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2008年3月30日 (日)

「笑う大天使」 なんとも微妙・・・

上野樹里さん、関めぐみさん、谷村美月さんなど最近活躍する若手の女優さんが共演しているということでDVDをレンタルしてみました。
わ、菊地凛子さんまで出てる!びっくり。
公開は2006年、現在ではそれぞれ主役をはれるくらいの成長っぷりなので、今はこんなキャスティングできないでしょうね。
監督は小田一生さんで、本作がデビュー作。
最近では「カンフーくん」の監督をされていますね。

基本的にコメディなんですが、ほとんど笑えずなんとも微妙・・・。
監督はもともとVFX畑の出身なので、CGもかなり取り入れた作品になっていますが、これも品質的にはとても微妙・・・。
いかにもCGで作りました、という品質のため、凝ったCGを見慣れてしまっていると、その粗さがとっても気になります。
特にラストの巨大化した○○は、どうなんでしょう?
ナゼにわざわざフルCG?
実写だと安っぽくなるから?
んー、十分安っぽいのですけれど・・・。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」のダルマのパクリかと思ってしまいました。
あ、「笑う大天使」の方が公開は先か・・・。

シナリオも演出も映像もほとんどいいところが見つからないのですよね。
どんな作品も一つくらいはあるものなんですが・・・。
「カンフーくん」の予習も兼ねて、この作品を観てみようと思ったのですが、こんな感じで一気に「カンフーくん」の観る気も萎えてしまいました・・・。
どうしようかな・・・。

小田一生監督作品「カンフーくん」の記事はこちら→

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本 「不機嫌な職場 -なぜ社員同士で協力できないのか-」

バブル崩壊以降、日本の企業では日本式経営が批判され、成果主義が導入されました。
成果主義は仕事を定義化して効率化したといういい点もありますが、「ギスギスした職場」産むという弊害もあったとこの本にはあります。
社員ひとり一人はがんばっているがどちらかというと利己的で、断絶的で冷めた関係性になっている職場が増えてきているといいます。
僕が一時期僕が所属したことのある職場もそうでした。
その部署は、会社の中でも花形と呼ばれるような部署で、新入社員はいつかはと憧れるようなところでした(僕はまったくそこに行きたいと思ったことはないのだが、今をもって何故そこに呼ばれたかわからない)。
けれどもそれだけ会社全体から期待されることも多く、とても強いストレスがかかる部門でもありました。
忙しいのはまったく問題はないのですが、その職場は先にあげた「ギスギスした職場」でありました。
成果を求められる、人は絞られている、そのため自分のことに精一杯で人のことまで気にすることができない。
僕はもともとしていた仕事は、外部などの協力会社と話しながらいっしょにモノを作り上げていくようなことだったので、あまりにコミュニケーションのない人の関係性にとてもびっくりし、孤独感をもった覚えがあります。
たぶんこれは日本の会社のどこでも起きていることなのでしょう。
会社のパフォーマンスというのは、「個人の力」と「個人のつながり」のかけ算によるとこの本にはあります。
僕もその通りだと思います。
個人レベルの成果主義ばかりを追求したこの10年間、個人の力はあがったかもしれませんが、その代わりに社内のネットワーク、協力関係というのがなくなってきているのでしょう。
それがさまざまな問題を起こし始めています。
協力関係というは仕組みだけで解決するものではありません。
社内で働いている人たちでの信頼、働くことに対する正当な評価(これは金銭という意味ではなく、評判などというものも含む)もらえるという安心感があって初めて得られます。

僕は今は関係会社に出向しています。
もともとの会社の事業部門が独立した会社なのですが、当然親企業よりも規模が小さい。
だから社員ひとり一人の顔を覚えられる。
だれが何をやっているのかがわかる。
僕がやっている仕事もみんなわかってくれている。
この2、3ヶ月会社を未曾有の危機が襲っています。
誰もそんなことを経験したことのない事態ですが、けれどもみんなで力をあわせて対処をしている。
自分たちがやれることを提案し、部門間を超えて対策を行っている。
たぶんそれができるのもみんながそれぞれをよく知り、誰に相談すればいいかわかっているから。
前に所属していたところはこうはいかず、申請がどうの、依頼がどうのといったことで時間ばかりがすぎていくのだと思う。
グループの中でも特に僕の所属している会社は、事態への対処が早い。
とてもワードワークになっていますが、今の職場はとても楽しい。
誰かが見てくれているという安心感がある。
以前所属していた花形部門は今もグループ全体の中枢ですが、そこではこのような充実感を得られることはなかったでしょう。
やはり人と人のつながりということが会社全体のパフォーマンスにどれだけ大切かということではないかと思います。

いずれ僕は、また元の会社に戻るかと思います。
そのときは今の経験を活かし、「不機嫌な職場」にしないようにしていきたいと思っています。

「不機嫌な職場 -なぜ社員同士で協力できないのか-」高橋克徳+河合太介+永田稔+渡部幹著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287926-2

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本 「オルタード・カーボン」

時は27世紀、人間の意識は完全にデジタルコピーをすることが可能になっている。
つまりコンピュータのデータのようにバックアップをすることができ、他の肉体(オルタード・カーボン)にダウンロードすることによって、別の人間の肉体をまとうことができる。
その時代は死は本当の死(リアル・デス)ではなくなり、バックアップデータを使えば永遠に生きることができる。
リアル・デスはバックアップデータすべてが消え去った時なのだ。

フィリップ・K・ディック賞をとっただけあって、ディックのような雰囲気が全編にただよっている。
というよりも映画「ブレードランナー」の影響を強く受けている作品だ。
そもそも「ブレードランナー」はディックの世界観に加え、ハードボイルドの要素を加えている作品になっていて、主人公の性格などにはかなりそのような印象を受ける。
そしてディックやハードボイルドの影響を受けつつ、「ニューロマンサー」などのサイバーパンク群が成立したのだが、本作はそれらの世界観も受け継いでいる。
本作品「オルタード・カーボン」はディック、ハードボイルド、「ブレードランナー」、サイバーパンクといった流れを受け継いだ正当の系譜と言っていいかもしれない。
作者のリチャード・モーガンはこれが処女作ということだが、そうは思えないほどに作品に密度があり、27世紀という時代に現実化している新技術のギミックなどのアイデアもふんだんにあるためにかなり読み応えがある。
サイバーパンクなどのSF作品群が好きな人にはお勧めです。
映像化してもおもしろいかなと思っていたら、ワーナーが映画化権をとったようですね。

「オルタード・カーボン」リチャード・モーガン著 アスペクト ハードカバー ISBN4-7572-1129-5

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2008年3月29日 (土)

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」 心地よい距離感

人と人との間には、それぞれが心地よいと感じる距離があるような気がします。
その心地よいと感じる距離感がお互いにぴったりと合っている場合は、たぶんその人たちの関係はずっとうまくいく。
けれども最初からその距離感が合うなんてことはほとんどないのでしょう。
恋人たちの間であっても、親子の間であっても。
好きだからいっしょにいてほしいと思う気持ち。
相手がかけがいのない人であると思う気持ち。
でも自由でもありたいという気持ち。
たぶん恋人たちはみんなお互いにそういう気持ちを持っていると思います。
けれどもその気持ちの強さ、心地よい距離感はたぶん二人とも違う。
その距離感が調整できなければ、お互いに好きであったとしても、いつの間にかすれ違いが起こってしまうのかもしれません。

