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2007年11月25日 (日)

「のだめカンタービレ(アニメ)」実写とアニメ、そしてコミックそれぞれの表現の良さ

「のだめ」19巻出ましたねー(買うだけ買ってまだ読んでないですが)。
何をいまさらという感じですが、アニメの「のだめカンタービレ」についてです。
深夜放送はオンタイムで見れないし、結局ハードディスクレコーダーの中に溜まるだけ溜まっていくばかりで・・・。
やっと見終えました・・・。
気がつけば今年の1月からオンエアでしたね(もう12月になるじゃん!)。
最近でいうと2クールやるアニメも珍しいのでは?

ドラマ終了直後からアニメ放送だったので、最初は上野さんと玉木さんイメージが残っていて声が違和感ありましたが、見ていくうちにぜんぜん平気になりました。

漫画を原作にして、ドラマとアニメを両方やるというのは最近多いですよね。
それぞれ向き不向きがあるというのがよくわかります(コミックも)。
「のだめ」に関していうと、その違いを両方のスタッフはよくわかって作っていたような感じがします。
ドラマはやはり現物の力というかそういうのを感じます。
最後のコンサートのシーンなど。
大勢の人間が揃い、広い空間でのシーンはやはり実写ならではの迫力。
ここはアニメもコミックもかないません。
ただドラマは原作の、いわゆる漫画的なエピソードというのが描きにくかったかと思います。
ドラマでも漫画的な効果をうまく使っていたかと思いますが、その限界もわかっているようで、エピソード的に実写に向かない話は上手に端折っていたと思います。
アニメの方は絵である分、その辺りについては原作にとても忠実でした。
ドラマでは絵になりにくいこたつのエピソードもありましたし。
ドラマは1クールだったので主人公2人の話に絞り込んだ感じがありましたが、アニメは2クールだった分、余裕が合ったためか寄り道的な話もちゃんと描いていたのが原作ファン的には良かったです。
あとコンサートのシーンなどはドラマだとかなり大変だったので原作エピソードほど多くなかったですが、アニメはちゃんと省かず見せて聴かせてくれました。
音楽に関してはちゃんと耳で聞こえるのがいいです。
原作は漫画ですからねー。
漫画は漫画で、リアルに曲が流れないことにより、曲の時間を超越した間とか、時間を伸ばしたり縮めたりすることができることによる効果というのがありますが、いくらいい曲でも知らないと(「のだめ」読むまでほとんどクラッシック知らなかったので)なかなかイメージわきません。
コミックを読んで、曲を調べて聴いていたんですよー(しみじみ)。
作画も原作のトーンをうまくだしていたのではないでしょうか。
コンサートのシーンの楽器などはCG使っていたようですけれど、あまり違和感なくうまく馴染んでいました。
全体的に原作ファンとしては満足できる出来だったと思います。

次はドラマのスペシャル版ですね。
来年お正月だとか。
楽しみです。

「のだめカンタービレ 巴里編(アニメ)」の記事はこちら→
「のだめカンタービレ フィナーレ(アニメ)」の記事はこちら→
「のだめカンタービレ(ドラマ)」の記事はこちら→
ドラマスペシャル版「のだめカンタービレ inヨーロッパ」の記事はこちら→

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本「なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか」

僕も今年からいわゆる管理職になりました。
それまではチームリーダーとしての役割はあったものの、部下や組織への責任たるや全く異なりますね。
僕の会社ではキャリアアップの仕組みで管理職予備軍みたいなステージがあり、そこでマネジメント等を実地で学んだり、会社としてもその人間が管理職にふさわしいかを判断します。
この二、三年の間で管理職とはなにか、マネージメントとはなにかというのを結構自分なりに考えました。
その中で、自分としての管理職像というのはできていますが、それは人によっても違いますよね。
今まで自分自身がついていた上司でもいろいろな人がいました。
良い上司、悪い上司。
自分の手本となるような方もいましたし、こうなっちゃいけないという反面教師的な人もいました。
僕の近い世代でも、管理職になることを出世ととらえる人もいますし、給料があがることと考える人もいる。
また他の人があがっていくから自分だけ取り残されるのはちょっとという人もいるでしょう。

たまたま手に取ったこの本「なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか」を読んでみると、けっこう自分が至った考えといっしょのことが書いてありました。
自分の中では漠然としたイメージだったものが、このように書物でまとめられ言葉としてみると自分の考えがはっきりと見えてくるような気がします。

この本の中でなるほどと思ったことをいくつかあげてみます。
興味を持たれた方は読んでみたらいかがでしょうか。
・「三つの心が見えるようになること」
  三つとは相手の心、場の心、そして自分の心です。
  特に自分の心についてきちんと見る態度が大切だということです。
  自分の中に無意識にある自尊心、劣等感、コンプレックス・・・、
  それらは部下やまわりの人々に対する自分の言動や行動に隠れています。
  それに気づくことが大事。
  そしてそれを認めることが、良くしようという気持ちにつながり己も成長していく。
・「反面教師は自分の中にある」
  先にいままでの上司で反面教師的な人がいたと書きました。
  「あんな風にはなりたくない」と思った人です。
  その人の部下の時に心身ともにぼろぼろになったことがあり、一時はけっこうその人のことを自分の中で完全否定していました。
  ただこの本では「反面教師」という言葉のほんとうの意味について書いています。
  「あんな風にはなりたくない」という言葉には密かにエゴが入っていると。
  そこには「高みに立って、人を裁く」という気持ちがあると。
  この言葉にはけっこうガンと頭を撲られたような気持ちがしました。
  「あんな風には」というところには、エゴが入っている。
  そういうことに気づくというのが、本当の謙虚さなんでしょう。

