「呉清源 極みの棋譜」中国人と日本人の間で
つい先日中国上海に仕事で行ってきました。
最近は反日感情などもあるというのをニュースとかでやっているので、中国の人はどんな感じだろうかと思ったら、けっこうフレンドリーな方々でした(お会いした方は日系企業にお勤めだからというのもあるかもしれませんが)。
この映画の主人公、呉清源は実在の棋士で、戦前に中国から日本に帰化した人物。
僕が前にいた職場にも、中国から日本に帰化した方がいました。
デザインを行う職場でしたが、彼は日本の大学でデザインを勉強し、そのままこちらで就職し、帰化したのです。
いっしょに仕事した時は中国国籍だったのですが、ある日帰化の許可がでたのでこれから日本人ですといわれてびっくりしたのを覚えています。
何故びっくりしたかというと、今の自分からすると日本人でなくなるということというのは想像もつかないからでした。
日本人でなくなるというのは自らのアイデンティティの一部を変更するということなので、けっこう思い切ったことをするなあという印象でした。
ただよくよく考えてみると、中国人というのはそのように世界中に広がり華僑としてその地に根付き、そしてネットワークは維持していくということができるとてもたくましい民族であるのだなあというようにも思えてきました。
中国というのは、歴史の中でさまざまな国家が興っては消えた場所でもあります。
もしかすると民族として「国」という枠組みに対してそれほど信用していないかもしれません。
「国」などというのはいつ何時、他のものに変わってしまうかもしれないと思っているような感じがします。
だからこそ、国などという枠組みに囚われず自由に世界に広がっているのかもしれないです。
ずっと日本国としての枠組みが変わってきていない日本民族のほうが「国」へのアイデンティティ上の依存度が高いのかもしれません。
この映画に登場する呉清源は碁という勝負の世界に生きる男ですが、全編で描かれているのはどちらかというと不安定でナイーブな姿でした。
彼に関していうと。先に書いたようなたくましい中国人というよりは、壊れそうなほどの繊細さを持った人物のように見えます。
ただ彼にとって「碁」というものは中国や日本といった国を越えたところに存在するわけで、だからこそ日本に帰化できたと思うのですが、周囲は日本人との対局があるとやれ日中対決だと言いたてます。
また時代は戦争へと向かい、環境としても日本と中国は対立の構造を深めていきます。
彼にとっては「碁」の世界は、自分の道を極めるための厳しいながらも静謐な場所であったのにも関わらず、周囲の変化がその静かな世界をざわざわと騒がせます。
そのようなノイズは彼の静かな世界も揺らし、自分が何なのかというアイデンティティ不安みたいなものを呉清源は感じていたように思えます。
戦争という圧倒的な力により「碁」の世界すら静謐さを失ったとき、彼は「碁」すら捨て、さまよい拠り所を求め新興宗教に救いを求めます。
そしてその救いを求めた宗教ですらまやかしだと気づくとまた、彼はアイデンティティ喪失に直面します。
彼を唯一つなぎ止めたのが、妻と子供の存在だったのでしょう。
再び「碁」の世界に呉清源は戻りますが、勝ち続けなくてはいけないことへのプレッシャーから再び追い込まれます。
物語を観ていて一番印象に残ったのは、呉清源のナイーブな精神。
棋士などというと勝負の鬼のようなイメージがありますが、彼にはそのような感じは受けない。
碁打ちとしての才には天性で恵まれているけれども、彼には求道といった意識は感じられない。
彼が求めているのは彼の傷つきやすい魂が安らかにいられる場所だったのではないかなと思いました。
「パンズ・ラビリンス」とこの作品をたまたま連続して観て、そして本で「TOKYO YEAR ZERO」という戦後直後を舞台にした小説を読んだのですが、思ったのはやはり戦争というものが個々の精神に与える力。
もともとは人間が始めるにもかかわらず、戦争はその人間の精神を傷つけていく巨大な力になっていく。
そうなってしまったら個人の力ではどうしようもなくなってしまう。
やはり戦争というのは、始めないということが肝心なのだなと改めて思いました。
演出で気になったのは全体的に説明不足の気味があったところ。
呉清源という人物の人生を知っている人はわかるのかもしれませんが、ところどころどのように話が展開しているのかがどこなのか、いつなのかが追いにくい印象を受けました。
その割に挟み込まれる語りの文字がやけに説明過剰な気がして、バランスが悪い感じでしたね。
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コメント
sakuraiさん、こんばんは!
やはり国民性には歴史が色濃く反映しますよね。
中国の人はけっこう拝金主義の人が多い感じもしますが、それも政府や国などをあまり信じていないのからかもしれません。
日本人のほうがなんとなくお国のやることは間違っていないと思う傾向があるような気がします。
やはりこれも歴史の反映でしょうか。
語をやるかたは内省的な人なのかもしれませんね。
あの狭い碁盤に、大きな宇宙を見ることができる人たちなのでしょう。
それだけで大きな宇宙なので、周りのことなどには気が回らなくなるのかもしれませんね。
投稿: はらやん(管理人) | 2007年12月11日 (火) 22時52分
TBありがとうございました。
中国人と、我々は姿かたちは似てるけど、価値観は全然違うのではないかと思います。
あの王朝の激動の変遷の歴史。あのたびに、前の時代は全否定され、皇族、王族は根こそぎ殺され、新しい時代を作っては、またそれを壊して作りかえる。それを何度も何度も繰り返してきた彼らは、中国人というかかりよりも、移ろうものが自分たちなんだと、と思っているような気がします。
幾度となくアイデンティティを否定され、つぶされてきてはまた構築する。我々みたいなのほほんと生きてきた民族とは、根っこの部分の強さが違うのではと感じるところです。
さて、碁の世界。ナイーブでしたね。ちょっとだけ碁をかじったのですが、碁やる人は、生き方が下手なような気がします。とにかく不器用。そこが魅力なのかも知れません。
投稿: sakurai | 2007年12月10日 (月) 08時27分
風情♪さん、こんにちは!
先日風情♪さんがこの映画のお話をされていたので、観てきました。
彼はずっと魂のやすらぎを求め続けていたような気がします。
最初の呉清源さんの実際のお姿を見ると、それが今は得られているのかしらと思いました。
ちょっと説明不足感はありましたよねー。
投稿: はらやん(管理人) | 2007年11月25日 (日) 06時37分
こんにちは♪
囲碁にしろ将棋にしろ名人級ともなると
圧倒的な思考力や精神力を持っていると
思ってんで、氏のあまりのナイーブさに
ちょっと驚かされたと同時に氏に碁とい
う存在が無かったら安らぎを求めるあま
りにもしかしたら壊れてしまったかも知
れないなとも思えました。
全体的に説明不足の感は強かったのはボ
クもとても気になりました。(゚▽゚)v
投稿: 風情♪ | 2007年11月25日 (日) 00時01分