルで観ました。
原作漫画も読んだことがなかったので、予備知識ゼロでの観賞です。

この手のナンセンスコメディというのは、ハマれるかハマれないかというのは、とても個人的で感覚的なもののような気がします。
まさに笑いのツボというのがそれぞれの個人で違う感じでしょうか。
ツボにはまればヒーヒー笑いますが、はまらなければクスリとも笑えない。
ストーリーものの映画だと、脚本や演出、編集などについて、いいか悪いかを分析することはできるような気がしますが、「笑い」というものはとても分析しにくい。
笑うときは、これこれこうだから笑おうと思って笑っているわけではないですから。
三谷幸喜さんの作品のように構成を計算して笑わせるコメディというのもありますが、本作のようなナンセンスものというのはまったく違う。
笑えるか笑えないか、好きか嫌いか、まったく個人的な感覚なのです。
笑いは分析できないと言いながら、グダグダと書いてしまいましたが、何故かというと、僕個人は本作であまり笑えなかったからなのです。
原作は人気漫画ということですから、その笑いが好きな方は大勢いるのでしょう。
こういうコメディというのは、笑えなかったりすると、なんだかひとり乗り遅れてしまったような感じでやや寂しかったりするものです。
先に書いたようにストーリーものは楽しめなくても、作品が悪かったりすることが分析できて、納得できたりするのですが、ナンセンスコメディというのは、作品が悪いのではなく、自分が笑いのセンスがなかったのかしらんと思ったりしてしまったりするのですよね。
本作品でも要潤さん演じるジャガーがボケる時の間などいい感じのところはいろいろあったのですが、観終わって「ああ、笑った笑った」と思えるような爽快感はなかったんです。
これは笑いのツボというか、好みが合わなかったとしかいいようがない。
へんなキャラクターばかりが登場するという点では同様の「魁!クロマティ高校」は楽しめたんですけれど・・・。
「笑い」というのは奥が深いのでしょうね。

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2008年7月 6日 (日)

「テラビシアにかける橋」 橋を渡る力

学校に行けばいじめられ、家では家計が苦しく現実を見ろと親に言われる少年ジェス。
彼は想像した物語の絵を描くことだけが楽しみでした。
ある日、隣の家にひとりの少女が引っ越してきます。
彼女はレスリー。
レスリーもずっと友達ができずにいて、そしてジェスと同じように物語を作るのが好きな少女です。
二人は次第にお互いの似たところに気づき、そして二人だけの秘密の場所で空想の物語を作り、遊ぶようになります。

そういえば、子供の頃は草むらに秘密基地などを作って遊んでいました。
今思えばとってもとっても小さな草むらなのですが、自分の背丈以上に高くはえている草の茂みは、子供の自分にとっては森のようでもありました。
基地にいろんなものを持ち込んだりしていましたね。
子供の頃は、大人には見えないものが見えるのかもしれません。

レスリーを演じていたアナソフィア・ロブがすごぶる魅力的でした。
快活で、聡明で、男まさりで、へんに女の子女の子していないところが絶妙なキャスティング。
あまり女の子してしまうとジェスとの関係が小さな恋のような話になってしまいそうですから。
二人は恋というよりも、同じ想像の王国で遊ぶことができる同志のような関係だと思うのです。
そのアナソフィアの表情がとても活き活きとしていてとても良かったです(テラビシアへのロープでブラブラしているところなどは特に)。
そんなレスリーに感情移入をしていたので、あのような展開になったとき、観ていてとても動揺してしまいました。
なぜ、こんないい子が死ななければならないの?
ハッピーエンドに何故してくれないの?と。
でも改めて考えてみるとその動揺はたぶんジェスが感じたのであろうものと同じだったんですよね。
たぶんジェスの頭の中にも、何故?どうして?という疑問が溢れていたのだろうと思います。
突然に人にはどうしようもないことというのは起こることがあります。
いくら否定したくても起こってしまったことがある。
それは無慈悲で残酷なこともあります。
でもいくら辛くても、たぶんそれは受け入れなくてはいけないもの。
それができることというのが生きる力であったりもするんですよね(最近読んだ「さよならバースディ」という小説でも相通じるようなテーマでした)。

