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2008年1月27日 (日)

「アヒルと鴨のコインロッカー」 「区別」しようとする気持ち

アヒルとは、人類が鴨を家禽として飼育していく中で作られた鳥だということです。
同じ鴨科なのでアヒルと鴨の間では交配も可能で、それが合鴨です。
アヒルも鴨もそのシルエットだけでは、その区別をつけられる人はいなんじゃないでしょうか。
けれども見ればその区別をつけることはとても簡単。
色が違うから。

日本人とブータン人、同じモンゴル系ですよね。
顔立ちはとてもよく似ています。
多分先祖はいっしょだったのでしょう、アヒルと鴨の関係みたいなものでしょうか。
けれども言葉を話せばその違いは歴然。
人間にとって言葉が、アヒルと鴨の体色みたいなものになってしまうわけです。
日本人は長らく一つの民族でいたせいか、外国の人がいると「外人」と言って区別をしてしまいたくなる。
この物語の舞台となるのは仙台で、東京に比べればまだ圧倒的に外国人は少ないのでしょう。
その中で言葉が通じないブータンの青年は、多くの人から「区別」を受けたと思います。
「差別」というのはさすがに今の時代は誰でも悪いことだとは知っている。
でも「差別」まではいかない、なんだか関わりたくない気持ち、「区別」する気持ちというのはまだ日本人の中にはあるような気がします。
そんな日本人の中でも、ブータンの青年ドルジを屈託なく受け入れたのが琴美(関めぐみさん)、そして河崎(松田龍平さん)。
琴美はペットショップで働く女性。
動物を愛し、また正義感もあるまっすぐな人です。
河崎は一見いい加減そうに見えますが、たぶん懐が広い人なのでしょう、ドルジが外人だということなんかはまったく気にしていません。
日本人という鴨の中に、一羽だけ紛れ込んでしまったアヒル。
ドルジにとって彼らはかけがいのない人だったに違いありません。
ブータン人は生まれ変わりを信じているため、虫も殺さないということ。
そんなブータン人の青年が、かけがいのない人たちのために復讐をしようとする。
ブータン人にとって、それは来世以降をも犠牲にする行為だったに違いありません。
それほどまでに彼らが大事だった。
動物たちを虐待し、琴美をも手にかけようとした三人組は、自分たち以外に対する思いやりが決定的に欠如していました。
自分にとってイヤなこと、それは他人(そして動物にとっても)もイヤだという単純なことに気づけない人でした。
でも彼らは極端にしても、自分たち以外の人を「区別」しようとする気持ちもそれに近しいかもしれません。
自分たちがバスに乗れればと、困っている外国人の人を助けられなかった椎名の後ろめたさ。
それは日本人だったら助けたかもしれないということに、うっすらと気づいていたことに対する後ろめたさ。
その後ろめたさを感じなくなったら、あの三人と同じようになってしまう気がしました。

原作は伊坂幸太郎さんの小説。
未読ですが、この映画を観る限り、たぶん叙述トリックが使われているのだろうと思います。
ミステリー小説で叙述トリックは画が見えないことによって圧倒的な効果をあげますが、映像が見えてしまう映画はそうはいかない。
けれどもこの映画はそのトリックがとても効果があったように思えます。
ひとえに脚本の出来の良さと、瑛太さんの演技によるところが大きかったと思いました。

原作小説「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→
伊坂幸太郎原作、中村義洋監督作品「フィッシュストーリー」の記事はこちら→
瑛太さん主演「銀色のシーズン」の記事はこちら→
関めぐみさん出演「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」の記事はこちら→
中村義洋監督作品「チーム・バチスタの栄光」の記事はこちら→

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本 「ペンギンの憂鬱」

「天気がよければ気分が良くて、曇れば気分が悪いって誰が決めたんだ」
こういう台詞が「エヴァンゲリオン」にあったような気がします。
とはいえ、北欧でも太陽がでない期間では憂鬱症の人が増えるということを聞いたこともありますので、天気と気分というものは関係があるようなものなのでしょう。

この作品「ペンギンの憂鬱」はウクライナの作家、アンドレイ・クルコフの作品です。
主人公ヴィクトルはキエフに暮らす売れない短編小説家で、新聞の死亡記事を書く仕事もしています。
冒頭に「エヴァンゲリオン」の話を出したのには訳があります。
ヴィクトルがいっしょに暮らしているのが、動物園から譲り受けたペンギンのミーシャ。
「エヴァ」のミサトの家で暮らすペンペンを思い出しちゃったわけです。
そしてこのペンギンのミーシャは故郷や仲間たちと離れて暮らしているからか、憂鬱症を患っています。
舞台となるキエフの街は、冬はとても厳しく、ずっと天気が悪い。
そして世情はソ連が崩壊した後のため、先行きが見えず、街全体が陰鬱となり無気力になっています。
ヴィクトルは日々の仕事は順調に進み暮らすだけの収入があるけれど、なんだかずっと先行きの見えない陰鬱な気持ちが拭えません。
ふとした偶然によりいっしょに暮らすようになった少女ソーニャと、ベビーシッターのニーナがいますが、彼女らと暮らしてちょっと幸せを感じることもあり、また多少イライラすることもあります。
そんなちょっと鬱な気分のアップダウンがとてもよくわかる。
僕もちょっと鬱のようになったことがあるので、そのあたりのゆるやかな気分の上下がとても共感できます。

最近はずっと天気が悪かった。
そのためだかなんだかわからないけれど、ちょっと気分が重かった。
今日はとてもいい天気。
これからちょっと散歩にでも出てみようか。
やはりいい天気は気分がいい。
科学的な根拠があるかどうかは知らないけれど、それは確かだ。

「ペンギンの憂鬱」アンドレイ・クルコフ著 新潮社 ソフトカバー ISBN978-4-10-590041-0

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「Little DJ 小さな恋の物語」 後悔したくない

ずっと人間が生きていられるのなら、たぶん「後悔」という言葉は生まれなかっただろう。
人っていうものは終わりがあることに気づいて初めて、できていないことが永遠にできないということに気づき「後悔」をする。

亡くなってしまった結城さんの息子周平は父親にありがとうと言えないまま、父親を失ってしまったことを悔いています。
捨次は20年も前に自分が好きだった女性に想いを伝えられないまま、その女性は亡くなってしまいました。
「失ってしまって初めて気づく」というフレーズは使い古されていますが、真実を表している言葉なんですよね。
二人とも相手に伝えたいと思っていてもそれを叶えることは永遠にできない。
それが「後悔」。
二人がそれぞれに自分の「後悔」を太郎に伝えるところがとてもいい。
親への感謝の気持ち。
好きな人への愛する気持ち。
自分の命が限りがあるということに気づいている太郎は、二人の言葉をしっかりと心に刻んでいる。
気持ちを伝えず「後悔」はしたくない。
気持ちを伝えることはとても気恥ずかしいことであるし、とても勇気のいること。
けれどもそれをしないともっと大きな「後悔」が残ってしまう。
命に限りがあることを知った太郎は「後悔」しないよう、みなに気持ちを伝えようとします。

ここ数日やや気分がダウナーでありました。
時折こういう気分なときがあるのですが、なんだかこんなままじゃいけない感じ、どうもぼんやりと不安な感じになるときがあります。
日々仕事は忙しくも適度に達成感ありますし、土日は趣味など充実している感じはあり、毎週毎週くるくると回っているのですが、ふと何かこのままずっといてしまっていいのだろうかと思ったりもします。
一人で日々の安楽さにかまけてなんとなく生きていないかとふと不安になるのです。
そんなとき、難病ものみたいな悲しい気持ちになりそうな映画を観るのもいかがなものかと思いましたが、この映画、観てよかった気がしています。
大人になったたまきも、ラジオの仕事に関われるようになってそれで日々が忙しいながらも過ぎていって、十分満足でもないけれど、不満もなく過ごしていたんだと思います。
けれどもなんだかこのままでいいのかという不安な気持ちがあったのでしょう。
このままの状態でずっといられるわけではなく、いつか命は終わりがあるということ、それをわかって何かをすること、そういう勇気が必要なのかなと僕も思ったりしました。
先がないというということがわかってから初めて「後悔」するのはやっぱりイヤだなと。
やっぱり何か自分で動かないといけないなと思いました。
そういうことを思わせてくれて、この映画観て良かったなと思ってます。

もともと難病ものはあまり観ないんです。
嫌いとかそういうわけではないのですが、涙もろくてすぐ泣いちゃうので。
けれどもこの映画、永田琴監督だということで観に行きました。
あまり永田監督の長編デビュー作「渋谷区円山町」がけっこう好きなんです。
永田監督は奇をてらったようなところはないのですが、とても女性らしいやさしい感じがするですよね。
なんだかとてもやさしくて観ていて安心してしまう作品を撮られる監督だなあと思います。

永田琴監督作品「渋谷区円山町」の記事はこちら→

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2008年1月26日 (土)

「ヒトラーの贋札」 生き抜くことの行為への誇り

第二次世界大戦、ナチスドイツは「ベルンハルト作戦」を展開しました。
これはイギリスのポンド札、またアメリカのドル札の贋札を作り市場に流通させることにより、連合国側に経済的ダメージを与える作戦です。
そのためにユダヤ人の印刷や銅版画の技術者が集められ、贋札作りを強要されました。
その中の一人が主人公のサリー。
サリーはパスポートや紙幣の偽造を行う贋作師でした。
けれどもたった一回の油断によりナチスに逮捕され、ベルンハルト作戦を指揮しなくてはならなくなります。
贋札が作れなければ、彼らは他のユダヤ人と同じくナチスから見れば、価値のない人として処刑されてしまう。
けれども贋札ができれば、それによりナチスは勝利し、結果的に彼らの今の状況は変わらない。
生き延びようとすれば贋札を作るしかない。
けれども可能な限りそれを遅らせる。
サリーはとても微妙な舵取りが求められる状況にあります。
収容所にはさまざまな人間がいます。
正義感に燃えて贋札製造をこばむブルガー、彼の理想は収容所のユダヤ人を危機に陥れます。
死ぬことを恐れ、贋札作りを達成しようとする他の技術者たち。
彼らそれぞれの思惑があるため、サリーの舵取りは困難を極めます。

サリー自身は感情をあまり表に出さない男です。
そのため彼が何を考えているかわかりにくい。
いわゆる今までの「収容所もの」にあるように理想を高らかに叫んだり、カリスマ性があるようなリーダーではありません。
彼は理想主義者ではない。
サリーの技術を評価し、他の収容所よりも破格の待遇をする親衛隊大佐ヘルツォークが敗戦間際にパスポート偽造を要請すると、サリーは彼と取引するしたたかさを持っています。
理想に殉じるよりは、みっともなくても同胞が共に生き抜いて、生き抜いていくことに意味があると考えているように思えます。
淡々としている彼も、仲間を売ること、自分から死を選ぶことに対しては激しく感情を露にしました。
サボタージュを続けるブルガーを売ろうとした仲間への言葉。
結核に冒されたコーリャを失った時の叫び。
妻や子を収容所で失って自殺をしたロセックを発見したときの無言。

