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2008年5月31日 (土)

「シルク」 水墨画と印象派

この映画を観た女性の方の感想が聞きたい。
女性にとってこの映画は、納得できるものなのだろうか、感動できるものなのだろうか。
キーラ・ナイトレイ演じるエレーヌの、エルヴェへの献身的ともいえる愛は感じなくもないのだけど、それは女性から観て共感できるものなのかと思ってしまいました。
エルヴェの行動は、仕事に入れ込み、そして外で自分だけの愛を見つけ、そして帰るところとしても妻の愛を持っているという、男からすれば(苦労はあるにせよ)夢のような生活だと言えるかと思いますが、その生き方は、ちょっと僕からみると身勝手な感じがしました。
たぶんエルヴェは妻も愛していただろうし、日本で出会った少女(芦田星さん)にも惹かれてしまったのだろうし、二人を同時に愛するということはないとは言いませんが、果たしてこの作品を観て女性はラブストーリーとして感動するのかなあと思いました。

映像、特に風景は綺麗に撮れていて、これはスクリーンで観たかったなと思いました。
日本のシーンは雪景色が多かったせいか、墨で描かれる水墨画のように端正で美しい。
水墨画のような画だけではなく、少女の所作などからもピンと張ったような静謐さを感じます。
また厳しい自然の中での人々の暮らしの様子には、自然と共に生きる日本人の生活文化が現れていたように思います。
それに対してフランスのシーン、特にエレーヌの庭の映像は淡い色合いで印象派の絵画のようでした。
映画の中でちらりとエレーヌ自身が書いている手描きの庭の図面がでていましたが、このような西洋の庭は、幾何学的なデザインで設計されています。
西洋の庭は人工的なデザインの中に植物等を配置しているわけで、これが自然に積極的に働きかけていく西洋の思想を反映していて、日本のパートと非常に対照的に描かれていました。
そもそも印象派は日本画の影響を受けているわけで、タイトルにある絹の元となる繭をつくる蚕の卵が日本からヨーロッパへ運ばれていったように、文化が東西の間を伝わっていったことを感じさせます。
水墨画的な日本パートの美しさ、そして印象派的なフランスパートの美しさは、エルヴェが惹かれた日本とフランスの二人の女性それぞれの美しさを表しているような気もします。

日本とフランスの文化を絵画的に描いた映像はなかなか良かったと思いますが、ラブストーリーとしては(特に女性に)共感性があるのだろうかと変な心配をしてしまった映画でありました。

日本と外国が絹の売買を決めた条約を結ぶシーンがありますが、背景にあった紋は、徳川家の葵の紋ではなく、豊臣家の桔梗でしたね。
これはご愛嬌。

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2008年5月25日 (日)

「ダイ・ハード」 ガテン系ヒーロー

先日「ダイ・ハード3」の記事を書いたので、久しぶりに今日は「ダイ・ハード」を観賞しました。
やっぱり1作目はおもしろいですね!
初見のインパクトから二度目以降の観賞ではどうしても落ちるものですが、本作は何度観てもいいなあ。
やっぱりシナリオ、そしてジョン・マクレーンというキャラクターが良いのでしょう。
1作目やシリーズ全体に関する思い入れについては「4.0」の記事のところで書いていたので、こちらでは別の視点で。

本作で登場したジョン・マクレーンは、それまでのスタローンやシュワルツェネッガーが演じていたマッチョ系のアクション・ヒーローとは一味違っていた印象があります。
スタローンやシュワルツェネッガーのマッチョ系ヒーローは、一般人とは種類が違うように思えるほどの鋼の肉体と揺るぎない心を持ち、絶対傷つかなさそうに見えます。
まさに彼らは完全無欠のヒーローで、物語の中で、彼らは圧倒的な強さを誇り、まさに勧善懲悪で悪党を叩きのめします。
その辺りがわかりやすく、爽快感があるために、マッチョ系ヒーローはウケたのだと思います。
けれどもジョン・マクレーンは、彼らとは異なり、傷ついてしまうヒーローとして描かれています。
白かったランニングシャツは血と埃で真っ黒になっていく。
裸足で走り回ったために、足の裏は血で真っ赤になる。
タフネスではありますが、彼は傷つく。
また彼が戦うのは、たまたま巻き込まれたからであり、愛する妻のためです。
世界の平和とか、国のためではない。
家族のために戦うヒーローなのです。
傷つきながらも、身近な人のために、肉体と頭をできうる限り使って戦う男。
彼のことはガテン系ヒーローと呼んでいいでしょう。
マッチョ系ヒーローが一般の人間からはかけ離れた存在であるのに対し、ガテン系ヒーローはずっと身近で共感性があります。
映画で描かれているシチュエーションは一般的にはありえませんが、家族のために必死にがんばる姿はなにか自分にも実感できる新しいヒーローに見えたのではないでしょうか。
ジョン・マクレーンの相手となるのが、アラン・リックマン演じるハンス・グルーバーですが、彼はマクレーンとは好対照でインテリの風情。
こぎれいなスーツを着こなしナカトミビルに乗り込んでくる様は、それまでのアクション映画の敵役とはこれまた違うイメージがありました。
インテリで冷酷なところが、マクレーンのキャラクターを際立たせることにもつながり、このキャラクター造形も新しかったような気がします。
「ダイ・ハード」以降、インテリな敵役というのがかなり出てきましたが、やはりハンスは際立っていますね。

「ダイ・ハード」のあとアクション映画では、90年代に「マトリックス」でスマート系ヒーローという方向性が登場します。
アクション映画のヒーロー像というのも時代性を受けて変化しているんでしょうね。
そのあたり考察してみるとおもしろいかもしれません。