夏に今の職場に移ってから、かなり忙しい状態が続いています。
これはこの数年の中でもかなりのレベルで、以前だったら逃げ出したくなったり、イライラしたりしているかもしれません。
けれども忙しい割に、最近は心中は穏やかだったりします。
やっている仕事が自分の得意分野であるということ、そしてそこで培われてきた自信があるのかもしれませんが、今までなんとかなってきたのだからなんとかなるだろうという楽観があります。
以前だったらこんなことはなかったんですけれど、それが経験を積むということなのかもしれません。
あとかなりしんどく困難な業務もあるんですが、これもやったら自分が伸びることにつながるんだろうなと思えるようになりました。
今まで大変だったこと、逃げ出したくなったことが、今の自分の仕事に少なからず活きています。
それが最近実感できているので、今たいへんなことも、数年経ったら成長に役立っているのかしらんという感じがしています。
こういうことは若いときに本で先人が言っていたのを読んだりしたときに、きれいごとだと思いましたが、いくらか経験をつんでくるとそれが真だなと思うようにもなります。
そう感じることが、いくらかは成長したということでしょうか。

「なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか」 田坂広志著 PHP ハードカバー ISBN978-4-569-69231-9

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「アフロサムライ」ハイブリッド・アニメーション

映画の雑誌で、サミュエル・L・ジャクソンが絶賛しているのを読んだことがあり、さらに彼が声の出演もすることになったと聞き俄然興味がでてきて観に行ってきました。
最近注目株のGONZO製作のアニメーションです。
もともとはアメリカのテレビシリーズであったのを編集し直して、劇場版にしたようですね。

先日観た「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」は西部劇の設定を日本を舞台にして、そして全編英語というハイブリッドな作品。
「アフロサムライ」は時代劇を西部劇にもっていったというところでしょうか。
時代劇と西部劇、相性がいいんでしょうね。
刀と銃という違いはあるものの、男に力があればのし上がっていける弱肉強食の世界。
まさに下克上が行われていた日本の戦国時代、アメリカ西部開拓の無法時代はそんな時代であったので、共通点が多いのかもしれません。
最近は本作や「キル・ビル」のように今までの作品を上手にリミックスした感じの映画が多いですよ。
マネというのとも違うし、オマージュというのとも何か違う。
自分の好きなものを自分の中でぐちゃぐちゃに混ぜあわせて吐き出したという感じ。
まさにRE-MIXをしている作品というのでしょうか。
同じような作品を体験をしている人にとっては、まさに至福の映画。
そうでない人にとっては、ただのマニア映画というところでしょうか。

この作品、作画的にはスタイリッシュというところでしょうか。
パースの効いた極端な構図であったり、動きの激しいところなどはユニークではあります。
ただし既視感みたいなものもあって、ちょうど「マクロス」以降アニメーションで板野サーカスが流行っていた頃、「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」でも同じような作画を行っていたような記憶があります。
そういう意味ではそれほどの新しさはない。
どちらかというとそういうケレン味の多いカットが続くので観ていて少々疲れました。
そもそもがテレビシリーズの編集版だということなので、たぶん好評であった殺陣の部分のボリュームを多くしたということが原因だと思います。
はじめはすごいと思っていたアクションシーンもあれほど詰め込まれるとちょっと食傷気味にもなります。
もう少しドラマ部分を編集で入れ込んでもよかったのかもしれません。

「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」の記事はこちら→

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「ミッドナイトイーグル」コピペで寄せ集めて作った作品にみえる

雪山アクションといえば、「クリフハンガー」はまさにタイトル通り主人公が崖っぷちなシチュエーションが連続してハラハラドキドキで好きな作品です。
あと邦画では織田裕二さん主演の「ホワイトアウト」も意外にも楽しませていただきました。
この映画は原作者の真保裕一の作品にはまるきっかけにもなりました。

さて今回のこの作品「ミッドナイトイーグル」ですけれども、正直言ってあまり期待していませんでした。
なぜなら原作者の高嶋哲夫さんの作品があまり好きでないからなんです。
分野的には僕の好きなクライシスサスペンスものを多く書かれる方なので、なんだか忘れましたが、一つ作品を読んだのですけれども、あまりにご都合主義でステレオタイプな展開で閉口した覚えだけがあります。
その予想は裏切られませんでした。

冬、人が立ち入ることができない北アルプスに米軍のステルス爆撃機が墜落する。
その爆撃機には特殊爆弾、つまり核爆弾が搭載されている。
それを某国の工作員が爆発させようとしている・・・。
この設定、まるで「ブロークン・アロー」まんまでが興ざめしてしまいます。
北の工作員が日本へのテロを仕掛けるというのも、小説では麻生幾さんや福井敏晴さんの作品でやり尽くされた感もあります。
ここであげた作品はクライシス・サスペンスですが、それぞれテーマを持っています。
「ブロークン・アロー」はジョン・ウーらしく男と男のプライドをかけた容赦のない戦いがテーマになります。
ストーリーも二転三転してドキドキしますし、画としても見せ所があってハリウッド作品らしく楽しませてくれます。
麻生幾さんの作品は冷酷なまでの国対国の諜報戦とそれに巻き込まれてしまう人を描いていますし、福井敏晴さんは世間を冷たく観ていた少年の成長をテーマにしているようにみえます。
さて「ミッドナイトイーグル」はというと・・・。
テーマは「愛」ということなのでしょうか?
「親子愛」、「自己犠牲」?
それがあからさますぎてどうにも鼻につく。
大沢たかおさんの端正な顔立ちとおさえた(表情のとぼしい)演技のためか、感情移入もできません。
クサかろうが織田裕二さんくらい熱血な感じの方がアクションには向いているかも。
「愛」がテーマとおおきく打ち出すところが、バブル期くらいに乱作されたテレビ局系の映画のような感じでどうにも鼻持ちなりません。
展開や場面、ステレオタイプな人物・・・、なんだか今まで作られた作品の良さそうなところをコピペして寄せ集めて作ったような作品に見えてしかたありません。

クライシスサスペンスという割には細部の詰めが甘いのが気になります。
北アルプスの山中に某国の特殊部隊がこつ然と何十人も表れるなんてことは、どう考えても説得力ありません。
あと竹内結子さん演じる記者が、特殊部隊にさらわれた人質を救出するくだり。
潜伏している建物の外で火事を起こしそれに相手がつられている隙に、人質を助け出すということになっていますが、仮にも特殊部隊の隊員が全員人質の側を離れるということはないでしょう。
アクションものとしてもそのくらいはきちんと説明してくれないと観ていてばかばかしくなってきます。
ひどい脚本だなあと思っていたら、「ホワイトアウト」の脚本の方と同じということ。
あまりに似たようなお題だったので、飽きてしまったのかしらん。

