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2007年7月31日 (火)

本 「四畳半神話体系」

この作品の著者森見登美彦さんの本、書店で平積みになっていること多いですね.
人気上昇中なのかしらん?
ファンタジーノベル大賞を取った方というのは知っていましたが、作品は未読でした。
ということで、前に古本屋で購入していた本作品を読んでみました。

感想はというと、この作品、奇妙奇天烈なセカイでおもしろい!
舞台は京都です。
でもキテレツ。
舞台がキテレツといよりも登場人物たちが、奇妙なんですよね。
なんだかしらないけれど、へんなところに自分の主義を持っている主人公。
他人の不幸で三杯めしが食える変な友人。
大学に何年もいる仙人じみた先輩(師匠)。
その他、その他。
奇妙な登場人物が、古都京都をキテレツなセカイにしてしまう。
このキテレツな感触はなんて表現したらいいんでしょう・・・。
不条理、脱力系など言葉は浮かびますが、しっくりこない。
でもこれが森見さんの個性なんでしょうね。
他の作品もこんなキテレツな雰囲気なんでしょうか。
読んでみたくなりました。
こうやってみんなはまっていくのでしょうか・・・。

大学生をやった人ならわかる、無為な時間の使い方。
毎日がまったく生産性がない怠惰な日々。
押井守さんの「うる星やつら ビューディフル・ドリーマー」の同じような出来事の繰り返し(起こっていることはとても奇妙なことばかりですけど)=永遠の夏休みに通じるものを感じます。
なにかそんなモラトリアムな感じが漂ってます。
最後のオチもなかなかおもしろかったと思います。

「四畳半神話体系」 森見登美彦著 太田出版 ハードカバー ISBN4-87233-906-1

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「ピアノの森」 良い子版「のだめ」

天賦のピアノの才を持つ少年一ノ瀬海と、ピアニストの家に生まれながらも努力の天才雨宮修平。
海はピアノを遊びととらえ、楽しく弾ければそれでいいと思っていました。
修平は幼い頃からピアノのためにすべてを犠牲にし、でもそれは強制されているわけではなく、自分でそうあらねばならぬと思って彼は努力をしてきた。
けれども修平は、海に出会い、そこにきちんと正確に弾くということではない、ピアノを好きになり、自分らしさを出すということの大切さに気づきます。
また海も修平と知り合い、ピアノの世界の奥深さ、そしてがんばるということの大事さを学びます。
海と修平の関係は、「のだめカンタービレ」ののだめと千秋の関係に似ていますね。
題材も音楽で、「のだめ」の後だったということで、やや新鮮味にかけてしまったのは否めません。
また出てくるキャラクターもいい人ばかりなので、全体的にちょっとクセがない気がしました。
良い子版「のだめ」といった感じでしょうか。
後半に登場する誉子はそういう意味では一番身近な感じがしました。
怪我でピアノを断念し、その世界から離れていた教師阿字野が海に出会い、その才能を伸ばそうとする様は「エースをねらえ!」を思い出しちゃいました。
このあたりも新鮮味がないと感じたことに関係あるかもしれないです。

好きなことを仕事にするというのはなかなか難しいですよね。
好きだってことだけではやっていけない。
時々、好きだということを忘れてしまい処理するだけになってしまっていることに気づいたりします。
僕は絵が描くのが子供の頃から好きでデザイン関係の仕事につきましたが、この映画の海を観ていて楽しむということ大事だなと思い返しました。

この映画を観て改めて思いましたが、コンサートなどで舞台に立つ方ってスゴいですね。
人前に立つのが苦手な僕なんかは絶対無理です。
誉子がコンテスト前に緊張して泣き出してしまうのは、共感してしまいました。
僕もプレゼン前などは逃げ出したくなりますもん。
プレゼン前になにげに緊張してそわそわしていると、周りの人に「今日プレゼン?」とか聞かれたりして。
修平が言っていた自分が一番リラックスする場所を思い浮かべてはなるほど〜と思いました。
今度そうさせていただきます。

アニメ映画の場合、声を有名な俳優さんが担当することが多々あります。
それ自体が映画の話題作りということもあるのでしょうが、あまりうまくいかない場合も散見します(「鉄コン筋クリート」などはうまくいった例)。
この映画はうまくいかなかった方だった気がします。
海の声をあててた上戸彩さん、最後まで違和感ありました。

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2007年7月29日 (日)

「カンバセーションズ」 素直になれない大人の会話

男はロマンチスト、女はリアリストというのはよく言われる話ですが、この映画を観てもしみじみそう思ってしまいました。
男という生き物は別れたとしても、相手に未練タラタラなんですよね。

タイトル通り、この映画はほぼ男女の会話のみで構成されています。
結婚式のパーティで会話を始める男女。
男は冒頭より女が気になるようでちらりちらりと彼女を覗き見る。
女はそんなことを気にしないようなそぶり。
男は意を決したように、シャンパンで満たされたグラスを二つ持ち、彼女に話しかける・・・。
映画を観ている僕たちは、会話の中から、彼らは以前から知り合っていたことがわかっていきます。

お互いのことをよく知っていることがわかる、会話の掛け合い。
けれどもお互いに知らないことがあるということ、そして気持ちがいきちがうことへの苛立ちが感じられる会話。
二人とも大人なので、若い頃のように激したりはしない。
愛するという気持ちも、イライラとする気持ちもはっきりと言葉にはださない。
何か匂わすだけ。
わかります、こういう気持ち。
30代にもなると気持ちをはっきりと口に出すことに照れてしまったりします。
気持ちが動揺すること、そしてその動揺を相手に悟られるのが、大人っぽくない感じがして。
(アニメ版「時をかける少女」の真琴が素直に気持ちを表してワンワン泣くのを観て、なにか甘酸っぱい気持ちになるのはそのためですね)
二人ともお互いが出会ったことにとても動揺していますが、それを出さないよう出さないようにしています。
そんな雰囲気が端々にでているところが、大人の会話の感じが出ていてなかなか良かったです。

