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2007年12月31日 (月)

「働きマン」 仕事に熱いのはカッコいい

原作の漫画が大好きなこの作品、ドラマ化の話を聞いてオンエアを楽しみにしていました。

原作もそうですが、「働く」ということをとても正面切って真面目に情熱的に描いています。
僕が社会人になったころはすでに「真面目にやること」がなんとなくカッコ悪いように思われていたような気がします。
入社はバブル期の最後ぐらいで世の中全体が浮かれていたということもあるのでしょうが、そんな感じでした。
僕が入った部署は職種が専門的であったこともあり、幸いにしてけっこうプロとして仕事に情熱を持っている人が多く、真面目に仕事に取り組む姿勢というのを教えてもらった気がします。
でも仕事をするうちに情熱だけではやっていけないという現実にもぶち当たりますし、なんだか空しくなってしまうこともありました。
自分のやっていることは意味があるのかとか、仕事に忙殺されてしまっていいのかとか、考えてしまっちゃいますよね。
そんなことを人と話すこともなんだかカッコ悪いような気もしたりして。
でも働いて十数年経つと自分の仕事に対する考え方もしっかり持つようになって、仕事をしっかりできるようになったそんな時に原作の漫画に出会い、これほどまでに仕事というのを真正面から見ている作品があるのかとすごく感動した覚えがあります。

今回のドラマでは見ていて今までやってきた仕事の内容、そのとき嬉しかった時の気持ち、辛かったときの気持ち、仕事で関わってきた人のことなどを思い出させる場面がいくつもあり、毎回のようにグッときて泣いてしまうこともしばしばありました。
人知れずがんばってやっていることを、誰かが見てくれていたときの嬉しさ。
仕事ができると思い、傲慢になっていたことに気づかされたときの恥ずかしさ。
自分だけでは仕事はできるわけではない、いっしょに仕事をやってくれる人がいるからできるんだと身にしみてわかったときの感謝の気持ち。
主人公松方(菅野美穂さん)や週刊JIDAIのスタッフの姿を通して、今までの自分の仕事を通して味わった気持ちが甦ってきました。
また仕事というのはそれぞれの人がそれぞれの捉え方を持っています。
ただ仕事に対しての思い入れがあれさえすれば、どれが正しいとか正しくないとかそういうことはありません。
それぞれの捉え方を尊重し合うような働き方ができればいいですよね。
第2回目の釈由美子さんがゲストの回なんかはいいエピソードだったと思います。
最後釈さんが菅野さんの手をとって記者たちの中に分け入っていくところは、涙ボロボロでした。
あと松方が「働きマン」へのスイッチが入るところなんかも共感できました。
ああいうとき、ありますもん。
仕事していて、うーんと唸っていたときにふと天から降りてきたようによいアイデアが浮かんで・・・。
そっからは頭の中のアイデアがどっか飛んでいかないように、書いたり描いたり、アドレナリンがドバーッとでてなんだかハイテンションで仕事してしまう感じ。
なんかすごい楽しー!とか思っちゃうんですよね。
いつもじゃないのが辛いところですが、時折こういうことがあるので仕事楽しいなと思ったりもします。

若い人は仕事に対するスタンスを斜にかまえているほうが、クールでカッコいいように見えるかもしれません。
でもほんとにカッコいいのは熱い人だと思うんですよね。
仕事楽しーと思えるように思える人でありたいなあと思います。

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本 「アフリカン・ゲーム・カートリッジズ」

この物語で無より銃を召還することができる能力を持つ人々を”銃使い”という。
その”銃使い”とそれを規制するGEAの戦いを描いています。
確かに戦闘シーンでのガンアクションの描写は、作中でも引用されているがジョン・ウーの映画を観ているよう。
薬莢が拳銃から飛び出す様子など、まるで映画の中のスローモーションを見ているような細かさだ。
とても視覚的には優れた描写力だと思う。

けれどもそれ以外はそれほど評価するところはない作品に思えます。
出てくるキャラクターが、悪い意味で漫画的、オタク的。
その手のコミック好きのファンが好むような趣味色が強いキャラクターばかりが登場する。
無意味に同性愛についての描写がでてくるのもなんとなく趣味的な感じがしてしまう。
そういうものが好きな人にはたまらないだろうが、関心がない人はげっぷがでてしまうかも。
また登場人物が話す主義も、作者の考え方が反映しているのだろうけれども、とても子供っぽく独りよがりな感じがしました。
ティーンの時に自分はなんだか特別であるのでは、大きなことができるのではと考えるような自意識過剰さみたいなものを感じてしまいました。
”銃使い”という特殊な能力を持つこと、そしてそれが少数であり迫害されているという状況は、10代が感じるような閉塞感、そしてそれに対する抵抗みたいなものを表しているのではと思いますが、どうもそれが鼻について仕方がない。
どうも肌合いが合わない小説でありました。

「アフリカン・ゲーム・カートリッジズ」深見真著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-387501-6

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「ティム・バートンのコープスブライド」 とってもティム・バートンらしい映画

年が明けると僕が大好きな監督の一人、ティム・バートンの「スウィーニー・トッド」が公開されます。
ということで気分を盛り上げるため、最近の作品の中でこれでけ見ていなかった「ティム・バートンのコープスブライド」をDVDで観賞しました。

とってもティム・バートンらしい映画ですね。
キャラクターも不気味かわいい。
ティム・バートンという人は、実写でもアニメでも驚くほど作品の世界のイメージは変わらないですよね。
「コープス・ブライド」の死者たちの世界は暗いながらも蛍光色でファンキーで「ビートル・ジュース」のやはり死者の世界を想起させます。
生者の世界は暗く青みがかった世界、こちらは「スリーピー・ホロウ」などが思い出されます。
彼の作品は死者の世界の方が、生者の世界よりもなんだか楽しそうに見えます。
生者は欲や差別があり人は生きているのだけれどなんだか辛いことばかりといった陰鬱な世界に住んでいる。
逆に死者はそういったしがらみがない世界に住んでいるので、なんだか自由で楽しく生き(?)られる。
彼の作品では、普通の人と違う人(異能の力を持った人)が登場することが多い。
それは死者だったり、人造人間だったりするわけですが、彼らは普通の人間から区別されとても孤独な想いをするわけです。
ティム・バートンは彼らにとてもシンパシーを感じているように見えます。
もしかすると彼も若い頃は「変わった子」として周囲に見られていたのかもしれません。
本作でもヒロインはコープスブライトであるエミリーですし。
見ていてもいつの間にかエミリーに共感してしまいます。

こちらの作品は「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」と同様でストップモーション(コマ撮り)・アニメで撮られています。
とても手間がかかる手法なので、最近はCGにとって変わられていますが、独特な動き、あと素材の風合いなどがでていて、なんだか人の手を感じるような感じがします。
CG全盛なのでこういうテイストは新鮮に感じますね。

ティム・バートンといえば音楽はダニー・エルフマン。
彼の音楽はとっても好き。
特に本作はエルフマンっぽい音楽が多くて堪能できました。
時折入るミュージカル風の演出も良かったです。
「スウィーニー・トッド」でもミュージカル風の演出ありそうですし、楽しみです。
そういえば本作で声優で出ていたジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターは「スウィーニー・トッド」でも共演ですね。
ティム・バートンは本当にこの二人が好きですねー。
あ、ヘレナはパートナーだから当たり前か。

ティム・バートン作品「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」の記事はこちら→

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2007年12月30日 (日)

本 「陰陽師 -安倍晴明と蘆屋道満-」

陰陽師という言葉もとてもポピュラーになりました。
僕が始めて陰陽師という言葉を知ったのは、十数年前荒俣宏さんの「帝都物語」を読んだときですね。
映画化もされました。
悪の主人公加藤保憲は陰陽の術を身につけた男、対するのは平安の時より日本を守護してきた陰陽師の名家土御門家。
加藤保憲は術をかけるとき甲に五芒星の文様の入った手袋を放ちます。
この五芒星は西洋ではダビデの星、日本では古来よりドーマンセーマンと呼ばれている文様です。
ここででてくるドーマンセーマンの語源となるのが、蘆屋道満、安倍晴明、いづれも平安時代にいたと言われる陰陽師です。
安倍晴明は知っている方も多いのはないのでしょうか。
夢枕獏さんの小説「陰陽師」、こちらも映画化しましたが、こちらの物語では主人公となっていました。
小説や映画の主人公ですが、安倍晴明は実在の人物です。
ただしこれらの作品で描かれているような魔術師のような人物では無論ありません。
そもそも陰陽師というのは魔術使いではありません。
もともと平安時代では陰陽師というのは、さまざまな出来事から吉凶を読み取るという仕事をしていた人々です。
占い師と言ってもよいかもしれませんが、暦や天体の動きから占いを行っていたため相当の専門知識が必要な仕事であったようです。
安倍晴明は陰陽師と言っても貴族でありまして、言わば公的な役職についた陰陽師と言えます。
さきほどあげた蘆屋道満はモデルはあるようですが、江戸時代に安倍晴明物語で晴明の敵役となった蘆屋道満としては実在していなかったようです。
モデルになったのは円能という名の陰陽師で、彼は僧形をしており言わば民間の陰陽師だったようです。
円能は時の権力者、藤原道長を呪詛した疑いをかけられています。
これが変成して、安倍晴明の敵役となっていたと考えられるということです。
安倍晴明の師匠の陰陽師で賀茂保憲という人物がいます。
平安の当時は安倍晴明よりも格が上だった陰陽師だということです。
「帝都物語」の加藤保憲の名前はここからきているのでしょうね。

「陰陽師 -安倍晴明と蘆屋道満-」繁田信一著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101844-3

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「ガリレオ」 冷徹な論理と、ふと見える人間らしさ

今年の秋のクールのドラマは、3本ほど最終回まで追いかけたものがありました。
いつもは大概、途中でおもしろくなくてやめてしまうので、これはけっこう自分としては珍しい。
その3本の内で最も楽しみにして毎回観ていたのが、「ガリレオ」。
原作は東野圭吾さんの小説「探偵ガリレオ」「予知夢」ですが、東野さんの作品は読んだことがないので、まったく予備知識なしでした。
予備知識ないので、まったく期待も何もしていなかったのですが、初回を観てすっかりはまってしまいました。

「ガリレオ」というのは福山雅治さんが演じる帝都大学の教授湯川学のあだ名。
彼は広範で深い物理学の知識を持つ学者であり極めて論理的なものの考え方をする人物。
それゆえに人の曖昧な感情などは余計なものと思っている節があり、それで変人=研究バカで「ガリレオ」と呼ばれているわけです。

ミステリーというのは論理的な証拠の積み重ねと動機の確認により謎を解くというものですが、中でも極めて論理的な物理の法則から事件が実行可能であったかどうかということを証明して謎を解くというのが、当たり前のようですが、今まであまりなくてとても新鮮でした。
科学者らしい極めて冷徹な論理的アプローチなのですが、人間に対して不器用なため堅物に見える湯川の人間に対する洞察とやさしさみたいなものが、ふと見えたりするのがいい匙加減。
いったん謎を解く鍵がそろったときにひらめきが起こり、周囲に関係なく数式を書き散らし答えを導きだす湯川には熱いものがあるということも感じます(このとき流れるテーマソングがカッコいい)。
いつもは無愛想で取っ付きにくい人なのに、時折垣間見えるとても人間らしいところが湯川というキャラクターの魅力なのでしょうね。
相棒の内海刑事(柴咲コウさん)でなくても、女性はキュンとくるでしょうなあ。

