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2007年9月30日 (日)

「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」 ダイジェスト版的印象が拭えない

公開時、劇場で観ましたけれど、「不死鳥の騎士団」を観る時はすっかり内容を忘れていました。
僕の印象では今までのシリーズの中で最も印象の薄い作品。
「賢者の石」「秘密の部屋」はクリス・コロンバスが原作になるべく忠実に再現しようとし。それを実現したことが印象深かった。
「アスカバンの囚人」はアルフォンソ・キュアロンがそれまでのシリーズのらしさを引き続きつつも、自分の個性を発揮したのがおもしろかった。
「不死鳥の騎士団」は以前記事でも書きましたが、長い原作を手堅くまとめあげたという感じを受けました。
キュアロン監督ほどの個性を感じないけれども、この作品もそれでも決して面白くないわけではない。
でも「炎のゴブレット」はそれらの作品と比べるとやや劣るように思えます。
原作がボリュームがあってまとめあげるのがたいへんというのは、このシリーズについては同じで今までの監督はどのように破綻なくまとめあげ、2時間半程度の映画としても面白いものを作るというのが悩みであったと思います。
「炎のゴブレット」はそれがうまくできなかったというように見えました。
まずエピソードのぶつ切り感、突然感が各所で見られるような感じがします。
原作のエピソードのうち、どれを活かしどれを切るかという判断が間違っているような印象が拭えない。
「炎のゴブレット」は3魔法学校の対決と、ヴォルデモートの復活がストーリーの主軸になります。
これを中心に固めればいいような気がするのだが、途中ダンスパーティの話にかなりの時間を割いていました。
少年が女の子を意識する年頃という意味では重要なエピソードであるということはその通りですが、魔法学校対決の話がいつの間にかどこかへいってしまい、突然また対抗戦第二回戦に話が戻るというのはやや乱暴な感じがしました。
この作品ではずっと今まで仲が良かったハリーとロンが喧嘩をしてしまいます。
「名前を言えないあの人」との戦いから唯一生き残った特別な子であるハリーには注目がどうしても周囲の集まります。
その上、売名行為のように対抗戦に立候補した(とロンは思った)ハリーに対して、ロンはなんだかおもしろくない気分になります。
そのため距離を置こうとするロンの態度が、ハリーにとってもおもしろくない。
けれども第二回戦でハリーの大切なものとしてロンが人質にとられてしまうということになり、ハリーは友情というもの大切さを再認識する。
このあたりの二人の気持ち(加えてハーマイオニーの気持ちも)は原作ではしっかりとしつこいくらいに書かれていますが、映画はかなりさらっと流されているように見えます。
原作のエピソードを追っていくだけで、あまりキャラクターの内面が描かれていないような気がするのですね。
このあたりが2時間半という長尺を使いながらも、なんだか説明不足で、もの足りないダイジェスト版的印象をもってしまった原因なのかもしれないです。 「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の記事はこちら→ 「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の記事はこちら→

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「帰ってきた時効警察」 みんな変わっていなくて嬉しい

昨年放送してはまってしまったオダギリジョーさん、麻生久美子さん主演のドラマ「時効警察」の続編です。
何で今頃、書いているのかって?
やっと全部録画しているのを観たのですもん・・・。
この半年ずっと激務で忙しくて・・・。

このドラマ前回のときから、微妙なユルさ、ストーリーとはあまり関係のない小ネタの連発、全員がボケキャラといった僕好みのテイストでしたが、続編も嬉しいことにそれは変わらず。
新キャラ真加出くんもさらにボケボケでいいですね。
二作目は十文字の外し具合もさらに切れが出てきて、いい感じ。
ほとんどキャストは変更なし、監督も三木聡、園子温、ケラリーノ・サンドロヴィッチも結集してくれているのも嬉しい限り。
みなさんだんだんメジャーになってきているので再結集は難しいかと思いましたが、キャスト・スタッフのみなさんもこの作品に思い入れがあるのでしょう。
ラスト前には、オダギリジョーさんが監督・脚本の回があります。
これはまた他の監督と違う雰囲気で楽しめます。
(霧島くんが監督しているので三日月クンが大活躍)

ここから先は、このシリーズを観ている方しかわからないネタで。
劇中、霧山くんと三日月クンが行く定食屋「早め亭」というのが出てきますよね。
先日たまたま昼ご飯を食べに行ったお店はまさに「早め亭」でした。
店の外で入ろうか迷っている時に中から「いらっしゃい!」の声、扉をあけた瞬間に「何するか、決めて」、そして席についた瞬間に目の前に料理をドン。
まさに「早め亭」。
おもわずおばちゃんの顔を確かめてしまいました。
真加出くんのお母さんじゃなかったです。

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2007年9月29日 (土)

本「マグダラのマリア -エロスとアガペーの聖女-」

「マグダラのマリア」の存在を知ったのは、小説「ダ・ヴィンチ・コード」ででした。
この作品では「マグダラのマリア」はイエスの妻であり、その子を宿したという設定になっています。
史実としてはそのような事実はありませんが、フランスには「マグダラのマリア」の墓があるという伝説はあります。
「マグダラのマリア」については新約聖書に記述があり、イエスの復活を目撃した一人とされています。
後年言われるように「マグダラのマリア」が娼婦であり、改心したというような内容は聖書にはありません。
キリスト教が広まるにつれ、さまざまな解釈が積み重なれて次第に「マグダラのマリア」像が形作られたことが、この本は時代時代の芸術作品での「マグダラのマリア」の描かれ方を追いつつ解説されています。
聖書においても使徒伝によって「マグダラのマリア」の扱いは違うようです。
イエスの復活の目撃者として「マグダラのマリア」は登場しますが、ルカ伝では彼女については非好意的に描かれているとのことです。
これは女性を下等な存在とみる初期キリスト教の考え方によるものとされます。
時を経るにつれさらに女性=穢れているという考えから「マグダラのマリア」には娼婦というイメージが付加され、娼婦だった女性が改心し清貧な生活をおくるようになったというストーリーが組み立てられてきます。
そして穢れた存在でも改心すれば聖なるものになれるというストーリーは、庶民の信仰には絶好であると教会はとらえ次第に「マグダラのマリア」の絵画や彫刻が教会などにも飾られるようになったということです。
イエスの母マリアはあくまで聖なる存在で庶民からみれば遠い存在であるのに対し、「マグダラのマリア」は聖であり俗、穢れであり清らか、愛と性といったような二面性を持つ存在であるため庶民に近しい存在であったようです。