そんな照れみたいなものを捨てて、告白を男はします。
けれども元には戻れないことも彼は知っています。
それでも「今ならやりなおせるのでは」というロマンティックな気持ちは捨てられません。
女は扉越しの男の告白を聞こえないふりをして受け流します。
彼女は自分が老けていくことに対する怖さを持っています。
彼のことは気になる、愛してもいる。
今、男の気持ちを受けて幸せに暮らしていけるのか。
また同じ失敗を繰り返すのか。
そのとき男はいい、女である自分は、老けてしまった自分はどうなってしまうのか。
彼女にはそういう気持ちがあったのだと思います。
やはり女はリアリスト。

全編画面を二分割している手法(デュアル・フレーム)を使っているのが、話題になっていましたね。
観るまでは、その手法をとるととても観づらくなってしまうのではと危惧してました。
目がちらちらといったりきたりしてしまい集中することができないのではと。
観てみると、そんなことは全くないので驚きました。
というよりもデュアル・フレームという手法を上手に、そして多彩に使いこなしていました。
会話の機微が重要な場面では、左右のフレームで男と女の表情をしっかりととらえています。
また二人の現在と、過去の一場面を平行的に描写したりもします。
その他、現実の場面と想像上の場面を同時に映したり、微妙に時間軸をずらしてみたり。
ラストカットはデュアル・フレームでありながらシングル・フレームに見えるような凝ったカットにもしてましたね。
ハンス・カノーサ監督がこの新しい見せ方を見事に使いこなしているように感じました。
これが監督第一作というのですから、びっくりです。

「サンキュー・スモーキング」ではタバコ会社の広報マンだったアーロン・エッカートが、タバコを吸うは止めた方がいいよと忠告するのはおもしろかったですね。

アーロン・エッカート出演「サンキュー・スモーキング」の記事はこちら→

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2007年7月28日 (土)

本 「剣闘士スパルタクス」

好きな作家の一人、佐藤賢一さんの作品です。
題名通り、ローマ時代、剣闘士であったスパルタクスの反乱を題材にした作品です。
佐藤さんはフランス史の題材を扱ったものが多かったですが、最近は本作とか「カポネ」とか別の時代のものをよく書かれていますね。

剣闘士はご存知の通り、闘技場でローマ人の観客の前で闘わされる戦士です。
彼らはローマが征服した地域から連れてきた身体能力が高い若者で、闘うために鍛え上げられた戦士です。
けれども彼らは奴隷の身分であり、自由は与えられませんでした。
スパルタクスらは剣闘士養成所から脱走し、各地から集まった奴隷たちを吸収して膨れ上がり、イタリア国中を席巻しました。
結局彼らはクラッススらに討たれてしまい、反乱は潰えます。

この小説のスパルタクスは類いまれなる戦闘力と美貌を持つ戦士として描かれます。
闘えばローマ人に剣闘士として賞賛されるものの、その身分は奴隷であり、ローマ人は彼を人としては扱いません。
そのような不満は剣闘士たちの間でも膨れ、結果反乱につながり、その頭目としてスパルタクスは担ぎだされます。
スパルタクス自身も奴隷の身分に不満はもっていた。
けれどもリーダーとなると自ずと皆に対する責任が生じます。
反乱したはいいが、どうするのか。
故郷に戻るのか、ローマを征服するのか。
さまざまな出自を含む反乱軍はまとまりません。
皆はまとまろうともせず、その役割をスパルタクスのみに求めます。
スパルタクスは、何かが違うと思います。
自由を求めて戦いはじめたのに、不自由になっている。
ただ闘うことだけを考えてよければよかった剣闘士の時の方が自由ではなかったかと。

けっこうこういうことは会社などではありますよね。
僕もデザインが好きでそういう仕事につきましたが、経験も積んでそれなりにキャリアもあがっていくと好きなことだけしていればいいというものではなくなります。
リーダーみたいな役割を与えられ、いわゆるマネージメントをしなくてはいけないのですよね。
それはそれでおもしろかったりもするのですが、会社員としてのマネージメント(面倒くさいことも多い)をやらずに自分がやりたいことだけやっている人もいる。
リーダーだからと僕はやりますが、同じようなステージなのにやらない人を苛立たしくも思ったりしますし、そんな風に気にしないのもうらやましくも思ったりもします。
やるべきことはわかってる。
でも自分のやりたいことはなんだろうなあと思ったりもします。

スパルタクスは、結局闘うというところに自分自身を見つけます。
ローマという巨人と戦い果てるとしても、闘い抜くと決心をします。
ローマ人に闘ってみせろと叫ぶスパルタクスは迷いがなくなったようで、うらやましいとも思えました。

「剣闘士スパルタクス」 佐藤賢一著 中央公論新社 文庫 ISBN978-4-12-204852-2

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「魔笛」 オペラを全く知らないのに・・・

「のだめ」の影響で多少はクラッシックを聞くようになったとはいえ、ほとんどオペラなど知らないのに「魔笛」を観に行ってきました。
以前シャンテ・シネでかかっていた予告の映像がきれいだったので、観たかったんですよね。

ほんとに全編、歌でした。
まさにオペラ。
「魔笛」は有名な部分は聞いたことがありましたが、もともとのストーリーは全く知らないんですよね。
そのためか中盤くらいであまり知らない歌のところは、意識が薄れ気味に・・・。
知っている歌になると、目がパッチリ。

