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2008年4月29日 (火)

「ストレンヂア 無皇刃譚」 画も話も不満足

この作品、特別なものは感じなかったというのが、正直なところ。
アニメーションで描かれるチャンバラの激しさは「アフロサムライ」の方が上のように思えます。
山田風太郎が好きな僕としては、アニメならではの「ありえねー」チャンバラを期待していたのですが、あまりドキドキハラハラするようなことはなく・・・。
いたるところ、何かどこかで見たことあるなといった印象が残ってしまいます。
お話もどちらかというとオーソドックスな作りなので、あまり目新しさは感じません。
主人公名無しが異国生まれという設定をもう少し上手に使った方が良かったのではないかと思います。
せっかく「ストレンヂア(異邦人)」というタイトルにしているのですから。
ストーリーがそれほど練られていないので、不満足感が残ります。
アニメといっても画だけきれいであればいいということではなく、ストーリーも重要だと思います。

日本のアニメーションはジャパニメーションとして世界で評価され、それらはハリウッドの実写の映画にも影響を与えました。
「マトリックス」等はその最たる例だと思いますが、日本のアニメの影響を受けた作品を見続けているせいか、あまりオリジナルである日本のアニメーションに驚きを見いだせなくなってきたのかもしれません。
今はまだ世界で日本のアニメーションは頭一つ抜き出ているのかもしれませんが、この状態でいるといつか凌駕されてしまうかもしれません。
表現面、ストーリー面、双方から新しいアニメーションというものを考えていかなくてはいけないのでしょう。

それにしてもアニメーションでのチャンバラというのは、なかなか良いのがないです。
今まで見た中で一番良かったのは、「カムイの剣」。
気がつけばもう20以上前の作品なので、あまり誰も知らないだろうなあ。

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本 「天使」

先日読んだ同じ作者の「雲雀」の元となった小説です。
「雲雀」は中編集でしたが、こちらは一本のジェルジュを主人公とした長編。
「雲雀」は本作で登場するキャラクターのそれぞれの話、前日談、後日談をお話にしたものだったんですね。
読む順としたら、こちらを先の方が良いのかもしれません。

佐藤亜紀さんの文章というのは何か取っ付きにくさを感じます。
細かいところまで説明したりということはないので、読者にも文章の間を読むという力が必要とされるように思えます。
だからといって薄っぺらい印象かというとそうでもなく、文章から浮かび上がってくるイメージは息づかいまでを感じるような感じがします。
リアルな情景が浮かんでくるというのはなく、その人物の心象風景が浮かんでくる感じというか・・・。
うまく言い表せないんですけれども。
この作品には人の心を読むことができるジェルジュら能力者が主要な登場人物です。
彼らが感じる世界というのを、一般の人々は感じることができません。
同じ感覚をもっていないのですから、同じように感じることができないのはあたりまえです。
彼らが感じている世界というのを文章に定着しようとすると、佐藤亜紀さんの書かれている文章のようになるのかもしれないと、ふと思いました。

「天使」佐藤亜紀著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-764703-6

佐藤亜紀さん作品「雲雀」の記事はこちら→

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2008年4月28日 (月)

「大いなる陰謀」 レッドフォードの嘆きが聞こえる

アメリカが今ほどに世界中から嫌われている状態というのはなかったでしょう。
けれど嫌いというけれども、一部の人を除いては憎んでいるというわけでもない。
衰え始めているとはいえ、アメリカの経済力や軍事力というのが、世界の平和のバランスをとることに大きな影響を与えているということは否定できないと思います。
そういう意味でアメリカは特別な国とも言えます。
けれどもアメリカは嫌われている。
何故だろうか?
前にも書きましたが、アメリカは自由主義という建国思想を明確にもって作られた国です。
彼の国には世界の自由というものを守るという自負があります。
だからこそ、他国からみれば内政干渉ではないかと思えるようなことを行うことがあります。
彼らはそれが世界の平和のために必要だと言います。
けれど世界の平和のためと言っていますが、それはアメリカという国の国益のためだったりします。
そのあたりが他国から見ると、とても自己中心的な国と見え、嫌ってしまったりするのだと思います。
たぶんアメリカは、「世界の平和」と「アメリカの繁栄」は同根だと考えているでしょう。
世界の平和を保ち続けているのはアメリカだという自負、だからこそアメリカは守られねばならないという考え。
このあたりの考え方が、他国の人々と違うということに、アメリカが気づいていないように思います。
だから彼らは嫌われている。

上で書いたようなアメリカを、この映画で体現しているキャラクターがアーヴィング上院議員。
彼はたぶん本気で映画で描かれる作戦を実行することが、アメリカを、世界を守ることだと考えています。
大義のためには他国民、そして自国民のいくらかの犠牲は仕方がないと考えている。
彼は彼自身に正義があるということに疑いがない。
これがどのくらい他国民から見たらいらつくことなのかが、彼はわかっていない。
まさに現アメリカ政権を象徴している人物として描かれています。
アメリカ人でありながら外からの目線を持っているのがジャニーン記者。
彼女個人としては暴走するアーヴィング議員へ反発の心を持ちますが、けれども彼女が属するマスコミは現状に表立って反対することに消極的。
これもイラク戦争開始にあたって、マスコミがほとんど反対しなかったことを表しているのでしょう。

この物語には2種類の若者が登場します。
大学を休学し、軍隊に参加したロドリゲスとフィンチ。
彼らはアメリカ建国の時の理念を純粋に信じ、自由のために戦おうとします。
けれどもその戦いは、誰のためにもほんとうに正義のためなのかというところまでは考えていないように思えます。
純であり、理想に関してロマンチストである彼らは、無情な現実にさらされます。
もう1種類の若者がトッドに象徴されます。
彼は目先の楽しさに目を奪われ、勉学もさぼりがち。
世の中がどうなっているかというようなことに対しても興味を持ちません。
彼が享楽的に生きられるのも、アメリカという国が繁栄しているからだということにも思いは達しません。
これは今のアメリカの若者たちがそうなってきているということでしょうか。

2種類の若者たちを見るのが、教師であるマレー教授。
演じるのは監督でもあるロバート・レッドフォード。
マレー教授の発言はほぼレッドフォード監督の考えだと思っていいでしょう。
彼はロドリゲスやフィンチのロマンティシズムに危うさを感じ、トッドのような無関心層には苛立ちを感じます。
アメリカという国は理想を基に作られた国。
それを盲目的に信じるのではなく、また無関心になるのではなく、常にさまざまな視点で冷静にその理想を考えなくてはいけない。
盲目的な信仰、そして無関心は両方とも、思考停止のことなのです。
自由を守るということはその責務について、その重さについて常に考えていなくてはいけない。
たぶんロバート・レッドフォードはそのように言いたかったのでしょう。
レッドフォード監督の自国への嘆きが聞こえてくるかのようです。

(作品の出来とは別に)監督のメッセージは非常にストレートに語られている作品だと思います。
だからでしょうか、アメリカではあまりあたらなかったとか。
たぶんこの映画で語られていることに耳が痛い人が多かったからでしょう。
ただこれはアメリカだけのことと捉えるのではなく、同じことが日本でも起こっているように僕は思えました。