「マグダラのマリア -エロスとアガペーの聖女-」 岡田温司著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101781-1

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「檸檬のころ」 檸檬は心の擦り傷にしみて、ちょっと痛い

檸檬はすっきりとさわやかな味だけど、心の擦り傷にはしみて、ちょっと痛い。

高校三年というのは、人生の中で初めて自分で自分の道を選ぶ時かもしれない。
中学・高校進学は地元だからとか、親や先生が薦めたからなど、みんなあまり自分で進路を選んだという感じはないのではないだろうか(よほどしっかりとした人は別かもしれないですけれど)。
でも高校を卒業するときは、やりたいこと(もしくはやりたくないこと)などがぼんやりながらも見えてきて、進路というものを選ぶとき、少なからず自分の意志があらわれてくるだろうと思います。
子供の時は周囲にお任せであったのが、自分で選択する、していいとなったととき、人は初めて世界と直面し、自分と他者、理想と現実、そのギャップに気づく。
というより気づかされる。
将来やりたいことがあるけれども、その才能が自分にないのではないかと不安に思う。
ずっと好きな子がいるけれど、その子には自分の友人のことが好きだと言われる。
東京の大学に進学する彼女とずっといっしょにいたいけれど、自分は進学できるほど頭が良くない。
登場人物の高校三年生はそれぞれが自分の理想としている姿と現実のギャップに悩む。
自分がとっても小さかったり、恥ずかしい存在のように思えてしまう。
それでイライラしたり、落ち込んだり。
夢、進路、恋愛などに関して、理想とは違うどうしようもない現実に、自分が決めるということができる年齢になって初めて直面するのが高校三年なのかもしれないですね。
自分と他人、理想と現実のギャップを感じたとき、深くはないけれど心に擦り傷のような痛みを覚える。
擦り傷にしみる檸檬の痛みは、現実と自分とのギャップを調整するのに慣れていつしかすっかり忘れてしまうものだけれど、こういう青春ものの映画を観ると、その痛みを感じたという記憶がよみがえってきます。
とても檸檬にでも痛みをかんじてしまうくらい敏感だったころの記憶が。

榮倉奈々さんが主演なので、ファンとしてこの作品を観てみましたが、ちょっと彼女の魅力がでているかというとちょっと疑問。
とても真面目な優等生役で、悩んでいる表情が多く、彼女の明るさは感じられなかったのがやや残念でした。
でももう一人の主役の谷村美月さんが良かったです。
ちょっとコメディエンヌっぽさもあって、演技が上手でしたので、今後注目かもしれません。

青春ものと言えば、必ずと言っていいほど学校の屋上のシーンが出てきますよね。
この作品もそうでした。
いろんな作品で屋上のシーンはいい場面が多いんですよね。
なぜだろう?

榮倉奈々さん主演「阿波DANCE」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「渋谷区円山町」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「僕は妹を好きになる」の記事はこちら→

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2007年9月24日 (月)

「アーサーとミニモイの不思議な国」 ジム・ヘンソンへのオマージュか?

リュック・ベンソンの久しぶりの監督作。
10本撮ったら監督はやらないと言っているようですが、そうなるとこの作品がラストになります。
リュック・ベンソン作品は「グレート・ブルー」、「ニキータ」、「レオン」と好きなものが多いのですが、最近ではハリウッドチックな大作が多くなり、それと同時にらしさが失われてきたような気がしていました。
どちらかというと今はプロデューサー業の方が楽しいのでしょうか。

公開前から話題になっていたのは、実写パートと3DCGアニメパートがあること。
実写パートは現実の人間の世界を、3DCGアニメパートはミニモイたちの世界をと、描き分けて使われています。
なんで表現を使い分けようと監督は試みたのでしょうか。
3DCGパートは「ベクシル」のようにリアルさを追求するのでもなく、ピクサー作品のようなカートゥーンでもないテイスト。
こちらに登場する小人、ミニモイ族は「ダーククリスタル」のパペットみたいですね。

ご存知の方もいると思いますが、「ダーククリスタル」は82年のファンタジー映画で全編人形(アニマトロニクス)で作られています。
全編人形の操演で映画を撮るという試みにより、結構カルトなファンをもっている映画です。
今回の作品でリュック・ベンソン監督は、ジム・ヘンソン(「ダーククリスタル」の監督で人形師)のマペットの世界を再現したかったというのが、本音なのではないかと思いました。
「ダーククリスタル」はコアなファンをつかむことはできましたが、一般受けはしなかった。
たぶんその原因の一つは、人形であるがゆえの感情移入のしにくさではなかったのでしょうか。
「ダーククリスタル」には人間が一切登場しないのです(人間っぽいクリーチャーはでますが)。
ですので、ファンタジーワールドに慣れていない人にはなかなか感情移入しにくいかもしれません。
この作品では、人形のすばらしいデザイン、そして操演の見事さもあり、人形が生命が持っているように動きます。
あえてリアルな人間を出さなかったのは、人間がでるがゆえに対比によりイキイキとしている人形が、ほんとに人形でしか見えなくなってしまうということが起こるのを防ぐためではなかったのかと思います。
その後ジム・ヘンソンがジョージ・ルーカスの製作総指揮のもと作った「ラビリンス/魔王の迷宮」では、ファンタジー世界に紛れ込んだ少女としてジェニファー・コネリー、そして悪役でデビット・ボウイが出てマペットと共演(?)しています。
これは先にあげた感情移入のしにくさを解決しようとする試みであったようにも思えます。
この作品もあまりヒットしなかったと記憶していますが(ストーリーがあまりにありきたりのため)、カルト的な人気も得ることができなかったと思います。
これは「ダーククリスタル」的な思い切りがなく、中途半端に感情移入できる人間が演じるキャラクターをファンタジー世界に挿入したためだろうかと思います。
感情移入はしやすくなったかもしれないですが、ファンタジーとしての世界観が薄くなってしまうということにも繋がったかもしれないです
人間とパペットの共演という同じような試みで成功しているのは「スターウォーズ」かもしれません。