冒頭でサリーは贋札の札束を手にしてモンテカルロのカジノを訪れます。
そこで彼は勝ちに勝って、みるみるうちにチップが溜まっていきます。
彼がそれを見つめそして物語は、戦中のベルンハルト作戦への回想シーンに入っていきます。
そして映画のラストに再び時は戦後のモンテカルロに戻ります。
そこで彼はカジノで得たチップを無意味に賭け、贋札のすべてをわざと失います。
サリーは彼らユダヤ人が生き抜いた証である贋札が、賭け事で簡単に倍増していく様を見て、空しくなったのではないかと思いました。
それでも彼は、生き抜くために同胞が必死になって成し遂げたことに対して誇りは失いませんでした。
カジノで出会った女が「あんなにたくさんのお金を失ってしまって」と言ったことに、
「あんなものはまた作れる」
とサリーが言ったのは、彼らが成し遂げた行為への誇りが言わしめた言葉だったのでしょう。

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2008年1月25日 (金)

本 「図書館革命」

有川浩さんの「図書館戦争」シリーズの完結篇です。
前作「図書館危機」で主人公郁と堂上教官の恋もハッピーエンドに向かいそうな展開であったので、本作ではキャラクターの恋バナよりもどちらかというとこのシリーズのバックグラウンドの設定でもあった「良化法」に関する決着がメインだったような気がします。
「良化法」、正式には「メディア良化法」は言うなれば検閲法みたいなもので、そもそも公序良俗に反し、人権侵害する表現を取り締まる法律でありましたが、その法を執行するメディア良化委員会に武力による超法規的措置も認めていたため、事実上の検閲となっていました。
それが表現の自由に反するという意見もある中、発表された著作物を保管する図書館にも武力をもってその著作物を守る権利が認められました。
それが「図書館の自由法」であり、その法律によって設立されたのが、主人公郁らが所属する図書隊です。
表現の自由や検閲に関する著者の意見は今までの作品の中で語られていたので、結末はそれほど驚くようなものではなく、落ち着くべきところに落ち着いたというところでしょうか。
前作まで図書隊の大きな相手でもあった「未来企画」についての扱いがご都合主義っぽい感じはしましたけれども。
シリーズに決着をつけるという巻であったためか、郁らキャラクターの生き生きした感じというのは今までの作品のほうがあったような気がします。
ちょっと落ち着いてしまったような感じもあって、キャラクター小説的な側面は薄かったかな。
とはいえ、サクサク読めるエンターテイメントには仕上がっていますので、万人向けの小説な気がします。
「図書館内乱」のところで映像化されるんじゃないかと書きましたが、アニメ化が決定したようですね。
I.G.が作るようなので、期待が高まります。

「図書館戦争シリーズ 図書館内乱」の記事はこちら→
「図書館戦争シリーズ 図書館危機」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅰ」の記事はこちら→
図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅱ」の記事はこちら→
アニメ版「図書館戦争」の記事はこちら→

「図書館革命」有川浩著 メディアワークス ハードカバー ISBN978-4-8402-4022-2

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2008年1月20日 (日)

「神童」 「好き」と「才能」

先週「きみにしか聞こえない」に引き続き、成海璃子さんつながりで「神童」を観てみました。
「神童」の方が前に撮ったのかな、中学生役だというのもあって「きみにしか聞こえない」に比べてずいぶん幼く見えますね。

成瀬うた(成海璃子さん)は言葉を覚えるより前に楽譜が読めるようになったというほどに、ピアノに天賦の才能を持つ女子中学生。
亡くなった父親はピアニストで、母親はうたも一流のピアニストに育てようと懸命になっています。
母親はうたの才能を信じ、そのためにレッスンや日々の生活の中もピアノを中心にしています。
うたはそういうことが重荷になったのか、ピアノを弾くことを嫌がるようになります。
菊名和音(松山ケンイチさん)はピアノが好きで音大を目指す学生。
けれども、和音は図抜けた才能はなく、大学の受験さえおぼつかない。
ふとしたことで二人は出会い、うたは和音にピアノを教えます。
和音はピアノがほんとに好きで一生懸命。
彼は「才能」がそれほどあるわけではないけれど、ピアノが「好き」だからがんばる。
うたは彼のそういうところが眩しく見えたのかもしれません。
彼女は「才能」はありますが、自分がピアノを「好き」であるかどうか段々わからなくなってきていました。
うたは大学へ和音を訪ねに行った時、古いピアノに出会います。
何気なく弾き始めたとき、彼女はたぶん久しぶりにピアノを弾いて楽しいと思ったのでしょう。
ピアノがやっぱり「好き」だと思ったのでしょう。
けれどもそんな時、うたは自分が難聴になりかけていくことを自覚します。
せっかくピアノをまた「好き」になれたのに、今度はピアノを弾く「才能」を失っていくかもしれない。
なんとも不安だった気持ちだったでしょう。
和音もうたの微妙な変化に気づきます。
うたがいままで自ら弾こうとしなかったピアノを弾こうとしている、そのことから。
うたがドイツのピアニストから代奏を指名された時、それを受けたのは、残り少なくなるかもしれない音楽との時間を無駄にしたくなかったのかもしれません。
「あたしは音楽だから」
ようやく彼女の音楽への「好き」という気持ちと、その「才能」があった瞬間でありました。
ラストの連弾はなんとなく希望を感じさせてくれました。
根拠ないですが彼女は治る、そしてずっと音楽であり続けてくれると思いました。

上記のような心情がこと細かに説明されている脚本ではありません。
どちらかというと、無駄な台詞を極力削ぎ落としている脚本だと思います。
けれどもうたと和音の心情は伝わってきます。
成海さんと松山さんが台詞の間にある気持ちというのを表現していたからなのでしょうね。

それにしても・・・、うたの同級生の男の子はかわいそう。
一晩つき合ったのに、ね。
中学生の女の子から見ると、同級生の男の子は幼くて仕方ないよね、好きな相手が大学生だったりしたら。
踏み台にされたりして(泣)。
男はつらいよ。

成海璃子さん主演「きみにしか聞こえない」の記事はこちら→
松山ケンイチさん出演「デスノート the last name」の記事はこちら→

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「仮面ライダー電王」 いつか未来で

毎年夏に恒例の映画を公開していた時は、まだ「電王」という物語に乗り切れていませんでした。
けれども夏以降は物語の展開が特急のように早くなり、大団円に向かい電車道を突っ走る勢いに一気にはまってしまいました。

「電王」は史上最弱のライダーと呼ばれていたりもしました。
本作で仮面ライダーに変身するのは、野上良太郎という青年。
ありえないほど運が悪く、運動神経も鈍いというこの青年、確かに仮面ライダーになるベースとしては今まで一番頼りないかもしれません。
けれども彼は今までのライダーの中でも最もやさしいライダーと言ってもいいかと思います。
良太郎には人を思いやる気持ちがある。
記憶を奪われることの悲しみ、また記憶に苦しむ人たちの声が彼には聞こえる。
彼らのために良太郎は戦います。
やさしいことは弱いことではありません。
人を思いやれるやさしい気持ちは、強さです。
良太郎が体力的にとか、運動神経的に弱かったとしても、彼のやさしい気持ちによって彼のためにいっしょに戦う者(モモタロスなどのイマジンたち)が集まってくる。
いっしょに戦う者がいてくれてその力を結集できる、それがやさしさから生み出された本当の強さ。
それが中盤より登場のクライマックスフォームであり、ライナーフォームであるわけです。
イマジンが良太郎に憑依してフォームチェンジすることに最初はライダーらしからぬ違和感を感じていましたが、今思うとこの設定の斬新さと巧妙さに舌を巻きます(すみません、夏の映画の時はこの点を批判していましたが、僕の考えが浅かったようです)。

中盤以降からラストにかけての怒濤の盛り上がりはシリーズ構成をしている小林靖子氏の功績が大きいと思います。
小林氏と言えば仮面ライダーでも「龍騎」でもシリーズ構成をしていました。
こちらの作品でも13人のライダー、ミラーワールドという複雑な設定や、「正義」とは何かというかなり一面的な答えを出しにくいテーマをまとめあげた手腕がある方です。
「電王」については時という複雑なテーマ、多重人格のライダーという複雑な設定のため、シリーズ途中で破綻するのではないかという恐れもありました(最近では「ブレイド」や「響鬼」は途中で方向性変更を余儀なくされています)。
けれども「電王」では多重人格という複雑な設定の中で、それぞれのイマジンを特徴的な台詞回し、エピソードで個性的に表現したことによって、それらのキャラクターが(着ぐるみなのにもかかわらず)ほんとうに彼らが生きている仲間のように思えてくるようになりました。
多重人格を演じ分けた主演の佐藤健さんと、スーツアクターの高岩成二さん、また各イマジンの声を担当した声優の方の功績が大きいのはもちろんです(なかでもクライマックスフォーム時の高岩さんの演技は見事というしかありません)。
「龍騎」でもそうでしたが、最終回に向かい盛り上げ、きちんとまとめあげる構成の上手さも小林氏ならでは。
まさにクライマックスに向かう数話はおもしろかった。
同じように平成ライダーを多く手がけている井上敏樹氏は最後まで話を拡大し、あまりきちんとまとめあげない印象がありますが、小林さんはきっちりと最終回でシリーズのさまざまな謎には決着つけていましたね。
ハナの件は、けっこうびっくりしました。
ハナといえば、白鳥百合子さんの予期せぬ降板は脚本家としては、設定変更などがあり大変だったと思いますが、それもきちんとまとめあげたのもさすがです。
あと小林脚本の特徴的なのは、泣ける話が多いこと。
先にあげた井上氏はエキセントリックなキャラクターを好むのに対し、小林氏はとても普通な人の普通な想いを描くのが上手です。
失いたくない記憶、忘れてしまいたい記憶をかかえている人々。
それぞれの切ない想いがシリーズを通して描かれていたと思います。

「時」というものは人の「記憶」で作られている。
人の「記憶」が失われたときに「時」は消える、と「電王」の世界は設定されています。
僕らの「記憶」には物事の出来事の記憶という側面に加え、その出来事が起こった時の自分の気持ちの記憶という側面があります。
出来事の記録は文書や映像だけでもできる。
けれども人の想いは「記憶」の中に残る。
その想いが「時」をつくる。
その想いが「未来」をつくる。
良太郎にはモモタロスたちと戦ったときの想いが残っている。
彼の中にその想いがあればいつかまたモモタロスたちの巡り会えるかもしれません。
「いつか未来で」

「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!」の記事はこちら→
「劇場版 仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事」の記事はこちら→
「劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」の記事はこちら→
テレビシリーズ「仮面ライダーカブト」の記事はこちら→
テレビシリーズ「仮面ライダーキバ」の記事はこちら→

