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2008年6月29日 (日)

「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」 ドジッ娘エヴリン

鬼の居ぬ間に、じゃなかった、インディが居ぬ間に冒険活劇というジャンルを守ってきた本シリーズ。
インディが19年振りに復活するという時に、こちらも第3作めが公開されるのも因縁でしょうか。
3作目は8月公開ということですが、早めの予習ということでDVDで観賞しました。

1作目である本作が公開された時、インディが大好きな僕としては、どうせ二番煎じだろうと思いを持ちながら観に行ったのですが、思いのほかおもしろかったので驚いた覚えがあります。
当然、自分の中の評価でインディを超えるということはなかったのですが、十分合格点です。
ちょうど十年くらい前の作品ですが、スペクタクルシーンにCGを上手に取り入れた作品のはしりだったように思います。
ミイラとのチャンバラなどは今観てもなかなかよくできてます。

主人公のオコーネルは正直言って、この手の冒険ものとしてはそれほどキャラクターとして際立って特徴的ということはないのですが、彼とコンビを組むヒロインのエヴリンがなかなかに味わい深い。
こういうアドベンチャーもののヒロインというのはけっこう気が強くて行動力があったりするタイプが多いように思いますが、エヴリンにはさらに「ドジッ娘」という要素が加わっています。
登場する場面(図書室のシーン)からしてちょっとおとぼけな感じですし、そもそもこの物語の事件は彼女のおっちょこちょいが引き起こしたんじゃないのというところもあったりして。
そういう意味では、物語を展開させるキーパーソンなわけなんですよね。
登場したときはなんだか地味なオタク風味があるドジッ娘だったのに、後半くらいからは(オコーネルが魅かれていくのと同じくして)次第に魅力的な美女に描かれていく感じは、なんだかアニメの「萌え」的な要素を感じたりもします。
眼鏡をしているととても地味だけど、素顔になると実は美人みたいな。
その役柄に、当時それほど有名ではなかったレイチェル・ワイズがとてもよくはまっていたように感じます。
前半のドジぶり、後半の美女ぶり、この差を魅力的に演じていたように思えます。
レイチェル・ワイズもこの作品からですよね、ブレイクしたのは。
2作目になるとオコーネルとエヴリンは結婚している設定になっていて、エヴリンのドジッ娘ぶりはなくなっていたような気がします。
作品としてはほとんど印象が残っていないのは、そのあたりのキャラクター的な特徴が薄くなっていたからでしょうか。
8月公開の3作目にはレイチェル・ワイズは出演せず、他の方がエヴリンを演じるということですが、どんな感じになるのでしょう?
レイチェル・ワイズもスターだからなあ、もうドジッ娘とかは演らないのでしょうか。
やや、寂しい。

シリーズ三作目「ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝」の記事はこちら→
スティーブン・ソマーズ監督作品「G.I.ジョー」の記事はこちら→

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本 「「複雑系」とは何か」

「複雑系」とか「カオス理論」などという言葉をはじめて聞いたのは、マイクル・クライトンの「ジュラシック・パーク」の中だったと思います。
小説の中では完璧なシステムはありえないというようなことを、数学者マルコムが「カオス理論」などの話をして説明をしていたと記憶しています。
もともと自然科学というものは、目の前に広がる自然・世界をいかに単純な方法で説明しうるかということを考えてきた学問と言えるでしょう。
その中心にあるのは機械論的な考え方です。
世界の捉え方を細分化し、一つの法則を見つけ出す。
そしてそれらの法則を積み上げていき、世界を説明しようとする。
ここにあるのはパーツを積み上げていけば、全体の仕組みは説明できるという機械論的な捉え方です。
けれども実際の物事はそうはいかない。
細分化された法則というのは、実は近似値であり、そこには多少なりともずれが生じています。
そのずれは仕組みが大きくなるにつれ、指数的に大きくなっていき、予想もつかない振る舞いをするようになります。
つまり単純に積み上げても設計図のようには全体は動かないのです。
個のパーツの動きはその上位の部分に影響を与える。
また上位の構造は個のパーツに影響を与える。
これらは全体として複雑な動きをする系となっています。
これを個々に分解する機械論的な捉え方ではなく、複雑なまま取り扱うという考え方が「複雑系」の考え方と言っていいのかと思います。
この「複雑系」の考え方は、生物学、物理学、経済学さまざまな分野に応用できるようです。
個人的には、物事を考えるときはマクロ的視点・ミクロ的視点を両方もつのが大事だと普段から思っていたので、この「複雑系」の考え方というのはとてもしっくりきていています。
この本が出版されたのは十年以上前なので、今はもっと「複雑系」の研究は進んでいるのでしょうね。
その研究からはどのように世界は見えるのでしょうか。

「「複雑系」とは何か」吉永良正著 講談社 新書 ISBN4-06-149328-0

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「図書館戦争<アニメ>」 好きなものを読む自由、観る自由

有川浩さんの「図書館戦争」シリーズのアニメ化作品です。
原作の「図書館戦争」や「図書館危機」のエピソードを抜き出して、再構成しているという感じでした。
原作小説の方と比べると恋愛成分はやや少なめ(笑)、比較的誰にでも楽しめる作品になっていると思います。
小説を読んでいると、そのキャラクターの姿形というのは自分の頭の中で想像するしかないわけですが(原作の徒花スクモさんのイラストは顔は描いてないし)、アニメを観てみると郁はほぼイメージ通りでしたが、堂上教官って二枚目さんだったんですねー。
もっとチビで、ゴツい感じのイメージで読んでおりました。
原作のベタ甘テイストは好きなので、アニメの方はややそのあたりが薄味だったので、ややもの足りなくもありましたが、一般的に受け入れられるのはこういうところなんでしょうねえ。

最終回はアニメのオリジナルでしたね。
物語の世界における図書隊の意味を郁が話す場面はなかなか良かった。
僕は本や漫画や映画やアニメなどが大好きで、それらを読んだり観たりして感じたことっていうのが、自分自身の現在に繋がっていると感じています。
人にあまりこれを読めとか観ろと言われるのは好きではなく、自分の興味のおもむくままに自由に吸収していくことの楽しさといったら何ものにも変えられません。
自由に本を読んだり、映画を観たりすることができる、今の時代はとても恵まれているのでしょう。
日本でも何十年か前はそうはいかなかったですし、現在でも他の国々ではそれを許されていないところもあります。
その自由さというのは、今の僕たちにとって至極当たり前で、ややもすると空気のようなことに感じてしまいがちです。
でもそれは守っていくという意志がないといつの間にか形骸化されてしまう危険性もあるわけです。
それは国家からの要請かもしれませんし、原作でも多少触れている本質を理解していない上での差別論議などからも起こってしまうかもしれません。
僕らは好きなものを読む、観るということの自由というものを自覚するということがやはり大事なような気がしました。

原作 図書館戦争シリーズ「図書館内乱」の記事はこちら→
原作 図書館戦争シリーズ「図書館危機」の記事はこちら→
原作 図書館戦争シリーズ「図書館革命」の記事はこちら→
原作 図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅰ」の記事はこちら→

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2008年6月28日 (土)

「奇跡のシンフォニー」 世界は音楽で満ちている

11年と16日の間、施設で暮らしている孤独な少年(フレディ・ハイモア)。
彼は世界が奏でる音楽を聴き、それを表現することができる天賦の才能を持っていました。
風の音にメロディを聴き、都会の喧噪にリズムを感じる、世界のハーモニーを演奏することができる。
彼はその音楽がきっと両親とひきあわせてくれると信じていました。
世界は音楽で満ちている。
音楽がきっと奇跡を起こしてくれる。