<ネタバレあり>
はまってしまった初回のレーザーをトリックに使う話はなかなかでした。
物理的な仕掛けもさることながら、犯人像がとてもユニーク。
レーザーによる殺人を失敗しながらも何度も何度も何度も何度も試した偏執狂的な犯人。
殺人は一回でも成功すれば成立する。
そのために何十回でもトライアルをする。
これはミステリーとしてもけっこう盲点でありました。
真実が得られるまで、さまざまなパラメータをいじりながら実験を試みる湯川が陽とすれば、陰になる犯人。
その対比がおもしろい。
二人とも偏執狂的なものがあるにせよ、陰陽を分けたのは、人間を人間として見ているかどうかというその点だけだったのでしょう。
毎回の犯人も大物をゲストで登場させていますが、印象的だったのは最終回二部作の久米宏さん。
あまりに意表をつくキャスティングだったのですが、湯川の恩師で湯川以上に論理を尊ぶ役にぴったしカンカン(古いなあ)でありました。

「ガリレオ」湯川学というキャラクターを福山雅治さんが好演。
とつとつと講義をするように、いつも事件を持ち込んでくる内海刑事を論理的に言い負かすのですが、一歩間違えば嫌みになるところをさわやかな福山雅治さんが救っていて、いいバランスのキャラクターに仕上がっていました。
福山さんって女性誌のランキングでいつも上位に上がっていますが、改めてカッコいいもんなー、女性に人気でるわけだよなあと妙に納得してしまいました。

けっこう視聴率も良かったようですので、またシリーズあるかもしれませんね。
楽しみに待っていたいと思います。

映画化作品「容疑者Xの献身」の記事はこちら→
原作小説「探偵ガリレオ」の記事はこちら→

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本 「イリーガル・エイリアン」

著者のロバート・L・ソウヤーは好きなSF作家の一人。
毎回ユニークなプロットで楽しませてくれる作家ですのでお気に入りです。
そのソウヤー、本作では宇宙人とのファースト・コンタクトと、法廷ミステリーを組み合わせた作品に仕上げています。

地球を訪れた宇宙人、トソク人。
彼らは宇宙探検で太陽系を訪れましたが、事故により宇宙船が故障し、故郷の星に帰れなくなってしまいます。
彼らは地球人に助けを求め、そして幸運なことに平和にファースト・コンタクトがなされる。
トソク人は修理が行われている間、地球に滞在するが、その宿泊先においてあろうことか地球人が殺害されてしまう。
容疑者とされ逮捕されたのはトソク人の一人。
そしてトソク人が有罪か無罪かさばかれる裁判が開かれます。

前にも書きましたが、ミステリーというのはある前提条件があり、それらを踏まえ論理的な筋道で説明し、すべてがピースがはまるようにピタリと収まるところに読む快感があります。
その前提条件は作品の中で説明されることもあれば、人間であるが故に当たり前である条件もあります。
けれども本作では容疑者が宇宙人であるため、そういった常識的な条件は通用しない。
相手がどのように考えるか、その心理さえわからないのだ。
裁判が進むにつれ、明らかになっていく宇宙人の生態、心理がおもしろい。
そして宇宙人が地球を訪れた真の目的も事件に関係していることが明らかになります。

ミステリー好きにもSF好きにもお薦めの作品です。

ロバート・J・ソウヤー作品「ターミナル・エクスペリメント」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「占星師アフサンの遠見鏡」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「さよならダイノサウルス」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「フラッシュフォワード」の記事はこちら→

「イリーガル・エイリアン」ロバート・J・ソウヤー著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011418-8

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2007年を振り返って<映画>

2007年も暮れを迎えました。
こちらのブログを始めて1年半になります。
昨年の暮れはまだ半年も経っていなかったので1年間の総まとめはしておりませんでしたが、今年は振り返りをしてみたいと思います。
先日他のブロガーさんと話したとき、振り返りしてほしいというお話もいただきましたので。
改めて今年は映画を劇場でどのくらい観たかと数えてみると、99本でした。
うう、がんばってもう1本観れば大台だったのに・・・。
とはいえ、年間でこんなに観たのは過去最高ではないでしょうか(今まで数えていなかったので、たぶんですけれど)。
やはりブログを始めたことが大きかったと思います。
他の方の見方のを参考にしたりして、今まではあまり観なかったような映画を観て、出会うことができました。

まずはベスト5を。
順位付け、やってみるとけっこう難しいです。

 1.「天然コケッコー」
 2.「パンズ・ラビリンス」
 3.「キサラギ」
 4.「トランスフォーマー」
 5.「300」

まず1位の「天然コケッコー」。
意外に思われた方も多いのではないでしょうか。
これはちょうど僕が職場を異動になり、周囲の環境が激変した時に観たということが大きいような気がします。
異動したばかりの時はとかく緊張し、前任に比べられても平気なように背伸びをしたり・・・。
そんなときに観たので、とてもほっとした気分にさせられた覚えがします。
その時にも書いたのですが、周りの季節の移り変わりにも気づかないほど余裕がなくて。
あとこの時の文章がとても皆さんにお褒めの言葉をいただいたのも嬉しかった。
ああ、気持ちが入っている文章は、伝わるんだなあと改めて思ったりもしました。
そういうことで1位にさせていただきました。

2位の「パンズ・ラビリンス」
こちらはほっといたらスルーしてしまう映画でした。
でも他のブロガーさんとお食事したときに皆さんが絶賛していたので、観に行ったのです。
とても良くて(どう良かったかはその時の記事をご覧になっていただければ・・・)、皆さんの感想聞けて良かったなあと思いました。
ブログを始めて良かったなと思うのは、いろいろな視点で映画を観る方の意見を聞けること。
今までではなんとなく観なかったはずの良い映画と出会うことができます。
そういう意味でこの映画が2位です。

3位は「キサラギ」。
こちらは言うまでもなく、脚本の出来が絶品でありました。
映画はお金なくても脚本が良ければ、いい映画が撮れるということの見本です。
あとこちらの作品は予告を観てなんだか良さそうな予感がありました。
あまり注目されていなくてもなにかいい作品だなと鼻が利くときってありますよね。
こちらの作品がそうでした。

4位は「トランスフォーマー」。
こちらはお金をかければ凄いことができるという見本の映画ですね。
粗をさがせばいくらでもあるのですが、乗り物がロボットに変形するということを、ここまで技術とお金を投入して表現するということの凄さ。
こんなの観てみたい!というのを実現するというのが、映画でもあるわけです。
スピルバーグはやはり偉大な映画人です。

5位は迷って迷って「300」。
他にも候補あったのですが・・・。
表現にCGを使うのは昨今では普通なことになっていますが、今年はその使い方のアプローチに新しい試みがあったように思えます。
こちらにあげた「300」、パフォーマンスキャプチャーを使った「ベオウルフ」、フランスのアニメ「ルネッサンス」、おなじみのピクサー作品「レミーのおいしいレストラン」、邦画では「ベクシル」「エクスマキナ」など。
それぞれ映画の記事でその映像の表現の感想は都度書いていましたが、これらを改めて思い返すと一番上手にCGを使っていたのが、「300」だったかなあと。

いかがでしょうか・・・。
予想通りだったかな、それとも違ったかな。
純粋に作品の質でのランキングではないのですが、僕なりのランキングということでお許しを。

あと最後にワースト5を。

「どろろ」
「蒼き狼」
「ゲゲゲの鬼太郎」
「監督・ばんざい!」
「仮面ライダー NEXT」

あれ、邦画ばっかり。

ともあれ、今年はお世話になりました。
来年もなにとぞよろしくお願いいたします。

「天然コケッコー」の記事はこちら→

「パンズ・ラビリンス」の記事はこちら→

「キサラギ」の記事はこちら→

「トランスフォーマー」の記事はこちら→

「300<スリーハンドレット>」の記事はこちら→

「どろろ」の記事はこちら→

「蒼き狼 地果て海尽きるまで」の記事はこちら→

「ゲゲゲの鬼太郎」の記事はこちら→

「監督・ばんざい!」の記事はこちら→

「仮面ライダー NEXT」の記事はこちら→

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本 「BMW物語」

デザインや商品開発に関わっていると、やはり企業や商品のブランド力とは何かと考えることが多い。
その中でいくつかやはりモデルにしたくなるような企業はあるが、BMWという会社もその一つ。
BMWで使われている広告コピーを思い浮かべると何が思いつくでしょうか。
「駆けぬける歓び」
というキャッチはどこかで聞いたことがあるかと思います。
BMWは長いことこのコピーを使っていますが、それはここに企業の理念、スタンスが込められているから。
その理念がぶれないということがBMWというブランドを他の自動車メーカーとは異なる位置づけにしているのです。
企業の規模で言ったら、トヨタやGM、またはメルセデスなどの方が大きい。
けれどもBMWはそれらとは異なるポジショニングを確立している。
トヨタ、GMはフルラインナップ戦略をとっているが故に、企業としてのブランドイメージは拡散してしまう(それをトヨタはレクサスブランドを投入することにより、解決しようとしている。日本ではうまくいっていないが)。
BMWは一貫して、走ることが好きな人へ究極のドライビングマシンを提供することを考えている。
だからBMWにはファミリー向けのバンなどはラインナップされていないのだ。
メルセデスがAクラスを出したことにより、イメージが拡散したことと好対照である。
けれどもそのBMWも危機的な状況はあった。
イギリスのローバーを買収したときである。
ローバー自体には、BMWが要求する品質を提供する力はなかったし、ブランド力としても期待しているほどのものは持ち合わせていなかった。
けれどもその危機的状況もローバーブランドは売却し、ミニだけを保有することで乗り切った。
結果的には新ミニ・クーパーという新しい自動車を生み出すことになる。
このミニ・クーパーにも「駆けぬける歓び」という理念は貫かれているのだ。

基本的なことだが、ブランド力というのは、自社のあるべき他社とは違うユニークなポジションを決めること、そして決めたことを貫き通すことが大事である。
BMWの歴史を描いたこの本を読むと、そのことを改めて再確認できる。

「BMW物語」デイビッド・キーリー著 アスペクト ハードカバー ISBN4-7572-1096-5

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2007年12月29日 (土)

本 「百器徒然袋ー風」

京極堂シリーズの一作で、前作「百器徒然袋ー雨」に続き、いつの間にか榎木津探偵の”下僕”となってしまった本島の語りの中編集になります。
京極堂シリーズは何人も魅力的なキャラクターが登場しますが、僕の最も好きな登場人物は名探偵榎木津礼二郎ですね。
この人物の無茶苦茶さ、破天荒さが何ともいえず好きなのです。
破天荒なキャラクターというのは、いろいろな物語に登場するキャラクターの形容詞として使われますが、榎木津はちょっと次元が違う。
まさに次元が違うのだ。
突拍子もない、脈絡がない、つかみ所がない、人とまったく会話が噛み合ない。
馬鹿なわけではない、たぶん頭はいい。
榎木津探偵は事件を解決するわけではない、事件を壊滅させてしまうのだ。
その無茶苦茶振りに、榎木津の”下僕”となってしまった本島、益田、寅吉が彼に翻弄されるように、読んでる僕自身も翻弄される。
なんだかそれが心地よい。
たぶん著者の京極さんも好きなんではないかなあ、榎木津探偵が登場する場面は筆がノっているような気がします。
だんだん榎木津の破天荒さがどんどんエスカレートしている気がします(楽しいのだけれど)。
小説の榎木津に慣れてしまったから映画の「魍魎の匣」の榎木津はもの足りなく感じたのかなあ。
阿部寛さんはキャスティングはぴったりだと思うんですけどね。
「トリック」の上田教授以上に「変な人」だといいんですけれど。
「待たせたな!僕だ!榎木津礼二郎だ!」
と阿部さんに叫んで欲しい。