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本 「暗号解読 -ロゼッタストーンから量子暗号まで-」

けっこう分厚い本でしたが、一気読みしてしまいました。
おもしろいです。
暗号ってスパイ映画等ではよく出てきますが、あまりその理屈ってわかっていないですよね。
わかるのはせいぜい推理小説の中ででてくるパズルみたいな暗号くらい。
けれども現在僕たちは普段の生活から暗号を使っています。
インターネットショッピングなどでカード番号を送ったりするのは、まさにそれであれは暗号化されているから(ブラウザに鍵マークがでていますよね)安心して送れるわけです。
コンピューターの雑誌読んだことがある方は、公開鍵とか聞いたことはないでしょうか。
そのような暗号についてその歴史や仕組みをわかりやすくこの本は解説しています。
暗号というのは、言語学、論理学、数学など高度な知識を駆使して作られています。
そのような現在コンピューターで使われているような高度な暗号の仕組みもさまざまな例えを使って、一般の人でもわかりやすく解説する著者の力はすごいですね。
歴史上繰り広げられてきあ暗号作成者と暗号解読者の知恵比べについても、まるでサスペンスを読んでいるようで、読み始めたら止まりません。
最後は量子論にまで踏み込んだ量子コンピューターの話になりますが、その考え方は今までの暗号の仕組みを一変させます。
こんなことを考えられる数学者の脳みそはどんな構造になっているのでしょうね。

暗号はやや敷居が高い感じをもたれる方も多いかと思いますが、読みやすいですし、読後に知的満足が得られる本になっているので、お薦めです。

暗号解読をテーマにしたSF小説「クリプトノミコン」の記事はこちら→

「暗号解読 -ロゼッタストーンから量子暗号まで-」サイモン・シン著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-539302-1

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2008年1月19日 (土)

「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」 10代の死生観

10代。
あまり死というものにリアリティのある実感は持てない年頃。
平和を謳歌している日本においては、まだ養ってもらえる年齢なので毎日ダラダラとしていても生きていけるし、親もまだ若い。
死というものをつかみきれていない分、生きているということもリアリティを持って実感もできない。
僕も10代ではそうだった。
今でこそ、死というものに何度か接し、年相応に幾ばくかの死に対する意識や考えはあるけれど、10代で死というものに直面したらどう感じただろうか。

「あたしが悲しくなればなるほど、アイツは強くなるんだよ」
絵理の前に突然出現した謎のチェーンソー男。
エンジン音のうなりとともに攻撃してくるチェーンソー男と絵理は戦う。
絵理は突然の交通事故で両親と弟を失った。
先にあげた絵理の台詞からわかるように、チェンソー男は絵理の心の中の絶望のメタファーだ。
チェンソー男と絵理の戦いは、彼女の心の中での「死にたいと願う心」と「生きたいと願う心」の戦いである。
彼女の心の悲しみが大きくなればなるほど、死への願望が強くなる、それに絵理の生への願望が負けそうになったとき陽介に出会った。

陽介は無為に学生生活をおくっている高校生。
自分自身が生きているという実感がもてない、なんだか焦ったりもするが、だからといって行動を起こすほどこともない。
けれども親友の能登の死に直面する。
彼は何か生き急いでいるように見えた。
生き急いでバイクで事故って死んだ。
陽介には、なんだか能登が何かを達成したような感じがしてならなかった。
生きているのか死んでいるのかわからない、何もビジョンもなくダラダラ生活している自分より、能登の方がほんとに生きているような気がしたのだろう。
ダラダラ生きるより、死に花を咲かせたい。
それは彼の独白から感じられる。
「俺は、最高のエンディングを求めていた」

近しい人の死によって、自らも「死」の世界に行きそうになるのを、ギリギリで「生」の世界に踏みとどまっている絵理。
近しい人の死によって、ダラダラとした「生」の世界から、目的のある「死」の世界に憧れる陽介。
それぞれの「生」と「死」のエッヂに立っている二人が出合い、一緒に戦うことによって彼らは「生」というものを感じる。
陽介は絵理がチェーンソー男と繰り広げるギリギリの戦いを見ることにより、彼女が「生」というものに懸命にすがりつこうとしていることを感じる。
絵理は何もできないながらも自分を助けようとする陽介に「生」への希望を感じる。
「生」にはびっくりするようなハラハラするようなことはない。
けれども絶望ばかりがあるわけでもない。
だったらやはり「生き続ける」ということがカッコいいことなのだろう。
生を実感できず、安易に死を選ぶ若者が多いと言われたりもするが、この映画では今の10代の死生観みたいなものが描かれているような気がします。

市原隼人さん主演「神様のパズル」の記事はこちら→
市原隼人さん主演「ぼくたちと駐在さんの700日戦争」の記事はこちら→

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「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」 恐ろしい共生関係

刃物と血が、容赦なかったですね。
僕は痛いのや、血がたくさんのものは苦手なので、観終わってややげんなりと疲れてしまいました。
相変わらずジョニー・デップは、イッてしまっているキャラクターを演じるのはうまいですね。
ほんとに狂っているのではないかと思えるほどの鬼気迫る演技は、彼がふるうカミソリの鋭さも相まって、観ているとなんだかずっと刃物を突きつけられているような緊張感がありました(だから観終わってひどく疲れた)。
ヘレナ・ボナム=カーターもジョニー・デップに負けず劣らず、狂気のある人物を演じていました。
自分を慕い、また自分もかわいいと思っている子供が、自分たちの所行に気づいたとき、容赦なく彼を殺そうとしたラベットの行動にはぞっとしました。

人はある考えに取り憑かれてしまうことがあります。
思いが強ければ強いほど、その考えは人を支配してしまう。
その考え以外のことは見えなくなってしまう、視野狭窄状態に陥ってしまいます。
スウィーニー・トッドも、妻や子供を愛する思い、そして自分にかけられた無実の罪への復讐の思いによって、彼の行動は支配されていきます。
トッドは自分を陥れたターピン判事を殺害しようとします。
けれども初めて人を殺したときから、誰か人を殺害することこそが目的化していきます。
またミセス・ラベットも想いに取り憑かれた人物です。
それはトッドへの想いです。
彼女はトッドに出会い、もしかするとその前から彼に恋をしていた。
彼への想いから、ラベットは彼の陰惨な復讐行動を手助けしていきます。

二人は恐ろしい共生関係になりました。
トッドが理髪店を訪れた人を殺害し、ラベットはその死体の処理を行う。
これは双方にとってメリットのある共生関係でありました。
トッドはいくら人を殺害しても、その死体の処理に困ることはない。
ラベットは店のミートパイの原料供給に悩む必要はなくなるし、愛するトッドと共にずっといられる。
けれどもこれは共生関係であって、協力関係ではありません。
協力関係はなにかしらの目的をお互いに共有し合っている関係です。
けれどもトッドとラベットは同じ夢を見ているわけではありません。
ただいっしょに活動していることが、双方にメリットがあるということだけ。
トッドが夢見るのは、自分たち家族の幸せを破壊したターピン判事への復讐。
ラベットが夢見るのは、トッドとの幸せな暮らし。
それぞれは別の夢を見ているのに、お互いにそうであるということに自覚がない二人。
二人はおのおのの思いが強いがゆえに、他の人の思いには気づかない、視野狭窄に陥っていたのです。
これは二人が歌を歌うシーンで、同じメロディを二人が違う台詞で歌っているところ(字幕ではそれぞれの台詞が併記されていた)からも伝わってきます。
同じ場所にいながらも(同じメロディを歌う)、夢は異なる(台詞が違う)ことが伝わるいい表現でありました。
その同床異夢状態が最後の悲劇を引き起こします。
結局、二人はそれぞれの思いに最後まで目を向けなれなかったわけですね。
それが彼らに悲劇的な結末をもたらします。

ティム・バートンの作品には狂気や怪奇というのはつきものですが、こういう直接的な表現をしたのは珍しいのではないでしょうか。
ラストも救いがまったくない結末でこれも珍しい。
ティム・バートンの作品には異端へのやさしさみたいなものが共通していますが、それもあまり感じられませんでした。
まず、観終わって疲れたというのが正直な感想なのですが、他の方の意見が聞きたい作品です。

ティム・バートン作品「ディム・バートンのコープスブライド」の記事はこちら→

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2008年1月18日 (金)

「銀色のシーズン」 不完全燃焼感が残る

大学1年生のとき、「私をスキーに連れてって」が公開。
その頃の大学生のご多分にもれず、影響されてスキーに行きました。
学生でお金はないので、重い荷物をかついで新宿の高層ビル街発の安ーいバスツアーでがんばって行っていたなあ。
社会人になってからは、仕事終わって金曜日の夜に車で出発、土曜朝からゲレンデにみたいなことも(まさに「私をスキーに連れてって」状態)。
今じゃ絶対できません、若かったなあ。
段々と体力が落ちて、移動手段は車かららくちんな新幹線になり(年を経る毎に駅からすぐのガーラ湯沢比率が増え)、荷物はスキー宅急便で送るとかになってきましたが、とうとう行くのも億劫になって幾歳月。
もうスキーは数年やっていません・・・。

でも・・・、本作観て久しぶりにスキーやりたくなりました。
やはり抜けるような青空でスキーする時の爽快ないい気持ち、久しぶりにあの気分を思い出しました。
そういえば初めてスキーしたのは白馬だったなあ。
いきなりてっぺんに連れて行かれて、必死でボーゲンで降りてきたのを思い出します。

<ここからネタバレありです>

ストーリーははっきり言ってベタベタです。
僕はベタな映画は嫌いじゃないのですが、ベタならベタで思い切り泣かしてくれるとか、ハラハラするとかそういうカタルシスを感じたいところなんですけれども、どうも観ていてはぐらかされてしまう感じがしました。
例えば七海が雪山に迷い、銀が助けにいこうとする場面。
七海も銀もたいへんなことになるだろうと思いきや、あっさり会えるし。
二人がビバークしてなにか気持ちの行き来があるかと思いきや、あっさり麓に降りて七海謝ってるし。
旅館のみなさん文句言わないし。
最後の銀のレースにしても、成功してもよかったかと思うんですよね。
それこそご都合主義!と言われるようなベタな映画になると思いますが、映画的なカタルシスはあると思います。
あそこでああいう展開にしても、根本がベタな映画なのでカタルシスがない分、ちょっと欲求不満になります。
結果的にみんなで拍手なんて、あまりにベタで恥ずかしくなってしまう展開にしてますし。
「あーん」と口を開けさせられて、「おあずけ!」とさせられてしまうみたいな感じでしょうか。
「私をスキーに連れてって」は今観るとたいへん恥ずかしい映画なのですが、それはそれでカタルシスはあるわけで、こういうジャンルの映画で妙に変化つけてもね、という感じがしました。