相変わらずフレディ・ハイモアくんの名演が光っていました。
ストーリーは都合が良すぎるかと思えるほどに、予想を裏切ることもなく展開します。
けれど、だからこそ安心して観れます。
こういう物語はやはりハッピーエンドがいい。
そのような都合の良い展開はある意味ファンタジーとも言えるかもしれませんが、軽かったり安易だったりするような感じはありません。
たぶんそれはフレディ・ハイモアの演技によるところが大きいかと思います。
エヴァンが音楽を演奏しているときのほんとうに楽しそうな笑顔、時折見せる意志の強そうな眼、顔も知らぬ両親を思うときの寂しそうな表情。
もはやフレディ・ハイモアが演技しているというよりは、そこにエヴァンという少年が本当にいて、彼が感じ生きているように思えてきます。
そのような存在感が、ややもすると安易なファンタジーのようになりそうなところを、しっかりと地に足がついた物語にしているように思えます。

あともう一人の主役とも言える音楽も良かったです。
クラッシックからロック、ゴスペルまでさまざまな音楽がストーリーの展開にあわせて織り込まれています。
母親のライラのチェロ演奏と、父親のクリスのボーカルがオーバーラップしていくあたりなどは、聴きごたえありましたね。
エヴァンのギター演奏も良かったです。
音楽はあまり詳しくないのでよく知らないのですが、弦を叩くような弾き方というのはポピュラーなのでしょうか。
ギターだけで、メロディを奏で、リズムを刻む演奏法というのがとても新鮮に思えました。
サントラが欲しくなってしまったぞ。

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2008年6月22日 (日)

「レイダース 失われた聖櫃」 映画と同時代を体験するということ

19年振りの「インディ・ジョーンズ」の新作「クリスタル・スカルの王国」を観て、やっぱり「インディ」はおもしろいなあと、ひとり悦に入っていたのですが、他の方のブログを見てみるとそれほど評判が高いわけでもなく、ちょっと残念・・・。
いろいろ記事を見てみると、前のシリーズを観ていた方では、あまり前と変わらないじゃないかという意見と、最後の○○人はちょっと・・・という意見が多かったですね。
それほど満足できた人は多くなかったんだーと残念に思いつつ、自分の中では「インディ」モードが盛り上がっていたので、「レイダース 失われた聖櫃」をDVDで観賞しました。

もう何回観たかわからないほどに何度も観た「レイダース」。
どこで何が起こるかとか、台詞までも覚えてしまっているのに、何度観ても楽しめるっていうのは凄いことです。
同じ時期に作られ同じようにマイベスト映画に入っている「E.T.」は感動できなくなるのが怖くて、3回くらいしか観ていないのですが、「インディ」シリーズは何度でもいけます。
「クリスタル・スカルの王国」と比べると、当たり前ですが、やはりインディもマリオンも若い!
アバンタイトルからアドベンチャー色濃厚で、次から次へと危機また危機。
お気に入りのシーンはナチスの全翼機の上での場面と、トラックでのチェイスのシーン。
ここは何度観ても楽しめます。
でも驚くほどに「レイダース」と「クリスタル・スカルの王国」を比べても「インディ」の物語の構造は変わっていません。
新作は新鮮味がないというのもわからないではないです。
でも「レイダース」から数えると27年ですから、変わっていないというのは驚くべきことです。
この変わらなさというのが、今回の新作の評価が高くない意見に繋がっていると思うのですが、僕は逆に変わらなかったからおもしろいと感じたのだろうと思いました。
その差は何かと考えたのですが、それは映画が公開されたとき劇場で観たかということに繋がっているように感じました。
同時代性とも言えるのかもしれないですが、「インディ」が公開されたときの世間の盛り上がり、自分が初めて見たときの衝撃みたいなものが強いか強くないかというのが、新作の評価に関係しているのではないかと思います。
もしかすると僕は「クリスタル・スカルの王国」を観ていても、その作品単体で興奮したり楽しんだりしているのではなく、「インディ」にはじめて触れたときのことを想起してそのときの興奮を思い出しているのかもしれません。
パラマウントのロゴを観て、ハリソン・フォードのインディの姿を観て、テーマソングを聞いて、初めてみたそのときのワクワク感が甦ってくる。
そのときの体験を思い出して、楽しんでいる。
よく他の方のブログを見てみると、実は僕と同じ世代で「インディ」を劇場で観た方の評価はそれほど低くありません。
前三作を観たという方でも、若い方はテレビもしくはDVDでという方が多いのかもしれません。
なにかそのあたりの映画と同時代を体験しているかみたいなことが評価に関係しているような気がします。
なので僕は純粋に新作の評価ができているのではないように思えます。
他の方も書いていましたが、このシリーズに関しては冷静に評価ができない。
でもそれはそれでいいかな。
やはり「レイダース」をはじめ「インディ」シリーズに出会ったときの興奮というのは、自分の体験としてはとても大きくてそれが今でも映画を観続けていることに繋がっているような気がします。
映画を同時代で観るということ、これは作品を楽しむだけではなく、その観るという体験自体を楽しむことなのかもしれません。
「七人の侍」や「ゴジラ」など自分が映画を観始める前の映画をリアルタイムで観た人の体験は、やはり感じることはできない。
作品としては観ることができても。
映画をリアルタイムでそのときの時代ごと観るということが楽しいんですよね。

変わっていなくてもいい、変わらなくていいいから、また「インディ」シリーズに出会えることを楽しみに待っていたいと思います。

「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」の記事はこちら→

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2008年6月21日 (土)

本 「ナイチンゲールの沈黙」

「チーム・バチスタの栄光」に続くシリーズ第二弾です。
前作と同じく舞台は東城大学医学部付属病院で、田口&白鳥コンビが登場します。
前作は前半をパッシブ・フェーズの田口、後半をアクティブ・フェーズの白鳥が物語を引っ張るという構造でした。
特に後半に登場するロジカル・モンスターという異名を持つ白鳥のインパクトは絶大で、小説の展開も急激にアクティブになるというおもしろさがありました。
続編である本作は田口も白鳥もすでにキャラクターとしては定着しているので、登場場面も少なくやや印象は薄くなっていますね。
本作では白鳥の大学時代の同級生で警察庁から桜宮署に出向している加納という警視正が登場します。
こちらはデジタル・ハウンドドック(電子猟犬)というあだ名をもつ男で、コンピューターを利用した新しい捜査方法を駆使します。
ただやはり白鳥ほどのキャラクター的なインパクトは少なかったように思え、キャラクター的な魅力も強かった前作に比べ、田口、白鳥、加納のそれぞれの個性の出方はおとなしかったように感じます。
ミステリーとしても前作ほどのあっというドンデン返しはありません。
事件の犯人は中盤くらいに(犯行方法などは別にして)ほぼわかりますし、その辺りの謎解きという点でも前作ほどの驚きはないように思えます。
ですが、面白くないかと言えばそういうことはなく、読みやすい文体は前作通りですらすらと読み抜くことができます。
本作は犯人が誰かということよりも、犯人がどのような気持ちで犯行後行動したかという方が焦点になります。
白鳥が物語の最後に「無垢な魂の前で境界線を越えてみせたこと。本来、ここに境界線があると教えるべき大人が、易々と境界線をまたいでみせた。<中略>悪意の血脈には時効も境界もないんです」と言いますが、このことから、実は本作で起こるこの事件は以前に起こった事件の影響によることを示唆しています。
この事件については、他の作品で語られているのかな・・・。
本作に続く第三弾「ジェネラル・ルージュの凱旋」は同時期に付属病院で起こっている事件を扱っているということで、こちらも読みたくなってきました。

海堂尊氏の小説「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
海堂尊氏の小説「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→
海堂尊氏の小説「イノセント・ゲリラの祝祭」の記事はこちら→
海堂尊氏の小説「アリアドネの銃弾」の記事はこちら→
海堂尊氏の小説「螺鈿迷宮」の記事はこちら→

「ナイチンゲールの沈黙」海堂尊著 宝島社 ハードカバー ISBN978-4-7966-5475-3

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「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」 世界で一番の「インディ」ファン