心の目で想像力を羽ばたかせることが力も大事。
現実をしっかりと見ることができる力も大事。
それは現実とテラビシアとの間の橋を自在に渡ることができる力であったりするわけです。
たぶん大人になっても橋を渡る力を持っているということが豊かに生きるということなのかもしれません。
もう草むらに秘密基地を見ることができない僕は、橋を渡る力はないのでしょうね。
ちょっと悲しいですけれど。

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本 「さよならバースディ」

まったくの偶然だが、続けて読んだ本に「さよなら」という言葉がタイトルについていました。
こちらの「さよなら」のバースディとはボノボという猿の一種の名前。
バースディは霊長類研究センターで類人猿の言語取得に関する研究の研究対象です。
この研究センターではバースディに人間の言葉を教えようとしていて、バースディは100語弱の言葉を習得しています。
田中真はもともとプロジェクトを立ち上げた教授を自殺で亡くし、それ以降このバースディ・プロジェクトを実質的に取り仕切っている。
そしてそのプロジェクトをいっしょに行っている大学院生由紀と付き合い、そしてプロポーズをしていた。
順風満帆かと思っていたそのとき、以前教授が自殺したその場所で婚約者の由紀も自殺をした。
その現場にいたのは、バースディのみ。
彼女が死んだのは自殺なのか、事故なのか、殺人なのか。
真は、事件を見ていたバースディとの100語にも満たない言葉だけによるコミュニケーションによりその事件の真相を知ろうとする。

この作品、サルとのコミュニケーションにより事件を解くというのが、ミステリーとしてもなかなかのアイデアであると思います。
でも読んでいてぐっとくるのが、愛している女性由紀を失ってしまった真の気持ちだ。
由紀は真がプロポーズをしたその日に死んだ。
彼女もプロポーズを受けてくれたと思ったのにも関わらず。
ほんとうに自分は、彼女の気持ちを知っていたのか、自殺するほどの悩みを抱えていたのかと真は悩みます。
研究所の周りの人間は、事件が起こると掌を返すように、真やバースディ・プロジェクトに接する。
それまではプロジェクトが資金援助のネタとしてふさわしいと考えて担いでいたのに、それがなくなると皆が中止を訴える。
人と人の気持ちの通じなさ、その空しさみたいなものを真が感じているのがひしひしと伝わってきます。
それに対して真とバースディの間には、言葉や種を越えた信頼感みたいなものを感じます。
人と人よりも、人と猿の方が気持ちが通じる。
人というのはなんなのだろうと思ってしまいます。