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本 「ミステリと東京」

日本の犯罪ミステリー小説には、東京を舞台にしたものが多くあります。
本著はそれら東京を舞台にした小説を材料に、東京の都市論について考察しています。

もともと僕は東京という街に惹かれておりました。
大学の卒業制作では「東京」をテーマに選んだほど。
それは大きな街で暮らしたいといった若者、地方出身の方が持つ気持ちではなく、何か東京には得体のしれないものを感じていたのです。
東京は江戸末期から200年程度でこれほどまでに劇的に変わっていきます。
また東京は場所や時間によって驚くほど顔つきが違う。
何かキメラのような、不思議で幻想的なイメージがこの街にはあります。
僕がそのようなイメージを持つようにいたったのは荒俣宏氏の「帝都物語」の影響が大きかったように思えます。
荒俣氏もそのような変化し続ける一個の生物のような東京の街というイメージを持っているのかと思います。
たぶん、数々の作家がちょっと目を離してしまうと変わっていってしまう、このとらえどころのない街に魅力を感じているのか、本著で紹介されているように数々の作家が東京を舞台にしたミステリを書いています。
この本では書いている時代・場所、そして描かれている時代・場所、そして作家の捉え方で、東京都いう街がいかに多様的で不定形であることがわかります。
本著で紹介されている本が全部読みたくなました。
たぶん今まで僕が感じたことがない東京がそこにはあるのでしょう。

暖かくなってきたので、なんだか久しぶりに東京の街中のそぞろ歩きをしたくなりました。
東京は地図を持たずにデタラメに歩いても、本の数分でどこかの地下鉄の駅にぶつかります。
そういう意味ではそぞろ歩きには向いている街。
ふとしたところで小説や、映画の舞台になった場所に出くわすことがあります。
それが何とも楽しいんですよ。

「ミステリと東京」川本三郎著 平凡社 ハードカバー ISBN978-4-582-83377-5

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「紀元前1万年」 はじめに映像ありき

ローランド・エメリッヒ監督らしい大味な作品。
エメリッヒ監督は今までも「ID4」で宇宙人によって破壊される世界の名所の様子、「デイ・アフター・トゥモロー」では氷ついた現在の都市など目にすること等決してできない映像を現出してきました。
本作では紀元前1万年の地球をスクリーン上に再現します。
大地を揺るがすように走り回るマンモスの群れなどは、迫力もあってやはりなかなかの出来ですし、ラストのピラミッド建造の様子も見事なものです。
見たことのないものを映像化するという監督の手腕は本作でも引き続き冴えています。
とはいえ、ローランド・エメリヒッヒ監督の弱点も、この映画では踏襲しています。
彼の作品は登場人物の描き方が甘く、ドラマ部分についての深さがあまりない。
これは今までの作品についても言われていましたが、本作はその点がいつにも増して強かったような気がします。
デレーとエバレットの愛情、デレーとカレンの間の確執と友情、またデレーとティクティクの間の父子にも似た信頼感など、人間を描くネタとしてはいくつかあると思いますが、このあたりはいつもの通り、あっさり。
エメリッヒ監督は人間を描くというよりは、見えないものを現出させることの方が楽しいのでしょうね。

この映画、歴史物というよりはファンタジーのように思えるので、あまり歴史的な背景について語るのは野暮なような気がしますが、ちょっとそのあたりで気になったところを。
紀元前一万年前というと農耕が始まったエリアと、まだ狩猟・採集の段階にあるエリアが混在していたと考えられます。
なのでこの映画に書かれているような狩猟民族と農耕民族の出合いなどというのは、たぶんあったことでしょう。
けれどその時代において、ピラミッドのような巨大建造物が造られるほどに文明が発展していたかというとやや疑問です。
エジプト文明は紀元前3000年頃ですし。
その時代は氷河期が終わって久しく、マンモスやサーベルタイガーはすでにいなかったでしょう。
またピラミッドを作るほどの力を持つ文明は必ず、農耕により奴隷や人民を養えるだけの力を持っていなければなりません。
映像を見るにつけ、ピラミッドは砂漠の中にぽつんとあるだけなので、彼らがあの大人数のためにどのように食料を自給しているのかが疑問です。
でもエメリッヒ監督の作品でこんなことをいうのはやはり野暮ですね。
彼はそもそもそういうことは気にもしていないでしょうから。

基本的に本作は、若者が姫を救出するために困難な旅を続け、最後に悪魔を倒して姫を救出し、英雄となるという、世界各国の伝説にあるような極めて古典的なストーリーになっています。
その話も多分監督にとっては映画をするためにストーリーがなければならないというだけの存在であったような気がします。
彼はマンモスが荒野を闊歩するという誰もみたことのない映像を作ることに気持ちとエネルギーを傾けているのではないかと思いました。
はじめに映像ありきなんでしょうね。

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2008年4月27日 (日)

「少林少女」 「量産」の弊害

「少林サッカー」のチャウ・シンチーがエグゼクティブ・プロデューサーということで公開を心待ちにしてました。
「少林サッカー」は大好きでDVDで何度も何度も観ましたもん。
監督はエンターテイメントでは定評のある本広監督ですし、主演は実力のある柴崎コウさんですし、期待度はかなり高まっていました。

しかーし。
まったくおもしろくなかったぞ、がっかりだー。
まずは脚本があまりに工夫が無さ過ぎです。
何度も劇場で見せられた予告の内容以上のものはありません。
数分のダイジェストでほとんど説明できてしまう映画って、それでいいのかなあ?
「少林サッカー」のおもしろさというのは、「少林拳」と「サッカー」の意外な組み合わせによって生み出されるマンガチックで大げさなアクションシーンであり、主人公シンの「少林バカ」っぷりだったわけだったと思うのですが、曲がりなりにもその後継である作品ならばそのあたりは押さえてほしいところでした。
「少林サッカー」は登場するキャラクターが変な奴らばかりだったところが魅力だったと思いますが、本作に出てくるキャラクターは、極めてステレオタイプで工夫がありません。
チームメイトも師匠も、そして敵も、どこかで見たような感じでとてもあっさり味。
これではよくあるただの青春ドラマです。
主人公凛に反発していたラクロスのチームメイトもあっさり仲良くなっちゃいますし、ドラマ的な盛り上がりがほとんど感じられません。
「少林サッカー」はコメディとしてもおもしろいですが、終盤に向けてのドラマの高揚感みたいなものがとてもあったと思います。
アクションシーンも悪くはなかったと思いますが、とはいえとても良かったとは言いがたいかと思います。
今となっては使い古された感のあるワイヤーとCGによるアクションで、新鮮味はありません。
「少林サッカー」では漫画のような大げさなシーンを、きっちりとCGなどで真面目に映像にしているところが「ありえねー」感じがでていたと思いますが、そこまでの踏み込みも本作にはありません。
また、ラクロスを題材に扱っていますが、少林拳を使ったラクロスの試合の様子がエンディングのタイトルロールのバックだけっていうのもいかがなものでしょう?
うまくストーリーの中で消化できなかったのでしょうか。
それだったらそういう題材など選ばなければいいのに。