待ちましたよ、20年も。
久しぶりにインディに会えました。
「インディ・ジョーンズ」シリーズは、僕が今まで観た映画の中でも揺るぎない地位をずっと確保している作品です。
初めて「魔宮の伝説」を劇場で観た時の衝撃は忘れられません(「レイダース」は小学生だったので映画館では観なかったのです)。
あのワクワク感、ドキドキ感と言ったら!
映画は観る人を楽しませてなんぼというエンターテイメントとの王道、あふれんばかりのサービス精神に夢中になりました。

久しぶりに会ったインディは、白髪まじりになってお年を召されている様子。
劇中の中でも20年近く時間は経っているんですね。
年はとっていても、やはりインディはインディ。
冒険心は枯れることなく、出たとこ勝負で次から次へと危機を乗り越えていく様は相変わらずで、嬉しかったです。
オープニングは予告でも紹介されていた倉庫のシーン。
やはりあれは「あそこ」だったんですねー。
あの伝説のアイテムもチラリと映っていましたね(ふたが開いたらたいへんだーと思ってしまいましたよ)。
このあたりもルーカス&スピルバーグ、オールド・ファンへのサービス心があって嬉しいところです。
旧作との繋がりでは、マーカスとインディのお父さんは亡くなっているという設定でやや寂しくもありますが、「レイダース」のマリオンが久しぶりに登場しています。
たぶん十数年振りに会うマリオンとインディ。
久しぶりなのに会ったらすぐケンカ(笑)。
でも敵に追われながらの命からがらの冒険の中でも、マリオンがとても楽しそうに見えるんですよね。
マリオンはずっとインディに会いたかったんだろうなあというのが伝わってきます。
インディはマリオンにとっては永遠の恋人なんでしょうね。

インディと言えば大活劇ですが、本作も今までの作品以上に楽しませてくれます。
やはりハラハラ、ドキドキと一番楽しめたのは、ジャングルでのカーチェイスのシーンでしょうか。
次から次へと展開するアクションに、知らぬうちに前のめりで見入ってしまいます。
「魔宮の伝説」のトロッコのシーン、「最後の聖戦」の戦車のシーンに勝るとも劣らない迫力のあるシーンになっていたと思います。

<ここからネタばれあり>

今回インディの相棒に抜擢されたシャイア・ラブーフ、インディとマリオンの子供だったんですね!
その名もヘンリー・ジョーンズ・三世。
本人は自分のことを”マット(雑種の犬という意味)”と呼んでましたが。
”インディ”も犬の名前だったですし、やっぱり親子。
マットもインディに負けないほどの冒険野郎で、これはやはり血は争えないのでしょうね。
次は「マット・ジョーンズ」でシリーズ化かしらん。
インディは「最後の聖戦」のヘンリーみたいに登場っていうのもあるかもしれないですね。

本作からは、ルーカスとスピルバーグを始め製作者が、旧作と旧作のファンをとっても大事にしているというのが伝わってきます。
えてしてシリーズ化作品は作り手側が都合がいいように、また違いを出そうという意気込みばかりがたって、いつの間にか設定やトーンをを変えてしまったりして、それが改悪に繋がったりするものです。
けれども本作は可能な限り、前3作を活かし、そのエッセンスを守ろうと努力をしているように感じました。
旧作ファンはやはり旧作への思い入れがひとしおなわけで、そのように大事にしてくれると嬉しくなります。
本作は「インディ・ジョーンズ」シリーズのエッセンスは守りながらも、映画としては相変わらずハラハラドキドキさせてくれる一級品のエンターテイメント作品として見せてくれています。
やはりルーカス、スピルバーグはエンターテイメントの達人ですね。
いや、達人というよりはルーカスとスピルバーグが世界で一番の「インディ」のファンなのかもしれません。

「レイダース 失われた聖櫃」の記事はこちら→

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2008年6月19日 (木)

本 「やみなべの陰謀」

古本屋街に行くと、いくつかお店を回ってまとめ買いで本を買ってきたりします。
そういうときは知らない作品、作家さんであっても、ジャケ買いだったり、タイトル買いしてしまうのですが、そんなこともあってあとになってなんでこの本を買ったんだっけと思うこともしばしば。
この作品もそういう本です。
田中哲弥さんなんて聞いたことないな・・・。
なんとなくタイトルが奇妙だったから、買ってしまったんだっけ・・・?
巻末の解説を読んで作者のこと知らなくて当たり前だなあと思いました。
もともと寡作の人らしく、今まで出した本も電撃文庫だということ。
ライトノベルもあまり読まないしなあ。

5作の短編の連作という体裁です。
タイムトラベルもので、それぞれがリンクしているという構成。
その舞台となるは現代だったり、江戸時代であったり、ちょっと未来であったり。
タイトルにある「やみなべ」は何がでてくるかわからないという意味なのかな。
未来はお笑いファシズム体制で、大阪人が支配している世界だったりして、これがなんとなく「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」のビル・タネンが支配している未来を連想したりします。
作品のテイストは、昔読んだ火浦功、岬兄悟のあたりの臭いを感じます。
軽い調子のSFといった感じでしょうか。
すごく笑えておもしろいというほどではないのですが、先ほどあげた火浦功、岬兄悟などが好きな方は合うのではないでしょうか。

「やみなべの陰謀」田中哲弥著 早川書房 文庫 ISBN4-15-030845-4

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「クライマーズ・ハイ」 チェック、ダブルチェック

「クライマーズ・ハイ」とは登山時に興奮が極限状態にまで達し、高さへの恐怖心がなくなってしまう状態のことを言うらしい。
1985年8月12日、日航機墜落事故発生。
当時僕は高校生、暑い夏だったと記憶しています。
この映画は、墜落現場に近い地元新聞社記者たちが、まさに「クライマーズ・ハイ」状態になりながら、事件を追いかけ、記事にしていく狂騒を描いています。
まさに新聞社の中は戦争状態ともいっていいほどに、激しい怒号が飛び交うハイテンションな状態になっています。
ワンマンな社長と、それに迎合する管理職に対立する編集部の記者たち。
編集局、販売局、広告局という新聞社の中でももともと利害が対立している部局の激突。
そして記者たちは携帯電話も普及していない時代、現場に足で向かい、そして記事を送るために電話を這うようにして探す。
高熱につかされたような熱狂に支配されたような1週間が展開されます。
主人公悠木(堤真一さん)は日航機事件の全権デスクをまかされた遊軍記者。
彼はなみなみならぬ執着をもって日航機事件へ挑みますが、周囲が熱狂に押し流されていく中で、ひとり冷静さも失いません。
「チェック、ダブルチェック」
というのは彼が折にふれ、言う言葉。
スクープをつかめそうになっても、それが複数のネタもとに確認しなくては動かない。
一般的に自分自身の成果をあげようと、確証もなく誤報をうちかねない新聞記者が多い中、彼は自分自身を押さえようと「チェック、ダブルチェック」と呟きます。
悠木も記者であるからにはスクープを狙いにいきたいという野心は当然持っています。
けれどもその危険性というのを彼自身はよく知っている。
彼の母親が米軍兵の娼婦であったという噂がまことしやかに囁かれている。
それが真実だったとかそうでなかったかと誰も確認していないのにそういう噂が流れていく。
たぶん彼は幼い頃より、そのような噂で苦しんだ経験があるのだろう。
だからこそ新聞記者として、確信が持てない情報しか発信しないというポリシーが悠木の中にあるのだと思う。
熱い思いの中に、冷静さを持つ。
高い山に登る時「クライマーズ・ハイ」になり、自分の能力や状況をつかみそこね、命を危険にされしてしまうことというのはあるのだと思います。
熱狂の状態の時に大事なのはやはり、自分自身を見つめる確固とした冷静さなのかもしれません。