人は一度転んで傷ついてしまうととても臆病になってしまう。
身体の怪我であっても、心の傷であっても。
臆病になると、足下しか見なかったり、後しか見なかったり、立ち止まったりしてしまう。
銀も七海も裕治もみんな、過去に身体や心に傷を負っています。
目線を遠くに、そうすればいいとわかっていてはいるけれど、それがなかなかできない。
それでも他の人ががんばりながら少しずつ目線をあげてがんばっている姿を見ると、自分でもできるのではないのかと思う。
七海ががんばってスロープを降りきったときに銀はそう感じたでしょうし、銀がレースを終えたときに七海も裕治も同じように感じたと思います。

こういうテーマは嫌いじゃない。
嫌いじゃないから、激しくジーンとさせて欲しかった。
ジーンとなりそうな予感はあったのに、そこまでいかない不完全燃焼感が残りました。

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2008年1月14日 (月)

本 「暗殺者ロレンザッチョ」

先日「ジェシー・ジェイムズの暗殺」を観たとき、ちょうど読んでいたこちらの小説「暗殺者ロレンザッチョ」が同じテーマで驚きました。
扱っている時代が違いますし、作者も日本人ですし、でもテーマは同じ。
そういう偶然ってあるんですね。

この作品舞台となるのはフランス宮廷、時代はルネサンス以降フランソワ一世の治世。
主人公ロレンツィーノは、その時フィレンツェを支配していたメディチ家のアレッサンドロを殺害し、フランスへ逃亡していました。
彼だけが知るアレッサンドロ暗殺の真実を巡り、宮廷内の権力争いが王の愛人、太子妃、太子の愛人の間で繰り広げられます。

「ジェシー・ジェイムズの暗殺」と何が同じだったかというと、主人公ロレンツィーノの人物像がロバートにとても似ていました。
ロレンツィーノはメディチ家の分家に生まれました。
本人は自信も才能がありいずれ成功すると思って育ちました。
けれども成長するに従い、現実が彼の前に立ちはだかります。
メディチ家と言っても分家、権力を握るのはやはりいい家柄に生まれた者たち。
彼の才能も彼が思っているほど人には評価をされない。
彼は周囲にとってどうでもよい存在だったのです。
それは彼の自尊心をひどく傷つけます。
あきらめるには彼の自己顕示欲は肥大しきっていました。
そういうとき、彼はローマがプロテスタントに略奪される様を目撃します。
彼は知りました。
破壊によって自らの名を人の口にあがらせることができることを。
それが自分ができることであるということだと思ったのです。
彼はアレッサンドロを暗殺しました。
フィレンツェの最高権力者が殺されたのです。
一時はロレンツィーノの名も人の口にあがりました。
けれどもそれは次第に薄れていきます。
結局彼はどうでもいい男のままでした。

まさにロレンツィーノは「ジェシー・ジェイムズの暗殺」のロバートそのものであるといっていいでしょう。
自尊心によって罪を犯し、それでも結局は何も報われることのない男。
自尊心や自己顕示欲というのは誰でも持っているものですが、それを肥大化させずどうコントロールするかというのは人の生きる際の課題になります/
たまたま二つの作品で同じようなテーマをみましたが、これは人間に共通する悩みであるために小説や映画が扱ってみたいテーマの一つなんでしょうね。

メディチ家について書かれた本「メディチ家」の記事はこちら→

「暗殺者ロレンザッチョ」藤本ひとみ著 新潮社 文庫 ISBN4-10-123620-8

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「きみにしか聞こえない」 動かなかったオルゴールが再び音を奏でるとき

リョウ(成海璃子さん)は今時には珍しいケータイも持っていない内気な女子高生。
彼女はとてもセンシティブな心の持ち主で、たった一言の言葉でも傷ついてしまう。
みんなが自分のことをいなくてもいい存在だと思っているのではないかと感じている。
臆病だから、もう傷つきたくないと思う。
だから人と交わらない。
けれども、誰かと話したい、誰かに話を聞いてもらいたいと思う気持ちはなくならなかったのでしょう。
そんなとき、公園で拾ったおもちゃのケータイが顔も知らない男の人と繋がる。
電話の相手シンヤ(小出恵介さん)とは、リョウは自然に自分のことを話していける。
彼女ははじめて自分がいていいと言ってくれる人に出会ったと思いました。
鎌倉の浜辺で、リョウが大きな声で自分の想いをテープに吹き込んだ時、彼女は変わりました。

今まで誰も彼女のことを否定していたわけではない。
彼女のことを見ていなかったわけではない。
お父さんもお母さんも妹も、先生も同級生も。
リョウ自身が周りの人に扉を閉ざしていただけ。
少しずつ自信を持って自分から声をかけていけば、みんなはやさしく迎えてくれる。
動かなかったオルゴールが再び音を奏でるように、リョウはピアノを弾く。
想いを口にする。
(ピアノを弾くとき、黙って聞いていたお母さんと妹のシーンは泣けました)。

リョウの心の扉を開いたのはシンヤ。
彼も人と話を聞いてもらいたい、聞きたいという気持ちをずっと持っていたのでしょう。
けれども彼にとってはそれはずっとままらないことだった。
シンヤにとって、リョウとの出合いは奇跡のようなものだったのでしょう。
彼は「修理した道具たちは自分のことを忘れない」と言っていました。
たぶんきっと、リョウも自分の心が再び言葉を発するようにしてくれたシンヤのことを一生忘れないでしょう。

時と場所が離れた二人のやり取りは「イルマーレ」を思い出させました。
「イルマーレ」は2年の差でやり取りは手紙、「きみにしか聞こえない」は1時間の差でケータイ。
「イルマーレ」も時間差と手紙という手段をうまく活かしたお話でしたが、本作でも負けずこのあたりの道具立ての使い方は上手でした。
最後の横浜駅の待ち合わせのシーンはドキドキと切なかったです。
リョウがシンヤを想う気持ち、シンヤがリョウを想う気持ちがひしひしと伝わってきました。
片瀬那奈さんの役もポイントで聞いていましたね。

成海璃子さんが出演する映画は初めて観るけれど(「TRICK」では仲間由紀恵さんの子供の頃を演じていたということ。まったく記憶がないが)、とても清楚な感じでかわいいですね。
1992年生まれということですが、大人っぽいのかな。
テレビで放送中の「ハチミツとクローバー」では大学生役ですからねー。
でもはぐちゃんは大学生に見えない役だからいいのか。
演技も上手だったのではないでしょうか。
はじめの臆病な頃は視線を誰とも合わせようとせず下ばかりうつむき、そしてシンヤと出合い変わり始めたリョウは前を向き表情がどんどん明るくなっていく。
そしてシンヤを失ったときの哀しさ、そして前向きに生きようとする様子が表情からも伝わってきました。
こんど「神童」も見てみようかな。

成海璃子さん主演「神童」の記事はこちら→

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本 「核武装論 -当たり前の話をしようではないか-」

読みづらい本ではあります。
次から次へと知らない言葉は出てきますし。
それもそのはず著者の西部邁氏は「朝まで生テレビ」に出てた時もとても話がわかりにくかった覚えがあります。
とても頭が良くて知識があるのはわかりますが、それがとても鼻につく。
もう少しわかりやすく伝えようとできないものか(お前の頭が悪いんだということになるかもしれませんが)。

そんなことはさておき・・・。
西部氏が書いているように、日本の核武装化について、今までの日本はあまりに真剣に考えていなかったように思います。
真剣に、と言うとそうでないと言われる方もいるかもしれないけれど、それは深く考えていなかったと言い換えてもかまわない。
核武装するべきかどうか西部氏の主張はここでは書かないし、僕の意見も書きません。
この本の主張していることで大事なのは、この課題に対して議論が足りないということだと思います。
冷静に論理的に考えて、日本が核を保有したとき、またはしなかった時に予想されるメリット・デメリットは何なのかということを深い議論がなされているかというと、そうはなっていない。
確かに日本は広島・長崎で被爆体験がある国であるため、核武装化に対して感情的な抵抗はあると思います。
僕だって日本が核爆弾を持つと言ったら感情的にはいい気分はしません。
けれども感情だけで決めていいのでしょうか。
感情に加えて、冷静な思考も必要だと思います。
アメリカは本当に日本を守るのか。
核の傘は本当に有効なのか。
日本が核を持ったら周囲の国はどう反応するのか。
核を持つ周辺諸国に対して、核を持たずに日本という国を守ることができるのか。
核を世界的に管理することは可能なのか。
考えなければいけない、論議しなくてはいけない課題はいくつもあるのです。
今まではこれらをずっと棚上げにしてきました。
問題の先送りをしていたと言っていいかと思います。
これらを議論し始めたら、さまざまな意見が出て紛糾するのは見えています。
けれどそれだからといってずっと避けていていいのでしょうか。
世界的にみても、日本という国はとても幼い国のように思われていると思います。
難しい問題を「あとであとで」と先送りにしている。
まるで夏休みの小学生のようです。
でも夏休みはいつか終わります。
8/31日に慌てて答えを出そうとしても遅いのです。
「当たり前の話をしようではないか」という西部氏がつけた副題にこそ、意味があると思います。
核武装問題以外についても、本質的な議論ができていない課題が日本にはいくつもあります。
そういう議論ができないということこそ、この国の問題なのだと感じました。

「核武装論 -当たり前の話をしようではないか-」西部邁著 講談社 新書 ISBN978-4-06-149884-6

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2008年1月13日 (日)

「ジェシー・ジェームズの暗殺」 なぜ彼はジェシー・ジェームズを殺したのか

なぜロバート・フォードはジェシー・ジェームズを殺したのか。

まずは被害者である殺されたジェシー・ジェームズはどのような男であったのか見てみよう。
南北戦争後、兄フランクとともにジェシーは銀行強盗や列車強盗を繰り返していた。
強盗でありながらも、ジェームズ兄弟は物語にされ、人々の間で彼らは生ける伝説となっていく。
ジェシーに憧れ、次々と彼らの仲間に若者が加わってくる。
後にジェシーの殺害者となるロバートもその一人。
物語の前半、僕はこのジェシーという男の人物像をつかみとれず少々イライラしながら観ていた。
ジェシーはカリスマ性のあるヒーローであった。
けれども得体が知れない男でもあった。
とても親しげに話す陽気な側面もある。
けれども次の瞬間に人を冷徹に殺してしまう側面もある。
妻や子供を心底愛している良き夫である側面もある。
仲間であっても、その目には人を信じている光はない。
さまざまな側面を持つ男、ジェシー・ジェイムズ。
物語が進まないイライラ感がつのる中盤に、ふとこの男が何者なのかわからない不安感は、ジェシーの周りにいる人間、ロバート、ディック、ウッド、チャーリー、エドそれぞれが彼に感じていた気持ちそのものであるのではないかと思い至った。
彼らにとってのヒーローであるジェシーは、本当に自分を信じているのかわからない。
いつどうなるか殺されるかわからない、裏切られるかわからない。
信じたいが、信じられない。
尊敬するが、恐ろしい。
そういう相反する不安な気持ちを彼らはジェシーに持っていたのだろう。