唯一よかったのは、自衛隊の習志野レンジャー部隊の最後の生き残り佐伯三佐。
タフなクールガイでカッコ良かったです。
最後まで美木良介さんだと思っていたんですけれど、吉田栄作さんだったんですねー。
びっくり。

「ホワイトアウト」の記事はこちら→

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2007年11月23日 (金)

「呉清源 極みの棋譜」中国人と日本人の間で

つい先日中国上海に仕事で行ってきました。
最近は反日感情などもあるというのをニュースとかでやっているので、中国の人はどんな感じだろうかと思ったら、けっこうフレンドリーな方々でした(お会いした方は日系企業にお勤めだからというのもあるかもしれませんが)。

この映画の主人公、呉清源は実在の棋士で、戦前に中国から日本に帰化した人物。
僕が前にいた職場にも、中国から日本に帰化した方がいました。
デザインを行う職場でしたが、彼は日本の大学でデザインを勉強し、そのままこちらで就職し、帰化したのです。
いっしょに仕事した時は中国国籍だったのですが、ある日帰化の許可がでたのでこれから日本人ですといわれてびっくりしたのを覚えています。
何故びっくりしたかというと、今の自分からすると日本人でなくなるということというのは想像もつかないからでした。
日本人でなくなるというのは自らのアイデンティティの一部を変更するということなので、けっこう思い切ったことをするなあという印象でした。
ただよくよく考えてみると、中国人というのはそのように世界中に広がり華僑としてその地に根付き、そしてネットワークは維持していくということができるとてもたくましい民族であるのだなあというようにも思えてきました。
中国というのは、歴史の中でさまざまな国家が興っては消えた場所でもあります。
もしかすると民族として「国」という枠組みに対してそれほど信用していないかもしれません。
「国」などというのはいつ何時、他のものに変わってしまうかもしれないと思っているような感じがします。
だからこそ、国などという枠組みに囚われず自由に世界に広がっているのかもしれないです。
ずっと日本国としての枠組みが変わってきていない日本民族のほうが「国」へのアイデンティティ上の依存度が高いのかもしれません。

この映画に登場する呉清源は碁という勝負の世界に生きる男ですが、全編で描かれているのはどちらかというと不安定でナイーブな姿でした。
彼に関していうと。先に書いたようなたくましい中国人というよりは、壊れそうなほどの繊細さを持った人物のように見えます。
ただ彼にとって「碁」というものは中国や日本といった国を越えたところに存在するわけで、だからこそ日本に帰化できたと思うのですが、周囲は日本人との対局があるとやれ日中対決だと言いたてます。
また時代は戦争へと向かい、環境としても日本と中国は対立の構造を深めていきます。
彼にとっては「碁」の世界は、自分の道を極めるための厳しいながらも静謐な場所であったのにも関わらず、周囲の変化がその静かな世界をざわざわと騒がせます。
そのようなノイズは彼の静かな世界も揺らし、自分が何なのかというアイデンティティ不安みたいなものを呉清源は感じていたように思えます。
戦争という圧倒的な力により「碁」の世界すら静謐さを失ったとき、彼は「碁」すら捨て、さまよい拠り所を求め新興宗教に救いを求めます。
そしてその救いを求めた宗教ですらまやかしだと気づくとまた、彼はアイデンティティ喪失に直面します。
彼を唯一つなぎ止めたのが、妻と子供の存在だったのでしょう。
再び「碁」の世界に呉清源は戻りますが、勝ち続けなくてはいけないことへのプレッシャーから再び追い込まれます。
物語を観ていて一番印象に残ったのは、呉清源のナイーブな精神。
棋士などというと勝負の鬼のようなイメージがありますが、彼にはそのような感じは受けない。
碁打ちとしての才には天性で恵まれているけれども、彼には求道といった意識は感じられない。
彼が求めているのは彼の傷つきやすい魂が安らかにいられる場所だったのではないかなと思いました。

「パンズ・ラビリンス」とこの作品をたまたま連続して観て、そして本で「TOKYO YEAR ZERO」という戦後直後を舞台にした小説を読んだのですが、思ったのはやはり戦争というものが個々の精神に与える力。
もともとは人間が始めるにもかかわらず、戦争はその人間の精神を傷つけていく巨大な力になっていく。
そうなってしまったら個人の力ではどうしようもなくなってしまう。
やはり戦争というのは、始めないということが肝心なのだなと改めて思いました。

演出で気になったのは全体的に説明不足の気味があったところ。
呉清源という人物の人生を知っている人はわかるのかもしれませんが、ところどころどのように話が展開しているのかがどこなのか、いつなのかが追いにくい印象を受けました。
その割に挟み込まれる語りの文字がやけに説明過剰な気がして、バランスが悪い感じでしたね。

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2007年11月18日 (日)

「パンズ・ラビリンス」 不透明な時代のファンタジー

先日、いつもお世話になっているブロガーさん方とお食事をした時に、みなさんが高評価だったので、観に行ってきました。
ギレルモ・デル・トロ監督なので興味はあったのですが、タイミングを逸していたので、お薦めいただいて良かったです。
デル・トロ監督と言えば「ヘルボーイ」。
コミック原作の映画は数あれど、一風変わったダークな感じで好きな作品です。
映画の影響で、コミックも買ってしまいましたもん。
ちょっと脱線ですが、コミックの「ヘルボーイ」は傑作ですよ、話はおもしろいし、画はとてもスタイリッシュで上手ですし。
アメコミのイメージが変わりました。