「百器徒然袋ー風」京極夏彦著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275862-8

映画「魍魎の匣」の記事はこちら→

小説・京極堂シリーズ「陰摩羅鬼の瑕」の記事はこちら→

小説・京極堂シリーズ「邪魅の雫」の記事はこちら→

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「アドレナリン」 一人「スピード」

まさに一人「スピード」状態でした。
フリーの殺し屋チェリオスは殺しを引き受けた際に、ライバルリッキーから毒薬を打たれてしまう。
その毒薬はなんと血中のアドレナリンが減ってしまうと、死に至ってしまうというもの。
チェリオスは生き続けるためには、常に興奮し続けなくてはいけないのだ。

止まったら死んでしまうというユニークなアイデアだけで最後まで押し切ってしまった潔さがいい。
「スピード」は止まったら爆発するバスを人質にするというプロットが秀逸で好きな映画の一つですが、バスから脱出した後がだらだら気味なのが玉に傷。
本作「アドレナリン」は余計なドラマなど一切排除して(プロット上ドラマなど描いている暇はないのであたりまえだけど)、最初から最後までアクションの連続、観ている方もアドレナリンが出っぱなし。
観終わって、自分も疲れたーという感じでした。
いかに自分を興奮させ続けることができるか、次から次へと出てくるなりふり構わぬアイデアがおもしろい。
アクション映画にありがちな時間的制約もあるのですが、それも主人公の興奮度に寄るのでそのあたりが曖昧な分、観ていて余計にハラハラしてしまいます。
おい、気絶している暇ないだろ!起きろ!みたいな感じで。
映像もけっこう凝っていましたよね。
スタイリッシュでソリッドでカッコいい。
自分でも仕事などでノってきてアドレナリンが出て入れこんでいる状態になると、周囲がぼーっとするような感覚になることありますが、その感じがうまく視覚化していたように思えます。

最後も主人公をあっさり死なせたりして、このあたりも潔い。
と思ったら、え、あれは死んでないのね。
次回作決定のようで。
今度は人工心臓を入れて、その電池を充電しながらになるようです。
またハラハラしそう。

続編「アドレナリン:ハイ・ボルテージ」の記事はこちら→

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2007年12月28日 (金)

本 「火星夜想曲」

ボイジャー以降、火星にはいくつも探査機が送られ、そこには運河も火星人もいないことはわかったけれど・・・。
けれど、火星という星はSF好きにはなにかワクワクさせられるものがあります。
地球から一番近い惑星で、もしかするとひょっとすると自分が生きているうちに誰かがその地に立つこともあるかもしれないと思うからでしょうか。
SF小説で「火星」というタイトルがついてしまうとなんとなく買ってしまいます。

さてこの本のタイトルは「火星夜想曲」。
火星の砂漠に生まれたある町、デソレイション・ロード。
その町の半世紀に渡る歴史を綴ったのが本書です。
荒野に一本だけ通る鉄道の厭戦にある町デソレイション・ロードは何かしら西部の町のような印象もあります。
最初に町を作った数家族、彼らとその子孫たちにより町は発展していく。
彼らは心を通じ合わせたり、反目し、そういった彼らの行為によって町にはさまざまな出来事が起こり、町は栄え、そして最後はまた砂漠に埋もれていく。
何か町自体が人のように生まれ、人生を生き、そして死んでいくといった伝記を読んでいるよう。
タイムマシンや宇宙エレベーターや緑の未来人など、ここには買い切れないほど様々なSFガジェットがてんこ盛りで、SF好きな人は満足できるのではないでしょうか。

「火星夜想曲」イアン・マクドナルド著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011203-7

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「AVP2 エイリアンズ VS. プレデター」 ただのモンスターパニックに成り果てた・・・

エイリアン好き!プレデター好き!ということで、僕にとっては前作「AVP」は一粒で二度おいしいグリコアーモンドチョコのようにお徳感のある作品でありました。
監督・脚本のポール・W.S.アンダーソンは「バイオハザード」もそうでしたが、オリジナルのファンのツボをうまくつかみ(たぶん自身もそれらのファンだということが大きいと思いますが)、話を広げるのが得意なような気がします。
個人的には前作は凄く堪能できたものでしたので、続編たる「AVP2」は公開を待ちに待っていました。
前作ラストのプレデターに寄生したエイリアンがどうなるか、気になりますよね!

プレデターに寄生した幼生から産まれたエイリアン、プレデリアンというそうです。
なんとなく犬の名前みたい(それはポメラニアン!)
本作導入は前作のラスト直後から展開。
エイリアンに寄生されたプレデターを乗せた宇宙船は南極から脱出、けれども産まれたプレデリアンによって破壊され再び地球に墜落してしまいます。
ああ、ここまでは良かった。
ここから先はまったくもっておもしろくない。
アメリカの片田舎に落ちた宇宙船からはプレデリアン、エイリアンの幼生が脱走、街に住む人々を襲い始めます。
SFホラーやモンスターパニック映画などで今まで何度も観てきたようなシチュエーション、陳腐な展開に期待していた気持ちがどんどん萎んでいきました。

エイリアンとは人間の心などいっさい関係なく、己の生存のために本能で殺戮を続ける最強生物。
そこには話し合いなどというものはまったくはいる余地はなく、基本的に襲われたら人間はエイリアンを殺さなければ生き残れません。
これは猛獣といった獣と相対していることと同じです。
プレデターは人間より科学が発達した世界から来た知能のある生物であり、彼らは己の楽しみのために殺戮を続ける生物です。
彼らにとっては人間は狩られるための存在ですが、それは人間が獣に対して持つ感覚とはちょっと違う。
ある種知的生命としては認めている感じはあります。
「プレデター」1作目、2作目、そして「AVP」でも生存のために戦おうとする意志を持つ人間に対してはリスペクトらしきものを彼らが感じているのがわかります。
同じように人間がかなうわけもない最強生物としてのエイリアン、プレデターですが、対人間の関係性はまったく逆と言っていいでしょう。
「AVP」はそのあたりを上手に使い、観ている観客はなんとなくプレデターにシンパシーを感じるような仕立てになっています。
なのでエイリアン対プレデターのガチンコバトルを描いたとしてもただの怪獣映画になることなく、人間としての観客も思い入れをもって観ることができるようになっています。
ひるがえって本作ですが、そのような脚本の機微などまったくなくただの怪獣激突映画になっています。
エイリアンが街を襲って人間を殺戮しまくる。
プレデターはエイリアンと自分たちの痕跡を隠すために活動しているようですが、上に書いたような「プレデター」シリーズを貫いている戦い抜いた人間とのシンパシーというものは一切ない。
これではプレデターである必要性がまったくない。
またエイリアンとプレデターの合体生物であるプレデリアンですが、このユニークなアイデアがまったくといっていいほど生かされていません。
劇中ではエイリアンの親玉みたいな扱いになっていますが、ただそれだけ。
プレデターも混じっているのだから、エイリアンなのに頭を使った知能戦をしかけるとかそういうことを期待していたのに残念。
登場する人間たちは、エイリアンやプレデターの襲撃を逃げまくりますが、結局爆弾により街ごと消去されてしまう。
今までの「エイリアン」も「プレデター」も登場人物はほとんど殺され生き残るのは主人公だけだったりしますが、そこには危機を知恵や勇気など人間らしい力で生き抜いた人たちの達成感みたいなものがあります。
本作に登場する人間はただ逃げ惑い、運良く生き残れただけという感じ。
そこには生き抜いたというカタルシスが全くない。
ああ、返す返すもポール・W.S.アンダーソンがタッチしていたのが残念です。
彼が関わっていればもっともおもしろかっただろうに。
「バイオハザード」で忙しかったのかな?

「プレデター」の記事はこちら→

「プレデター2」の記事はこちら→ 「プレデターズ」の記事はこちら→ にほんブログ村 映画ブログへ

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本 「生物と無生物のあいだ」

こちらは新書としてかなり売れた本のようですが、確かに知的ワクワク感が楽しめる内容となっています。
この本で最初に提示される疑問が「生命とは何か?生物と無生物を分け隔てているものは何なのか?」というものです。
まず考えられるのが、「自己複製をするもの」。
これはこれでそうかもしれないという答えなのですが、これだとウィルスなども入ってきます。
最近流行っているインフルエンザなどもそうですが、これらのウィルスは他の生命に細胞に自らの遺伝子を注入し、細胞のシステムを利用して自分を増やす。
ただウィルスの模式図をご覧になったことある人はわかるかもしれませんが、これらは無機的でとても生物のようには見えない。
自己増殖をして増えるのですけれど、それは機械的な感じがする。

人間をはじめ生物は一見いつまでも同じように見えるけれども実は中身は変わっている。
食べ物をたべそれらを吸収して、それらは細胞となる。
古い細胞は分解される。
その繰り返しを行っているためで、数ヶ月前の自分とは原子レベルでは同じものではなくなっているのだ。
なんでこんなことが必要なのか。
わざわざ自分の細胞を壊さず、それを動かすためのエネルギーだけを取り入れた方が効率がいいのではないのか。
けれどもそうはなっていない。
いつまでも壊れず働く細胞などはありえない。
なぜならエントロピーの法則があるから。
これは秩序あるものは無秩序に向かうという法則です。
その法則を超えるために生命というのはとてもユニークなアプローチをとっています。
細胞が勝手に壊れる前に、計画的に壊し、計画的に新しい細胞を作る。
これがそのアプローチです。
そのため細胞自体はすべて数ヶ月で入れ替わりますが、生命しての個体は持続できる。
いくら堅牢な仕組みであってもエントロピーの法則がある限り必ず壊れる。
壊し作る。
これを動的均衡と呼ぶのです。
作者はこれが生物の生物たるゆえんではないかと言っています。
生命の仕組みというのはとても洗練されていて、なんだかとてもワクワクしてしまいました。
自分の身体がそんなすばらしい仕組みで動いているというのはなんとも不思議です。
こういう仕組みを生み出した自然というのはなんともすばらしいと思ってしまいました。
知的ワクワク感がお望みの方にはお薦めの本です。

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著 講談社 新書 ISBN978-4-06-149891-4

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2007年12月27日 (木)

本 「TOKYO YEAR ZERO」

イギリス人デイビッド・ピース氏の戦後の東京を舞台にし、実在の連続殺人犯をモチーフにした小説です。
この作品は文藝春秋のプロジェクトで日本と英米が当時刊行されるということです。
今後帝銀事件や下山事件や題材にし、「東京三部作」として発表していくようです。
ピース氏は長く日本に滞在したことがあるということですが、それにしても日本の戦後の描写は外国人だとは思えないほどの丁寧さ。
日本人でもここまで書き込める人は早々いないんではないでしょうか。
もちろん僕もその時代は産まれていなかったわけですが、なまなましいほどのリアル感のある描写に思えました。
黒澤明の「天国と地獄」のスラム街のような猥雑さみたいなものを感じます。

戦後という時代を舞台にした小説には不思議に魅かれます。
そういえば京極夏彦さんの京極堂シリーズなどもそうですね。
戦後というのは明らかに価値観が根底からひっくり返ってしまった時代。
上手に自分の中で価値観を変えられた者、頑に価値観を守った者、さまざまだと思いますが、少なからず自分のアイデンティティを揺さぶられたのでしょう。
そういう不安定感みたいなものが戦後という時代に魅かれる理由かもしれません。
この本の登場人物もみな戦中、戦後の価値感のギャップに苦しみます。
章毎の冒頭にある独白みたいなものはギャップに苦しみ精神失調に陥った者のつぶやきです。
これが誰かであるということが、この小説の大きな謎になります。
重く沈鬱としていますし、独特な叙述の仕方がとても読みづらくもありますが、この読みづらさ自身もこの小説の謎に大きく関与しています。
我慢して最後まで読むと、謎がはっきりとし、作者の構成力の高さに感心してしまいます。
ミステリーファンにはお薦めです。