舞台を第一次世界大戦に移したのはとても新鮮でした。
特にオープニングの長いカットは見応えありました。
塹壕から主人公タミーノをカメラは追い、ロングショットになり、そして戦闘シーンに入って、やがて空を飛ぶ戦闘機にまでカメラは飛んで行く。
色調はもともとは鮮やかな色を少し落したような微妙な風合い。
リアリティさよりも、ファンタジー的な感じがありましたね。
舞台とは違うのは、冒頭のシーンもそうでしたが、やはりカメラがかなり動くところでしょうか。
人物の寄りのカットから、ずーっとカメラが引いていってロングショットになるという絵がかなりありましたね。
当然CGを使っていると思いますが、舞台とは違うスケール感が出ていたと思います。
有名なパパゲーノとパパゲーナの「パ、パ、パ」はかわいらしかったですね。
このシーンは映画的な立体感がある映像で楽しく、好きでした。

出演者はほとんどオペラ歌手の方のようで、ほとんど知りませんでした。
夜の女王役リューボフ・ペトロヴァはスゴい迫力。
風車のシーンで娘にザラストロを殺害するよう強要するところは、ほんとに鬼気迫るという感じでした。
ザラストロ役のルネ・パーペがゲーリー・シニーズに、パパゲーノ役のベン・デイヴィスがショーン・ペンに見えて仕方ありませんでした・・・。

観る方としてはやはりオペラを全く知らないとやや辛かった。
一度予習で「魔笛」を聞いておけば、中盤眠くならなかったかも。
けれども雑誌の記事よれば監督のケネス・ブラナーはこの映画を撮る前はオペラはほとんど知らなかったとのこと。
それでもここまで作れるのはすごいですよね。

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2007年7月22日 (日)

「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」 ボリュームある原作をまとめるだけで精一杯

「ハリー・ポッター」、小説も映画もだんだん惰性で追っかけているようになってきました。
でも今更止められないし、ということで見てきました。
なんだか映画を観てみても最初の頃のような興奮がないというか・・・。
「炎のゴブレット」はほとんど印象に残っていないんですよね。
原作小説が回を追うごとにボリュームアップしていくので、それに対応する映画の方はなかなかたいへんだと思います。
エピソードはうまく間引いてまとめあげなくてはいけないですし、新キャラクターも出てくるので、そのあたりの描き方も薄くなってはいけないですし。
「ハリー・ポッター」シリーズはなるだけ原作に忠実にあることを意識しているようで、小説の映画化作品にあるような映画独自の設定などは極力廃しているようです。
本作も原作のエッセンスをまとめあげる苦労が窺えました。
いくつかの原作のエピソードについてはまるまるなくなっていたり、かなり端折られています。
うろ覚えですが、原作では最後の予言は確かトレローニー先生の予言だったと思いますが、映画では説明なかったですね。
トレローニー先生は占い・予言の担当であるにも関わらず普通はほとんど予言などできないのですが、この
大事な予言をしたからこそダンブルドアが学校においておいたんだと思いましたが。
そのためアンブリッジ先生に追い出されそうになるエピソードもちょっと説明不足な感じになってしまいました。
あとネビルがもっと原作では活躍していたような気がしたんですけど。
あまり優秀ではないネビルが必死に練習を重ねて最後ハリーと一緒に魔法省へ乗り込むエピソードは好きだったんですよね。
映画ではあまり存在感なくて、残念でした。
このように苦労はとても感じたりするのですが、前半はやはり進みが遅い感じは否めません。
キャラクターに関してもハリー以外のキャラクターについては今回はあまり深堀できていなかったですね。
でも原作のボリュームを考えると仕方がないですかね。

後半ハリーたちダンブルドア軍団が魔法省に乗り込んで行ってからの映像はなかなか見応えありました。
次々に予言の水晶玉が破裂していくビジュアルは美しく、そして迫力があったように思います。
ダンブルドアと名前を言えないあの人との一騎打ちも、さすがベテランの魔法使い同士の戦いといった迫力ありました。

新キャラクターのルーナは原作通りの不思議ちゃんでした。
ぱっと見はかわいらしいんですけど、なんだか不思議な雰囲気で。
アンブリッジ先生も嫌みな感じがよく出ていました。
このシリーズのキャスティングは原作のイメージから外れることはないのが、スゴいです。
そういえばアンブリッジ先生の部屋には猫の写真がたくさん貼ってありましたね。
「あるスキャンダルの覚え書き」のバーバラ曰く、「独身女には猫はかかせない」でしょうか。

原作では「謎のプリンス」でハリーは初恋の相手チョウとは別れ、ジニーとおつきあいをするようになります。
本作「不死鳥の騎士団」も見ていると、ハリーがチョウのことを気にしている様子を、後の方でジニーが気にしているような描写もありました。

全体的に見ると原作の雰囲気を大事にして何とかまとめあげた作品でしょうか。
「アズカバンの囚人」ほどの監督のクセは感じないですね。 「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の記事はこちら→ 「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の記事はこちら→ にほんブログ村 映画ブログへ

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2007年7月21日 (土)

「リベリオン」 もっと”ガン=カタ”アクションが見たいぞ

「ウルトラヴァイオレット」のカート・ウィアー作品です。
この監督はこういうディストピア的世界観が好きなんでしょうか。
第三次世界大戦の教訓を生かし、人類はその闘争本能、感情を抑制する薬を発明し、それを服用することが社会的ルールとなっています。
その世界をコントロールする存在が”ファーザー”という人物で、感情抑制を拒否する国民を摘発するのが、”クラリック”というスペシャリストです。
設定は、ナチスをモチーフとした今までのディストピアもので使い古されたもので目新しいことはありません。
新しいのは、”クラリック”が習得している武術”ガン=カタ”。
これは拳銃を使った体術で、カンフーとガンアクションがいっしょになったようなもの。
これがなかなかユニーク。
華麗でありながら、荒々しさもある。
「マトリックス」のように飛んだり跳ねたりという、ダンスのような感じは少なく、どちらかというと「男たちの挽歌」と香港伝統のカンフー(ワイヤーとか使う前の)を合わせたような感じでしょうか。

