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2007年6月30日 (土)

映画検定4級合格しました

5月に受けた映画検定の結果が送られてきました。
受けた時の手応え通りの結果で4級はめでたく合格、3級は残念ながら不合格でした。
4級は90年代以降の映画についての問題がメインで、リアルタイムで観ている映画の話題だったため、自信はありました。
点数は60点中51点。
合格ラインは60問中70%の正答率、つまり42点以上取っていればいいので、こちらは余裕ありました。
3級の結果は60点中41点。
お、惜しい・・・。
あと1点取っていれば合格だったのに・・・。
次回の実施は2008年の5月18日だそうです。
ずいぶん先だなあ。
次回は3級と2級を受けてみようかと思います。

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「アビエイター」 自分だけの遊び場を荒らされた子供

最近の「ディパーテッド」、「ブラッド・ダイヤモンド」で、なかなか侮りがたい演技力を見せてくれて、僕の中では一気に評価があがったレオナルド・ディカプリオ。
「ディパーテッド」と同様マーチン・スコセッシ監督と組んだ本作もなかなかいいという評判だったのでDVDで観賞しました。

ディカプリオが演じているのは、実在の人物ハワード・ヒューズ。
アメリカの富豪であり、映画関係、航空関係で名を馳せた人物ということは知っていましたが、それ以外はほとんど知識がありませんでした。
評判通りディカプリオの演技は良かったです。
凄みがあったというか。
特に後半のヒューズが精神的に追い込まれ強迫性障害の症状が出て苦しんでいるところはかなりの迫真の演技だったと思います。
公聴会のシーンは、昔写真で観たことがあるハワード・ヒューズその人のような印象すら持ちました。
すばらしいです。

本作で描かれているハワード・ヒューズは、世界には自分というものしかないと思っている人物という印象を受けました。
自分以外は、人でさえも周囲の環境と同じ、自分ではない異物という感覚。
世間で人と接し、そこで何かイヤなことがあると、彼は汚いものを洗い流すように遮二無二手を洗う。
自分の思う通りにいっている間はいいですが、そうでなくなったとき周りのものは汚らわしいものになってしまう。
自分のやりたいこと自由にやる環境が、彼にはあった。
まずはお金。
両親の莫大な遺産のおかげで、彼は映画や飛行機など自分のやりたいことにお金をそれこそ無尽蔵につぎ込むことができました。
普通はやりたいことがあっても、制約(お金や環境など)があり、あきらめたり工夫をしたりしなくてはいけなくなり、そこで世間や自分と他者との関係性を理解するのだと思いますが、彼にはそういう状況はなかった。
もうひとつは両親がいなかったこと。
子供が成長していき大人になる時、少なからず自分らしい生き方が親の希望とそぐわないことは多かれ少なかれあるかと思います。
そこの軋轢を経て、人はいろいろ学ぶと思うのですが、彼はそれも経験することがなかったんですよね。
いわば子供の感覚で、そのまま大人になってしまった人物。
対するパンナム社の社長トリップは、大人になってしまった人物でした。
社の利益のためになら、えげつないこともわかった上で平気でできる男です。
夢見がちで利益を度外視して費用をつぎ込んでしまうヒューズが、パンナムにかなわなかったのはいたしかたないというところはあるかもしれません。
そのパンナムも今は姿を消してしまっているのは、歴史の皮肉でしょうか。
恋人に去られ、手段を選ばぬ大人に遊び場を蹂躙されたヒューズにとって、世の中すべてのものは自分を害そうとしているものだらけに見えたのでしょうか。

映画としては、長過ぎますね。
中盤のヒューズが壊れてしまうところはディカプリオの迫真の演技もあり引き込まれましたが、前半の映画がらみのエピソードは冗長で退屈してしまいましたし、最後の公聴会もだらだらと長い感じを受けました。
もう少しメリハリをつけたすっきりとテンポよく観れるのではと思いました。

レオナルド・ディカプリオ主演、マーチン・スコセッシ監督作品「ディパーテッド」の記事はこちら→

マーティン・スコセッシ監督作品「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」の記事はこちら→

レオナルド・ディカプリオ主演「ブラッド・ダイヤモンド」の記事はこちら→

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2007年6月24日 (日)

「あるスキャンダルの覚え書き」 エゴと支配 

バーバラもシーバも、エゴが強いという点では同じに見えました。
自分がかわいらしく、自分の居心地のよいポジションというのを作るため、(自覚的にせよ、無自覚にせよ)人を支配するという生き方は変わりません。

バーバラ(ジュディ・ランチ)という人は、持ち前の堅さからか、あまり人に好かれるような人物ではありません。
周囲の人から見れば「うるさい人」として敬遠されてきたのでしょう。
それでも人は生きていく中で自分の立場というのを確立していかなければならない。
彼女は他人に頼りにされるということで、自分が存在することの意味を実感してきた人物なのだと思います。
しかしその相手は、自分の悩み事が解決するとバーバラから離れていったのでしょう。
多分に彼女の愛情深さが重さとなったと考えられます。
そして彼女は次第に、相手に「頼られる状況」を作りはじめ、そして相手を支配していくという術を身につけていったのでしょう。
彼女はその行為に自覚的です。
そしてその行為は自分では極めて正当だと思っている人物です。

対してシーバ(ケイト・ブランシェット)という人はどのような人物でしょう?
彼女は男性にも女性からも目をひくような美貌の持ち主。
多分、とても早くから男性などにももてはやされ、女の子の中でもかわいがられた人でしょう。
そういう人にちやほやされる環境に慣れてしまっている人物に見えます。
なにか悩みごとがあっても、誰か自然と周りの誰かが解決してくれる、そういう甘えみたいなものがあるように感じます。
言い方は悪いですが、周りの人(男女ともに)にうまく媚を売ることで、上手に生きていた人に思えます。
そのような生き方に彼女は無自覚です。
小さい頃、親をなくしたというようなことが語られていたと思いますが、彼女はそのような状況の中で、保護者を如何に見つけ、生きていくかということを無意識的に考えてきたのでしょう。
夫が学生時代に知り合った年上の人物だというのも頷けます。

人に頼られることで生きてきたバーバラ。
人に頼ることで生きてきたシーバ。
当初は互いの生き方が、うまくかみあっていた。
けれども二人とも、自分のエゴのために、自分では気づかないうちに他人を支配をしようとする生き方をしてきた人だったのです。
二人の関係の水面下で、二人の支配力争いが起こっていきます。
だから次第に二人の関係は壊れていくのです。

けれどもふと考えてみると、それほど極端ではないにせよ、自分のエゴと他人(身内など自分以外の人も含め)のエゴのせめぎ合いが起こるというのは、自分のにもあるということに気づきます。
多分どんな人も少なからずそういうところはあるのでしょうね。

ジョディ・リンチがM役で出演「007 カジノ・ロワイヤル」の記事はこちら→

ケイト・ブランシェット出演「バベル」の記事はこちら→

ケイト・ブランシェットが出演しているオムニバス「コーヒー&シガレッツ」のきじはこちら→

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2007年6月23日 (土)

「ブルークラッシュ」 あなたの波よ

これだけ蒸し蒸しと暑い日が続くと、爽快な映画が観たくなります。
ということでサーフィン・ガールズを題材にした映画「ブルークラッシュ」を観てみました。

青春映画としてストーリーはとてもオーソドックス。
天才少女サーファーと呼ばれていた主人公アン・マリーは、サーフィンの大会を前にしても3年前の競技中の事故の恐怖心が克服できなません。
そのような状況の中、彼女はフットボール選手のマットに出会い、恋に落ちます。
そして競技から逃げるようにその恋に入れ込んでいきます。

