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2007年8月26日 (日)

本 「プラハを歩く」

僕はあまり外国旅行は好きではないんですよね。
便や宿をとるのが面倒で、言葉もできないですし、なんとなく躊躇してしまいます(出不精なんですね)。
けれども歴史や建築はとても好きなので、プラハのような古い街は一度観てみたいなと思ったりもします。
ああ、「どこでもドア」があればいいのに。

プラハはチェコの首都、ヴルタヴァ川沿いにあります。
この街の歴史は古く、それこそケルト人の時代までさかのぼれます。
プラハというのは戦後は共産主義だったせいもあり、それほど激しい都市開発をしていません。
また古いものを大事にするという国民性もあるのでしょうか、そのために、ロマネスクやゴシック、そしてアール・ヌーヴォー、キュビズム、そして現代建築など様々な建築様式の建物が街のそこここに残っているそうです。
本の帯にも書いてありましたが、まさに「建築博物館の街」。
著者は建築史家ということで、プラハの街の歴史を追いながら、そのようなさまざまな様式の建物を紹介してくれます。
それぞれの時代にはそれぞれの思想、そしてその時に使える技術などがあります。
それらが建物に表れているんですね。
そういうさまざまな様式が一つの街の中で観られるとは、なんて魅力的なんでしょう。
出不精を返上して、一度訪れてみようかな・・・。

「プラハを歩く」 田中充子著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430757-0

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2007年8月25日 (土)

「キャプテン」 「キャプテン」で描かれるリーダーシップとは

ちばあきおさんの漫画「キャプテン」の映画化作品です。
僕は原作漫画というより、アニメの記憶の方が強いですね。
確か最初はスペシャル版(それからシリーズ化)だったと思いますが、これをテレビで観て、感動してとても泣いたことを覚えています。
今回の映画は、アニメのスペシャル版と同じく、谷口キャプテン篇の内容でした。

驚くほどアニメと同じ内容でした。
これは良い意味でです。
昔の漫画やアニメを、現在映画化(特に実写映画化)する場合、どうしても現代的にアレンジします。
当然、風俗や環境、ライフスタイルが変わっているので、そうしないと観る側が物語世界に入っていきにくくなるためでしょう。
この映画「キャプテン」は今現在という設定になっていますが、そこで描かれいているテーマ自体は、僕が中学生の頃観て泣いたものと全く変わっていません。
正直観る前は、今の時代、一般的に「スポ根もの」に分類されるこの作品をどのように映画化し、それが作品としてどう見えるのかというのはわかりませんでした。
「根性」とか「努力」とかいうものが、ドライな現代にどう見えるのだろうかという危惧がありました。
とても古くさいものに見えるのではないかと。

先日会社で、リーダーシップ研修なるものがありました。
そこでは部下を育て、組織目標を達成するために求められるリーダーシップ論的なものを学ぶのですが、学者がまとめている理論みたいなものは、すべてこの「キャプテン」という映画の中に入っているなと思いました。
いくつか目指すべきリーダーシップがあったのですが例をあげるとこんなのがあります。

・リーダーは自らチャレンジングな目標・ビジョンを提示し、部下に納得させ、自分も率先垂範して行動をひきださなくてはいけない。

他の選手が二回戦突破を目標にしている中、谷口くんは青葉学院に勝つという目標(弱小野球部にとっては十分すぎるぐらいチャレンジング)を提示し、それだけでなく自分の行動を見せながら、結果的に部員を自発的に動かすということを行っていました。
「自分でできないことをみんなにやらせるわけにはいかないんだ!」
と言い、谷口くんは雨の中猛特訓をします。
口だけでチャレンジングな目標を立て、自分ではなにもしない上司というのは世の中にいます。
目標を達成させるには、それを部下の腹に入れさせ(そのために説明もし、自分で率先垂範をする)、動かなさなくてはいけません。
それをどうやったら人が動くかということを、谷口くんはたぶん頭でなくて心でわかっていたのでしょう。

あと重要なのは、この谷口くんの姿を後輩たちが観ていたこと。
特に次のキャプテンとなる丸井、イガラシ(原作では丸井のあとのキャプテン)にとって、彼らの理想のキャプテン像が谷口くんという具体的な人物としてイメージできたことが大きい。
彼らはこれからそのイメージをベースにし、自分の個性を加えたリーダーとなっていくのでしょう(原作ではそうなっている)。
組織論的にもその組織のDNAをいかにつないでいくのかというは重要な問題で、当然マニュアル化などの方法もありますが、やはり影響力が大きいのは人の関係でつないでいく、文章にできないエッセンスみたいなものです。
それを谷口くんは丸井、イガラシにつないでいっているように思えます。

こうみると「キャプテン」という作品は、単なる「スポ根もの」に分類されるべきものではないとわかります。
「巨人の星」などの「スポ根」で求められていることは「勝利」。
「キャプテン」はもちろん「勝利」もテーマのうちでしょうが、それにいたるまでの「過程」や「成長」がより強いテーマになっていると思います。
高度成長期やバブル時などイケイケのときは「勝利」が一番の優先目標だったでしょうが、今の時代は違います。
一人勝ちでは、世の中も地球全体(ちょっと大げさですが)もうまくいかない。
みんながそれぞれ、自分たちらしく「成長」することができないといけない。
そう考えると、この作品はテーマとしては観る前に懸念していたような古くささはまったくなく、それどころか今現代において、タイムリーなテーマでがあるなと思いました。
原作の内容と変更されていないのは、それだけ普遍的なテーマを描いているということでしょうね。