技術の進歩を受け、リュック・ベンソンは再びジム・ヘンソンの世界を現代のパペット、3DCGとして復活しようと試みようとしているように思えます。
感情移入のしやすさの解決については、前段の人間パートで演技力のあるフレディ・ハイモア少年を起用することにより観客の気持ちを自然につかみ、人間(実写)からミニモイ(3DCG)への変換装置(望遠鏡)を使って、少年に移入した感情を3DCGキャラクターの方にも移管しているのでしょう。
このあたりの仕掛けはとても巧妙であるように思いました。
3DCGで描かれるミニモイの世界は、人形操演にはない自由度があるため、のびのびとファンタジー世界が描かれていたと思います。
そういえば冒頭描かれる戦闘シーンは「スターウォーズ」を観ている気分がしました(モスキート部隊とかが飛んでいる音は「スターウォーズ」の戦闘機にとても似ていた)。
ストーリーとしては奇をてらったところもなく安心して観ることができます(リュック・ベンソンらしさはあまり感じませんが)。

そういえば「ラビリンス/魔王の迷宮」で悪役をやっていたデビッド・ボウイが本作でも敵の親玉でした。
このあたりからもリュック・ベンソンのジム・ヘンソンへのオマージュが感じられるかも。

続編「アーサーと魔王マルタザールの逆襲」の記事はこちら→

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「ポリス・ストーリー2 九龍の眼」 ジャッキーの必死さが好き

こちらのブログで何度か書いていますが、中高生の頃ジャッキー・チェンが大好きで、この作品も劇場に観に行った記憶があります。
久しぶりにDVDで観賞しました。

シリーズ1作目「ポリス・ストーリー」はジャッキーの作品の中でも好きなものの一つです。
斜面に作られたスラムを車で激走するシーンや、ラストのデパートでのアクションシーンなどは、さすがジャッキー!という迫力でした。
シリーズ2作目である本作も見所はやはりジャッキーのアクションでしょう。
最近は落ち着いている役もやりますが、この頃のジャッキーが演じるのは、まっすぐでまず行動という熱血タイプのキャラクターが多い。
ジャッキーに限らず、最近の映画では熱血キャラは少ないので久しぶりに観るととても新鮮。
本作のチェン刑事もまさにジャッキーの典型的キャラクターですね。
この作品でも体当たりのジャッキー流アクションが見られます。
爆弾ベストを解体する場面は好きなシーンのひとつです。
ジャッキーって別段最近のいわゆるイケメンって感じはないのですが、汗をいっぱいにかきながら必死にやっているジャッキーの姿はやはりカッコよく思える。
ジャッキーは足も長くないし、それでもドタドタとがに股でしゃかりきに走る様が好きなんですよねー。
その必死さが。
最近のワイヤーを使ったアクションは余裕があって、華麗で美しいですけれど、非現実的でファンタジーな感じもします。
リアルではないので、当然なんですけど。
ジャッキー映画のアクションからは生身で自身が演じているからこそ余裕って感じは受けなくて、それこそ必死にやっているという感じが伝わってきて、観ていて力がはいります。
アクションシーンではやはりジャッキーらしく小道具を使ったユニークなアクションを堪能させてくれます。
ラストの飼料工場(?)での戦いは屋内を上下に行ったり来たりする立体的なアクションが観れます(斜面を転がってくる樽をよけるところはまるでドンキーコング)。
これらをすべて生身でやっているところがやはりジャッキーはスゴい。
コンピューターの上で作られたアクションとは一味違う迫力を味わうことができます。
たまにこういうスタントを生身で演じている昔のアクションを観るととても新鮮で、作られた映像とは異なる迫力、そして作っている人たちの心意気を感じますよね。

ジャッキー・チェン主演「香港国際警察/NEW POLICE STORY」の記事はこちら→

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2007年9月22日 (土)

「LOVERS」 三人の想いがよぎる一刹那

冒頭の遊郭のシーン、チャン・ツィイーの舞いにため息がでました。
舞いの動きはアクロバティックでありながら水がさらさらと淀みなく流れるようでとても美しく、また時折挟まれる静止のポーズも絵のように決まっていて美しい。
少女のような笑顔をみせるかと思えば、妖艶な女の微笑も浮かべる。
豪勢な衣装を着ていても、襤褸を着ていてもその美しさは変わらない。
作品の中で繰り返しでてくる歌にあるとおり、まさに佳人、傾国の美女です。
観ているだけで目を奪われてしまう希有な女優さんですね。

「英雄」に引き続きチャン・イーモウの作る映画はただただ美しい。
「英雄」はパート毎にはっきりとしたテーマカラーを設定し、風景・衣装・セットをトータルでコーディネートした色彩が見事でしたが、本作「LOVERS」でも監督の色彩感覚は際立っています。
冒頭の遊郭はカラフルな色彩、次いで金(金城武)・小妹(チャン・ツィイー)の逃亡シーンでは地味なアースカラー、「飛刀門」のアジトはグリーン、そして最後は雪の白。
またアクションのテンポもいいですね。
ワイヤーアクションを取り入れている映画は東西を問わず多いですが、チャン・イーモウ監督作品のアクションシーンは何か違う。
優雅とでもいいましょうか、アクションというよりも舞いを踊っているような感じがあります。
ただ動きは早いだけではなく、観ている側の印象としてはゆったりとしていながらもキレがあるというか。
「すごい」とか、「かっこいい」という形容詞よりも先に「美しい」という言葉が浮かびます。

ストーリーは・・・。
朝廷に逆らう「飛刀門」を追う捕吏の劉(アンディ・ラウ)と金。
その頭目を捕らえるため「飛刀門」に繋がると言われる女、小妹を二人は捕らえます。
金はわざと小妹を逃がすことにより、彼女から信用をかちえ、頭目の情報を得ようとします。
けれども金と小妹は本気で愛し合うようになり・・・。
シナリオもしっかりとしていて、ストーリーが二転三転あるので楽しめます。

<ここから激しくネタバレ>

雪原で劉と金が戦うシーンは前述したような「美しい」アクションではありませんでした。
激しく剣を合わせ、拳をふるう二人の姿には「美しさ」はなく「荒々しさ」がありました。
それだけに二人がそれぞれ小妹を思う気持ちの激しさが伝わってきました。
そしてラスト、劉、金、小妹の三人が向かい合う場面。
金は剣を捨て、自ら劉の飛刀を受け先に死のうとした。
小妹が金の命を救うため、胸に刺さっている飛刀を抜き投げないように。
飛刀を抜いたら出血で確実に小妹は死んでしまうから、それをさせないために。
劉は飛刀を投げる仕草だけで、実際には投げなかった。
小妹が自分の命に代えても金を守ろうとするのがわかったから。
金を救い、自分は小妹の飛刀を受け、小妹といっしょに二人だけで死にたかったのかもしれない。
そして小妹は飛刀を自らの胸から抜いた。
けれども小妹は劉には投げず、劉が放つであろう飛刀を狙った。
彼女はかつて愛した男と、現在愛している男を二人とも救いたかったのかもしれない。
とても短い距離を飛刀が飛ぶ一刹那、三人の想いがよぎる名シーンであったように思いました。