オーソドックスな作りなので、当然のことながら友人の力も借りてアン・マリーは競技に出場します。
けれども競技中でもビッグウェーブを前にして、まだ彼女は恐怖心を克服できず、波に乗ろうか迷っている。
そのとき競技をしている相手の先輩サーファが彼女を後押しします。
「さあ乗って、あなたの波よ」
結局、波に乗ろうとするかしないかを決めるのは自分自身。
サーフィンに限らず、人生では時々大きな波、機会がやってくるときがあります。
その波に乗ると失敗するかもしれない、成功するかもしれない、それはわからない。
それが恐怖心を生みます。
それでも波に乗ろうと決められるのは自分だけ。
ボードに乗り、立ち上がれるのは自分だけしかいないんですよね。

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「女帝<エンペラー>」 傾国の美女、権力欲の烈女、そして愛を求める普通の女

シェイクスピア作の悲劇「ハムレット」をベースにしている映画です。
「ハムレット」は読んだことありませんが・・・。
僕が観に行ったのは、アジアの宝石チャン・ツィイーを観たかったから、それだけでした。
けれども、観始めてみるとかなり物語にも引き込まれてしまいました。

物語の初っ端から隠遁している皇太子ウールアンの仮面舞踏が見せられます。
この仮面をつけた演技というのが、この映画全体を釣らなく要素になります。
宮廷では、自分の発言が即自らの命、一族郎党の命をとられてしまうようなことに繋がりかねません。
人々は自分の思いとは別に、自分自身に仮面をかぶせ、宮廷でなすべき役割を淡々とこなしていきます。
それは下々のものだけではなく、王妃であっても、王であっても心に仮面をかぶらなくてはいけないのです。
王妃ワンは、先帝を毒殺した弟皇帝リーに復讐を計りたいとしています。
そしてそれには幼ななじみであった皇太子ウールアンへの想い、そして彼女自身への権力への欲望も絡んでいます。
しかしワンは現皇帝を知るにつけ、彼の自分への愛情が本物であることもわかってきて、心は揺らぎます。
またウールアンの許嫁であり、宰相の娘でもあるチンニーには、従女としての愛情を持ちつつも、彼女の純粋なウールアンへの愛情を感じ嫉妬も感じます。
このように心の中で渦巻く野望や感情を、仮面で覆い隠し王妃ワンは暮らしています。
それは他の登場人物についても同じでしょう。
皇太子はワンを愛しておりながら、義理の母子であるという儒教的価値観に悩み、また自分が辛い時になぐさめてくれたチンニーにも愛情を持ちます。
彼は新皇帝に対しては、父親への復讐というのももちろんですが、もう一つは自分が愛する女性を手に入れた男への嫉妬も少なからずあったでしょう。
新皇帝ですら、国を良くするために先帝を廃し、その先帝の持ち物であった王妃を手に入れたのは、完全に頂点に立ったと認識したかったのでしょう。
けれども彼は王妃ワンの美しさに魅かれ、心底愛するようになってしまう。

人の心というのは、自分自身でもこれこれこうだときっちりとわけられないものです。
「なんでこんなこと言っちゃったんだろ」とか「こんなつもりじゃなかったのに」ということは多々あります。
それだけわからないのが、人の心。
その複雑な人の心が、何かの拍子で何人かの心がクロスオーバーする。
そこに悲劇が生まれる・・・。
シェイクスピアの題材を上手に中国宮廷でアレンジして描いていたと思います。
やや長いという感もありましたが、最後まで人々が本心を見せない様子はずっと緊張感が途切れず、飽きることはありませんでした。

さて最後にお目当てでありましたチャン・ツィイーは。
相変わらずお美しいお顔です・・・。
今回はあまり笑顔を見せる役ではなかったですが、怒りの顔、恐い顔もやっぱり美しく・・・。
あの顔で一度怒られてみたいです(バカ)。
普通の人と肌が別のものでできているかのようにきめ細かい。
見目が美しいだけでなく、アクションでの体の動かせ方、立ち居振る舞いの所作など動きも美しく、観ていて惚れ惚れしてしまいます。

王妃ワンは、確かに傾国の美女であり、権力欲の強い烈女でもありました。
けれどもそれに加え、愛する人に愛されることを望む普通の女でもありました。

チャン・ツィイー出演「LOVERS」の記事はこちら→

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2007年6月22日 (金)

本 「サラミス」

タイトルの通り、古代ギリシャとペルシアとの戦いの転換点となったサラミス海戦を題材にしている小説です。
サラミス海戦は、現在公開中の「300<スリーハンドレッド>」が描いているテルモビュライの戦いのあと、スパルタ精鋭の命を賭した戦いもペルシア軍の勢いを止めることができず、アテナイ(アテネ)も占領されてしまった時に起こりました。
映画にも出ていたペルシアのクセルクセス王がこの小説でも敵国の王として出てきます。

「300<スリーハンドレッド>」で男と男のガチンコ勝負を観た後に、この小説を読んだので、もの足りなさが残ります。
サラミスの海戦を題材にしているとは言っても、この作品では、海戦の地をサラミスにするかどうかを議論しているギリシアの都市国家の代表者を延々と描いています。
その議論も国会答弁のようなもってまわったような言い方でディベートしているので、なんだか読んでいてイライラしてしまいます。
登場人物もかなり出てくるのですが、どうもあまり性格が見えてこないので感情移入しにくかったですね。
かなり下調べをしたようなギリシア軍のさまざまな仕来りなどの情景描写は綿密に書き込まれ見事だと思いました。
盛り上がりそうな海戦の様子も、かなり淡々としている印象を受けました。
やっぱり直近に観た「300<スリーハンドレッド>」の血の興奮が忘れられず、没入できませんでした。

テルモビュライの戦いを描いている映画「300<スリーハンドレッド>」の記事はこちら→

「サラミス」 佐藤哲也著 早川書房 ハードカバー ISBN4-15-208614-9

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「監督・ばんざい!」 感じるのは北野監督の苛立ち

この映画を観終わって、映画を見た時に感じたことを反芻してみて、出てきた言葉は「苛立ち」でした。
これは映画を観た僕の苛立ちではありません(いや、観ていて映画には入れ込めない苛立ちは感じましたけど)。
それよりもなにか北野武監督の苛立ちというのをこの作品から感じました。

そもそも僕は北野監督の映画はあまり相性がよくありません。
「世界のキタノ」と称されるほど評価されていますが、いくつか作品を観てもあまりいいなあとか、おもしろいと思ったことがないのです。
僕の中での印象としてはどうも感情移入しにくい肌触り感があります。
うまく言えないのですが、鉄などの金属を舐めてしまった時の苦さというか冷たさというか、そんな感じです・・・(クールとも違う)。
どうも肌合いがあわないんですよね。
今まで観た北野監督の作品で、唯一おもしろいと思ったのは「座頭市」だったのですが、本作品でもこれだけが唯一興行が良かったと皮肉まじりに言われていたので、北野監督の作品の中では毛色の違ったものなのでしょう。
そのようなわけで本作品も観ようかどうか迷っていたのですが、世間であまり評判がよろしくないので、かえって興味を持ちました。
同時期に松本人志監督の「大日本人」が公開されたので、比較してみたくもなりました。