念のために。
今までつらつらと書いてきたことだけ読むと堅苦しい映画に思えるかもしれませんが、そんなことはありません。
これらは僕があとで深読みした感想です。
映画自体は朴訥な印象(若い出演者の演技は上手ではなかったですがそれはそれでいい意味効いている)で、登場人物たちの物事への一生懸命さ、マジメさに、素直に心を動かされます。
ストーリーはほぼ知っていましたが、ほぼ最初の方から泣きっぱなしでした。
もしかすると厳しい社会の中でもまれている社会人のほうが、この映画を観て泣けるかもしれません。

イガラシ役をやっていた子が、すごくアニメのイメージに近くて驚きました。
ちょっと斜に構えているところとか、顔とか声も似ていたような感じがします。
ぴったりのキャスティングでした。
最後にアニメ版の主題歌が挿入曲で使われていたのがとても嬉しかったですね。
アニメを観て感動した時の気持ちが甦りました。

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「阿波DANCE」 阿呆は自分でなるもんじゃ

このブログでも何度か書いていますが、榮倉奈々さん好きなんですよね。
彼女の笑顔はとてもよくて、観ている人に元気を与える笑顔のような気がします。
彼女は、例えば蒼井優さんのように器用でさまざまな役をやれるというタイプではなく、どちらかというと彼女自身のキャラクターで演じるタイプかなと思います。
悪く言うと全部同じなんですが、逆にあの笑顔は榮倉奈々さんという個人が持つキャラクターがでているような気がします。
テレビドラマ「ダンドリ。」ではチアダンス大会に出場する女の子の役でしたが、彼女は手足がとてもスラッとして長いのでダンス映えしますね。
今回は冒頭よりヒップホップダンスを披露してくれます。

さてこの映画は「スウィングガールズ」あたりから作り続けられている青春ものに位置づけられると思います。
この手の映画は最近多く、ややマンネリじゃないかというご意見もあるかもしれないですが、そうは言っても僕はこういう話は好きなんですよね。
みんなでがんばって、いろいろ壁もあるけどそれも乗り越えて、最後に何かを成し遂げる。
いいじゃないですか、マンネリでも。
いっしょに達成感が味わえるので、やっぱり観ていて気持ちがいいです。

さて阿波踊りといって思い浮かべるフレーズというと、
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」
だと思います。
この映画でも「阿呆」という言葉がキーワードになります。

東京でヒップホップの大会で優勝し、さてこれからと思っていたアカネ(榮倉奈々さん)は、突然親の都合で無理矢理徳島に連れてこられます。
都会育ちでクールが信条の彼女の目から見ると、徳島の人々はとても田舎くさく、彼女はここは自分の居場所じゃないと思います。
特に同級生の阿波踊り部のコージは暑苦しく、ウザイ存在。
でも二人それぞれが「踊る」ということに対する情熱は、とても熱いものがあります。
コージの親友であり、アカネに好意を持つユッキーがその二人の仲を何とかとりもち、仲間たちでヒップホップと阿波踊りを融合させた新しい踊り「阿波DANCE」を作ろうということになります。
けれどもアカネ、コージ、ユッキーの気持ちは微妙にすれ違い、その試みも空中分解の危機に面してしまいます。

人はそれぞれ自分で決めつけてしまう概念を持ってしまうものです。
「自分はこういうタイプだから」とか「自分の仕事はこうだから」みたいなものですね。
ただ、よく言われることですが、固定概念に捕われてしまうと、それが知らず知らずのうちに自分を縛り、ものの考え方を変えられなくなってしまいます。
何か新しいことをしようとする場合その自分の考え方自体が足かせになってしまいます。
まさにこの映画の前半のアカネの態度がそうですね。
「ここはあたしのいるところじゃない」
「無理、ぜったい無理」
という言葉からは彼女が自分自身のイメージに捕われてしまっていることを表しています。
これは立場は違いますが、コージにも言えます。
でも一度自分のイメージ・概念を自分で壊し、つまり「阿呆」になってしまうというところを通過すると、新しいものが見えてくる。
人のやってることも「決めつけ」ではなく、きちんと素直に見える。
そうなれば人との壁もなくなり、良いものは素直に自分の中に取り入れるということができるようになるんですよね。

ラストで、アカネのダンスに心を動かされたコージがダンスに加わろうとした時、父親(高橋克美さん)に
「俺、今から阿呆になってくるから」
と言います。
父親は
「阿呆、阿呆には自分でなるもんじゃ」
と返します。
まさに至言。
新しいものを生み出すためには、人や組織の壁を突破しなければなりません。
けれどもその壁は実は自分が設定しているもの。
それを越えるには、自分から「阿呆」になって既存概念を壊さなければいけないのですよね。
単なる青春ものと思うことなかれ、深読みかもしれませんがけっこう人生論まで読み取れます。

映画の演出的には個性的という感じはしなかったですね。
テレビドラマを観ているような感じ。
ただやはりこういうダンスものは最後は気分が盛り上がりますよね。
前半は榮倉奈々さんはクールな都会っ子の役だったので笑顔がほとんどなかったのですが、ラストは魅力的な笑顔を見せてくれました。
前半抑え気味だった分、よけいに笑顔がまぶしかったですね。
うるっときました。

そうそう、コージの父親役の高橋克美さんの阿波踊りがすごくはまってました。
ほんとに地元の人のような手つき、腰つきでびっくりです。

榮倉奈々さん主演ドラマ「ダンドリ。」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「檸檬のころ」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「渋谷区円山町」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「僕は妹を好きになる」の記事はこちら→

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2007年8月19日 (日)