主人公エリザベス(ノラ・ジョーンズ)は失恋しました。
恋人に別の女ができた時に悪態を吐く様子を見るにつけ、彼女はとても激しく人を愛するタイプなのでしょう。
彼女はお互いがお互いをずっと見ていたいと願うような女性だと思います。
だから裏切られた時の落ち込みようは激しいし、次の恋に向かえず、ずっと前の恋をひきずってしまっています。
たぶん彼女はわかっていたと思います。
自分の愛情の強さが、相手を息苦しくさせてしまったことを(描かれていないけれどそんな気がします)。

旅の途中でエリザベスは、警官のアーニーはとその元妻スー・リンに出会います。
アーニーは元妻を強く愛し、スー・リンはそれを息苦しく感じていました。
二人はお互いの求める距離感を調整することができず、そして別れました。
けれどもスー・リンにとって決してアーニーはかけがいのない存在でないわけではなかったのです。
アーニーを失ったときのスー・リンは激しい喪失感を感じていたように思えます。
バーで何年かぶりの酒を飲む時、スー・リンははじめてアーニーが感じていたのと同じ気持ち、そして後悔を感じたのです。

そしてエリザベスはカジノでレスリーというギャンブラーに出会います。
彼女は人の気持ちを読み、その裏をかくことで生計をたてています。
ギャンブルとはそういうものだから、人生とはそういうものだから。
彼女は人と人との関係とはそういうクールなものだと捉えているような節があります、それが親子の関係であっても。
父親の危篤の連絡もジョークだと言う彼女が、ほんとうに親の死に目に間に合わなかった時、彼女の胸に去来した思いはやはり後悔だったのでしょう。
彼女も父親を愛していなかったわけではない。
というより父親の教えを大切に守って生きてきていたのだから。

自分が思いのある人との間との心地よい距離感というのがあります。
当然相手も違う心地よい距離感があります。
アーニーとスー・リンのエピソードも、レスリーのエピソードも、自分が感じる心地よい距離感と相手の感じる心地よい距離感を、愛し合っていたのに調整できなくて別れに至ってしまった話だと思います。
彼女たちが感じた後悔というのは、自分の心地よい距離感ばかりを考え、相手の心地よい距離感を考えてあげられなかったということだと思います。
相手のことを考える余裕があれば、もしかしたら大切な人を失うことはなかったかもしれない、そういう後悔だったのではなかったのでしょうか。
エリザベスは二人を見て、そして過去の失恋を思い返して、それを感じることができた。
お互いの距離感の違いは、やはりお互いに相手を思いやることからしだいにそれが調整されていくのでしょう。
自分だけが心地よいだけではいずれ何かすれ違いが起きてくるのですよね。
相手のことを思い少し離れて見ていてあげる、相手のことを思い肩を抱きしめてあげる。
相手を大事に思う気持ちが次第に二人の間の距離感を合わせていくのですよね。

エリザベスとジェレミーは最初からお互いに惹かれていました。
ブルーベリーパイを食べたその夜のキス。
エリザベスはたぶんそのキスに気づいていた。
そして急速に近づきそうになっていくジェレミーとの関係が恐くなったのかもしれません。
また自分は同じような失敗をしてしまうのではないかと。
それでエリザベスにとっては二人の距離感を冷静に見直すことが必要だと感じたのでしょう。
旅先での人たちとの出合いによって、彼女は愛する人との間であっても、その距離をお互いが育むように調整しなければいけないと感じたのでしょう。
エリザベスとジェレミーのお互いの距離感の擦り合わせをするのには、300日という日数と何千キロという距離の「遠回り」し相手を思うことが必要だったのですね。

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2008年3月23日 (日)

「包帯クラブ」 包帯一本で世界は変わる

自分の中から大切なものが毎日のように失われている。
それも敵にはとても思えない人とか、目に見えない何かによって少しずつ毎日のように失っている。
もっと残酷なことは私たちもは知らず知らずのうちに持ち去ってしまう側に回ってしまっているということだ。

これは冒頭のワラ(石原さとみさん)のモノローグ。
人というものは生きていくなかで、人によって傷つけられ、そして人を傷つけてしまうもの。
傷つけられるも、傷つけるのもイヤだ、だから人とは関わりたくない、とワラは思っています。
「ケンカするくらいだったら嘘をつく」と親友のシオにも言われるとおり、ワラは人との関わりを避ける。
強い絆があるはずの父親に捨てられ、親友たちの仲違いを止められなかったという思い出が、彼女を人と関係を築くことを恐れさせているのかもしれません。
けれども偶然に出会ったディノ(柳楽優弥さん)が、「心の血を止める」と包帯で彼女が飛び降りてしまおうかと思った場所を縛った時、何か気持ちが楽になったのです。
そこからワラ、ディノ、シオ、ギモ、リスキたちによる「包帯クラブ」が始まりました。
誰かが傷ついた場所を包帯で「手当て」をしてあげる。
彼らはただその場所を包帯で巻いているというパフォーマンスをしているのではありません。
依頼してきた人、その人たちの傷ついた気持ちを少しでもわかろう、そして何とか心の傷を手当てしたいと考えているのです。
「むずかしいよね、人の痛みを想像するのって」とリスキは呟いていました。
確かに人の気持ちを想像するのは難しい。
100%理解できると思うことは、劇中でテンポ(関めぐみさん)が言っていた通り、偽善であり、傲慢なことかもしれません。
けれど、大切なのは人の痛みを想像しようとしたということ。
人の痛みを理解しようと一生懸命考えようとした、その姿勢こそが大事。
それは傲慢なことではないと思います。

「手当て」という言葉は、傷ついた箇所に手を当てて直そうとした行為からきたと言われています。
たぶんその行為は治ってほしいと願う気持ちを人に伝えたいというところからきたのではないかと思います。
人の気持ちの少しでも理解できたとき、それは相手も救うことにもなるけれども、何よりも自分自身が救われる。
人と人との関わりは傷つき、傷つけてしまうもの。
そうであるに違いないけれど、その関わりは、癒し、癒されるものでもあるわけです。
すべてを救えるなんて思えない。
けれどもまったく救えないとも思えない。
皆があきらめてしまうのではなく、少しでもそういうふうに思えることができれば、

「包帯一本で世界は変わる」。

確かにそう思います。

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本 「源氏と日本国王」

室町幕府や江戸幕府で国政を行っていたのは「将軍」と言われる地位についていた人々です。
この「将軍」というのは、言うまでもなく「征夷大将軍」という地位のことです。
そもそも「征夷大将軍」というのは、「夷狄」を「征伐」するための軍隊の総司令官という意味で、蝦夷を征伐した坂上田村麻呂までさかのぼれます。
ではどうして一介の軍の総司令官が、国政を扱える立場になったのでしょうか。
著者は「征夷大将軍」だから日本の国家主権を掌握できる力を得たのではないのではないかと考えます。
そうではなくて彼らは「源氏長者」という立場につくことにより、国家主権を掌握したのではないかと。
源頼朝、足利尊氏、徳川家康もすべて源氏の系譜に属する者です。
尊氏や家康は、「源」ではなく「足利」「徳川」ではないかという方もいるかもしれません。
僕もこの本で初めて知ったのですが、「姓」と「苗字」というものは異なるものだということです。
詳しくはここでは書きませんが、「姓」は天皇から上位で与えられるものであり、また血縁原理によって継承されるものであるということです。
「苗字」は「家」という社会組織の名前であって、血族の名前ではありません。
つまり「足利」「徳川」は「家」の名前であり、彼らの「姓」は「源」であったわけです。
さきほど「源氏長者」という聞き慣れない言葉がでてきます。
源氏という言葉は特に歴史に詳しくなくても誰でも知っているでしょう。
でもそもそも源氏というのは、何なのかというを説明できる人は少ないと思います。
天皇の一族をそもそも起源としているのということは、歴史に詳しい人ならば清和源氏、村上源氏などという言葉を聞いたことがあるので知っているかもしれません。
そもそも「源」という姓が「祖先すなわち源を天皇と同じうする」ということからきているということです。
つまり「源」姓の者は「准皇族」としての地位にあった者たちなのです。
彼らの中には王氏で家系が絶えたときは皇族に復帰する者もありました。
時代が経るにつれ、彼らは全国に広がるつれ公家や武家として生きていきますが、天皇に近い血縁の者たちとして常に国政に関わる場所にいたのです。
「源氏長者」というのは、「源」一党の中で彼ら一族に属する人々の地位などを決める権限を持つ人のことです。
つまり「征夷大将軍」であることよりも、日本の政治を長年にわたり動かしている一族としての「源」姓のものたちの頂点に立つということの方が重要であったのではないかというのが、著者の考え方です。