映画としては、本作品は全くおもしろくありませんでした。
まとまりがないというか、散漫というか・・・。
笑えるところがなかったわけではありません。
空手道場のシーンなどであった一連のボケのギャグ(たいこをたたこうとして手を叩いたり、バチをとばしたりの繰り返しのボケなどは往年のビートたけしを思わせる)は、「ひょうきん族」世代の僕は思わず笑ってしまいました。
ただこれはギャグとして受けてしまっただけで、作品としておもしろいということではなありませんでした。

冒頭の話に戻りますが、見終わって感じたのは「苛立ち」でした。
前半の映画を作ろうとしては中途で止めてしまうことの繰り返し。
そこから、北野監督自身が苛立ちを感じているように思いました。
伊武雅刀さんのナレーションで映画を作るときのきっかけ、止めるときのきっかけが語られますが、監督が作りたいというより、こういうのが当たるのではないか、こういうのは受けないみたいなことで始めたり止めたりしているような感じがでていたような気がします。
監督の周りの映画関係者、そして作品を観ている観客がやかましいというか。
なにか北野監督自身が、そういう映画関係者や世間の評価や評判がうっとうしいと感じているような印象がありました。
映画を観ていて笑えたのが、往年のビートたけしのような一発ギャグだったりしたわけで、こういうところに何か北野監督(ビートたけし?)のイキイキとしている感じがしました。
教育上よろしくないとかPTAからやり玉にあがっていたアウトサイダーであったビートたけしの時の方が、現在評価されている監督北野武よりも自由であったと感じているのではないでしょうか。
なにか全編から「世界のキタノ」、日本映画の巨匠として高い評価を受けてしまい、それによって「北野スタイル」として他からの押し付けられてしまった期待によって動かされてしまう、対応してしまうことに対する苛立ちが募ってきたように感じました。
あえてコントのような安い作りにしているのも、大作といったものに嫌気がさして、自分が自由におもしろがってやってたころのようにやってみたいという気持ちのあらわれなのかもしれません。
そんな苛立ち感が、初監督で自由に撮った感のある松本人志さんと好対照な気がしました。

松本人志監督「大日本人」の記事はこちら→

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2007年6月18日 (月)

「エターナル・サンシャイン」 消しようのない記憶の輝き

「恋愛睡眠のすすめ」のミシェル・ゴンドリーの出世作です。
本作については評判が良かったのは知っていたのですが、ずっと未見でいました。
先日会社の後輩と映画の話になった時、とてもこの作品を評価していたので、DVDで観賞しました。

「恋愛睡眠のすすめ」を観たとき、独特の世界観のある監督だなと思いましたが、その世界にあまりハマれなかったので、ちょっとこの作品に対しても不安感はありました。
けれども観てみると、この作品に関してはハマれました。
「恋愛睡眠のすすめ」では夢と現実、本作では記憶と現実の境目を飛び越え行き来する感じは共通している感じがしました。
記憶の中の世界がリアリティがあるけれど非現実という感じの表現がなかなか面白かったです。
「恋愛睡眠のすすめ」の世界は夢というよりファンタジーでしたが、本作の方が日頃みるような夢のよう。
いつの間にか場面が転換しているところや、自分を客観的に見ている自分がいるなんてところは、夢でもよくありますよね。
そのせいか本作の方がわかりやすくて、登場人物への感情移入もしやすかったかもしれません。
生活することに消極的で、人に対してとてもシャイなのは、本作のジョエル(ジム・キャリー)も「恋愛睡眠のすすめ」のステファンも似ていましたね。
監督もたぶんそんな人なんでしょう。

「大人ときたら、悲しみと不安だらけ」
クレメンタイン、そしてジョエルがお互いに相手の記憶を消そうと訪れるラクーナ社の受付のメアリーの言葉です。
メアリーは生きていくのに不安になるような記憶は消してしまった方がいいと思っています。
人生しばらく生きていると、忘れてしまいような記憶の一つや二つはありますよね。
特に好きな人を失ったことなど。
好きだったのに、結果的にはなんだか知らないけれど喧嘩別れしてしまったこと・・・。
思い出すと辛いので、いっそのことそんな記憶は脳みそのハードディスクから消し去ってしまいたいと思うことは誰でもあるんではないでしょうか。
けれども辛い記憶っていうものは輝いていたときの記憶とセットになっていることが多いですよね。
原題は「ETERNAL SUNSHINE OF THE SPOTLESS MIND」。
”SPOTLESS MIND”は汚れていない記憶(心)という意味でしょうか。
原題を直訳すると「汚れていない記憶の永遠の輝き」ですね。
コンピュータのファイルをゴミ箱に突っ込んできれいになったと思っても、ハードディスクの中にはデータの欠片が残っているように、消された記憶の中でも大切な思いではひとかけらの輝きでずっと残っている。
それは消しようがないのでしょう。
ジョエルもクレメンタインも、記憶を消しても、その輝きに導かれるように再び出逢い、魅かれあいます。
けれども、互いに相手の記憶を消そうとしたことを知り、お互いに傷つく。
相手は自分を必要としていなかった。
自分も相手を必要でないと思ってしまった。

「恋愛睡眠のすすめ」に僕が乗り切れなかったのは、ステファンの現実逃避癖のため。
夢の中に逃げるのではなく、やはり現実に向かって欲しかった。
「エターナル・サンシャイン」が良いなと思ったのは、最後はジョエルとクレメンタインがお互いにもう一度やり直してみようと思ったこと。
またうまくいかなくなるかもしれない、けれどもやってみよう、いっしょにやってみたいと思った二人が輝いていました。
ジョエルが「OK?」と聞く。
「・・・OK」とためらいつつもクレメンタインが答える。
この台詞の言い方が、ジム・キャリーもケイト・ウィンスレットも良かったなあ。

ミシェル・ゴンドリー監督「恋愛睡眠のすすめ」の記事はこちら→

ケイト・ウィンスレット出演「ホリデイ」の記事はこちら→

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「舞妓Haaaan!!!」 お・ま・え ハイテンションボーイ

全編、主演の阿部サダヲさんのテンション高くって楽しめます。
クドいの通り越して、それはカイカンになってしまいますねー(略してクドカン?・・・?)。
クドいのは制作側もわかっていてやっているようで、主題歌は「お・ま・え ローテンションガール」というタイトル。
グループ魂のボーカルでもある阿部サダヲさんと、今回特別参加の柴崎コウさんのやり取りが楽しい歌です。
上映前に劇場でずっとかかっていたので、耳に残ってしまいました。
阿部サダヲさん演じる鬼塚と、堤真一さん演じる内藤の、HPでのやり取りがなかなか楽しい。
(笑)、(怒)、(爆)、(恨)、(殺)・・・、大人げない二人のやり取りがおかしいかったです。
二人はこれをきっかけにして、永遠のライバルに・・・。
京のお座敷、野球場、映画、格闘技そして市長選と二人はことあるごとに(というより鬼塚が追いかけて)、ライバル心をメラメラと燃やしながら戦います。
まさに和製「プレステージ」(違うか?)。
それだけでなく、クドカン脚本らしくちょっと人情っぽい話もあります。
話の割に上映時間が長いのが、難点でしょうか。

阿部さんだけでなく、堤さんの演技も派手で楽しめましたし(ワレぇを連発してましたね)、柴咲コウさんはちょっとズレた感じがかわいらしい。
鬼塚のあの様子を見て、「カッコいい・・・」は・・・。
「蓼食う虫も好きずき」、ですねえ。
北村一輝さんは、キショかった・・・。