ブログ1周年

数日過ぎてしまいましたが、おかげさまでこちらのブログが1周年を迎えられました。
いつも読んでいただいているみなさん、ありがとうございます。

ちょうど1年前、他の方のブログも見たことがないのに、思い立ったように当ブログを始めました。
それまで個人的に観た映画の日記みたいなものはつけていたのですが、せっかくだから最近はやりの(といっても定着してずいぶんですが)ブログでやってみようと思ったんです。

ブログを初めて1年。
映画の見方も変わりました。
まずはすごく真剣に観るようになりました。
映画を観て自分なりの感想を記事のどこかに入れたいなと思うようになると、しっかりと大切に観るようになりましたね。
あといろいろな種類の映画を観るようになりました。
前はずいぶん偏っていたのですが、他の方のブログも見るようになり、「ああ、こんなにおもしろそうな映画がたくさんあるんだな、食わず嫌いはダメだなあ」と思うようになりました。
おかげでずいぶん自分の中の映画の世界が広がったように思えます。

映画というのは、それを観る時の自分の状況、気持ちでその捉え方が違ってくるようなものだと思ってます。
同じ映画でも、そのとき自分の気持ちで感想は変わるものです。
なので、僕はこのブログではそのときの自分の状況などを踏まえた感想を書き綴ってます。
今、読み直してみると、映画の感想なのに、あまりその映画の中身に触れていなかったりすることもありますね。
あとその時の自分の状況を思い出してみたり。
よく昔の曲を聴くと、そのときのことを思い出すと言いますよね。
僕にとって映画はそういうものなのかもしれません。

あと人に自分の書いたものを読んでいただくというのが、楽しいということに気づきました。
自分でよく書けたなと思う文章の時は、不思議なことにみなさん反応してくれます。
んーいまいちと思ってアップした文章は、やはり反応なかったり。
そういう読んでいただいている方の反応がとても楽しいなと思い、日々つらつらと書いている次第です。

1周年なので、ちょっと今の気持ちを綴ってみました。
読んでいただいているみなさん、今後ともよろしくお願いいたします。

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「ベクシル -2077 日本鎖国-」 何故3DCGリアルアニメーションなのか?

観て思ったのは、この映画を何故3DCGリアルアニメーションなのかということ。
最近はコンピューターの発達により、アニメーションと実写の境目がなくなってきています。
ハリウッド製のアクションムービーのアクションシーンは背景も対象物もほとんどがCG。
また「スター・ウォーズ」や「300<スリーハンドレッド>」等は俳優はグリーンバックで撮影され、背景はすべてコンピューターで作られています。
また逆にアニメーションは、ピクサーをはじめ最近は3DCGが主流。
特にピクサーは毎回、質感などの表現について新しいチャレンジをしています。
目を転じて日本を見てみると、お家芸のアニメーションは一見手描き風ですが、最近はところどころ上手にCGを使っています。
これは宮崎駿さんの「もののけ姫」あたりからですが、手描き風でありながら手描きではできないカメラワークなども見られるようになりました。
少しでもCGの力を借りていない映画など最近はないのでしょう。

さて前置きが長くなりましたが、本作品「ベクシル -2007 日本鎖国-」は全編3Dリアルアニメーションで作られていることが売りです。
監督の曽利文彦さんは「アップルシード」でも全編3Dアニメーションにチャレンジしましたが、本作品の映像はさらにリアルさが増しています。
比べてみると技術の進歩が窺われるのではないでしょうか。
しかし、です。
CGがリアルになればなるほど、何故この作品が3DCGリアルアニメでなくてはいけないのかという疑問が出てきます。
SF映画でリアリティ追求となれば、「スター・ウォーズ」のように俳優は撮影し、バックは合成という手法もまったくありだと思います。
逆に日本伝統の手描きアニメーションでも十分可能だと思います(手描きでリアリティがないから物語に入り込めないわけではないはず)。
背景やアイテムなどはリアリティがあるのに、人物の顔だけはアニメ調のリアル顔、これがずっと見ていて違和感がありました。
3DCGである以上コンピューターから出力される映像には偶然性などが入るわけはなく、キャラクターの表情は計算されたもの以上のものではありません。
実写ならば、演じる俳優の個性、その場の雰囲気が醸し出すものにより、その瞬間しかできないような表情がとれる時があります。
また手描きのアニメは、手で描くが故の曖昧さとか個性が出るわけで、それが活き活きとした表情を生み出します(「時をかける少女」とか)。
それが現在の3Dリアルアニメーションにはない。
ピクサーのように、従来のアニメーションと同じくキャラクターを記号化してしまえばそんな問題は生じないのですが、リアリティをCGで追い求めるが故にそこにどうしても限界が生じます。
将来コンピューターが進化し、俳優の微妙な表情までシミュレートできてしまうようになればいいのですが、現在は残念ながらそのようなレベルではない。
そうしたとき、最初の疑問になります。
何故この映画を3DCGリアルアニメーションで作ったのか。
日本の技術はこんなことできるということだけがいいたいのであれば、それはただのテクノロジーとテクニックのプロモーション映像です。
映画である限り、手法は表現したいもの(主題)を表現するためのものであると僕は思います。
ただ僕は映像スタイルというのはまったく否定しません。
映像スタイル(小津監督のローアングル長回しとか、ジョン・ウーのスローモーションとか)は伝いたいことがあるから、表現者その人にとって必然的にそうなるのだと思っています。
けれどもなんだか「アップルシード」と本作と見ていると、手段と目的が入れ替わってしまっているような気がしてなりません。

ストーリーはいっさい触れませんでしたが、主題は「アップルシード」とまったく同じです。
そういう意味で何故この映画を作ったのかと疑問を持ってしまいます。

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2007年8月18日 (土)