「TOKYO YEAR ZERO」デイヴィッド・ピース著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-326420-2

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本 「シナン」

イスラムの偉大な建築家シナンを主人公にした夢枕獏氏の小説です。
イスラム建築は疎いので知りませんでしたが、シナンとはインスタンブールにあるスレイマニエ・モスク等の建物を作った建築家だそうです。
ヨーロッパの教会などのキリスト教建築は時代を経るに従い、より高くより高くと建築が巨大になっていきました。
これはキリスト教の神が天にいるとされ、そこに少しでも近づきたいという欲求の現れだと言われています。
夢枕獏氏はこの作品のなかで、イタリアのサン・マルコ寺院を訪れたシナンの口からこう言わせています。
「神に比べて人間が過剰だ」
神への過剰な祈り、それを表す過剰な装飾が、神の声を聞こえなくする。
なるほどこれは慧眼だなと思いました。
もともとキリスト教もイスラム教も根は同じくユダヤ教から発しています。
ユダヤ教ではもともと偶像崇拝を禁じているため、その流れを汲むキリスト教ももともとは偶像崇拝をしていませんでした。
けれどもいつしか神を描くことそれを崇拝することが行われるようになりました。
それが天を目指す建築、神を讃える装飾にも表れているのでしょう。

対してイスラム教は今でも偶像崇拝を厳しく禁じています。
イスラムの宗教建築物といえばモスクですが、この建物には塔もありますが特徴的なのはやはりドームでしょう。
夢枕獏氏の見解ではイスラム教徒は神を人の似姿などといった具体的なものではなく、球と光であるととらえているのではないかと書いています。
神を完全なものととらえ、それを形であらわそうとすると球というのは完全な形であるためとてもふさわしい。
その球(ドーム)の中に光り満ち静謐な空間を作る、そうすれば神の声が聞けるとイスラムの建築家たちは考えたのでしょうね。
キリスト教建築とイスラム教建築を、それぞれの神の見方から観てみるとおもしろいかもしれません。
この小説読んで、一度モスクというものを訪れてみたいと思いました。

「シナン<上>」夢枕著 中央公論新社 ハードカバー ISBN4-12-003575-1
「シナン<下>」夢枕著 中央公論新社 ハードカバー ISBN4-12-003579-4

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「俺たちフィギュアスケーター」 茂木さんの実況望む

劇場に足を運ぶと必ずパンフレットを買うのですが、この作品は作っていないということで。
珍しい・・・、それほど売れないという見込みなのかな。
年末のお休みに入り、仕事のことなど忘れてお気楽モードになりたかったので、おバカ映画をセレクトしました。

フィギュアスケート、スポーツとして観ている時はそれほど気にしていなかったですが、改めてしっかり観てみるとあの衣装(特に男子)は、なかなか恥ずかしいものありますね。
ピチピチのキラキラ、着ろと言われても遠慮しちゃいそう。
ああいうのを着て人前で演技を披露するフィギュアスケートをやるにはけっこうナルシスくんじゃないとだめかもしれないですね。

公衆の面前での喧嘩から男子シングルを追放されたマイケルズとマッケルロイ、今までのスケートのルールの裏をかいた男子ペアでの出場を試みます。
そして金メダルを狙うため、二人は禁じられた技の特訓を開始する・・・。
スキージャンプ・ペア(CGの作品のほう)を思い出しちゃいました。
こちらも次から次と繰り出される技がバカバカしくて好きだったので、そんなのを期待ちゃいましたけど、「俺たちフィギュアスケーター」は本格的な演技の披露はラストまで待たないと観れない。
おバカ映画なので、爆笑するところはいくつかあれど、もっともっと笑いどころ作ってくれていたら嬉しかったなあ。
本年の笑い納めにしては、ややもの足りず。
とはいえ本作のラストの演技はなかなか力も入っていたし、笑えました。
曲も「フラッシュ・ゴードン」だったところも個人的にはツボでした。
DVDの吹き替えではスキージャンプ・ペアの茂木淳一さんがあの独特の口調で実況をあててくれないかなあ。
ついでにライバルペアのマリリンとケネディの演技の内容も特典でつけてくれないかしらん。

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2007年12月25日 (火)

本 「ラビリンス・ドール」

菊地秀行氏のライフワークとも言える「魔界都市」シリーズの一冊。
今まで他のキャラクターが主人公を務めるストーリーに登場していたサブキャラクター”人形娘”が初めて主人公となった作品です。
本作は”人形娘”が探偵役となり、魔界都市<新宿>で発生する事件を解決するというミステリー仕立てとなっています。
魔界都市<新宿>でミステリーというアイデアはおもしろい。
何せこの街に棲む怪しい住人たちは、液体人間、ガス人間、ドッペルゲンガー(二重存在)など特殊能力を持つ人間ばかり。
彼らに対しては”密室”というものは成立しない。
液体人間やガス人間はほんの少しの隙間から侵入することができるし、ドッペルゲンガーに対してはアリバイなどというものは役に立たないわけなのです。

そもそもミステリーのトリックはある種の制約があるからこそ、成立するもの。
密室であったり、時間的な制約だったりそういうものですね。
制約がなくて何でもありという状態では、不可能な犯罪というものが存在しなくなってしまう。
一見不可能な犯罪だからこそ、その謎を解くのがミステリーの醍醐味なのだから。
もちろん人間が隙間から部屋に侵入することができないとか、違う場所に存在することはできないといのは、人間である限りもっている制約なのでわざわざ説明する必要はないので、普通のミステリーはこういう常識の上に成り立っています。
時折そういう制約をとっぱらったミステリーも存在します。
アイザック・アシモフの「鋼鉄都市」などもその一つ。
けれどもこの作品でもある種の制約を作品の中で作っている。
有名なロボット三原則というのがそれですが、その原則を越えて犯罪がいかに起こったのかというのを解くのがこの作品の魅力であります。

さて本作「ラビリンス・ドール」では、人間を越えた人間が登場する<新宿>という街でどのようにミステリーを成立させているのか、それがポイントになります。
果たしてそれが成功しているかというと、あまりうまくいっているようには思えません。
「魔界都市」なりの制約を設定していればもうすこしミステリーの醍醐味が味わえるかと思うのですが、結局いつもの「魔界都市」のアクションものになっています。
それはそれで悪くはないのですが、狙い所はおもしろかったのでちょっと残念なところでありました。

「ラビリンス・ドール」菊地秀行著 祥伝社 新書 ISBN978-4-396-20837-0

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2007年12月24日 (月)

「逃亡者おりん」 制作者の心意気、天晴れ

2006年にテレビ東京系でオンエアされていた時代劇です。
ゴールデンタイムで放送されるテレビ東京としては6年振りだったようです。
オンエア時どこかでポスターを見たり、また話題になっているという記事を読んで気にはなっていたのですが、今年の夏にCSで放送されたのを録画してやっと見終えました。

時は江戸時代9代将軍家重の時代、主人公おりんは手鎖人(てぐさりにん)という将軍家を守る暗殺集団に属していたが、手鎖人の首魁である植村道悦に自分が騙され暗殺をしていたことに気づき、また死んだと聞いた娘おさきが生きていることを知り、手鎖人を抜け「逃亡者(のがれもの)」となり、追っ手を振り切りつつ、娘に会うために旅を続けるというストーリー。
話題になっていたのは、おりん役の主演のクールビューティーな面持ちの青山倫子さんが、追っ手との立ち回りのときにレオタード風の忍者装束になるところでしたね。
まさにB級の忍者ムービーのくノ一忍者のイメージそのまま。
時代劇なのにレオタード?と思ったりすると、もうこのドラマは見れません。

この作品には今までの時代劇のフォーマットがいくつもつぎ込まれています。
まさにてんこ盛り。
旅をしながらその地で事件に巻き込まれるという展開は「水戸黄門」だし、闇の暗殺集団、そして抜け人というのは「影の軍団」、毎回出てくる追っ手の手鎖人は幾多の忍者時代劇を彷彿とさせます。
毎回のエピソードも昔ながらの人情ものですし、おりんが出会う人が彼女を助けて手鎖人に殺され、おりんが復讐するというのも時代劇の典型的なフォーマット。
見方を変えると今までの時代劇の要素をパクっているようにも見えますが、これは確信犯でしょう。
たぶん時代劇好きなファンが「見たい」という要素をすべてつぎ込んだという感じがしました。
けれども22回に及ぶ放送回数なので、シリーズ全体を貫く謎なども用意されていて、これらが後半にいくにつれ次第に明らかになっていき毎回観ようとするヒキになっています。
この謎がまたベタな伏線だったりするのですが、やはりほんとにベタかどうか確かめてみたくて気になって観てしまいます。
全体的には大味な作りで安っぽいところもたくさんあるので途中で観るのを何度もやめようかと思ったのですが、全体を貫く仕掛けが気になって結局最後まで観てしまいました。
このあたりのシリーズ構成などがしっかりできていたのではないでしょうか。
ラストはけっこうひねっていましたけれどね。
また、テレビ東京と侮るなかれ、けっこう毎回出てくるゲストがもの凄いメンバーです。
小林稔侍、長門裕之、田村亮、遠藤憲一など、「おお、こんな人まで出ているのか!」と思う錚々たる方がたくさん出ています。
テレビ東京の気合いの入れ方が伝わります。
アクションもJACが入っているためか、東映の特撮番組のようなスピーディで立体的な立ち回り。
主演の青山倫子さんは当初はまったく動きがぎこちなかったですが、最後の方はけっこう殺陣も決まってきたように思えました。

総じてベタで大味な作品ではありますが、ここまで時代劇の様々な要素を突っ込んで、時代劇ファンが観てみたいという理想の時代劇に仕上げたという制作者の心意気はなかなか天晴かと思います。

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本 「情報と国家 -収集・分析・評価の落とし穴-」

戦争や紛争などが起こるとニュースなどでお見かけする軍事評論家江畑謙介氏の本です。
軍事において情報戦略が大事だというのは言わずもがなのこと。
そして軍事面だけではなく、民間のマーケティング活動においても、情報戦略は大切なことになります。
この本では軍事の話をしていますが、普段の企業活動においても参考になることがあります。
そもそもマーケティングの世界で使われる戦略・戦術などという言葉も元々軍事用語ですし、軍事からマーケティングにおける洞察を得ることもあるわけです。