「ダイ・ハード3」の記事はこちら→
「ダイ・ハード4.0」の記事はこちら→

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「HEROES シーズン1」 ヒロ is ヒーロー

時空間移動、予知、再生能力、壁抜け、飛行能力、怪力、読心、念力などなど、古今東西さまざまな物語で登場してきた超能力が登場するのが本作「HEROS」。
超能力ヒーローが複数登場する作品としては「X-MEN」がありますが、本作はより「普通の人々」が登場するところが新しいですね。
この物語では、超能力は人類の進化の結果として、今の時代に同時多発的にさまざまな人々に発現しているらしい(シーズン1では明らかにされていないので・・・)。
超能力を持った「普通の人々」はその能力にとまどいます。
そして能力者の狙ったと思われる殺人者の存在、また能力者を利用しようとしている謎の組織、「チアリーダーを救い、世界を救え」というメッセージといった要素がシリーズをドライブしていきます。
かなりの人数のキャラクターが登場して、それぞれが複雑に絡むので、最初の数話はややあっち行ったりたりこっち行ったりといった感じでやや忙しいのですが、後半になりNYの爆発に焦点を合わせて物語が収斂していくところは見応えがあります。
とはいえ前半は面白くないかと言えばそうではなく、各能力者は当初自分の能力を隠そうとしているので、それぞれがわからない同士のキャラクターが絡むところがなかなか緊迫感があっておもしろい。
登場人物も個性的なのですが、やはり一番印象が強いはヒロ・ナカムラでしょうか。
眼鏡、小太り、ちょっとオタクみたいなキャラとたどたどしい日本語だったので、アメリカ人ってやっぱりこういう風に日本人を見てるのねと、はじめはげんなりしましたが、物語が進むにつれ、一番彼がヒーローっぽいじゃん!と思いました。
「旅がおまえを成長させる」ということを、ヒロの父親(なんと「スター・トレック」のミスター・カトウだったのですごくびっくりした)が言っていましたが、まさにその通りで、ヒロはこの物語を通じて大きく成長しました。
「スパイダーマン」の台詞でもありましたが、「大いなる力には大いなる責任が伴う」という使命感を持って終止動いていたのが、ヒロ。
本シリーズはたくさんの能力者が絡み複雑な物語ですが、実はヒロに関するストーリーはヒーローものの王道として描かれているんですよね。
彼だけが初めから「世界を救うために」自分の能力を使おうとしています。
ひねた登場人物が多い中、彼の真っすぐさみたいなものがとても新鮮に見えました。

シーズン2はどうなるんでしょうね。
アメリカでの評判はいまいちだとどこかで聞いたような気もしますが。
会った能力者の能力を得ることができるピーターは、「FF」シリーズの青魔導士みたいだなーと思ったのは僕だけじゃないはず・・・。
そのうちにコンプリートめざすようになっちゃたりして・・・(それはサイラーか)。

「HEROES シーズン2」の記事はこちら→
「HEROES シーズン3」の記事はこちら→

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本「魔法ファンタジーの世界」

著者は翻訳家ということで、本への思い入れが強いと思われます。
昨今、子供たち(いや大人たちも)の本離れが言われて久しいですが、教育者でもある著者はどのようにすれば読むようになるのかということを心を砕いているようです。
僕も本を読む方なので、一般的な本離れみたいなことは気にはなりますが、どちらかというと「読むべき」というのではなく、「読めばいろいろな世界に入っていけたり、新しい発見があるのにもったいないなあ」という感じです。
ですので、「本を読め」と無理強いはしないですし、実は「この本を読め」と言われるのもあまり好きじゃない。
読むのも読まないのも自由、それが読書のような気がします。
でもたぶん本を読んだ方が絶対、自分の身になるからよいと思っています。
著者は昨今のファンタジーブームで映像化(映画化やゲーム化)が多く増えたことにより、読書の良さが失われているということを書いています。
読書は、紡がれている言葉によって世界を思い浮かべなければなりません。
特に異世界を舞台にしたファンタジーは、読み手の力が要求されます。
文字から世界の様子・状況を思い浮かべる力、台詞の前後関係からそのときの人物の心境を想像する力。
その力は読むことによって鍛えられていきます。
それに比べ映像作品は与えられたイメージが視覚的に表現されているため、そのような力はそれほど必要としません。
だから著者は安易な映像の方に流れ、想像する力が衰えていくのではと危惧しています。
ただ僕は映画も好きなので違う意見なのですが、映像作品は読むことへのきっかけ入り口になるのではないかと思っています。
本屋さんや図書館にある膨大な本の山を見たとき、読書に慣れていない人はどこから手をつけていいかわからないでしょう。
またいきなり想像力を要求される本を読み出しても、投げ出してしまうのが落ちです。
そんなとき原作がある映像作品を観た後であれば、(原作と映像作品での解釈の違いがあるにしても)よりストレスなく、本に入っていけると思います。
そしてそのような読み方を続けていくうちに読書力もつき、興味の幅も広がっていく。
僕は映像作品は、本と競合するものではなく、いっしょに発展できるものだと思っています。
いづれにしても物語を紡ぐものなのですから。

本著では「指輪物語」を書いたトールキン、「ナルニア国ものがたり」を書いたルイスの考え方の違いなども触れられて面白いです。
世界を一から構築したトールキン、さまざまな神話からのエッセンスがごった煮のように入っているルイスの作品、異世界ファンタジーの双璧たる二作品ですが、読み比べてみるのもおもしろいかもしれません。
「ナルニア国物語/第2章」を観る前にこの本を読んだので、いい予習になりました。

映画「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛」の記事はこちら→

映画「ロード・オブ・ザ・リング」の記事はこちら→

映画「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」の記事はこちら→

「魔法ファンタジーの世界」脇明子著 岩波書店 新書 ISBN4-00-431020-2

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2008年5月24日 (土)