「恋するマドリ」 「捨てるもの」と「とっておくもの」

生まれてから引っ越ししたのは2度だけです。
大学までずっと実家で、就職して寮に入ったのが1回目。
その寮を出て、今のところに越してきたのが2回目。
2回目のときは、いろいろ行き詰まり感もあり、何か環境変えたいなあと思い立つように引っ越ししました。
寮は会社からあてがわれたものですが、今のところは自分で選んだところ。
やはり引っ越し自体は面倒ですけど(無精なもので)、家具を買い足したり、観葉植物置いてみたりするのはけっこう楽しかったですね。

最近女性監督が活躍してますよね。
僕は荻上直子監督が好きなのですが(新作「めがね」の予告もやってました。期待大)、女性の撮る映画ってなにか空気感みたいなものが違うような気がします。
うまく言えないですけど、光がソフトだというか。
観終えるまで監督どなたか知らなかったですが、観ていて女性監督だろうなと思いました。
監督は大九明子さん。
僕は初めてこの方の作品を観ました。

主人公ユイ(新垣結衣さん)は小さなアパートで一人暮らしを始めます。
そこは大きな部屋じゃない。
どちらかというとこじんまりした部屋。
けどそこは自分が選んだ部屋でモノの配置が何か心地よい。
ふとした偶然でユイはその部屋の前の住人アツコ(菊池凛子さん)と出会います。
ユイは美大生、アツコは建築士、意気投合して二人は仲良くなります。
これ、なんだか感覚わかる気がします。
自分が好きな部屋を好きだった人というのは、多分自分と同じような感覚の持ち主のはずで、なんだか知らないけどウマが合いそうな感じがします。
そしてユイは、これも偶然にバイト先でアツコの元恋人大野(松田龍平さん)と出会い、恋をします・・・。

作品としては悪くはないという感じでしょうか。
女性らしい空気感はあったと思いましたが、荻上監督ほどの個性は感じず・・・。
そうは言ってもひどくはないので、悪くないという表現になってしまいます。
脚本も監督自身が書いていますが、ややストレートすぎるかな(「にっこり」のくだりとか)・・・。
でも共感した台詞もありました。
アツコがユイに言った台詞です。
「20歳の時の自分に言ってやりたいよ。死ぬほど悩んでいても、そんなの乗り越えるんだって。同じことを35歳の自分に言ってもらいたい。」
わかるなあ、これ。
仕事なんかでも「これ以上無理!限界!」といつも思っていても、それは越えてきているわけで。
結局、なんとかなるんですよね。
昔のことを思い返すと、なんでこんなんでヒーヒー言ってたんだと思いますけど、それが成長したということでしょうか。

引っ越すということは「捨てるもの」と「とっておくもの」を決めることなんですね。
ずっと同じ場所にいると、いるものもいらないものも、大事なものもどうでもいいものも、一緒くたに積み重なっていきます。
自分にとってそれがどういう意味を持っているか考えるのを判断保留にしてしまうんですよね。
引っ越しは自分の生きてきた過程を一度振り返る絶好のタイミングなんですね。
「棚卸し」とはよく言ったものです。
僕が思い立って引っ越ししようと思った時も、そんな気持ちがあったのかもしれません。
(その割に、まったく進歩していませんが・・・)。

最後にユイの父親役が登場したとき、てっきり板尾創路さんだと思ってました。
世良公則さんだったのね・・・。
似てません?

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2007年8月15日 (水)

本 「九十九十九」

清涼院流水さんのミステリーシリーズ、JDCシリーズに登場する探偵九十九十九(ツクモジュウクと読む)のいわばスピンオフ企画です。
清涼院さんではなく、舞城王太郎さんが書いています。
清涼員流水さんのこのシリーズもいろいろと物議を醸し出し、賛否両論のあったミステリーでしたが、僕はけっこう好きなほうです。
ミステリーでは突飛なアイデアというのは突飛であればあるほど、二度と他の人は使えません。
(クリスティーの「そして誰もいなくなった」とか「オリエント急行殺人事件」とか)
清涼院さんのこのシリーズはそれに近いものがあるような気がします。
そもそもミステリーかどうだかというところもあります。

舞城さんの作品は今まで読んだことがありません。
てっきり清涼院さんのシリーズと同じ世界の話かと思ったら、全然違ってました。
清涼院さんの小説「JDCシリーズ」が存在している世界を舞台にした、小説といったところでしょうか。

もともとJDCでの九十九探偵は、「すべてのデータがそろえば、たちどころに犯人がわかる」というミステリー小説としては超絶した能力をもっているキャラクターです。
なぜ犯人がその人か、トリックの説明などありません。
いわばその作品を生み出している作者(=世界の創造者、神)の意志を読むことのできる能力を持つというわけです。
これが物議を醸し出し、ミステリーとして卑怯じゃないかということも言われていたようです。
僕としては、そんなことを思いつくことの方がスゴいと思うので肯定派ですけれども。

ということでこの作品「九十九十九」は神そのもののような九十九十九が主役となり、いくつかの小説が入れ子状態になっている複雑な作りになっています。
そういう意味ではオリジナルのキャラクターの突飛さを受け継いでいるともいえます。
ただ読んでいて非常に疲れます。
あと、これは舞城さんの小説の特徴なのか、異様で倒錯したような描写がいくつもあり、僕は読んでいてとても不快で辛かった。
これは清涼院さんの方の作品では感じなかったので、舞城さん特有のものなのでしょうか。
そのため比較的速読である僕でもページをめくるスピードが遅くなり、読了するまで時間がかかってしまった作品でした。
舞城さんの作品はもう読まないだろうなあ・・・。