本作は「総監督システム」を採用したということで、各シーンは助監督がかなり自由に撮っているらしいです。
だからでしょうか、全体から監督のスタイルというようなものを感じることもありませんでした。
しっかりと職人が作り上げたシングルモルトではなく、二級品をブレンドして作ったウィスキーといった感じ。
でも有名な職人が監修しているから、その人の名前で売ってしまう。
そういえば日本酒にも二級酒というのがありました。
まさにそんな感じ。
監督の名前というのも既に「ブランド化」しているように思える中で、そのブランド力を使い、たくさん客が入る作品を、たくさん作っていく仕組みとして「総監督システム」というものを採用したのはないでしょうか。
一人の監督が丁寧に作品を作っていけば、その数には限りがあります。
でも「総監督システム」ならば「量産」は可能です。

フジテレビ×ROBOTというタッグは、ある種の成功の方程式を持っているように思えます。
ただこの成功というのは、観客の動員という視点からのものであり、作品の質の視点ではないように感じます。
ウケそうな題材の選び方、大量かつ巧妙な宣伝により、ある程度客を呼べる仕組みができているのでしょう。
でも成功が見えているからか、最近は彼らの作品の質はそれほど高くないように思えます。
客が入ればいいと思っているのかもしれませんが、質が高くなければ次第に客は離れます。
「量産」による質の低下は、今までも先ほど例に挙げたお酒の世界ではあったこと。
映画という分野でもそのようなことが起こり始めているのでしょうか。
「量産」は決して悪いことではありません。
「おいしいもの」をたくさんの人に食べて飲んでもらえるならその方がいいに違いない。
でもそれは「おいしいもの」でなくてはいけないと思います。
三池崇史監督や堤幸彦監督のように多作な監督もいらっしゃいます。
けれども彼らは「量産」している作品に、しっかりと彼ら自身の個性、刻印を刻み込んでいます。
でも本作はあきらかに「量産」による質の低下が感じられます。
そのあたりを制作者にはきちんと認識して欲しいところです。
日本酒やウィスキーから人が離れてしまったということと同じことを、映画でも起こさないようにしてほしいです。

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2008年4月26日 (土)

「犯人に告ぐ」 信念の人

ずっと仕事が忙しくて、それがGW前にやや落ち着きそうになって気が緩んだのか、思いっきり風邪をひいてしまいました。
今日から見たい映画がいくつか公開されたのですが、本日は泣く泣く自宅でDVDで映画の鑑賞です。

本作、ミステリーに分類されるのでしょうが、派手なトリックや謎解きはありません。
予告を観たときは、「劇場型捜査」というコピーがあったということもあり、捜査本部の担当がテレビに出演しながら公開捜査という派手なパフォーマンスで犯人を追いつめていくという印象を持ったのですが、どちらかというと地道な警察の捜査で犯人が追いつめられていきます。
主人公と犯人の隠された関係などというようなミステリーはいっさいなし。
極めて現実的な捜査をこの映画は描いています。
証拠を一つ一つ固めていって積み上げていく、地味な捜査というと、映画としてはつまらなそうな感じがするのですが、そんなことはありません。

多分現実の事件もこういった地道な捜査(いわゆる足を使う捜査)の積み上げで解決していくものなのでしょう。
一通一通の手紙を丁寧に分析し、一軒一軒を回っていくローラー作戦、これはよほどの根気と使命感がないとできないもののように感じます。
そこに迷いなどがあったら、先が見えない地道な捜査など続けていくことはできないでしょう。
劇中で描かれている事件の指揮をする主人公巻島警視(豊川悦司さん)は驚くほどにブレない。
彼の中には確固たる「正義」がある。
その「正義」にはブレがない。
周りの登場人物、県警本部長曾根、総務課長植草、テレビキャスター杉村が、自己の出世や保身のために状況に合わせて、さまざまな策を弄するのに比べて、巻島の揺るぎなさが際立ちます。
6年前の誘拐事件の捜査の失敗の原因は、彼は自分の中に揺るぎない「正義」がなかったのだと感じているように思えます。
あのときメンツや自己の手柄への気持ちを捨て、警視庁の手を借りていれば、子供を死なすことはなかったかもしれない。
そのときの後悔は激しく彼を苛んだのでしょう。
それを乗り越え、巻島は自分の中にブレない「正義」を築いたように思います。
彼が常に落ち着き、淡々と捜査を続けていく様は一見地味かもしれませんが、そこには誰にも侵しがたい信念があるように見える。
劇中で犯人が声明で「理想国家のために」等という言葉を使いますが、巻島はそれを一蹴します。
犯人は愚かであると。
その言葉には毅然さがあり、迷いはなかった。
犯人は彼の態度にこそ、追いつめられていったと言っていいでしょう。
犯人には巻島ほどの信念も主義もなかった。
鬱屈した思いがたまたま犯罪の方向へと吹き出したに過ぎない。
そのような半端な気持ちを持った人間が、「信念の人」にかなうわけがない。
犯人だけでなく、本部長や捜査課長も自己のために状況に対応していこうとしていますが、結果としてはそのフラフラした思いが自分自身を知らず知らずのうちに苦境へと導いていってしまいます。
捜査において犯人に「顔見せ」するということは自らを危険にさらすことであるはずであり、普通はそれを躊躇するはずですが、彼はそれをためらわなかった。
それが犯人逮捕に必要であれば、彼は迷わない。
彼の中にはブレない「正義」があるから。
それがカメラを注視し「犯人に告ぐ」という堂々とした言葉に現れているように思えました。

原作小説「犯人に告ぐ」の記事はこちら→

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2008年4月20日 (日)

「モンゴル」 文化的背景の違いによる自然の捉え方の違い

モンゴル史というのはあまり馴染みがないですが、昨年「蒼き狼」を見ていたおかげですんなりと見れました。
史実をベースにしている物語ですので、登場する人物や出来事はほぼいっしょですし。
そうなるとこの2作品、比べてみたくなります。
「蒼き狼」が演技のオーバーアクションが気になったのに対し、「モンゴル」は逆にかなりストイックな印象があり、とても対照的な感じがします。
また「蒼き狼」は青空や草原の緑といった風景がとても鮮やかな印象があるのですが、本作はどちらかというと全体的に無彩色のような印象が残ります。
(テムジンが妻と子供たちと一緒のひと時を過ごすシーンだけは他に比べて色彩が豊かでした。
これはテムジンの波乱の人生の中で、大きな戦の前に唯一、一人の夫として家族と過ごせた幸せの暗示だったのでしょうか。)
両作品ともにモンゴルでロケをしているのですから、この印象の違いは風景によるものではなく、それぞれの制作者の捉え方の違いと言っていいでしょう。

島国である日本に住む我々から見るとモンゴルという国は、考えられないくらい広大なイメージがあります。
実際その風景を観たとしても、その広大さに圧倒されるのでしょう。
たぶんそれを観た日本人がそれをフィルムに定着しようとすると、その自然の広がり、雄大さを表現したくなり、空の蒼さ、草の緑などを鮮やかに撮りたくなると思います。
「蒼き狼」における、自然の撮り方には、なにか日本にはない広大さに対する憧れとロマンティシズムがあるように思えます。
けれども大陸に生まれ、その広大な草原に暮らす人々からすれば、その広大な自然は過酷な側面もあるのではないでしょうか。
本作中でもキーワードになっていた雷というのは、その荒ぶる自然の側面を象徴的に表したものだと思います。
大陸に生まれた人々にとって、その広大な自然は、鮮やかで美しいものである前に、厳しい存在であるのでしょう。
だからその自然を表す色合いは、過酷な印象が残る無彩色系になったのだと思います。