現代において軍事においても、マーケティングにおいても情報戦略が雌雄を決するというのは誰も否定しないでしょう。
では情報戦略とは何なのか?
江畑氏が指摘するのが、「情報」という言葉の意味。
まず英語の「データ」という意味合い。
これは細かく分かれた個々の現象や定量的な特性のことになります。
また「インフォーメーション」という言葉もありますが、こちらは事実情報に加え概念も含む場合があります。
日本語で「情報」というとこれらの意味合いで使われることが多い。
つまり情報戦略というと、データをいかに集めるかということに終始してしまうことが多いのです。
けれども英語では「インテリジェンス」という言葉も使う。
これらはただの「インフォーメーション」を分析、評価された上での情報になります。
その際に「インフォーメーション」から洞察(インサイト)する能力というのが大事になります。
マーケティングにおいて、まだ慣れないマーケターはデータを収集することで満足してしまうことが多い。
ただデータは集めただけはだめで、それらを何かしらの評価をしなくてはいけない。
そうでないと「使えない情報」になってしまうわけです。
最近は消費者分析においても、ただのデモグラフィックな数字の分析だけではなく、消費者の購買心理に踏み込んだ「消費者インサイト」の分析なども行うこともありますが、これらは「インテリジェンス」化がマーケティングの世界にも進んできたということでしょう。
ただし評価する上での危険性もこの本では指摘しています。
とりあげているのはイラク戦争や北朝鮮の軍事活動の評価について。
ご存知の通り、イラク戦争では大量破壊兵器をイラクが保有しているとしてアメリカが攻撃を始めたことが発端です。
けれども戦争終結後も大量破壊兵器は発見されませんでした。
これはアメリカが情報評価の落とし穴に落ちてしまったために起こったことです。
ただのインフォーメーションを分析する際は、ただ闇雲に行うわけにはいかない。
ある種の仮説を元に分析しなくてはいけません。
イラク戦争でいえば「イラクは大量破壊兵器を持っている」という仮説です。
ただこれは仮説であって事実ではない。
情報評価をするにあたっては、もともとの仮説を固めるために行うものですが、これらが違うとなった場合には仮説を考え直す柔軟性が必要になります。
そうでないと事実ではない仮説を固めるだけの情報収集になってしまうからです。
アメリカは諸処の事情に因り「イラクは大量破壊兵器を持っている」と思い込んでしまった。
そのために情報評価の落とし穴に落ちてしまったのです。
これはマーケティング活動においても同様です。
少し慣れたマーケターが陥るのは、自分がやりたいことそのためだけのデータ収集を行い、分析を行いがちなこと。
思い込みが深くなり、広い視野で冷静に客観的に評価ができなくなってしまう。
これはアメリカがイラク戦争の際に落ちた穴といっしょです。

「情報」とは集めるだけではだめであり、また硬直した視点だけで評価してもいけない。
仮説を持ちつつも柔軟な目線で俯瞰的に情報を評価する。
戦争においても、マーケティングにおいてもこの姿勢こそが大事なのだと思います。

「情報と国家 -収集・分析・評価の落とし穴-」江畑謙介著 講談社 新書 ISBN4-06-149739-1

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「ゴジラ FINAL WARS」 思い切った監督起用が功を奏す

「ゴジラ」の最終作と銘打ち製作されたのが本作。
公開時に、この作品を北村龍平監督が撮ると聞いて、驚いた覚えがあります。
どちらかというと最近流行のCGなどと違う、操演などでの伝統芸能のような特撮作品「ゴジラ」と、どちらかというとクセがあり、スタイリッシュな印象の北村監督のテイストが果たして合うのかなと思いました。
蓋を開けてみると、北村監督の思い切った起用は「ゴジラ」という作品においては正解だったような気がします。

「ゴジラ」という作品は世界的にも名前が轟いていて、そのためディープなファンも多いですよね、
また作品のターゲットはもともとのコアなファンであったり、怪獣大好きな子供であったりと幅も広く、絞りにくい。
特撮ファンを狙うと一般的な観客からはひかれてしまうし、かといって新しい路線を狙おうとすると昔からのファンは「こんなのゴジラじゃない」と言う。
歴史が長い分、背負い込むものも大きい作品なんですよね。
そのためか平成に入ってからの「ゴジラ」は万人向けを狙っているようで、さらに誰にもクリーンヒットしていないというピントがぼけたものになっていたように思えます。
少なくとも僕はあまり楽しめなかった(結局いつも観に行くのですが、がっかりして帰ってくることの繰り返し)。
「ガメラ」平成三部作の明確さに比べると、最近の「ゴジラ」はどうも狙いがはっきりしない。
(「ガメラ」は「ゴジラ」に比べ知名度も低かったので、財産らしきものは全くなく思い切りできたという利点はあったかと思います)。

さて本作「ゴジラ FINAL WARS」はこの作品で打ち止めという覚悟が製作サイドにあったからか、思い切った監督起用で、ラストにふさわしく華々しく華火を打ち上げていたように思えました。
惜しげもなく見せてくれる怪獣総進撃はやはりお祭り騒ぎのようで、子供の頃からの怪獣好きとしてはやはり嬉しい限り。
今の子供たちから観てもたくさん怪獣がでてくるだけで楽しいんじゃないかな。
怪獣をたくさん出すというところで、脚本も大味なところがあり、突っ込みどころも満載ですけれど、勢いで見せてしまっている感じはそれはそれでここちいい。
もともと「ゴジラ」なんて荒唐無稽ですし。
いままではのっしのっしと歩いているゴジラが走ったりジャンプしたりする映像は最初はびっくりしましたが、意外にも空中戦も交えたスピーディな怪獣バトルは新鮮。
このあたりのスピード感あるアクションは北村監督ならではの個性がでていたと思います。
怪獣アクションの中にも、笑いっぽいところ(ゴジラがゴールキーパーみたいに横っ飛びするところなど)があるのも北村監督らしい。
そういえば、北村監督作品の中で、一回転しながら振り向きざま銃を撃つというケレン味のあうシーンがよくありますが、本作でもゴジラは振り返りながら放射能光線を吐いていましたね。
人間のキャラクターはいわゆるステレオタイプな人が多かったですが、X星人役の北村一輝だけはぶっとんだキャラで気を吐いていました。
このキャラクターだけ北村龍平テイスト。
他の作品に比べると、北村監督色は薄い気はしますが、「ゴジラ」というシリーズにおいては、このくらいでも十分に新鮮に感じます。
思い切った監督起用が、作品に新しい力を与えたような気がします。

記念すべき第一作「ゴジラ(1954年)」の記事はこちら→

北村龍平監督作品「ラブデス」の記事はこちら→

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2007年12月23日 (日)

「魍魎の匣」 やはり映像化は難しいか

「姑獲鳥の夏」に続く京極夏彦さんの京極堂シリーズの二作目です。
僕は原作の大ファンでありまして、原作の「魍魎の匣」は初めて読んだ京極夏彦さんの小説ということで思い入れがありました。
ということで映画の方はどんなものかと早速観に行ってきました。

感想はというと・・・、わかりにくい!ですね。
どうも脚本がアンバランスなような気がします。
まず事件の概要がわかりにくい。
複数の登場人物の状況がそれぞれ進行し、その上時間軸もいったりきたりする。
相関関係がはっきりしないので、最後の研究所に行き着くまでどうも落ち着かない。
僕は原作を読んでいるにもかかわらずそうだったので、初めて観た方は混乱したのではないでしょうか。
あと後半の研究所のシーンが長過ぎます。
映画的には画で見せられるシーンなので、クライマックスとしてカタルシスを与えたかったのでしょうが、いかんせん結局わかりにくさを払拭するにはいたらず、フラストレーションが残ります。

京極堂シリーズはもともと映画化するには向かない小説ではあります。
主人公京極堂が落す憑き物は、いわゆる妖怪ではありません。
京極堂が行っているのは、ある種その人の思考や行動を縛ってしまっている思い込み、これをいったん解体し、自分を客観視するようにできるようにすることにより憑き物を落す行為です。
現代の認知療法に近いかもしれません。
そのため小説では、様々な登場人物のそれぞれの視点から物語が描かれて、それらが絡まってい進行していきます。
つまり小説の中で、それぞれ見ているもの、感じているものというのはその登場人物の主観的なものであり、必ずしも客観的なものではないのです。
その主観と客観の間にある曖昧なものが、魍魎として認識されるのです。
このあたりが小説ならではのトリックで、文章としてその人が見た、感じたことを書いているので、ある意味、事実さ加減が曖昧になっています。
(それがラストの京極堂の憑き物落しで事実が明らかになる。そこにカタルシスがあるんですよね。)
映画になる場合、それらは映像として観客の目に見えるわけで、それらは事実さ加減がどうしてもリアリティによってしまうわけです。
曖昧にできない。
だから映画の画では起こったことだけを追いかけていかざるを得ない。
「姑獲鳥の夏」は実相寺昭雄監督の独特で幻想的な画作り(不思議な構図、色使い、時折挟まれるイメージのような映像)が、小説が持つ曖昧さみたいなものをうまく消化していたと思います。
実相寺監督がセットを主体で撮った(特に目眩坂などはロケでもいいのにあえてセット)のも、「作り物」っぽさ、幻想感みたいな曖昧さを残したかったのかなと思いました。
本作では原田監督は外の風景はロケ主体でしたが、それもある種リアリティを出しすぎて、この曖昧模糊とした物語とそぐわなかったような気がします。
また小説ではそれぞれの視点で描かれているため、それぞれのキャラクターが自分が客観性を失っていくようなとても不安定な気持ちになるの酩酊感みたいなものがあります。
そういうのを最も感じさせるのが関口というキャラクターで、彼の視点では世界は脆く曖昧で不安定なものに見えます。
前作では永瀬正敏さんが精神的に不安定な役柄を好演していたと思います。
本作は永瀬さんに代わり椎名桔平さんが演じているのですが、妙に健康的で明るく狂言回しみたいな役回り。
どうもこれはいただけない。
榎木津の阿部寛さん、敦子の田中麗奈さん、木場の宮迫博之さんなどは前作から引き続きぴったりのキャスティングだったので、返す返すも残念です。

やっぱり京極堂シリーズは映像化は難しいのかなあ。

「姑獲鳥の夏」の記事はこちら→ 小説・京極堂シリーズ「陰摩羅鬼の瑕」の記事はこちら→ 小説・京極堂シリーズ「邪魅の雫」の記事はこちら→ 原田眞人監督作品「クライマーズ・ハイ」の記事はこちら→

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2007年12月22日 (土)

「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」 ゲイツ家の楽しい面々

一作目の「ナショナル・トレジャー」を観たときの印象は、可もなし不可もなしというものでした。
ブラッカイマープロデュースだけあって、映画が始まったら流れが止まらない作品ではあったと思いますが、あんまり印象には残らず。
二作目作るという話を聞いて、アメリカではそんなに受けたんだとびっくりしたものです。
やはりアメリカ人のほうが、アメリカの建国にまつわる話だったりしたので、興味がもてたのかしらん。

さてそういうことであまり期待していなかったためなのか、本作「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」は思いのほか楽しめました。
謎を一つずつ解きながら進んでいく展開でハラハラしますし、ブラッカイマー作品らしくアクションも盛りだくさんでした。
一番楽しめたのはキャラクターが活き活きしていたところでしょうか。
特に親子二代の宝探し一家ゲイツの二人と、それぞれの元妻、恋人とのやり取りがおもしろい。
主人公ベン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)の恋人アビゲイル(ダイアン・クルーガー)は、様々な場面でも冷静に状況をみて機転を利かせて対処するまさにクール・ビューティ。
博物館でのベンとのやり取り(始めは本気でケンカしているが途中から、芝居モードに切り替えるところ)なんかは楽しめます。
あと今回から登場のベンの母親エミリー(ヘレン・ミレン)もなかなか男顔負けの女傑。
ベンの父親パトリックと離婚してから何十年も口をきいていないのに、会うなりいきなりケンカをはじめてしまう。
パトリックが会いにいくのをいやがるの、わかります。
口喧嘩では女性にかないません。
ゲイツ家の男性陣は気の強い女性が好みなのでしょうかね。
あとやっぱり敵役のエド・ハリスが良いですね。
「ザ・ロック」の時もそうでしたが、ただの敵役じゃなくそのキャラクターなりの背景みたいなのを感じさせてくれるキャラクターたちにはエド・ハリスはぴったり。
最近は悪役は性格がねじれてサイコっぽかったり、某国テロリストみたいなのが多くて、ステレオタイプ化しているので、こういうキャラクターは新鮮ですね。
そういえば、エド・ハリスとダイアン・クルーガーは「敬愛なるベートーヴェン」で共演していましたね。