伊東四朗さん演じる社長さんが言っていましたが、お座敷に紹介するというのは、その人を信用しているからということ。
自分が連れてきた人については、自分の信頼をかけているということなんですね。
置屋の姐妹というのもそういう関係。
契りを結んだからには、姐は妹に対して責任を生じる。
それだけの気持ちで人を信頼し、育てるということなんですよね。
最近はキャリアプランとか、自己啓発などというように自分の力で成長すること期待されますが、自分だけの力で成長することは限界があります。
マニュアル化できる知識だけでは受け継げないものは絶対あるわけで、多分、お座敷で人と接する仕事である芸妓もそういうことは多いでしょう。
それを姐妹の関係というのは信頼感を築き上げた上で、現場で(いわゆるOJTで)暗黙知を伝授しようとするシステムなんですよね。
前に読んだ本で、何かを伝えるということはそのスキルだけを伝えるだけではなく、そのものの考え方を伝えるということだと書いてありました。
僕の仕事はデザインなので、職場でもどのように教育していくかがなかなかマニュアル化できずに悩んでいます。
結局たどり着いたのが、昔ながらのブラザー制度。
上にぴったり下をつけて仕事をいっしょにやりながら、そのスキル、考え方を身につけさせるというやり方。
成長するにはやや時間がかかりますが、僕はこのやり方が結果的には質が高く、かえって早いと思っています。
まさに置屋のシステムは同じだなと、映画を観ていて思いました。

脱線してしまいましたが、この映画はそんなことあまり考えずに単純に阿部サダヲさんのハイテンション振りを楽しむのが正解ですね。

柴崎コウさん出演「どろろ」の記事はこちら→

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2007年6月17日 (日)

「プレステージ」 人生すべてをかけた奇術

原作の「奇術師」は二、三年前に読んでいたのですが、内容はすっかり忘れてしまってしまい、映画を観ているうちに記憶が順々に甦ってきました。
原作の小説は結構書評などで評判が良かったので手に取ったのですが、読後の感想としてはおもしろいんだけど、やや複雑だなあという印象がありました。
いわゆる叙述トリック(日記ですね)などもあったので、その部分は映画ではどうするんだろと思っていました。
映画で下手に叙述トリックを使うととてもアンフェアな作りになってしまうときがありますから(例えば「ラッキーナンバー7」とか)。
けれども、映画でも上手に叙述トリックをやっていましたね。
映画を観た印象としては、とても原作の雰囲気に忠実に作っているなと思いました。
原作はSF的でもありつつも、コナン・ドイルあたりの作品の雰囲気もあったのですが、映画でもそんなテイストが出ていたと思います。
見終わってみればオチも原作と同じようだったと思いますが、映画を観ていても展開が二転三転するので、かなり引き込まれて観ていました。

<オチにちょっと触れますので未見の方はこれから先は注意です。>

マジックのテクニックではロンドン随一である、”プロフェッサー”ことボーデン。
しかし、彼の舞台には観る者を陶酔させる輝かしさがない。
観客を魅了する天性の才を持つが、テクニックにおいてはボーデンに先んじられる、”偉大なるダントン”ことアンジャー。
彼らは自分の才能に絶大なる自信を持ちながらも、それが完璧ではないことを知っている。
そして自分にない才を、ライバルが持っていることも知っている。
二人はお互いに相手に嫉妬をし、止めどない焦りを持ち、そして相手を恐れる。
ボーデンの行い(過失?)により、アンジャーは最愛の妻を失う。
そしてボーデンはアンジャーに撃たれ、マジシャンとして重要な商売道具である指を失う。
大切なものを失ったことにより、二人は相手を敗北させるためには手段を選ばなくなっていきます。
相手を勝つためには、恋人さえもスパイとして使うアンジャー。
相手を勝つためには、人生すべてをかけ、一人の人物を二人で演じ、そのため妻を自殺に追い込んでしまうボーデン。
そして、二人の争いはエスカレートしていく。
マシンによって生み出される自身の文字通りの分身を、マジックのたびに抹殺していくアンジャー。
アンジャーにはめらたため、一人の人間を二人で演じてたその相棒を犠牲にしてでも、一矢報いようとするボーデン。
最後のアンジャーはオリジナルだったのか、そうでなかったのか。
それは本人でもわからなくなっている。
生き残ったのはボーデンですが、それはボーデンなのか、それともファロンなのか。
奇術とは偽を真のように見せること。
彼らは人生をかけた奇術を行っているうちに、偽と真が自身でもわからなくなってしまったのですね。

最後に映画を観ていてわからなかったことを・・・。
ボーデンはいつから二人であったのだろうか?
それは映画では明らかにされていなかったと思います。
ボーデンの過失によって妻を失った時、アンジャーは彼に問いつめます。
「どんな結び方をしたんだ?」
ボーデンは「わからないんだ」と答えます。
彼は混乱していたために「わからない」と答えたのか?
それとも既にこのときはボーデン/ファロンは二人であったのかもしれない。
縄を結んだボーデンと、アンジャーに問われたボーデンは違うかもしれない。
だから彼は「わからない」と答えたのかもしれない。
誰かわかる方いらっしゃいますか?

クリストファー・ノーラン監督、クリスチャン・ペール主演「ダークナイト」の記事はこちら→

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2007年6月16日 (土)

「ゾディアック」 執着する恐怖

60年代末にアメリカで起きた未解決の無差別殺人事件を題材にした映画です。
この事件はマスコミというものを意識した劇場型犯罪として、その後の現実の事件やフィクションにも大きな影響を与えたということで知られています。
劇中でも紹介されていますが「ダーティー・ハリー」の第一作目もこの事件にヒントを得て作られています。

この映画は事件の犯人が誰なのかということの謎解きそのものよりも、その謎を追うという行為に憑かれてしまった男たちを描いています。
その憑かれた男たちというのが、本作の中心人物であるグレイスミスであり、エイブリー記者であり、トースキー刑事なわけです。
この映画が描く恐さというのは、殺人鬼ゾディアックに追われることに対する恐怖ではなく、すべてを犠牲にしても何事かに執着しまう状態になることに対する恐さでしょう。
殺人鬼に狙われたりすることは普通の生活をしていれば現実的にあることはありません。
言うなれば映画の中で描かれるそのような恐怖は非現実的だからと観客も了解しているからこそ、それをフィクションとして味わうことができるわけです。
けれども先に上げた執着することへの恐さというのは誰でもそうなってしまうかもしれない可能性があるというところにその恐怖の元があります。
執着の対象は愛であったり、出世だったり、生きることであったりするでしょう。
あることに、周りの全てのものを犠牲にしてしまうほどに執着してしまう可能性、それに対する恐怖は誰にでもあるのです。

ただこの映画の狙いはそのようなところにあるということはわかるのですが、その狙いが上手に伝わってきたかというと、疑問が残ります。
後半にグレイスミスの話に収束するまでのまどろこっしい感じがあり、それは取り憑かれてしまう男を三人にしてしまったことからくる感情移入の先が分散してしまうということからくるのでしょう。
物事へ執着してしまうことへの恐ろしさを描くのであれば、思い切ってグレイスミスに焦点を絞ってよいのではと感じました。

序盤、デビッド・フィンチャー自身の出世作である「セブン」を想像させるような展開で、そっち方面の恐怖を描こうと観客に思わせるようミスリードさせるのはおもしろいなとも思いました。
ただその試みも全体的な印象が散漫になったことにつながったのかもしれません。