そんなデル・トロ監督のファンタジーということで、一筋縄ではないだろうと思って観に行きましたが、やはり巷にあふれるファンタジー映画とは一線を画する作品でした。
最近作られているビックバジェットのファンタジー映画は、悪と善が戦い、善は悪の強大な力に圧倒されつつも、最後には勝つという組み立てになっています。
「正義は必ず勝つ」という安心して誰でも見られる構造ですよね。
ある意味歴史が始まり物語が作られるようになってからずっと昔から続いているような構造で、飽きもせずみんな観に行くのは(特にファンタジーブームと呼ばれる昨今は)なぜなんでしょう?
なんだか世界的に先行きが不透明で(戦争とか環境問題とか)、20世紀のように人間は進歩して世界は必ず良くなっていくんだというような楽観的な未来感がなくなっているからなのかもしれないと思いました。
せめて映画の中だけでも、勧善懲悪ですっきりと気持ちのよいものを観たいというみんなの気持ちの現れなんかじゃないかと。

この映画の舞台となるのはフランコ政権時代のスペイン。
ファシズムが蔓延し、各地で抵抗運動は起こるも、ずっと国民が抑圧されていた時代です。
主人公の少女オフェリアは母親とともにその再婚相手であるフランコ軍の大尉の家に住み始めます。
その大尉は残虐非道な男で、その土地の住民を搾取し、抵抗運動を激しく取り締まり、また身重の妻に対してもまるで(某政治家が言っていたように)自分の息子を産む機械のように扱います。
当然オフェリア対しても愛情の欠片すらもちあわせていません。
そんな生きていくのに希望を持てない状況において、オフェリアはさまざまな物語を読みます。
彼女にとって本の中にある物語は現実から逃避できる唯一の場だったのでしょう。

<このあとネタバレありです>

この映画で語られるオフェリアとパンが出てくる物語は、この映画の中においての現実なのかわかりません。
たぶんすべて現実ではなく、パンも妖精もラビリンスもオフェリアの想像していた世界だったのでしょう。
ラスト近くでオフェリアがパンと話している姿を見た大尉にはパンの姿は見えなかったことからもわかります。
つまり彼女の観たハッピーエンドな世界は、彼女に悲劇が襲いかかったその瞬間に彼女が観た想像の世界なのです。
とても残酷で救いのない現実の苦しみから逃れるには、オフェリアは自分の作り上げた幸せな物語の中に住むしか道はなかったのでしょうね。
なにか彼女が現実を逃避し物語の世界に浸り込んだということと、昨今の勧善懲悪のファンタジーがもてはやされるこの状況というのはとても類似しているような気がしました。
映画の中だけでも「正義が必ず勝つ」という物語が観たい、と。
だって現実はそうはならないから。
なんだか現実を変えることができないと、みんなが思っているような気がしたりしてちょっと不安になりました。

最近スリーアミーゴズと称されるデル・トロ、キュアロン、イニャリトゥですが、共通して非常に現実を苦界と描いているような気がします。
キュアロンの「トゥモロー・ワールド」で描かれる未来は、子が産まれないという先行きの見えない世界。
イニャリトゥの「バベル」はコミュニーション不全に陥った人々の苦しみの連鎖が描かれます。
あの映画では多少の希望はあるも、コミュニーション不全の問題は解決しておらず、人類がこれからも背負い続けなくてはいけないものとなっています。
本作でも現実はとても厳しく、一人の少女の力では決して変えることのできない重みがあるように見えます。
最後はいい結果に終わるさという楽観的なアメリカ映画とアメリカ人と、そのすぐ隣の国なのに現実がとても苦しいもの、そして変えにくいものという風にとらえるメキシコ人というのは、かなりメンタリティが違うというのが表れているのでしょうか。
先行き不透明なこの時代において、安易なファンタジーのような現実逃避ではなく、「パンズ・ラビリンス」はファンタジーでありながらも、逆に現実に眼を向けさせる映画なのかもしれません。

ギレルモ・デル・トロ監督「ヘルボーイ」の記事はこちら→

ギレルモ・デル・トロ監督「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」の記事はこちら→

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「インベージョン」 あなたはだあれ?

知っている人間が、いつの間にか知らない人間にすり替わっている。
そのことを誰も気づかない・・・。
静かなる侵略が始まる。
けっこう過去にも同じような設定の映画あったりするので、新鮮味はややなかったかもしれません。
僕は頭に一番最初に浮かんだのは「ウルトラセブン」の「あなたはだあれ?」という回でした。
これは侵略者によってまるまる住民をすり替えられた団地に、一人のサラリーマンが帰宅し、見慣れた妻や子が別のものになっているということにきづくが、誰も信用してくれないと言った話でした。
(この回はなかなかの傑作)

あとこの作品では最近多いテーマである人類の集合意識化を扱っていました。
「アップルシード」もそうですし、「エヴァンゲリオン」の人類補完計画もそうですけれども、個人の意識があるからこそ争いが絶えない、人類の意識を集合化してしまえば争いはなくなるという考え方は最近のSFものでは多いですね。
古くはアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」、富野由悠季氏の「ガンダム」のニュータイプ、「イデオン」のイデなども人類進化の行く末として集合意識がでてきます。
全人類の集合意識化を進化とみるか、人類の終わりとみるかはそれぞれの制作者の考え方の違いがでるので比べてみるとおもしろいですよね。

単一化した集合意識はその中においては争いはなくなるかもしれない。
けれども弱点はある。
大きな弱点が。
それは単一の生命体であるということは、劇的な変化があった場合、それに対応できず簡単に絶滅してしまうことがありうるということですね。
本作でも最後はあっさりワクチンが作られると見る見るうちに侵略ウィルスは絶滅してしまう(拍子抜けしたあっさりさは「サイン」を思い出してしまった)。
生物は多様であるがゆえに、さまざまな変化に対応しつつ、生き延びてきている。
「違う」ということは強さであるのだ。
けれども「違う」ということは時に争いの原因にもなる。
みんなが同じ考え方になるというより、「違う」という強さを知りつつ、それを認めていくことが争いを避ける方法ではないかと考えてしまう。