また「蒼き狼」ではテムジンを動かすのは妻や家族への「愛」ということがテーマになっていたように思えましたが、そこにもロマンティシズムを感じます。
「モンゴル」においては、テムジンを民族統一へ突き動かしたのは、周辺民族に侵されるかもしれないという危機感など、もっと現実的で厳しいことによるように感じました。
モンゴル民族はチンギス・ハーンによる統一まで部族ごとの単位で生活し、そして戦ってきていました。
彼らは古き掟に基づいて生活を続けています。
けれどもテムジンは幼い頃、一人で生きていかなくてはいけないという過酷な境遇になったためか、部族を主体にした古き掟にはあまり重きをおいていません。
テムジンの台詞に「俺は違う」という言葉が何回か出てきましたが、彼には部族の外にいたぶん、今までにない広い視野を持てたのかもしれません。
一族を単位として民族としてはバラバラになってしまう古い掟ではなく、新しい掟によって民族を統一する、それをしなくてはモンゴル民族は生き残っていけないと彼は思ったのでしょうか。
そこにあるのは民族としての「サバイバル」であり、自然にも周辺の状況にも気を許すようなところはなかったのでしょう。
そこにはロマンティックな側面はなく、いかに厳しい状況に対して生き残っていけるかということだけなのかもしれません。
あの時代のモンゴルという場所が、島国に暮らす歴史と文化を持つ日本人と、大陸に暮らす歴史と文化を持つ人々と、それぞれの文化の背景の違いにより見え方が違うというのがおもしろいところでした。

浅野忠信さんの演技はただただ感服するばかり。
モンゴル語による演技もまったく不自然なところはなく。
欧米人からみたら、日本人だとは思われないでしょうね。

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「銀幕版 スシ王子! 〜ニューヨークへ行く〜」 「お約束」のネタ満載!

ひそかに楽しみにしていた本作、公開初日に行ってきました。
堤監督の作品、好きなんですもん。
「包帯クラブ」などの真面目なテーマのものから、「大帝の剣」などの悪ノリ系まで、作品の幅が広い堤監督ですが、中でも僕は「TRICK」などのお笑い系(?)が好き。
「スシ王子!」は予告を観る限り、好きなお笑い系。
期待度が高まります。
テレビシリーズはオンエアは見逃していたので、DVDでしっかり予習してから行ってきました。

予習していって正解でした。
本作はまさにドラマを見ていた人向けの映画です。
映画で初めて「スシ王子!」に触れた人は楽しめたかな・・・?
逆にテレビドラマを楽しんでみていた人は間違いなく楽しめるのではないでしょうか。

堤監督の映画の笑いのセンスというのは独特なものがありますが、その特徴はなんなのでしょう?
僕はそれは「お約束」の笑いではないかと思っています。
「お約束」の笑いというのは、昔のバラエティ(ドリフなど)のコントでの笑いのようなもの。
毎度、同じようなネタでボケるといったようなものですね。
そういう意味で言うと、堤監督の笑いというのは先進的というよりは、極めて伝統的な笑いと言っていいかもしれません。
堤監督の作品でいうと、「TRICK」で巨根ネタ・貧乳ネタ、あと上田教授が必ず頭をぶつけるといったボケ、「自虐の詩」ではちゃぶ台返しなどです。
こういう「お約束」の笑いというのは不思議なもので、繰り返し見ていると飽きるというよりは、何度でも見たくなってしまうもの。
本作も「お約束」のネタは満載で、「ヨッ!スシ王子!」のかけ声、ウオノメ症候群ネタ、いつもマドンナは他の人に惚れてしまうネタなど、テレビシリーズから引き続いているものが多いです。
相も変わらずといったところもありますが、テレビシリーズのファンというのはそれが見たくて行っているわけなので、繰り返しだろうがマンネリだろうがいいんです(堤監督はそのネタも毎回少しずつ変化させていって飽きさせない工夫もしています)。
考えてみれば「ヨッ!スシ王子!」のかけ声は、歌舞伎の「中村屋!」などのかけ声に通じるところもあるわけで、日本人のエンターテイメントにとって「お約束」というのは思いのほか大事なのかもしません。
「銀幕版 スシ王子!」では日本の伝統文化である寿司と、グローバル化されたスシとの異文化対決といった側面もあります。
主人公、米寿司(堂本光一さん)の伝統的な寿司は、客の望むことを感じそれを提供するということで勝利をつかみます。
堤監督の笑いも基本的に、お客の期待する「お約束」の笑いを(さらに一工夫して)提供しているという点では、司の伝統的な寿司に通じるものかもしれません。
最近の押し付けがましいお笑いは、味覚の好みを押し付けるアメリカ風にアレンジされたスシにも見えてきます。
最近の笑いはインパクトはありますが、消え去るのも早い。
たぶん10年後に見ても全然笑えないと思います。
でも伝統的な寿司は何度食べても飽きないように、ドリフのコントは10年たっていても笑えたりするんですよね。
堤監督の笑いも同じような感じがします。

そういえば笑いの「ネタ」、寿司の「ネタ」、両方「ネタ」ですね。
笑いと寿司は文化的にもなにか通じるものがあるのかも・・・。
調べてみるとおもしろいかもしれません。

エンドロールが始まっても席を立たないように。
特にテレビシリーズから見ていた方は。
最後にやはり「お約束」のネタがありますので・・・。

堤幸彦監督作品「包帯クラブ」の記事はこちら→
堤幸彦監督作品「自虐の詩」の記事はこちら→
堤幸彦監督作品「大帝の剣」の記事はこちら→

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2008年4月12日 (土)

「劇場版 仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事」 最初から最後までてんこ盛り

夏の仮面ライダーの劇場版は定番行事となってきましたが、春の劇場版は平成ライダーでは初の試み。
また同じライダーでの2作目の劇場版というのも平成ライダーではお初です。
テレビシリーズが終わってからの映画化ということで、それだけ「電王」人気というのは凄かったということでしょうか。
この作品、制作者からファンへの感謝の気持ちを込めたプレゼントという感じがしました。
「電王」という作品の人気の高さは、イマジンを含めた登場するキャラクターの魅力によるところが大きいと思います。
本作は短い中にそれぞれのイマジンのキャラがたち、佐藤健さんの相変わらずの演技達者振りが味わえるエピソードをきちんと組み込み、さらにはゼロノスの桜井へウラタロスが、キバの渡へモモタロスが憑依するなどのお祭りならではの驚きを加えた、脚本の小林靖子さんの仕事は見事です。
また各フォームチェンジの活躍(クライマックスフォームは嬉しかったぞ)、デンライナー同士の戦闘などお祭り映画としてのアクションの見せ所もふんだんにありました。
基本的にストーリーとしては一発ものなのであまり収集をつけるなど気にせずに(とはいえ鈴木刑事のエピソード等を入れて一作品としてきちんと見せるところはやはり小林さんは上手)、派手に花火を打ち上げるという割り切りがよかったのではないでしょうか。
監督はJAE(昔のJAC)の社長、金田治氏なのでアクションはお手の物。
「電王」らしく派手で、おもしろかったです。
最初から最後まで、「電王」ファンが見たかったものがたっぷりと入っているので、ファンなら十分に堪能できると思います。