歴史は好きな方ですが、時代劇などでは知ることができない知識・トリビアなどがこの本にはあり、興味深く読めました。
この本を読んでから、改めて時代劇などを見てみるとまたおもしろいかもしれません。

「源氏と日本国王」岡野友彦著 講談社 新書 ISBN4-06-149690-5

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2008年3月22日 (土)

本 「鳩笛草 燔祭/朽ちてゆくまで」

超能力者になったとしても「HEROS」のヒロ・ナカムラのように「世界ヲ救ウンダ!」などと使命感に燃える人などたぶんいないでしょう。
そんなことを口にしたら、アンドウくんのような友人に「何、馬鹿ナコトヲ言ッテルンダ」とバカにされるに違いありません。

宮部みゆきさんの現代ミステリーには、超能力者が出てくる物語がいくつかあります。
この中編集にはタイトルにある三つの物語が収録されていますが、予知能力、パイロキネシス、読心という能力を持った登場人物がでてきます。
宮部みゆきさんの物語の超能力には、何故このような能力を持ったのかというような説明はほとんどありません。
宮部さんは超能力そのものよりも、それら通常人と異なる能力を持ったというより、望んでいないのに持ってしまった登場人物のとまどい、そしてその能力とどのように折り合いをつけて生きていくのかというところに注目しているように思えます。
その超能力自体は、通常人から見れば異能の力であるに違いないわけですが、その能力を持っている人にとってはそれはそもそも持っている力であり、特別なものではない。
けれどもその能力自体が通常の人々から見れば異常であることもわかる。
つまり自分にとっては普通のことでも、他人にとってはとても異常な自分の能力。
そのために、この力を通常人にわかってもらうことはとても困難であるため、能力者はどうしても孤独にならざるを得ない。
宮部みゆきさんの小説に登場する超能力者は、何かしら孤独をまとっています。
超能力者であることの優越感はそこにはありません。
どちらかというと、通常人と異なる力を持つが故に理解されないという寂しさがあります。
特に収録作である「燔祭」の主人公、青木純子にはその孤独がとても色濃く出ていると思います。
彼女の場合は、その能力が他のニ作品の主人公の「受け身的な力(予知と読心)」違い、「攻撃的な力」(パイロキネシス)を持っているため、より通常人よりも自制が必要になる。
「受け身的な力」は使用しても人を傷つけることはありませんが、「攻撃的な力」は違う。
その力を使うことにより、人の命をも奪うことができるのです。
人を超えた能力におぼれることなく、折り合いをつけるには能力者の心の中にはかなりの葛藤・ドラマがあるに違いありません。
それに気づいた宮部みゆきさんはさらに「燔祭」が「クロスファイア」へ物語を発展させていくことになったのでしょう。

「鳩笛草 燔祭/朽ちてゆくまで」宮部みゆき著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-72985-1

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「ガチ☆ボーイ」 肉体の記憶

最近、久しぶりに運動をするようになりました。
きっかけは単純、暖かくなって春ものを着ようと思ったら、ウエストがきつくなっていることに危機感を感じるようになったから。
運動というのはやり始めるまでは面倒くさく、ウダウダと何かと理由をつけてやらなかったりするものですが、始めてみれば汗をかくのが気持ちよかったりもするものです。
久しぶりに運動すると翌日は全身が筋肉痛になりもしますが、筋肉が堅くこわばっているところを触ったりすると「お、なんだか筋肉ついてきてる?」みたいな実感にもなったりして楽しかったりもします。
この映画で「昨日のことを頭は覚えていないけれど、身体は覚えている」みたいな台詞があったかと思いますが、人間の生きてる実感というのは、肉体感覚によるものも大きいのかもしれません

主人公五十嵐は事故によって「高次脳機能障害」という障害を負っています。
これはその日体験したことを、寝てしまうとすっかり忘れてしまうという障害。
つまり彼にとっては事故の日から時が止まっているようなものなのです。
体験したこと、嬉しかったこと、悲しかったことなど自分が感じた気持ちでさえ、覚えておくことができません。
映画の中ではあまり深くは踏み込んで描いてはいませんが、彼は自分がそういう障害を負ってしまったということを毎日体験しなくてはいけないという過酷さを背負っています。
朝、目覚めた時、彼は事故の前の自分に戻っています。
普通の大学生の、普通に過ぎていく日常の始まり。
けれども「机の上の日記を見ろ」という自分へのメッセージに導かれ、彼は毎日自分に起こったことを体験します。
彼には記憶が残らないのだから、毎日その事実への衝撃を受けなくてはいけません。
「記憶が残らないということは、生きているとはいえない」という五十嵐の台詞がありました。
その事実を、それも毎日受け止めるのは想像できないほどの辛さに違いありません。
彼の日記には「死にたい」という言葉がありました。
けれども五十嵐はある日から学生プロレスをはじめます。
親の期待を受け、ずっとがんばってきていた五十嵐が、はじめて楽しそうだと思ったのが学生プロレスだったのかもしれません。
毎日毎日忘れてしまう体験、なのに彼がプロレスを続けられたのは、やはり彼が劇中で言っていたように身体に残る傷、筋肉痛などの「肉体の感覚」。
習った覚えがないのにいつの間にか技ができるようになっている「肉体の記憶」。
脳の記憶には残っていないけれども、自分が今、肉体に感じている感覚、記憶は、確かに自分が何かを行ったということを証明してくれている。
それこそが生きているという実感を感じさせてくれる。
それだからこそ、五十嵐はあんなにも本気でカラダを動かしている。

「記憶が残らないと生きているということにはならない」と五十嵐は言いました。
けれどもそれは間違っているのかもしれません。
それは一人だけで生きているということが前提になっているから。
人は人との関係性で生きています。
ある人の生き様は、他の人の生き様に影響を与える。
五十嵐は彼の一途な姿勢によって、確実に周りの人の生き様に影響を与えている。
五十嵐自身の記憶には残らない。
けれども奥寺が言ったように「みんなの記憶に残る」ことができている、それはやはり「生きている」ということ他ならないと思いました。

脳というものは案外にタフにできています。
脳の一部の組織が破壊されて障害を負ってしまったとしても、リハビリを繰り返すことによって、別の組織がその機能を肩代わりできるようになることもあります。
繰り返し動くということによって、肉体の感覚、記憶が脳にフィードバックされていくのかもしれません。
五十嵐がこれからもみんなとプロレスをし、肉体に記憶を刻み付けていくうちに、彼の脳が再び記憶力を戻し、思い出を刻んでいくことができたらいいなと思います。

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2008年3月20日 (木)

