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2008年2月24日 (日)

「スターダスト」 女の子にも男の子にも

仕事がとても忙しかった時に劇場公開だったため見逃していたこの作品、DVDレンタルが始まったので観てみました。
この数年、ファンタジー作品が次々と作られています。
傑作もある代わりに、そうでないのもたくさんあるので、過度な期待はせずに本作を観賞しましたが、意外にも(失礼!)おもしろい。

ファンタジーものというのは、主人公が何かを探し(LOTRは捨てにですが)にでかけ、その旅路の中で成長していくという物語が王道ですが、本作もその流れに従っています。
工夫があるのは、物語の中で探し物が二つあること。
その二つのアイテムを探す登場人物たちには、それぞれ目的があって、彼らの行動が絡み合いつつ物語は進んでいきます。
第一のアイテムは魔法の国ストームホールドの王の印であるルビー。
これを跡目を継ぐべく三王子たちが互いに争いながら探していく。
そして第二のアイテムが”流れ星”=イヴェイン。
何百年も生きているラミア(ミッシェル・ファイファー)ら魔女三姉妹が、永遠の美と命を手に入れるために”流れ星”の心臓を手に入れようとします。
主人公トリスタンも好きな女性ヴィクトリアの心を引くために”流れ星”を探しに旅立ちます。
目的別に分けると大きく3つの集団が互いに競うように探し物をしていく展開、そして女装趣味の空飛ぶ海賊(ロバート・デ・ニーロ)やトリスタンの母親、彼女を拘束している魔女など魅力あるサブのキャラクターが絡んでいく展開はワクワクしながら観れました。
細かな伏線(占い用の動物たちが復讐するところとか)なども綺麗に張っていたので、細部まで気が配られていた脚本だったように思えます。

ユニークだったのは探し物である”流れ星”が女性で生きているという設定。
金星がみつからないという場面があったので、イヴァインは金星(ヴィーナス)だったのでしょうね。
まさに女神。
魔女たちにとって”流れ星”は手に入れればいいというわけではなく、彼女自身がいきいきと輝いていなければその効果はあまり期待できない。
イヴァインの気持ちで、彼女の発する星の輝きが変わるというのはおもしろい設定。
まさに「恋は女性を輝かせる」。
脱線しますが、後輩の女性が先日結婚したのですが、久しぶりに会ったら表情が今までとまったく違う。
ほんとにキラキラとしていると言っていいくらい。
ああ、恋は女性を輝かせるのだなあと思った次第です。
イヴァリンは遠くから人の営みを見るだけで、そこにある愛に憧れはすれども、手に入れることはできなかった。
けれども不意に始まった旅路において、愛するということを知り、愛する人を手に入れることができます。
トリスタンも旅の目的はヴィクトリアという愛する女性の気持ちを得るためでしたが、旅の途中でイヴァインという本当の愛する女性を手に入れ、彼女を守るために彼自身が大人の男として成長していきます。

物語にはさまれるアクションシーンもテンポよくて見所があって楽しめました。
なかでも死体のチャンバラアクションはなかなかのアイデア。
ギクシャクした動きで、常人では考えられないアクションは見事だったと思います。
空飛ぶ海賊の海賊船などもかっこよく、男の子的にはけっこう楽しめました。

ラブロマンスとしては女の子の心をもった女性に、少年・青年の成長物語としては男の子の心を持った男性に、それぞれ楽しめるエッセンスを持った娯楽作に仕上がっていると思います。

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本 「敵は海賊・A級の敵」

いろいろと小説を読みますが、とても相性が良いと言える作家さんが何人かいます。
「好き」というのとはちょっと違う、ものの考え方が似ているというか、やはり相性が良いというのが一番しっくりきます。
そのひとりが本作の著者である神林長平氏。
神林氏というのはSF作家ではありますが、その作品は哲学的でもあります。
得てして哲学的テーマのSF小説というのは読むのが(わかりづらくて)とても苦痛な作品になりがちですが、神林氏の作品は決して小説としてのエンターテイメント性は損なっていません。
そういうところが僕としては相性が良いと思うところなんですよね。
特に本作を含む「敵は海賊」シリーズは、キャラクターがたっているため、キャラクター小説としても読めるので、神林作品の入門編としてはいいのではないでしょうか(特に女性、男性には「戦闘妖精・雪風」がお薦め)。
氏の小説の題材は「情報」を扱ったものが多いように思われます。
現実世界はすべてある種の「情報」で記述できるのではないか。
それでは完璧に記述された「情報」によって構成される世界は、現実世界と果たして区別できるのか。
完璧に作られた人工生命は、知性体として人間たちと区別できないのではないか、もしかすると人よりも進化した知性体なのではないか。
氏の小説には意志をもった機械というのがよく登場します。
「情報」というものを介して、現実世界と虚構世界の境目がなくなるような感じは、フィリップ・K・ディックのものの見方にも通じるような感じもある気がしますが、ディックよりも神林氏の方が格段にとっつきやすい。
本シリーズなどは特にそうですが、基本的にトーンが明るく、ユーモアが感じられます。
彼の作品には登場人物同士の論理的なようで不条理な会話というのがあるのですが、これが独特のユーモア感があります。
この作品では地球人ラテル、猫型異星人アプロ、人工生命宇宙船ラジェンドラの会話がなかなか楽しませてくれます。
本作は「敵は海賊」シリーズの中でも特に読みやすい作品になっているかと思います。
神林長平さんにご興味がある方はまずはこのシリーズから取りかかってみてはいかがでしょうか。