「ランボー 最後の戦場」 怒りの大魔神

やや語弊があるかもしれないのですが、痛快な映画と言ってもいいかもしれません。
戦闘シーンなどでは、かなりグロテスクな描かれ方をしているので、映像的にはまったく快くはないのですけれども。
最近の映画はアクションものでも、複雑な展開・仕掛け、深いキャラクター・人間関係などで、凝った作りのものが多いですが、本作の構造は至ってシンプル。
極悪非道の悪者を、虐げられた者の代わりにランボーがぶっ倒すという、典型的な勧善懲悪の物語です。
本作の悪役は目を覆いたくなるほどの悪行を行う非道な者たちなので、ランボーがバッタバッタと敵を倒していくさまは、時代劇の大立ち回りのような痛快感があります。
舞台となっているのは、最近でもサイクロン被害とそのときの軍事政権の対応のひどさで話題になり、国際的に人道的問題があるとされているミャンマーなので、政治的なメッセージを盛り込むこともできるテーマだったと思いますが、本作ではあえてそこには踏み込んでいません。
昨年の「ロッキー・ザ・ファイナル」もそうでしたが、最近の二作ではスタローン監督は原点回帰、シンプルさというものを追求しようとしているように思います。
「ロッキー」にしても「ランボー」にしても人気シリーズとなったところで、どうもアメリカ万歳的なナショナリズムを感じるようになり、当初作品が持っていた良さがなくなったように思えました。
最近の二作はスタローンが、作品が持つエッセンスは何かと考え、それをシンプルに表現しようとしたのだろうと思います。
「ランボー」という作品のエッセンスは、虐げられた個人の、虐げる体制への反逆でしょう。
体制に虐げられた者は哀しみを心に抱いても、その怒りを体制にぶつける術は普通ありません。
けれどもランボーはその鍛え上げられた肉体と技術でまさに人間兵器となり、虐げられた者たちの哀しみと怒りを体制にぶつける。
現実的には自分ではできない、虐げる者たちへの成敗をランボーがやることが痛快さにつながったのでしょう。
けれどもこのシリーズが作られるにつれ、次第に「反逆」というニュアンスは薄くなっていったような気がします。
どうも体制側に取り込まれてしまったような感じがあり、それが痛快さを失うことに繋がったのかもしれません。
本作では、ランボーは本来のアウトローに戻り、シリーズの基本に戻った作品に仕上がっていたと思います。
怒りに身を任せて無慈悲に、容赦なく悪党を倒しまくるランボーには、あの「大魔神」の姿がかぶりました。

ここから映画とはちょっと離れた話を・・・。
先週「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」を観たときは、人々が虐殺されている場所に武器を供与して平和にしようというのは、どうもうさんくさい感じがしました。
どんどん「憎しみの連鎖」が深まるだけではないかと。
でも本作を観たりすると、ほんとに命の危険にさらされる場合は、抵抗する術をもたないといけないというような気もしたりします。
きれいごとだけでは生きられないというか・・・。
これはとても難しい問題で、自分の中では簡単に答えがでないですね・・・。

「ランボー」の記事はこちら→
「ランボー 怒りの脱出」の記事はこちら→
シルベスター・スタローン監督作品「ロッキー・ザ・ファイナル」の記事はこちら→

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2008年5月18日 (日)

「ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛」 喰い足りなさは相変わらず

なんとまた試写会当たりました。
普段は字幕派なのですが、今回は吹き替え版で観賞です。

「ロード・オブ・ザ・リング」に比べ、それほど一般的に高い評価ではない「ナルニア国物語」。
「LOTR」は元々のトールキンが行った見事な世界構築と、その世界を視覚化したジャクソン監督のこだわりが相まって映画全体に濃厚で重い密度感があるシリーズでした。
それに対して「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」はそのような重さはありません。
またルイスの原作もそのようですが、いろいろな伝説をモチーフに詰め込んでいるため、ナルニア国の描かれ方は、「LOTR」の中つ国のような一貫性はあまり感じず、ごった煮のような印象があります。
そのようなこともあり、映画としては大人でもがっつりと楽しめる重めの「LOTR」に比べて、「ナルニア国物語」はやや子供向けといったイメージを持ちました。
スペクタクルなシーンもあってその辺りだけとれば十分に楽しめたりもするのですが、全体の印象としては喰い足りない感じがありました。

さてその「第1章」を継いだ「第2章:カスピアン王子の角笛」ですが、その印象は「第1章」と驚くほど似ています。
「第1章」の印象にあった喰い足りなさは今回も感じました。
そのあたりはどこに起因するのでしょうか。
「LOTR」は全3作を通じて「善と悪」の戦いが描かれていました。
そしてその「悪」というのはどの人の心にも潜んでいます。
所有欲や上昇欲、妬みといった心は誰の心にもある。
ストーリーとしては究極の悪との戦いを描きながらも、フロドたちがそうであったように自身の悪心との戦いが真のテーマであったと思います。
では「ナルニア国物語」ではどうでしょうか。
「ナルニア国物語」でも善と悪の戦いが描かれています。
けれどもその物語の裏にある、テーマといったものが明確に見えてきません。
本作「第2章」では、ナルニア国=自然、テルマール=人間といった比喩で、人間が自然に対して支配介入していくことに対する警鐘を鳴らしているようにも考えられますが、それほどはっきりとは響いてきません。
アスランはイエス・キリストを表しているというのが「ナルニア国ものがたり」の解釈としては定説らしいですが、そう考えると上のこともあまりしっくりとはしないですし。
(最後の洪水のシーンはアスランがイエスを表しているという定説が窺える場面でした。大水がかたどった姿はイエスそのものでしたし、洪水が人間を滅ぼすというのはノアの方舟伝説を想起させました)
どうもテーマがはっきりとしていないというところが喰い足りなさに繋がっているような気がします。
ファンタジーというのは、そもそも何かの暗喩であることが多いと思います。
その暗喩が何であるかを感じることが僕はおもしろかったりするのですが、そのあたりは本作では味わえなかったように思います。
誰でも楽しめるスペクタクルとして、派手なシーンは多いのでシンプルには楽しめるとは思うんですけれど。

あと致命的だと感じたのは、本作「第2章」が誰が主人公だかわかりにくいということ。
予告等からの印象だと、タイトルにあるカスピアンが主人公だとは思いますが、映画を見ると彼は存在感がとても少ない。
「LOTR」で言うと王となるアラゴルンは、その誠実さ、真摯さが人を率いる器を感じさせてくれる人物でした。
けれどもカスピアンにはそのような王のカリスマはあまり感じられない。
あまりに幼い。
王らしい決断力はピーターには多少感じたりしますが、そのためにさらにカスピアンが王としては貧弱に見えてしまう。
子供たちが主人公なので仕方がないのかもしれないですが、どうも善と悪との戦いも「LOTR」に比べて薄っぺらく感じてしまいます。
すべての映画がテーマを持つ必要があるとは思いませんが、ただ異世界を楽しんでもらうだけを考えて映画を作っていくと、これだけ乱作気味なファンタジー映画はだんだん苦しくなっていくような気がします。

「ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島」の記事はこちら→
「ロード・オブ・ザ・リング」の記事はこちら→
「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」の記事はこちら→

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2008年5月17日 (土)

「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」 不遜な国アメリカ

劇中ウィルソンが、ソ連のアフガニスタン進行を防ぐために武器供与の資金を捻出するために
「われわれの為に戦っている人がいるんだ」
と言いますが、こういうところにアメリカの不遜さが出ているような気がしました。
アフガニスタンの人々は別にアメリカの為に戦っているのではなく、彼らの生活・生命が脅かされているから戦っているわけです。
別に自由社会のために防共の砦になろうとしているわけではありません。

アメリカという国はキリスト教的、自由主義的理想を実現する意図のもと作られた国だと思います。
ウィルソンにしても、ジョアンにしても、確かに彼らはキリスト教的博愛精神によってアフガニスタンの人々を救おうという気持ちはあったでしょう。
けれどもそこにはある種、自分たちは手を汚さずに利益を得ようとする、自分たちでも気づいていない(もしくは気づかない振りをしている)意図が見え隠れします。
また人々を救おうという彼らの行動も、施しをしようというような「上からの目線」を感じます。
ウィルソンやジョアンの行動は博愛精神からきているのだとは思いますが、彼らの打ち手に対してなにかいかがわしさみたいなものを僕は感じてしまいます。
アフガンの人々を救うために武器を渡すというのは、どう考えても彼らのことを考えている行動には思えません。
もしそれが彼らのためになると本気で考えているとしたら、アメリカという国はやっぱりちょっとズレているのではないかと思います。
それこそが「アメリカ嫌い」な国の人々がアメリカに感じているもののような気がします。
アメリカという国は、このような不遜な目線を持っているような印象があります。
国力が差があり一方的に援助される立場のときはそれも我慢できるでしょうが、国力がついてきたり、あまりにも国のプライドが傷つけられた場合は、アメリカの目線に次第に不満が起きてきます。
それが現在「アメリカ嫌い」な国が増えてきている状況に繋がっているだと思います。
これにアメリカ自身があまり気づいていないのが、問題なのでしょう。
ウィルソンは最後に、アメリカが持っている不遜さに気づいたようですが。
ソ連のアフガン侵攻は決して許されることではありませんが、それに対してとったアメリカの行動も褒められたものではないと思います。
アフガンへの武器供与が英雄的行動だと言われるのはやはりおかしい。
太平洋戦争を終わらせるために原爆を落したのは正しいという意見を持つ人が多かった聞きます。
またイラク戦争も開始したばかりのときはアメリカ国民のほとんどは支持をしていました。
そのあたりの感覚が、他の国の人々とアメリカは違うような気がしてなりません。

結局アフガニスタンに対する武器供与はソ連の撤退に効果はあげたものの、その後は権力の空白が起こり、アフガニスタンは内戦状態になります。
そしてそれはタリバンという原理主義政権を生み出す土壌となり、そしてそれが反米勢力となっていくというのは歴史の皮肉でしょうか。

この映画はアメリカではヒットしたのでしょうか。
なかなか彼の国の中では理解されないような気がします。

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2008年5月11日 (日)

「ダイ・ハード3」 振り回される不快感

本作「ダイ・ハード3」はあまり評判がよろしくありません。
かくいう僕もこの作品は失敗作だと思っていますが、それではどこでこの作品は失敗してしまったのでしょうか。
公開当時は「ダイ・ハード」の1作目、2作目での援護がない限定空間の中での戦いという制約を失ったためしまりがなくなったのではと思っていました。
けれども「ダイ・ハード4.0」ではその縛りはないですが、十分に「ダイ・ハード」らしさは出ていました。
なのでさきほど書いたような限定空間の中での戦いが必ずしも、「らしさ」を出しているわけではないとわかります。
「4.0」の記事で書きましたが、「ダイ・ハード」らしさを出しているのは、やはりジョン・マクレーンというキャラクターに負うところが多いと思います。
1、2、4作目のいずれにおいても、彼は組織立った敵の計画を、「現場対応」で彼自身のバイタリティで攪乱させていく。
緻密に組み上げられた犯罪計画は、マクレーンというたった一つの異物によって次第に綻びを見せていきます。
マクレーンの敵となる人物はすべて頭が良い(たぶん自分でもそう思っている)男たちです。
彼らの計画がマクレーンによって攪乱されて、彼らがどんどんとイライラしていく様子が、観ていて爽快なのではないかと思います。
今の世の中、ややもすると様々な行動が計画され組織だてられています。
日々「計画通り」仕事をしていくことが求められ、それで時々息苦しいなと思ったりする人も多いのではないでしょうか。
それは映画の中でも同様で、最近のアクションものでも、いい側(警察など)も悪い側(犯罪組織など)もかなり最近は組織立っています。
どちらでも組織はスタンドプレーを行う人物は嫌います。
マクレーンという人物は、そういう組織においてはまさに異物。
でもその異物であるたった一人の人物が、組織立った計画をどんどん狂わせていく。
一人の力でも何か変えられる、動かせるというところが見えるところが、「ダイ・ハード」というシリーズの魅力ではないでしょうか。
そう考えると、本作3でのマクレーンというのはとてもさえない。
他の作品ではマクレーンは、相手をイライラさせる役回りでした。
だから観ていて爽快。
でも本作はイライラさせられるのはマクレーンの方です。
相手サイモンはマクレーンを振り回し、ただ彼はそれに従っているのみ。
彼の活躍によってサイモンがイライラするという場面はほとんどありません。
マクレーンが感じるイライラは、すなわち彼に感情移入をしている観客のイライラになります。
僕は本作は観ていて、サイモンがうっている手がすべて後だしジャンケンになっているように見えました。
実はこれはこのためのフェイクだったという出来事が多すぎる。
脚本としては二転、三転させているというつもりなのかもしれないですが、それがフェアではないので観ていて振り回されているような不快感に繋がってしまいます。
いい加減もう止めてよという感じでした。
1、2も二転、三転しているという点では同じなのですが、そのイニシアティブは実はマクレーンがとっているのです。
だから観ていて観客が振り回れているような感じはしない。
十分についていける。
たぶんそのあたりの作品の捉え方の間違いが3の不評に繋がっているのではないでしょうか。
4.0はその点をきっちりと認識している点が、多くの観客に「ダイ・ハード」らしいと受け入れられた理由ではないでしょうか。