最後、由紀の本当の気持ちが真に伝わります。
そこで何か救われたような気持ちになりました。

「さよならバースディ」荻原浩著 集英社 文庫 ISBN978-4-08-746295-1

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本 「さよならダイノサウルス」

ロバート・J・ソウヤーはいくつかのプロットをうまく組み合わせて、一つの物語にするのがとても長けています。
以前紹介した「イリーガル・エイリアン」では、異星人とのファースト・コンタクトと法廷ミステリーというまったく関係ないようなプロットを見事に組み上げていました。
本作「さよならダイノサウルス」では、恐竜、時間旅行、異星人との接触などなどまたもや関係ないようなプロットが巧みに組み合わされています。
恐竜時代への時間旅行と言えば、映画化もした「雷のような音」(映画のタイトルは「サウンド・オブ・サンダー」)などが有名ですが、そのような昔からいくつもの作品を生み出したありふれたプロットを使いつつも、意外性に満ちた物語をソウヤーは作ってくれます。
白亜紀末期、まさに恐竜が絶滅する時代に赴いた古生物学者二人。
彼らが降り立った地球は、月が二つあり、さらに重力も現在の地球よりも少なかったのだ。
さらに彼らが接触した恐竜には、得体の知れぬゼリー状の物体がとりついているらしく、その物体は知的生命体でとりついた生物をコントロールをできるらしいのだ。
そしてその生物は火星人らしい。
こうやって書くと、こんな物語、SFとは言ってもどうやって収束させるのだと思ってしまいますが、これが見事に最後はまとめられています。
その収束の仕方もハードSF作家らしく理路整然としています(とはいえセンス・オブ・ワンダーもあります)。
現在一般的には恐竜の絶滅の理由は、巨大隕石の激突によるというのがポピュラーですが、この作品の答えはまったく違います。
それがまたまったく想像できない、突拍子もない理由。
けれどもこの作品の中の理屈ではしっかりと辻褄が合っています。
まったく見事。
ソウヤーのたてた恐竜絶滅の理由、作品を読んでぜひお確かめください。

ロバート・J・ソウヤー作品「ターミナル・エクスペリメント」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「占星師アフサンの遠見鏡」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「イリーガル・エイリアン」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「フラッシュフォワード」の記事はこちら→

「さよならダイノサウルス」ロバート・J・ソウヤー著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011164-2

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本 「アンフェアな月」

雪平夏見刑事が主人公の刑事ドラマ「アンフェア」の原作小説である「推理小説」の続編です。
ドラマは原作のキャラクターと最初事件だけは同じですが、その後の展開は独自に進み、映画にて決着がついています。
本作は原作小説の続編になります。
読んでみると雪平というキャラクターは原作の方がよりクールで、より不器用な生き方をしているように思えます。
娘もドラマよりは年が上の設定なのか、お互いに相容れぬところもあって、うまくいっていません。
そのあたりハードボイルド小説のようなところもありますね。
今回の事件はまだ3ヶ月にも満たない乳児の誘拐事件。
ミステリーなので種明かしはできませんが、やはり一筋縄ではいかない事件になっています。
後半になるにつれ、事件の真相が明らかになっていくところはやはりページを早く繰りたくなります。
しかし、前作の「推理小説」もそうでしたが、本作も事件の真相はとても後味が悪い。
小説自体がというよりも、このような事件が起こりうるかもしれないという今という時代というのはやはりなにか正しくないような気がしてしまいます。
このシリーズの扱っている事件は、とても現代というものを反映しているという気がします。
その犯人像はとても自意識が高いというのが、共通点。
まずは自分、自分が大事。
そしてその自分は、世間に不当に評価されている。
そうした肥大化した自意識によって、何かをしたら他者がどうなるかということまで頭が回らない。
なにか根本的に想像力が欠如しているように感じます。
これは小説の中に限っていることではなく、実際に最近起きるいくつかの事件にも何か同じようなものを感じてしまいます。
そういう意味で現代の人間に巣食う闇の部分にスポットをあてているこのシリーズ、今後も注目したいと思います。

刑事 雪平夏見 シリーズ第一作「推理小説」の記事はこちら→
刑事 雪平夏見 シリーズ第三作「殺していい命」の記事はこちら→

「アンフェアな月」秦建日子著 河出書房 文庫 ISBN978-4-309-40904-7

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2008年7月 5日 (土)

「ホット・ファズ -俺たちスーパーポリスメン!-」 一粒で何度でもおいしい

無茶苦茶おもしろいです、この作品!
同じ日に観た「スピード・レーサー」があまりな出来だったのですが、この作品観てすっかり欲求不満解消で、すっきり!