神林長平作品「ライトジーンの遺産」の記事はこちら→
神林長平作品「ルナティカン」の記事はこちら→
神林長平作品「あなたの魂に安らぎあれ」の記事はこちら→

「敵は海賊・A級の敵」神林長平著 早川書房 文庫 ISBN978-4-15-030583-3

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2008年2月23日 (土)

「マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋」 僕にとっての魔法使い

映画を観ていて、幼稚園の頃ブロック遊びでロケットを作って、「ゴ、ゴ、ゴー」とか言いながら部屋中を走りまわっていた時の気分がかなりリアリティをもって甦りました。

マゴリアムおじさんのおもちゃ屋は、子供の頃は誰でもが知っていた「空想世界」を表しているわけですよね。
「空想力」というものがあれば、「空想世界」ではぬいぐるみと話はできるし、紙飛行機もいつまでも空を飛ぶ。
でも大人になるに従って「空想力」は「現実世界」の圧倒的な存在感によって次第に弱められてしまう。
カラフルでにぎやかだった「空想世界」は、いつのまにか知らず知らず灰色で静かな枯渇した世界に変わってしまいます。
「空想世界」に容易に入っていける子供を代表するキャラクターがエリック。
「空想世界」を忘れてしまった大人を表しているキャラクターがヘンリー。
そしてその間に位置する、大人と子供の間を揺れ動いているのがモリーなんでしょうね。
彼女は子供の頃からの夢も持っているけれども、それが実現できないかもしれないという現実にも気づき始めています。
マゴリアムおじさんの魔法の力を信じているけれども、その代わりを自分ができるなんて自信は到底ない。
自分の中にある夢見る力と、現実的な限界による外圧、それにはさまれている、まさに子供と大人の間の位置づけなのでしょう。
子供というのは自分の能力、そしてその限界を認識していないがゆえに、夢や空想をどんどん膨らますことができます。
子供は「空想世界」ではなんにでもなれます。
あるときはお巡りさんに、あるときはサッカー選手に、それこそ魔法使いのようになんにでもなれます。
けれども大きくなるにつれ、自分のできること、できないことというのが次第にわかってきてしまう。
「空想世界」よりも「現実世界」が力を持ってくるわけです。
大人は次第に「空想世界」の存在すら忘れていってしまう。
ヘンリーのように書類があるかどうかばかりを心配してしまう大人になってしまうんですよね。
でも、たぶん時折「空想世界」を忘れないまま大人になれる人がでてくる。
それがマゴリアムおじさんのような魔法使いなのかもしれません。

でも多分大人になっても「空想世界」のことをまるっきり忘れてしまっているわけではないような気もします。
ときどきやはり「空想世界」で遊ぶことを思い出したりもする。
僕にとっては映画を観ることというのが、「空想世界」で遊ぶことなのかもしれません。
そうするとその遊び場を提供してくれる映画を作っている人たちというのは、僕にとってはマゴリアムおじさんのような魔法使いなのかも。

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2008年2月17日 (日)

「歓喜の歌」 ダメダメ男としっかり女

予告の「餃子ですよ、餃子」という台詞が気になって観に行ってきました。
原作は立川志の輔さんの新作落語ということです。
最近は落語をテーマにした映画が増えましたね。

落語に関してはそれほど詳しくないのですが、小林薫さん演じる主人公の飯塚主任はまさに落語の登場人物のよう。
いいかげんで適当で、公務員なのに場当たり的に暮らしている感じがして、落語にでてくる熊さん、八さんみたい。
たぶんそれまでの人生であまりたいへんな状況に直面するということはなかった人なのでしょう。
上昇意欲などもあまりなさそうな人のようですし、たいへんなことをなるべく避けていたような、まさに事なかれ主義の人。
それなのに、大晦日を目の前にして、仕事と家庭と、裏のプライベートとでトラブルが発生し、三重苦となりドタバタするさまがおかしい。
飯塚主任をはじめ、夢ばかりみているタクシー運転手、ニートな息子など登場人物のうち男性陣はなんとも頼りない。
それに比べて女性たちはみな逞しくてポジティブシンキング。
コーラスガールズのリーダー五十嵐純子(元音楽教師で今は在宅ケアを行っている)は、夢追い人な旦那をうけとめて、またトラブルがあっても常に前向きな包容力のあるしっかりものの女性。
こちらを安田成美さんが好演してました。
ほんとにいい奥さんという感じでしたねー。
Wブッキングの相手、レディースコーラスのリーダー松尾みすず(スーパーの社長)も嫌みなおばちゃんかと思いきや、心優しいボランティア精神のある女性。
こちらも由紀さおりさんぴったり。
コーラスガールズのメンバーはパートなどの仕事をがんばりつつもコーラスの仕事を明るく両立しようとしているし、レディースコーラスのメンバーも有閑マダムのコーラスもただの趣味ではなく、その歌で施設の慰労をして回っている様子。