公開日初日の初回だったので、劇場にはお子様がとても多かったです。
始まる前まではそこら中でおしゃべりしていたのでややどうなるかと心配していましたが、映画が始まるとみんな静かにお行儀よく観賞していました。
というより子供たちは映画に見入っていたようです。
劇場出る時に子供たちは口々に「おもしろかったねー」と言っていました。
制作者たちのファンへのプレゼント、しっかり届いていたようです。

「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!」の記事はこちら→
「劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」の記事はこちら→
「劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」の記事はこちら→
テレビシリーズ「仮面ライダー電王」の記事はこちら→
テレビシリーズ「仮面ライダーキバ」の記事はこちら→
「劇場版 仮面ライダーキバ 魔界城の王」の記事はこちら→

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2008年4月 6日 (日)

本 「サンディエゴの十二時間」

マイクル・クライトンがジョン・ラング名義で書いた作品です。
1972年の作品なので、30年以上も前に書かれていたんですね。
この作品が扱っているのは、毒ガスを使ったテロ事件。
ある思想家が大統領を狙って、手に入れた毒ガスを使い暗殺を企て、それを情報部員が防ごうとするという筋立て。
ハリウッド映画によくありそうなストーリーに思えますが、ここは書かれた年に注目したい。
今でこそ毒ガスを使ったテロというのは痛ましい地下鉄サリン事件などにより現実味を帯びているけれども、この作品が書かれた30年前というのは一般的にはそのような危機などを考えていた人はあまりいなかったのではないのでしょうか。
あまりに危険なガスのため、実行前に二つのガスを混ぜ合わせてるというのは、サリン事件を思い出させます(原題の「BINARY」というのは「二つの」という意味で、この二つの期待を混合するということを表している)。
マイクル・クライトンの凄さというのは、その題材を見つける嗅覚の鋭さであるように思います。
世間がまだそのことについて危機感を持っていない時に、それを題材にした小説を書く。
まるで予言者のように、先を見ているような気がします。
最近のマイクル・クライトンは、年をとったからか、やや説教臭かったりするのですが、本作はストレートにエンターテイメントしているので、読みやすい。
ハリウッド映画でよく使われるネタになってしまうので、もの足りない人もいるかもしれませんが、本作の方が全然前に作られているので、そのあたりに驚きを感じてもらってもいいでしょう。

マイクル・クライトン作品「NEXT -ネクスト-」の記事はこちら→

「サンディエゴの十二時間」マイクル・クライトン著 早川書房 文庫 ISBN4-15-040690-1

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本 「雲雀」

「バルタザールの遍歴」で日本ファンタジーノベル大賞をとってデビューをした佐藤亜紀氏の作品です。
日本ファンタジーノベル大賞をとる作品はけっこう好きなので、「バルタザールの遍歴」も確か読みました(だいぶ忘れてしまっていますが)。
近代ヨーロッパを舞台にした二重人格ものだったと思いますが、ファンタジーノベルという言葉の印象よりも骨太で、それを女性が書いたということでとても驚いたのを覚えています。
「バルタザールの遍歴」はやや重くて読みづらいという印象がありましたが、本作「雲雀」はそのようなことはありませんでした。
ただし、この物語は近代ヨーロッパを舞台にしている中編集ですが、あまり歴史的背景などについてはくどくどと説明をしていないので、このあたりの歴史が苦手な方には取っ付きにくいかもしれません。
同じ作者の「天使」と対を成す作品ということですが、中編集でそれぞれ独立した物語なので(それぞれがリンクをしていますが)「雲雀」だけでもわからなくなることはありません。
またこの作者は、登場人物の心情をけっこう乾いた視線で描くので、ぐっと感情移入をしていくというタッチでもありません。
このあたりも苦手な人は苦手かもしれませんね。

「雲雀」佐藤亜紀著 文藝春秋 文庫 ISBN978-4-16-764704-9

佐藤亜紀さん作品「天使」の記事はこちら→

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「うた魂♪」 人にどう見られるか気になるお年頃

最近この手の音楽を題材にした青春映画が多いですけれども、先日観た「ブラブラバンバン」がとても期待はずれな出来だったので、観に行こうかどうしようかと迷っていたのですが、昨年のお気に入り映画「天然コケッコー」の夏帆さんが主演なのでやはり行ってきました。
昨年の「天コケ」の演技が評価されたのか、今年は彼女主演の映画が目白押しですね。

「ブラブラバンバン」は中途半端で青春映画の醍醐味が味わえなかったですが、本作は王道の作りで安心して観ていられます。
夏帆さん演じるかすみは、自分でもかわいいと思っているし、歌の才能も他の人よりも勝っていると思っている女の子。
若い頃って、なんだか知らないけれど根拠のない自信を持っていたりするものです。
自分を顧みても、あとから考えるとその自信たっぷりなところが赤面ものだったりするのですが、若い頃というのはそういうものでしょう。
自信過剰である反面、とても人の目が気になる年頃でもあります。
人が自分のことをどう見ているか、どう思っているかとても気になってしまう。
自意識過剰と言えばそれまでなのですが、気になるのだからしかたがない。
かすみも、好きな人にユニークな顔と言われたり、同級生に嫌われたりすることで、とてもへこんでしまう。
歌っている自分はとてもカッコいいと思っていたのに、実はそれを人に笑われている。
そんなの気にしなくてもいいのにと年をとった大人はいうかもしれませんが、やはり10代の女の子にとってはそれは大問題。
他人にどう見られるのかということにとても敏感になる頃なんでしょうね。
人にどう見られたっていいじゃない、それが好きなんだからと思えるようになったら、人は大人になったということなのでしょうか。

夏帆さんというのは、「演じている」という感じがしない女優さんですよね。
なんだかとても自然というか、作られていない感じがします(当然作っているのでしょうけれど、そう感じさせないところがいいです)。
すごい美人という感じではないのですが、すごくかわいく見えるときもあれば、なんか普通にぼんやりとした顔立ちに見える時もある、不思議な女優さんです。
他にはかおりの友達役で出ていた徳永えりさんは「フラガール」「ブラブラバンバン」とこの手の青春映画多いですねー。
そういえば「天然コケッコー」で相手役だった岡田将生くんは「ブラブラバンバン」に出ていたなあ。
作品の出来としては、夏帆さんの「うた魂♪」の勝ち!