チャン・ツィイー主演「女帝<エンペラー>」の記事はこちら→

アンディ・ラウ主演「墨攻」の記事はこちら→

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「ファンタスティック・フォー:銀河の危機」 ファンタスティック・コンビネーション

一作目の「ファンタスティック・フォー」は僕としてはあまりピンとくるところがなく、評価が低いです。
唯一の見所はジェシカ・アルバのみと以前書いた通りで、本作もあまり期待せず彼女だけを観に行ったという感じでした。
予告や雑誌の記事でもジェシカ・アルバ中心に紹介されていたので、てっきり彼女が主役になっちゃったのかと思っていました。
けれども本作「ファンタスティック・フォー 銀河の危機」は超能力スーパーヒーローの四人組というのをうまく活かして、チーム全体が主役というように見えました。
冒頭の結婚式のシーン、シルバーサーファーとファースト・コンタクトし、ヘリが墜落してくる場面では、四人の超能力が絶妙なコンビネーションを発揮し、皆を守ります。
ロンドンテムズ河のシーンもそうですね。
一作目ではそれぞれが超能力を使いこなせていないところもありましたが、幾多の事件を経てチームワークができあがってきたことが窺えます。
このあたりのコンビネーションは見ていて気持ちがいい。
よく見てみるとこのチームのそれぞれの超能力はそれぞれよく考えられていて、うまく相互補完して全体でバランスをうまくとっているように見えます。
柔(リード)と剛(ベン)。
攻撃(ジョニー)と守備(スー)。
沈思黙考(リード)と直情行動(ジョニー)。
動(ジョニー)と静(ベン)。
お互い足りないところを補い、全体で悪と戦う能力を持っているチームであることが、この作品の魅力なんですね(やっと気づいた)。
シルバーサーファーと接触したため、超能力が入れ替わってしまうようになってしまったジョニーが、他の3人の能力も引き受けた4人分の超能力「てんこ盛り」(電王のクライマックスフォームみたいだが)で戦うのはなかなかのアイデアでした。
見た目も派手で観ていて盛り上がれます。
この作品は最近のスーパーヒーローもの(「バットマン」「スパイダーマン」)にあるような主人公の深い苦悩(スーのセレブになってしまったことに対する悩みはあるが)みたいなものはありません。
逆にある種の楽天的でポジティブな雰囲気で、コミックを読んでいるような気軽な気持ちで楽しむことができます。

前作はストーリー的にはありきたりでもの足りなかったのですが、本作で深みをもたせているのが、シルバーサーファーの存在。
予告を観た限りでは、今時っぽくないベタなデザインでしたし、僕は宇宙から来た破壊者というやはりありきたりなイメージでとらえてました。
けれどもシルバーサーファーが破壊を行う関係が明らかになり、スーと気持ちの交流があるあたりからドラマ的には深みがでたと思います。
敵役であると思われたシルバーサーファーがこの作品で唯一苦悩する役回りであるところが明らかになるところが脚本的にも良くできているなと思います。

事件も世界規模、地球規模で、映像的にもスケールが大きいものが多く、みていてとにかく派手。
邦題は「銀河の危機」で、そんな大げさなタイトルを、とも思いましたが、そのくらいスケール合ってもコミックだからいいかと思えます。
悩み多く苦しむスーパーヒーローが増えている中、楽観的なこんなヒーローたちもたまにはいいかなと思います。

「ファンタスティック・フォー」の記事はこちら→

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2007年9月17日 (月)

本 「帝都幻談」

映画化もされた「帝都物語」の前日談です。
「帝都物語」では明治時代から現代・近未来までを通し、魔人加藤保憲が帝都東京の壊滅を狙い、それを各時代の人々が果敢に戦いを挑んでいく姿を描いています。
加藤は何度も滅ぼされますが、その度に東京そして日本という国に犠牲になった人々の怨念からパワーを得て、復活をします。
「帝都物語」では明治時代に突如として加藤が現れますが、江戸時代より彼は江戸を破壊しようと暗躍をしていたというのが、本作になります。
「帝都物語」のシリーズでは先にも書いたように各時代の著名人が加藤を阻もうこと試みます。
本作では江戸時代後期、平田篤胤、遠山景元(遠山の金さん)らが加藤に戦いを挑みます。
加藤が破壊の引き金として選んだのは、アテルイ。
アテルイは田村麻呂に征伐された蝦夷の長ですね(高橋克彦氏の「火怨」で主人公で描かれますが、この作品もおもしろい)。
「帝都物語」の関東大震災に匹敵するように、ラストで加藤が仕掛けた江戸破壊工作の結果として起こるのが安政の大地震。
今までのシリーズ同様、荒俣氏の史実をうまくフィクションにとらえたストーリーは相変わらずおもしろいですよ。
「帝都物語」にはまった人は是非。

「帝都幻談<上>」 荒俣宏著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-325730-3
「帝都幻談<下>」 荒俣宏著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-325740-2

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本 「メンタルヘルス -学校で、家庭で、職場で-」

メンタルヘルスという言葉が普通に使われるようになって久しい。
十数年前、僕が会社に入った頃にはほとんどそんな言葉は聞かれなかったと思う。
ただそれはメンタル的に調子を崩してしまう人がいなかったわけではなく、それを皆が見ないようにしていただけだと思う。
今では社会もメンタルヘルスに関しての知識があがってきているとは思う。
ただまだ日本人全体的にはまだきちんと認識されていないのではないだろうか。
朝青龍や阿部前首相に対する批判しかり。
無責任だとか言われていますが、それはもう仕方がないことなのだ。
バッシングを受ける前にしていたこと(巡業休んでサッカーしたり、選挙で大敗したり)は非難されても仕方がない。
けれども彼らが追い込まれ休まなくてはいけなくなったことを批判してはいけないのだ。
やりたいけどやれない、そういうところまで追い込まれてしまったのだ。
動く為のエネルギーが枯渇している状態。
これは責めてはいけないのだ。
休んでただただエネルギーをためていく、今は彼らにはそれが必要なのです。

実は僕もひと月ほど会社を休んだことがあります。
休む時は産業医の先生にいいからまず休みなさいと言われました。
僕は休める状態じゃない、みんなが迷惑すると言いましたが、まずはそういうことを気にせず、まずはエネルギーをためなさいと言われました。
そして余裕ができてきたら、自分を見つめてみる。
エネルギーをため、自分自身を自覚・理解することが大切だと。