古典落語ででてくる亭主というのは大概だらしない。
それに対してその女房というのは、しっかりもので気が強い。
このお話ではダメ亭主が飯塚で、出来のいい女房が純子で、夫婦ではないけれど古典落語のような構造。
昔からダメ男と出来のいい女という構造はお話にしやすいんでしょうね。
男どもは今も昔もあんまり変わっていないということでしょう、とほほ。

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「0093 女王陛下の草刈正雄」 なんとなーくできちゃた感じ

B級映画というのは最近は一つのジャンルとなっているような気がします。
そもそもB級というのは、A級(メジャー)に対し低い位置づけであることを表していたものだったのでしょう。
A級の映画というのは制作費をかけた大作だったり、観客がたくさん入る作品であったり、巨匠の撮った作品だったり、メッセージ性のあるものだったりするわけです。
メジャーに対しては、インディペンデントという一方の対比軸はあるのですが、いつしかB級というのは、A級の映画ではできないことをやるもう一方の軸になってきたような気がします。
それは多くの人があまりこだわらないディテールへの偏愛であったり、カルトな分野へのこだわりであったりするわけで、オタクという存在の社会的な認知から、B級映画というのものも社会権を得たと言っていいでしょう。
またB級映画というのは、製作費がないという状況を、制作者のその分野へのこだわり(愛と言ってもいい)により、「金がなければ、アイデアで勝負」的な熱意で克服するという熱さというものをもっているような気もします。
B級映画というのは、ある客層にのみ受け入れられる細部への偏愛、ジャンルへの思い入れ、そして熱情とアイデアを持っている映画のジャンルと言っていいかもしれません。

さてさてなぜこれほどB級映画について書いたかというと、本作「0093 女王陛下の草刈正雄」という映画をどのように捉えるかとちょっと悩んだからでもありました。
本作はジャンル的にはパロディ映画ということになるのでしょう。
たぶんB級映画と言う人もいるでしょう。
けれども上に書いたような僕がイメージするB級映画かというと、そんな感じもしません。
B級映画の条件を、ディティールへの偏愛、ジャンルへの思い入れ、熱情とアイデアと書きましたが、そのあたりがあまり感じられない。
お金がない感じは十分伝わってきます(笑)。
けれども良い(?)B級映画にあるような制作者の熱みたいなものが伝染してこない。
なんだかとても温度の低い映画を観ているような気がしました。
猛烈に安っぽいんですよね。
もしくは大学の映画サークルで仲間内で楽しむためにつくった自主映画のような感じかもしれません(大学の頃、そういうの作ったなあ)。
安っぽさというのは、制作にかけられるお金だけによるものではないかと思います。
製作費がなくても、それなりにいい映画というものは作れるものです。
海外の作品にはパロディ映画というのはいくつもありますが、それらを見てみると「真剣に」パロディしているような気がします。
そういう海外の作品に比べ、本作は繰り出されるギャグに関しても、とてもお寒いネタがこれでもかこれでもかと繰り返されます。
「笑い」自体があんまり深く考えたものではなく、「笑い」へのこだわりといったものも感じさせません。
そういうわけで大笑いできるわけもなく、もしかすると「苦笑」という笑いをとりにきている高度なテクニックなのかもしれないとかんぐったりもしますが、たぶんそこまで考えてはいないでしょう。
なんとなーくノリでできちゃた映画のような感じがしますね。
制作がBS-i(TBSの衛星放送の会社)で、悪役が楽天の三木谷社長を思わせる役柄だったのだけ、笑えました。

しかし、この映画を題材にこれだけ書く人はあまりいないでしょうねえ。

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2008年2月16日 (土)

「L change the WorLd」 もっと頭を使ってほしい

「デスノート」からのスピンオフ企画で探偵”L”の最後の23日間を描く作品です。
「デスノート」は原作からファンで、映画もなかなかいい出来だと思っているので、本作も楽しみにしていました。
特に彼以外は考えられないほどハマり役となった松山ケンイチさんの”L”が主人公ということで期待度もあがっていました。
けれどもその期待は見事に裏切られたという感じを受けます。
出来としてはかなり悲惨なものだったと言わざるをえません(僕の中では「デビルマン」級と言ってもいい)。
そしてそのために「デスノート」という作品(L篇までの原作と映画)の良さというものを再確認できたとも言えます。