デビッド・フィンチャー監督作品「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」の記事はこちら→

グレイスミス役ジェイク・ギレンホール主演「遠い空の向こうに」の記事はこちら→

エイブリー役ロバート・ダウニーJr.出演「スキャナー・ダークリー」の記事はこちら→

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2007年6月15日 (金)

「300<スリーハンドレッド>」 伝説という抑止力

画面から感じるエネルギーのポテンシャルがすごいです。
原作はフランク・ミラーのグラフィック・ノベル。
あまり詳しくはないのですが、コミックと言わずグラフィック・ノベルと言い方をしているんですよね。
漫画に対する劇画みたいなもの?
まさにこの映画は「実写劇画」と言っていいかもしれない。
実写とはいえ、かなりCGで作り込まれ、計算された構図の一カット、一カット。
アクションシーンでの極端なまでの緩急のスピード変化は、劇画の派手なコマ割りによるリズム感を感じます。
また陰影がはっきりして、モノクロームに近いおさえた色彩はまさに劇画のそれだし、派手な音楽、効果音は立体文字で描かれているコミックの「擬音」のような印象を受けました。
キャラクターのビジュアルも演技も漫画的な派手さがありますよね。
観ていて思わず頭に浮かんだのは「北斗の拳」。
ペルシア王のクセルクセスなどは原哲生さんが描いたら、けっこうハマるかもと想像したりして。
かなりバイオレンスな描写もあるにもかかわらず、不快感を感じさせる一歩手前の爽快感・開放感を感じさせるのは生々しさをギリギリで回避した作りまれた劇画的な作り方のおかげかもしれないです(当然苦手な人もいるかもしれないですが)。
どんどんエスカレートしていく派手な展開もいい意味で漫画的さがでてきておもしろい。
絶対勝ち目がない戦闘を、超人的な闘いぶりで、数えきれない戦士、暗殺者、サイ、そして象までも撃破していく様子はやはりコミック的な爽快感がありました。

さて内容について・・・。
スパルタ王レオニダスは、鍛え抜かれた最強の戦士たちとはいえたった300人で、100万ものペルシア軍に戦いを挑みます。
優秀な王であればあるほど、こんな無謀な戦いに勝算はないということはわかっていたでしょう。
それでも、なぜ、王は戦いに臨んだのか。
たった300人の戦士が、死も厭わぬ覚悟によって想像以上の戦いを展開し、味方にとっても敵にとっても予想を上回る戦果をあげる。
そして男たちは、圧倒的な戦力差にも関わらず恐怖に駆られた敵方のパワーにまかせた戦いによって、ついに果てる。
彼らは無様な負け方はしない。
敵方には勝ったにも関わらず恐怖が残る。
味方には負けたにも関わらず希望が残る。
彼らは伝説になる。
伝説は味方にとっては結束を強めるための求心力となり、敵方が自分たちの戦力を現実以上と過大評価をさせ、戦略を誤らせることにもつながる。
伝説が敵の攻撃の抑止力になる。
人々の心に刻まれた伝説は破壊することができない。
レオニダスはそこまで読み、自分の命を賭け、自分たちが伝説化することにより、圧倒的な敵国の脅威から故国を守ろうとしたのでしょう。
ディリオスをスパルタに帰し、彼らの戦いを伝えるようにと命じたところからもそうではないかとうかがえます。

最後に・・・。
このスタッフに「北斗の拳」を映画化して欲しいです。
絶対あの世界観に合うと思うのですが、このテイストは・・・。

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2007年6月10日 (日)

本 「生物兵器と化学兵器 種類・威力・防御法」

核、生物、化学兵器はNBC兵器と総称して言われますが、NBCとはNuclear、Bio、Chemicalの略です。
冷戦後、旧ソ連の開発した技術の流出などから世界各地への拡散が問題になっています。
特に生物、化学兵器は核兵器に比べ、比較的安価に開発でき、また使用も簡単であることからテロでの利用が懸念されます。
その生物、化学兵器について解説しているのが、この本です。
細かく各論については解説しています。
ただ各論に終わっているため、その生物、化学兵器の危険性とその防御についてはあまり踏み込んでいないように思えました。
先日読んだ「核爆発災害」という本は、かなりその点は内容が濃かったので、比較するとややもの足りない印象が残りました。

「生物兵器と化学兵器 種類・威力・防御法」 井上尚英著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101726-9

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「大日本人」 松本人志、それははぐらかす男

僕はあまりお笑い番組を見ないので、松本人志という人物の人となりはよくは知りません。
けれどもなんだか一筋縄ではいかない人というイメージがあります。
発している言葉をそのまま受け取っているだけだと、はぐらかされてしまうような印象。
それは初監督作品である「大日本人」を観て、またそう思いました。

公開前はあまり映画に関する情報がでていませんでしたが、直前になりヒーローものということを知りました。
え、意外?というのが素直な気持ちです。
観てみるとなかなか設定が凝っている。
巨大化する能力を持つ男がいて、彼は国から委託され、仕事として怪獣を倒す。
彼には普通に妻がいて、子供もいるという設定。
これが設定としてあったとき、周囲のシチュエーションは思いのほか、考えられています。
給料だけでは苦しいので、暮らしていくために広告収入を得なくてはいけない。
防衛庁より依頼があって、怪獣を倒しにいく。
平成ガメラなみにきちんとシミュレーションされているところにけっこう感心しました。
まじめに作っているという印象。
CGなどで作られた怪獣登場シーンもなかなかの出来だったと思います。
生々しさがでる一歩手前のテイストは不思議なファンタジーのような感触もありました。

映画のほとんどは大日本人に変身する大佐藤(松本人志さん)を追うドキュメンタリーの体裁。
これは大佐藤というキャラクターというよりも松本人志という人物そのものといった感じがします。
本気なのか、芝居なのか、ほんとの気持ちなのか、人に聞かせるための気持ちなのか、なんだかはぐらかされているような感じは、松本人志さんそのものといった感じです。

ラストバトル。
大日本人は赤い怪獣と再戦するも攻められるばかり。
都心を逃げ惑う大日本人がアメリカ大使館の前まで逃げてきたその時、アメリカンなヒーロー、スーパージャスティスが現れる。
スーパージャスティスたちの攻撃力は圧倒的で、無惨なくらいに怪獣をこてんぱんにし、最後はビーム攻撃で怪獣を破壊する。
そのとき大日本人は手を添えているだけ。
彼は空も飛べず、アメリカンなヒーローファミリーに腕をかかえられなければ去っていけない。
深読みすれば、「世界の警察官」という勝手な自覚で、世界の平和を守っているというアメリカという国をスーパージャスティス(正義)が表しているとみていいでしょう。
日本国内では、怪獣を倒すだけの力を持つ大日本人も、スーパージャスティスたちが正義を守っているということをアピールするための添え物でしかない。
それは「世界の警察官」を何の考えもなく成り行きでサポートしている日本という国を風刺していると言えるでしょう。
ラストバトルのみ伝統的な着ぐるみを使った特撮になり、作り物感がでているのは、アメリカのやっていることが茶番だと言っているようにも思えます。

けれどもなんだか松本人志監督はそういう自分勝手な深読みをする人間がいるということも実は読みつつ、なにも考えていないようにはぐらかしているような気もします。
(けれどもほんとは何か考えているけど誰にも言わないみたいな感じもするなあ)