夏帆さん主演「天然コケッコー」の記事はこちら→
「ブラブラバンバン」の記事はこちら→

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2008年4月 5日 (土)

「キューティーハニー THE LIVE」 平成ライダーフォーマットを上手に取り入れた

「キューティーハニー」の実写化は庵野秀明氏の映画がありましたが、テレビドラマとしてはこの作品が初めて。
映画「仮面ライダー THE FIRST」や「GARO」等でキレのいいアクションを見せてくれた横山誠氏が総監督ですので、やはりアクションシーンは毎回見応えがありました。
やはり本シリーズの新機軸は「空中元素固定装置(ハニーシステム)」を持っているのがハニーだけではなく、他に二人(ミキ、ユキ)いるということ。
同じような能力を持つヒーロー(ヒロイン)が数人登場してくるという展開は、平成に入ってからの「仮面ライダー」シリーズが思い浮かびます。
もともと「仮面ライダー」というシリーズは、もともと改造人間である「仮面ライダー」と元の組織の改造人間との、同族同士の戦いという構造を持っていました。
平成ライダーシリーズはその考え方を押し進め、「仮面ライダー」を数人登場させ、その間の戦い、結びつきを描くというように進化していきました。
その手法により一年を通しての展開をよりドラマチックにすることに成功しました。
「キューティーハニー THE LIVE」は平成ライダーのフォーマットを導入し、三人のハニーが登場することとなったのでしょう。
メインの番組スポンサーはバンダイですし、本作のメインライターは井上敏樹氏(平成ライダーシリーズをいくつも手がけている脚本家)なので、たぶんライダーの成功したフォーマットを導入するというアイデアがでたのでしょう。
登場するキャラクター、なかでも敵のパンサークローの四幹部とハニーシステムを搭載したカラダを持つユキについては井上色の強いキャラクターでした。
井上敏樹氏の場合、他の人がメインライターの場合で一部の脚本を担当するときは、キャラクターのクセを出しすぎて作品の世界観を壊すくらいに暴走したりすることがありますが、メインのときはそのアクの強さが、番組自体の強烈な個性になります。
1年間の全話の脚本を書いた「仮面ライダー555」などはその代表作だと思いますが、本作も井上カラーのでたシリーズと言っていいでしょう。

ハニーシステムを搭載した少女が三人登場するという本作ですが、さすがアクション出身の横山総監督だけあって、三人それぞれのアクションも個性的に描かれていました。
ハニーは弾けるように、トリッキーな意外性のあるアクション。
ミキはストリートファイトのようなワイルドさのあるアクション。
ユキは中国拳法を取り入れた流れるようなアクション。
アクションでも三人の個性が際立つようにうまく演出されていました。
ハニー演じる原幹絵さん、ミキ演じる水崎綾女さんも初めてとは思えない立ち回りだったと思いますが、特にユキの竹田真恋人さんは凄かった。
バレエなどをやっていたのでしょうか、身体が柔らかくて本当に中国拳法をやっているのではないかと思ってしまいました。

あと特撮好きとしては、平成ライダーシリーズを多く手がける田﨑竜太監督、「GARO」の総監督であった雨宮慶太監督などがそれぞれ何話かを担当していたのに驚きました。
なんて贅沢な布陣だったのでしょう。

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本 「禁断のパンダ」

料理を題材にしたミステリーである本作、「このミステリーがすごい!」大賞の2008年の大賞受賞作です。
「このミス」は比較的読みやすいミステリーが受賞しますよね。
本作もミステリーでありながら、蕎麦をすするようにするりするりと読めてしまいます。
その分、ミステリーの謎ときの部分についてはそれほど複雑なところはありません。
タイトルにある「パンダ」にまつわる話が中盤くらいに出てきますが、この部分からだいたいその後の事件の展開が想像できてしまい、この点はややあっさり味で、もの足りない印象があります。
代わりに料理を題材にしている小説だけあって、料理の味の描写はとても丁寧で豊かに表現されていて、濃厚な味わい。
読んでいると、濃厚なフランス料理を食べたくなってきます。
視覚という要素がない小説で、味・香りを感じさせる料理の描写はなかなかのもの。
作者のプロフィールを見てみると、フランス料理店で仕事をしていたということで、納得です。
「チーム・バチスタの栄光」の海堂尊さんもお医者さんですし、もともと小説家でない方が自分の仕事の知識を活かしたミステリーを書くのが増えてきているような気もしますね。

「禁断のパンダ」拓未司著 宝島社 ハードカバー ISBN978-4-7966-6194-2

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「クローバーフィールド/HAKAISYA」 極小的な視点が産むリアリティ

お気に入りの海外ドラマで「LOST」のプロデューサーである、J.J.エイブラムズが製作をしているということで、ずっと心待ちにしていました。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のような謎めいたビデオ映像風の予告、そして公開までタイトルも明らかにされないという仕掛けが話題になっていましたね。

J.J.エイブラムズは監督をした「M:i:3」でも超兵器「ラビットフット」というマクガフィンを使っていましたが、本作「クローバーフィールド」でニューヨークを襲う”何か”はまさにマクガフィンそのもの。
ちなみにマクガフィンとは劇中の登場人物が重要なものであるとあつかっているけれども、観客にはそのものが何かという説明がされないもののことです。
最後まで”あれ”は何か、どうしてニューヨークに現れたのか、街を破壊するのかはわかりません。
というのもこの映画は徹頭徹尾登場人物、ロブたちが録画したとしているビデオの映像だけで構成されているからです。
登場人物が知り得ないことは、観客も知り得ない。
一民間人に突然街を襲った怪物の正体だとわかりようもなく、ただロブたちは逃げ惑うばかりで、観ている観客も彼らが感じると同じように不安感を共有します。
そういう意味では観終わったあと、とても疲れる映画ではありますね。
普通映画というものは、少なからず俯瞰的な視点(神の視点)が入るもので、そこで観客だけがちょっと事態が見えることによる安心感があったりしますが、この映画はそれは一切排除しています。
このあたりを徹底しているのが、新鮮ではありました。
ただそれを徹底しているが故に、映画が終わっても何もわからないということになり、なんとなく欲求不満な感じを覚えるのも確かです。
今回のこの手法は奇策と言ってよく、それであるが故にこの一回限りしか使えない手法のように思えました。
それでも、あの怪物の正体は、この映画が好評であれば、WEBや小説、テレビドラマ、DVDなどの展開によって次第に明らかにされていくのではないかと僕はよんでいます。
J.J.エイブラムズという人は、映画を一本作ることをというだけでなく、その宣伝、そして周辺メディア至るまでをすべて作品ととらえているような気がしているからです。
単純なメディアミックスではなく、もっと踏み込んだメディアミックス全体を作品としてとらえるような新しいタイプのプロデューサーではないかと思っています。