本作は「デスノート」でも人気のあったキャラクター”L”を主人公にした作品です。
「デスノート」のもう一人の主役、夜神月は前作で死に、「キラ事件」も解決しているため、本作に登場させることはできません。
よって”L”だけの一人主人公となるのは仕方がないことと制作者は判断したのだと思いますが、これが間違いだったのかもしれません。
”L”は奇妙キテレツな行動をとる変人ではあるけれど、その頭脳は常人離れしており、そして常識にとらわれない自由な発想を繰り広げられる人物です。
そうでなければ”死神”が関わる事件など解決できようもありません。
けれどもその”常人離れ”した思考力というのは、彼と同等レベルの登場人物がいることにより、その凄さというのが際立っていたのだということがわかります。
その相手が前作までの夜神月でした。
読者や観客が及びもつかないような先の先まで読み切り、天才同士が相手の手を読もうとする頭脳戦が「デスノート」の魅力の一つであったわけです。
けれども本作では月がいなくなり、一人主人公となった”L”がその才能を競い合う相手は登場しません。
役柄として本作でそれが期待されているのは”K”であるのでしょうが、彼女の仕掛ける事件はあまりに杜撰で場当たり的であるため、”L”の天才的な頭脳が際立つような場面はなかったように思えます。
また”K”(そしてその周りの素人くさいテロリストたち)が事件を起こす理由も、非常に偏ったものの見方によるため、まるで共感性はありません。
夜神月も極端で偏ったものの見方をする人物でありましたが、その天才性、そして世の中が結果として良くなるのなら支配されてもいいと思ってしまいそうな庶民の心理みたいなものをとりこんでいたところが恐ろしくもあり、新しくもありました。
そのような悪魔的な才能がある月がいたからこそ、”L”は輝けたのだと言えます。
それに対し”K”というキャラクターはあまりにもお粗末な人物像であり、”L”の相手役にしては役足らずと言っていいでしょう。

もう一つ「デスノート」の魅力だったのは、あり得ないルールに従った論理の組み立てのおもしろさでした。
基本的にミステリーというのは、現実としての制約(空間的、時間的)に基づき、それの常識を覆すようなトリックや仕掛けで、非常識なことを起こすというところにおもしろさがあります。
「デスノート」では通常の常識に加え、そこに新たに「死神のノート」に規定された、常識の制約とそして拡張が施されました。
そのルールは物語の当初はまだわからず、ルールが見えないところでの推理の組み立てというのは展開されます。
”L”の凄さというのは、常人が必ず縛られる常識(死神などいない、文字で人の名前を書いたら人が死ぬなんてありえない等)でさえ、論理的に説明ができればそれを疑うことができるという能力です。
常識さえ疑える能力というのが”L”の最大の力と言っていいでしょう。
それが本作ではまるで活かされていない。
恐ろしいバイオテロが相手とはいえ、それらはすべて常識の範囲内で繰り広げられる事件です。
”L”が走ったなどというのが本作では話題になっていますが、そんな肉体労働をせず頭脳のみで解決するのが彼の魅力なのです。
映画としてはありきたりな事件を本作の中心に据えたのは、”L”にふさわしい事件を制作者側が考えつかなかったという気がしてなりません。
”当たる”のが見えているキャラクターを手に入れたために、安易なアイデアで止まってしまった感じがします。
制作者にはもっと頭を使ってほしかった。

脚本的にもあげれば数えきれないほどの破綻や安易さがあったように思えます。
例えばワクチンを開発する博士が、愛娘をワクチン(またはウィルス)をもたせるようなことをするのか?とか一研究員(K)がテレビのワイドショーでウィルスの保菌者を実名で探すように言うなんてことがあるわけがないとか。
あまりの適当さにだんだんと脱力していきました。

本作は”L”という希有なキャラクターを見つけてしまった制作サイドが、そのキャラクターの魅力の本質をつかむことなく、二匹目の泥鰌を狙い制作してしまった映画という感じがしてなりません。
表面的なキャラクター人気に頼った作品作りは、ファンに裏切られたという感じを与え、その作品ブランドを傷つけてしまうが故に、結果的には制作サイドにもメリットはないように思います。
ハリウッド映画が安易なもの作りによりレベルの低下が問われている中、好調であった邦画もこのような安易な作品作りを続ければ、また観客の劇場離れを招くような危惧があるように思えます。

「DEATH NOTE デスノート <前編>」の記事はこちら→
「デスノート the Last name」の記事はこちら→

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2008年2月12日 (火)

本 「探偵ガリレオ」

昨年の秋のクールでお気に入りのドラマだった「ガリレオ」の原作「探偵ガリレオ」を読んでみました。東野圭吾さんの作品は以前に一冊だけ読んだだけですね。
おもしろくなかったわけではないですが、特に好きという感じでもなかった印象があります。