松本人志監督第二作目「しんぼる」の記事はこちら→

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「(ハル)」 話し言葉と書き言葉

96年の映画なんですね。
なので、この映画の背景となる時代はざっと10年ほど前。
それはインターネットが普及し始める前夜、まだパソコン通信が主流だった時代。
(ハル)と(ほし)は映画フォーラムで知り合います。
お互い仕事のことや恋人のことをぽつりぽつりとやり取りをし始めます。
本当の顔や名前を知らないという安心感からか、ささいな嘘を交えつつも、今自分が感じていることを素直に相手へのメールという形でふたりは綴っていきます。
それぞれが内に持っている不満や不安感。
何か世界の出来事に比べるととても小さな不安、人に相談すると「なんだそんなことで悩んでるのか」と言われそうな悩み。
意外と人には話せない。
それを(ハル)と(ほし)は相手へメールを出すということで、自分の気持ちというのを整理していきます。
自分の思いを文章に書くこと、それは自分の思いを客観的に見ることになります。
自分は楽しいんだ、悲しいんだ、と書くことは、あらためて自分の状況を認識することにとても役に立ちます。
自分がよろよろと思いを整理していていることを知ってくれている人がいてくれるのは嬉しい。
そして行動をしようとして決めるのはあくまでも自分。
でも、それをただ聞いていてくれる相手の存在が大きい。
自分の本質を見てくれているいう人がいてくれるということが大きい。

「想像の力、あまり大きくなるのが恐いのです」
これは(ほし)が書いた言葉。
期待をしすぎること、それを失ったときの悲しみを(ほし)は知っている。
でも怖がってばかりでもいけないことにも(ほし)は気づいている。
そんな(ほし)のいうことを(ハル)はただ聞いている。

先日読んだ「レインツリーの国」でも言葉を書くことということの大事さを感じました。
普通の話し言葉は話したときに消えていき、その言葉は勢いばかりでほんとうの思いが入っていないかもしれない。
話し言葉はどちらかというと自分のことだけを考えた言葉。
書いた言葉は、何度かの推敲を重ね、自分の気持ちが表され相手のことも考えた言葉になっていく。
書き言葉は相手のことも考えた言葉。
丁寧にやりとりされる書き言葉は、なにか思いを込めようと一生懸命に凝縮されたもので、言葉の一言一言よりもさらに深い意味が込められるような気がしました。

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2007年6月 9日 (土)

「恋は五・七・五!」 映画見て 自分で一句 詠んでみた

DVDのデザインが「スウィングガールズ」のバッタもんみたいだったので、全く食指が動かなかったのですが、先日観てよかった「かもめ食堂」の荻上直子さんの作品だということを知り、見てみました。
主演は関めぐみさん。
これまた先日DVDで見た「ハチミツとクローバー」のあゆみ役で僕的には好印象だった方です。

他の記事でも書きましたが、僕はこの手の青春ものが好きなんです。
この作品、俳句を扱っているもののストーリーとしては「スウィングガールズ」的な一般的な青春ものと同じような流れなので、これといって新しいという感じはありません。
でも「かもめ食堂」でもでていた荻上直子監督のゆるーいテイストは健在。
俳句大会に出るとはいっても、それほど激しい切迫感は感じられないところが荻上テイスト。
適度なゆるい笑いもおかしい。
ニブい治子(関めぐみさん)にツッチー(細山田隆人さん)が告白するときに、それに乗じて山岸(橋爪遼さん)やマスオちゃん(杉本哲太さん)も思いを叫んでいるところはおかしかったですね。

僕も俳句は年配の方の趣味というイメージがありましたが、映画を観てなかなか奥が深いものだなあと思いました。
こうやってブログなどを書いていると、なかなか自分が思うような文章がうまく書けなかったりしますが、俳句はさらに短い言葉で自分の気持ちを表現するんですよねー。
だからより洗練され、イメージを想起させる言葉になるんですよね。
結構おもしろそうかも。
映画の中の句で、一番気に入った句はツッチーの
「印画紙に 写せぬ君の 笑い声」
青春の切ない感じがよくでているんじゃないかな。
今度自分でも一句ひねってみました。
「離れるを 知って気づきし かの想い」
深い意味は聞かないでね(笑)。

最後に改めてDVDのデザインはいただけない。
何かのマネに見えるデザインは作品の好感度をかえって下げてしまうと思います。

荻上直子監督「めがね」の記事はこちら→

荻上直子監督「かもめ食堂」の記事はこちら→

荻上直子監督「バーバー吉野」の記事はこちら→

関めぐみさん出演「ハチミツとクローバー」の記事はこちら→

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2007年6月 5日 (火)

本 「レインツリーの国」

「図書館戦争」シリーズの有川浩さんの作品です。
「レインツリーの国」は先のシリーズの一作品「図書館内乱」の作品中に登場する小説です。
実際に有川さん自身がその劇中作品を小説にし、発表したものです。
「図書館内乱」では登場人物に図書館員とその幼なじみの中途失聴者の女性の恋が描かれていますが、劇中のキーアイテムである本作品「レインツリーの国」でも中途失聴者と健聴者の恋がテーマです。

映画「バベル」では人と人を阻む壁としての言語、違いを受け入れられない人間というものが描かれていました。
特に菊池凛子さん演じるチエコという役柄には痛いほどそれが描かれていました。
この作品に登場するひとみは中途失聴者です。
聾唖者であるチエコとはまた状況は違いますが、ひとみもやはり障害のため自身が周囲に対して壁を築き、警戒をして暮らしています。
彼女にとって唯一ネットが自分が障害を持つということを気にせず、言葉を操ることができる場所。
そうしたネットで知り合った伸行とひとみは互いに恋に落ちます。
その恋を成就するためにふたりが互いの違いを知り、それを尊重し、不器用ながらも近づいていく様がなにかじんときます。
伸行は素直に自分の言葉を口にする男性。
好きだと思ったら好きと言い、自分が悪いと思ったらごめんとあやまる。
なかなか素直にこうは言えません。
なんだか大人になって長い間生きていると、プライドが邪魔をするのか、素直にあやまったりすることができなくなりますよね。
「バベル」では人と人の間にある壁にやるせない思いになりましたが、この作品では何か希望を感じます。
かなり「青春」な言葉もでてくるので読んでいて恥ずかしくなるところもありますが、人を好きになってそれを素直に表現できることは恥ずかしいかもしれないけどとてもいいなと思います。
プライドとかも越えて恥ずかしくても「好き」だということ、そんな単純なことが壁を越えることができる方法だったりするのかもしれないと思いました。
有川浩さんの作品は、恥ずかしいくらいにまっとうで「青春」であるところが何か好きなんですよね。
心がまっさらになる気がします。

「レインツリーの国」 有川浩著 新潮社 ハードカバー ISBN978-4-10-301871-1

有川浩さん作品「図書館内乱」の記事はこちら→

映画「バベル」の記事はこちら→

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2007年6月 4日 (月)