「姑獲鳥の夏」 伝わってくる現実への不安定感

あまり評判は宜しくないようですが、実相寺昭雄監督の「姑獲鳥の夏」は京極夏彦作品の映画としてよくできていると思います。
原田眞人監督の「魍魎の匣」よりも、京極ワールドというものを表現している感じがします。
ボリュームが相当ある原作を、限られた時間の中で話を作らなければならない映画としての宿命のため、確かに両作品ともわかりにくいことは間違いありません。
同じわかりにくいのではあれば、まだわかりやすい画で説明しようとする原田監督の意図も、改めて両作品を比べてみると理解できます。
キャラクターも同じ俳優(関口だけは違いますが)が演じているけれども、雰囲気は違う。
「魍魎の匣」の方がキャラ立ちしていると言いますか、描き方がわかりやすくなっているような気がします。
けれどもそれが原作の持つ雰囲気を映画で表現できているかというと違うような気がします。
映画「魍魎の匣」は、やはり原作とは別物と考えたほうがよいでしょう。
対して「姑獲鳥の夏」は、原作が持つ妖しさ、怪しさといった雰囲気を醸し出していると思います。
確かにわかりにくい。
解決篇に入るのは物語の中盤からと早いタイミングになりますが、その謎解きは京極堂の台詞、そして非常にイメージ的な映像に頼っています。
事件の真相が、多重人格、記憶の封印、トラウマなどに関わっているためにどうしても説明を言葉に頼らざるを得ないところもあり、「魍魎の匣」に比べて、退屈な印象をもたれやすいかもしれません。
この作品の冒頭で京極堂の話で出てきているように、「京極堂シリーズ」の本質は「自分が見ている現実が、そのままそこにあるわけではない」ということにあります。
何度も記事で書かせていただいているように、妖怪は「自分が感じていること」と「客観的現実(これも京極堂が言っているように本当に客観的な現実はないのかもしれないですが)」とのギャップ、ズレに生じます。
そのズレが生み出した妖怪(植え付けられたモノの見方)を、シフトさせるのが、京極堂の行う「憑き物落し」なわけです。
このズレ感、正常と異常の間の危うさというのが、原作の持つ魅力であると思うのですが、これが実相寺監督の「姑獲鳥の夏」にはよく雰囲気が出ていると思います。
水平線が傾いたアンバランスなアングル。
湾曲したレンズを通した映像。
プリズムを通したような七色の光。
不意に挟み込まれるイメージカット。
ワイヤーが鳴っているような不快な金属質な音。
どうも居心地が悪く不安定なこれらの要素を、とても不快に思う方、わけがわからないと思う方もいるかと思います。
けれどもこの不快に思う感覚こそが、正常と異常の間の危うさというのを表現しているような気がするのです。
自分が見ているモノは真実であると普段僕らは信じて生きています。
けれどもそれは本当なのか、そういう疑問を持ってしまった人間の脆さ、危うさみたいなものが、居心地の悪い感じとして表現されています。

もともと京極堂シリーズは、戦後間もない時を舞台にしています。
この時代はそれまでの価値観が、まるっきり変わってしまった時。
今まで正しかったことが正しくなくなり、正しくなかったことが正しくなる。
そこに生じるズレが、個人の中にもあり、時代にもある。

本作において重要なセットで目眩坂があります。
これには実相寺監督はこだわったのだとか。
坂が長いのか短いのか、急なのか緩やかななのかわからない、目眩坂。
目線のやりどころを間違うと、酩酊しまいそうになる目眩坂。
象徴的なこの場所、それにこだわったというところに実相寺監督が、京極堂シリーズの本質は現実に対する不安感、不安定感だというふうに思っていたのではないかと感じます。

「魍魎の匣」の記事はこちら→

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「プライスレス 素敵な恋の見つけ方」 お金で買えない価値がある

「お金で買えない価値がある、買えるものはマスターカードで」
この広告コピーは屈指の出来だと思います。
優れた広告コピーは短い文章の中に、物事の本質を凝縮できているものですが、このコピーはまさしくその通り。
コピーの後半でマスターカードの万能性(これは世界どこでもといったカバー力に対する企業の自信)を表しつつも、なんでも金で解決できるという姿勢に対する批判を前段でかわすという構造になっています。
コピーとしても、カードの限界を先に提示することにより、聞く人に意外だと思わせるというアテンションの効果も出しているように思えます。
いいコピーだなあ。
おっと、最初から脱線してしまいました・・・。

マスターカードのCMでおなじみの言葉「プライスレス」をタイトルに使っているこの映画を観てきました。
タイトルで結末はだいたい想像できてしまいますが、フランスらしいお洒落な会話を楽しむことができます。
お金持ちの相手をつかまえて、そのヒモとして暮らす・・・。
ある人々にとっては理想の生き方なのかもしれないですが、僕はちょっとご遠慮したい。
安楽で享楽的な生活を送ることはできるのでしょうが、それはまったく見通しがたてられない生活。
自分の力で生きている場合は、良くても悪くても、それをなんとか自分でしようとすることはできます(うまくいくかいかないかは別にして)。
でもヒモ生活は、相手の気分次第で、自分の生活が良くなったり、悪くなったりするわけなんですよね。
たぶん僕はそんな不安な生活はおくれない。
プールサイドで震えながら待っていたイレーヌ(オドレイ・トトゥ)のような不安な気持ちにはなりたくないです。
イレーヌにしてもジャンにしても、タダでドレスや時計を手に入れているわけではありません。
お金は払っていませんが、その代わりに自分自身の意志や気持ちを売っているんですよね。
彼らのパトロンになるジャックにしてもマドレーヌにしても、恵んでいるわけではありません。
彼らは人の心と肌の温もりを買っているのです。
背景は詳しくは描かれていないですが、ジャックもマドレーヌもお金はあるが孤独な人々。
働かなくてもお金は入ってくるが、何か空しさを感じている人々なんですよね。
たぶんパーティなどで挨拶する人は表面的な付き合いはあるかもしれないけれど、心に豊かさを与えてくれる存在ではない。
ホテルマンたちは手厚いサービスをしてくれるけれども、彼らは仕事としてそれを行っています。
心を満たしてくれる存在がいない、そんな空しさを、彼らはやはりお金でしか解決できない寂しい人々なのです。
マドレーヌなどはそれを自覚して、すでに達観している女性にも思えます。

「お金で買えない価値がある」
それは・・・?
やはり、「愛情」ということでしょうか。

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2008年3月18日 (火)

本 「さらば、愛しき鈎爪」

騙されたつもりで読んでみて!と言いたい小説です。

主人公ヴィンセント・ルビオはL.A.の私立探偵。
ハンフリー・ボガードのような格好を好み、うらぶれた雰囲気を持つ男。
実はこの男、恐竜だったのです・・・。
この小説の世界では、恐竜は絶滅しているわけではなく、ヒト知れず(まさに文字通り)人間社会の中で生きています。
ヒトを模した人造皮膚をかぶり、彼らはそうやって生きてきていた・・・。

そんなばからしい設定の小説なんかおもしろいの?という言葉が聞こえてきそうですが、これがおもしろいんです。
ハードボイルド小説へのオマージュたっぷりの雰囲気も楽しめますし、ミステリーとしても一級品。
彼らが恐竜であること、そして彼らが人間社会でヒト知れず生きているという設定自体が、事件に大きく関わっています。
事件そのものが何が事件なのか、誰によって引き起こされているのか、次第に明らかになっていくさまはたいへんおもしろく、後半は読むのが止められません。