ニコール・キッドマン演じる女性精神科医が主役でしたが、この物語は主人公が女性であることに意味があるかと思います。
女性というのは、子供を産むことができるから、まぎれもない自分の分身を作り、種としてつないでいくということにより、母と子の無意識的な繋がり、集合意識的なものがもともとそなわっているのではないかと思ったりしました。
男の場合はそのようなことができないので、物理的な痛みを経た上での無意識的な繋がりを感じることができないため、心の奥底ではだれも孤独感があるのではないかと思ってしまう。
集合意識的な考えを支持する人というのはやはり孤独感がある人でそれは圧倒的に男性が多いのではないのかな。
繋がっていたいという母胎回帰みたいな心理があるのかもしれない。
ここまで書いてきたら前の「エヴァンゲリオン」はまさしくそうだよなあと思ってしまった。

まったくこの映画のレビューという感じではなくなっていますが・・・。
映画としてはまあまあといったところ。
ウィルスに感染して眠ったらいけないというプロットというのがおもしろかったので、もっとうまく使えればもっとスリリングになってドキドキできたかもしれません。
惜しいなあ。

ニコール・キッドマンは相変わらず美しい。
まったく老けないですね。
もういい年のような気もしますけれど。

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2007年11月11日 (日)

「しゃべれども しゃべれども」 伝えられないもどかしさ

自分の想いを、口にするのは難しい。
たとえ口から言葉が出たとしても、それが自分の想いを100%伝えられるものではない。
伝わらないのがもどかしい。
伝えられないのがもどかしい。

ひょんなことから落語教室を始めることとなった、二ツ目の落語家今昔亭三ツ葉。
そこに通うことになったのは、伝えられないもどかしさをなんとかしたいと思う三人。
想いを言葉にすることができない無口で無愛想な女性、十河美月。
関西弁で次から次へと言葉はでてくるけれども、減らず口の絶えない少年、林原優。
ぶっきらぼうで口を開くと憎まれ口しかでない野球解説者、湯河原太一。
三人とも、自分の気持ちを人に伝えることがうまくできない不器用な人たちです。

僕自身は人と話すことが苦手な方だと思ってます。
僕を知っている人が聞くと、「ええっ?そう見えない」というでしょう。
「いつも人とよく話しているのに」と。
でもそれは生きていて人とつき合うためのスキルとして身に付いたものなんですよね。
自分としては、身近な人、大切な人であればあるほど、想いをうまく話せないというもどかしさがあります。
家族からみるとけっこう無口だと思うんですよね。
でも想いは何か表現できないと、心の中にどんどんたまっていきます。
うまく表現できないモヤモヤみたいなものがたまっていくような。
それはとてももどかしく、苦しい。
劇中、十河がそば屋で一年前のことを思い出して、ぽろりと涙をこぼすシーンがありました。
このときの彼女の気持ち、よくわかります。
心のモヤモヤを誰かに伝えたい。
けれども自分はそれをうまく言葉にすることができない。
あふれる想いは、言葉としては心をでることができず、ぽろぽろと涙としてあふれていく。
心からこぼれる想いみたいなものが伝わってきて、とても共感ができました。

最後の発表会のその場で十河が演目を「まんじゅうこわい」から「火焔太鼓」に切り替えます。
「火焔太鼓」は三ツ葉が、一門会で演じた落語。
十河がいきなり「火焔太鼓」の出だしを口にしたとき、ほろりときました。
口べたな十河は、三ツ葉への想いを言葉ではうまく表現できない代わりに、彼が一生懸命演じた演目をやることで伝えたかったのでしょう。
好きな人が好きなことを自分もやってみたい。
そんな想いだったのでしょう。
三ツ葉にも、彼女が自分のことをしっかりと観ていてくれたということが伝わったに違いありません。

世慣れてスキルとしての話し方は身に付いていくかもしれない。
そうなっても、しゃべれども、しゃべれども、うまく伝えられないもどかしさというのはずっとあるのかもしれません。
けれども伝えようとしゃべろうと思う気持ちこそが大事なのかもしれません。

平谷秀幸監督作品「やじきた道中 てれすこ」の記事はこちら→

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2007年11月10日 (土)

「EX MACHINA エクスマキナ」 不気味の谷 

「不気味の谷」という言葉がある。
これはロボット工学で言われている概念で、ロボットなどの対象に対して人間の感情的反応を表す言葉です。
機械的なロボット(例えば産業ロボット、例えばガンダムみたいなロボットでもいい)に対する人間の感情的反応(親近感)は低い。
それがしだいに人間らしい外見であったり、仕草をもつロボットになると、人間は親近感を持ちます(HONDAのASIMOなんかはそうだと思う)。
けれどもある程度以上人間に近すぎると、人は親近感ではなく奇妙さを感じ、嫌悪感を抱くようになります。
これは「ブレードランナー」のレプリカントとか、「エイリアン」のアンドロイドなんかをイメージするとわかりやすいでしょう。
この親近感から一転して嫌悪感につながる感情的反応を「不気味の谷」というのです。

前に「ベクシル」の記事のとき3Dライブアニメーションが、実写とアニメーションの狭間にあり、何故あの映画があのような手法をとらなくてはいけないのかという疑問を書きました。
今回「EX MACINA」を観て思ったのは、そういうことを書いた背景には、「アップルシード」の時よりもさらにリアルになった「ベクシル」の3Dアニメーションの質感に対して、自分の中に嫌悪感があったのではないかと思いいたりました。
「EX MACINA」は観ていて「ベクシル」を観たときほどの奇妙さは感じなかったのです。
「ベクシル」は「アップルシード」のプロデューサーである曽利文彦氏が監督、本作は「アップルシード」の監督である荒牧伸志氏が監督しています。
いわば同じ母親を持つ兄弟みたいな作品であるわけで、キャラクターデザインもそれぞれ「アップルシード」を受け継いでいます(「EX MACINA」は受け継いでいてあたりまえだが)。
それぞれ進化した技術を使っているわけで、改めて3作のパンフを見比べると、今年の2作は当然のことながら「アップルシード」の時よりも映像のクオリティはあがっています。
けれども僕にとっては「ベクシル」は奇妙さがあり、「EX MACINA」はそれほどの違和感は感じなかったのです。
何故なんでしょう?
「EX MACINA」と「ベクシル」の間に先に書いたような(僕の感覚においての)「不気味の谷」があったのではないかと思います。
「EX MACINA」はあくまでアニメーションの範疇にあるように思えました。
これは3Dになっていてアクションはモーションキャプチャーでリアルだったとしても、キャラクター造形が眼がぱっちりと大きく、足もすらりと長いデフォルメされたものだったためだと思います。
けれども「ベクシル」はリアルさを追いかけた(顔の造形はなるべくリアルな人に近づけようとしているように思える)故かアニメーションなのか実写なのかどうも位置づけしにくい、まさに「不気味の谷」に陥っていたように思えます。