ニコラス・エンジェル巡査はロンドン警視庁で検挙率No.1、そして任務に勤勉実直なスーパー警察官。
けれどもそのために警察内で妬まれ、疎まれ、田舎の警察署に左遷させられてしまいます。
その村はずっと犯罪が起きていないと言われているのどかな場所。
仕事といったら、行方不明の白鳥探しや、バザーの警備などといったなんとも穏やかなものばかり。
コンビを組むのは刑事ドラマオタクのダニーという若い警官。
けれどもそののどかな村で猟奇的な連続殺人事件が起こる・・・。

基本的には大笑いするための映画だとは思いますが、そこらへんによくあるようなオバカ映画とはちょっと違います。
確かにオバカな笑いもあるのですが、イギリスらしいシュールな笑いもあったり、ギャップで笑わせたりと、笑いについても多種多様。
オバカな笑いだけだとノレなかったりすると最後まで空しかったりしますが、この映画は必ず誰でも笑える場面があるはずです!
またこの作品、数々の警察・刑事映画への愛情たっぷりの作品でもあります。
この作品、パロディというよりはそれらの映画へのリスペクトなんですよね。
刑事もの好きな方なら絶対大笑いできること請け合いです。
監督も相当にこのジャンルが好きなんでしょう。
特に「ハートブルー」ネタ(通好みっ)は場内バカ受けでした。
拍手も出てましたよ。

お笑い映画なのですが、実はミステリー映画として見ても、なかなかよくできています。
村で続く猟奇的な殺人事件の真相は、アガサ・クリスティーを彷彿とさせるトリック。
アクション映画として見ても「ヒート」や「男たちの挽歌」を思わせるような激しい銃撃アクション(2丁拳銃もあります!)がふんだんに。
この銃撃戦は普通のアクション映画と比べてもひけはとらなかったですね。

お笑い映画としても、ミステリー映画しても、刑事アクション映画としても、満足度が高い映画でした。
一粒で何度でもおいしい作品です!
もう一回観に行こうかな・・・。

エドガー・ライト作品「ショーン・オブ・ザ・デッド」の記事はこちら→

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「スピード・レーサー」 監督の自己満足度高し

子供の頃、再放送で何度となく観たアニメ「マッハGoGoGo」がハリウッドで実写化。
タツノコプロのバタ臭いキャラクターデザイン(だからアメリカではウケたのかな)はあまり好きではなかったので、オリジナルにそれほど思い入れはないのですが、日本のアニメがアメリカで映画化、そしてあの「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が監督となれば、やはり気になります。
「マトリックス」は続編が出るたびにどんどんおもしろくなくなっていったので、心配の方が大きかったですけれども(不幸にもその予想は的中)。

キャラクターのイメージとか、マッハ号のデザインなどは驚くほどアニメ版に忠実だったように思えます。
出演者はなんだかアニメのコスプレやっているみたいでしたし、ハンドルにあるボタンを押すとジャンプしたり、回転ノコがでてきたりというマッハ号の仕掛けもオリジナルそのまんま。
テーマソングもいっしょでしたしね。
オリジナルのアニメをなるべく忠実に、さらにスピード感とカラフルさは数倍にもグレードアップさせて実写化したという感じでしょうか。
でも、ただそれだけで終わってしまったという印象を受けました。
確かにCGを使ってここまで作り上げたということ、あの色彩感覚は凄いとは思いますが、それ以外は何もない。
脚本が悪いのか、編集が悪いのか、どうも全体的にブツブツと切れたような流れがとても気になります。
特にテジョとスピード・レーサーが手を組むあたりはかなり唐突感がありました。
そのあたりがしっかり描れずに納得がいっていないと、後半1/3は観ていてどうもしっくりといきません。
忍者もどきが登場する格闘シーンなんかもそうですね。
そのためかキャラクターにまったく感情移入することはなく、スピード感があるレースシーンとは裏腹に、観客としては淡々と冷めた気分で映画を観てしまうことになってしまいます。
オリジナルのアニメを観ていた僕からしてそうですから、この映画で初めて触れるような方が観たらどうなのでしょうと思ってしまいました。
なんとなくウォシャウスキー兄弟が映像化したかったシーンだけをつなげてつくったように見えて仕方がありませんでした。
「エヴァ」の庵野秀明監督が、円谷プロの「帰ってきたウルトラマン」に思い切り影響を受け、学生時代に「帰ってきたウルトラマン」を自主映画で撮っていたように、この映画もウォシャウスキー兄弟が自分たちの満足のためだけに撮ったという感じがしました。
実はあんまり人を楽しませようという気はないんじゃないかなあ。
マニアのための、マニアによるとてもとてもお金をかけた自主映画ってところでしょうか。
作っている本人たちの満足度は、たぶんスゴく高いはず。
観客は置いてけぼりですが。

