「姑獲鳥の夏」 伝わってくる現実への不安定感
あまり評判は宜しくないようですが、実相寺昭雄監督の「姑獲鳥の夏」は京極夏彦作品の映画としてよくできていると思います。
原田眞人監督の「魍魎の匣」よりも、京極ワールドというものを表現している感じがします。
ボリュームが相当ある原作を、限られた時間の中で話を作らなければならない映画としての宿命のため、確かに両作品ともわかりにくいことは間違いありません。
同じわかりにくいのではあれば、まだわかりやすい画で説明しようとする原田監督の意図も、改めて両作品を比べてみると理解できます。
キャラクターも同じ俳優(関口だけは違いますが)が演じているけれども、雰囲気は違う。
「魍魎の匣」の方がキャラ立ちしていると言いますか、描き方がわかりやすくなっているような気がします。
けれどもそれが原作の持つ雰囲気を映画で表現できているかというと違うような気がします。
映画「魍魎の匣」は、やはり原作とは別物と考えたほうがよいでしょう。
対して「姑獲鳥の夏」は、原作が持つ妖しさ、怪しさといった雰囲気を醸し出していると思います。
確かにわかりにくい。
解決篇に入るのは物語の中盤からと早いタイミングになりますが、その謎解きは京極堂の台詞、そして非常にイメージ的な映像に頼っています。
事件の真相が、多重人格、記憶の封印、トラウマなどに関わっているためにどうしても説明を言葉に頼らざるを得ないところもあり、「魍魎の匣」に比べて、退屈な印象をもたれやすいかもしれません。
この作品の冒頭で京極堂の話で出てきているように、「京極堂シリーズ」の本質は「自分が見ている現実が、そのままそこにあるわけではない」ということにあります。
何度も記事で書かせていただいているように、妖怪は「自分が感じていること」と「客観的現実(これも京極堂が言っているように本当に客観的な現実はないのかもしれないですが)」とのギャップ、ズレに生じます。
そのズレが生み出した妖怪(植え付けられたモノの見方)を、シフトさせるのが、京極堂の行う「憑き物落し」なわけです。
このズレ感、正常と異常の間の危うさというのが、原作の持つ魅力であると思うのですが、これが実相寺監督の「姑獲鳥の夏」にはよく雰囲気が出ていると思います。
水平線が傾いたアンバランスなアングル。
湾曲したレンズを通した映像。
プリズムを通したような七色の光。
不意に挟み込まれるイメージカット。
ワイヤーが鳴っているような不快な金属質な音。
どうも居心地が悪く不安定なこれらの要素を、とても不快に思う方、わけがわからないと思う方もいるかと思います。
けれどもこの不快に思う感覚こそが、正常と異常の間の危うさというのを表現しているような気がするのです。
自分が見ているモノは真実であると普段僕らは信じて生きています。
けれどもそれは本当なのか、そういう疑問を持ってしまった人間の脆さ、危うさみたいなものが、居心地の悪い感じとして表現されています。
もともと京極堂シリーズは、戦後間もない時を舞台にしています。
この時代はそれまでの価値観が、まるっきり変わってしまった時。
今まで正しかったことが正しくなくなり、正しくなかったことが正しくなる。
そこに生じるズレが、個人の中にもあり、時代にもある。
本作において重要なセットで目眩坂があります。
これには実相寺監督はこだわったのだとか。
坂が長いのか短いのか、急なのか緩やかななのかわからない、目眩坂。
目線のやりどころを間違うと、酩酊しまいそうになる目眩坂。
象徴的なこの場所、それにこだわったというところに実相寺監督が、京極堂シリーズの本質は現実に対する不安感、不安定感だというふうに思っていたのではないかと感じます。
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