ここまで書いてきて。これはまさに「アップルシード」から「EX MACINA」、「ベクシル」に至るまでのテーマなような気がしてきました。
「アップルシード」「EX MACINA」では、人間のDNAから作り感情を抑制したバイオロイド、人間と機械を融合したサイボーグが登場します。
「ベクシル」においても、あの世界の日本人は人間であり機械であるようなものになっています。
見た目はまるで人間であっても、いやそれゆえにバイオロイドに対しては人間は奇妙な感じを受けてしまう。
そこに「不気味の谷」はある。
外見はまるで機械であるブリアレオスは人間らしく感じてしまう。
それはなんなのだろうか。
「不気味の谷」について考えるということは、人間というのは何なのかということを考えることなのかもしれない。

「ベクシル」のような違和感を感じなかったためか、本作の方がストーリーには楽しめました。
映像技術的には「EX MACINA」の方が粗があったように思えましたが、リアルさというのをどこまで追うかというのはこの分野においてはとても微妙で難しい点ですね。

本作はジョン・ウーがプロデュース。
2丁拳銃、鳩、スローモーションとアニメーションになってもジョン・ウー印は刻まれていましたね。

「ベクシル -2077 日本鎖国-」の記事はこちら→

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「クローズZERO」 カリスマの源泉

男が男に惚れこむということがある。
惚れたほうは損か得かというのを度外視して、入れ込んだ男のために力を尽くす。
鈴蘭高校のてっぺんを目指す、源治も芹沢も男に惚れられる男でした。
この映画を観ていて思い浮かべたのが「三国志」や「水滸伝」。
「三国志」の劉備は、冷静に見ると曹操に比べても天下をとれるような力を持っていない。
けれども関羽も張飛も劉備の人柄に惚れ、それこそ命をかけて戦う。
「水滸伝」で梁山泊に集まった男たちは、もちろん義という旗印はあるものの、基本的には宗江や晁蓋の男に惚れ込んでいるのだ。
男に惚れられる資質というのが、カリスマというものなのかもしれない。
けれどもカリスマというものは、決まりきった表面的な定式があるわけではない。
源治についた牧瀬は、合コンをセッティングしてもらったという理由から彼についていくことにしたわけではない。
すぐにまわりに突っかかっていく源治の中にある、思いのほかにかわいらしく人を思う気持ちをかいま見たから彼に惚れたのだ。
伊崎は源治の何度でも立ち上がろうとする倒れない心の強さに惚れた。
また芹沢につく男たちも、野獣のような彼の中に惚れ込むものを見つけたのだろう。
時生と芹沢の過去の関係については具体的に描かれることはないが、彼らの間に相当に強い絆があることがわかる。
汚いて手を使ったことにより、芹沢の逆鱗に触れる戸梶も、彼を許すことができる芹沢の懐の深さに惚れ込んでいるのだろう。
源治にしても、芹沢にしても、見ていて思ったのは、男たちを惚れさせ、命をかけるほどの覚悟をさせるものというのは、ケンカなどに強いといったパワーではないということ。
人を惹き付けるものは、自分をさらけ出す力、そして人を見てやる力なのだと思う。
あいつのこういうところは俺しか知らない。
牧瀬などは源治に対してそう思っていると思うし、時生も芹沢に対してそう思っているはずだ。
そしてあいつは俺自身を見てくれている、そう思えるからこそ力がだせる。

伊崎の台詞に「あいつが右向いたら、俺たちも右なんだ」というのがあった。
この言葉は相手を本当に信じていないとでてこないものだ。
この言葉を聞いて、昔に新入社員の頃、上司に言われたことを思い出した。
「おまえのために徹夜をしてもいいという人をつくれ」
人というものは金や力だけでは動かない。
いや金や力で人は動くが、そんなことで動く人は苦しい時は簡単に離れていってしまう。
この言葉はそんなものを越えて、個人として周りの人に「徹夜をしてでも助けてやりたい」と思ってもらえるほどの信頼感を得るようになれという意味でしただった。
そう思ってもらうためには嘘偽りなく正直に自分の気持ちを伝え、自分自身も死ぬ気でがんばらなくてはいけないし、助けてくれる人(社内外の協力者)の働きをしっかりと見て、見ているということを相手に伝えていなくてはいけない。
源治はてっぺんを目指そうとした時、自らの拳の力でケンカで勝ち抜いていけば上れると思っていた。
けれども彼は自分だけの力ではてっぺんを目指すことができないことに気づく。
それに気づける力こそがカリスマの源泉なのかもしれない。

ラストの遠藤憲一さん演じるヤクザの行動にもしびれました。
彼もカリスマのある人物なのでしょうね。

「クローズZERO Ⅱ」の記事はこちら→

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2007年11月 6日 (火)