ストレスとは、自分への期待値が高ければ高いほど多くなり、周囲のサポートと見通し・見込みがあればあるほど小さくなるということです。
聞いてみるとなるほどと思えてくる。
メンタルの調子が悪くなる人はマジメな人が多いという。
周囲の期待、自分自身への期待が大きくなりそれに答えられなくなって悩む。
あまりそういうことは気にしないようにするのがいい。
言葉の通り、いい加減、がいいのだ。
また周囲の理解も大切。
いまだに体調を崩す人がいると根性がないとか責任感がないという人がいるが、こんなのは言語道断。
責任感があるから体調崩すんだって。
あとは見通し。
なるべくいろんな案件の道筋を早めにつける。
先行きが読めれば不安感は減る(僕はそういうクセをつけるようにしている)。

いろんなところ(この本にあるように学校、家庭、職場で)でいろんな人がメンタルの調子を崩している。
そこから回復するには本人の自己認識の側面も大きいけれど、周囲の理解もさらに大切なのだ。
上に書いたようにメンタルヘルスはかなり筋道たって語ることができる。
得体の知れないものではないのだ。
みんながそういう知識を持ち、普通に話せるようになるようになればいいと思う。

「メンタルヘルス -学校で、家庭で、職場で」 藤本修著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101873-7

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「スピードマスター」 日本人による日本を舞台にした日本の車の映画

車は持っていないけれど(東京は駐車場代が高いのです)、車の映画は好き。
「頭文字D」も「ワイルド・スピードX3」も日本を舞台に、日本の車でバトルしているけれど、それぞれ作ったのは香港とアメリカ。
やはり日本人による日本を舞台にした日本の車の映画が観たいと思っていたら、作られましたこの映画「スピードマスター」。

車の映画好きとしては注目するのは、カーバトルシーン。
ほとんどCGだと思いますが、「ワイルド・スピード」のようなスタイリッシュな映像に仕上がっていました。
ここまでくるとレースシーンは、車というより、戦闘機のドッグファイトですね。
とはいえ、いかんせんレースシーンが少なすぎます。
ほとんど映画の頭とラストだけ、それも同じコースなので同じようなアングルになっていて変化がないのがもの足りない。
ストーリーは、流れ者の走り屋が、ある修理工場を助け、自分も成長し、そして去っていく王道西部劇的なお話でありました。
そういう意味では新鮮味ありません。
あと時折挟まれるスタイリッシュな映像と、とっても普通なドラマパートがなんだかうまく合っていなかったようなつぎはぎ感を感じました。
敵役の内田朝陽さん、はじめて観ましたがハイテンションにキレる役でなかなか良かった。
その他のキャラクターがありきたりであったので、かなり目立ってました。

日本人による日本を舞台にした日本の車の映画でしたが、全体的に小品な感じが否めません。
レースシーンの迫力などを比べると「頭文字D」に軍配があがります(「ワイルド・スピードX3」は好きじゃないので比べない)。
日本人としてはもう少しがんばってほしかった、ちょっと残念。

「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」の記事はこちら→

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本 「犬は勘定に入れません -あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎-」

イギリスヴィクトリア朝を舞台にした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」という趣の小説です。
飛行機で遠くに旅したとき起こる時差ぼけ(ジェットラグ)というのがありますが、この小説ででてくるのは時間ボケ(タイムラグ)。
あまりに頻繁に過去未来を行き来すると起こると言われています。
なかなかおもしろい設定。
未来は「ネット」という技術ができ、タイムトラベルが可能になっています。
ただし過去やミライからモノを持ち込むというようなことはできないと言われています。
そもそもそういうものを身につけていると「ネット」が開かないんですよね。
けれどもそんなとき過去、ある出来事をきっかけにつき合うべきカップルが出会わず、死んでいたはずの猫が生きているということが起こりました。
これを放っておくと時間の改変、もしくは世界の破壊という事態も起こりかねない。
史学性ネッドとヴェリティが過去、未来を行き来し、その事態の収拾に奔走します。
不思議なタイトルはイギリスの「ボートの三人男」というユーモア小説から引用しているらしいです。
小説の中でもさまざまなイギリスのその時代の小説からの引用句がたくさんでてきますので、そのあたりに詳しい方はより楽しめるかもしれません。

「犬は勘定に入れません -あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎-」 コニー・ウィルス著 早川書房 ハードカバー ISBN4-15-208553-3

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2007年9月16日 (日)

「オフサイド・ガールズ」 まだまだ排他的

イランでは女性はサッカースタジアムで観戦することができないらしい。
それは女性が聞くのがはばかられるような汚い言葉を観戦している男たちが吐くかららしいです。
そんなの、汚い言葉を言わなければいいじゃんと思うのだけど、そうはならないのがイランという国のようです。
イランの現政権はイスラム教シーア派の原理主義、そのあたりの規制は厳しいのでしょうか。

そんな規制が厳しい中、どうしてもサッカーがスタジアムで観たい、母国を応援したいという女の子たちが、あの手この手でスタジアムへ侵入するというような、そんな内容の予告だったと思います。
予告を観て「ベッカムに恋して」のように、女性への偏見にがんばって立ち向かう女の子の話かと勝手に思っていました。
イランでそんな映画できるのかー、是非観なきゃということで行ってきました。

が、しかし。
女の子たちは映画開始早々、警備の兵士に確保され、結局試合は見れず。
延々と柵に入れられ(ちょろちょろと抜け出す手を考えるものの)、兵士に見張られている場面を観せられる。
そのあたりの兵士とのやりとりはユーモラスではあるものの、素人っぽい緩さがあって笑いまでにはつながりません。
映画は実際にワールドカップの予選のスタジアムで撮っていたようですが、ほとんどその場面は映りません。
その試合はイランが勝ち、勝利に沸く街の様子をまた延々と観せられます。
最初に出てくる女の子が主役かと思いきや、途中はほとんど印象的な行動を見せないなど、キャラクター作りの浅さが目につきます。
登場人物に感情移入できないんですよね。
映画的な高揚みたいなものはほぼ感じられず、僕は劇場で映画を観ていてもほとんど寝ないのですが、この映画は途中完全に落ちてました・・・。