今年の最初の数ヶ月、会社は未曾有の危機に襲われたことがありました。
会社全体がやはりなにか「クライマーズ・ハイ」のような熱狂に包まれていたように思います。
映画の中の北関東新聞社の様子は、なにかそのときのことを思い出させられました。
僕は広告の仕事をしているので、緊急的な広告出稿、ホームページの緊急更新などを行う仕事を、それこそ時間に追われながらやりました。
なんだかとてもハイテンションだったのを覚えています。
原稿入稿をするための内容確認するために、たまたま出張していたり、外出している上司を追いかけつかまえ、自分自身で原稿を走って届け・・・。
あれはやはり「クライマーズ・ハイ」状態だったのでしょうね。
この映画の悠木の言葉「チェック、ダブルチェック」もよくわかります。
原稿を出す時、間違いはあってはいけません。
それこそ何度も何度も見直します。
興奮状態だと間違いを見逃してしまうので、冷静に冷静と自分に言い聞かせ、それでも時間に追われながらチェック、ダブルチェックを続ける・・・。
危機的状況はやや峠を越して、今はやっと仕事は落ち着いてきていますが、この映画を観て何かそのときの熱狂した気分を思い出しました。

原田監督、「魍魎の匣」はいまいちな気がしましたが、本作や「金融腐食列島<呪縛>」や「突入せよ、あさま山荘事件」などの系統のほうがやはり上手だと思います。

あとこちらの作品は試写会で観たのですが、会場(一ツ橋ホール)の音響が悪くて台詞が聞き取りにくく難儀しました。
このあたり考えていただけるといいのですが・・・。

原作小説「クライマーズ・ハイ」の記事はこちら→
原田眞人監督作品「魍魎の匣」の記事はこちら→

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2008年6月17日 (火)

「ダイブ!!」 普通っていう枠

清々しい気持ちで観終えられる青春映画でした。

この物語には3人の飛び込みの選手が登場します。
平凡な両親の元に生まれ、ごく普通に暮らしてきた中学生、坂井知季(林遣都さん)。
彼は一流のダイバーが持つ”ダイヤモンドの瞳”と呼ばれる瞬間視という天性の素質を持っています。
知季とは対照的に元オリンピック選手の両親を持ち、ずっと日本の飛び込み競技を担うべく育てられた富士谷要一(池松壮亮さん)。
そして思い切りよいダイビングが心情の津軽出身の野性味溢れる選手、沖津飛沫(溝端淳平さん)。
彼ら3人の成長が飛び込み競技を通じて描かれます。

知季は今時の子供とは思えない、まっすぐに素直な気持ちを持った少年。
でも失恋をすれば落ち込むし、拗ねたりもするほんとに普通の男の子。
要一のように重い使命感を持っているわけではありません。
沖津のように強い反抗心を持っているわけでもありません。
彼の両親は子供に伸び伸びと育ってもらいたいという気持ちからか、最近の親とは違い、ガミガミと言わず多くを子供に背負わせません。
自分らしくしていい、普通でいいよと言ってくれる両親です。
でも知季にとって、そういう両親の気持ちは自分に対して期待をしていないというようにもとれます。
普通であること、それが知季にとって、息苦しいような「枠」に思えてしまうのです。
誰でも自分でしかなせないことをやり、そして周りの人々に認めてもらいたいと思います。
でもそうするためには、背負わなければいけないことや我慢しなければいけないこともでてくる。
そこにある苦しさみたいなものもある。
たぶん知季の両親はそれもわかっていて、あまり子供に縛っていけないと思っていたのだと思います。
けれどもそれは知季にとっては「普通っていう枠」だったのです。
知季は普通の男の子と書きましたが、一つ特別な力を持っています。
それは”ダイヤモンドの瞳”ではありません。
その力は自分をはめ込んでいる枠というのを気づくことができる力だと思います。
人はその枠になかなか気づくことはありません。
それは人が作った枠であったり、自分自身が作ってしまった枠だったりするのですが、それを人は自分でなかなか認識できないものです。
なんとなくそんなものだと納得してしまいがちなのですよね。
要一の背負っている使命感も、沖津の反抗心もそれは、自分を制約している枠なわけです。
でも知季は枠に気づくことができる。
そしてその枠を越えようとすることができる。
要一も沖津も、知季を、互いを見て、自分自身をはめこむ枠に気づきます。
要一は手堅く完璧な演技を超えたチャレンジブルな技に挑み、そしてコーチとしてしか接することができなかった父親と子としてきちんと向かい合うことができるようになる。
沖津はもやもやとした反抗心ではなく、もっと純粋な気持ちで飛び込みという競技を楽しむことができるようになる。
彼ら3人それぞれの枠越えがとても清々しく思えました。

映画の清々しい印象を与えてくれたのは、林遣都さんの存在が大きいですね。
「バッテリー」は未見なので初めてこの映画で観ましたが、非常にフレッシュな印象で。
知季という役柄にぴったりな少年だなと思いました。
沖津役の溝端さんはスクリーンデビューだそうですが、なんとなく、もこみちに見えて仕方がなかったです(それは「ラフ」だって)。

あとダイビングシーンはなかなかの迫力。
飛び込み競技をテーマにしているので、これがしっかりと描かれていないと興ざめですが、非常に美しくかつ迫力がありました。
飛び込み競技は演技自体は一瞬で終わってしまうスポーツですが、その前後の駆け引き、メンタルコントールなど肉体だけではなく、心の強さが求められるものだと初めて知りました。
その競技のヒリヒリするような緊張感みたいなものもとてもよく描かれていたと思います。

時間があったので、とりあえず観てみた映画でしたが、思わず良い拾いものをしたような感じがした映画でした。

原作小説「DIVE!!」の記事はこちら→

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2008年6月15日 (日)

本 「ネットと戦争 -9・11からのアメリカ文化-」

タイトルから想像していた内容とちょっと違っていました。
現代の戦争におけるインターネットの戦略的な意味合いみたいな内容だとてっきり思っていたのですが。
本著は9・11の事件以降、アメリカで、インターネットでどのような言論活動がなされてきたかをレポートしている内容になっています。
アメリカはご存知の通り9・11を受け、イラク戦争に突入します。
けれどもアメリカ国民すべてが、これを是としているわけではありません。
ただそういう意見はインターネットが普及する以前は、なかなか聞くことができませんでしたが、今はそういう意見もインターネットで検索し、読むことができます。
その点については、人類は自由な言論活動の場を初めて手に入れることができたと言えるのかもしれません。
著者は文学部の先生ということなので、本著ではネットの言論活動のレポートと言っても、ジャーナリスティックなものではなく、文学者・詩人などの活動を取り上げています。
そのあたりが僕が期待していたのと、ちょっと違う点でした。
ただ興味深かったのは、本著の冒頭に序にかえて掲載されている詩です。
W.H.オーエンという詩人が1939年に書いた詩です。
それを読んでいてみると驚くほどに9・11のことを言い当てている内容になっています。
予言などと言う気は毛頭ありませんが、不思議なものを感じるのも確かです。
この詩が9・11以降、アメリカではインターネットで多く流布したということです。

「ネットと戦争 -9・11からのアメリカ文化-」青山南著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430913-1

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「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」 ルーカス、スピルバーグの子供

黒澤監督のオリジナルは観ていないんです。
予習をしようと思っていたのですが、ずっとDVDがレンタル中だったもので・・・。
「椿三十郎」のリメイクと違い、筋も大幅にいじっているということだったので、まあいいかということで、オリジナルの予習なしで観てきました。