本 「男に生まれて 江戸鰹節商い始末」

主人公は現在も続く鰹節の老舗「にんべん」の八代目・伊勢屋伊兵衛、時代は幕末、時代が大きく動こうとしている江戸が舞台です。
商人が主人公なので、地味な物語かと思いつつ読み始めましたが、これがなかなかにおもしろい。
まずは荒俣宏氏らしく幕末の江戸商人の文化、風俗が情報量が豊かに描かれています。
それらが単なる知識のひけらかしではなく、さりげなく物語に織り込まれているところがさすがです。
商品券をはじめて作ったのが「にんべん」だとは知りませんでした。
「にんべん」はいつでも鰹節と引き換えできる「切手」を販売しました。
この「切手」が現代でいう商品券です(おこめ券みたいなものですね)。
幕末薩摩が江戸を攻めるという時期、薩摩の嫌がらせにより悪い噂を流され「にんべん」にはその「切手」の払い戻しを求める客が押し寄せるという場面があります。
その「にんべん」が直面する困難が、日本橋の他の商人たちの江戸っ子の心意気で救われるところが気持ちいい。
幕末というと侍を中心にした物語が多いが、その時代に生きていた商人を描いているこの物語は新しい視点ておもしろい。
幕府も、薩摩も利権や権力のために右往左往するなか、江戸商人たちが、おのれのプライドと先を見る力で激動の時代を生きていく姿は、現代を風刺しているようにも見えます。
世の中が世界が動いているのに、なんだか永田町の中のパワーゲームだけで動いている政治家(自民党もどうかと思うが、最近の民主党もいかがかと思う)や官僚・・・。
現実と離れたところで考えているそういう人たちとは異なり、民間企業は生き残るためにさまざまな工夫をしている。
そのあたりは幕末動乱期の江戸商人にもつながる気がしました。

先日読んだ同じ荒俣宏氏の小説「帝都幻談」に出ていた平田銕胤もこちらの小説にちらと登場。
最近の荒俣氏は江戸時代づいていますね。

荒俣宏氏作品「帝都幻談」の記事はこちら→

「男に生まれて 江戸鰹節商い始末」 荒俣宏著 朝日新聞社 文庫 ISBN978-4-02-264410-7

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2007年11月 4日 (日)

「バイオハザードⅢ」 健康的な陰惨さ

僕はスプラッタ系のホラー映画が大の苦手。
心理スリラーなどはまだ大丈夫なのですが、痛そうなのはもうダメです。
ゾンビ映画もほとんど観たことがないのですが、「バイオハザード」シリーズだけはしっかりと観ています。
むしろ好きなシリーズと言っていいかもしれません。

そもそもは原作のゲームから入ったのですが、これも知り合いから薦められてやってみました。
やはり怖そうだったので、最初は敬遠していたのです。
でもゲームをやってみると、おもしろい。
いつゾンビに襲われるのかわからないので、ずっとドキドキ、戦々恐々としながらゲームをやるのですが、この緊張感がたまらない。
それでもってゾンビが出てくれば、拳銃やら機関銃で撃ちまくる。
ある種、ゲームの中とはいえ人間に対して銃を撃つのはなんだか気が引けるところがありますが、相手はゾンビということで、そのあたりのタブーを突破できる仕掛けがこのゲームにはあるように思えます。
それはそれで爽快感があります。
まさに「カイカン・・・」という感じでしょうか。

そのヒットゲームを映画化した「バイオハザード」シリーズ、ゲーム原作の映画はいまいちのものが多い中、1作、2作とヒットを続けています。
1作目は閉鎖空間の中でいつゾンビに襲われてしまうかわからないという恐怖(名作「エイリアン」に通じるところもあり)、自分がなにだかわからないというミステリーをからませ、原作の中にある緊張感をうまく活かした映画になっていたと思います。
ミラ・ジョヴォビッチ演じるアリスの容赦のないゾンビへの攻撃は、ゲームの中の爽快感に通じるところかもしれません。
2作目は1作目に比べてホラー色がやや薄まり、その分スタイリッシュなアクションが前に立っていた作品でした。
ミラ・ジョヴォビッチのアクションはさらに磨きがかかり、美しくて強い女性キャラの代表になった感もありました。
原作のストーリーをうまく複合させた話も、このゲームファンとしては嬉しいところでした。

さて3作目の本作は、ゲームにはないオリジナルな展開。
アリス、そしてクレア、カルロスたちの戦いも空しくTーウイルスは世界各地に広まり、全世界がゾンビ化しています。
クレア、カルロスは生き残った人間をまとめ、移動しながら食料や燃料を集め、ゾンビと戦いながら生きています。
そのような状態であってもTーウイルスを開発した企業体アンブレラは生体実験をやめようとしません。
アンブレラの監視を逃れるため、ひとり、旅をしていたアリスも、とうとう彼らに補足されます。
そしてクレアたちもゾンビたちに襲われ、仲間をすこしづつ失っていく・・・。

3作目は荒廃した砂漠が舞台ということで、1作目にあるような暗闇からひたひたと忍び込んできて、そしてびっくりというような怖さはありません。
グロテスクな描写はいくつもあるのですが、日の光の下であるせいか、なんとなく陰惨な感じはしません。
グロいホラーが苦手な僕としては、ちょうどいい塩梅でありました。
大量に襲いかかってくるゾンビを次から次へとバッタバッタと容赦なくやっつけていくアリスには、ゲームをプレイしたときに感じた爽快感に通じるものがあるような気がします。
言い方としては変ですが、健康的な陰惨さというか。
エンターテイメントとして楽しめる程度の陰惨さというか。
そのあたりの加減が絶妙な気がしました。
ストーリーとしても複雑さはないながらも、先はどう転がるかわからない展開で飽きさせませんし、今時珍しく1時間半くらいでまとめているので、テンポもいい。
ヒッチコックの「鳥」を連想させるようなゾンビ鳥の攻撃はなかなか迫力ありましたし、原作ファンとしてはあのタイラントがでてきたのも嬉しい。
タイラントは原作ゲームではいっくら攻撃してもなかなか死んでくれないキャラでしたが、映画でもまさに不死身として描かれていましたね。
3部作ということでこれでとりあえず終了ということですが、いくらでも次回作作れるような終わり方でした。
次は東京でしょうかねー。

「バイオハザードⅣ アフターライフ」の記事はこちら→ CGアニメ版「バイオハザード ディジェネレーション」の記事はこちら→

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2007年11月 3日 (土)

「仮面ライダー THE NEXT」 あれでは遊園地のお化け屋敷です

「仮面ライダー THE NEXT」には「THE FIRST」に引き続いて1号、2号ライダーが登場、さらにV3が新たに加わります。
ちょうど僕のライダー原体験はV3、歴代ライダーの中でもV3が最も好きだと言っていいかもしれません。
「仮面ライダーV3」は登場する怪人も、動物+道具というモチーフを用いて、独特のデザインをしていて好きでした。
ハエ+テレビで「テレビバエ」という怪人は、ハエの身体に複眼がテレビのモニターというデザイン。
なんというセンスのよさ!