劇中、「日本人の女性は同じスタジアムで観戦しているのに、なんで私たちはだめなの?」と女の子が兵士に聞きます。
兵士は「彼女たちは言葉(汚い言葉の意味)がわからないからだ」と答えます。
そういう問題じゃないだろう。
そういう答えをするところにイランという国が、男性中心主義で、民族中心的で排他的な考えを持っているということが窺い知れます。
いつか女の子たちがスタジアムで大声で応援できるようになるといいのですが。

「ベッカムに恋して」の記事はこちら→

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2007年9月15日 (土)

「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」 絶妙な和洋折衷

北島三郎の主題歌が流れる予告を観た時から、とても観たくて初日に行ってきました。

実を言うと僕は西部劇、華やかかかりし頃の作品を観たことはありません。
アメリカ西部劇、そして主にイタリアで製作されたマカロニ・ウェスタンについても言葉としては知ってはいますが、あまり詳しくは知りません。
でも、西部劇、なかでもマカロニ・ウェスタンというジャンルはその後の映画に少なからず影響を与えているわけ(タランティーノとか)で、その影響下の作品はいくつも観ているので、自分の中に知らず知らずのうちに西部劇のジャンルイメージみたいなものはできていたように思えます。
そういう自分の中の脳内ウェスタンイメージにこの映画はぴしっとハマりました。
日本人が西部劇?
それも英語で?
これだけ聞くととんでもなく危うさを感じてしまいますが、できあがりはとてもクールでカッコいい。

舞台は壇ノ浦、平家VS源氏の戦いで荒廃した町を、一人の流れ者が訪れる・・・。
町のデザイン、セット、衣装がとてもいいです。
フィルムに映し出される街の空気はまさに僕の頭の中のイメージにある西部の町そのもの。
人々の心は荒み、乾いて、疲れた淀んだ空気。
そこを馬に乗ってゆく流れ者。
まさに西部劇。
けれどもそこに建っている建物をよく観てみると和風の建築。
それがミスマッチとならず、西部劇特有の乾いた空気にしっかりと合っています。
また登場人物の着ている服装も基本的には西部劇テイストながら、ちらりちらりと和風感がでている絶妙のアレンジ。
外国の映画で、和のデザインを取り込んだ美術などで、和風テイストを借りてきて上辺だけくっつけたような違和感があるようなものがありますが、そのようなことはこの作品ではありませんでした。
鳥居から吊るし首なんていうのを思いつく三池監督のセンスには、タランティーノもびっくりでしょう。

考えてみるとマカロニ・ウェスタンというのは不思議なジャンルです。
イタリア人が、他の国(アメリカ)の歴史ものを撮るわけですから。
アメリカ人が時代劇撮るのと同じくらい不思議です(「キル・ビル」?)
たぶんマカロニ・ウェスタンで映し出されている西部はほんとの西部とは違っていて、イタリア人のアメリカ西部に対する思い込みイメージが反映されているものなんでしょう。
でもそれが次第に増幅し、コアなファンを持つほどまでに独自の世界観を作りあげていったのでしょう。

そう考えるとスキヤキ・ウェスタンとこの映画を名付けたのも、なかなか的を得ているような気もします。
すき焼きというメニューは、明治時代に西洋人がやってくるようになって、横浜で作られたのが最初と言われています。
それまでは牛肉を食べる文化は日本にはありませんでしたが、醤油の味をベースにした牛鍋が作られるようになり、たちまちブームになったと言われています。
まさにすき焼きとは日本と西洋の融合の象徴。
西部劇をベースに和風テイストをミックスしたこの映画を言いあてるうまい表現だなと思いました。(スシ・ウェスタンだとしっくりこないですよね?)

出演者がノリノリだったのも印象的でした。
キャラクターもクセのある人物ばかりだったですが、みなさんが楽しんで演じているように思えました。
なかでも印象的だった二人をあげるとすると桃井かおりさんと、香川照之さんでしょう。
桃井かおりさん演じるルリ子(ブラッディ弁天)はえらくカッコいい。
2丁拳銃もきまっていました。
ルリ子主役の映画を撮って欲しいくらいです。
あとは香川照之さんは、「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムのような役を、まさに怪演。
「キサラギ」に続いて香川さんにやられてしまいました。

三池崇史監督作品「龍が如く<劇場版>」の記事はこちら→

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2007年9月 9日 (日)

「シッコ」 背景にあるのは個人偏重主義

はてさて健康保険充実度のリストでは日本は第何位なのだろうか?

この映画を観て、アメリカの医療制度のひどさに大変驚いた。
世界で最も豊かな国のはずなんでしょ?
アメリカが国民にあんなに負担を強いているとは。
全く先進国とは思えないほどの医療事情です。
日本は「国民皆保険」の考え方なので、普通にお医者さんに行くと、僕たちは3割負担の金額を払っているわけです(映画の中で紹介されているイギリスやフランスのようにタダとはいかない)。
逆に7割は健康保険からでているわけで。
これを全額自分で払えと言われたら、おちおち病院に行けなくなりますよね。

健康保険というのは、うまくできている仕組みで全国民が保険料を払い、それがお医者さんに行くと7割分のソースになるんですよね。
健康な時は、給料明細を見るとこんなに保険料とられてと思いますが、いざ通院したりするとそのありがたみを感じたりするものです。
また国民が不健康であると保険料の支出が増えるため、収支のバランスが崩れ、健康保険制度自体が崩壊します。
そうなることを国は避けるため、国民の健康向上の政策をとることになるわけです。
アメリカでは民間企業の健康保険に各自が入るわけで、本作でレポートされているように無保険であれば、窓口での支払いは莫大になりますし、また国も国民の健康向上を図ろうとするプレッシャーは感じないということになるわけです。

映画を観ていて思ったのは、何故先進国であるアメリカがこれほどまでにひどい医療事情であるのかということ。
このような状態にあるのは、アメリカ人の国民性というものがあるように思えました。
それは「自分のことは自分でみる」という考え方。
「個人」というものに対する過度な信仰と言ってもいいかもしれません。
「アメリカン・ドリーム」とよく言いますが、これは自らが努力し、運をつかみ、成功するというサクセスストーリー。
ここにある考え方は「個人」がその能力を使い得たものは、すべてその「個人」に帰するというもの。
ただみんなが成功者になれるわけがない。
一握りの成功者の裏には、たくさんの敗者がいるのは道理です。
アメリカ人は、成功も失敗もすべて自分に帰する、負けたら負けた者が悪いという考え方にあるように思えます。
「自分のことは自分でみる」というのは、アメリカという国の成り立ちにも関わるのかもしれません。
もともとアメリカ人は、ヨーロッパから宗教的に追い出された清教徒が起源になります。
彼らは迫害され搾取される側であり、そういう中で「自分の身は自分で守る」という考え方が育ってきたのかもしれません。
マイケル・ムーアが「ボウリング・フォー・コロンバイン」で警鐘を鳴らした銃問題も同じ考え方が根本にあるような気もします。
極端な個人偏重主義は、映画の中にもありますがアメリカ人の社会主義に対するアレルギーのような拒否反応にもみてとれます。
ヨーロッパは窓口支払いがタダなのは、キリスト教的博愛精神が背景にあるのでしょう。
日本の保険も、先に書いた仕組みのこともありますが、もともと日本人にある助け合い(互助)の精神などがバックボーンにあるのかもしれません。