街を襲う怪物を一民間人の視線だけでとらえる、この考え方のヒントはどこにあったのでしょう。
やはりこれは「ゴジラ」の一作目ではないかと思います。
「ゴジラ」の中でテレビ塔が破壊される有名なシーンがあります。
テレビ塔の上でゴジラが街を破壊するのを中継しているアナウンサーとカメラマン。
映画の画面はそのカメラマンが撮っている映像となり、近づいてくるゴジラ、そしてそれに恐怖するアナウンサーの様子を「まるで中継を観ている」ように観客は体験します。
あの場面は空想の産物であるゴジラがとてつもなくリアリティを持った瞬間であり、強烈な印象が残りました。
怪物を俯瞰的な視点でとらえるのではなく、とても極小的な個人の視点でとらえるということが、その存在にリアリティを増させるための手法であるというヒントが「ゴジラ」にはあります。
ハリウッドが製作し陳腐なモンスター映画となってしまった「GODZIRA」と「クローバーフィールド」をそのような視点で見比べてみてもおもしろいかもしれません。
「クローバーフィールド」の制作者たちも「ゴジラ」を観ていないはずはなく、たぶんこのシーンにインスパイアされたのではないかと推察します。
エンドロールで流されるテーマ音楽も、なんだか「ゴジラ」の伊福部昭の音楽を思い出させるような感じがありました。
防衛隊のテーマのようなところもありましたし、女性コーラスを使っているところも何か似ていました。
これは制作者たちが、「ゴジラ」にインスパイアされたということを表すサインを音楽に入れたのではないかと思いました。

「ゴジラ(1954年)」の記事はこちら→

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2008年4月 4日 (金)

「Sweet Rain 死神の精度」 演出の意図が見えすぎてもの足りない

僕は雨男です。
仕事柄、年に何度か広告や商品の撮影があったりするのですが、必ずと言っていいほど雨が降ります。
太陽の光が欲しかったりする撮影だったりすると、そりゃもうドキドキです。
こればっかりはどうしようもないのですけれど・・・。

本作「Sweet Rain 死神の精度」に登場する死神、千葉も雨男。
仕事のときは必ず雨が降り、彼は青空を見たことがありません。
この物語に登場する死神は、不慮の死が設定されている人間を観察し、その死を実行するか、見送るかを判断するのが仕事。
千葉は仕事の対象である人間に必ず質問をします。
「君は、死ぬことについてどう思う?」
僕はこんな質問を突然されたら、すぐに答えられないように思えます。
それは普段、生活をしていて「死」というものをあまり身近に感じていないからかもしれません。
それでも「死」はいつか誰のもとにも訪れる。
その点では、劇中で千葉が言う通りに「死」は特別なものではありません。
人間というものを、外側からずっと観察をしている死神にとってはそうなのでしょう。
けれども「死」は誰にとっても「一度」しか訪れないものです。
その点においては、「死」はその人にとってはやはり唯一の特別なものなのです。
「死」が一度ということは、その人の「生」というものも唯一の特別なものなんですよね。
何度も絶望を経験した一恵も、老いては唯一の自分の「生」を愛おしく感じるようになっている。
そのような満足を感じるために人は生きているのかもしれません。
その満足を感じられるようになって、人は「役割」を終えるのでしょうか。

作品から感じたことは上に書いた通りで、いろいろと考えられるテーマではあったと思いますが、演出では不満がたくさんあります。
うまく説明できないんですが、あまりにその場面に合いすぎた音楽を当てすぎているように思えました。
緊迫感のあるところには緊迫感のある音楽、悲しいところには悲しい音楽、音楽の感じもあまり工夫を感じない。
なんといういうか定石通り、型通りに作っている感じがして、その意図がみえみえなところがなんだかとっても稚拙な感じを受けてしまいました。
また3つの時代の物語が順々に描かれていますが、その繋がりをあからさまな伏線、小道具(コインとか、CDとか)でわかってしまうところがなんとももの足りない。
3つめの物語で車に「アクツ」なんて書くなよって思います、書かなくてもわかるって。
伏線は作った者しかわからないものであってはいけないのですが、バレバレなのもどうかと思います。
観ている人たちがきちんと観ていることによってわかるというくらいが丁度いいのではないかと。
そうでないと作る者と観る者の間での緊張感がなくなってしまうような気がします。
この作品はベタベタな演出というのとも何か違うんですよね。
工夫して小道具などを使っているのはいいんですが、それを考えた作っている人の意図がまるわかりな感じと言いますか・・・(うー、うまく説明できない)。
音楽にしても、伏線にしてもわかりやすいというのは大事なことですが、その意図がみえみえなのもなんだか緊張感もありません。
意図がみえみえであからさまであるということは、それ以外の解釈をすることができないということです。
ある幅がある映画というものは、懐が深いというか、観る人によっても感じ方が違います。
観ることへの緊張感を強いることないところ、解釈の余地がないところが、映画のプロが作っているような感じがしませんでした。
最近ウォン・カーウェイとか、コーエン兄弟とか、観ること、解釈することへの緊張感を感じる映画を続けて観たから、もの足りなさを感じてしまうのかもしれませんが・・・。

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2008年4月 2日 (水)

「ブラブラバンバン」 一人だけで感じるな

基本的に青春ものは好きなのです。
特に「スウィングガールズ」「リンダ リンダ リンダ」や「フラガール」のように、みんなでがんばって何かをやり遂げるというストーリーはありがちなのかもしれませんが、やはり好きでジーンときてしまうのです。
ありがちということは、普遍的なテーマだといってもいいのじゃないかと思ったりもします。

で、本作「ブラブラバンバン」なのですが、高校のブラバンを題材にしているということで、そんなジーンとした気分になれるかと期待しながら観に行きました。
ですが・・・、まったくジーンとなれなかったのです・・・。

冒頭にあげたような僕の好きなこのタイプの青春映画(達成感共有青春映画)は同じような物語構造があります。
・ふとしたきっかけで始めたことがある(音楽、スポーツ、ダンスなどチームでやるもの)。
・ほかのメンバーもそれぞれのさまざま事情でそのことをいっしょに始める。
・やっていくなかで、そのことがだんだん好きになっていく。
・けれどメンバーのそれぞれの事情で、一度そのチームは崩壊の危機に。
・それでもそのことが好きだいう気持ちでメンバーがまとまり、最後にみんなで何かを成し遂げる。
この構成はものの見事に「起承転結」という物語の定番構造にしっかりとはまっているがゆえに、普遍的なものと言っていいかもしれません。
物語の中で感動が生まれるのは、転から結へ一度ばらばらになった気持ちが再び集まり、そして昇華するところだと思います。
再び気持ちが集まるところで、観ている自分もメンバーの一人になっているような感情移入をしていくので、最後に成し遂げるところで登場人物と同じような達成感を感じることができるのでしょう。
幾人かのメンバーがいるこのタイプの「達成感共有青春映画」は誰かしら自分を投影できる人がいるものなので、感情移入することがしやすいのかもしれません。
つまりはメンバーの誰でもいいから、感情移入できる人がいるということ、それがこの手の青春映画に必要なことなのです。