「THE FIRST」が自分としては期待をしていたほど楽しめなかったため、今回の「THE NEXT」は観に行こうか迷っていました。
でも好きなV3、さらにはショッカーライダー(!)まで登場するということ(相変わらず出渕さんのリファインデザインはかっこいい)で行ってみることに。
公開前に話題になっていたPG-12指定で、今までのライダーにはないホラーテイストを出しているという新しい試みも確認してみたい気持ちになりました。
そもそも「仮面ライダー」の初期は怪奇色が強かったというのはみなさんがご存知の通りで、まさに原点回帰といえるかもしれません。
原作の石ノ森章太郎氏の漫画も怪奇色ありますし、そのようなテイストが加わったライダーというは新しいかもしれないと思いました。

そういう期待を持って本作を観賞しました。
が、ホラー色を出していると言っても、グロテスクな四谷怪談風味といったところで、相当にがっかりしました。
あれでは遊園地のお化け屋敷です。
最近で特撮とホラーを融合させた名作といえば、昨年テレビ東京系でオンエアされた「GARO」があります。
背筋がぞぞっとするようなエピソードもありかなり大人向けで新しさを感じたシリーズでしたが、「THE NEXT」ではそのような新しさが感じられませんでした。
古くさい怪談を見せられている気がしました。

オリジナルでは熱い男であったV3こと風見志郎ですが、本作ではクールな性格に設定されています。
やや一文字隼人と性格がかぶっているようなところがあり、脚本的には書き分けるのが難しかったような気がします。
造形面ではやはり出渕氏のデザインがとてもいい。
V3はホッパー(1号、2号のこと)のVersion3であるという解釈で、1号・2号のデザインを踏襲しつつも、V3らしさを上手に表現していました。
ハサミジャガーあらためシザーズジャガー、ノコギリトカゲあらためチェンソーリザードもかっこよかったです。
横山誠アクション監督によるアクションシーンは前回よりも派手で見せ場はありました。
ショッカーライダーとの戦闘シーンなどはよかったですね。
でもやはり「GARO」にはかなわない気がします。

この劇場シリーズは、大人向けのライダーというコンセプトは面白いと思います。
ただ「スパイダーマン」のように大人の観賞に堪えられるほどの人物造形は、まだできていないと感じました。
2作目作ったので、次回はV3とライダーマンのエピソードをテーマにして欲しい。
裏切りと男の友情をテーマに泣けるやつをお願いします。

「仮面ライダー  THE FIRST」の記事はこちら→

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2007年11月 2日 (金)

「めがね」 無目的な時間

大好きな荻上直子監督の作品、「めがね」。
油断していたら銀座は今週で上映終了ということで、金曜日それも最終の回を観てきました。
仕事を終えて慌てて劇場に行ったら「あと10名で満席です」とのこと。
ギリギリセーフで観れましたが、満席の映画館なんて久しぶり。
まだまだお客さん入るのだから、ロングランすればいいのに。

観たかった割にこの作品をずっと観に行かなかったのは、仕事がずっと忙しかったから。
物理的に前よりも劇場に行く時間が少なくなったというのはあるのですが、ずっと忙しく焦りながら仕事をしている時に、「癒し」の映画は厳しいかなあと。
観て癒されたら、厳しい現実から逃げ出したくなっちゃうかもと思ったりしていて(笑)。
仕事もようやく目処がつき始めたので、そろそろいいかなという気分でもありました。

逃げ出したくなる気分。
主人公タエコもそんな気分で、あの場所を訪れたのでしょうね。
その場所は時が「ひねもすのたりのたり」と流れる場所。
住んでいる人もゆったりと生きています。
タエコが着くなり、「観光したい」というと、宿の人々にきょとんとされます。
旅というのは現実を離れてゆったりとすごしたりするものですが、忙しい生活にひたりきっていると、なんだか旅にでても忙しくしちゃったりするものです。
あそこ観て、ここ観て、みたいに計画を立てて、そのとおりにいかないとあせったり。
全然旅に出てもゆったりとした気分に浸れない・・・みたいなことありませんか?

仕事をしていると、何かを目標や目的に置き、それを達成するためにどうのようにやっていくのか、がんばれるのかというのを日々考え、動きます。
それはそれで充実しているのですが、時々なんだかとっても疲れる時もあります。
ゆっくり休みたいなあなんて思っていても、休日なんかでもじっとしていると落ち着かなくて、出かけてしまったり。
なんだか目的を持っていないと不安に思ったりするのでしょうか。

あの場所で暮らしている人は、とてもマイペース。
それは自分勝手という意味ではありません。
お互い思いやりを持っているけれども、侵害はしない。
無理強いもしない。
なんだか受け入れられているという安心感がそこにはあります。
その象徴がサクラさんでしたね。
あの場所に受け入れられ、タエコの表情が次第にやわらかくなっていくのが、よくわかります。

タエコが海を見ていいます。
「なんにもないからいいんでしょうねえ」
現代人は受験に受かろうとか、業績をあげようとか、いつも目標みたいなものを設定してがむしゃらに生きています。
けれどもふっと無目的な時間を過ごすこともあっていいのかもしれない。
サクラさんは春になったらあの場所を訪れ、雨が降ったら去っていく。
彼女も無目的な時間で自分をリセットしているのかもしれないですね。

今住んでいるところは、荒川のすぐ近く。
そこを選んだのは川の近くなので、休日は河原の芝生に寝転がってゆったりと過ごせるなあと考えたから。
前はけっこうそうやって過ごしたものですが、最近はそんなこともしていないなと「めがね」を観てふと思いました。
たまにはたそがれて気持ちのリセットしなくちゃいけないですね。

荻上直子監督作品「かもめ食堂」の記事はこちら→

荻上直子監督作品「恋は五・七・五!」の記事はこちら→

荻上直子監督作品「バーバー吉野」の記事はこちら→

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