さて、原作に登場する探偵ガリレオこと湯川学のイメージは佐野史郎さんだそうですね。
やはり僕はドラマの印象が強く残ってしまっているため、小説を読んでも福山雅治さんのイメージで読んでしまいます。
原作とドラマの大きな違いは、湯川のワトソン役となるのが、原作では湯川の同級生の刑事草薙ですが、ドラマでは柴咲コウさんが演じていた内海薫となっています。
原作とドラマでは事件の内容自体はほぼ共通していて、そのトリックはほぼ原作に準拠しているようでした(「予知夢」はまだ未読なので、そちらをベースにしている話はわかりませんけれども)。
トリックの説明は先にドラマで理解していたので、小説を読んでもわかりくいところはありませんでした。
やはりこれは映像の力ですね。

小説自体は短編だということもあり、さらさらと読みやすい印象。
そういうこともあって、好きだとか嫌いだとか強い印象が残る作品という感じはしませんでした。
僕にとっては東野圭吾さんという作家はやはりそんな感じなのかな。

「探偵ガリレオ」東野圭吾著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-711007-5

テレビドラマ「ガリレオ」の記事はこちら→
東野圭吾「ガリレオ」シリーズ短編集二作目「予知夢」の記事はこちら→
東野圭吾「ガリレオ」シリーズ短編集三作目「ガリレオの苦悩」の記事はこちら→
東野圭吾「ガリレオ」シリーズ長編1作目「容疑者Xの献身」の記事はこちら→

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「獣拳戦隊ゲキレンジャー」 計算された展開

東映の塚田英明プロデューサーが一年振りにメインとなった戦隊シリーズ。
塚田プロデューサーが手がけた作品はけっこう好きだったりします。
それらは「特捜戦隊デカレンジャー」であり「魔法戦隊マジレンジャー」だったりするのですが、彼の作品には二つの特徴があるように思われます。
一つは別のジャンルの特徴を上手に戦隊シリーズに取り入れるということ。
「デカレンジャー」の場合は「太陽に吠えろ」や「西部警察」などの「テレビの刑事もの」の特徴を取り入れていますし、「マジレンジャー」は「ハリー・ポッター」シリーズなどの「ファンタジーもの」の要素を取り込んでいます。
本作「獣拳戦隊ゲキレンジャー」ではブルース・リーやジャッキー・チェンなどの「カンフーもの」をベースにしています。
「刑事もの」「カンフーもの」のようなジャンルは、僕が子供の頃に好きだったものであって、作品の中でもそれらの作品を彷彿とさせるところがあって、クスリとさせられます。
塚田プロデューサーの年齢を見ると僕と年が近いこともあって、彼もたぶん子供の頃、これらのジャンルが好きだったのだろうなと思います。
また塚田プロデューサーの特徴の一つが1年というスパンのシリーズの大河ドラマ性というのを意識して作っているというところです。
「マジレンジャー」等はそれが顕著に表れていて1年間を大きく3部構成にして、それぞれの部ごとに物語の盛り上がりを用意し、年間を通して物語に視聴者を惹き付ける手法を展開しています。
もともと戦隊ものは一話完結が基本でしたが、この数年は「平成ライダー」シリーズの影響も受けたのか、大河ドラマ性が強くなっています。
中でも塚田プロデューサーはその傾向が強い。
本作「ゲキレンジャー」も三人の若者の成長という柱を持ちつつ、正義の拳法と悪の拳法の対立、主人公ジャンの出生の秘密などを織り交ぜ、終盤はやはりドラマとして盛り上がり見応えがあったように思えます。
これらの特徴を見るにつけ、塚田プロデューサーの作品は当初より計算されてラストまでの展開が決められているような気がします。
本作でも年間を通しての起承転結の構成と1話毎のバラエティ感、新キャラクター・新メカの投入などについても、1年を通して適切なタイミングで行われていたような気がします。
子供向けのキャラクターシリーズは、おもちゃの販売などにより放映途中で路線変更をさせられることが多い中、計算通りに最後まで通せるのはなかなかの手腕のような気がします。
(最近の「平成ライダー」は「ブレイド」にせよ、「響鬼」にせよ、途中で路線変更を余儀なくされている)
内情を知っているわけではないので計算通りにいっているかどうかはわからないですが、完成された作品を見ると、要素が収まるべきところに収まっている感じがあります。
今度の戦隊ものは塚田プロデューサーじゃないんですね。
ちょっとがっかり。
2年続けての作品作りはやはりたいへんなんでしょうね。

映画「電影版 獣拳戦隊ゲキレンジャー ネイネイ!ホウホウ!香港大決戦」の記事はこちら→
テレビシリーズ「炎神戦隊ゴーオンジャー」の記事はこちら→

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2008年2月11日 (月)

「陰日向に咲く」 縁は異なもの

現代は人の関係が薄くなったとよく言われます。
けれど一人がいいと思っている人が増えたわけではないような気がします。
というよりも、人との関係が近くなると、相手を傷つけてしまうから、そして自分が傷ついてしまうから、それが怖くて関係を薄くしてしまっているのかもしれない。
人と繋がっていたいと思うけれど、それが切れるのがとても怖い。
だから始めから人との関係から逃げてしまうのかもしれない。