ヒトの皮をかぶっている恐竜なんていうのは、たぶん映画化などしてビジュアルで見るととってもバカらしい絵になるような気がします。
けれども小説だったら、なんだか平気なのが不思議なところ。
目で見るのではなく、今まで見てきたハードボイルド映画や、あの有名な恐竜映画(小説の中でも触れてました。主人公ルビオの種はあのラプトルです)の記憶から、なんとなく自分の頭の中に、ビジュアルイメージを想像しながら読んでいくからなんでしょうね。
なので不思議に読んでいるときはとてもビジュアル感のある印象もあります。

ほんとに騙されたつもりで読んでみてください。
ちなみに2003年の「このミス」でも第7位に入っています。

「さらば、愛しき鈎爪」エリック・ガルシア著 ソニー・マガジンズ 文庫 ISBN4-7897-1769-0

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本 「NEXT -ネクスト-」

「ジュラシック・パーク」のマイクル・クライトンの最新作です。
いつも最先端の科学をテーマに取り上げる、マイクル・クライトンですが、今回は遺伝子研究になります。
「ジュラシック・パーク」以降のマイクル・クライトンの作品ではあるパターンがあるように思えます。
とりあげるのは最先端のテクノロジーや社会問題。
けれどもマイクルはその表層的なテクノロジー賛美や、正しい社会問題に批判をする構成にしています。
テクノロジーには良い面もあれば、危険な面もある。
この本のテーマであれば遺伝子研究は遺伝子治療などいままで救うことができなかった命を救うという
面もあれば、遺伝子特許など本来学究の徒であるはずの大学の利権主義への警笛などの側面も描きます。
また社会問題で、その問題性ゆえに正しい側と無批判に思われる環境保護団体(「恐怖の存在」)や女性(「ディスクロージャー」)などに対しても、無批判にはできないという考え方を提出します。
これは、マスコミなどで作られたイメージを鵜呑みにしてしまう一般大衆への批判とも言えます。
マイクル・クライトンの小説は、毎回テーマにする題材に対してのリサーチが半端ではないように思えます。
彼はとことんテーマに調べた上で作品を作っている。
この態度は、自分で疑問を持つことなく、疑問を持っても追求することなく、あるセンセーショナルなるな側面からしか伝えないマスコミの報道だけを信じる大衆への批判だと感じます。
それを表面きって批判するのではなく、エンターテイメントとしての小説で読ませてしまうところがマイクル・クライトンが長く支持される理由でしょう。
とはいえ、ずっとマイクルの作品を読んでいると、このパターンというのも次第に飽きつつあり、「ジュラシック・パーク」を初めて読んだときほどの衝撃を受けなくなりました。
あの時の衝撃をもう一度受けたいと思うのは、贅沢なのかな・・・。

マイクル・クライトン作品「サンディエゴの十二時間」の記事はこちら→

「NEXT -ネクスト-<上>」マイクル・クライトン著 早川書房 ハードカバー ISBN978-4-15-208852-9
「NEXT -ネクスト-<下>」マイクル・クライトン著 早川書房 ハードカバー ISBN978-4-15-208853-6

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2008年3月16日 (日)

「アレックス・ライダー」 ライセンスは20歳になってから

まさに「007」の中学生版といったところ。
本家が最近は「ボーン」シリーズの影響を受けて、リアル志向になってきたぶん、この作品は伝統的なスパイアクションスタイルを踏襲してました。

おもちゃ屋さんがスパイグッズの研究所の隠れ蓑というのは、子供ならではいう感じ。
少年少女の潜入捜査にはヨーヨーは外せないのでしょうか(笑)、投げたら多いに受けたところですがさすがにやらなかったですね。
スパイグッズがNINTENDO DSなのも今風でした。
「スーパーマリオ」並の追いかけアクションがあるかと思ったらそれほどでもなかったですね。
全般的にアクションはおとなしめで、スパイ映画としてはもの足りなかったです。

ストーリーはいままでのスパイ映画の完コピという感じで、意外なところはまったくといっていいほどありません。
実は叔父さん(ユアン・マクレガー)は生きていた!とか、実は家政婦のジャックはCIAで陰ながらアレックスを助けていた!なんてドンデン返しなどを期待したりもしましたが、まさに王道のスパイ映画として最後までいきましたね。
悪そうなヤツは最後まで悪いヤツでしたし。
しかし、悪の親玉の復讐の原因が「子供の頃、イジメられたから」ってどうなんでしょ?
あまりに人間の小さいヤツだ・・・。

少年向けのスパイ映画、入門編といったところでしょうか。
そのために大人にはちょっと食い足りないですね。
さすがにアレックスは中学生だから、「BMW」も運転しないし、美女とのアバンチュールもなし。
ゴージャスなボンドガールと派手なカーアクションは「007」のお約束ですから、それがないと、もの足りないのはしょうがないか・・・。
そういえば「殺しのライセンス」ももたせてもらえなかったですね。
「ライセンスは20歳になってから」でしょうか。

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本 「堀田力の『おごるな上司!』」

もう10年以上前に出版されたベストセラーです。
最高検検事を経て、「さわやか福祉財団」を設立した堀田力さんが書かれています。
出版されたのは94年で、僕は社会人3年目くらい。
その頃はバブルも弾けていて、社会も会社も大きく変わろうとした時です。
就職難も深刻になり始め、終身雇用というのも崩れてきていた。
今までの上司ー部下関係ではうまくいかなくなってきていた時代です。
僕が働いている会社は、それなりに古い会社で歴史もあります。
いわゆる昔ながらの上司というのがたくさんいて、そのやり方でずっとやってきていたわけでなかなかそのやり方を変えることができません。
昔のように尻をたたけば部下が動くという時代ではないのにそれに気づかない。
そういう人がたくさんいました(今でも驚くべきことにそういう人はいるが)。
僕がついた上司にもそんな人が何人もいました。
この本で書かれている「無能な上司」というタイプですが、部下がやる気になって教えてほしいと申し出ているのにも関わらず、「そんなこともわからないのか」「そんなことをおれに聞くなんて十年早い」というように突っぱねる人です。
この方は自分もそのように育てられたからそうしているようなのですが、その時に味わったイヤな気持ちを上司になったらすっかり忘れている。
いや覚えていはいるらしい。
ほんの数年前の昔話のときに出てくるから。
けれどもそれと同じ気持ちを部下たちに味合わせているのに、何故か気づいていない。
始めは怒りが湧いてきましたが、だんだん自分で調べてやるようになり、あまり話さないようになりました。
ある同僚の中にはとりあえず怒られておけばいいやという気持ちになっている人もいました。
組織自体はとても歪んだ状態に見えたのでしょう、他の部署や取引先から心配をされもしました。
けれどもその方は気づかない。
だれもその人を信頼していないことを。
まったく「裸の王様」状態でした。
改めてこの本を読んでみてそのときのことを思い出してしまいました。

気がつけば、自分自身が管理職になり、部下を持つ身になっていました。
昔の強烈な体験があるので、部下や関わりのある人の相談は自分の仕事をひとまず置いておいても気候という姿勢で仕事をしています。
けれども忙しいときはそれもおざなりになっているかもしれません。
この本を読んであらためて管理職として、部下や周囲の人に対する姿勢の大事さを肝に銘じなければいけないと思いました。

「堀田力の『おごるな上司!』」堀田力著 日本経済新聞社 文庫 ISBN4-532-19192-0

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2008年3月15日 (土)

「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」 被写体の一部になる

アニー・リーボヴィッツという名前は、この映画の予告を観るまでまったく知りませんでした。
けれども、予告で映し出されていた写真のうちのいくつかは観たことのあるものでした。
肖像写真にはさほど興味がない僕の記憶にすらその作品の印象を残すアニー・リーボヴィッツという人物に興味が出てきました。