ジェシーも実は不安な気持ちを持ち続けた男だったのだろうと思う。
仲間たちにいつ裏切られるかわからない。
信じられない。
ずっとそんな自分でもどうしようもない疑心暗鬼に苛まれていたのが、ジェシー・ジェイムズという男だったのではないかと思う。

次にジェシーの殺害者、ロバートについて見てみる。
ロバートは若者特有の自尊心に溢れている。
彼は自分が「たいしたヤツ」だと思っていて、そして他の人間にもそう認められたいと思う。
彼がなりたいイメージを実現している男こそが、ジェシー・ジェイムズであり、ロバートは彼に自己を投射する。
ロバートはジェシーの仕草や何やらすべてのマネをする。
そうすれば彼のようになれるかと思っているように。
けれども実際のロバートはジェシーのようなタフネスでもない。
というよりも虚栄心だけの臆病な男なのだ。
周囲もジェシーもロバート自身が思っているほど、彼を評価していない。
認められない悔しさと、ジェシーへの憧れと恐怖感という相反する感情が、ロバートの中で混じり合い沈殿していく。
引き金を引いた瞬間だけ、彼は英雄になった。
と彼は思った。
けれども所詮彼は虚栄心が強い男であるだけであった。
そのような男を世間が認めることはなかったのだ。

ジェシーが殺害される場面。
僕はジェシーは自殺したのだと思った。
ジェシーは自分でもコントロールできない周囲に対する猜疑心に疲れきっていたのはないかと思う。
疑心暗鬼により元々の仲間たちを殺していく。
一瞬は安らかになるかもしれないが、すぐに不安になっていく。
また周囲を疑い始める。
そんな猜疑心のサイクルからジェシーは解放されたかったのではないか。
はじめはロバートを追い込みしっぽを出させて、いままで仲間たちを処刑したのと同じように彼を殺すつもりだったのだろう。
けれどもジェシーはロバートが臆病な男であることに気づいていた。
臆病者は追い込まれるとなにをするかわからないことも知っていた。
ジェシーはあのとき、ふとこれで楽になれると思ったのではないか。
そして拳銃を置き、わざと背を向けた。
今まで数々の裏切りを生き抜いてきた男であるジェシーがあのような隙を見せることは考えられない。
あれはジェシーがわざとロバートに撃たせるために作った隙なのだ。

なぜロバートはジェシー・ジェイムズを殺したのか。
殺したのではない。
殺させられたのだ。
ロバートはジェシーによって自殺の片棒を担がされたのだ。
そして結果的にロバートもジェシーの信望者に殺害される。

二人の男を殺したのは、己を蝕んだ疑いの心であったのだろう。
猜疑心と虚栄心は人を殺す。

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「アース」 太陽と、水と、生きものと

カメラとともに僕たちは北極から赤道を越え、そして南極まで旅をする。
その旅で感じるのは、地球という僕たち生きものを育む星がとてもダイナミックであり、そしてとても繊細であること。
目もくらむような高さの崖から流れ落ちる瀑布。
見渡す限り果てしなく広がる氷原や砂漠。
乾期から雨期になり一変して水が溢れるアフリカの草原。
それらは太陽からの距離や地軸の傾きがほんの少しでも違っていたら、こうはならなかった。
今このような姿であるのはほんとに偶然でしかない。

また地球に暮らす生命というものがとてもタフである、と同時にとても脆い存在であることも感じる。
長い冬をずっと巣ごもりして耐えるホッキョクグマ。
水を求めて何百キロと旅をするアフリカ象。
風に翻弄されながらも世界最高峰を越えるアネハヅル。
彼らは厳しい自然を生き抜くタフな力を持っている。
けれども脆い存在でもある。
太陽の光がちょっと遮られるだけ、気温が少し上がるだけでも、彼らの暮らす環境は激変し、生きていくことができなくなってしまうのだ。

生命は音に溢れる。
生命は色に溢れる。
鳥の鳴き声、木々のざわめき・・・。
季節の移ろいで変化する葉の色、熱帯雨林の華やかな鳥たち。
北極から赤道へ向かい旅をするに従い、生命の奏でる音はより多く豊かに、生命が彩る色はより多彩になっていく。
それらの音や色は、ひとつひとつの生命が織りなすことによって生まれている。

自然の造形は美しい。
人間の誰かが作ったわけではない。
けれどもなぜか美しく感じる。
人を寄せ付けないような高峰であっても、生命にとっては厳しい砂漠の稜線でさえも滑らかで美しい。

自然も、生命もひとつだけでは存在しない。
すべてのことが関わりあって存在している。
太陽の輝きが、一筋の水の流れが、生きものの営みが。
地球は大きい。
人間がやらなければいけないという使命感を持つのは、不遜な気もする。
けれども人も大きな関わりの中の、一つだと思えば、何かできるような気もする。

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2008年1月12日 (土)

「のだめカンタービレ inヨーロッパ」 見所はやはりヨーロッパロケ

一昨年放映された月9ドラマ「のだめカンタービレ」のスペシャル版です。
月9の時はのだめと千秋がヨーロッパに旅立つところで終了しましたが、今回のスペシャル版ではその後の二人が描かれています。
現在も原作は続いていますが、基本的にドラマは原作に忠実に展開していきます。
第一夜は千秋の指揮者コンクール、第二夜はのだめのリサイタルが話の中心になり、また二人の距離が離れたり近づいたりするところが横軸になります。

見所といったら、まずはヨーロッパでのロケでしょう。
多分、のだめと千秋の屋外シーンはほとんどロケですよね。
映画ならまだしも、スペシャル版とはいえテレビドラマでこれだけ海外ロケをしているなんて、なんて贅沢。
一度だけパリは行ったことがありますが、自分が見た名所に千秋やのだめがいるのを観るのはなんだか感慨深かったです。
クリスマスの街の中を千秋が歩くシーンがありましたが、これは昨年末に撮影したんですよね。
クリスマスに撮影し、編集して、年初にオンエア。
監督、スタッフは年末年始返上だったのでしょう。
お疲れさまでございます。
ヨーロッパでのコンサート、リサイタルの会場もヨーロッパでのロケですよね。
月9の時にサントリーホールでのコンサートシーンも凄いなと思いましたが、さすがヨーロッパのホールはまた風格が違う。
そのあたりも画面から伝わってきました。

あと見所はキャストですね。
もともと月9のドラマの時から、原作のキャラクターのイメージを損なわずにキャスティングしていると思いますが、ヨーロッパ篇から登場するキャラクターもいいキャスティングだったと思います。
原作に登場する、のだめ&千秋の下宿先にいる学生、フランク(フランス人)とターニャ(ロシア人)はキャストはどうするのかなーと思っていたら、ウエンツ瑛士さんとベッキーさんでした。
見た目外人だし、日本語うまいし、なるほどなキャスティング。
中国人の美人ピアニストの孫Ruiを山田優さん、小柄な日本人指揮者片平を石井正則さんというのも原作のイメージぴったり。
原作でも印象的だった片平のジャンプしながら指揮をする様子というのは、なかなか見物です。

月9の時も原作に忠実に漫画的な表現が取り入れられてましたが、パリの橋の上でののだめと千秋のケンカがあまりに原作通りで笑えました。
よくぞあそこまで原作に忠実に表現できますよね。
画面の展開のテンポもほんとに漫画を読んでいるように小気味よくて、すばらしい。
作っているスタッフが原作の漫画が好きなんでしょうね。
そういうのが伝わってきます。

また漫画を最初から読み直そうかなー。
何度読んでも楽しめるのが「のだめ」の魅力です。

月9ドラマ「のだめカンタービレ」の記事はこちら→
映画「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」の記事はこちら→
アニメ版「のだめカンタービレ」の記事はこちら→

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本 「月に繭 地には果実」

この作品は「亡国のイージス」「終戦のローレライ」等が代表作である福井晴敏氏による、アニメーション「∀ガンダム」のノベライズです。
僕はファーストガンダムの再放送で夢中になった世代です(いわゆるガンプラ世代)。
でも「Zガンダム」「ZZガンダム」までは観ていましたが、それ以降の「ガンダム」と名がつく作品は未見です。
ちょうどアニメ離れする年頃だったのと、あまりにもファーストガンダムから離れた世界観についていけなくなったのかもしれません。
アニメーションの「∀ガンダム」についてはシド・ミードがデザインしたということ、どうもファーストガンダムと繋がった話であるということはなんとなく知っていましたが、未見です。
好きな作家である福井晴敏さんがノベライズを手がけていることも知っていましたが、どうもノベライズというものには食指が動かずずっと手を出さなかったのです。
どうもノベライズ作品というのは、映画やテレビをなぞっていくだけであってあまりおもしろくない印象があります。
特にアクション重視の作品の場合はどうしても映像にはかないませんし、もともとのオリジナルストーリーが決まっている分、書いている作家の個性は出にくいと思います(ノベライズを手がけている作家はあまり一流の方が書いているというわけではないということもありますが)。
けれども本作「月に繭 地には果実」ですが、読んでみるとノベライズにも関わらず福井氏らしい個性が出ているように思い、ちょっと驚きました。
また「∀ガンダム」という物語にはファーストガンダムにも似た臭いがします。
「∀ガンダム」はファーストガンダムの富野由悠季さんが監督しているということもあるでしょうが、よく考えてみると福井氏の作品はそもそもファーストガンダムの影響がベースにあるといっていいのかもしれないと思いました。
福井氏は1968年生まれ。
まさに僕と同じ年で、ファーストガンダムの影響を受けたのは間違いありません。
福井氏がインタビュー等でファーストガンダムの話をしていたのを読んだこともあります。
福井氏の作品には似たようなタイプのキャラクターが登場し、彼らはファーストガンダムのキャラクターの面影を感じさせます。
例えば・・・。
○理想を追い求め、けれども現実の壁にぶつかり、それを強硬手段を持ってしてでも破壊し理想を現実にしようとする青年。
 福井氏作品では「終戦のローレライ」では浅倉大佐、「亡国のイージス」ではホ・ヨンファがこれにあたります。
 これはガンダムのキャラクターではシャアの面影を感じさせる人物になります。
 「月に繭 地には果実」ではグエンに相当するのでしょう。
○通常の人間の力を越えた能力を持ち、それを体制に利用されるが、そのくびきから逃れようとする若者。
彼らは理想ではなく、身近な愛する人を助けたいという気持ちで戦います。
 「終戦のローレライ」ではパウラ(と折笠)、「亡国のイージス」では如月行でしょう。
 ガンダムでは言うまでもなく、アムロですね。
 そして「月に繭 地には果実」では主人公ロランにあたります。
(脱線ですが、「終戦のローレライ」の「ローレライシステム」は、ガンダムのサイコミュに似ていますね)
他にもファーストガンダム、福井氏の作品、そして「∀ガンダム」には共通する要素をもったキャラクターが多いような気がします。
なので先に書いた「∀ガンダム」のノベライズであるにもかかわらず「月に繭 地には果実」が福井氏らしい個性があるというのは当たり前といえば当たり前なのです。
そもそも福井氏の作品のDNAにはガンダムが流れているのですから。