先に書いたように設定としてはありきたりですので、前半はやや退屈します。
せっかくの”ガン=カタ”のアクションも少ないですし。
後半に入り、主人公プレストン(クリスチャン・ベール)が感情を表しだし、反乱分子と接触しだしたあたりからは多少盛り上がってきます。
見応えあるのはラストの敵との”ガン=カタ”アクション。
超近接距離でのガンアクションがとても新鮮。
銃の引き金をひくのを見越して、相手の銃を持つ手を裁き、銃口をそらすなんていうのがおもしろいですね。
まさにカンフーアクションとガンアクションの融合という感じで。
ストーリーが陳腐だった分、もっと”ガン=カタ”アクションを見せて欲しかったです。

クリスチャン・ベールは無表情で何を考えているかわからない役は似合います。

本作のプレストンは、その後の「バットマン・ビギンズ」や「プレステージ」にも繋がる役だったのでしょうね。

クリスチャン・ベール出演「プレステージ」の記事はこちら→

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本 「七三一部隊 -生物兵器犯罪の真実-」

この本のタイトルにある七三一部隊というを聞いたことがある方は多いかと思う。
正式名称は「関東軍防疫給水部」といって、戦中に中国ハルビン近郊にあった部隊です。
生体実験や細菌兵器の開発などで悪名高い組織です。

第二次世界大戦中、日本軍は細菌兵器に関しては欧米諸国よりも進んだ知識がありました。
それもこの部隊をはじめ実施されていた非道な生体実験などによるデータがとれていたからです。
現在は薬を開発する際は最後には人体実験をすることが義務づけられていますが、その実験で事故を起こすわけにはいかないため、事前に動物実験などを行い、安全性を何度も確かめます。
そのため薬の開発は時間とコストがかかるわけです。
けれども七三一部隊は安全性などを気にするわけでなく、人を実験に使っていたわけですから、開発が早く進むわけです。

この部隊の人間は、医者でありました。
医者には「ヒポクラテスの誓い」というのが、あります。
これは自分たちの知識を人類への福祉のため以外には使わないという誓いです。
この部隊にいた医者はその誓いを守らず、国のため、天皇のためという大義名分で、自らの目を塞ぎ、医者としてあるまじき行為を行いました。
そしてその大部分の人は戦後、大学などに復帰し、研究者、教育者として生きてきました。
彼らは罪の意識を感じなかったのでしょうか。
感じなかったならばそういう人々を許せないですし、そういう人々を復帰させた国も許しがたいと思います。
血液製剤で問題になった「ミドリ十字」を興した人も、この部隊に関与していたそうです。
結局、戦中とはいえ、非道な犯罪に対して何も感じていなかったのかと憤慨してしまいます。

日本が戦争に負け、そのデータはアメリカに押収され、また幾人かの捕虜はソ連に連れられていき研究の成果を話させられたそうです。
それらのデータは両国の細菌兵器の開発の元になったそうです。
そして開発された兵器は世界に伝播していく。
テロ国家が細菌兵器を持ったと怖がっても、その大もとは日本かもしれません。
なんだか人は愚かだなと思ってしまいます.
まだ戦争の時の犯罪のおとしまえはついていないのですね。

「七三一部隊 -生物兵器犯罪の真実-」 常石敬一著 講談社 新書 ISBN4-06-149265-9

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2007年7月18日 (水)

本 「鯨の王」

書評などを読まず、題名を見たときにおもしろそうとインスピレーションが沸いたりして、「タイトル買い」をしてしまう時があります。
この小説もその一つです。
「鯨の王」、なんだかワクワクします。
読んでみて、自分の鼻が良かったことを実感、おもしろかったです。

現代、最大級の大きさを誇るほ乳類、鯨。
この生き物に前から魅かれていました。
この作品の巻末でも紹介されている岩手の「鯨と海の博物館」に行ったこともありますし、高知県でホエール・ウォッチングを二回ほどしたことあります(しっかり鯨に出会えました)。
この小説に出てくる鯨は未知の新種ダイマッコウ(むろんフィクションですが)。
物語の発端は、マリアナ海溝で発見された巨大な鯨の骨。
そして何者かわからぬ敵に、音波攻撃を受け乗組員が死傷したアメリカ原潜。
このダイマッコウの設定がなかなかおもしろい。
鯨が音波を使い、互いにコミュニケーションしていることは広く知られていますが、ダイマッコウはそれを攻撃の手段として使います。
潜水艦を低周波でスキャニング、中にいる人間の位置を把握すると、そのターゲットにピントをあわせるように超音波を発振する。
その超音波をあてられた人間は、血液を沸騰させられてしまうわけです。

姿の見えない相手と対するアメリカの潜水艦。
未知の生物ダイマッコウを追う日本の鯨学者。
それにバイオ企業の思惑や、イスラムのテロリストの企みなどがからみ、第一級のエンターテイメントに仕上がっています。
映画化したらなかなか迫力あっておもしろそうな小説です。
「アビス」や「ジュラシック・パーク」などのエンターテイメントが好きな方にお薦めです。

「鯨の王」 藤崎慎吾著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-326000-6

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2007年7月16日 (月)

「バーバー吉野」 大人への子供のレジスタンス

思春期というほど大人になっていない小学生の高学年の頃。
自分もああいう時、あったよなあと思い出しました。
舞台となるのはある田舎の寂れた町。
時代設定は現代だとは思いますが、何か時の流れが止まってしまったような町。
なんだか僕が子供の頃のような時代の臭いもなぜか感じます。

落ちていたエロ本を拾ってきて、興味津々でページを繰る。
女の子がブラをつけたとかつけないとかで話が盛り上がる。
とかいいながら、カブトムシに夢中になったり、大人の目が届かないところに「秘密基地」を作ったりといった子供じみたこともする。
同世代の女の子から見たら「バッカじゃないの」と言うに決まっているのですが、男子は誰しもそういう時を経るんですよね。
男だったら絶対「あった、あった」と頷くかと思いますが、驚くのはこの作品の監督・脚本は女性の方だということ。
「かもめ食堂」の荻上直子監督なんですね。
なんでこんな男子共感度が高い脚本かけるんでしょう。
男の兄弟がいらっしゃるのかな。