映画のまとめに「「私」だけでなく「私たち」を大切にしよう」というムーア監督の言葉があります。
そのとおりだと思います。
人はいつしか老いて弱者になる、そのことを忘れてしまっているといつかひどいしっぺ返しを受けるような気がします。

日本も制度改定で窓口支払いの負担割合が以前よりも増えました。
少しずつ「アメリカ化」しているような気がしないでもありません。
アメリカという国はひどいなと思うだけでなく、日本の健康保険の現状についてもしっかりと見ていかないといけないと思いました。

最後に冒頭の問いの答えを。
日本は一応10位らしいです。
これを高いと見るか、低いと見るか・・・。

マイケル・ムーア監督作品「キャピタリズム〜マネーは踊る〜」の記事はこちら→

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2007年9月 8日 (土)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」 解釈する楽しみ

12年前の「エヴァンゲリオン」はしばらく見ていなかったアニメーションに僕の目を向けさせた作品でした。
僕はいわゆる「ガンダム」世代であったので、小中学校の頃は夢中になってアニメを観ていましたが、大学生・社会人になるにつれ、次第に観なくなっていきました。
そんなとき、「エヴァンゲリオン」が登場し、ブームになってから、多分世間の他の人に比べても遅くなって観たと思います。

「ガンダム」(それと好きだったのは「イデオン」)に夢中になったのは、キャラクターの魅力、メカのカッコよさだけではなく、アニメ作品としては珍しくさまざまなテーマを描いていたことだったと思います。
いわゆるニュータイプ論だとか、そういうものですが、それらは作品中で明確に語られることはなく、それゆえに観ている方がさまざまな解釈で考えることができます。
この解釈することがおもしろかったんですよね。
同じようなおもしろさを「エヴァンゲリオン」を観たときに感じました。
散りばめられている象徴、多くは語られないが明確に存在しているであろうテーマ、風呂敷を広げたまま収束しないラストなど、考えるネタがこの作品にはいくつもあり、さまざまな解釈を楽しむことができます。
一通り観たあとで知ったのはこの「エヴァンゲリオン」という作品を監督したのは庵野秀明という人だということ。
名前を知って、どこかで聞いたことがあるなと思いました。
庵野監督は学生時代、日本SF大会のオープニングフィルムを自主制作したダイコンフィルム(のちにガイナックスの母体になる)のメンバーだったのですね。
このオープニングフィルムはその時にブームだった「ガンダム」「イデオン」「マクロス」などのアニメのパロディでしたが、学生が作ったのだとは思えないほどのハイクオリティで、当時伝説化したいたわけです。
(当時はインターネットなどという便利なものはなく、このダイコンフィルムの作品を観るのはとても苦労しました)
それに気づいて、「なるほどな」と思いました。
庵野監督がファンとして楽しんだアニメーション、そこでの楽しみを「エヴァンゲリオン」で制作者として提供しようと思ったのかなと感じました。
個性的なキャラクター、今までにないスタイリッシュな映像、そして様々な解釈を生み出すテーマ。
「エヴァンゲリオン」には、僕も夢中になった時代と同じ臭いを感じましたね。

さて前段が長くなりました。
その「エヴァンゲリオン」を再映画化した本作品「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」ですが、驚くほどにオリジナルを踏襲していました。
碇シンジが第三新東京市を訪れエヴァンゲリオン初号機のパイロットになり、ヤシマ作戦発動までを描いておりますが、主要な台詞もほぼそのままにストーリーは進みます。
映像はすべて新作となっていますが、オリジナルでのカッコいいカットなどはツボをおさえたように再現されていて旧作ファンとしては満足できます。
初めての使徒との戦いのシーン、夜に蛍光グリーンだけが浮かび上がるエヴァ初号機は新作映像ならではのグレードアップしたカッコ良さがありましたね。

僕は今回は再映画化ということで、結構内容を変えてくるかと予想していました。
そうしないと何故また映画化するのかということになるのではと思ったのです。
でも驚くほどにオリジナル踏襲・・・。
さてこれをどのように解釈するか・・・。
本作品「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」のラストではおなじみの音楽で次回予告が流されました。
それを観ると次回作「破」はオリジナルからけっこう変わっている様子が観てとれます。
次回作ではオリジナルのストーリーを「破る」展開になると予想されます。
まさに本作は「序」だったのですね。
なので本作だけをもって新作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を評価はできないなと思いました。
二作目「破」の公開は来年。
解釈をいろいろ考える時間はたっぷりあります。
また庵野監督は解釈する楽しみを与えてくれました。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の記事はこちら→

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「レミーのおいしいレストラン」 志向しているのはナチュラルさ

よい食って人を幸せな気分にしますよね。
食べるのももちろんですが、お料理を作っているととても楽しい。
それほど上手ではないのですが、週末くらいはと自分で料理本を片手に料理をしたりしています。
どちらかというとレシピ通りに作る方なので、グストーの言うチャレンジはまだできていませんが。
それでもできあがって自分で食べてみておいしかったりすると、なんだか満足・・・、幸せな気分になります。

相変わらずピクサーのアニメーションは品質がすばらしいですね。
最近は粗製濫造気味に3DCGアニメーションが制作されていますが、ピクサーの作品はずばぬけて質感が違う感じがします。
表面のテクスチャ、背景の作り込み、全体のカラーコーディネイトなど細部に渡ってきちんと作られているところが数多の作品と違いを表している気がします。
それは技術的なものではなく(当然、テクノロジーは背景にあるのでしょうが)、職人がみせるようなこだわりに近い印象を受けます。