福井晴敏さんは現在ファーストガンダムに続く作品を執筆中だそうですね。
同じ世代としては福井氏がどのように宇宙世紀に決着をつけるのか楽しみです。

「月に繭 地には果実<上>」福井晴敏著 幻冬舍 文庫 ISBN4-344-40152-2
「月に繭 地には果実<中>」福井晴敏著 幻冬舍 文庫 ISBN4-344-40153-0
「月に繭 地には果実<下>」福井晴敏著 幻冬舍 文庫 ISBN4-344-40154-9

福井晴敏氏原作映画「ローレライ」の記事はこちら→
福井晴敏氏原作映画「亡国のイージス」の記事はこちら→

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2008年1月11日 (金)

「迷子の警察音楽隊」 「理解」を越え「共感」へ

人間は概念(モデル)化して思考する生きものです。
概念化し思考できる能力により、人間は世界を体型だてて認識できるようになったとも言えます。
けれどもその概念化思考力により、人はその概念に思考を制約されることにもなります。
モデル(型)というものはある集団をわかりやすく説明できるものであるだけのものにも関わらず、その集団に属する個別の事象を説明できるものだと考えてしまいがちです。
例えば国民性についても。
これは「ペルセポリス」の記事のところでも書きましたが、とかく○○人はこんな人間と型にはめて考えてしまうわけです。
これは本作「迷子の警察音楽隊」や「ペルセポリス」を観たり、最近経験したことから、自戒を含めて思ったことです。

隣国イスラエルにやってきたエジプトの警察音楽隊。
彼らはちょっとした間違いで見知らぬ街に迷いこみ、そこでイスラエルの田舎で暮らす人々に出会います。
エジプトとイスラエルは中東戦争で激しく対立し、その後平和条約を結びました。
けれどもエジプト以外のアラブ諸国はイスラエルとまだ緊張関係にあります。
そのため映画を観る前は、この映画では異なる民族に属する人たちの間での相互認識不足と相互理解といったようなことが描かれるのかと思っていました。
柔らかい「バベル」のような印象の映画になるかと思っていました。
けれども観てみるとこの映画で描かれていることは、予想していたのとちょっと違う。
この映画で描かれているのは「理解」というより、「共感」のような感じがしました。
先に僕が書いた「理解」というのは、考えてみると概念としての納得ということなのでしょう。
つまりこの「理解」というのは相手の民族の歴史や価値というのを尊敬し、尊重するということ。
これはとても大切なことです。
けれどもこれはある種、理性での納得ということになると思います。
「迷子の警察音楽隊」で描かれいるのが「共感」と書いたのは、この物語にでてくる登場人物はエジプト人であり、イスラエル人であるのですが、このふとした偶然で出会った人々は二つの民族の間にあるであろう壁というのは最初から越えています。
妻や子を失ってしまったことへの後悔をひきずるエジプトの音楽隊の隊長と、ずっと独りでいることの寂しさをかかえるイスラエル人女性。
女の子へのアプローチが苦手なイスラエル人男性と、ナンパな二枚目エジプト人青年。
自信がなさそうな音楽隊副隊長と無職で肩身の狭いイスラエル人の夫。
彼らの間にあった心の交流というのは、エジプト人だからイスラエル人だからというのはまったく関係なく、お互いにそれぞれの持つ感情に「共感」しているということなのだと思います。
つまり相手の民族を尊重するというよう理性で納得することよりも、お互いに個々に感情を持つ人間だと感じることというのは、たやすく民族の壁を越えることができるのだなと感じました。

この記事の最初に「自戒をこめて」と書いたのは、最近経験したことによります。
正月明けにすぐ仕事で中国に行きました。
ビジネス上中国人という民族のイメージは、「油断できない」「金にうるさい」「誠実さがない」といったようなものがありました。
確かに対中国でのビジネスでは上記のようなことというのは、ある側面ではその通りであります。
日系企業が中国で苦労しているのはそういうことによるところも多いかと思います。
ただだからといってそのイメージによって、個々の中国人がそういう人物であると思ってはいけないのですよね。
今回仕事で出会った中国人の方というのは、とても誠実であり親切でありました。
仕事のこと、会社のこと、家族のことなどを、一人の人間として考え感じている、当たり前の個人であるのだなと思ったのです。
ある種、僕の中であった概念上の中国人という色眼鏡で知らぬ間に彼らを見ていたということに気づきました。
もしかするとこんなことは他の方には自明のことなのかもしれません。
けれどもそんな経験や、またこの映画を観ることで何かを感じました。
民族や国という概念は「理解」するのに大切なことですが、別の視点で個人として「共感」することも大事なような気がします。

終わりに。
いわゆるアメリカのハリウッド映画というのは、敵味方が分かれている明快なわかりやすさがあると思います。
けれどもその分かりやすさには簡単な概念でしか考えられない「幼さ」があるような気もします。
「ペルセポリス」にせよ、本作にせよ、制作はフランスなのですが、このような視点の映画を作れるということはアメリカとは違うヨーロッパの「成熟さ」も感じました。

「ペルセポリス」の記事はこちら→

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2008年1月 4日 (金)

「カンナさん大成功です!」 内面か、外面かそれは永遠の悩み事

人間はやはり内面だよねっ!とみんな言いつつも、雑誌やテレビなどではいい女ランキングやいい男ランキングなんていうものがなくなることはありません。
人は内面か外面か、これはいつもみんなの永遠の悩み事。

好きな人には自分を少しでもよく見せたいと思うのはとても自然な心理。
相手に気に入られるように、気に入られるように振る舞ってしまうのもとってもよくわかる。
けれどもそうするとなんだか自分でないような気もしてくる。
気に入られるように演じている自分だけ見せていると、相手を騙しているような気もしてくるし、演じているようでだんだん疲れてもくる。
誰かに愛される時、自分のすべてを愛してもらいたいと思うだろう。
外面だけでもなく、内面だけでもなく、自分の存在自体を愛してもらいたいと思うだろう。
そのためには、たぶんどこかで、たぶんいつか、相手に自分をさらけ出さなければいけない時がくる。
それはとても怖い。
相手が自分の外面、自分が演じていた姿を愛していたとわかるのが怖い。
隠し続けているのもとても怖い。
騙されたと言われるのが怖いから。
こういうのは程度の差こそあれ、誰でも少なからず感じることだと思います。

以前コメディーというのは人生の悩みやテーマを笑いに包んで表現できると書いたことがあるのですが、この作品はまさにそうでした。
笑いと泣きがちょうどいいバランスで入っていて、人生の悩みみたいなのも深刻すぎずにスッと心の中に入ってきます。
上に書いたようなほとんどの人がなにかしら感じることがあるであろうこういうテーマを、本作では整形と芸能人という二つのことで表現しています。
この映画で描かれる整形は今までの自分と異なる自分になること。
というよりも今までの自分を消し去り、まったく別の存在になること。
カンナは今までの自分を否定し、別の自分ジェニーとなります。
得るものもあるが、失うこともあることにカンナは気づかない。
整形しようと決心するとき彼女は失うことを自分が持っているということに気づいていない。
そして芸能人というのも、異なる自分になるということ。
劇中他のタレントのマネージャーが「コンセプトは何か?」と問う場面がありますが、まさにコンセプトに基づいたキャラクターを演じるのが芸能人であるわけです。
「自分が何者であるかわからなくなった」とカンナは最後に言います。
整形と芸能人と二重に演じることにより彼女は自分の中の何が愛されているのか、それとも本当に愛されているのかということがわからなくなってしまったのですよね。
皆に告白したことにより、カンナは自分自身になることができました。
昔のカンナに戻ったわけではありません。
ジェニーのままでもありません。
カンナを捨てることに決めた自分、ジェニーを演じていた自分、そのすべてを含めて自分だと認めることができた新しいカンナになれたんですよね。
だからこそ最後のカンナは堂々として見えるんですよね。

ちなみにコメディの部分では、タクシーの運転手さんのおでこに血がタラーが妙にツボにはまってしまい、笑いをこらえるのに必死でした。

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2008年1月 3日 (木)

本 「火星縦断」

先日「火星夜想曲」で火星を舞台にしたSFが好きと書きましたが、この作品も火星を舞台にしています。
「火星夜想曲」がさまざまなSFガジェットを詰め込んだなんでもありのSFだとしたら、こちらの作品は実際の火星の知見、惑星探査の科学技術に準拠したハードSFですね。
現代版の「火星の砂」といったところでしょうか。
著者のジェフリー・A・ランディスはNASAの技術者ということでそれも納得です。

火星に第3次火星探査隊が訪れた。
前の二度の火星探査は失敗に終わり、全員が死亡している。
今度の探査が失敗してしまえば、宇宙開発に消極的な意見に押され、火星探査は頓挫してしまうという状況。
けれども第3次探査隊も技術的なトラブルに見舞われ、計画通りに脱出できなくなってしまった。
彼らがいるのは火星の南半球。
地球に帰還するためには全滅した第1次探査隊が残した宇宙船を使用するしかない。
けれども第1次探査隊の着陸地点は北極、脱出するために彼らは火星を縦断することになった。
とこういうストーリー。

技術者が書いているだけあって技術的な考察はしっかりしているように見える。
SF的にはそれらも楽しめるのが、面白かったのは北極への旅路の中で挟み込まれる第3次探査隊メンバーの過去のエピソード。
これらによって彼らの現在の行動、言動の理由が明らかになっていく。
フラッシュバックのように挟み込まれる過去のエピソードは、まるでアメリカのテレビドラマ「LOST」のよう。
北極にある宇宙船の定員は2名、そして生存者は5名。
誰が帰還できるのか、このあたりもなかなか読み応えあります。

「火星縦断」ジェフリー・A・ランディス著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011562-1

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「燃えよドラゴン」 子供の頃観ていたら絶対マネする

何やら突然古い映画について書いておりますが・・・。
昨日「ペルセポリス」を観たのですが、主人公マルジが子供の頃、ブルース・リーに影響を受けていたのを見て(アチョーとかやってましたね)、そういえばブルース・リーの映画ってまともに観たことがないなあと思い、初めて観てみました。
子供の頃、アクション映画を観始めた時はジャッキー・チェンの時代。
ブルース・リーは既に故人でありました。
カンフーと言ったら僕にとってはジャッキーだったわけで、ブルース・リーは昔の人というイメージでした。
この映画が製作されたのは1973年、僕はまだ小学校あがる前だったわけです。
映画や漫画、アニメそしてゲームなど東西を問わず影響を受けた作品は数知れないわけで、それらの作品を通じてブルース・リーについての知識はありましたけれども、今回初体験。