「ナショナル・トレジャー」シリーズは二作目の本作で、ゲイツ家の面々のキャラクターの個性がはっきりと定まったような気がします。
それぞれのキャラクターの絡みなどをうまくやっていけば、いろいろ話はおもしろく作れそうな気配がありますね。
シリーズ化しやすい構成なので、本作当たれば次もあるかもしれません。

ニコラス・ケイジ主演「ゴーストライダー」の記事はこちら→

ダイアン・クルーガー出演「ミシェル・ヴァイヨン」の記事はこちら→

エド・ハリス、ダイアン・クルーガー出演「敬愛なるベートーヴェン」の記事はこちら→

ヘレン・ミレン主演「クィーン」の記事はこちら→

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2007年12月16日 (日)

「風林火山」 時代がかった時代劇

昨年の「功名が辻」と同じく(こちらのほうがやや時代は古いですが)、戦国時代を舞台にした大河ドラマです。
織田信長も恐れたという騎馬軍団を率いる武田信玄の軍師、山本勘助を主人公としています。

「功名が辻」では主人公である山内一豊の妻、千代をとても現代的な女性として描いていました。
戦国大名の妻でありながら、様々な情報から状況を分析し夫にさりげなく献策する。
才女でありながら夫をたてることを忘れない。
けれども戦前の教科書に載っていたような夫の言うことに従い、内助の功を行う女性というよりは、言いたいことはしっかりと主張する現代的な描かれ方をしていました。
「功名が辻」は時代劇でありながら、現代劇のようなドラマになっていたかと思います。

今年の「風林火山」は戦国時代と「功名が辻」と同じながらも、昨年と打って変わって「時代がかった時代劇」になっていたように思われます。
まず登場人物の話し方や仕草などがかなり大仰なこと。
昨年は話し方などの時代考証という点ではわざと曖昧にしていたように思えますが、「風林火山」は地域や身分などによる話し方の違いなどはかなり念入りに考証していたように感じました。
ちょっと大仰すぎて、歌舞伎のような感じがしてしまう感もありましたが(特に信玄役の市川亀治郎さんは歌舞伎チックでちょっと苦手でした)。
あと登場人物の思考の仕方がその時代の人らしいような気がしました。
「功名が辻」で描かれた千代は現代人のような思考の仕方をしていましたが、現実的はまあ、ありえない。
対して「風林火山」の主人公山本勘助は清廉潔白の士ではない。
まずは自分が生きること、そしてこの人はと決めた人物(信玄と由布姫)のためとあれば、権謀術数は厭わない。
乱世であり生き馬の目を抜くような時代であればそうでなければ生き抜けないはず。
戦国時代に生きている人間というのはこういう人間だったのかもしれないと思えました。
理想主義だけでは生きていけぬという時代性が山本勘助というキャラクターに表れていたように思えます。
劇中幾度となく、山本勘助の生き方に対して他の人物から悪く評されます。
NHKの大河ドラマにしてはなかなか珍しい主人公ではなかったかと思います。
対して清廉潔白の理想主義者として描かれていたのが上杉謙信。
ただ合わせて力も持っている男であるが故に、理想のためには容赦のない危険な側面もある人物のようにも見えました。
こちらはGacktさんが好演。
女性のような美貌を持ちながら、剛健であるという謙信というキャラクターにぴったりだったように思えます。

何次にも渡る川中島の戦いがドラマの中で描かれますが、この合戦シーンの描写は見事でした。
青い空と緑の平原で大人数が激突するシーンは映画のような迫力がありました。
実際に出演者たちが馬に乗り、何重にも組まれた陣の中や乱戦の中を駆け抜けるその場面をロングショットでおさえるなどかなり贅沢な作り。
手持ちのカメラが戦場の中に入り、登場人物を長回しで追うなどということを行っていましたが、それらの手法は戦場の戦いの生々しさを伝わってくるのに貢献していたように思えました。

06年NHK大河ドラマ「功名が辻」の記事はこちら→

08年NHK大河ドラマ「篤姫」の記事はこちら→

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「やじきた道中 てれすこ」 しゃべるしゃべるは照れ隠し

「しゃべれどもしゃべれども」の平山秀幸監督作品です。
「しゃべれどもしゃべれども」では落語家が主人公でしたが、本作では落語によく出てくるおなじみの登場人物、弥次さん(中村勘三郎さん)喜多さん(柄本明さん)が主人公。
この二人に加えて元花魁(小泉今日子さん)のお喜乃を加えた三人の東海道珍道中の物語です。
タイトルのアニメーション、丸と四角と三角でこの三人の似顔絵を表していましたが、とっても似ていてかわいらしい。

「しゃべれどもしゃべれども」は自分の想いを素直に言葉にできない不器用な人たちを描いていました。
本作「てれすこ」の登場人物はとてもよくしゃべる、しゃべる。
主人公三人はみんな江戸っ子、ぽんぽんぽんぽん次から次へと調子良く言葉がでてきます。
特にお喜乃は気っぷがいい。
売り言葉に買い言葉、女だてらの大啖呵に、言われた大の男もびびります。
「女郎ってのはね、騙しますって看板出して商売してんだい!」
まさに逆ギレですが、小泉今日子さんの気っぷの良さがでてました。
言われた方は「へい・・・」って言うしかないですよね。
同じ女性でも「しゃべれどもしゃべれども」の無口な十河とは、まったく逆のタイプに見えます。
そんなふうに登場人物がよくしゃべる「てれすこ」ですが、それでもこの映画は、やはり自分の想いを素直に言葉にできない不器用な人を描いているように思えます。

弥次さんは、死んだ女房に似たお喜乃に惚れています。
でもそんなこと恥ずかしくて口なんかにはできないので、かいがいしく通ってお喜乃の頼み事を聞いたりする。
お喜乃の方も弥次さんのことを憎からず思っているようですけれど、口にするのは憎まれ口ばかり。
「こーのぉ、唐変木!」
「こーのぉ、でこすけ!」
その他、さまざまなバリエーションがありましたが、弥次さんに向けたこれらの罵詈雑言には悪意は感じられない。
というよりなんとなく愛情を感じてしまう。
なんていうか、子供の頃に好きな子をとりわけからかったり、悪口を言ってみたりするような、照れ隠しみたいなもの、でしょうか。
お喜乃に言わせりゃ「惚れたなんて言わなくても、そんなの、わかってるだろ、このバカ」みたいなことなんですよね。
昨今はなんだか照れみたいなものがなくなって、なんでも明け透けな感じがある風潮だったりするので、なんだかとても新鮮な感じがしました。
素直に自分を連れて逃げてってくれとは言い出せない、そんなお喜乃もやっぱり不器用な人なんでしょう。
そんな登場人物の不器用っぷりがなんだかかわいくて、愛おしく見える映画でした。

平山秀幸監督作品「しゃべれどもしゃべれども」の記事はこちら→

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2007年12月15日 (土)

「ラブデス」 欲望ギラギラ

ギラギラ、欲望ギラギラ。
出てくる出てくる登場人物がみな、自分の欲望まる出しでギラギラしている。
自分の欲望を叶えるために他人がどうなろうがおかまいなし。
女のため、金のため、地位のため・・・。
ただ殺したいだけという欲望のために動く輩も。
それぞれが自分の欲望のために動く。
それらの欲望がたがいにぶつかり合い、その衝突は次第にエスカレートしていく。
まさに狂騒。
ここまで皆が自分の欲望に忠実だと、観ていて心地よくなってくるから不思議。
北村龍平監督らしく、きつい映像やブラックなジョークなどもふんだんに入っていたけれど、それらはさほど嫌じゃない。
かえって観終わった後、スッキリしたという印象が残ります。
観ていて、普段知らず知らずのうちに抑圧している欲望が発散されたのかも。
生活していると望みや欲などを、他人(自分以外の人)や組織・社会との間で無意識に調整してしまうもの。
ある意味、この映画の登場人物たちは素直に正直に生きている人間たちなのかもしれない。
思うがままに生きている。
思うがままに生きて、運が悪けりゃそれでオシマイ。
潔いといえば潔い。
だから観ていて爽快感が残る。
欲望に忠実に生きるなんて、気弱な凡人にはそうしたくてもできないことですから。

濃いキャラが多いこの映画でしたが、やはりクロガネはなかでも最も濃い感じがしました。
2時間ドラマの帝王、船越栄一郎さんがとんがったキャラを嬉々と演じていました。
観ている人が感情移入しやすいのは大友康平さん演じるジュウモンジでしょうか。
勝手きわまりない他のキャラクターたちに振り回されたあげく、結局死んでいく。
最後の「なんで俺がこんな目に」というのはなかなか悲哀がありながら、なんだかおかしい。

北村龍平監督はこんな風に自由に撮らせると、ほんとにスタイリッシュでスピーディでカッコいいですね。
タランティーノのような、なんだかとってもアメリカンな印象を受けました。
最後の富士の裾野(たぶん)のシーンなどは、かなりライトをあてて堅い印象の画面の仕上がり。
それぞれの欲望のギラギラした感じがよく出ていたと思います。
日本の監督では珍しく自分のスタイルがある人のなのでしょうね。
「ゴジラ」とは違い、本作はとても伸び伸びと作っている感じが伝わってきます。
本作は北村監督の撮りたい映像の欲望がギラギラと出ているのかもしれません。

北村龍平監督作品「ゴジラ FINAL WARS」の記事はこちら→

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「アイ・アム・レジェンド」 I am not alone.

 "You are not alone."
 「君は独りじゃない」
N.Y.で”地球最後の男”となったネビルがAM電波にのせ、どこかに残っているかもしれない生存者に向かって語っていた言葉です。
ラジオで語りかけても、それを聞いている者は誰もいないと心の底ではネビルは思っている。
この言葉は彼自身が自分に向かって語りかけていた言葉のように思えます。
先の言葉は
 "I am not alone"
自分以外の人類は破滅しいまだ希望がみえない孤独の中で暮らすネビルにとって、たぶんそうあって欲しいという気持ち(それと諦め)が表れた言葉なのでしょう。
自分が最後なのかもしれない、それは想像するだにこの上もなく寂しく、希望がない。

人類を破滅に追いやったウィルス、その抗体を開発すべくネビルは取り組んだけれども、それは及ばず人類は闇の中で暮らすダーク・シーカーと化してしまいます。
ダーク・シーカーと戦いサバイバルを続けるそのような状況でもネビルは日々、対ウィルス用の抗体を開発しようとしています。
僕は、最初はもう手遅れであり、開発できる希望もない状況の中、なぜネビルはその取り組みをやめないのかと思いました。
自分だったら、その状況に圧倒され惚けてしまい、無気力に生きてしまうような(自死する勇気もないだろうから)感じがします。
たぶんネビルは独りで過ごす延々と続くであろう先の時間が怖かったのでしょう。
また人類も家族も救えなかったという悔いもあるのでしょう。
それが何年と続くかわからない。
それがとても恐ろしいとネビルは感じていたのでしょうね。
だからこそ独りになっても研究を続けていた。
もしかすると仲間が得られるかもしれない。
それだけを希望として。