この作品でびっくりするのが、やはり料理の表現。
僕も仕事で料理の写真を撮ったりするのですが、これは普通に想像しているよりも難しいんです。
おいしいものを撮ればおいしそうな写真や映像になるかというとそうでもない。
おいしそうな写真にするためにには、ある種、見せるための演出、セッティングの作り込みが必要なんです。
でもそれだけではだめで、できたての料理がもつ臨場感のあるおいしさ感(シズル感)というのがうまくかけあわさっておいしそうな料理の映像が撮れるんですよね。
入念な計算と、偶然性・臨場感の両方が必要なんです。
けれどもこの作品はすべてCG。
偶然性というものを期待することはできるわけはなく、料理の表現はすべて計算され作り込まれたものでしょう。
にもかかわらず、この作品にでてくる料理の映像はとてもナチュラルでおいしそう。
ワインを飲みたくなりましたし、ラタトゥーユも食べたくなりました。
こんな表現を作ってしまうピクサーのスタッフに脱帽です。

「ベクシル」の記事で、何故3DCGアニメーションでなくてはいけないのかという疑問を書きました。
3DCGアニメーションでリアルさを追求していくと、その到達点は「実写と区別がつかない」というところになります。
それはそれでテクノロジーとしてはスゴいと思いますが、そこまでいけば実写で撮ればいいじゃないかということにいもなるような気がします。
当然実写はキャスト費用、特殊効果費用など予算が膨らむためCGの方が効率がよいという話があると思いますが、ものを表現するクリエイターとしてはあえて3DCGを選ぶ理由にはならないと思います(コストを管理するプロデューサーとしてならばわかりますが)。
「レミーのおいしいレストラン」を観て思ったのは、同じ3DCGアニメでもピクサーが志向しているのは、リアルさではないということです。
彼らが志向しているのは、ナチュラルさではないでしょうか。
ネズミがしゃべる、料理する、人間と友情が芽生える、これは現実的かというとまったく非現実的でおとぎ話のようなものです。
この物語を映画にする場合、実写でやると妙なリアルさ、生々しさがでてしまい、人間とネズミの友情などというものは、かえって嘘くさく見えるものです。
もともとアニメーションや漫画というものは、現実をある程度記号化してしまい生々しさを削り取ることによって、非現実的なもの(おとぎ話的なもの)を受け入れやすくする機能があるような気がします。
非現実的なものをいかにナチュラルに観ている側に受け取れるようにするか、そこにピクサーは細心の注意をはらっているのではないでしょうか。
それが冒頭に書いた職人のようなこだわりの表現なのかもしれません。

この作品で求められる料理のシズル感というものは、アニメーションでは到底表現しきれない。
通常のアニメーションはこの点については実写に劣るかと思います。
そのシズル感については先に書いたような圧倒的な3DCGの表現力によって、実写に負けるとも劣らない表現を生み出している。
従来のアニメーションでは表現できない部分をこの新しい手法によって押し広げているんですよね。

このようなことから「レミーのおいしいレストラン」は3DCGアニメーションでなくては表現できないお話になっていると思います。
逆に言うとこの表現だからできるストーリーとも言えるかもしれません。
「ベクシル」の時の疑問、ストーリーと表現の関係性、目的と手段の乖離感というのは、この作品には感じられません。

「レミーのおいしいレストラン」の登場人物の動きは最近流行のモーションキャプチャーではなく、従来のアニメーションにあるようなデフォルメされたものです。
「リアルさ」を追っているのではなく、観る人が話に没入できる「ナチュラルさ」にこだわっているということが感じられる点の一つであるかもしれません。

「ベクシル -2077 日本鎖国-」の記事はこちら→

ピクサー作品「WALL・E/ウォーリー」の記事はこちら→

ピクサー作品「カーズ」の記事はこちら→

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2007年9月 1日 (土)

「マッハ!」 これは痛いっ!

今週はずっと仕事が忙しく劇場に足を運ぶことができません・・・。
おまけに日曜日からタイへ出張ということになり・・・。
前にもこちらで書きましたが、海外に苦手意識があるもので、あまり行ったことがありません。
今回の出張は行きも帰りも一人旅・・・、大丈夫だろうか、ドキドキです。
とはいえ、初体験を前向きにとらえて、気分をタイモードにしようと「マッハ!」をDVDで観賞です。

この作品は公開前、試写会で観賞しました。
主演のトニー・ジャーが舞台挨拶をしてまして、そこでムエタイの演舞を披露。
武術も極めると観ていても美しいですよね。
演舞の最後は、肩車をした上の人が持った木の板への膝蹴り!
かなり高い位置に思えましたが、すごいジャンプ力で見事に割っていました。

「1.CGを使いません」
「2.ワイヤーを使いません」
「3.スタントマンを使いません」
「4.早回しを使いません」
「5.最強の格闘技ムエタイを使います」
が、公開時のコピーでした。
演舞を観ると、映画の中のアクションはほんとにやっているんだなと思えました。

最近は東西を問わず、特殊効果のアクションが多いですが、この作品は昔の香港カンフー映画が持っていたようなリアルさがあります。
「マトリックス」などは美しいけれど、それはやはり作られた感じは払拭しきれません。
実写の映画はポスプロで手を入れないものはほとんどなく、またアニメは実写を目指しリアルさを志向する。
そこには実物に近いという目で見るリアルさはあるかもしれないですが、他の感覚のリアルさも想起させるまでには至っていないですよね。
「マッハ!」には観ていて、「これは痛いよなー」と感じてしまう生(なま)さがあります。
映画のハイライトシーンの一つである、「炎の膝蹴り」なども実際火をつけているのでしょう。
技術を使えば炎の合成なんていとも容易くできると思いますが(「ゴーストライダー」など)、そこには肌感のようなものはない。
熱いっ!とか痛いっ!とかいったような肌感ですね。
どんな俳優さんでも最近の技術を使えば超一流の武道家にみせることはできますが、やはりこの肉体が醸し出す存在感というのが、実際にやっているかやっていないかというので大きく変わるような気がします。
生身の存在感というのは、やはりフィルムを通してでも伝わってくるのですね。
これはいくら技術が発達しても、表現しきれないのでしょうか。

ストーリーは、昔の香港カンフー映画のようなたわいもない話です。
トニー・ジャーの肉体の存在感、華麗なアクションを堪能する映画ですね。
あ、三輪車の追跡シーンも結構好き。
タイ出張で乗れたりするのかしらん。

トニー・ジャー監督・主演作品「マッハ!弐」の記事はこちら→ ブラッチャヤー・ピンゲーオ監督作品「チョコレート・ファイター」の記事はこちら→

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