ストーリーとしては香港の謎の男ハンが催す武術大会にリーが侵入し、その組織の持つ秘密を暴きだすというお話。
その後いくつも同じようなストーリーの映画が作られているので、おなじみの流れです。
映画を観ていて、なんといってもブルース・リーの形相のもの凄さ、放つオーラに圧倒されます。
ブルブルと打ち振るえ、筋肉に血管が浮き出すほどの力と気合いの入れ方。
そして繰り出される必殺の一撃。
目にも留まらぬスピードでヒュンヒュンとヌンチャクを振り回す姿、裏拳をかましてポーズを決める姿はやはりカッコいい。
敵役(最後に戦うボス、ハンなど)や周りの拳法家はそれほど上手に見えないので、余計にブルース・リーのオーラが目立ちます。
実際に截拳道の道場を開いていた武道家としての側面を持つブルース・リーですから、やはり並の人ではかないません。
リー以降ジャッキー等のトリッキーなアクション、そしてCGやワイヤーを使ったアクションを見慣れているため、この映画のアクションは今観ると全体的に地味には見えます。
それでもブルース・リーの全身から発せられるエネルギーみたいなものは感じますね。
ワイヤーアクションは誰でも華麗なアクションができるようにしましたが、やはりブルース・リーのアクションを観ると鍛え抜かれた人しか達せないところの迫力みたいなものは伝わってきます。

幾多の人に物まねをされていた、あの怪鳥声(アチョーね)とか、軽く踏むステップなどを観ると、おおっこれか!と変な感激をしてしまいました。
子供の頃に観ていたら、絶対マルジのようにマネをしていたことでしょう。

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「ULTRASEVEN X」 薄ーいアメリカンコーヒーのよう

「ウルトラセブン」の40周年記念作品。
僕はまさにウルトラマン世代と言っていい。
さすがに「ウルトラセブン」の本放送は観ていないですが、その後の第3次ウルトラブームのころはちょうど小学生だったこともあり、食い入るように(ビデオなんてなかったので)観ていました。
そして大学生の頃、映画の知識もついて大人の視点で改めて「ウルトラセブン」を観てみると、これがまたテーマ性もあり、映像的にも凝っていておもしろい。
「ウルトラセブン」は自分の中で特別な作品と言っていいかもしれません。

記念作品である本作、ハードな設定で大人向けに作られるということで期待しておりました。
今回の舞台となるのは僕たちの住む地球ではない。
情報が政府によってコントロールされている管理社会。
そしてその社会を守るために陰ながら戦うのが”エージェント”、赤い巨人=ウルトラセブンに変身するジンもそのエージェントの一人です。

正直言って今回の「ULTRASEVEN X」はおもしろくなかった。
人々を知らぬ間に管理している社会、その正当性を信じて戦っている主人公。
そしてその管理者の陰謀に気づき、戦いを挑むという流れは、今まで幾多も作られてきた「ディストピア」ものをなぞっているようにしか思えない。
別にこのような物語がいけないと言っているわけではないのですが、何故「ウルトラセブン」でやるのかというのがわからない。
最終回にオリジナルとのリンクが明らかにされるが、これも取ってつけたような設定。
オリジナルで名作とされているのはセブンが守ろうとしている地球人の正当性が疑わしくなったとき、地球に対して部外者であるセブンの葛藤などが感じられる回だったりする(「ノンマルトの使者」など)。
何故戦うのかと戦うことが正義であるのかというテーマを、本作「ULTRASEVEN X」でも追っているように感じなくもないのだが、いかんせん未消化な感じがしてしまう。
また基本的にウルトラセブンである限り、怪獣や星人との戦いというのは避けて通れない。
どうも低予算であったためか、このあたりがえらく端折られている。
故に見所少なく、淡々と物語が終わる。
クールと言えば聞こえがいいが、薄いアメリカンコーヒーを飲まされている感じがする。
オリジナルのセブンでも戦いがほとんどない回もあるのだが、そちらは物語がえらく濃密なのでもの足りなさは感じない。
この物語を描くにはセブンが登場する必要はほとんどない。
なんとなく注目を集めるためにセブンを担ぎだしたように思えてならない。
「仮面ライダー」シリーズが、仮面ライダーというフォーマットを解釈しつつ、新たな要素を加え発展進化しているのに比べ、「ウルトラマン」は過去の遺産で喰っているような気がする(「メビウス」なんかは最たる例だが、これはそれが明確なのでよい)。
円谷プロも買収されてしまったので、今後「ウルトラマン」という偉大な作品がどのようになっていくか心配でもあります。

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2008年1月 2日 (水)

「ペルセポリス」 まずは知ることから・・・

ちょっと前にNHKのニュースで紹介されていて観に行きたくなりました。

僕がイランという国について知っていること。
イラン革命でイスラム教シーア派ホメイニ師を中心に、王政を倒したこと。
それから厳格なイスラム原理主義に基づいた政治が行われていること。
アメリカからテロ国家と名指しされているということ。
驚くほど知らない。
この映画の中で主人公マルジの祖母が日本の映画のことを切腹してるか、怪獣が出てくるかしかないと言っていてその程度しか日本のこと知らないんだと思いましたが、考えてみたら僕も彼らのことをよく知らない。
映画も観たことあるのは「オフサイド・ガールズ」くらいですし。

この映画を観ると、近代のイラン史がよくわかる。
西洋の圧力を受け、近代化を目指していたシャーの時代。
富は王に近い人々ばかりに集まっていく。
王政に反対するコミュニスト等は容赦なく投獄されていた。
民衆の不満は高まり、そしてイラン革命が起こる。
民衆は自由になったと思ったが、次第にイスラム原理主義により、以前よりも自由が束縛されていく。
また革命に危機感を持ったイラクがイランに戦争を仕掛け、イラン・イラク戦争が勃発する。
イスラム革命の拡大を恐れ、当時アメリカはイラクを支援していたことはよく知られている。

こんなイラン史とその時代を生きるマルジとその家族を観ていたら、なんだか既視感を感じた。
ああ、日本の近代史に似ているなと。
イスラム革命後のイランは原理主義者によって国民生活がかなり束縛されている。
政府や宗教について反対意見を言うことは許されない。
西洋的なものも厳しく統制され、市民の楽しみですら背徳的だと規制される。
女性が女性らしくお洒落することすらできない、とても息苦しい状況。
これは日本の戦前、戦中の状況に似ている。
天皇を神と祀り、すべてお国のためと言われてる状況。
とても似ている。
日本は戦争に負けたため、曲がりなりにも今のような民主主義国家になっているけれども、もしかするとイランのような息苦しい生活を続けていたかもしれないのだなと思いました。
イランというとテロ国家というイメージでとても異質なもののように思いますが、まかり間違うと日本もそうなっていたかもしれないわけです。
そう考えると、彼らの国を異質なものと捉えるだけではいけないような気がしました。

もう一つ、当たり前のことですが、気づかされたことがあります。
あまり知らない国についてはどうしても情報が少ないためイメージが貧弱になります。
イランで言えば、テロ国家という単純な図式ですね。
さらに極端に言うとイラン人というとみんなテロリストみたいなイメージになってしまいます。
でも当たり前ですが、みんながテロリストっていうわけでは決してない。
日本人だってみんながエコノミックアニマルなわけではないわけです。
みんな着物を着てるわけじゃないんですよね。
いろんな人がいる。
よく考えれば当たり前のことなんですけれど、よく知らないと知っているだけの知識の中でわかりやすい単純な図式にはめ込んでしまう。
レッテルを貼ってしまうわけです。
この映画を観て、単純にイランに住んでいる人もいろいろな考え方をする人がいるんだなと気づいたことがとても大きかった。
自分がイランに住む人たちを、単純な図式にはめ込んでいたことに気づかされました。
知らないことが、イメージが貧弱であるということがそういう単純な図式を生んでしまう。
やはりお互いに知るということが大事なんですよね。
映画というものは知るということに関してはわかりやすく伝えられるのでとても有効な手段だと思う。
主人公マルジは原作者であり監督のマルジャンそのものなんですね。
イラン人である彼女が世界にこのようにイランという国を紹介することは互いに知るということで大変意味があること。
そしてこういう映画が少ないながらも日本で公開されるということもたいへん意義深いと思いました。
まずは知ることから・・・。

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「もやしもん」 「はみ出し」の方がおもしろい

石川雅之さんの原作漫画「もやしもん」が好きなので、テレビアニメの方もチェック。
なんだか、おもしろくなかった・・・ほぼ原作と同じ展開なのだけれども。
どうしてだろう?

さて何故原作の「もやしもん」が好きなのだろうか、ちょっと考えてみる。
原作の漫画も決して絵がうまいわけではない。
ストーリーもいきあたりばったりな感じが多分にある(劇中で作者も指摘しているけれども、主人公の沢木の陰が薄い)。
これは好きな理由にならないですねー。
ーん、好きな理由は・・・。
菌が見えるというアイデアはとてもユニーク、そして沢木に見えている菌たちの姿、彼らの言動がなんだかほのぼの愛らしい。
訥々と語られる樹教授(沢木が世話になっている大学の先生)の発酵に関する「まめ知識」などは、読んでいてなるほどーと勉強になっておもしろい(番外編で菌たちが主役の時の方がおもしろいなあと思ってしまったりする)。
あとコミックのコマの脇に描いてある「はみ出し」のようなところが、けっこう楽屋落ちで笑えたする。
こうやって考えてみると原作「もやしもん」の僕が好きなところというのは、ストーリーだとかキャラクターとかいったような普通小説、漫画、映画を楽しむ基本的なポイントとはちょっと違う。
原作「もやしもん」は昔あった学研の学習マンガ「○○のひみつ」シリーズ(知っている人いるのかな?)のように、発酵について漫画でわかりやすく解説しているみたい感じがする。

あ、これでアニメがおもしろくない理由がわかってきた。
シリーズ化したアニメではどうしてもストーリーを追っていかなければなりません。
ストーリーにするということは何かキャラクターたちに関わって展開があるということ。
なので最終回などででてきた「自分の将来を自ら選択できるのだ」というようなテーマが表れてくるわけです。
アニメでは最終回という幕引きをするためには、このような何かしらの「結」を作らなければならなくなります。
原作ではほとんどストーリーといった「本質的なところ」には重きをおいていない。
なぜなら「もやしもん」のおもしろさの「本質」は違うから。
逆説的になるのだけれど原作「もやしもん」のおもしろさとは「まめ知識」とか「はみ出し」とか「本質的じゃないところ」にあるのだ。
アニメというものになった瞬間に「はみ出し」といったものは成立しようがなく、ストーリーといった「本質的なところ」しか描けなくなってしまう。
なのでアニメは「もやしもん」らしくなくおもしろく感じなかったのだ。
たぶんこれはアニメの制作者サイドも薄々感じているような気がする。
なので毎回のラストに「菌劇場」なるものをおまけでつけていたのだろう。
これはアニメという時間の流れが存在している表現形態でできる「はみ出し」の手法だったのですね。
改めて原作「もやしもん」は余計なところの方がおもしろい、不思議な漫画なのだなあと思いました。
おまけの方がおもしろくなってしまった「ビック1ガム」のようだ(これも知っている人いるのかなあ?)