オリジナルの「隠し砦の三悪人」はジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」に大きな影響を与えたというのは有名な話。
本作の樋口監督はそれこそ「スター・ウォーズ」世代なわけで、リメイク版は逆に「スター・ウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」の影響があるのをそこかしこに感じます。
言わば孫弟子状態(?)でしょうか。
最後の活劇の舞台となる隠し砦は、「スター・ウォーズ」のデス・スターか、「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」の地下の採掘場を思い出させます。
砦が爆発し、その爆煙の中から二頭の馬にまたがった六郎太と新八が脱出してくるカットは、もろにデス・スターから脱出するX-ウィングとミレニアム・ファルコンでした。
鷹山刑部はダース・ベーダーですしね。
世代的には樋口監督と同じなので、こういうのが撮りたかったんだろうなーというのがとてもよくわかります。
流れるテーマ音楽も少し「スター・ウォーズ」の香りを感じたりもしました。

「日本沈没」など、とかくドラマ部分が弱いと指摘される樋口監督ですが、僕はそれはそれでいいような気がしています。
樋口監督は「スター・ウォーズ」などの80年代のハリウッドエンターテイメントに洗礼を受けた世代で、その活劇性に興奮したその香りを正当に受け継いでいる気がします。
「スター・ウォーズ」にしても「インディ」にしてもそれほどドラマで人間を描いているわけではなく、どちらかというと映画を観ていて楽しい、おもしろいと思えるような活劇性を重視している映画です。
そのようなルーカス、スピルバーグなどの遺伝子を樋口監督は受け継いでいるような気がします。
本作もドラマや人間等はそれほど深くは描かれていません。
でも冒頭から最後までずっと活劇性を保ち、一気に見せてくれます。
その活劇もいい意味でオーソドックスです。
CGを使いすぎてアニメだかなんだかわからなくなってしまう最近のエンターテイメントとものと違い、セット、ミニチュア、CGを巧みに使い分けている気がします。
その辺りはさすが特技監督をずっとやっていた経験がでているような感じがします。
この辺りの空気感みたいなものが、80年代のルーカス、スピルバーグの香りを感じさせるのかもしれません。

松本潤さんはキャスティングを聞いたときは違和感がありましたが、いざ観てみるとそれほど感じませんでした。
長澤まさみさんはやはりカワイイ。
ああいう健気なお姫様だったらやはり男は守りたくなるものです、ハイ。

そういえばこのブログを始めたときの一番最初の記事は「日本沈没」だったなあ。
改めて読み直してみると、拙い文章が恥ずかしい・・・。

樋口真嗣監督作品「日本沈没」の記事はこちら→
樋口真嗣監督作品「ローレライ」の記事はこちら→

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本 「アヒルと鴨のコインロッカー」

映画化作品がなかなかいい出来だったので、原作小説の方にも興味が出て、読んでみました。
伊坂幸太郎さんの作品は初めて読みました。
映画を観ているため、この物語の結末は知っています。
それでも、河崎とドルジと琴美の3人の物語はとてもせつなく感じます。
琴美がどうなるかそれを知っているために、ページを繰るのが躊躇されてしまいます。
何か他の結末は用意されているのではないかとも期待してしまいます。
でも物語は同じ結末に収束していきます。

小説は過去を琴美の一人称で語るパートと、現在を椎名の一人称で語るパートで構成されています。
その両方に登場する河崎とブータン人ドルジがキーマンになります。
二つのパートを別の人間の一人称で語るというところにこのミステリーのトリックの肝があるわけなんですよね。
あらためて小説を読んでみると、同じ手法が使えない映画でよく原作の雰囲気を損なわず映像化できたなあと改めて関心をしてしまいます。
脚本の構成の見事さと、瑛太さんの演技のすばらしさで可能になったのでしょうね。

伊坂さんの小説にも興味が出てきたので、他の作品にもチャレンジしてみようかと思います。

映画「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→

「アヒルと鴨のコインロッカー」伊坂幸太郎著 東京創元社 文庫 ISBN4-448-46401-7

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2008年6月14日 (土)

「世界で一番美しい夜」 大人の寓話

これは大人の寓話である。

人はなぜ不幸になるのだろうか。
それは欲望のレベルが高いから。
ある欲望を満たし、幸せな気持ちになる。
けれどもそれでは満足できず、さらに上の欲望を持つ。
そして人は不幸になる。
不幸にならないためには、欲望のレベルを下げるしかない。
生きて、子孫を残すことだけで満足できるように、それこそ縄文の時代の人に戻れれば、人は幸せになれるのかもしれない。
そうこの物語は語っている。
更なる幸せを求めようとする衝動が、人を進化させた。
人は火を発見し、そして電気を発見し、生活はより豊かになった。
けれどもある意味では人は満たされぬ欲望を抱えることとなり、永遠に不幸せになったとも言える。
これはアダムとイブのエデン追放の物語を思い出させる。
アダムとイブは知恵の実を食べてしまったことにより、考える力を得る代わりに永遠の楽園を失うことになる。
そういえば田口トモロヲさんが演じる主人公一八が、現実に絶望し「蛇」になるというのも興味深い。
蛇には手がない。
手は人にとって道具を作り出す器官であり、手で器用な動きをできるようになったことが、人を進化させたと言っていい。
一八は自ら手を放棄することにより、人の生み出した文明を拒否したのだろう。
そして、その「蛇」はイブに知恵の実を食べさせてようとした動物として旧約聖書には登場するのである。

個人的には人が進化を放棄し、原始の状態に戻ったとしても、幸せになるとは思えない。
原始の時代のように生きるだけ子孫を残すだけの状態は動物と同じであり、そこには幸せを感じる感情等もないように思える。
つまり幸せになるのではなく、幸せも不幸せも感じない状態になるということなのだと思う。
ただ子を産み、繁殖するという状態が幸せなのだろうか。
たぶん、脚本も書いている天願監督もそのあたりは承知しているように感じる。
冒頭のアニメーションに、文明を嫌い原始の状態に戻ろうとした男の物語がある。
原始の状態に戻った男は、愛する女性の顔も忘れてしまい、本能のおもむくままその女性を殺してしまう。
それが幸せな状態にはどう見ても思えない。
そして結局男は火を「再発明」してしまうのだ。
人は進化せずにはおれない。
理想を言えば、文明を発展させる力を持つ「脳を進化」させつつ、事足りるということを知り、人の幸せも自分の幸せだと感じられる「心の進化」も人はなさねばならぬように感じる。

2時間40分にも及ぶ尺であったので、飽きずに観られるかやや不安もあったが、観始めるとそれほどの長さを感じぬ映画だった。
天願監督の作品は今まで観たことがなかったが、邦画では珍しく寓意に富み、エネルギーを持った作品を作る方だと思う。

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「アフタースクール」 卒業後・・・

タイトルの「アフタースクール」、普通は「放課後」と訳すところでしょうが、この映画に関して言うと「卒業後」という意味にとるのがいいかなと思いました。

母校の教師をしている神野(大泉洋さん)を、中学の同級生島崎と名乗る男(佐々木蔵之介さん)が訪れます。
島崎は、同級生の木村(堺雅人さん)を探しているという。
実はこの島崎は、北沢という名の探偵で、依頼によって木村を探しているのです。
予告からドンデン返しがあるという触れ込みだったので、そういう気持ちで観ていたのですが、後半の展開はなるほどーと唸らされることしきり。
よくできた脚本です。
その展開を書いてしまうと楽しみが半減してしまうので、詳しく紹介できないところが辛いところですが・・・。

冒頭タイトルを「卒業後」という意味でとるのがいいのではと書いたのは理由があります。
劇中、島崎(北沢)が、神野にこういうようなことを言います。
「いい加減、卒業しろよ」
これはすなわち「大人になれよ」という意味だと思われます。
人は子供から大人に段階的に成長していきます。
どこまでが子供で、どこからが大人なんて線引きはできないものですが、わかりやすいのは学生か社会人かといったところでしょう。
社会人になると、やはり社会・世間と自分が正面から当たらなければならなくなります。
そこには自分ではどうしようもない状況などがあって、それらにぶつかるごとに、人はそういうこととうまくやる術を身につけたり、時には我慢したりというようなことを学んでいきます。
それが社会人としての成長であったり、「大人になる」ということなのかもしれません。
島崎(北沢)が言ったことには、ずっと学校という限られた世界で過ごし世間の辛い風当たりを知らない神野に対しての揶揄の気持ちが入っていたと思われます。