「イーオン・フラックス」 しなやかな美しさ

ここ数年、強い女性が出てくるアクション映画が多いですよね。
「バイオハザード」、「アンダーワールド」、そして本作など・・・。
この流れは「マトリックス」のトリニティあたりからでしょうか。
僕はアクション映画は全般的に好きですが、この手の強い女性の活躍する映画には魅かれて観に行ってしまいますねー。
何故かと自問すると・・・、やはり美しいから!
いやいや容姿じゃなくて(それもあるけど)。
男性のアクション(特にアメリカ映画)はやはりマッチョな人々のぶつかり合いなので、印象で残るのは「固さ」。
スタローンやシュワルツェネッガーなどに代表されるような、ガツン!という音が聞こえてきそうなハードな感じですね(そういうアメリカ人のマッチョ至上主義を覆したのが「マトリックス」だとは思いますが)。
でも先にあげたような女性主人公のアクションは見たときに残る印象は「しなやかさ」。
「やわらかく、でもこしがある」、まるでうまいうどんのことを言っているような表現になってしまいますが、それが女性アクションの美しさだと思います。
本作「イーオン・フラックス」もそのような女性アクションの「美しさ」が堪能できます。
特に前半の敵の砦に侵入する際の中庭横断のシークエンス。
劇場での予告でも流れていましたが、まるで器械体操のようなしなやかな動き。
美しい・・・と惚れ惚れしてしまいます。
シャーリーズ・セロンのメリハリのあるボディライン自体も美しいのですが、やはり流れるような動き、つま先や指先まで神経が行き届いてるような感じがすばらしかったですね。
そういえば「しなやかさ」は英語では「flexible」。
「フラックス=flux」となんだか語感が似てますね。

ストーリーは、この手のSFディストピィアものとしては、どこかで見たストーリーという感じ(ウィルスによる人口激減、不妊そしてクローンという展開など)があって、本作に関しては目新しさは感じませんでした。
その割に上映時間は1時間半くらいだったので、やや説明不足の感もあり初めて劇場で見たときはやや不親切な印象を受けました(二度目DVDで見たときはそれほどではなかったですが)。
それでも背景となる未来社会はかなりスタイリッシュで、僕は好きなタイプの洗練されたデザインが多く、楽しめました。
SF的なガジェット(口笛を吹くと集まってくる小さい爆弾とか、瞬間移動できる機械とか)も芸が細かく、またそれらを話にうまく組み込んでいるのも好感がもてました。

ストーリーというよりも洗練された映像と、シャーリーズ・セロンの美しいアクションを堪能する作品ですね。

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2007年6月 3日 (日)

本 「カンニング少女」

突然ですが、「ザ・カンニング」という映画知っていますか?
僕が小学生の頃だったと思いますが、学生たちが受験に受かるために知恵を絞ってカンニングを敢行する(その頭を勉強に使えというツッコミはなしで)というフランスのコメディ映画です。
コドモだった僕はけっこう楽しんでみたオバカ映画でした。
さっき検索したら、びっくり。
ダニエル・オートゥイユが主演でした。
「あるいは裏切りというなの犬」では渋すぎる親父でしたが、若かりし頃はオバカ映画に出てたんですねー。

と小説に関係ない話は置いておいて。
この小説も、ある少女がさる事情から有名私立大学受験を突破しなくてはいけなくなります。
その少女のために仲間たちが持ち前のスキルを使い、あの手この手のカンニング作戦を敢行するというお話。
ライトノベルに分類されるのでしょうか、するすると読んでしまえます。
ライトノベルには多々あるのですが、キャラクター描写は浅い、というかステレオタイプ。
だからするすると読めるということなのかもしれませんが。
悪い人がまったくでてこないという意味では安心して読めます。
カンニングの方法、そしてその防御方法、などについてはそれほどびっくりするようなところはないかもしれません。
あ、携帯電話やQRコードを使ったカンニングというのは、今っぽいかな。

「カンニング少女」 黒田研一著 文藝春秋 ソフトカバー ISBN4-16-323310-5

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本 「推理小説」

昨年フジテレビ系列で放送され、また映画化もされた「アンフェア」の原作小説です。
ドラマでは殺人予告小説事件から、募金型誘拐事件、バツマーク殺人事件と繋がっていきますが、原作は殺人予告小説事件を取り扱っています。
ドラマの方は、殺人予告小説事件から始まる一連のストーリーを新たに組み上げていったわけですね。
ちなみにドラマのタイトル「アンフェア」というのは、原作小説にもありますが殺人事件現場に置いてあった栞に書いてあった「アンフェアなのは誰か」という言葉からとっています。

先にドラマの方を見ているため、結末を知っているためということもありますが、原作小説はややもの足りない印象を持ちました。
犯人の性格はドラマ版とほぼ同じですが、それ以外のキャラクター(主役の雪平を含め)については印象が薄い。
ドラマの方に思い入れがあるので、仕方がないと思いますが。

原作と、ドラマとは殺人予告小説事件に関しては大筋のストーリーは変わりません(細部は異なりますが)。
けれども大きな違いが二つ。

まず一つは雪平刑事へのスポットの当て方。
原作では雪平は一刑事として事件を担当します。
そういう意味では事件に関しては雪平は部外者的でありますが、ドラマ版は事件の背景には雪平自身の生き方、人生が大きく関わりがあります。
ドラマは彼女の生き方の背景として、父親が死んだ事件の謎、自らが射殺した未成年犯罪者のことなどが丁寧に描かれ深みが増しています。
ある意味ドラマの事件は雪平を中心に構成されていて(それはドラマ後半明らかになりますが)、雪平が主役らしい存在感を放っています。

二つ目は「アンフェアなのは誰か」という言葉の意味合い。
ドラマではこの言葉は、犯罪を犯しながらのうのうと暮らしている者たち、そして彼らを放置している警察に対しての怒りの言葉として、すべての事件の底辺にある大きな意味で扱われています。
原作では先に書いたように事件の現場に落されていた栞に書かれている言葉としてだけ。
推理小説はフェアでなければならない、そしてリアリティとオリジナリティを持たなければならないという犯人の思想が表れた言葉として扱われています。

テレビドラマを制作したスタッフがすごいなと思うのは、原作ではほんの些細な言葉であった「アンフェアなのは誰か」という言葉の意味合いをどんどん大きく広げ、ドラマ全体を括るテーマとして設定したこと。
原作があるものをドラマ化、映画化というのは最近よくありますが、原作のエッセンスを抜き出しさらに何倍もスケールアップさせるのはなかなか上手にできないことではないかと思います。

なんだか小説のレビューというよりドラマのレビューという感じになってしまいました。
ドラマ版を好きだった方、ドラマ版と原作の違いを楽しむというのも一興かもしれません。

「推理小説」 秦建日子著 河出書房 文庫 ISBN978-4-309-40776-0

刑事 雪平夏見 シリーズ第二作「アンフェアな月」の記事はこちら→
刑事 雪平夏見 シリーズ第三作「殺してもいい命」の記事はこちら→
ドラマ「アンフェア the special コード・ブレーキング」の記事はこちら→
映画「アンフェア the movie」の記事はこちら→

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「恋愛睡眠のすすめ」 夢の中へ・・・

夢・・・、最近はみていないですね。
もしかするとみているのかもしれないけれど、朝起きるときれいさっぱり忘れてしまっています。
恋・・・、最近してないですね。
恋をしていると、想像の翼が大きく広がったりしますよね。
とってもうまくいくハッピーなことを想像してうきうきしたり、まったくうまくいかないネガティブな想像をしてどん底な気分になってしまったり。
この映画の主人公ステファンはあれこれ好きな女性ステファニーに関して夢の中で妄想を繰り広げますが、これほど極端ではないにせよ、誰でもこの気分はわかりますよね。

ミシェル・ゴンドリー監督の作品は今回初めて観賞しました。
妄想の世界と現実の世界が、ごちゃっと混じり合う感じの雰囲気は独特なものがあるなあと思いました。
夢についての話だと、ファンタジーぽいものや、もっと毒気があったりするものを想像していたのですが、なんだか手作りテイストの不思議な印象でした。
自主映画のようなコマ撮り撮影なんかは懐かしい感じがしました(学生時代、ちょっと自主映画を齧っていたもので)。
と言っても、僕がその世界に耽溺できたかというと、それほどでもなく・・・。
朝一番の回だったせいか、まったりとした作品の雰囲気に眠気を誘われてしまい・・・。