実写版「もやしもん」の記事はこちら→

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「ヘルボーイ」 デル・トロ監督のバランス感覚はすばらしい

年末の総まとめで「パンズ・ラビリンス」のことを書いていたら、無性にギレルモ・デル・トロ監督の映画が観たくなって「ヘルボーイ」を観賞。
「パンズ・ラビリンス」は異なり「ヘルボーイ」はいわゆるハリウッド資本で撮った作品ですが、わかりやすいハリウッドフォーマットを守りつつも、デル・トロ監督らしさをきちんと出しているところは凄いですよね。
そもそもデル・トロ監督はコミックやアニメーション好きということですので(スリーアミーゴスの中では一番オタク度高し)、今までハリウッドに進出したいへんな目に合った作家性の強い監督よりも、ハリウッドで求められる派手でわかりやすいストーリー展開と自分の趣味の世界との折り合いをつけやすかったのかもしれません。
その趣味の世界というのは、他の作品にも共通していますがダークでゴシックでオカルトっぽいテイスト。
これは僕もけっこう好きな世界なのです。

もともと「ヘルボーイ」の原作からしてオカルティックな雰囲気が漂う作品。
僕は普段はアメコミは大味なので読まないのですが、この原作は別。
映画を観た後、マイク・ミニョーラの原作コミックを読んだのですが、これは凄い作品です。
ひとくくりにアメコミというジャンルにしてはいけないですね、まったく別物です。
そもそもアメコミはご存知のとおり、日本の漫画とは違い、幾人もの作者が書きつないでいます。
またストーリーを書く人と、絵を描く人は基本的に分業となっています。
だから日本の漫画と比べ作者の個性は出にくいと言えます。
けれどもマイク・ミニョーラはストーリーも作画も一人でこなして「ヘルボーイ」を描いています。
なので作者の趣味が非常に色濃く出ています。
細い線の独特のタッチ、映画の1コマを切り出しているような大胆な構図、白と黒の陰陽のはっきりとした色使い、これらがとてもスタイリッシュでカッコいい。
ストーリーもラブクラフトを彷彿させる感じがあり、このあたりも僕の趣味のど真ん中だったりします。
アメコミのイメージががらりと変わる作品なので、映画で興味を持った方は是非(なかなか売っているところ少ないですが)。

ちょっと脱線してしまいました。
映画の方はコミックよりも、一般受けしやすいようにアレンジはしてあります。
リズとヘルボーイの恋愛などもそうですし、マイヤースという普通の人間を出しているのもそういうところです。
コミックそのままだと趣味色が強いのでなかなか入り込めない人がいるかもしれないので、これはいいアレンジだったのではないかと思います。
このあたりのバランス感覚がデル・トロ監督は優れていますね。
ただ敵役の連中は監督の趣味が色濃くでています。
特にクロエネンなんかは。
改めて観てみるとマスクを外した時のクロエネンは「パンズ・ラビリンス」のペイルマンに似ている。
この気持ち悪い感じは監督の趣味なんだろうなあ。
怪物サミエルのグチョグチョした感じも同様。
サミエルの魚っぽい造形、あとはラストの怪物のタコっぽいデザインはラブクラフトのクトゥルー神話の影響でしょうね。
ラブクラフトはデル・トロ監督好きそう。
そういえば、超常現象捜査局にはデル・トロ監督定番の妖精のホルマリン漬けなどもありました。

改めて観るとデル・トロ監督がマイナーでオタッキーな自分の趣味の世界と、一般受けしやすいわかりやすさとのバランスをとてもよくとっているような気がします。
自分の趣味は作品の世界観などで出して、ストーリー構成はわかりやすいハリウッドフォーマットで。
とかく自分の色が強い監督は、一般に受けるところとバランスがとれず作品が破綻してしまいがちですが、この監督はそういうことはない。
とにかくバランス感覚がいいですね。

「ヘルボーイ2」も製作中だとか。
期待して待っていたいと思います。

シリーズ2作目「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」の記事はこちら→

ギレルモ・デル・トロ監督作品「パンズ・ラビリンス」の記事はこちら→

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「ジョシデカ! -女子刑事-」 「アンフェア」には及ばず・・・

秋のクールで観ていたドラマ3本のうちの1本がこの作品。
雑誌などの事前情報を見ていた時は、もともと1番気になっていたドラマでした。
ヒットしたドラマ「アンフェア」の原作小説「推理小説」の秦建日子さんの脚本であるということもありましたし、新米刑事畑山来実(仲間由紀恵さん)と検挙率No1のベテラン刑事桜華子(泉ピン子さん)の二人の女刑事のバディものという設定もおもしろそうでしたし。
観始めて何度か途中で観るのを止めようかと思ったりもしましたが、結局最終回まで観てしまいました。

ドラマの構造としては、まずシリーズ全体を通して謎の連続殺人事件が発生し、これが全体をつなぐ軸となっています。
また1、2回分づつで1つの事件が発生していき、それを解決していく展開。
そしてそれらの事件も実は連続殺人事件に裏では繋がっているという構成です。
毎回のラストで軸となる連続殺人事件に関わる謎が提示して次回に誘引するというのは、「アンフェア」などでも見受けれました。
そしてシリーズ中盤くらいから、主人公来実の周囲に犯人がいるように匂わされます。
このあたりも「アンフェア」に酷似していますね。
ただ毎回起こる事件は正直言ってそれほどおもしろくはない。
「アンフェア」の時のような「小説での予告殺人」や「募金型誘拐」などといったユニークなアイデアはないのでパンチがないと言わざるをえません。
そんなこともあって観るのを止めようかと思ったのですが、やはり連続殺人事件の顛末は気になるということで最終回まで・・・。
制作者の思うツボでした・・・。

仲間由紀恵さんは美人なのにコメディができるので好きな女優さんなのですが、今回の役はミスマッチ。
自分のことを「自分は」と言う体育系女子なんですが、どうもこれが板についていないような気がしました。
また泉ピン子さんは言葉をまくしたてるシーンが多かったのですが、どうも滑舌が悪くシャキッとしない。
直情型新米刑事とコワいおばさん刑事という組み合わせはおもしろいと思ったのですが、どうもキャスティングはしっくりといっていなかったような気がします。
二人の関係はけっこうコメディタッチに描かれているのですが、連続殺人事件自体や、それにまつわる背景はけっこうシリアスで、どちらを狙っているのかがわかりにくい演出でちょっと居心地が悪いような印象もありました。
1クールのドラマ十数回分、視聴者を引っ張り込もうという意図は感じましたが、どうも細かいアイデア、構成まで気が回っていない感じがしました。
「アンフェア」みたなものを狙いながら、丁寧さがなくそこまで及ばなかったという結果のような気がします。

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「茶々 天涯の貴妃」 NHK大河ドラマの総集編みたい

皆様あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。
今年最初の映画の日、元旦ということで2008年初観賞は純和風で攻めてみようと「茶々 天涯の貴妃」を観てきました。
時代劇は親が好きで、子供の頃からTV時代劇をいっしょに観ていたこともあり、嫌いじゃない。
さすがにテレビは観ないですが、映画となると観に行ってしまいます。

主演の和央ようかさんは宝塚の男役のトップだったとか。
宝塚はまったく知らない(日比谷に映画を観に行くとたくさんのファンの方がいらっしゃるなーと思うくらい)のですが、男役と言ってもきれいですよね(当たり前か)。
和央さんは本作では主人公淀君を演じていますが、声の出し方が男役っぽい感じがしました。
あの武者姿はやはり宝塚のファンの方向けでしょうか、凛としてカッコ良かったですけれど。

物語は叔父織田信長に茶々の父親、浅井長政が滅ぼされるところから始まります。
茶々ら浅井三姉妹は母親お市の方(信長の妹)とともに織田家に戻り、そしてやがて茶々は信長の後に天下人となった豊臣秀吉に見初められ、側室となり淀と呼ばれるようになります。
そして秀吉の子を産み、女性として最高の栄華を極めますが、秀吉の死後征夷大将軍となった徳川家康により大阪の冬の陣・夏の陣によって大阪城は落され淀も城と命運を共にします。
幾多の歴史物、時代劇で繰り返し描かれている話なので、新鮮さはあまりない。
男が主人公で描かれることが多い戦国時代を女の視点から描くというのも、大河ドラマでもよくありました(「女太閤記」とか「功名が辻」とか)。
2時間強で戦国時代の女の一生を描くので話の展開が早く、どうもNHKの大河ドラマの総集編を観ている感じがしてしまいます。
また女性中心の描き方なので、時代劇といえども合戦シーンなどは少なめでスペクタクル感が多いわけではありません(昨年の大河ドラマの「風林火山」の方がよほど迫力あり)。
見所といえば和央さんをはじめ女優さんたちの着物姿となりますが、それだけな感じもあり。
やや和央さんの宝塚退団後の初主演映画というお披露目的要素が大きい(要はプロモ的)感じがしました。

戦国時代の女性の位置づけというのはやはり現代とは違うのだろうと思います。
女性の人権などが日本で定着したのは、ようやく戦後になってからで、まだ100年も経っていません。
そもそも戦国時代は男であっても個人などというものはそれほどの価値はなかったのだといえるでしょう。
「個人」よりも優先したのは「家」。
戦乱の世、個人が個人の力で生き抜くのは不可能な時代、自己防衛をするためにも命を守るための集団の最小単位は「家」だったのでしょう。
ただその「家」という単位も極めて脆弱なため、「個人」よりも「家」が優先する場合がある。
その犠牲になることが多かったのが、弱者であった女性なのでしょう。
現代でしたら命を守るための防衛最小単位は「国家」となり、小規模な「国家」であっても軍事力や経済力は「個人」や「家」よりも桁違いであるため(侵略をしたらそれ相応のペナルティがあるということもあるが)、よほどのことがない限り「国家」が侵されることはない。
だから「個人」というものも「個人」として尊重されることができるわけです。
劇中、秀吉が戦争をなくすために天下を統一すると言うところがありますが、ここに戦争をなくすために戦争をするという矛盾があるように感じる方もいるかと思います。
けれども強力な統一「国家」を作れなければアナーキーな状態がずっと続くわけであり、その状態では「個人」が平和に暮らすことはできない。
自己矛盾をはらみながらも、あの時代にああいう考え方を持った秀吉、そして家康は大局的なものの見方ができた人物ではあったのでしょう。

最後に子供時代の茶々を演じていた子役の女の子、和央さんにそっくりでしたね。
妹さんかと思うくらい。
よくぞ似た面影の子をキャスティングしましたね。

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