思春期一歩手前の男の子。
まだ「自分」などというものができる前で、親が言ったこと、先生が言ったことをまだ素直にそのまんま聞いている年頃です。
けれど人は大人になっていきます。
主人公の男の子の時は、日々楽しく仲の良い友達と遊んで、過ぎていく。
僕自身もそうでしが、将来のことなんて考えてはいない。
目の前にある世界、町はずっとそういうものであり、固定化されているものでした。
けれども、姉の失恋や、父親の失職などをなんとなく感じていく中で、大人になるということは自分が今のままではいかないということにはなんとなく気づいたのでしょう。
「大人になるってどういうこと?」
男の子は父親に聞きます。
自分の前の世界が今まで言われていたものと違うということに、少年は気づいたのです。
「もう吉野ガリはいやだ!」
たかが髪型かもしれません。
けれども男の子にとって、そう宣言することは今まで自分がいた世界(それも母親が管理していた世界)を否定することなのです。
それが大人になる瞬間。
大人への子供のレジスタンス。
これが先にあげた少年の質問の答なんですよね。

あいかわらずもたいまさこさんはいい味だしてました。
下手をするとわからずやのコワいおばさんになってしまうところを、もたいさんのキャラクターで救っていました。
5人の少年たちもへんに擦れていない感じでよかったです。
仲間たちの会話、ほんとに自分の子供の頃を思い出してしまいました。

荻上直子監督作品「めがね」の記事はこちら→

荻上直子監督作品「かもめ食堂」の記事はこちら→

荻上直子監督作品「恋は五・七・五!」の記事はこちら→

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2007年7月15日 (日)

本 「フェラーリと鉄瓶」

イタリア車フェラーリのデザインを担当しているピニンファリーナでデザイン・ディレクターをされていた奥山清行さんの本です。
僕も仕事はデザイン関係の仕事をしていますが、メーカーの社内デザインセクションなので、デザインを細部に至るまで自分だけで行うことはありません。
というよりも、社内の開発者の意図を汲み上げ、外部のデザイナーにそれをディレクションをするという「翻訳者」のような仕事となります。
絵が描けることと、デザインができることはイコールではありません。
デザインというものには何かしらの意図があります。
この本の中で奥山氏が書いていたことで頷けるところがありました。
デザインの仕事のうち、1/3がいわゆるデザイン作業、そして残りのうち1/3は開発者などから情報をひきだすこと、そして1/3はデザインの意図を伝えることができること。
つまり世にデザインされたものを送り出すには、仕事の2/3は人とのコミュニケーションに関わるということです。
自分だけで絵を描いていても、デザインは開発できません。
デザインするということはコミュニケーションするということなんです。
ではコミュニケーションする力さえあればデザインできるかと言えば、そうでもありません。
やはり何かを表現できる力があったほうがいい。
それについても奥山氏が書いていますが、手を使って描くということはその行為自体がアイデアを生み出すことにつながります。
コンピュータが発達し、絵が描けなくても、デザインらしきものをすることはできます。
けれどもそれはあるパーツを組み合わせているだけの、コラージュであり、新しいアイデアが入っていないことがほとんどです。
手を使って描くことには偶然性があります。
思わず描いた線が何かを生み出す。
それを脳がフィードバックされ、新しいアイデアを生み出すきっかけとなる。
絵が描ける、線が引けるということはアイデアを生み出す行為なんですよね。
人の意図を汲み、自分の意図を伝えることができるようなコミュニケーションできる力、そして自分の中のイメージを表現できるスキルを持つこと、それがよいデザイナーとなるための能力なんですね。

「フェラーリと鉄瓶」 奥山清行著 PHP研究所 ハードカバー ISBN978-4-569-65643-4

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「西遊記」 子供たちのなまか

テレビシリーズの方は全く観ていなかったのですが、映画「西遊記」に行ってきました。
背景や登場人物はおなじみなものなので、ドラマ未見でもすんなり観ることができました。
さらにさらに映画の題材は有名な金角・銀角のエピソードだと聞いていたので、意外性がなくておもしろくないかもしれないなとも思いましましたが、素直に楽しむことができました。
作品の狙いが明確で、王道のファミリームービーとしたいというのがはっきりとしていたと思います。
その意図通り、三連休だったせいもあるのでしょうけれど、劇場には親子連れが多かったです。
ストーリーはみなが知っている金角・銀角のエピソードに適度にアレンジを加え、笑いネタに子供に受けそうなポイントをうまく入れ込んでいました。
臥龍山に行くくだりの「インディ・ジョーンズ」のようなトラップ、觔斗雲でのチェイス、各シーンでの立ち回りなどは、映像としてハリウッドのようなクオリティはなくても、十分見応えはありました。

やっぱり一番良かったのは香取慎吾さんの孫悟空でしょうか。
もともと香取さんが持っている子供のような天真爛漫さと孫悟空というキャラクターがとてもよくマッチしているように思えました。
ダダをこねたり、大声で笑ったり、怒ったり。
玲美に助けられ、照れ隠しにぶっきらぼうに「ありがとう」と言ったり。
大人になると自分の感情を素直に出す方法を忘れてしまいそうなのに、香取さん=孫悟空はストレートに感情を発露していてなんだかうらやましい。
そんな孫悟空が子供たちからすると自分たちの仲間のように見えるのでしょうか。
上映前までは、そこらへんを走り回ったり、大声でおしゃべりをしていた子供たちが、2時間という子供にとっては長丁場の映画でも、しっかりと最後まで観ていたのが印象深かったです。
香取さんという希有な俳優の力が大きいと思いますが、孫悟空はとても真面目なことをを、大きな声でしっかりと真面目に言っていました。
最後の戦いを前にした孫悟空の口上。
「なまか(仲間)がいるヤツが一番強い」
約束をしっかりと守ること、仲間を大事にすること。
とても大事なことですが、自分の子供の頃でも親や先生に言われると説教臭くて、なんだかしかられているような気がしました。
でも仲間のような孫悟空が言ったことは子供たちには届いているかもしれません。
最近は子供向けでもひねった作品が多い中、ストレートに子供たちに向けた映画のような気がしました。