僕は会社でデザイン・広告関係部門で仕事をしているので、外部のカメラマンやデザイナーといった方々と仕事をします。
そういう業界には、それはそれはいろいろな方がいるのですが、その仕事に対してのスタンスで大きく3つのタイプに分けられるような気がします。
まず1つがアーティストタイプ。
自分の仕事を自分の自己表現だと思っている方がいらっしゃいます。
商業デザインや広告である限り、依頼主の伝えたい意図を消費者に伝えるのが本来の仕事であるのですが、どうも「自分の作品」だと思っている方がいて、これは非常に仕事がやりにくい。
企画の本来の狙いから外れ、「暴走」してしまうときがあるのです(自分のやりたいことがあるのなら、自分の金でやってくれと言いたくなります)。
2つめが請負タイプ。
これはまったく逆で完全に仕事を請負だと思っている方で、依頼した内容以上のことを積極的にやろうとしない方。
こういう方との仕事は及第点はとれても、いい仕事ができたという満足感を得ることはあまりありません。
商業デザインであってもクリエイティブな試みをすることによって、より注目度を集めることができるはずなのですが。
3つめが上記2つの間でバランスがとれている方。
その中でも優秀なカメラマンやデザイナーとの仕事は、やっていてとても楽しい。
彼らは依頼者である僕らの伝えたいことを真剣に考えてくれる。
まさに僕らの提供したい商品やサービスを自分が伝えることと理解して「自分ごと」にして仕事に挑んでくれている。
アニー・リーボヴィッツがこの映画の中で、「被写体の一部になる」といったことを語っていたと思います。
たぶん優秀な商業クリエイターというのは、伝えたいメッセージや商品を持っているテクニックで表現するだけではダメで、それを自分の中に取り込んで「被写体の一部になる」もしくは「被写体を一部にする」といったような思い入れが持てる人なのだろうと思います。
結局被写体は、アーティストタイプにとっては自己表現の満足のための道具でしかありませんし、請け負いタイプにとってはただの飯のタネでしかありません。
アニー・リーボヴィッツは、美しいセレブといった被写体を単純に美しく撮るというのではなく、彼らの人生や生き様を知り、共感することにより、彼らの人生をいかに一枚の写真で表現しようと考えるというスタンスに立っているからこそ、数々の有名人から支持されているのでしょう。
被写体の生き様を一枚の写真に集約するためにアニー・リーボヴィッツは非常にコンセプチュアルにものを考えているように思えます。
彼女後期の写真が大規模なセッティングで撮影状況をコンセプトに適合させるためにコントロールしようというところにそういう考えが見えます。
伝えるメッセージを自分ごとのように考え、それを表現するためにコンセプチュアルに思考するという彼女のものの考え方というのは、これから商業デザイン、広告の道を志そうとする人たちは是非参考にしてもらいたいところです。

この映画ではアニー・リーボヴィッツの学生からの作品歴とその内容の変化を観ることができるのもおもしろかったです。
学生の頃は時代の影響もあってか社会へのメッセージを含むようなドキュメンタリーな写真。
そしてドラッグ文化を背景にしたサブカルチャー的な臭いのある作品。
そして大規模でコンセプチュアル商業撮影。
そしてまた原点に戻るような戦場ルボのようなドキュメンタリー。
時代や、彼女が出会う人々の影響により、彼女の考えが変化し、そして作品もそれに連れて変わっていく。
そんなダイナミックな変化を楽しむことができました。

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2008年3月14日 (金)

「魔法にかけられて」 パロディでなくオマージュ

「サンタを何歳まで信じていた?」なんて話が時々出たりしますが、僕はずいぶん小さな頃から両親がプレゼントを買っているのを知っていて、サンタを信じていた覚えがない・・・。
なんて可愛げのない子供・・・。
そんなひねた子供だったからか、子供が大好きなディズニーアニメの描くおとぎ話世界が、小さい頃からちょっと苦手でまともに全編観た記憶がありません。
尊敬する手塚治虫や藤子不二雄が自伝で、ディズニーの「白雪姫」に衝撃を受けたという話を読んで一、二度チャレンジはしたのですが・・・。
オーバーアクションなディズニー特有のフルアニメーションの質感や、突然歌いだすミュージカル仕立てがちょっと・・・という感じだったんです。
芝居くさいというか、作り物くさいというか、たぶんそんな感じを受けていたのだと思います。
そんな僕の苦手なディズニーアニメの部分を、セルフパロディにしているこの映画「魔法にかけられて」、なんだかとても気になっていました。

この作品、宣伝で「ディズニーがディズニーをパロディする」というようなコピーがあったように思います。
徹底的に自分のところの作品を真面目にパロっていたその姿勢に、かえってディズニーが進んできた道に対しての自信みたいなものを感じました。
パロディというのは、力のない弱者が強者に対抗するための揶揄や皮肉的な側面があります。
そこには普通は非難めいたニュアンスがあると思うのですが、「魔法にかけられて」はディズニー的な作り物めいた世界を笑いのネタにはしていますが、非難はしていません。
というよりも、笑いの中にこの作品は夢や愛を信じることが大事というテーマを描いているわけで、極めてディズニー的な王道の物語なんですよね。
そこにはパロディというよりも、ディズニーという世界を作ってきた先人たちに対するオマージュといったものを感じました。

アニメだったキャラクターを演じた出演者もナイスキャスティングでした。
ジゼルのエイミー・アダムスのオーバーアクションもディズニーのお姫様っぽかったし(やや老けているのが気になったが)、スーザン・サランドンもいかにも悪い魔女風でぴったり。
特にぴったりだったのが、ナサニエル!
アニメキャラのときから、ティモシー・スポールに似ているなあと思ってたら、本人が出てきてびっくり。
それにしてもエドワード役のジェームズ・マースデン!
「X-MEN」、「スーパーマン リターンズ」に続き、愛する女性を他の男にとられる役なんて・・・。
いつもいい性格の役なのに、なんか切ない・・・。

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2008年3月 9日 (日)

「奈緒子」 ひたむきな力

走るのがニガテだったりするので、陸上競技を自分でしたいと思ったことはないのですけれど、やはり年始の駅伝は観てしまいます。
球技のように早い展開があるわけではなく、相手を倒したりするようなスポーツでもない。
テレビの画面に映っているのはただ走っている様子だけなのに、なぜか観てしまう。
それはやはり、誰かがあきらめると襷がつながらない、という単純ながらも厳しいルールが故に、毎年数々のドラマが生み出されるからだと思います。
ある意味、自分が辛くて、自分があきらめることは楽なことだといえます。
自分の気持ちの整理だけできればいいのだから。
けれども駅伝においては、自分のあきらめは自分だけにとどまらない。
それを自覚して選手たちは走っているというのが観ている僕らにも伝わってくるから、選手たちの姿に心を動かされるのでしょう。