「九十九十九」 舞城王太郎著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275624-2

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2007年8月13日 (月)

「DOA デッド・オア・アライブ」 中身はないが美女のアクションは満載

先日、あの話題のブートキャンプをいただきました(会社で異動したので送別会で)。
週末早速テレビを前にビリーにならってエクササイズ。
・・・ミッション、完遂できませんでした。
運動不足なのですね。
前はジムで格闘技エクササイズにはまっていたので、けっこういけると思ったんですけど。
鍛えなければいかんです・・・。
とはいえ、パンチとかキックとか繰り出して汗をかくのは気持ちいいです。
しばらくビリーにお世話になります。

ということで、格闘技気分になったところで本作「DOA デッド・オア・アライブ」をDVDで観賞しました。
原案は日本の格闘技ゲームなんですね。
このゲームはやったことないですが、ご多分に漏れずPSで「ストリートファイター」とか有名なゲームは遊んでましたね。
日本のゲーム原案と言えば「バイオハザード」ですが、ミラ・ジョボビッチ主演だったり大作感ありましたが、「DOA デッド・オア・アライブ」の出演者は知らない人ばかり(知っているのはケインぐらい)。
この映画、ストーリーはほぼなく、キャラクターも深みがないと言ってよく、まさにB級。
冒頭より、日本(らしき場所)がでてきますが、これがなんだかトンデモない。
どこ?中国じゃあないの?という感じですが、これはゲームの世界観なのかな?
のっけからB級度満載の雰囲気でこの映画始まりましたが、美女が格闘技をするのを見せるというのに特化している映画なので、それはそれで割り切っているなあという印象です。
割り切っている分だけ、アクションシーンはてんこ盛りでした。
ワイヤーなどを駆使して、アクションはまるで格闘技ゲームのようです。
「KASUMI WIN!」とかでますからねー。
蹴り上げて宙に浮かせたところを、さらにキックみたいな、コンボ技みたいなのもでていて、昔格闘ゲームやったことがある人ならちょっと嬉しくなるようなシーンもありました。
闘う時もなぜか水着で、男性はさらに嬉しい。
女性のアクションシーンというのはキマっていると美しいですよね。
「イーオン・フラックス」の記事でも書きましたが、僕は好きです、強い女性。

暑くて頭使うのもイヤなこんな時期、たまにはこういうお気楽気分で観れる作品もいいかもです。
音楽はなんだか「チャリーズ・エンジェル」みたいでしたね。

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「プロヴァンスの贈りもの」 ワインも人生も味わうもの

リドリー・スコットってこういうのも撮るんですね。

先日「天然コケッコー」を観てまったり気分モードになっていたので、引き続きそういう気分を持続すべく、この映画を観に行きました(最近仕事的には胃が痛くなるようなことが多いので)。
プロヴァンスというタイトルからか、客席にはシニアのご夫婦が多かったですね。

ストーリーは想定の範囲内で、びっくりするようなことはありません。
仕事人間である男が、叔父の死をきっかけに南米のプロヴァンスを訪れ、叔父の所有していたワイン畑、そこで生きる人と出会い、自分の人生を考え直すというもの。

マックスは幼い頃遊びにきていたプロヴァンスの叔父の家、畑を歩いているうちに、忘れていた彼の言葉を思い出します。
「勝利から学ぶものはなにもない。だが敗北は知恵を生み出す。大事なのは負け続けないことだ」
「ワイン作りが楽しいのは、このすばらしい美酒が嘘をつかないからだ」
マックスはこれらの言葉を忘れていたわけではなかったんですよね。
というよりも叔父の言いたい真の意味にずっと気づいていなかったということでしょう。
改めて南仏の叔父の暮らした土地を訪れ、その意味にマックスは気づきます。
トレーダーとして人を陥れ、勝ち続けることが人生の目的なのか。
自然はいつも穏やかではありません。
洪水も起これば、雨が降らないこともある。
そういうことに向き合うことによって知恵が生み出され、自分も成長していく。
プロヴァンスの自然、ワイン作りからマックスはようやく叔父の言葉の意味を理解するのです。

マックスは会社の役員に共同責任者にならないかと持ちかけられたとき、役員の部屋を訪れます。
そこにはゴッホは複製画が飾ってあり、役員によれば本物は金庫にしまってあるという。
マックスは問います。
「本物はいつ見るのですか?」
会社の役員にとってはゴッホの絵はただの投資の対象、お金の代わり。
その絵は味わうものではないのですね。
ワインも同じ。
投資対象ともなりますが、味わってこそのワイン。
叔父は高いワインでも遠慮なく子供のマックスに飲ませていました。
ワインを味わうということは、そこに今まで込められた知恵も味わうことなんですよね。
お金を稼ぐために人生を使い、その人生が終わるときなにがあるのか。
人生を味わったと言えるのか。
ちょっとグッときてしまいました。
僕もそういうことをちょっとは考えるような年になったということでしょうか。

ありきたりな話とはいえ脚本はところどころ気の利いているところはありました。
主人公マックスが、叔父の緑色のインクを使いそして筆跡をまねて、いとこのクリスティに手紙をだし、葡萄畑の相続権を譲るエピソードは好きでした。
前振りで子供の頃、マックスが叔父の小切手(!)に筆跡をまねてサインをしていたというのをうけたエピソードでした。
クリスティもそれに気づいていたけど触れなくて、軽く「緑のインクなくなっていたので買わなくちゃね」と言ったのが気が利いていました。
今まで他人に勝つことしか考えていなかったマックスが、人を思いやるようになったということがわかったエピソードでした。