香取慎吾さん主演「座頭市 THE LAST」の記事はこちら→

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2007年7月14日 (土)

「ルネッサンス」 映像は新しいが・・・

「スキャナー・ダークリー」を観に行った時のこの映画の予告があまりにカッコ良くて、いつ公開するかと楽しみにしてましたので、雨の降りしきる中、公開初日の初回ユナイテッドシネマ豊洲に行ってきました。

全編モノクロームのアニメーションですが、白と黒の中間のグレーはあまり使っていないので、さらにハードなタッチに仕上がってします。
アニメーションといっても、日本の伝統芸手描きのアニメでもなく、アメリカの主流3Dアニメでもありません。
キャラクターの動きは、実際の役者の動きをキャプチャしたものを取り込んでいるようです。
俳優が芝居しそれを撮った映像をデジタル処理している「スキャナー・ダークリー」ともまた違う。
そういう意味では新しい印象のアニメーションでした。
予告で流れていた現在をベースに発展した未来のパリは、何かデカダンな感じがします。
モノクロというのとも相まって、何か闇夜というイメージがあるこの作品のパリは「ブレードランナー」のロスの街の感じとも共通するような夜の都市といった感じで、これは僕の好みでした。
ただそれ以外はどうもおもしろいと思えるところはなく・・・。

まずはキャラクターが肌に合わなかったですね。
主人公カラスは、とても素っ気ないキャラクターです。
「ブレードランナー」のデッカードのようなニオイも感じますが、こういうキャラクターは僕はキライじゃない。
けれどもデザインがリアルテイストなのか、ディフォルメされたものが狙いなのか(頭身比が微妙にアンバランスだったのが気になって)曖昧で微妙なキャラクターのタッチだったので、どうも最後まで馴染めなかったですね。
ストーリーにおいても、ある大企業の重役が「不老長寿」を願い世界を手中に収めようとするというプロットも、近未来SFとしては使い古された感があり、新しさを感じなかったです。

「シン・シティ」や「300<スリーハンドレッド>」は実写でありながら、ほとんどCG処理した映像で、劇画のようなタッチを出していまいた。
本作は役者の演技は活かしつつ、CGアニメで劇画のようなタッチを表現しています。
他の作品でも技術の進歩により「新しい映像」という触れ込みのものが次々と発表されます。
新しい映像というのは、やはりワクワクしますし、どんどん観たいのですが、新しいというだけでいいというわけではないと思います。
やはり映画であるかぎり、キャラクターが魅力的であり、脚本が出来がよくて、作品の世界に引きこまれるようでないといけないですよね。
この作品は見た目のインパクトという意味では新しさもあり、その試みには拍手を送りたいですが、映画としての基本的な魅力に欠けていたいう感じがしました。
技術が発達すればするほど「新しい映像」というのは出てくるわけで、いつまでも人の記憶に残る名作になるには、映画としての根本がしっかりしていないといけない気がしました。

「スキャーナー・ダークリー」の記事はこちら→

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2007年7月 8日 (日)

本 「仮面ライダー響鬼の事情」

平成仮面ライダーシリーズとして2005年に放映されていた「仮面ライダー響鬼」の文芸チームにいた片岡力氏が、番組の企画開始から放映までの記録をまとめたものです。
僕たち視聴者は、できあがった完成品である作品をテレビで観るだけで、その成立過程というのはなかなか知ることはできないので、そういう意味では貴重な資料と言えます。
この番組でいう文芸チームとは、番組のコンセプト、設定、プロットなどを考える集団ということです。
映画や他の番組では同じような役割でも他の名称がついていたりしますね。

「仮面ライダー響鬼」という番組は、「仮面ライダークウガ」で見事平成ライダーを立ち上げた高寺成紀氏がプロデュサーとなり「完全新生」をキーワードに、今までのライダーとは異なるテイストで放映されました。
僕は新しいこのテイストは好きだったりしたのですが、あまり世間では好評ではなかったようで、放映途中でプロデューサー、メインライターの交代などが起こりました。
この本ではその経緯についてはほとんど触れられていません。
なのでそういう内輪の話が知りたくてこの本を手に取った方は肩すかしになるかもしれません。
けれども、普通の視聴者はほとんど知らない番組の企画というものがどういう手順で行われ、どのように精度を増していき、実際に番組となるのかのは読んでいて大変おもしろいものでした。
文芸チーム内でコンセプトアイデアを出し、その矛盾点や課題を修正していく。
設定が決まったと思われるところで、スポンサーやテレビ局、さまざまな部門から茶々が入り、また修正・・・。
僕も会社では商品企画に近いところでの仕事をしていますが、大勢の人間が関わり、ものを作っていくという意味では同じようなことが起こります。
テレビ番組とはいえ、これも商品を作っているということなんだなあと感じました。
大勢の人が関わってくるということは、調整調整ばかりで苦労が多いというのが伝わってきます。