この映画で主人公奈緒子が、西浦に誘われ波切島高校陸上部の合宿に参加しようとしたとき、彼女の父親はこう言いました。
「どうしようもないことはどうしようもない」
自分のために命を落とした雄介の父親、そして雄介に、ずっと罪の意識を感じ続けている奈緒子のことを思いやり、「そこまですることはない、忘れなさい」という意味で、そう言ったのだと思います。
けれどもこれは「あきらめなさい」と言っているようにも聞こえます。
奈緒子が背負っているもの、苦しみを彼女が自身で乗り越えられないと、(子供ゆえ)父親は思っているのではないか。
天賦の才能を持つ雄介が、チームメイトの吉崎に配慮しペースダウンした走りをしたとき、監督の西浦が激しく怒ります。
雄介の行為はやさしさではない、吉崎の力を低くみている、吉崎は伸びないと思っているのだと。
奈緒子の父親も、奈緒子を大事に思うばかり、彼女の苦しみを越えようとする力を小さく見ていたのかもしれません。
彼女は自分の苦しみを自分で乗り越えようとした。
あきらめず、自分の力を伸ばそうとするひたむきな力。
その力を自分自身の中にも認め、そして仲間たちの中にも認める。
走るのは結局は一人。
けれどもひとり一人のひたむきな力は、襷によってつながれていく。
互いのひたむきな力を信じること、それがいっそうの自分自身の力になっていくのですよね。
チームメイトの走り、奈緒子の伴走、それから伝わる彼らのひたむきな想いが、最後の走者の雄介にラストスパートの力を与えてくれたのですよね。

奈緒子が給水所でペットボトルを渡そうとしたけれども、雄介が受け取らなかったシーンは屈指の名シーンだと思います。
けれどもその対になる、最後のレースで奈緒子が雄介に並走するシーンがあっさりだったのが惜しかったです。
給水所のシーンくらいにドラマチックにしても良かったんじゃないかなあ。
ゴールをクライマックスにしたいという意図はわかりますが、奈緒子と雄介の関係性においてはあの場面がクライマックスなような気がしました。

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「バンテージ・ポイント」 見晴らしのいい場所

「バンテージ・ポイント」とは「見晴らしのいい場所」という意味らしいです。
転じて有利な立場という意味も持つとか。

スペインでの首脳会議においてアメリカの大統領が狙撃され、そして続けて爆破テロも起こる。
この事件をシークレットサービスのエージェント、犯人グループ、事件を目撃する観光客、大統領など複数の視点で描く、「羅生門」的複数視点のサスペンス映画です。
1つの事件だけを発生から8つの視点で繰り返し描きつつ、次第に事件の真相が明らかにしていくという構成のため、余計な前振りや後日談などは一切なく、最初から最後まで緊張感が持続します。
新たな視点で描かれるたびに事件の謎が明らかにされ、また謎が提示されてという展開によって物語にグイグイと引き込まれてしまいます。
そのため観終わったあとに「疲れたー」と思ったりもしますが、時計を見てみると1時間30分しか経っていないことに驚きます。
無駄なところがなく、非常にコンパクトに作られて密度感のある映画ですね。
衆目監視の中での事件を描いているからか、テイストはドキュメンタリータッチで、激しくカメラが動きまくっているので、観ていると酔うようなちょっと疲れるところもありますが、これはこれで事件の緊張感伝わってくるのでよかったかと思います。
特に後半の町中のカーチェイスは見応えもあり、なかなかの迫力でした。

視点が繰り返されるごとに、「実はこの人は・・・」「うそー」みたいな新事実が浮かびあがり、話をひっぱる感じは「24」や「LOST」のようなアメリカのテレビドラマのようでもありました。
後出しジャンケンみたいな「新たな事実」の提示を行っていく展開を嫌う方もいらっしゃると思いますが、僕はこういう「ひっぱり」はけっこう好きほうなので、堪能できました。
いくつかの視点で描きつつ、真相は「薮の中」ではっきりと終わらないという複数視点映画もあったりしますが、「バンテージ・ポイント」は最後には事件の真実もわかるので、後味もスッキリと見終えられます。
アメリカのテレビのサスペンスドラマは謎が多くておもしろいのだけれど、いかんせんすべてが明らかになるには何十話も観なくてはいけないのがたいへんなところ。
本作はアメリカンドラマの「ひっぱり」の良さをコンパクトな時間で楽しめるので、「24」とか「LOST」とか好きな方にはお薦めです。

すべての真相を知る者たちは死んでしまうわけなので、生きている登場人物はこの事件の真相のすべてを知ることはできないでしょうね。
となると、この事件のすべの真相を知るのは、観ている観客のみ。
観客席こそ、事件を俯瞰できる「見晴らしのいい場所」なのかもしれません。

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2008年3月 2日 (日)

本 「浅見光彦殺人事件」

ミステリー小説初心者の頃、読みやすかったのでいろいろ内田康夫氏の浅見光彦シリーズはいろいろ読みました。
いわゆるご当地もののミステリーが多いので、テレビの2時間ドラマによくなっていますよね。
ミステリーとしては読みやすい分、あっと驚くことがないので、段々もの足りなくなってあまり読まなくなってしまいました。
その中でもずっとタイトルが気になっていたのが、本作「浅見光彦殺人事件」。
いつもと違う趣向かと気になりつつも、いろいろ他のこのシリーズを読んでからの方が驚きも多かろうとずっと後回しにしていました。
で、読み始めたのですが、最初の方でこのタイトルの意味合い、トリックなども察しがついてしまいます・・・。
結果も予想通りで・・・。
やっぱりもの足りない感じはするんですよね。
このシリーズは、ミステリー初心者のための入門か、出張の際の車内で気軽に読めるといった感じに向いているのかも。
ミステリーをいろいろ読んでいる方は満足できないかもしれないです。

浅見光彦シリーズ「秋田殺人事件」の記事はこちら→

「浅見光彦殺人事件」内田康夫著 角川書店 文庫 ISBN4-160727-2

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本 「チーム・バチスタの栄光」

原作の上巻を読んで、映画観て、それからまた原作の下巻を読んで、というとても変則的な読み方をしてしまいました。
あまりこういう読み方はしませんが、小説と映画の違いはよくわかりますね。

<ネタばれあり・犯人に触れます>

最も異なるところは主人公田口が男性か女性かというところですが、これは置いておきます。
小説も、映画も事件は二段階で解決するのは変わりません(仔細は異なりますが、大きくはその原因もトリックも同じ)。
一段階目は執刀医である桐生が緑内障を患っているのにも関わらず、鳴海の声を手がかりに手術を行ったということを明らかになるところ。
そして第二段階目は麻酔医氷室の犯罪だということがわかるところ。
けれども映画と小説ではその比重の置き方が異なる感じがしました。
映画では先日の記事で書いたように、一段階目の桐生、鳴海の行為の方に焦点が合っています。
意志としての義務感、使命をもちながらも、また自尊心、傲慢さというのを捨てられなかったエリートの医師の姿というのがテーマになっていたように感じました。
そのため二段階目の氷室の犯罪はどちらかというと付け足した感があったように思えました。
逆に小説では、桐生・鳴海の行為よりも、氷室の犯罪の方に比重があるような感じがしました。
氷室という医師を生んでしまった、大学病院という仕組みの問題、医師不足などの背景から、作者が医師ならではという問題点の意識が感じられます。
またパッシブ・フェーズ、アクティブ・フェーズという対照的な聞き取り方法の使い分けと、田口・白鳥コンビの対照性がわかりやすいのも小説の方だったと思います。
映画の方の白鳥はただの失礼なヤツに見えないこともない。
とはいえ映画で延々と方法論の説明をさせられても困るので、映画の白鳥はあれはあれで良かったのかもしれません。
映画と小説、どちらが優れているということではなく、同じネタを使いながらも表現方法で伝えること、伝わることが変わるのだなあと改めて思いました。

「チーム・バチスタの栄光<上>」海堂尊著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-6161-4
「チーム・バチスタの栄光<下>」海堂尊著 宝島社 文庫 ISBN978-4-7966-6163-8

映画「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
小説「チーム・バチスタの栄光」に続く第二弾「ナイチンゲールの沈黙」の記事はこちら→
第三弾「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→
第四弾「イノセント・ゲリラの祝祭」の記事はこちら→
第五弾「アリアドネの銃弾」の記事はこちら→
海堂尊氏の小説「螺鈿迷宮」の記事はこちら→