「ダイ・ハード」の記事はこちら→
「ダイ・ハード4.0」の記事はこちら→

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本 「K・Nの悲劇」

先週読んだ「ジーン・ワルツ」も妊娠・中絶を題材にしたミステリーでしたが、本作そのあたりを真正面に捉えている作品。
作者の高野和明さんは好きな作家の一人で、映画化された「13階段」等も書いています。
もともとは脚本家ということで、作品全体の構成が上手な方です。
二転三転のストーリー、そしてタイムリミットサスペンスを上手に取り入れているので、後半になればなるほど読むのがやめられなくなります。
高野氏の作品は、社会的なテーマをとりあげているのですが(死刑:「13階段」、ドナー:「クレイヴディッカー」、自殺:「幽霊人命救助隊」、中絶・精神疾患:本作)、それらを作品ごとにさまざまなテイストで描いてるのが器用な感じがします。
本作等はちょっとJホラーのような怖さもあるのですが(ただのホラーにならないところがまた見事)、「幽霊人命救助隊」などはちょっとユーモアがあったり。
それほど多作な方ではないですが、作品発表が待ち遠しい作家さんです。

さきにもあげましたが、この作家は作品にタイムリミットの要素を持ち込むのがとても上手。
本作は何をリミットにしているかというと、作品の中心となる妊婦夏樹果波が中絶できるまでの期限、そして出産するまでの期限。
妊娠をし、そして経済的理由により中絶を決心した時期に、彼女には別の人格が憑依してしまう(ように見える)。
憑依した人格は、お腹の子を頑に守ろうとする。
けれどもそれによって母子ともに危険な状態に陥ってしまう。
彼女は本当に死霊の憑依なのか、それとも妊娠を内心では拒絶する果波が作り出した憑依人格なのか・・・。
この解明を軸に、中絶問題、また精神医療についてなどの社会的なテーマに触れていきます。
このあたりのエンターテイメントと社会性の匙加減がこの方はとても上手ですね。
怖いのが得意な方はちょっと苦手かもしれないですが、ただのホラーとは違いますので、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

高野和明著「13階段」の記事はこちら→
妊娠・中絶問題をテーマにした作品「ジーン・ワルツ」の記事はこちら→

「K・Nの悲劇」高野和明著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275323-4

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2008年5月10日 (土)

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」 すべては自分の成功のために

主人公ダニエル・プレインヴューは劇中の中でこう語っています。
「自分は競争心が強い」
彼にとっては自分がすべて。
彼は周りの存在、モノでも人でも、それはすべて自分の成功のための道具ととらえている節があります。
愛する息子であっても。
彼が息子を愛していなかったとは思わない。
息子が油井の火事に巻き込まれた時、必死に助けようとしたのはやはり愛していたからだと思います。
けれども彼の愛というのは、その前提として自分の味方であり、自分にとって役に立つだろうという意識があった上でのものだと想像できます。
息子H.W.が聴覚を失った時、心配し看病する気持ちは本物だったでしょう。
けれどもその障害が治る見込みがつかず、後継者となりえないとわかり、彼にとって重荷となったとき、彼は愛していた息子ですら遠ざけてしまいます。
彼にとって息子でさえも、役に立つか立たないかということが、愛を超えてしまうのです。
息子がダニエルの元に戻ってきた時、彼は喜びますが、彼は聞こえぬ息子に対して言葉で話します。
H.W.の妻となる女性は彼の幼なじみですが、結婚式のシーンでは手話でお互いに会話をしています。
これはほんの1シーンなのですが重要で、H.W.の妻は彼とコミュニケートするために手話を学んだとうかがえます。
それは彼を愛するがゆえの気持ちからだと思われます。
けれどもそれに対して、しばらく後のシーンでダニエルとH.W.が対立するシーンがありますが、そこではダニエルは息子に対して、手話の通訳を介して激論します。
つまり彼は手話を扱えないわけです。
息子が聴覚を失って十年以上はたっているというのに。
ダニエルにとっては手話を学ぶ必要性を感じなかったということでしょう。
H.W.は彼の成功にとってはもう重要な存在ではなくなってしまっていたから。
愛する存在であれば、彼とコミュニケートするために、彼の妻と同じように手話を学びたくなるのが自然な気持ちだと思いますが、彼はそのような気にはならなかった。
ダニエルにとっては、愛するということよりも、やはり自分の成功というものが重要だったのでしょう。
息子は役に立たない存在から、敵になるかもしれない存在になるかもしれないとわかったとき、激しくダニエルは怒ります。
ここからも彼は自分の成功、利益という視点でしか物事を見れない人物だとわかります。

劇中、ダニエルと激しく対立する人物が新興宗教の伝導師イーライ。
二人が対立するのは、似た者同士であったからだと思います。
ダニエルは俗世間の物質的な世界での成功を目指していました。
イーライは人の心的世界での支配を目指していました。
どちらも自分の成功には手段を選ばない激しい気質を持っています。
だからこそ彼らはお互いに憎み合っていたのでしょう。
彼らがどれだけ成功への妄執があったかというのは、憎んでいる相手に対して頭を下げることすら成功のためには厭わないという行動からも窺えます。

老いてダニエルは大きな邸宅に住み、富も名声も手に入れたように思います。
けれどもそこには愛するものは存在せず、たった一人だけ。
憎んでいる相手を、足下にひれふせさせた時、彼の心には満足感があったかと思います。
けれどもその後、彼は何を感じて生きていくのでしょうか。
彼は死すとき満足して死ねるのでしょうか。

さすがダニエル・デイ=ルイスはアカデミー主演男優賞を受賞しただけあって、もの凄い存在感があります。
「ギャング・オブ・ニューヨーク」も迫力ありましたが、彼は他の俳優には真似ができないほどの圧倒的な存在感がありますね。

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2008年5月 7日 (水)

「最高の人生の見つけ方」 あなたは二つの質問にイエスと答えられますか?