「仮面ライダー響鬼の事情」 片岡力著 五月書房 ソフトカバー ISBN978-4-7727-0462-5

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「フィレーネのキライなこと」 「ごめんね」という言葉

予告を観たときにおもしろそうだなと思ったのですが、単館での公開だったので劇場では見逃してしまったので、DVDでの観賞です。
この作品はオランダの映画ですが、お国柄か性にオープンな感じが映画にもでてました。
完全に女性向けの映画ですが、日本の女性だとこんなに開けっぴろげに性の話をするのに抵抗ある人もいるのではと思ってしまいました。
それとも女性の間では当たり前なのかな、男性には見えないだけで。
男同士だと下ネタの話でますしね。
劇場で観ていて、セックスの話題のところで周りで笑っている女性に囲まれていたら、居心地悪かったかも。
お互い様か・・・。
やはりDVD観賞で良かったかな・・・。

主人公フィレーネはかなり自己チューな性格。
恋人にはずっと自分の側にいて欲しい。
自分の言うことを聞いてもらいたい。
でも、自分が悪いと謝るのはとても苦手な女性です。
そう、フィレーネのキライなことは「ごめんね」ということなのです。
そんな性格のため、(美人なのでモテそうだが)恋をしても長続きしない。
相手が愛想をつかせてしまうのです。

「謝る」のってとても難しい。
自分がやりたいことはやりたい。
でもそれは誰かが我慢しているからできていることかもしれない。
それにずっと気づかないままだと、いつか見放されてしまう。
よく言われることだけれど、相手の気持ちになって考える、なかなかできそうでうまくできないですよね。
フィレーネもずっと自分の気持ちだけを優先させて生きてきました。
人一倍寂しがりだからこそ、誰かにずっといっしょにいてほしいと思ってしまう。
でもその誰か(親も恋人も友人も)も自分のやりたいことがあるわけで、自分のことだけを優先してくれるわけにはいかない。
それに気づければ、自分の気持ちばかりを優先して相手を困らせてしまっても、素直に口から「ごめんね」という言葉がでてくる。
相手の気持ちに立ってその言葉を言うことができたら、自分のことを大切に思ってくれる人はきっと許してくれるはず。
許してもらえるという信頼感があるからこそ、「謝る」という行為ができるのかもしれない。
「ごめんね」という言葉は、自分の気持ちも相手の気持ちも対等に扱える関係になってはじめて、素直に口からでてくる言葉なのかな。

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「必殺仕事人 2007」 正統な続編

久しぶりの「必殺仕事人」です。
親が時代劇好きということで、小さい頃から時代劇はよく観ていましたが、特に「必殺」シリーズは好きでした(変な子?)
物語がある程度パターン化されてますし、悪い奴は絶対やっつけられるし、最後の殺しのシーンはヒーローもののラストの戦いみたいなものなので、子供的にも観ていて楽しかったのかもしれません。

さてさて新しい「必殺仕事人」についてです。
新しいということですが、仕事人の物語のフォーマットはほとんど変わっていません。
新しさを出すために、変にいじって欲しくなかったので、この点は嬉しい。
最初の事件は悪徳商人と強欲侍の「お主も悪のよォ」、そして町娘の「ご勘弁を」の帯回しと時代劇の典型パターンを踏襲してくれます。
あっさりとこの悪者は仕事人に殺られてしまいますが、それが後半の事件に関わっていく・・・。
時代劇フォーマットをきちんと踏みながら話を膨らませているので、年配の時代劇ファンでも十分ついていける親切構造でしたね。

嬉しいのは中村主水(藤田まことさん)が出ていること。
やっぱり仕事人は主水がいないとね。
せんさん、りつさんもご健在で嬉しゅうございました。
でもうまく渡辺小五郎(東山紀之さん)に引き継ごうとしている制作側の意志は感じます。
そのあたりは上手にやっているのではないでしょうか。
東山さんも昼行灯のぼーっとしたときと、仕事人の顔になりきりりとした時の落差がしっかり出ていました。
中村主水の後任として、今後も観てみたいです。
元締めのお菊役の和久井映見さんも良かった。
粋な感じの仕草がよくて、なんというか世間のいろいろなところを見てきた感じがして、庶民の苦しみをわかっているような懐のある女性という感じが出てましたね。
悪役の方々も豪華なキャスティングで、さすがスペシャル版でありました。

ラストの殺しのシーンで、トランペットの音とともに平尾昌晃さん作曲のテーマが流れると鳥肌が立ちます。
今までのシリーズの音楽を混ぜて使っていましたね。
中村主水のテーマもしっかり使ってくれていたので、嬉しい。
最近の流れか全編ビデオの撮影のようなので、殺しのシーンは昔ほど明暗がはっきりとした感じには見えなかったのが残念ではありました。
ビデオはどうしても暗いところが真っ黒にはならないんですよね。
もう少しここはなんとかして欲しかったところです。
絵師の涼次、源太の殺しの技はややひねり過ぎな感じもしました。
やはり三味線や簪を越えるアイデアはなかなか厳しいかなあ。

絵師の涼次と玉櫛の関係、源太と作太郎の関係などまだまだ膨らませそうな設定もたくさんありました。
小五郎と嫁姑の関係も中村家の跡を継げるような面白さがあります。
これは十分シリーズ化できますよね。
今回のスペシャル版はパイロット的な役割なのかも。
もう秋のドラマで計画しているのかな。

「必殺仕事人 2009」の記事はこちら→

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2007年7月 7日 (土)

「キサラギ」 傑作ワン・シチュエーション・コメディ

自殺したアイドル如月ミキの1周忌に、ネットで知り合ったコアなファンが5人が集まった。
アイドルの思い出話で盛り上がる予定だったが、ふとしたことから如月ミキの死の真相が明らかになっていく・・・。
あるアイドルのオフ会という場で繰り広げられるワン・シチュエーション・コメディです。
登場人物たちが知恵を出し合い謎を解いていく物語ですが、観ていて僕は「12人の優しい日本人」を思い出しました。