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本 「空間の謎・時間の謎 -宇宙の始まりに迫る物理学と哲学-」

相対性理論とか量子力学とか、インフレーション宇宙とか、空間や時間に関わる話が昔から好きなんですよね。
人に説明できるほどばっちり理解しているわけではないのですけれど、僕らが普段みていると思っている時空間(目に見える空間があって、時が流れるといった)が、こういう理論の視点からみると、違うものに見えてしまうのがとても不思議なので興味がわくのかもしれません。
そういう意味では物理学というよりも、自分としてはファンタジーとしてみているのかも。
「宇宙はどこでもそこを中心にすべての方向に広がっている」なんてわかるようでわからないでしょ?
わからないようでいて、わかるかな?
なんかこういう感じが好きなんですよね。
そんなわけで時々そういう本も読んでみるのですが、いつもなんとなーくわかった気分にはなるんですよね。
この本ではニュートン流のものの見方とライプニッツ流のものの見方違いから、現在の宇宙論、時空論へ話を進めていきます。
僕らは普通の生活での物理的な運動はニュートン流のものの見方をしています。
学校でそう習いましたからね。
そこでは無意識に絶対空間、絶対時間というのを設定しています。
そうするのは感覚的には合っている気がするのですが、これが宇宙規模だったり、逆に原子レベルだったりすると事情が違ってきます。
相対性理論や量子論の世界に入っていくと絶対空間、絶対時間という考え方では説明できなくなってしまう。
これは物理学ではあるのですけれど、世界の見方という意味では、哲学的でもあり。
昔の仏教の教えなどにも通じているような気もしてくるんですよね。
究極的には人文系も理系も探求していくと根っこは一緒になるような、そんなおもしろさを感じてしまいます。
ほとんど理解できないけれど・・・。

「空間の謎・時間の謎 -宇宙の始まりい迫る物理学と哲学-」内井惣七著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101829-X

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「ジャンパー」 観客を楽しませる職人

上映時間が1時間半とコンパクトで、最近は2時間越えの作品が多い中、気軽にエンターテイメントとして楽しめる映画です。
テレポーテーションの能力を手に入れた青年デヴィッドと、彼ら”ジャンパー”を追う謎の集団”パラディン”の戦いを描くアクション映画。
ストーリーはとてもシンプルな構造ですが、”ジャンパー”たちのテレポーテション能力と、彼らと”パラディン”たちの戦いのアクションがとても見応えあります。
ダグ・リーマン監督は今までの作品も話はいたってシンプル。
「ボーン・アイデンティティ」も「Mr.&Mrs.スミス」も話は複雑ではないし、キャラクターもそれほど深く人間性をえぐっているわけではありません。
変な謎解きなどをするのに時間を食うくらいだったら、「魅せるアクション」に時間をとりたいという意気込みが感じられるくらいエンターテイメントに徹している感じがします。
本作「ジャンパー」でも、テレポーテーション能力は何故手に入ったのかとか、何故”パラディン”は”ジャンパー”を追うのかなどとといったことの説明に多くの時間はとっていません。
ひらすら”追う者”と”追われる者”のアクションを描きます。
「ボーン・アイデンティティ」では動き回るカメラ、狭い空間での格闘などライブ感のあるアクションを見れてくれましたし、「Mr.&Mrs.スミス」ではブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーという華がある二人のアクションをいかにカッコ良く見せるかということに徹していたように感じます。
最近の若手の監督を形容するのに使われる、いわゆるスタイリッシュな映像という言葉のイメージともちょっと違う。
スタイリッシュな映像というのは画面レイアウト、色彩などがそれぞれの作家性(アート性)を強く反映しているもの。
ダグ・リーマン監督には特段に作家性というのを感じるわけではなく、あくまで観客が歓びそうなカッコいい映像作りに徹しているような感じを受けます。
本作「ジャンパー」でもテレポーテーションを使ったアクションシーンというのは、アイデアとスピード感にあふれ、観ていて飽きることはありません。
ダグ・リーマン監督というのは、作家というより、人を楽しませる職人といった感じなのかもしれません。

原作小説「ジャンパー -跳ぶ少年-」の記事はこちら→

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2008年3月 1日 (土)

「ライラの冒険 黄金の羅針盤」 少女の成長、自我の形成

ダイモンという設定がおもしろいですね。
「ライラの冒険」の世界では、人間の魂が動物の形になって本人に寄り添います、それがダイモン。
ダイモンはその人の自我のメタファーなんでしょうね。
以前流行った「動物占い」を思い出します(ちなみに僕はサルでした)。
ダイモンが主人の側にいてくれると、この人はどんな人かわかりやすそうなので、初めて会うときは便利そうではあります。
子供のダイモンの形が定まっていないというのも、ダイモンが自我であるとすると納得できます。
いろいろな経験をしていくにつれ、子供の自我は次第に形成されていきます。
おこじょや猫、小鳥に姿を変えるライラのダイモン、パンは冒険を経て、どんな形(自我)となっていくのでしょう。
「教権」、コールター夫人が進める「切り離し」は子供が自我を持ち、一人の人間として独り立ちすることを防ごうという試みに他なりません。
無垢な子供でいて欲しいという望みは一見美しいように聞こえますが、それは大人側の支配欲です。
子供は日々成長し、いずれ独立していきます。
それを認められない、子離れのできない親を象徴しているのがコールター夫人です。
子供が自我を形成し、親の自我とぶつかり合う時期が反抗期なわけですが、このあたりをライラとコールター夫人の関係がとても上手に表しているように思います。
また「教権」は宗教的支配層、施政者(=親)の暗喩ですが、彼らは一般市民(=子供)を無垢なる子羊にしておいたほうが、ものわかりがよくて支配しやすい。
余計な疑問は持たず、教義をただ信じている一般市民、これはどこでもいつの時代(いまの日本もそう)も施政者側が持つ望みなわけです。
ライラたちの戦いは親や施政者といった支配するものに対しての、個性ある自我をもつ一人の人間としての戦いなのでしょう。

外界のさまざまなことに好奇心を持ち始め、自我を形成していく年頃の少女、ライラをダコタ・ブルー・リチャーズが好演。
勝ち気で、ちょっと生意気で、なんだか知らないけれどこの年頃特有の根拠がない自信みたいなものにあふれているライラにぴったりのキャスティングでした。
ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ、サム・エリオットと脇の俳優陣も役柄に見事に合っていたと思います。

最近作られるファンタジー映画は設定として凝ったものが増えてきましたね。
以前はファンタジーというと中世風の世界、剣と魔法というのが定番で、さすがに見飽きてきましたが、先日DVDで観た「スターダスト」、そして本作「ライラの冒険」などは、ジャンルとしてはファンタジーに分けられるのでしょうが、そのオリジナルな世界設定などに工夫が感じられます。
またファンタジー映画は「LOTR」以来三部作というのが定石になっていますが、きちんと一作ごとの構成、そして三部作としての全体構成が考えられているものは少ないように思えます。
けれども本作はこの物語の世界がどうしてこのようになっているかという世界生成の謎(ダストなど)、そしてこちら側の世界と関係があるというほのめかしなど、三部作としての構造の仕込みをしながら、この「黄金の羅針盤」一作としても見応えがあり、うまく作っている感じがします。

願わくば、ダコタ・ブルー・リチャーズが大きくなりすぎないうちにあと2作を作って欲しいものです。
ダコタの成長と、ライラの成長がうまくシンクロすれば、名作ファンタジーになる予感がします。

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