ギャンブルに逃げ込むシンヤ。
何かから逃げ続け、長いことホームレスとして暮らすモーゼ。
芸人になろうとする夢を捨てる雷太。
今の生活を捨て、ホームレスになろうとするサラリーマン、リュウタロウ。

人は人を想う。
いくら人との関係を薄くしようとしても、それは止めることはできない。
人は人を想う。
それが人を動かす力になる。

恋をしてその人といっしょにいたくて、上京してくる鳴子。
初恋の少女の面影を追い、アイドルを応援するゆうすけ。
自分への応援を力にがんばるアイドルみゃーこ。

いくら一人でいようと決心しても、人と人は繋がってしまうものなのかもしれない。
縁は異なもの。
不思議に繋がり合う人の縁は、人の人生を変える。
偶然にシンヤがかけた電話が、ある女性の人生の最後の癒しを与えたように。
彼女との悲しい出合いがシンヤが自身の人生を見直すきっかけを与えたように。

縁は異なもの。
不思議に絡み合う人生。
それは実は不思議なことはではないのかもしれない。
人はそもそも繋がりを求めるものだから。
縁を求めるものなのだから。

原作は未読なので原作通りかわからないのですが、本作が脚本はとてもよくできていたと思います。
登場人物それぞれの描かれている人生が、台風のシーンのエピソードに向かい収斂していくのはなかなか見事だったと思います。
過去と現代がパラレルに描かれていますが、彼らの人生がどのように関わっているのかが明らかになっていくさまは下手なミステリーよりもおもしろかったです。

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本 「あなたの会社の評判を守る法」

この本のタイトルにある「評判」という言葉、英語ではレピュテーション(reputation)と言います。
最近マーケティング関連の本でレピューテーションという言葉をよく聞きます。
コーポレート・レピュテーション、言わば「会社の評判」というものは、この本では「企業人の判断・行動、発言にたいして、消費者や投資家、取引先、ジャーナリズム、地域社会といったすべてのステークホルダーが下す、正または負の評価」と定義しています。
なじみのあるコーポレート・ブランドとの違いは、「企業人の判断・行動、発言にたいして」というところでしょうか。
ブランド価値というのは、基本的にはその企業が提供する商品もしくはサービスに対する評価になります。
それに対してコーポレート・レピュテーションは企業を構成する人の行動なども対象になります。
またブランド価値は「価値」というだけあって、その商品・サービスの提供するベネフィット(ファンクショナルであっても、エモーショナルであっても)、つまりそれらによって引き起こされる結果が対象になりますが、レピュテーションはプロセスも対象に含みます。
商品を開発する時、製造する時に環境への配慮があるか。
商取引の際に法令を遵守しているか。
何かしらのクレームがあった時のお客様への対応は適切か。
これらは結果ではなく、プロセスです。
業績や利益をあげるだけでは企業はもう成り立ちません。
というよりもステークホルダーは企業の活動のプロセスもしっかりと見ていて、それがおかしい場合は、コーポレート・レピューテションは負に転じ、結果として購買は控えられ、企業の目的である利益を追求することができなくなるわけです。

レピュテーションを大きく下げるのは、企業の不祥事などが発生したときです。
けれどもこのような時でも、対応を間違えなければレピュテーションをあげるまではいかなくても、下げすぎないことはできます。
昨今の様々な企業不祥事、製品クレームの発生を見てみると、うまく対応した会社、対応できなかった会社でその後の評判が大きく変わっているのがわかります。
僕が働いている会社でも製品回収などを行ったことがあります。
そういう場面は、会社にとっては緊急事態であり、通常のように悠長に時間をかけて対応を考えている時間がありません。
そのためにはまず一つ大事なのは、そのような事態を予見した対応を事前に準備することです。
製品回収などはあってはいけませんが、その可能性をゼロにすることはできません。
それが起こったときの準備をしておくことが、有事の際の対応を間違えない一つの方法です。
もう一つはやはり当たり前のことなのですが、「お客様の視点にたち、真摯に対応すること」でしょう。
不祥事が起こった際、それに対して真摯にとりくんでいるかいないか、それは相手に伝わります。
というよりそれを見ています。
ステークホルダーに向き合う局面というのは、広告や記者会見などだけではありません。
それこそ社員ひとり一人がステークホルダーに向き合う場面がすべてレピュテーションに関係してきます。
当然経営などトップの判断は重要なのですが、社員ひとり一人の応対というものも非常に大切だと認識するように思います。

「あなたの会社の評判を守る法」久新大四郎著 講談社 新書 ISBN978-4-06-287913-2

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「アメリカン・ギャングスター」 「アメリカン」である意味