どうせレースアニメを実写化するのだったら、今度は「チキチキマシン猛レース」をやってほしい。

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2008年7月 4日 (金)

「西の魔女が死んだ」 あるがままを認める

世の中が複雑になっているのでしょうか。
それとも人が複雑に考えるようになってしまったのでしょうか。
大人だけでなく、子供までもいろいろなことを考え、気にしなくてはいけなくなっているのが、今。
様々なしがらみに日々気を使いながら生活していて、いつしかとてもとても窮屈に感じてしまう。
たぶん多かれ少なかれ誰しも感じたことがあるでしょう。

中学校に入ってから登校拒否になってしまった、女の子まい。
彼女はとても繊細で感受性が高く、かつ物事をしっかりと考えることができる頭を持った子。
でも頭がいいからこそ、とてもいろんなことを考えて、気にして、そしてある時、生きていくことそして死ぬことが怖くなって身動きができなくなったのでしょう。
そんなまいは、母親方のおばあちゃんの元を訪れます。
おばあちゃんのことを「魔女」と密かにまいは呼んでいます。
そんなおばあちゃんと暮らす生活の中で、まいは生きることということを学んでいきます。

このおばあちゃんがとてもいい。
彼女はたとえ相手が子供であっても、しっかりと相手の話を聞き、子供がわかるように丁寧に答えてくれる。
大人目線で上から話すということはありません。
子供が手伝えば、ありがとうと言ってくれる。
褒めてくれる。
信じてくれる。
でも間違ったことをしたら、やさしく諭すように教えてくれる。
彼女は子供をあるがままにとらえ、その存在を肯定してくれているのです。
彼女はすべてのものをあるがままにとらえ、認めています。
自然のことも、人のこともあるがままに。
たぶん、人も生活も本来はシンプルなもの。
それを複雑に考えすぎ、人は袋小路のようなものに陥ってしまうのかもしれません。
まいは頭の良い子だから、いじめられて転校することがとても卑怯なことだと思います。
自分が変われないからいけないのだと感じます。
でもおばあちゃんは自分が楽に生きられる場所を選ぶのに後ろめたいことはないと言います。
彼女が言っているのは、自分自身で自分のことを認めてあげなさいといことなのでしょう。
自分のこともあるがままに受け入れ、そして自分の意志で決める。
自分で決めるためには、まずは自分自身を認めなくてはいけないのですよね。
たぶんそれが生きること。
まいはそのことを、西の魔女の元での「魔女修行」の中で学べたのだと思います。

おばあちゃんは、亡くなるときまいにあるメッセージを残します。
死んだらどうなるのか、自分がなくなってしまうのが怖いというのは、僕も同じくらいの時、夜に考えてしまい怖くて眠れなくなったことがあります。
当然残されたメッセージは魂が残したというようなことではないと思いますが、怖いと言って泣いていたまいのことずっとおばあちゃんは忘れずにいてくれて、死ぬときまでも彼女は孫のことを考えて怖い思いをさせたくないと思ったのでしょう。
そんなおばあちゃんの想いが伝わってきて、泣けてきました。

上品で、やさしくて、包容力のあるおばあちゃんをサチ・パーカーが好演。
彼女以外はないと思えるほどの適役でした。

原作小説「西の魔女が死んだ」の記事はこちら→

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