とってもとっても久しぶりに試写会に当たりました。
1年半振りくらい・・・?
こちら予告を観た時から観たいと思っていた作品だったので、嬉しい・・・。

自動車修理工のカーター。
彼は信心深く、勤勉に実直に、妻や子供たちのために何十年もこつこつと働き続けてきました。
病院を経営する実業家エドワード。
彼は無神論者で、離婚を何度も繰り返し、またお金儲けに才能があってバリバリと稼いできた大金持ちです。
まるっきり正反対の人生を歩んできた二人ですが、同じ時期に同室に入院し、同じようにガンで余命が6ヶ月と宣告されます。
「死」というものは知識としては、当然のことながら知っています。
当然いつか自分が死ぬであろうとも思います。
けれどもそれが目の前に余命幾ばくと突きつけられたとき、自分はどう思うのでしょうか。
冷静に受け止められるのか、取り乱すのか、そういうことすら想像できません。

宣告されたあと、それぞれ二人は取り乱したりすることはないのですが、なにか空しさみたいなものを感じているように感じました。
人生を謳歌しているように見えたエドワード。
人生をずっと我慢するものだと思ってきたカーター。
人生というものの見方はまったく違いますが、二人は家族とも共用できない同じような空しさを感じたことで共感しあいます。
そんなときカーターがふと書いた「棺桶リスト」。
人生の中でやってみたいと思っていたこと、でもなんとなくあきらめてしまっていたことのリスト。
エドワードはそのリストを二人が死ぬまでにやってみようと提案します。
そして二人の死ぬまでの人生を謳歌するための旅が始まります。

日々忙しくて目の前のことに忙殺されてしまう毎日。
やりがいは感じているけれど、なにかふりまわされてしまっているような感じもする。
いつか時間があったらやってみたいなと思うことがあっても、ちょっと長く休みがとれたとしても、結局何もしなかったり・・・。
これってずっと生きている状態が続くとなんとなく思っちゃっているからなんですよね。
この物語の主人公のように「死」を突きつけられたとき、自分の心には満足感が残るのだろうかと考えてしまいました。
やりたいことを先延ばしにしてしまったりすると、いつか時間がないとわかったとき後悔するのかもしれない。

ピラミッドの上で、カーターがエドワードに語ったエジプトの言い伝えにある天国の門での問いが心に残りました。
「あなたの人生は喜びを得られるものだったか」
「あなたの人生は他者に喜びを与えることができたか」
ちょっと言葉は違うかもしれないですが、自分自身が幸せで満足できたこと、そして周りのものにも幸せを与えることができたかという意味の言葉だったと思います。
エドワードは1番目の質問にはイエスと答えられますが、2番目の質問には答えられない。
カーターは劇中では答えていませんが、2番目はイエスで、1番目はノーでしょう。
両方の質問は両立するのは難しいですが、相反するものではありません。
たぶん「最高の人生」を過ごすにはその両方の質問にイエスと答えられるように生きることなのでしょうね

脚本の出来がすばらしかったです。
「死」というものをテーマにしながらも、軽妙で笑いながら、泣けて、考えさせられてしまいます。
「死」というものを考える時、深刻に語られると目をそらしたくなってきてしまいますが、この適度な軽さのさじ加減がとてもいいです。
エドワードとカーターのウィットの効いた会話がとても軽妙。
二人を演じたジャック・ニコルソンもモーガン・フリーマンも、あて書きかと思うほどそれぞれが今までのキャラクターイメージを上手く活かして演じていました。
すばらしい!
あと軽妙さという点では、エドワードとその秘書のトマスの会話もよかった。
それぞれ憎まれ口を言っているようですけど、エドワードはトマスを信頼し、トマスはエドワードを尊敬しているんですよね。
トマスというキャラクターはとてもキャラクターとして効いていて、エドワード自身は先のあげた質問のうち、2番目に答えられませんでしたが、実はトマスに対しては満足を与えることができていると想像させる点で彼が自分で思っているほど自分勝手な男ではないと伝えてくれている気がします。
それがラストの感動にも繋がってくるんですよね。
このあたりも脚本が見事だと思ったところです。
その他にも構成も凝っていて、「棺桶リスト」の叶え方、オープニングとエンディングのつながりはうならされます。

今年のGW興行の映画はいまいちな作品が多くてがっかりしていましたが、連休明けにいい作品に出会えました。
今週末から公開ですね。
みなさんもよろしかったらご覧になってください。

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2008年5月 6日 (火)

「ステルス」 快楽的なスピード感

先日観た「NEXT -ネクスト-」がいまいちな出来だったのでがっかりしてしまったのですが、唯一よかったのはジェシカ・ビールが出ていたところ。
セクシーな方で、けっこう好きな女優さんだったりします。
ということで、思い出したようにジェシカ・ビールが出演している「ステルス」をDVDで観賞です。

あんまり世間的には評判はよくない本作ですが、僕は好きだったりします。
ストーリー的には細かなツッコミを入れる余地はかなりあるのは承知しているのですが、そのマイナスを補うほどの航空アクションシーンがお気に入りなんです。
この映画の航空シーンは最近のSFXのメカニックアクションでよくあるような、グルグルとカメラが動くいかにもCGで作りましたというのとは違うんですよね。
あくまでもありそうなリアルさ加減にこだわっている気がします。
例えば何気ない空母への着艦シーンなども、”タロン”という架空の戦闘機なのですからCGであるはずなのですが、このあたりがとても自然。
「トップガン」などの実際の海軍機F14を撮影したのとあまり変わらないリアルさ加減がとてもカッコいい。
空中戦や地上攻撃のシーン等でも、カメラのブレ、ピンぼけ、フレームアウト等を再現したCGが、ほんとに空中撮影をしているような感じが出ています。
また、リアルさだけでを追いかけているのではなく、「スターウォーズ」を思い出させる”エディ”とのドックファイトや、無人空中補給船(空飛ぶセルフガソリンスタンドですね)のシーン等は、映画的に迫力のある魅せる画作りになっていて、これも観ていて引き込まれます。
これらの航空シーンがBGMのロックにのって描かれることによるスピード感は、かなり快楽的でもあります。
突っ走るスピード感というのはなんだか本能的に興奮を呼び起こすものですよね。
ジェシカ・ビールのいやらしすぎないセクシーさ(ストーリーとはあまり関係ない水着姿あり)だったり、航空アクションの激しいスピード感が、オトコの興奮を誘うのでしょうか、この映画は観終わって、いい映画を観たというのとは違う、満足感みたいなものを感じたりするんですよね。