タイトルに何故「アメリカン」とついているのでしょうか?
イタリアン・マフィアから、黒人のフランクがN.Y.の麻薬の支配権を奪ったという話に素直にタイトルをつけると「アフリカン・ギャングスター」となるような気がしました。
「フレンチ・コネクション」というのもありましたし。
タイトルの意味を考えるには、アメリカという国の成り立ちを見てみるのが良いかもしれません。

アメリカが独立したのは1776年、建国後230年程度しか経っていません。
現在は唯一の超大国ではありますが、彼の国は歴史がとても浅い。
歴史が浅いというのが何を意味するかというと、国民が意識の背景に持つ共通の国民性みたいなものが薄くなりがちだということになります。
日本にしても、ヨーロッパの国々にしてもその国民性はその国の歴史をバックボーンとして、しっかりとした固さを持っているような気がします。
けれどもアメリカはそういう歴史的バックボーンはまだ持ち得ない。
その代わりに彼らが何で国民性をまとめているかというと、それは宗教(キリスト教)と独立宣言の精神でしょう。
独立宣言の精神は、平等であり、生命、自由、幸福の追求です。
これらの精神は現在でもアメリカ人の行動のバックボーンになっています。
公民権運動もこれらの考え方から発せられると思いますし、「アメリカン・ドリーム」などという考え方もこのあたりに根があるような気がします。

さて冒頭に書いたタイトルに関する疑問ですが、このようなことではないでしょうか。
フランク・ルーカスは新興勢力の「アフリカ系」として「イタリア系」を追い落とすということはあまり考えていなかったように思います(多少はあったかもしれませんが)。
彼の中にあったのは、今までにない新しい手法、やり方を開発し、それを実行する行動力を持ち合わせている者がより大きくなれるという考え方だっただと思います。
つまり彼が「アフリカ系」であることは彼にとっては意味はなかった。
彼にとって意味があったのは彼が「アメリカ人」であるということ。
チャンスは平等にあり、進化を押し進める力と気持ちがあれば成功できるという「アメリカン・ドリーム」の考え方。
リッチーが劇中でフランクに「お前が象徴しているものは"進化(progress)"だ」と言うシーンがあります。
まさにその通りで、フランクはアメリカ人の精神の基盤を象徴しているのです。
だからこそタイトルは「アフリカン」ではなく、「アメリカン・ギャングスター」なのだと思います。

「プロヴァンスの贈りもの」に続き、リドリー・スコットとラッセル・クロウが組んだこの作品。
主人公はラッセル・クロウかと思って観に行きましたが、デンゼル・ワシントンでしたね。
二人ともさすがの演技です。
昨日他のブロガーさんとこの映画のお話しをする機会がありましたが、みなさんかなり評価が高かったですね。
僕は前段が結構淡々としていたためか、やや退屈な感じがしてしまい・・・。
その日、二本目の観賞だったためか集中力が切れていたのかも。

ラッセル・クロウ主演、リドリー・スコット監督「プロヴァンスの贈り物」の記事はこちら→
ラッセル・クロウ出演、リドリー・スコット監督「ワールド・オブ・ライズ」の記事はこちら→
デンゼル・ワシントン主演「デジャヴ」の記事はこちら→

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「潜水服は蝶の夢を見る」 静かなる闘い

この映画は難病を題材にしている映画ですが、最近の日本の映画の難病もののように泣ける映画ではありません。
いつもブログでやり取りさせていただいているコブタさんが「泣ける映画ではないけれど、強く心に残る映画」とおっしゃていましたが、まさにそのような映画だったように思えます。

この映画は、人間性をかけ自らの境遇と闘った男、ジャン=ドミニク・ボビーとその周囲の人々の物語です。
ジャン=ドーは有名なファッション誌「ELLE」の編集長でしたが、突然の病に倒れ、意識が目覚めたときは左目しか動かせない状態になっていました。
指も足も動かすことはできない、言葉も発することはできない。
自分の意志を人に伝えられることができない状態になってしまったのです。
彼が自分の状態を「潜水服」と例えるのはまさにその通りで、限られた視界、動かすことのできない甲殻、誰も周りにいない深海・・・、そんな状態でおかれたときの孤独感は想像することができません。