画面で大きく変化をつけられないワン・シチュエーションドラマにおいては脚本が重要です。
脚本がダメだったらまったく観るに耐えないものになってしまうのですが、この点においてこの作品は傑作だと思いました。
最初から最後まで計算された脚本で、最後まで引っ張られます。
ところどころに登場する小道具、ささいな台詞が、伏線となり、謎がタマネギの皮を剥いていくように徐々に明らかになっていく様子が面白い。
くれぐれも細かいところも見逃さぬように。
ただとても親切な作りでもあるので、凝りすぎて頭がこんがらがってわからないということにもならない点も、うまくできている脚本だと思います。
登場人物の5人はネットの掲示板で互いに知り合ったため、ハンドルネーム以上のことは互いに知らない。
明らかになっていく死の真相と、それぞれの登場人物と如月ミキのほんとの関係性が重要になります。
関係性がないことも、重要だったりします。

5名のキャラクター設定、そしてキャスティング(小栗旬さん、ユースケ・サンタマリアさん、小出恵介さん、塚地武雅さん、香川照之さん)もなかなか見事でした。
細かく書くと作品を観る方のおもしろさを奪ってしまうので、一番お気に入りだったキャラクターのことだけを。
一押しは香川照之さん(イチゴ娘役)。
観るからにいかがわしいキャラクターなのですが、その実は・・・。

ワン・シチュエーションドラマなので、この作品は舞台にしてもおもしろいかもしれないですね。
練り上げられた脚本と、個性溢れる登場人物の絡みをお楽しみください。

小栗旬さん主演「クローズZERO」の記事はこちら→

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2007年7月 1日 (日)

「ダイ・ハード4.0」 走りながら考える

「ダイ・ハード」という作品は、自分の中でけっこう思い入れのある作品です。
学生時代何気なく観たのですが、あまりにおもしろくてびっくりした覚えがあります。
シナリオって大事だなあと思ったのもこの作品でした。
続くレニー・ハーリン監督の「ダイ・ハード2」もシリーズものの2作目としては前作を踏まえてさらにスケールアップしたいい作品だったと思います。
けれども・・・。
「ダイ・ハード3」はいただけなかった。
やはりシリーズものの3作目というのはこうなってしまうのかとがっかり。
いままでのシリーズの良さというのを何も継承していない。
こんなのジョン・マクレーンじゃなくても成立するじゃんと腹を立てた覚えがあります。
ということで、今回の4.0は久しぶりだという期待感と、また裏切られるのではという不安感とが半々でありました。

さて4.0ですが、かなりおもしろかったです。
最初のアパートの襲撃、トンネルでのシークエンスから息をつかせぬアクション。
次から次へとこれでもかと襲ってくる苦境を前にして、知恵と身体能力と時の運でそれを切り抜けるジョン・マクレーンはやはりカッコいい。
でもボヤキまくっているし。
なんだか、ああいう気分わかりますねー。
仕事がとてもたいへんな時、うひゃーと思いながらもアドレナリンでまくりで、「ちきしょー、なんで次から次からトラブルばっかりなんだよー」とボヤキながらもけっこう燃えてきたりして。
こんなところがジョン・マクレーンというキャラクターが人気があって、共感度高いところなんでしょうか。

「ダイ・ハード」シリーズの魅力とはなんでしょう。
基本的に悪役と闘うのはジョン・マクレーンのみ。
彼をサポートする人物(1作、2作のアル、本作のマット)はいるものの、実質的に闘うのはマクレーンだけです。
味方となるべき警察やFBIは、肥大しマニュアル化された組織の弱点をさらけだし、予想を越えた事態に対処できません。
敵となるのは、それぞれがプロフェッショナルである少数のメンバーが、強いリーダーシップを持ったリーダーに統率されているコンパクトな組織です。
彼らは周到に計画されたシナリオで、肥大化した政府組織を翻弄し、望みのもの(金)を手に入れようとします。
そのシナリオは大概いくつかのプランが用意されていて、またシナリオにない事態も判断力の高いリーダーによって組織だって対応できるようになっています。
ある意味、使命を果たすには理想的な組織である敵に対して、戦いを挑むのはたった一人、マクレーンのみ。
マクレーンには最後どうしようという計画性はありません。
悪い奴はぶっ倒すという信念はありますが、どちらかというと目の前の事態を知恵を振り絞って対応していき、そして走りながら考えていく。
1作目でも裸足でビル内を走りながら「Think!Think!」と自分に言いきかせている場面があります。
走りながら考える、また走りながら考える、けれどもそこに何か光明が見えてくる。
何事も計画をしないと進められないという人、組織はあります。
特に大きな組織は。
大事業であればあるほど計画することはとても大事です。
大勢の人が絡むわけですから。
けれども計画がきつい縛りになってしまうと予想を越えた事態には誰も対処できなくなってしまいます。
松下幸之助の口癖は「やってみなはれ」だったということですが、今の時代そんなふうにはできないのでしょう。
マクレーンにはそんな組織の息苦しさをぶっ飛ばすような爽快感があります。
硬直化した政府組織の対応を待たずして、どんどん走っていくマクレーン。
予想を超えた動きをすることによって、周到に作られたテロ組織のプランを破綻させてしまうマクレーン。
うだうだと論議を重ねていくうちに時間ばかりが過ぎていくぐらいだったら、まずは走って、走りながら考える。
計画や組織というものを、個人のバイタリティで越えてしまうことができるのが、ジョン・マクレーンの魅力のように思えます。
僕が3作目があまり好きじゃないのはそのためかもしれません。
マクレーンは自分で走るのではなく、敵に走らされていますから。
そういう縛られているところが「ダイ・ハード」っぽくなかったのかもしれないと感じたのかもしれません。

敵の中で出ていたマギーQ、カッコ良かったです。
こういう強い女性はやはり好きだなあ。
マクレーンの娘役の女優さんは1,2作でホリー役だったボニー・ベデリアに目元が似てた気がしました。
親戚?と思ったのですが、赤の他人のようでした。

「ダイ・ハード」の記事はこちら→ 「ダイ・ハード3」の記事はこちら→

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