10数年前に流行したプロヴァンス。
やはり自然の中で暮らせるのはいいですね、許されるならいつかはスローライフとも思います。
ただ見終わって思うのは、ああいう生活できるのはやはり財産があるからだよなあと、ふと現実に戻ったりもして・・・。

ラッセル・クロウ出演、リドリー・スコット監督「アメリカン・ギャングスター」の記事はこちら→ ラッセル・クロウ出演、リドリー・スコット監督「ワールド・オブ・ライズ」の記事はこちら→

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2007年8月12日 (日)

「天然コケッコー」 移り変わることを大切に感じたい

ほんわりして、いい気分になれる映画でした。

先週、仕事で訪れた方のところで麦茶をいただきました。
昼間はガンガンに暑くてその場所へ行く途中に熱中症で倒れるかと思うほどでしたが、夕方日差しが傾いてきた頃、打ち合わせが終わった時にいただいたのが、インスタントではなく、昔ながらきちんといれた麦茶でした。
とてもおいしかった。
仕事も目処がつき気持ちに余裕ができたときだったというのもありますが、開け放たれた窓からは蝉の声が聞こえてきて、そこからは木々の緑が見え、そして多少は暑さのやわらいだ空気が部屋に入ってくる、そんなときにいただいたから、とてもおいしく感じたのかもしれません。
しっとりと汗をかきながらも、なんだか気持ちがいい。
窓の外を見ながら「夏ですねえ」と思わず口からでましたが、そういえば子供の頃はこんな風に、夕方麦茶を飲みながらだらだらとしつつ、季節を感じていたなあとなんだかノスタルジーにも似た気持ちを感じました。
最近、素直に季節を感じる余裕をなくしていたなあと。
この映画「天然コケッコー」を観ていて、麦茶をいただいた時と同じような気持ちになりました。

舞台となるのは島根県の過疎の町、そこにある小さな学校。
小学生も中学生も同じ校舎、そこでは年上も年下もなく、みんな「ちゃん」づけで呼び合っています。
でも年上の子は自然と下の子の面倒をみている、家族のような学校です。
そこには昔あったような自然、そしてゆったりとした時の流れ、人と人の関係があります。
映画の中でも四季の移り変わりが感じられます。
出演者も何ヶ月も島根に滞在したそうですね。
都会で暮らすようになると(自分を含め)、なんだか世間にだまされないようだまされないようにといつの間にか警戒して生きることが身に付いてしまいます。
マンションの隣の人のことよく知らないとか。
映画の舞台となる町はみんな知りあい。
人の家でも普通にあがっていくし、出かける時は鍵もかけない。
そういえば昔はそうだったかもと思い返してみたりもして。
都会の場合、無警戒なのは実際危ないわけで、昔に戻れるわけはないのですが、何かああいう生活がなにか懐かしくも(経験していないのに)思ったりもしました。
なにか人間の生きるリズムというのは本来はあのくらいの流れであって、なにか東京という町は人間のスピードよりも早く動くようになってしまった町なのかもしれません。
ずっとこの町に住んでいる主人公そよが修学旅行で東京に来て立ちくらみを起こしたりするのも、そういうところだったのでしょう。

懐かしい感じといえば、そよと東京からの転校生広海の淡い恋もかわいらしくてよかったです。
「こっち行けば、二人きりになれるかなと思って」
「いっしょに歩いて、学校行けると思ってたんだけど」
二人とも相手のことを好きで、それを素直に言葉にして、なんだかそういうのも懐かしいなあと思いました。
いっしょに歩いて帰ったり、そよがボタンをつけてあげて、それを広海が待っていて、そんな二人がとても微笑ましい。

そよのキャラクターもとても良かったです。
町の中の子供の中では一番の年上だからと、下の子の面倒もみる女の子。
人一倍他人に気を使うのに、ときどき相手のことを傷つける言葉を言ってしまい、一人落ち込む子。
いまどきこんな天然記念物みたいに素直な女の子いるのかと思ったりもしますが、その役を夏帆さんが好演してました。
方言がかわいらしくて。
広海のキャラクターもよかったです。
東京からの転校生ということで、今風の子かと思ったら、とても素直な性格の子で。
東京の学校に進学すると言いつつも、結局そよといっしょにいたくて、大嫌いな坊主頭にしてまで田舎に残るのもほほえましかったですね。

自然は変わっていくこと、そして自分も変わっていくこと、その移り変わりを素直に大切に感じることというのが、ここ東京で暮らしていると忘れているなということを気づかせてくれる作品でした。

山下敦弘監督作品「リンダ リンダ リンダ」の記事はこちら→

夏帆さん主演「うた魂♪」の記事はこちら→

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2007年8月 7日 (火)

「電影版 獣拳戦隊ゲキレンジャー ネイネイ!ホウホウ!香港大決戦」 香港ロケ?

ちょうどジャッキー・チェンが大活躍していた頃、少年だったもので「蛇拳」など香港のカンフー映画は思い入れがあります。
そういう意味で今年の戦隊「獣拳戦隊ゲキレンジャー」のテレビシリーズはなかなか楽しめたりしています。
サモハン・キン・ポーやジャッキー・チェンをもじった、エレファン・キン・ポーやらシャッキー・チェン(それぞれ声を水島裕さん、石丸博也さんが担当しているのも嬉しいところ)などのキャラクターも登場したりして、作っている世代が自分といっしょなんだろうなあと思ったり。