ジェシカ・ビール出演「NEXT -ネクスト-」の記事はこちら→

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本 「ジーン・ワルツ」

「チーム・バチスタの栄光」の海堂尊氏の新作。
海堂氏の小説は産婦人科医療をテーマにしているため専門用語が多いのにも関わらず、読みやすいのがいい。

僕は男性だし、子供もいないので、子供を産むということに関して、一般的(それも男性としての)な知識しかありません。
この物語には五人の妊婦が登場します。
望んでやっと子供を宿した人、望まなくて妊娠した人。
特に青井ユミと甘利みね子という登場人物のエピソードに心を揺さぶられました。
ユミは誰が父親かわからずに10代で望まずに妊娠してしまった女性。
彼女は始めは子供を堕ろそうとしますが、産婦人科医曾根崎理恵に説得され、産む決心をします。
けれどもその子が重度の障害を持っていることがわかってしまいます。
曾根崎医師は彼女の境遇を考え堕胎を薦めますが、彼女は産むと言います。
またみね子はやっと授かった子供が、やはり重篤な障害を持つと知らされます。
その子は産まれたらすぐに死んでしまうことがわかっている。
けれども彼女はそれでも産みたいと決心をします。
そして曾根崎に子供の性別は何かと聞く。
産まれてくる子供に名前をつけたいからだという。
「家族に名前をつけるのって、当たり前だと思いませんか」
ユミにしても、みね子にしても、産むというその決心をしたときの彼女たちはとても強く見え、そして神々しくも見える。
この物語の登場人物、妙高助産師が語るように「子供は世界を一変させる」のでしょう。
それだけ子供というもの、生命というものは人にとってかけがいのないものなのでしょう。

この作品の中で、作者が登場人物に語らせているように、そしてまた報道でも伝えられているように産婦人科医療は現在崩壊寸前となっています。
子供を産むということは人間がずっと繰り返してきた行為であるために、当たり前すぎることに思えてしまいます。
けれどもそこには危険性は少なからずあり、それを支えてきた医師たちや家族たちの力があったわけです。
その仕組みをなんとか支えていかないと、これから問題になる少子化は解決しないのではないかと思います。
「ジーン・ワルツ」はエンターテイメントとしてたいへん面白く読めますが、そのような産婦人科医療、少子化という社会的な問題への課題提起となっている作品だと思います。

本作の裏編となる海堂尊作品「マドンナ・ヴェルデ」の記事はこちら→
映画化作品「ジーン・ワルツ」の記事はこちら→

「ジーン・ワルツ」海堂尊著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-306571-5

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2008年5月 5日 (月)

「NEXT -ネクスト-」 制約なしはおもしろくない

フィリップ・K・ディックの「ゴールデン・マン」を原作にした作品。
「ゴールデン・マン」は一度読んだことがありますが、ほとんどストーリーは忘れてしまっています。
ディックの小説は「ブレードランナー」などいくつも映画化されていますが、ディックの小説の雰囲気を持っているのは「スキャナー・ダークリー」くらいかと思います。
この作品も予告を観る限り、アクション映画という感じがしたので、ディックらしさはあまり期待せずに観賞です。

自分にまつわる出来事を2分先のことを予見することができるクリス(ニコラス・ケイジ)が主人公。
このたった2分先だけというのが、ストーリーとしておもしろさを生み出すのミソだと思うんですよね。
アクション映画というのは、ハラハラドキドキしなくてはおもしろくありません。
ではどうやってハラハラドキドキさせるかというと、何かしらの制約を主人公にもうけるのが常套手段です。
例えば「ダイ・ハード」であれば、助けを呼べないビルの中という、空間的な制約。
よくあるパターンであれば、時限爆弾のタイムリミットなどの時間的な制約。
変わったところでは「スピード」のスピードを落してはいけないという制約などもありました。
これらの制約があってこそ、主人公が苦しい立場に追い込まるけれども、それを知恵と勇気と行動力でなんとか突破していくということに物語としてのカタルシスが生まれるのだと思います。
そのときの判断、そのときの行動が破滅的な結果を招くかもしれないという緊迫感がハラハラドキドキを生むわけです。
この作品の主人公は未来を見ることができる目を持っています。
そういう能力はあまりアクション映画には向いていません。
起こりうる危機に対処できるのだから。
けれどもその能力が「たった2分先まで」というのが、万能の力にある種の制約を設け、物語としておもしろくなりそうな可能性を持っています。
だから制作者はこの映画を作ろうと思ったはずなのですが、その物語の制約をまったく上手く使えていません。
2分先しか見通せないという能力の裏をかくような、危機が起こし、どう主人公が対処するのかというところでかなり盛り上げられるような気もしますが、そのようなことがありません。
(正確にはそのようなことはあったのですけれど、主人公がそれを危機と感じる前に別の理由で解決してしまった)
ラストのテロリストとの戦いは、ほとんど神様のごとき予見能力を使って、かなり一方的な戦いに。
これではカタルシスも生まれようがありません。
それでもってあのラストはいかがなものでしょうか。

<ここからネタばれありです>

「驚きの結末」という惹句がついていたような気がしますが、別の意味で「驚き」ます。
今までの主人公を縛っていた制約が何の説明もなく、消失するなんていうのはいかがなものでしょうか。
「2分間だけ」というのはどこにいってしまったの?
単なる夢オチって・・・。