<ネタバレあります>

唯一の仲間である犬のサムを失い、ネビルは本当の孤独に直面します。
そして時を同じくして、他の生き残りに彼は出会う,。
自分以外の生存者がいることに、ネビルは戸惑います。
普通に考えると喜んでいいと思えますが、彼は混乱する。
彼自身が生きてきた理由は人類を救うためという想いのみ。
人類を救えなかったという後悔が、逆に彼自身の力となり彼を生かしてきていたのですね。
けれども生き残った人間がいるという事実は、彼の生きていく力の原動力であった前提を覆してしまうということになるわけです。
後悔こそが彼の生きていく力であった。
人類が生き残っている村がある。
希望が見える。
けれどもその希望は失われるかもしれない、そうなったら今度こそ生きていけない。
だからこそ彼は戸惑う。

けれどもついにワクチンが完成します。
本当に人類を救うことができる。
彼の生きていく力である悔いはなくなった。
"I am not alone"
彼は本当にそう思えた。
希望を持てた。
そんな気持ちを持ったまま、彼は人生を終えたかったのかもしれません。

映画の中で描写される荒廃したN.Y.はなかなかの映像。
CGなのでしょうね、たぶん。
誰もいなくなり街だけが残ってしまったN.Y.は、普段が喧噪かしましい印象があるからこそ、その静けさがとても寂しく、ネビルの孤独感がひしひしと伝わりました。
最近のゾンビ映画では生ける死者も普通に走るようになってきましたが、本作はまさに全力疾走。
あんなのに追いかけられたら、ほんとうに心臓止まります・・・。

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2007年12月 9日 (日)

「LOST シーズン3」 脆い男としてのジャック

年末に「LOST シーズン3」がDVDが出ますが、一足先にAXNで観賞しました。
ケーブルテレビに入っていて良かったー。

シーズン2のオープニングでは見慣れないどこかの部屋で朝を向かえるデズモンドの描写から入り、新しい登場人物を紹介しながら意外な展開を予感させる描き方をしていましたが、シーズン3も同様に新キャラクタージュリエットの描写、見慣れぬ街の情景から入りましたね。
そしてシーズン2で登場したベンの再登場、そして空で爆発墜落する飛行機。
オープニグから謎を予感させ期待感をもたせるのは、さすが。
アメリカでは視聴率が落ちてきているということですが、シーズン3も毎回ドキドキする展開で楽しませてくれます。
シーズン3で次第に明らかになっていくのは、当初より謎の存在であった「他のものたち」。
シーズン2のラストで彼らに攫われたジャック、ケイト、ソーヤーたちは、得体にしれない彼らの中にもそれぞれの生き様、背景があることを知ります。
そして島の謎も明らかになっていく(けれどもさらに新たな謎がでてきますが・・・)。

シーズン3で大きく変化があったキャラクターと言えば、ジャックでしょう。
シーズン2までは、クセのある登場人物たちをまとめあげ、幾度もの困難に決断力をもって挑んでいたジャック。
けれどもシーズン3に入り、彼が過去に背負っていたものが明らかになります。
父親との確執や離婚していたことについては、それまでも語られていました。
シーズン3ではジャックの過去でそのような困難な場面でジャックが精神的に苦しみ、酒や薬におぼれる姿が描かれます。
それは、島での決断力がありタフなジャックとは180度異なるようなとても脆い男としての姿。
ジャックの真実の姿とは、とてもセンシティブで脆い男なのです。
ジャックという男は「人を救う」という行為により、自分自身を保っていた人間なんですね。
医者という職業となったのも、もちろん父親の影響はあるとは思いますが、彼にとっては必然だったのかもしれません。
そうでなければ彼は自分に押しつぶされていたのかもしれません。
だからこそ苦難な状況であり、皆が苦しみ彼の決断力を期待し頼ってくれる場所であるあの島は、ジャックにとっては実は居心地のいい場所であったのかもしれません。
ロックはあの島は自分が到達するべき運命の場所だという認識をしていますが、ジャックも彼自身は自覚していないにせよ、彼にとっての運命の場所、必然の場所なのかもしれません。
シーズン3のラストはそれを予感させる終わり方でした。
ますます次の展開が気になりますが、シーズン4が日本で放映されるのはいつのことになるのでしょう・・・。

「LOST シーズン5」の記事はこちら→ 「LOST シーズン4」の記事はこちら→

「LOST シーズン2」の記事はこちら→ 「LOST シーズン1」の記事はこちら→

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本「沈底魚」

第53回江戸川乱歩賞受賞作です。
エスピオナージ(諜報)もので、これは僕の好きな小説のジャンルです。
タイトルにある「沈底魚」とはスパイでいうスリーパーのことですね。
他国や他の組織に潜入して、ことが起こるまでそこにとけ込んで生活し、そして命令があったときには速やかに活動をする潜入者、それがタイトルの「沈底魚」の意味合いです。
諜報ものらしく、事件の真相は裏の裏に隠れ、いったん真実がわかったと思ってもそれが覆される。
誰が「沈底魚」なのか、主人公から見ると誰もが疑わしい。
そのあたりの展開はなかなか読み応えあります。
二転三転する展開はやや目まぐるしい感じもしますが、淡白な展開よりはスパイものはこのくらいが良いかもしれません。
話法は一人称のため主人公が知らない事実というのは描けないので、このような二転三転する話はかなり書き手としてはむずかしいかと思いますが、そのあたり新人作家としては齟齬なく書いているように思えました(一人称だと下手をすると読み手からみて卑怯な手をつかいがちですが、そんなことはありませんでした)。
最近の江戸川乱歩賞受賞作は、どうも小ぶりで読み応えのあるものがなかったような気がするので、こんなしっかりとした作品は久しぶりです。
作者の次回作に期待ですね。

「沈底魚」曽根圭介著 講談社 ハードカバー ISBN978-4-06-214234-2

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「学校の階段」 まるっきり歯ごたえがない

学校の廊下・階段をラリーコースに見立て、設置されたポイントをより早いタイムで通過する競技(?)の実施を活動内容とする天栗浜高校の非公認部活「階段部」。
この「階段部」に所属するのは、中学時代の部活では結果をだした選手だったもののさまざまな挫折を経験した落ちこぼれの生徒たち。
そこにひょんなことで入部してしまった主人公、神庭里美(黒川芽以さん)。
「階段部」は生徒会や先生に廃部を迫られ、そして里美は生徒会長ちづると部の存続をかけたレースに挑む。

といったばかばかしいと言えばばかばかしいストーリーですが、階段を使ったラリーのような新しい競技を考えだしたこのアイデアはおもしろいと思いました。
上履きをキュキューと滑らせながら、まるでほんとのラリーのドリフト走行のようにコーナリングするところなんかはおもしろいビジュアルだなあと思ったりして。
障害物競走のように思いもかけないトラップや障害がでてきたり、また階段のへこみにつまさきをひっかけ急激にターンをする「Vターン」等は、懐かしのスポコンの必殺技のようでおもしろいと思いましたが、ただそれだけ。
中途半端にせず「ピンポン」のように、もっとオーバーにコミック調に見せてくれたらもっと楽しめたのに。
予算がなかったのか・・・。
よほど最近のテレビドラマの方がお金かけているように見えます。
青春ものとしても、高校生たちのパーソナリティや悩みが共感できるほど深く描かれているわけではないので、青春映画好きとしては歯ごたえがない。
最後まで深い感情移入がないので、最後のレースのシーンの盛り上がりもいまいち。
そもそもあまりそのような青春の悩みをテーマとして伝える気もないような脚本・演出でした。
かといってアクションとしても見せ所は少ないですし。
途中で唐突に主演の黒川芽以さんの歌が挿入されるところは、いまどきはあまり見ないアイドル映画風。
これもなんだかタレントを売り込みをしたいという意図が見えてなんだか哀しい・・・。
全体的に低予算で映画を作り、若手女優のプロモーションに使いたいという意図が見える映画でした。
製作サイドの意図をほとんど感じず、ふにゃふにゃして歯ごたえのない印象ばかりが残りました。

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2007年12月 8日 (土)

「ナンバー23」 数字の神秘

「23」という数字に支配されているという妄想にとりつかれた男が主人公の物語。

古来から東西を問わず、数字というものに神秘的な意味があるという考え方があります。
西洋占星術へとつながる数秘術などや、名前の画数などに意味があるという考え方もそうかもしれません。
普段からなじみのあるラッキーナンバー7や、四は縁起の悪い数字などというのもそういう考え方の一つなのでしょう。
そもそもは聖書などの古典に書かれている物語が由来となっていたり、語感(四=死)などからきていたりするでしょうから、数字自体が神秘的な意味を持っているわけではないと思いますが、人間というのは不思議なものでそこに意味を見いだしたくなってしまうものなのかもしれません。

考えるに、数字というものは人間が自分の周囲の環境をとらえる尺度となるものです。
距離だったり、重さだったり、空間の広さだったり、そして時間の長ささえも。
数字があるから違うものを比較することができ、それにより人間は環境を正確に認識することができる。
数字を「発明」したからこそ人間は環境に影響を与えることができるようになったと言えるかもしれません。
そして人間が人間たる理由としての一つは時間を認識できるということ。
空間を動物は認識できても、概念上とはいえ時の流れ、距離を認識できるのは人間のみ。
1日前と今日とⅠ日後が違うと認識できるのは人間だけです。
そして人間は明日<未来>というものがわかるようになったからこそ、明日<未来>に対して不安を持つようになる。
なるべくいい未来を迎えたいと思うのは当然なわけで、そこでなるべく人間は未来を予測したくなる。
もしくはいまの行動がよい未来につながっているはずだと信じたくなる。
そこで「縁起」という考え方が発生するのではないかと思います。
ラッキーナンバーや縁起の悪い数字などというのは、そもそも科学的な根拠などあるはずもないけれども、それを信じることにより、真っ暗闇を全力疾走するような不安は薄まり、うすぼんやりとした暗さの中をすこしばかり安らかに「明日」というものを人間はむかえられるようになる。
現代人で「縁起」というものが未来予測につながることを信じている人はほとんどいないと思うが多少なりとも気にするのは、そうすることにより少しは未来を無防備で迎えることの不安が減るからだと思います。
その不安が過剰になればなるほど未来の確からしさを求めるようになって、そこに必然とか運命というものを見いだしたくなり、本来は機能的な役割しかもたない数字にそれ以上のものを期待するのが数秘術などの考え方なのでしょう。

本作の主人公ウォルターは過去の記憶がないという意味で、未来に対しての不安は普通の人よりも深いものだと思われます。
自分自身が覚えていない過去のことが、いつ自分の未来に影響をあたえてしまうかもしれないという漠然とした不安を抱えている。
だからこそ本人にとって意味があるように思われる23という数字が自分の運命を決定する(不幸な未来であっても不確かよりは受け入れやすいのかもしれない)ということを信じてしまったのかもしれません。

この物語をみるとちょっとみんな怖く感じるのは、少なからずそういうこだわる部分というか、過度になると偏執狂的なところが、自分の中にもちょっとはあると感じるからだろうと思う。
未来に対して不安な気持ちというのはみんな持っているわけで、そこには数字ではないかもしれないがなにかしらの自分なりのこだわりの「縁起物」がないと生きていけないからかもしれません。

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2007年12月 2日 (日)