翻って本作なのですが、キャラクターの描き方がとても甘く、感情移入しやすい人がいないのが最大の欠点。
まずは主人公は芹流なのか、白波瀬なのかとはっきりしていない。
たぶん主人公である芹流は彼女自身の悩みを肌感で感じることができないというのが、とても苦しい。
演じた安良城紅さんの演技の拙さというのもありますが、そもそもが彼女がみんなとブラバンに参加したいというような熱意というものが感じられません。
彼女は音楽が好きというのはあるのかもしれないですが、みんなでいっしょに成し遂げたいという思いが感じられないのです。
結局、物語の最後に盛り上がるはずの大会予選でも、彼女はみんなの指揮をしているけれども、自分だけで音楽の桃源郷に行っているように見えてしまう。
一人で気持ちよくなっているように見えるのが、とても辛い。
「のだめカンタービレ」で千秋が峰に行った言葉が思い出されます(正確にはのだめを通じて峰に言ったのだが)。
「そういうのをオナニープレイって言うんだよ」
まさにそんな感じで、みんなで達成感を共有するといったようなカタルシスは感じられません。
一人だけで感じてしまい、どこかへいってしまっているような感じで、それを傍観者とした立場で観ているととても白けてしまいます。
これは演技者の責任というよりも、脚本・演出のまずさによるものだと思います。
最初と最後のモノローグをやって主人公かもしれない白波瀬も、その他のメンバーも何が楽しくてブラバンをやっているのかが伝わってきません。
自分がやっていて楽しくて、そしてみんなでやっていくとさらに楽しいというのが感じられなければ、葛藤も達成感も観ていて感じられるわけはありません。
だからこの映画を観ていて、僕はずっと置いてきぼりで、最後の大会もただの傍観者でした。
彼らの辛さも喜びも感じられませんでした。
観ている観客も思いが共有できないとこういうタイプの映画はちょっと辛い。

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2008年4月 1日 (火)

「ノーカントリー」 彼らは国を失った

コーエン兄弟の作品は「バートン・フィンク」以来だから、かなり久しぶりです。
「バートン・フィンク」はどうもしっくりと理解できるような感覚が持てなかった(ようはよくわからなかった)ので、なんとなく彼らの作品には苦手意識を持っていました。
でもアカデミー賞とった作品ですからね、やっぱり観てみようということで行ってきました。

トミー・リー・ジョーンズ演じるエド・トム・ベル保安官のモノローグで物語は始まります。
そしてタイトル。
「NO COUNTRY FOR OLD MEN」。
邦題は「ノーカントリー」ですが、原題は違う。
実は原題にある「FOR OLD MEN」にこそ意味があるではないかと、観終わって思いました。

エドは祖父から続く保安官の家系で育ち、父親と同じように保安官となりました。
アメリカの保安官というのは、選挙で選ばれる州の法の執行官です。
アメリカは州ごとの自治意識が強いので全国統一の治安組織はありません。
たぶん情報の伝達スピードが遅かった時代、広大なアメリカという国の治安を守るためには、中央にいちいちはかることなく法を執行するには、地域に根ざした保安官という制度が必要だったのでしょう。
けれども情報スピードがあがり、法執行の制度も充実した現在にいたっては保安官という職業は古い時代の仕事と言っていいのかもしれません(現に保安官制度を廃止している州もある)。
エドは伝統ある保安官という職業を粛々と続けていますが、何か最近は無気力感というものを持っているように見えます。

古き良きアメリカの伝統が残るテキサスの田舎。
荒れ果てた野が広がる風景は、西部劇の時代となんら変わらないように見えます。
けれども、200万ドルという大金を発見してそれを奪って逃走するベトナム帰還兵ルウェリン、そして彼を追う殺し屋シガー、彼らは国の定めた法律や人の倫理というものを無視して独自のルールで動きます。
特にシガーは彼独自の価値観で動いているようで、出会う人々との会話はほとんど成立していないように見えます。
彼らには国境などというものも無意味なのか、自由にその境を飛び越え、逃亡、追跡を行っていきます。

物語は彼らのチェイスを軸に大半は描かれます。
終止、エドは彼らのチェイスに直接関わることはありません。
エドは彼らにとってはまったくの部外者なのです。

アメリカという国は壮大な理想国家の実験とも言われます。
「自由」という思想を国の設立の根本の法に練り込んだ国。
その理想国家の法・治安を守ってきていたのが、保安官という職業かもしれません。

けれども新しい人々(特にベトナム戦争以降)はそのような国家設立の際の理想などにはまったく見向きをしなくなっています。
次々と起こる理解しがたい犯罪。
それらはアメリカという理想国家の思想に対し、尊敬の念などを持っていない新世代の人々によって引き起こされる。
ルウェインがベトナム帰還兵であるという設定にはとても意味があるかと思います。
彼らはアメリカという国の理想をもう信じていない。

一見ルウェインが主人公に見えたり、キャラクターの強いシガーに目がいったりしますが、この物語の真の主人公はやはりエドだと思います。
タイトルの「FOR OLD MEN」はエドたち旧世代のアメリカ人を指しています。
変わりゆくこの時代に、老いた保安官エドは何もできずに無力感ばかりを感じています。
自分が誇りを持って守ろうとしてきた国は、得体がしれないものに変わってしまっていると彼は感じているように思えます。
古きアメリカ人にとって、自分の信じた国はすでにない。
だからこそあのような原題がついたのだと思います。
「NO COUNTRY FOR OLD MEN」。
彼らは国を失った。

コーエン兄弟監督作品「バーン・アフター・リーディング」の記事はこちら→

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「燃えよ!ピンポン」 北京オリンピック便上映画企画第一弾

やはり北京オリンピックイヤーだからでしょうか、「カンフー○○」といったタイトルが今年公開される映画には多いですが、本作も「カンフーピンポン」という邦題が配給会社の会議では検討されたに違いない(想像)。
ありふれてると却下されたのかもしれないですが。「燃えよ!ピンポン」も相当ベタです(笑)。
でも原題が「BALLS OF FURY」なので、直訳のタイトルだと「激情のボール」となって大映ドラマみたいになってしまうので、「燃えよ!ピンポン」でもしょうがないか・・・。

基本的に邦題通り「燃えよ!ドラゴン」の卓球版のパロディなので、ガハハと笑えるオバカ映画を期待していたのですが、それほど大笑いはできなかったです。
下ネタ、ホモネタなど下品なネタが多い、どうもこの手のアメリカのお笑い映画はあまりはまれない・・・。

主役のランディを演じるのはダン・フォグラーという、一見ジャック・ブラック風の方。
全然知らなかったですけれど。
相方のFBI捜査官ロドリゲスは、これまた一見ローワン・アトキンスン(Mr.ビーン)を色黒にしたようなジョージ・ロペス。
この人も全然知らない。
マギーQはさすがに知っていたけれど、出演しているのはあまり見慣れぬ人たちばかりでした。
どうもこの映画、二流臭がするぞと思っていて見ていたら、クリストファー・ウォーケンが悪の親玉で出てきたので、ちょっとびっくり。
フェンとかいうから東洋系かと思っていたら、全然違うじゃん・・・。
それと1シーンだけ「HEROS」のヒロ・ナカムラことマシ・オカが出ていたのにも、さらにびっくり。
たった1シーンなのにパンフレットにはしっかり出演者紹介のページにプロフィールまで出てました。

肝心のピンポンの激しい試合が見れるのかと思ったら、そのあたりはけっこうあっさり気味。
「少林サッカー」くらいに試合にも見せ所があると良かったのですけれど。
この手のパロディでは必ず出てくると言っていい「マトリックス」のマシンガン撮影風のカットなどありましたが、いい加減もう見飽きました・・・。

今年はあと何作くらいあるのかなあ、北京オリンピック便乗映画企画は・・・。

オリジナル(?)の「燃えよ!ドラゴン」の記事はこちら→

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