さてその「ゲキレンジャー」の劇場版です。
まず戦隊は併映される仮面ライダーに比べ、尺が30分程度とテレビよりもちょっと長いくらいというところが不利な点です。
それでも近年の2、3作は限られた時間の中、見せ所を作ってきたと思います。
ただ本作は全体的にややもの足りない。
ストーリーは時間が短いので描けないと割り切って、「乾坤一擲武術会」などに見せ所を集中してもおもしろかったかもしれません。
以外とあっさり大会は終わってしまってました。
今回のシリーズはやはりカンフーが題材ということで、本場香港のシーン、そして激しいアクションをもっと出して欲しかったです。
香港ロケとは言いつつも、背景だけを撮ってきて合成していたりしていただけでしたね(あとエンディング?)。
また大画面で観るとテレビでは気にならない、ゲスト俳優のアクションのキレなどカンフーがテーマだけにややもの足りない感じもありました。
予算、時間と制約が多いと思われる戦隊の劇場版ですが、ちょっと残念な印象が残ります。

テレビシリーズ「獣拳戦隊ゲキレンジャー」の記事はこちら→ 「炎神戦隊ゴーオンジャー BUNBUN!BANBAN!劇場BANG!!」の記事はこちら→

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「劇場版 仮面ライダー電王 俺、誕生!」 電車に乗り遅れた気分

特撮好きであるので平成ライダーシリーズは追っかけていますが、「電王」は放映当初から乗り切れない印象を持っています。
今回の劇場版も観に行こうか迷ったのですが、テレビシリーズと複雑に絡み合っている内容のようだったので、観に行ってきました。

テレビシリーズは放映が終わったら、何かしらレビューを書くと思いますが、「電王」に乗り切れないと思われる理由を。
この作品には今までのシリーズとは異なるユニークな設定がいくつかあります。
仮面ライダーが電車を運転するとか(!)。
ライダーのいわゆるフォームチェンジ(戦闘タイプによって形態が変わること)が、性格の異なるイマジン(未来人)が主人公良太郎に憑依ということに起こるということもその一つ。
つまりフォームチェンジが起こったあとのライダーは憑依したイマジンの性格となるわけで、各フォーム毎に全く別の性格をしているということになります。
基本的にいままでの仮面ライダーというシリーズは変身前後でも同じ人物であるということが設定にあります。
当然主人公が持つ思いや悩みというものも変身した後も持ち続けるわけで、それがマスクをかぶった異形となったとしても見る人はそこに主人公への共感性みたいなものを持てるわけです。
このあたりは変身後、宇宙人としての人格を持つウルトラマン(一部違うものありますが)とは異なる決定的な点で、それがライダーシリーズの根本であるとも言えます。
それが「電王」では変身後は主人公は依代として脇に追いやられてしまうため、観ている側の主人公への思い入れがアクションシーンではやりどころがなくなってしまいます。
そもそも依代としての役割を負っている主人公はそれゆえに無色透明な性格であったりするので、なかなか共感性を持ちづらくもあります。
このあたりが僕が「電王」に置いてけぼりをくらっている理由かもしれません。

「龍騎」以降の最近の平成ライダーシリーズの劇場版は、テレビシリーズとリンクを貼りつつも、異なる世界を舞台にしてきましたが、今回の「電王」はテレビシリーズと表裏一体となった作品になっています。
これはこれで意欲的な設定だとは思います。
でもテレビシリーズは映画とのリンクが強すぎるため、ここ1ヶ月のエピソードは映画を観ないと中途半端でわかりづらくなっています。
ひどい言い方をすると「知りたかったら映画を観て」というようにも受け取れ、とても不親切な感じがしました。

劇場版は単体でも一応筋としては観れると思います。
ただ時をテーマにしている作品ですので、時間を行ったり来たりするストーリーは子供たちにとってはわかりにくかったのではないでしょうか。
細部の作り込みもお粗末で気になります。
これは「響鬼」「カブト」も同じ印象で、かけられる予算の限界といったところなのでしょうが、それならばあまり大風呂敷を広げすぎないプロットにした方が良かったかもしれません。
いまどき黒装束の忍者とか見せられても・・・(ドリフのコントじゃあるまいし)。

「電王」は設定からなにから今までのライダーの常識を覆している意欲作であることは間違いありません。
ただ意欲的に作った設定に、作っている人たちが振り回されている感があるような気がしてなりません。

最後に最も乗り切れない理由を。
「電王」のデザインがカッコ良く見えません。
もう少し何とかならなかったのでしょうか・・・。
思い入れがもてず、すっかり電車に乗り遅れた気分です。

テレビシリーズ「仮面ライダー電王」の記事はこちら→ 「劇場版 仮面ライダー電王&キバ クライマックス刑事」の記事はこちら→ 「劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」の記事はこちら→ 「劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」の記事はこちら→ 「劇場版 仮面ライダーキバ 魔界城の王」の記事はこちら→

「劇場版 仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE」の記事はこちら→

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2007年8月 6日 (月)

「遠くの空に消えた」 「子供力」とは何か?

昨日、日頃ブログでお世話になっているノラネコさんにお誘いいただき、「遠くの空に消えた」の完成披露試写会に行ってきました。
試写会会場では赤いTシャツを着たたくさんの子供たちが案内係などをしていました。
上映前の舞台挨拶によれば、本作は「子供力」がテーマだということです。
ということもあり、この試写会でも子供たちの力を借りて取り仕切ったということでした。
それでは「子供力」とは何なのでしょう?