その他、テロリストがクリスに興味を持つところもなんだかあまり説明ありませんし、その上クリスの想い人を人質にするなんて、普通テロリストがそんな行動するかしらん。
そんな感じで脚本がひどくて、あきれるより前に苦笑してしまったという感じでした。
あと、やっぱりニコラス・ケイジは長髪は似合わないなあ。

フィリップ・K・ディック原作作品「スキャナー・ダークリー」の記事はこちら→

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2008年5月 4日 (日)

「スパイダーウィックの謎」 いけないと言われるとやりたくなるもの

フレディ・ハイモアくん主演で、家の裏に妖精が出てくるお話だということで、「アーサーとミニモイの不思議の国」と似ているのでは?と思いつつ、観に行ってきました。
いい加減、ファンタジー映画は飽和状態になっているような気もしますが、「パンズ・ラビリンス」のように個性的な作品も登場するので、やはり観ておかないということで。
本作、ファンタジーであることには間違いないですが、「アーサーとミニモイの不思議な国」というよりはスピルバーグが製作した「グーニーズ」とか「グレムリン」を思い浮かべました。
特に「グレムリン」は作品のテーマは似ているかもしれません。
「グレムリン」はご存知のように、かわいらしい不思議な生物モグワイを育てるとき「水に濡らしてはいけない」などのルールを破ってしまい、たいへんな騒動が巻き起こるというお話。
本作も「見てはいけない」と注意書きが書いてある本を、少年ジャレッドが好奇心で読んでしまうことから騒ぎが起こります。
その本を狙って悪い妖精たちが、ジャレッドと彼の家族を襲います。
この妖精たちとの攻防が、怖いようでちょっとドタバタな感じがしていて、この雰囲気がなんだか「グレムリン」に似ているような感じがするんですよね。

「やってはいけない」と言われてしまうと、やってみたくなるものなんです、人間って。
考えてみれば、昔話やおとぎ話というものには、やってはいけないというルール(禁忌)があるのにも関わらず、好奇心に負けた人々が悲劇に合うというのはよくある話です。
「鶴の恩返し」では機織りを覗いてははいけないと言われたのに覗いてしまいますし、日本神話のイザナギの黄泉比良坂の話も禁忌破りですね。
様々な物語には、人間と人間でない他のものの間にはそれぞれの領域があり、そこには守るべきルールがあるというパターンが多いように思います。
それを必ずと言っていいほど人間側が破る。
その理由は欲だったり、好奇心(これも知的な欲と言える)だったりします。
いわゆる動物が生きるための本能に基づく欲ではなく、人間の欲というものは、必要以上のものを求める欲だと言えるでしょう。
それが人間が文明等を発展させるエンジンとなったのでしょうが、それは人間以外のもの、他の生物や自然へのダメージを伴うという側面があると思います。
たぶん昔話にあるルール破りとその応報というエピソードというのは、人間の意識が自身の欲望の危険な側面を無意識的に分かっているということを表しているのかもしれません。
発展というものには常識を破るということが大事で、その能力を持つことが人間をここまで発展させてきた。
でも際限がないルール破りはいつしかしっぺ返しを受ける。
そういう戒めが昔話にはあるのかもしれません。
だから本作もそうですが、ルール破りの物語はちょっと怖い。
手痛いしっぺ返しを受けるかもしれないと、人はどこかでわかっているから。
その怖さがわかるうちは、まだ人間は大丈夫かもしれない。
でも人間が無神経にルールを破ってしまうようになったら、本作のようにきのこのサークルを突破されて大きなしっぺ返しを受けてしまうかもしれません。

フレディ・ハイモア主演「アーサーとミニモイの不思議な国」の記事はこちら→

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本 「奥州藤原氏 -平泉の栄華百年-」

高橋克彦さんの小説「炎立つ」などの奥州藤原氏をテーマにした小説を読んで、奥州藤原氏に興味が出てきて、この本を手に取りました。
基本的に残されている文書などから、当時の藤原三代について掘り下げて検証しています。
奥州藤原氏に関しては、藤原氏側に残されている文書がとても少ないようで、かなりその実像を明らかにするのに苦労されているのが窺われます。
読んでいると、高橋克彦さんの小説の中で描かれていた場面がでてきたりすると、なかなか興味深く読めたりもしました。
全体的には古文書を整理しまとめて解釈しているという内容なので、読み物としてはやや退屈な感じがなきにしもあらずです。
ただ奥州藤原氏に興味がある方は読んでみてもよろしいのではないでしょうか。

「奥州藤原氏 -平泉の栄華百年-」高橋崇著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101622-X

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2008年5月 3日 (土)

「カンフーくん」 子供が見る目はそれほど低くない

先週観た「少林少女」があまりな出来だったので、こっちはどうかなと比べてみたくなり「カンフーくん」を観てきました。
こちらの小田監督の作品「笑う大天使」はあまりおもしろいとは思わなかったので、スルーするつもりだったのですけれど・・・。

期待もあまりしていなかったので、がっかり度合いは「少林少女」ほどではなかったのですが、おもしろいというわけではありません。
シネカノンで上映しているので、大人が観てもそこそこ満足できる作品かと思いきや、かなり低年齢層向けに作っているんですね。
子供ターゲットのため、ストーリーはとてもオーソドックスで単純なので、大人が観て満足というのにはちょっと厳しい。
もう少し「カンフーくん」のアクションが観れたら満足できたのかもしれなかったですが、それほどでもなく。
劇場にはお子様連れも何組かいらっしゃいましたが、つまらなかったのか途中で出て行ってしまう家族や、眠そうだった子も・・・。
「電王」のときとはえらい違いです。
あからさまに子供向けに作った映画というのは、実は子供から観てもつまらなかったりするんですよね。
大人が「キミたちはこのくらいでしょ」と大人目線で作ってたりするのは、けっこう子供はわかったりするものだと思うんです。
この映画、そういうところがあったのではないでしょうか。
子供が見る目はそれほど低くないと思います。

小田一生監督作品「笑う大天使」の記事はこちら→

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