また僕がステファンというキャラクターに惚れることがあまりできなかったからかもしれません。
映画の中でのステファニーの台詞ではないですが、彼に「現実をねじ曲げるのは、悪い癖よ」と言いたくなります。
ステファンはどう見ても社会に適応しようとする意志や力が弱く、ただ現実の世界に背を向けて妄想の世界に逃げ込んでいるような気がします。
彼の行動は子供がそのまま大人になってしまったかのよう。
それはそれで純であるかもしれないわけで、愛らしくもあるのですが、ラスト近辺で自分自身に自信がなく、そして相手の気持ちも信じられず、現状から逃げ出そうとするところが、ちょっとどうかなと思いました。
僕自身も逃げ出したりすることもある弱いところもあるので、ステファンにそういう行動を見せられるのがちょっと個人的に痛かったのかもしれません。
ステファンというキャラクターに共感できないというわけではなく、共感できる点があるからこそ、そのヘタレぶりを見ると自分でもいたたまれなくなったということかもしれないです。
見終わったあとで雑誌などに掲載されている監督インタビュー読むと、ステファンというキャラクターに監督自身が反映されているようですね。
監督もご自身のこういうヘタレた部分を厭いながらも愛おしいと感じているのでしょうか。

ミシェル・ゴンドリー監督作品「エターナル・サンシャイン」の記事はこちら→

この作品の主演ガエル・ガルシア・ベルナルが出演している「バベル」の記事はこちら→

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2007年6月 2日 (土)

「コーヒー&シガレッツ」 無駄な時間、その快楽

僕はタバコは吸わないけれど、コーヒーは飲む。
それもかなり多く。
一日に5〜6杯はいくんじゃないかな。
休日はゆっくりとコーヒーを飲みながら本を読むのが好き。
そういえば映画を観にいっても、劇場でコーヒーを買ってしまうなあ。
映画が始まるまで、期待をしながらコーヒーを飲みつつ待っているのが好き。
なんでこんなにコーヒーが好きなんだろう。

「コーヒー&シガレッツ」は文字通り、コーヒーと、タバコと、そして会話をテーマにした11の短編のオムニバスです。
いずれの短編もテーブルを挟んで登場人物の間でかわされるとりとめのない会話が描かれています。
その会話はなんだかお互いズレていたり、オチがなかったり。
それが悪いわけじゃない。
そのオチない感じが、なんともゆるーい空気を作り出しています。
尻の座りが悪いようでいながら、居心地がいいというなんとも不思議な感じが心地よい。

映画というものは、映画が上映される前からそもそも結論は決まっているわけで、映画の中で展開されるシーンや会話はラストに向かって構築されています。
ちゃんとそれらが組み立てられていないと、それは「よくないホン」であるわけですよね。
意味がない台詞、流れをまとめあげらていないストーリー。
僕も気に入らない映画のことを書くときは、こういうところを指摘したりしてます。
でも日常、僕たちが会話しているとき、どこに結論がいくなんて誰もわからない。
自分としてはもっていきたい方向があるにせよ、必ずしもそうなるとは限らない。
会議や講演みたいなものではない通常の会話というのは、そもそもは目的なしでダラダラと流れていくものなんですよね。
この映画はそのダラダラ感、会話の無目的さというのがよくでている感じがします。
僕は映画を観るとき「この台詞の意味は?監督の意図は?」とけっこう考えながら観てしまうタイプなのですが、この映画はそんなことなくダラダラと観ることができました(それこそ家でコーヒー飲みながらDVDで観てたからということもあるのかもしれないですが)。
こういう見方もたまにはいい。

そもそもコーヒーなんてものは、別段飲まなくても死ぬものではないし、栄養もあるのだか(昔は薬として扱われたらしいけれど)どうかよく知らない。
なにか目的があって飲んでるわけじゃない。
どちらかというと無目的な会話と同じで、コーヒーを飲むという行為は、生きるため食事をとるという行為とは違い、やはり無目的で、それが無駄だからこそなにか心地よいのかもしれない。
コーヒーを飲んでぼーっとしている無駄な時間。
せかせか仕事をしていることが多いからこそ、逆にその無駄な時間が意味があるようにも思えてくる。
僕はタバコは吸わないけれど、タバコを吸う人もそういう感じじゃないのかと思えてきます。

生産性がなく、無駄なことをする。
なにかそこには快楽があるような気がする。

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「ザ・シューター 極大射程」 「必殺仕事人」?

先日久しぶりに試写会チケットが当たったにもかかわらず仕事の都合で行けなかったので、昨日映画の日、公開初日で観てきました。
観る前は勝手に「ボーン・アイデンティティ」のようなアクションあり、知的なサスペンスもありな映画かと思っていたのですが、違ってました。
(マーク・ウォールバーグとマット・デイモンって雰囲気似てません?)
けっこうハード描写が多く、知的というよりは暴力的だった映画でしたね。
見終わった後、この感じどこかで観たような?という印象が残ったのですが、わかりました。

いきなりですがネタバレですけれども、ラストの山小屋のシーン。
主人公ボブの裁判所への訴えも退けられ、事件の黒幕の上院議員とその手先となってさまざまな悪事に手を染めてきた”大佐”。
酒を酌み交わしながら、次の悪事の相談をしています。
なぜこいつらが生き残るのだという怒りがふつふつと観ている人の心にわき上がります。
そのとき、山小屋の明かりが消され、銃弾が。
それはボブが放った銃弾でした。
”大佐”はあっさりと殺され、そしてボディガードも次々に。
山小屋に侵入してくるボブ。
最期「わしは上院議員だ」と虚勢をはる彼にも非情の銃弾をお見舞いし、ボブは去っていく・・・。

うーん、これは・・・。
「必殺仕事人」ではないか?
欲に駆られた家老や悪徳侍たち(上院議員や”大佐”)に虐げられる市井の人々(アフリカの人々)。
その事件に巻き込まれた仕事人(ボブ)ははめられ無実の罪を着せられる。
追っ手を退け反撃に転じるが、悪の首魁は罰せられない。
法規を越えて、その悪に鉄槌を下すため、闇の中を仕事人がいく・・・。
こんな流れが「必殺仕事人」のフォーマットだったりするわけですが、まさにぴったり。
命乞いをする上院議員に弁解をゆるさず一撃で倒すとこなんかは、中村主水かと思いました。

実は観ていて粗がやたら気になった映画でありました。
銃撃を受けた痕も生々しい犯人に対し何もできなかった新米FBIが、急にひとりで捜査を初めていくつもあらたな証拠を探したり、いつの間にか優秀な狙撃者になっていたり。
教師だと言っていた女性が、やたら上手に治療をしたり、「銃も整備しておいたわ」って言ったり。
都合が良すぎるだろ!と突っ込みどころ満載でありました。

でも上で書いたように「これは時代劇なんだな」と思えば、「ま、いいか」という気分にもなりました。
「必殺仕事人」観て、設定の突っ込み入れないですからね。
「このミステリーがすごい」で第一位なんて宣伝しているから、サスペンス、ミステリーを期待したりしたんですが、この点では肩すかしでした。

マーク・ウォールバーグ主演「ミニミニ大作戦(2003)」の記事はこちら→

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