都会から転校してきた少年亮介、彼が引っ越してきたのは田舎の町でした。
そこでは空港建設のため、地元の住民と空港公団が争っていました。
亮介はそこで地元の少年、公平と親しくなり、そして二人は父をUFOに攫われたという少女、ヒハルと出会います。

「子供力」というのは、夢を叶えようとする力、何かを実現するために動こうとする力ではないかと思いました。
冒頭に、「蜂は飛べるような構造をしていない。それならば何故飛べるのか。それは飛ぼうと思ったからだ」という言葉があります。
飛ぼうと思う力こそが「子供力」なのでしょう。

暮らしている人のことを考えずに空港を作ろうとする大人、反対するばかりで何もしない大人に対して、子供たちは最後に大作戦を敢行します。
それはたった一晩で空港予定地に作られたミステリーサークル。

結果的には空港は作られてしまいます。
今の時代に大人が重視するのはまずは成果。
けれども成果を出さなければ、すべては無駄なことなのでしょうか。
成果を出せないから、無理だからとあきらめてしまえるようになるということが大人になるということなのでしょうか。
サワコ先生は親の決めた結婚相手と結婚しようとします。
ものわかりが良いということが大人になるということなのでしょうか。

「大人」になってしまった人は、いつまでも「子供」でいられる人をうらやましくも、うとましく思うのでしょうか。
空港反対をさけぶゴロツキ、トバは、子供のような心をもった赤星に拳銃を渡し、亮介の父親を撃たせます。
みていて惨いと思いました。
大人になってしまった大人は、他の人も思う力を失った大人にしないと気がすまないのでしょうか。

「子供力」というのは、「大人の」成果主義に対するプロセス主義ではないかと思います。
結果はもちろん大事だけれど、そのために何をしたかがとても大事。
自分は何をしようとしたのか、その思いがとても大事。
一時期もてはやされた成果主義の欠点が見えつつある現在において、プロセス主義は注目されています。
そんな時代において大事なのが「子供力」なのかもしれません。

空港建設阻止はできなかったかもしれないけれど、ミステリーサークルはヒハルを救います。
ヒハルを救ったのは、子供たちの思いなのでしょう。
「バカだな、君たち」とヒハルはつぶやきます。
バカなことでもそれをやろうと思う気持ちが「子供力」。
「奇跡」は起こるものではない。
「奇跡」を求め、動いてこそ「奇跡」は動くのでしょう。

唯一一人だけ大人でありながら「子供力」を持っていたのが、公平の父、信平(小日向文世さん)。
彼だけが大人になっても夢を追いかけ続ける力を持っていました。

公平を演じていたささの友間くんは、なかなかの好演。
やんちゃな子供がさまになっていました。
なんでも笹野高史さんの息子さんだとか。
お父さんみたいな名バイプレイヤーになれるかもしれないですね。

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2007年8月 4日 (土)

「トランスフォーマー」 まるでルービックキューブ

「日本ノミナサン、コンニチハ、すてぃーぶん・すぴるばーぐデス」
「まいける・べいデス」
「ゴ期待下サイ」
という予告をずっと見せられ、「期待して」待っていて、しびれが切れてきた頃やっと公開されました。

マイケル・ベイ監督はやはりストーリーテラーというよりはビジュアリストですね。
この監督の場合、登場人物がステレオタイプとか深みがないと言われますが、映像で見せきってしまうというスタンスがはっきりしているので、これはこれでよしだと思います。
へんに感動させようというのではなく、「爆発好きでしょ?」という感じが潔いです。
この作品もお話はなんてことはありません。
人類を遥かに越えた能力を持つロボット通しの戦いに巻き込まれ、人間は逃げ惑うばかり。
「エイリアンvsプレデター」みたいなものです。
キャラクターも相変わらずステレオタイプなので物語はそれほどみるところはないのですが、、映像は文句なくスゴい迫力で、それだけでお腹いっぱいになれます。

僕ぐらいの世代の男性は幼い頃は巨大合体ロボ、小中学生の頃ガンダムなどリアルロボットものの洗礼を受けているので、ロボットには多分思い入れがあると思うんですよね。
(子供の頃、「超合金」とか欲しかったけど思いのほか高い値段で買ってもらえなかった・・・)
アニメ版の「トランスフォーマー」はアニメなどから離れてしまった年頃であったため未見ではあったのですが、やはり変形ロボットが実写化ということで、本作品には個人的にはやたら期待をしていました。
予告でもちらりと見せていましたが、機械からロボットへの変形の描写は見事というしかないです。
まるでルービックキューブをやっているような感じで、わざわざあんな複雑な変形しなくてもいいだろとも思いますが、それは映画のケレン味ということで。
カメラもかなり激しく動いている中で、変形したり格闘したりしているロボットの描写をみていると、もう映像で表現するのが不可能なことはないのではと思ったりもします。
ロボット自体のデザインは複雑で、また動きもかなり早いので、じっくり観たいと思う箇所もいくつかありました。
それでもところどころスローモーションを使った見せ所(ロボットがジャンプして敵の攻撃をかわしながらミサイル発射!など)をつくっていたのは、さすがビジュアリスト、マイケル・ベイでした。
子供のおもちゃであの変形ギミックを作ったら(できないだろうけれど)、絶対元の状態に戻せませんよね。

敵方ディセプティコンのうち、F22ラプターをベースにしていたロボットもいましたね。
F22は日本の防衛省が次期主力戦闘機として候補にあげていますが、先日アメリカ議会が輸出することに懸念をしたと報道されていました。
戦闘機→ロボットの変形というと、アニメ「超時空要塞マクロス」のバルキリーを思い出させますが、「トランスフォーマー」を観てしまうと、「マクロス」の実写化も期待してみたくもなります。

この作品、全編どっかんどっかん爆発しっぱなしの作品なので喧しいのが苦手な方はダメでしょうね。
まったく感動したり、泣くところないですし。
でも福井晴敏氏の「テアトル東向島アカデミー賞」ではないですが、男子はこういう爆発ものはやっぱり好きなんですよ。

続編「トランスフォーマー/リベンジ」の記事はこちら→

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