<ここからやっぱりネタばれなので注意>

この映画のストーリーは、観ている僕たちは後半の展開がヒネリが効いている物語に思われます。
けれどそれがドンデン返しに思えるのは、観客が島崎(北沢)もしくは梶山商事、ヤクザたちの視点になっているからです。
実は神野も木村は、彼らをだまそうとトリックを使っているのではなく、単に初恋の相手を救いたいと思って警察に協力しているだけなんですよね。
改めて神野、木村視点で物語を反芻するとわかります。
この二人は学校を卒業した後も、変わらぬ友情を互いに持って、そして初恋の人への想いもずっと持ち続けている。
島崎(北沢)たちから見れば、彼らは子供で、大人になっていない奴らかもしれません。
でも大人になる、卒業するということで、失ってしまうものもあるのではないでしょうか。
大人になるに従い、周りの人、世間に対して、斜に構えてシニカルなものの見方をしてしまうように知らず知らずになってしまう。
だから神野や木村があまりに無防備に動くことがわからず、裏読み先読みをしてしまい、かえってドツボにはまってしまうのです。
神野、木村は「卒業後」もずっと変わらなく、あり続けている。
そういう大人にならない素直さも大事なのかもしれないと思いました。

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「ザ・マジックアワー」 奇跡の瞬間

三谷幸喜監督は前作「THE 有頂天ホテル」など、今までも多くの登場人物が絡み合うグランドホテル形式の映画を撮ってきました。
本作「ザ・マジックアワー」もその流れにあるかと思いますが、今までの作品とは違い、より絞り込んで主要な登場人物に焦点をあてているように感じます。
今までの作品では愛すべき登場人物それぞれにドラマがあり、活躍の場がありという感じだったと思いますが、本作はやはり佐藤浩市さん演じる村田大樹にかなりスポットライトがあたっています。
そしてそれに値する佐藤浩市さんの演技といったらすばらしいの一言。
デラ富樫を演じている村田大樹を演じているという、実は複雑な役柄ですが、この三流役者を楽しそうに演じているように見えます。
この村田大樹という男が愛すべき人間です。
ほんとに映画が好きで、それに関わっていることが好きで、少年の頃からの夢をずっと追っていて、ずっとどこかで奇跡が起こることを信じている。
この映画のおかしさは真剣にだまされてしまっている村田と周囲のシチュエーションが生み出す落差であるわけで、この村田がとても真摯に描かれていないとおもしろくないんですよね。
それをほんと佐藤浩市さんがとても巧みに演じていました。
まさに佐藤浩市オンステージという感じでした。

タイトルにもある「マジックアワー」、これは劇中でも説明されますが、夕暮れ時昼から夜に変わるときにほんとに短い時間のこと。
この時間に撮ると、光の加減でえも言われぬ美しい映像になるといわれています。
監督の三谷幸喜さんは、舞台の脚本・演出からはじまり、最近では映画の脚本・監督もなさっています。
僕はあまり舞台というのは見ないのですが、舞台と映画、脚本をもとに役者が演じるという点では同じですが、異なる点も多く、別物であると言っていいでしょう。
その違いを「偶然性」という視点で見てみたいと思います。
舞台というのは、背景にある状況はすべて作られたもの(セット)で、当然脚本は(公演でアドリブがでることは合っても大筋は)決まっていて、これらは作品を作るにあたり計算されたものであると思います。
けれども公演自体は毎回毎回ライブで観客の前で演じられるわけで、そこには劇場(観客も含め)の空気、役者同士の演技の相乗効果等で思いもよらぬものが生みだされることがあると思います。
これが舞台で生まれる「偶然性」、それを「奇跡」と言っていいかもしれません。
映画の場合は編集という行為があるため、舞台のような再現できない一度限りの「偶然性」というものはありません。
映画はかなり計算され作り込まれた芸術と言っていいでしょう(ドキュメンタリーみたいなものは違いますが)。
ただしロケーション撮影等、外での撮影は環境状況によっては二度と撮れないような「偶然性」が生まれることがあります。
それが「マジックアワー」などの「奇跡的」な瞬間なのですよね。
本作「ザ・マジックアワー」は舞台のようにほぼセットでの撮影になっています。
これはある意味作り込まれ、計算され、「偶然性」を排除しているように思えます。
また役者の演技も自然体というよりは、「舞台を演じている俳優」を演じているというような感じがします。
スクリーンに映し出されているのは何テイクか撮った中で選ばれたもののはずですから、僕たちが観ているのは計算した演技と言っていいでしょう。
劇中、だましのテクとして使われる「弾着」も計算された仕掛けであるわけです。
「ザ・マジックアワー」はほとんどすべてが作られ計算された作品であると言っていい。
けれどもその物語が描こうとしているのは「奇跡の瞬間」なんですよね。

<ここからネタばれあり>

備後と村田が仕掛ける最後の最後の大芝居、練りに練られた仕掛けをしますが、結局はその仕掛けは手塩やマリの予想もつかぬ行動でひっくり返ります。
彼らが書いたシナリオ通りにはことは進まず、けれども結果は予定していたのとは違うけれどハッピーエンドに。
奇跡を起こしたのは手塩のマリへの想いであり、それに気づいたマリの想いであったわけで。
映画としてセットやシナリオが作り込まれ、さらにそのシナリオの中でも作り込まれた、二重に計算された状況の中での、二人の想いによってもたらされた「奇跡の瞬間」。
それこそ「マジックアワー」。
これは計算されつくした状況の中で、「奇跡の瞬間」を際立たせることはできるかという野心的な試みのように思えました。

劇中の台詞で「マジックアワーを撮り逃したらどうすればいいのか」「次の日を待てばいいのさ」というのがありました。
この台詞は良かったです。
「奇跡」がいつか来ると信じて生きていく。
一回失敗したらおしまいというわけではない。
セカンドチャンスはまた翌日にはやってくる。
それを信じていくことが「希望」なのでしょうね。
たぶん「希望」はいつか「奇跡」を連れてきてくれるのでしょう。

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2008年6月 8日 (日)

本 「陰陽師 付喪神ノ巻」

夢枕獏氏の「陰陽師」シリーズというのは、とても安定感があるように感じます。
売り上げがといった野暮なことではなく、物語が、です。
それは多分に陰陽師安倍晴明とその友である源博雅のペアの安定感に依るところが多いと思います。
「陰陽師」シリーズは基本的に連作短編集ですが、それらの物語の構造はほぼ同じ。
起こる怪異が違うため、飽きるということはないのですが、読んでいて安心感というかリズムがあるように感じます。
リズムは夢枕氏特有の文体によるとは思いますが、安心感は先ほど書いたように安倍晴明と源博雅のペアから感じるものでしょう。
シリーズ二作目「陰陽師 飛天ノ巻」の記事でも触れました博雅のキャラクターに、本作でもぶれがほとんどありません。
陰陽師である安倍晴明は人の闇の部分を観ているし、それが人にとってぬぐい去れないものであることを知っています。
人が見れぬものを見る力を持つ者は、ある種達観したようなシニカルな目線を持ってしまいそうだと思いますが、彼がそうならないのは源博雅という人物の役割が大きいように思います。
彼の人の痛みを自分のものと感じられる、素直なものの感じ方というものが、人の性を知ってしまっている晴明をこちら側に引きとどめているような気がします。
その博雅のものの見方というのが、読む側にもなにか安心感のようなものを与えてくれているように思えますね。