「ホワイトアウト」主人公の行動の動機付けが大切

先週「ミッドナイトイーグル」を観ましたが、とかく比較される「ホワイトアウト」を久しぶりに観賞しました。
やはり断然こちらの方がおもしろいです。

この二つの作品の共通点としては雪山でのアクション映画であること、主人公が軍人や警官ではなく民間人であることです。
日本を舞台にこのようなアクション映画(特に敵がテロ組織のような場合)で民間人を主人公にするのは難しい。
日本は他の国とは違い、普段の生活でほとんど危険もありませんし(最近はそうも言ってられないですが)、また兵役などもないわけで、命の危険にさらされるようなこともあるかもしれないなんてことは考えていない人ばかりでしょう(かくいう僕も)。
ですので、民間人がアクション映画のような危険なシチュエーションに放りこまれたとしてもおろおろするばかりというのが予想されるわけです。
そのため、日本を舞台にしたアクション映画で危険な事件にあえて民間人の主人公が踏み込んでいくには、物語上納得性の高い理由が用意されていないとリアリティがもてません。
このリアリティというのは、主人公がそのような行動をとる上での動機付けがなされているかどうかということです(日本国内でそんな簡単にテロなんてできるわけないじゃないというようなリアリティではありません)。
「ホワイトアウト」においてはそれがきちんと描かれています。
冒頭のシーン、遭難者の救出作業をしている時に、主人公富樫は親友である吉岡を不可抗力ながら助けを呼びにいくために置き去りにしてしまいます。
救難作業は及ばずに吉岡は死亡してしまい、富樫は親友を救いきれなかったという思いに苛まれます。
自分はあのとき逃げ出してしまったのではないかという思い。
そのような自分の中に背負い込んでしまった心の十字架のようなものが、彼が事件に巻き込まれた時に命をかけるほどの動機になります。
巧みに「ダイ・ハード」的な逃げ出したくても逃げ出せない状況というのを用意している物理的な設定も効いているかと思います。
けれどもいくつかあった逃げ出せる場面においても、先に書いたような動機付けにより富樫はあえて危険の中に踏み込んでいきます。
それは他者を救うという行為でもありますが、またそれは自分をも救う行為なのです。
この状況を逃げ出したとして命を拾ったとしても、彼にとってその先の人生はただ悔やむだけのものになってしまい、それはほぼ死んでいるというのと同じだということが、彼には直感的に分かっている。
このような富樫の感情というのはとてもリアリティがあるため、物語が描かれる状況がリアリティがなかったとしても、観ている側にとっては荒唐無稽な感じはしないのです。

翻って「ミッドナイトイーグル」をみてみると、主人公西崎があえてあのような危険なシチュエーションに自ら飛び込んでいくという感情の動きにリアリティがないように思えます。
功名のためでもないでしょうし、スクープを狙う後輩を助けるというのも弱すぎます。
また日本を守るためというのも一民間人にとっていうと荷が重いわけで、普通は自衛隊の方にお願いしますというのが自然でしょう。
シチュエーション的にもいつでも逃げ出せる状況であるわけなので、動機が薄弱だとますますリアリティ欠如に陥っていきます。
「ミッドナイトイーグル」の冒頭の中東らしき場所での爆撃シーンが、「ホワイトアウト」の富樫のトラウマと同じようなつもりなのかもしれませんが、これは全く違うと思います。
富樫の事件は自分が主体となっていますが、西崎の立場はあくまでも傍観者です。
このあたりが民間人があえて命をかけるほどのシチュエーションに入っていくことへの納得性の差になっているのでしょう。

二作品を観てみてこれらが同じ脚本家であるというのがとても不思議です。
これは原作の差かもしれません。
真保裕一さんの初期の作品群(小役人シリーズともいわれる)では一度自分自身が逃げ出したことによる後悔を背負っている主人公というのがよく出てきます。
これらは僕たちも生きていくなかで、多かれ少なかれ経験することであり、これが真保さんの小説が共感性が高い理由かも知れません。

「ミッドナイトイーグル」の記事はこちら→

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「ベオウルフ 呪われし勇者」民族史を知っていると楽しめるかも

最近乱作乱造気味のファンタジー映画。
「パンズ・ラビリンス」などの傑作も生まれていますが、あとはやや食傷気味であることも確か。
観に行こうかどうか迷いましたが、映画の日でしたし、ロバート・ゼメキス監督ということもあり、観賞してきました。

ベースとなっているのは、イギリスの古典の叙事詩だとか。
「指輪物語」等さまざまなファンタジーにも影響を与えたということもあり、この物語は英雄と怪物が戦いが描かれる英雄譚ですね。
マッチョな英雄が、自分の力で怪物を倒し、富と名誉と美女を手に入れるという典型的なお話だったためそれほどの新しさは感じません。
「コナン・ザ・グレート」みたい。
「アイアム ベオウルフ!」という雄叫びやコンピュターに取り込んだ映像ということで、「300<スリーハンドレッド>」と比較されそうですが、物語の骨子はまるで違う。
「300」で戦う男たちは自分を犠牲にしてでも家族や仲間を救うという大義があるので、観ていて感情移入ができ男たちの戦う姿に共感ができます。
けれども「ベオウルフ」が戦うのは前半では己の名誉や富や女性という自分自身への欲のためであり、後半での戦いも自分の過去の失敗に対する償いのためにあります。
彼の戦いは極めて個人的であるため、現代の僕たちからみると戦いに大義を見いだせません。
(英雄譚が誕生した時期は「強い」ということが生存に繋がる道であったため、それだけで賞賛されるものであったということ想像できますが)
そのため観ていても派手なアクションだけを楽しむというところが正しいのでしょうが、そこもあまり満足はできません。
全編をデジタルに取り込み作業をしているようですが、カメラワークや質感などをかなりいじっているようで、それが返って作り物らしさを強調しているような結果になっているように思えます。
例えばアンジェリーナ・ジョリーの顔のアップの表情はまるでCGでつくったような質感ですし、激しくカメラが動き人がふっ飛ぶアクションシーンの人はまるで人形のよう。
服の質感なども3DCGアニメのような質感が残り、気になりました。
そう考えると「300」などはあえてコミック的なテイストを残し、漫画風な質感に徹したことがフルデジタル映像という手法に合っていたような気がします。
そういう意味で「ベオウルフ」は中途半端な感じがいたしました。
実写のCG化、アニメのリアル化、その狭間というのは今までもこのブログの記事で書いていますが、なかなか塩梅が難しいですね。

アンジェリーナが演じたグレンデルの母は、ケルト民族の民話に登場する地母神(グレート・マザー)を表しているのでしょうね。
各国の神話にも観られるとおり、大地の神は母親でありかつ戦いの神でことが多く、本作のグレンデルの母もそれに類するものとみることができます。
大地は作物などを産みだす母のような存在であると同時に、時に怒ったかのように人間に災いをなす存在であります。
それが地母神として神話に表現されているのです。
地母神(大地)は人間の英雄と契りをし、子を産み、そして人間たちに豊かな実りを約束する。
このような物語が厳しい自然の中で生き抜いた古代人の意識に産まれるのは不思議ではありません。
けれども最後のシーンでその原初の意識も次第に変わっていくことが示唆されます。
最後の英雄となったベオウルフの遺体を乗せた小舟は、落日の太陽を背に海に沈んでいく。
その船には地母神としてのグレンデルの母も乗っていていっしょに海中に没する。
焼け落ちる小舟のマストの残骸はまるで十字架のようにも見えました。
これは古きケルト民族の価値観が終焉し、その後キリスト教普及による新たなる価値観がその地にも浸透していくということを表しているようにも思えました。
この作品けっこうそういう目で観ると、ところどころ様々な象徴が織り込まれている作品なのかも知れません。
ヨーロッパ古代民族史などを知っているとけっこう楽しめるかも。

「パンズ・ラビリンス」の記事はこちら→

「300<スリーハンドレッド>」の記事はこちら→

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2007年12月 1日 (土)

「椿三十郎(2007)」オリジナル脚本の完成度を改めて実感

世界のクロサワの代表作「椿三十郎」の森田芳光監督によるリメイクです。
黒澤明監督の「椿三十郎」を観たのはかれこれ十五年くらい前、大学生の頃でしょうか。
映画好きは高校生の頃からですが、大学生になると映画の知識などもついてきて、やはり黒澤映画を観ないわけにはいかないだろうということで、「七人の侍」「椿三十郎」「用心棒」などをビデオで見たのが初めてでしょうか。
(そういえば「七人の侍」は銀座でリバイバルをやっていたのをわざわざ観に行ったなあ)。
やはり世界的に認められ、映画史にも残る監督だけあっておもしろく見終わって満足感がありましたね。
黒澤明監督は晩年の作品よりもこのあたりの作品が好きです。

さてそういうふうに思い入れもあったので、このリメイクには期待と不安がありました。
蓋を開けてみると・・・、結構楽しめました。
一見粗野に見えるけれども、世話見のいい男、椿三十郎。
やはりこのキャラクターが魅力的です。
この男、城代の奥方にむき身と例えられるほど、腕はたつし、頭も切れる。
いつでも自由できままに生きていて、余裕を感じる男。
若侍たちが次第に彼を頼りにしていくのもわかるほど、懐が深い男。
それでいて鞘から抜けた瞬間にギラリと光る刀のような、鋭さを持っている。
男ならばこうありたいと思う、憧れる男の像の一つかもしれません。
そして他にも三十郎に「こいつは俺だ」と言わせるように切れ者の室戸半兵衛。
頼りない若侍たち、おっとりしながらも人の本質を見ている奥方。
囚われて押し入れに入れられているのにちょいちょい顔をだしてくる敵方の侍。
この作品には魅力的なキャラクターたちがたくさんいます。
オリジナルは十数年前に観た作品でしたが、リメイクを観ても久しぶりに懐かしい人々に会ったような気がしました。
演じている役者は別ですけれども、キャラクターの本質はそのまま、かなりオリジナルに忠実なリメイクだったような気がします。
たぶん脚本はオリジナルのままですよね。
(「あぶない、あぶない」とか「四十郎になっちまう」なんて台詞もそのままで嬉しい)
オープニングの脚本には菊島隆三、小国秀雄、黒澤明の名がでていましたし。
多分これは正解だったと思います。
というより変えようがなかったのかもしれません。
それだけキャラクターたちが活き活きと描かれている脚本なのでしょう。

椿三十郎を演じた織田裕二さんも良かったのではないでしょうか。
オリジナルの三船敏郎さんのイメージがとても強い中、うまく演じていたと思います。
はじめキャスティングを聞いた時は、時代劇のイメージがなかったのでうまくはまるかなあと不安になったのですけれども。
三船さんの三十郎は豪放でワイルドなイメージがあります。
ギラギラしているイメージというのでしょうか。
織田裕二さんという俳優は、器用な演技派と呼べるタイプの役者さんではないと思います。
どちらかというとどの役を演じても「織田裕二」になってしまうというか。
どの役でも「踊る大捜査線」の青島刑事みたいなんですよね。
とても前向きでまっすぐな人というような(以前一度仕事でご本人とお会いしたことありますが、普段もほんとまっすぐな人という感じでした)。
これは悪いというわけではなく、「織田裕二」という役者のスタイルになっているということなのでしょう。
今回織田裕二さんは三船三十郎をかなり意識して演じていたと思います。
いつもよりも大きく口を開け粗野な口ぶりで話す感じなどは三船さんをイメージしているのでしょう。
けれども彼の場合は「織田裕二」という色がでてしまう俳優さんです。
うまくいえないですが、オリジナル三十郎を意識しつつも現代的の「織田裕二」がでてしまう塩梅がちょうどいいバランスで、現在公開するにあたりいい具合に現代的になっていながらオリジナルのキャラクターを崩さず観やすくなっていたような気がします。
室戸のキャラクターはオリジナルの仲代達矢さんのギラギラした感じが好きだったので、豊川悦司さんだとちょっともの足りない感じも。
でも織田裕二さんとのバランスをみるとこのくらいがいいのかもしれません。
奥方を演じた中村玉緒さん、木村役の佐々木蔵之介さんもよかったですね。
キャスティングはかなり良かったのではないでしょうか。
これも脚本でキャラクターが確立しているからできたことかもしれません。
あらためてオリジナル脚本の完成度の高さを実感させられました。

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