「アヒルと鴨のコインロッカー」 「区別」しようとする気持ち
アヒルとは、人類が鴨を家禽として飼育していく中で作られた鳥だということです。
同じ鴨科なのでアヒルと鴨の間では交配も可能で、それが合鴨です。
アヒルも鴨もそのシルエットだけでは、その区別をつけられる人はいなんじゃないでしょうか。
けれども見ればその区別をつけることはとても簡単。
色が違うから。
日本人とブータン人、同じモンゴル系ですよね。
顔立ちはとてもよく似ています。
多分先祖はいっしょだったのでしょう、アヒルと鴨の関係みたいなものでしょうか。
けれども言葉を話せばその違いは歴然。
人間にとって言葉が、アヒルと鴨の体色みたいなものになってしまうわけです。
日本人は長らく一つの民族でいたせいか、外国の人がいると「外人」と言って区別をしてしまいたくなる。
この物語の舞台となるのは仙台で、東京に比べればまだ圧倒的に外国人は少ないのでしょう。
その中で言葉が通じないブータンの青年は、多くの人から「区別」を受けたと思います。
「差別」というのはさすがに今の時代は誰でも悪いことだとは知っている。
でも「差別」まではいかない、なんだか関わりたくない気持ち、「区別」する気持ちというのはまだ日本人の中にはあるような気がします。
そんな日本人の中でも、ブータンの青年ドルジを屈託なく受け入れたのが琴美(関めぐみさん)、そして河崎(松田龍平さん)。
琴美はペットショップで働く女性。
動物を愛し、また正義感もあるまっすぐな人です。
河崎は一見いい加減そうに見えますが、たぶん懐が広い人なのでしょう、ドルジが外人だということなんかはまったく気にしていません。
日本人という鴨の中に、一羽だけ紛れ込んでしまったアヒル。
ドルジにとって彼らはかけがいのない人だったに違いありません。
ブータン人は生まれ変わりを信じているため、虫も殺さないということ。
そんなブータン人の青年が、かけがいのない人たちのために復讐をしようとする。
ブータン人にとって、それは来世以降をも犠牲にする行為だったに違いありません。
それほどまでに彼らが大事だった。
動物たちを虐待し、琴美をも手にかけようとした三人組は、自分たち以外に対する思いやりが決定的に欠如していました。
自分にとってイヤなこと、それは他人(そして動物にとっても)もイヤだという単純なことに気づけない人でした。
でも彼らは極端にしても、自分たち以外の人を「区別」しようとする気持ちもそれに近しいかもしれません。
自分たちがバスに乗れればと、困っている外国人の人を助けられなかった椎名の後ろめたさ。
それは日本人だったら助けたかもしれないということに、うっすらと気づいていたことに対する後ろめたさ。
その後ろめたさを感じなくなったら、あの三人と同じようになってしまう気がしました。
原作は伊坂幸太郎さんの小説。
未読ですが、この映画を観る限り、たぶん叙述トリックが使われているのだろうと思います。
ミステリー小説で叙述トリックは画が見えないことによって圧倒的な効果をあげますが、映像が見えてしまう映画はそうはいかない。
けれどもこの映画はそのトリックがとても効果があったように思えます。
ひとえに脚本の出来の良さと、瑛太さんの演技によるところが大きかったと思いました。
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