夢枕獏作「陰陽師 飛天ノ巻」の記事はこちら→

「陰陽師 付喪神ノ巻」夢枕獏著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-752805-3

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本 「別冊 図書館戦争Ⅰ」

アニメ化されたからでしょうか、「図書館戦争」シリーズのスピンアウト作品がさっそく出ました。
「図書館革命」でシリーズ終了ということだったので、このシリーズのファンとしては嬉しいところです。
「Ⅰ」とあるからには、「Ⅱ」もあるんでしょうねー。
本編の方で図書館抗争については、ある程度の決着をみているので、スピンアウトの本作ではどちらかというと郁と堂上の恋愛話を中心に描かれています。
なので、とても恋愛要素強くて、ベタ甘です。
僕は有川浩さんのベタ甘モードは好きだったりするので、楽しめますが、少女漫画とか苦手な方はダメでしょうねえ。
テレビの影響というのはすごいもので、本作読んでいると自分の頭の中で動いている郁や堂上、その他の人物はすっかりアニメのイメージが定着しています。
アニメのキャラクター設計には、小説のイラストを手がけられている徒花スクモさんがかんでいるようなので、イメージはそんなにずれていませんでしたが。

「Ⅱ」の方は周囲の人々の恋愛話にも展開するのでしょうかねー。
やはり気になるのは手塚と柴崎でしょうか。
いい雰囲気になってきましたからねー。
次もベタ甘モード前回でお願いします!

図書館戦争シリーズ「図書館内乱」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「図書館危機」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「図書館革命」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅱ」の記事はこちら→
アニメ版「図書館戦争」の記事はこちら→

「別冊 図書館戦争Ⅰ」有川浩著 アスキー・メディアワークス ハードカバー ISBN978-4-04-867029-6

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2008年6月 7日 (土)

本 「興奮する数学 -世界を沸かせる7つの未解決問題-」

数学というと学生の頃のテストの印象があってどうも苦手意識があります。
高校生の頃はそれでも微分積分などは教科書を読んでやっていましたが、今やってもたぶん歯が立たないでしょうねえ・・・。
大学行って社会人になってからは、高等数学なんて生活には必要ないですから。
そういうとっつきにくい数学ですが、それこそ宇宙創世の謎を解こうとする学者にとっては武器なんですよね。
今上映している「神様のパズル」でも説明していましたが、現在宇宙創世をビックバン以前をインフレーション理論というもので説明する考え方があります。
ビックバン直後の状況は観測によっていろいろ確かめる術はありますが、それ以前は理論上観測することができません。
けれども、誰も観ることができない宇宙創世の瞬間を数学によって推論していくことはできるわけです。
ただ計算問題を解くのが数学ではないのですよね。
世界の仕組みを考える学問なのかもしれません。

その数学の世界でもまだ解けていない未解決問題があるということ。
リーマン予想とかホッジ予想とか・・・なんか言葉だけは聞いたことがあるような、ないような・・・。
この本ではそのような数学の未解決問題を「一般の人にもわかるように」解説してあるということです。
でも、読んでみたけれど・・・さっぱりわからなかったです・・・。
7つの未解決問題のうち、最初のいくつかは「こういうことを解こうとしているのねー」というのはぼんやりとはイメージできるのですが、後半は何を解こうとしているのかイメージすらできない・・・。
数学というのは抽象の上に、さらに抽象を、そしてさらに抽象を重ねて推論していくということなので、普通の人にわからなくて当たり前のようなのですが。
しかし、こういうことをずっと考えていられる数学者って、すごい・・・。

「興奮する数学 -世界を沸かせる7つの未解決問題-」キース・デブリン著 岩波書店 ハードカバー ISBN4-00-005387-6

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「シューテム・アップ」 弾丸んねー

最近映画は宣伝コピーであまりいいのがないんですよね。
一行程度でその映画のエッセンスを表現しなくてはいけないので、センスが要求されると思いますけれど、なかなかこれはいいと唸るものがない。
けれどこの「シューテム・アップ」のコピーはなかなか秀逸。
「弾丸(たま)んねー」
んー、一言でこの映画を言い表してますね!いいコピーセンスです。
パンフレットにあった「子連れ狼 in NY」というのも、捨てがたいですが(笑)。

この作品、宣伝コピーの通り、最初から最後まで弾丸がこれでもか!というくらいにばらまかれるガンアクションばかり。
始まって5分も経たないうちに銃撃戦でしたから。
ガンアクションを見せるためにストーリーがあるという感じでしたが、これはこれで割り切っていていいのではないかな。
その分、見せ場であるガンアクションにはアイデアがふんだんに取り入れられていました。
こぼれたオイルの上を滑りながらのシューティング、スカイダイビング中の銃撃戦(当たる分けないだろーと野暮なことは言わないように)などなど、大小いろんなアイデアで見せてくれるガンアクションでした。
生後間もなくて、首も座っていない赤ちゃんは、あんなにアクションにつき合わされて大丈夫なのか?と心配にはなりましたけれども。

この映画、ストーリーはアクションを見せるためと上に書きましたが、それでもちゃんとお話は構成できてます。
主人公スミスたちと、赤ん坊を狙うハーツたち、それと大統領候補のSPたちと三つ巴の状態になっているので、アクションだけでなく話でも観客をひっぱるようにはなっています。
主要人物はクライヴ・オーウェン演じる主人公のガンマンのスミス、赤ん坊を守る娼婦ドンナ(モニカ・ベルッチ)、彼らを追うハーツ(ポール・ジアマッティ)ですが、それぞれ役柄と役者がぴったり合っていたように思えます。
クライヴ・オーウェンは「シン・シティ」「トゥモロー・ワールド」ど無口でタフな男という役柄が続いていますが、本作もその系譜に連なる感じがします。
あの濃い顔、たたずまいがこういう劇画チックな作品世界に似合います。
劇画チックな世界に似合うと言えば、モニカ・ベルッチもそうですね。
この方、ゴージャスな美貌を持っていますが、それでいて聖なる母性というようなものも感じる女優さんだと思います。
なんだか聖母マリアのような印象があるのですよね。
娼婦であり、そして子を失った母として赤ん坊を守る女性という役柄にイメージぴったりでした。
意外だったけれど良かったのが、ポール・ジアマッティ。
「レディ・イン・ザ・ウォーター」のイメージしかなかったので、その逆をいくようなアブナいヤツでびっくり。
もとFBIのプロファイラーだったという設定もおもしろかったですね。
知的で普通のオジサンの風貌だけど、すごくアブナいヤツ。
見た目が怖い人より、かえってこんな人のほうが恐ろしいかも。

「弾丸んねー」と呟きつつ、アドレナリンをだしてすっきりするのが、この映画の見方としては正解です。

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「神様のパズル」 宇宙創世のヒミツ

人はどうして存在しているのだろう。
世界はどうしてこのようにあるのだろう。
人は世界は、あるべくしてそうあるのか、それとも単なる偶然でそうあるのか。
その答えを追求することというのは、すべての学問の究極の目標であるような気がします。
物理学、数学、哲学、宗教学・・・、劇中で基一(市原隼人さん)も語っていますが、理系も文系の学問も冒頭の問いの答えを探す営みなのでしょう。
僕は興味を持った本を読み散らかす乱読派なのですが、理解は仕切れないのに、宇宙創世や量子学や哲学、宗教などの本も読んだりするのが好きだったりします。
世界の始まり、究極の状態とは何か、それぞれの分野でアプローチは違うにせよ実は同じようなことを目指しているようなところがなんだかおもしろくてワクワクしてしまうんですよね。
物理学というカタいネタを三池監督が撮るということで、どのように料理するか興味があって初日に行ってきてしまいました。

劇中で基一が解説していたビックバン以前に起こったとされるインフレーション理論の説明はとってもわかりやすかったですね。
何度か本で読んだことはあるのですが、「対称性の破れ」などはわかったようなわからないような・・・という感じだったので、すっきりしました。
このあたりをとってもわかりやすく脚本で説明されていましたが、ずいぶん勉強されたのでしょうね・・・。
ベートーヴェンの「運命」でインフレーション理論を説明するあたりはなかなかのアイデアです。