人間性という存在は、以下の3つの要素で構成されているように思えます。
それは「外界」「肉体」「精神」。
どれが欠けても、そしてそれら3つの繋がりが途切れても人間性は失われてしまう。
「外界」がなくても人間としては「肉体」と「精神」があれば成立しそうですが、人間は「外界」に働き続けるからこそ人間であるように思えるので、やはりどれが欠けても難しい。
「肉体」は「外界」と「精神」を繋ぐインターフェイスであると言っていい。
入力装置であり、出力装置であるのが「肉体」。
インターフェイスとしての「肉体」が不調になった時の状態は、モニタもマウスもプリンタも全部動かなくなってしまったコンピュータと相対しているときを想像するとわかりやすい。
ジャン=ドーの場合、か細く繋がっている唯一のインターフェイスが左目のまばたきなのです。
看護士が読み上げるアルファベットに、まばたきによるイエス/ノーで答えて文章を綴るジャン=ドー。
それは本人も周囲にとってもとてもまどろこしく、根気のいるコミュニケーション方法に違いありません。
当然「死にたい」と漏らしたような気持ちも起こるでしょう。
それでもジャン=ドーは文章を「書く」。
身じろぎもせずにまばたきだけで「書く」行為はとても静かです。
けれどもそれは人間性を守るための激しい闘いであるのです。
そこに感じたのは涙が出てくるような感動というよりは、彼の行為に対して神聖さのようなものを感じました。
あくまで人間であること、それは言葉を発すること、意志を表すことへこだわり、それを守るために静かなる闘いを続ける。
それは辛いに違いないし、くじけそうにもなるに違いない。
彼の神聖な行為を見ているうちにとても胸が苦しくなりました。
自分たちが当たり前のように感じていること。
当たり前のように行っていること。
これは「空気のように」当たり前のことではないんですよね。
日々、なんとなく感じて過ぎていく時間。
その時間や、感じる感覚というものを大切にしなくてはいけないと思いました。

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2008年2月 9日 (土)

「チーム・バチスタの栄光」 プロ意識と傲慢さ

命を預かる仕事をしている方々が日々感じているプレッシャーというのはたいへんなものなんでしょう。
この映画で描かれるバチスタ手術は、肥大した心筋を切除し、つなぎ合わせることによって心臓のもつポンプの力を取り戻す手術だそうです。
そうするには、心臓を停止させ人工心肺にその機能を代替わりさせている間に手術を行う必要があります。
つまり患者を死なせ、そして生き返させる手術。
「(心臓が)再鼓動をしなかった時の恐怖はあの場所にいない者にはわからない」
という台詞がありましたが、まさにその通りなのでしょう。
映画を観ているだけで、人の命を預かるということの重さというのを感じました。

<ネタバレ含みます>

医師に限らず、自分の仕事にプライドを持つことというのは大事なことです。
その自負があるからこそ、その仕事によるプレッシャーにも耐えられるし、努力をして自分の技術をあげることができるわけです。
自分が身につけたスキルによって自信がつき、それがその仕事のプロとしての自覚に繋がる。
プロとしての自覚はさらなるスキル向上の意志を引き起こします。
チーム・バチスタの桐生も鳴海も、医師という仕事に自負を持っていたに違いありません。
そうでなければ人の命を預かる仕事というプレッシャーに立ち向かえないはずです。
けれどもプロしての意識、責任感が強くなり、多少の自信が加わると気持ちの変化が起こるときがあります。
それは
「これは自分がやらなくてはいけない。」から「これは自分しかできない。」への変化です。
前者はプロとしての責任感から発せられる言葉なのですが、後者は少なからずプロとしての傲慢さが感じられます。
以前の職場で、担当のローテーションがあったとき、ある後輩が「この仕事は私しかできません」と言ったことがありました。
その仕事に愛着を持ってやっているという強い思いも感じましたが、「私しか」というところに彼女の仕事に対する慣れと傲慢さも感じました。
当然担当が変われば、後任が前任と同じような仕事のレベルをすぐに行えるわけではありません。
でも時間をかければやり方は違うにせよ、同様のレベルにあげることはできます。
桐生医師しかできないと言われた困難な手術であっても、垣谷医師も成功させられたように。
プロ意識というのは仕事をする上ではとても大事なことですが、その意識と育ちがちな「傲慢さ」というものに自分自身で心を配る必要があるように思います。

<さらに激しくネタばれあり>

氷室麻酔医のエピソードはなくても成立する物語なような気がしました。
「アヒルと鴨のコインロッカー」に通じるような中村監督らしいどんでん返しにはなっているので面白かったとは思いますが、そのため桐生医師と鳴海医師のプロ意識と傲慢さというテーマが薄く感じられてしまったような気がします。
氷室麻酔医の話は、最後まで自分の仕事にプロ意識を持てなかった男の話と見ることができますが、愉快犯的な側面が強調されていたため、最近よくあるミステリーもののような印象が強くなったような感じがしました。
ここが少し惜しい点でしょうか。
チーム・バチスタのメンバーはキャラクター的にはとても魅力的でありました。
それに対して探偵役の二人はややもの足りない。
原作では男性だった探偵役の田口は、映画では竹内結子さん演じる女性田口になっていました。
そのため竹内結子さんの田口は探偵役というにはややもの足りず、そして白鳥は漫画的でこの物語ではやや異質な感じがしました。
この点も惜しいところ。

垣谷医師がバチスタ手術を終え、心臓が再鼓動を始めた時に、それまで冷静沈着だった彼が崩れるように機械に倒れかかったシーンは良かったです。
人の命を預かるというプレッシャーを、プロの意識ではねのけて手術を成功させた、彼のプロとしての自負と人間らしさが感じられるシーンでありました。

中村義洋監督作品「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→
小説「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→
続編「ジェネラル・ルージュの凱旋」の記事はこちら→

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