宇宙というのは何でも対でできている・・・。
「物質」と「反物質」、「光」と「影」、「男」と「女」・・・。
そういえば道教の考えの根幹の「陰陽」なども対ですね。
基一が「うさんくさい」と評した「マルチユニバース」という物理学の考え方の一つも、SF小説やファンタジーなどでみられるパラレルワールドと似ていておもしろい。
異世界というのは古来からの物語ではいくつも取り上げられていて、それを物理学で「マルチユニバース」として真面目に取り上げられているんですよね。
古来からの哲学・宗教・文学・音楽などと最先端の物理学(その他の科学も)はやはり同じところを見ているような気がします。
理性で考える前に、人は古来から宇宙につい意識せずとも感じてきたのかもと思ったりして。
なんだか不思議・・・。

物理学の理論というのはあまり映画向きでないようなテーマのような気がしたので、よく作ったなあという感じがします。
映画としておもしろかったと言われれば、なかなか厳しかったと言わざるをえないですね。
でも三池崇監督だから堅苦しいテーマを、エンターテイメントの映画として観れるところまで持ってこれたような気がします。
他の監督だったらただの科学解説ビデオになってたかもしれません。
市原さんは「ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ」の流れを汲むようなウザい感じのキャラがなんとくなく定着気味なのでしょうか。
サラカ役の谷村美月さんはいつもと違い、クールな役回り。
こちらは新境地といったところなのでしょうね。

この映画を観て、ひとつ「世界創世」の話で、小説ですがある作品を思い出しました。
先日亡くなったアーサー・C・クラークの「90億の神の御名」という作品です。
ずいぶん前の作品でとても短い短編ですが、とてもおもしろい。
お話はというと。
チベットの僧たちが神々の名をコンピューターで記すという作業をしている。
90億の神の名を記せば世界創世の秘密がわかるのだという。
コンピューターがそれを成し遂げたとき何が起こるのか・・・。
ご興味ある方は是非。

三池崇史監督作品「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」の記事はこちら→
三池崇史監督作品「龍が如く<劇場版>」の記事はこちら→
三池崇史監督作品「クローズZERO」の記事はこちら→
市原隼人さん主演「ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ」の記事はこちら→
市原隼人さん主演「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」の記事はこちら→

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2008年6月 1日 (日)

本 「風魔」

戦国時代、各国が争いを続ける中で、大名たちはそれぞれに諜報活動を行うための部隊を持っていました。
それが忍び、いわゆる忍者ですね。
伊賀、甲賀という名は山田風太郎の忍法帖シリーズ等でも有名です。
戦国大名のひとつ小田原の北条家が抱える忍びが、風魔。
その頭領である風間小次郎が本作の主人公。
戦国時代を舞台にしてはいますが、歴史小説というよりは読み応えのあるエンターテイメント小説に仕上がっています。
先ほどあげた伊賀、甲賀、風魔に加え、真田忍軍などの忍びの者、柳生又右衛門などの剣豪などが、時には手を組み、そして争っていくさまは息もつかせぬアクションが続きます。
忍者ものではあるのでアクションシーンはケレン味ありますが、山田風太郎の忍法帖シリーズほどは荒唐無稽ではないので、歴史小説好きの人でも許せるんじゃないでしょうか。
戦国の世で、価値観が変わり、人々は世の動きを見ながら流れていくのですが、一人風間小次郎だけは大木のように揺るぎなく、その様子が気持ちいいです。
かなりボリュームのあり読み応えがありますが、一気に読んでいける作品だと思います。

「風魔<上>」吉本昌孝著 祥伝社 ハードカバー ISBN4-396-63259-2
「風魔<下>」吉本昌孝著 祥伝社 ハードカバー ISBN4-396-63260-6

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「僕の彼女はサイボーグ」 終盤のもたつきが惜しい

「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介します」のクァク・ジェヨン監督の作品です。
本作はほとんど日本のスタッフ、出演者で撮影していますが、監督の作風はそのままよく出ていたような感じがします。
先にあげた二作品はほぼ同じような構造をしています。
男女主人公の偶然の出会い、幸せな日々、悲しい別れ、そして再び出会い、ハッピーエンド。
これらが笑いの要素を含めた軽妙なタッチで進みますが、そのため余計に別れの部分の悲しさが引き立ち、そしてさらに反転してエンディング部分で幸せな気分で終われます。
「僕の彼女を紹介します」は別れが死なので、再度の出会いは別の人になってしまいますが、その相手は死んだ恋人を思わせる人物で、主人公の幸せになるような予感で終わるのでハッピーエンドと言ってよいかと思います。
さて本作「僕の彼女はサイボーグ」ですが、先にあげたクァク・ジェヨン監督の既存作と共通する構造になっています。
この監督の手慣れたパターンと言っていいでしょう。
「幸せな日々」部分のコメディタッチな感じなどは「猟奇的な彼女」をやはり思い出せます。
不思議でパワフルな「彼女」に振り回される、気の弱い男というのも符合しています。
このようにクァク・ジェヨン監督の手慣れた感じある物語なので、とても気持ちよく観ることができますが、「猟奇的な彼女」を観たときほどの気持ちの揺さぶりはありませんでした。

<ここからネタばれあり>
さきほどの構造の話で出た「再会」、「ハッピーエンド」の部分はこの映画にもあります。
けれどもここが二重構造になっているのが、ややクドい感じがしました。
ひとつめが
 「再会」:60年後ジローが「彼女」を修復して再び出会う。
 「ハッピーエンド」:「彼女」と出会えて、そしてジローは幸せな死を迎える。
ふたつめが100年後に自分にそっくりな「彼女」=アンドロイドを見つけた女の子の視点になります。
 「出会い」「幸せな日々」:自分そっくりなアンドロイドの記憶を共有し、その中のジローと出会い幸せな一時を過ごす。
 「別れ」:未来へ戻らなくてはいけなくなる。
 「再会」:大地震後の東京へ再び戻ってジローと出会い、過去でいっしょに暮らそうと思う。
この二番目の構造がややクドい。
最後の最後になって100年後の女の子の存在が出てくるので、この子に感情移入をする暇がありません。
たぶんそれは監督も気づいていたからこそ、最初の出会い(ジローの誕生日からの一晩)を女の子視点でリフレインしたのだと思います。
ただこれは単純に視点の切り替えだったので、同じものを繰り返し魅せられているような気がしてしまいました。
このもたつき感が最後のハッピーエンドの部分の盛り上がりを削いでしまったような気がします。
時間ものなので、最初の出会いの部分を説明しなくてはいけなかったのだと思いますが、その説明のためドラマティックさがなくなってしまったような気がしました。
もっと一気にラストになだれ込む構造はとれなかったのかなと思いました。
基本的にこういうベタな恋愛ものは好きだったりするので、泣かせて欲しかったのですけれど、そこまでいけなかったです。
惜しい・・・。

話が変わって。
この監督は女優さんをきれいに撮るがほんと上手ですね。
チョン・ジヒョンの場合は素材がいいんだろうなーと思っていましたが、本作観てそう思いました。
綾瀬はるかさんはそれほど好きなタイプの方ではないのですが、本作ではとってもかわいく見えましたから。
小出恵介さんはぴったりのキャスティング。
というより小出さんはどんな役柄でもほんとにぴったりに演じますよね。
幅がある俳優さんだと思います。

本作のサイボーグ、「サイボーダイン」社製ということで。
予告を観たときは「サイバーダイン」と聞こえたので、もしや「ターミネーター」とリンクが!?と思ったのですが、ここはシャレだったのでしょうね。
タイムスリップの仕方も似てましたね。
さすがに全裸じゃなかったですが・・・。
誰?そっちが良かったって言ってるの?(笑)。

綾瀬はるかさん主演「ICHI」の記事はこちら→

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