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2007年5月27日 (日)

「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」 大風呂敷の広げすぎ?

三部作最終作は「デッドマンズ・チェスト」から打って変わって、けっこうシリアスなストーリーでした。
前回はアクションシーン(檻のシーンや水車のシーン等)、またジャック・スパロウのキャラクターでコミカルな側面をかなり出していましたが、今回はそのあたりはすこし薄めでした。
ジョニー・デップもシリアスな表情をしていることが多かったように思います。
僕は前回のようなコミカルな側面が好きだったので、ちょっとその点は残念。
「デッドマンズ・チェスト」もいろんな方が詰め込み過ぎと言っていましたが(僕自身はまだ許容範囲内でしたが)、今回はさすがに詰め込み感を感じました。
前半は僕が海賊映画に期待しているワクワクドキドキするような派手な見せ場はそれほどなく(お金がかかってそうなシーンはたくさんありましたが)、各キャラクターの思惑からくる裏切りでストーリーが二転三転します。
そのあたりのストーリー展開でドキドキしそうなものなのですが、なにか展開に乱暴感が感じられ、話がごちゃごちゃしているように思えました。
各キャララクターの思惑による裏切りも上手に描けば、かなり見応えあるようになると思いますが、大風呂敷を広げてとっちらかってしまった印象でした。

基本的に今回は東インド会社が大きな敵になるので、ディヴィ・ジョーンズが前回の印象よりもスケールの小さい悪党になってしまった点も残念です。
シリアスな展開のためかジャック・スパロウのはじけ方もややおとなしかったように思えました。
ユニークなキャラクターなので、もっとあのいい加減さを出して欲しかったんですけれど、ちょっともの足りない。
前回ラストで突然復活したバルボッサはいい味出していましたね。
いつの間にかグッドマンになってました。

後半の東インド会社と海賊連合の艦隊戦はかなりの迫力があります。
ここは見応えありました。
SFXを駆使した艦隊戦、敵味方入り乱れてのチャンバラは手に汗握ります。

ラストは三部作を終わらせるという意味で、けじめをつけたという感じがしました。
まだこのシリーズは続くという話もありますが、その終わり方ですからまったく同じキャストではないでしょうね。
相変わらず長いエンドロールの後におまけがありますので、くれぐれも席を立たぬよう。

「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」の記事はこちら→ 「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」の記事はこちら→

第四作「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」の記事はこちら→

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2007年5月26日 (土)

「海でのはなし。」 人間は考える葦である

NHKで放映しているのがとっても意外なバラエティ「サラリーマンNEO」の脚本も担当している大宮エリーさんの脚本・監督作品です。

主人公の楓も博士も、いまどきめずらしい生き方がマジメなタイプです。
宮崎あおいさん演じる楓は、父親の浮気を知ります。
実直な楓はそんな父親が許せないと思いますが、実は自分の母親の方が愛人であったことを知り、ショックを受けます。
そして前から慕っている年上の西島秀俊さん演じる博士(ひろし)に相談し、なぐさめて欲しいと思いますが、彼は優しくしてくれるものの、彼女を女性として扱い抱きしめることを拒否します。
博士は博士で人と深く付き合うことに対し、臆病な生き方をしている男性だったのです。

この映画のレビューだと楓の話を書くのが普通だと思いますが、僕自身は博士への共鳴度が高かったのでそちらの方を書いてみます。
僕もあまり人付き合いに積極的なほうではないのですね。
そういうことを僕を知っている人に言うと「冗談言って」みたいなことを言われるのですが、けっこう人と深くつき合うのに尻込みしてしまうきらいがあります。
「傷つくのが恐いから、淡々と生きていく」といったことを博士が言っていたかと思います。
なんかわかるんですよね。
でもそんな自分もいやだったりして。
博士はたまに帰った実家で、久しぶりに会った両親の生き方に幻滅しながらも、それに役に立てない自分にもげんなりします。
「なぜ子供である自分を頼らない?」と言いますが、それまで自分から親に頼れとも言っていなかったのだろうなと思います。
そういうころに負い目を感じていたりもして。
幸い僕の親は健康に暮らしていますが、離れて暮らしているためなにも面倒も見れていないし、まだ身を固めていなかったりするので、負い目を感じて足が遠のいたりもします。
そんな自分の状況が博士の描かれ方と妙に共感があったりしました。
「自分の生きている意味を見つけるためにあがいている感じだ」
とも言っていたかと思いますが、まさに自分もそんな感じですね。

楓は(彼女が思う)不純な行為で生まれた自分が、そもそも原罪を背負っていると言います。
自分の存在自体を否定しようとするんですよね。
でも博士はパスカルの言葉「考える葦」を引き合いに出し、人は考えること、感じることゆえに無限の可能性があると言います。
ああ、そうだよなとここも共感したところでもありました。

宮崎あおいさんは相変わらず上手ですね。
印象深かったのは、朝方の車の中のシーン。
父親の浮気にショックを受けた自分のことを博士がなぐさめてくれるのが、とても楓にとっては嬉しい。
楓はそのまま自分の気持ちを博士に伝えます。
けれども博士は困ったような表情を浮かべる。
その間はほぼ1カットだったと思うのですが、あおいさんの表情が笑顔から不安そうな表情に変わっていくところがとても上手。
彼女の心臓がばくばくいって、そして血が流れるのが止まりそうになるような思いというのが伝わってきました。
博士演じる西島さんはこういう無表情な役、合っていますよね。
ただ感情がないわけではなくて、その感情を表現できていない感じというのを、西島さんも上手に演じていたのかと思います。
はじめは言葉があまり棒読みっぽかったので、こんな下手だったっけと思ったのですが、狙いだったのかもしれません。

ラストシーンの博士が楓を抱きしめるシーン、良かったです。

あ、菊池凛子さんもでてましたねー。

宮崎あおいさん主演「初恋」の記事はこちら→

西島秀俊さん出演「大奥」の記事はこちら→

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「LOST シーズン2」 自己による自己の呪縛

6月からAXNでシーズン3が公開される前に、ギリギリでシーズン2を見終えました。
シーズン2のスタートは意外なシーンから始まりました。
一瞬、間違ったDVDを借りてきたかと思ったりしたほど。

「ハッチ」が開き、その中には何があるのか?
筏で島を脱出したソーヤーたちはどうなるのか?
シーズン1のラストで残された謎はシーズン2早々にわかりますが、その先に新たな謎が・・・。
このあたりは「LOST」節が継続ですね。
シーズン2は伏線がシーズン1よりもさらに多く、気を抜くと張られている伏線を忘れてしまいそうになります。
関係があるエピソードの場合は丁寧に「前回のあらすじ」で説明してくれるので、思い出すことができますが。
シーズン1は「ハッチ」が謎の中心にありましたが、シーズン2の謎の中心は「ボタン」が謎の中心。
「ボタン」に何の意味があるのかはラストまで明らかになりません(ラストでも明らかになっているのか・・・)。
ただ「ボタン」のエピソードが象徴しているものは興味深いです。
シーズン1では生き残るために精一杯のため、登場人物も強調していましたが、シーズン2は「ハッチ」や謎の投下物のおかげでサバイバーたちの生活は安定。
しかし登場人物それぞれのものの考え方の違いがシーズン1よりも明らかになり、さまざまな対立が生まれます。
そこで生じるものは人への疑い。
信じていいのか、いけないのか、登場人物はみな他人への疑心暗鬼にとらわれます。
そして他人への疑心暗鬼は、自身の思考による自分自身の束縛です。
人は少なからずこうあるべき、こうあらねばならないという自分のものの考え方の基準を持っています。
それは生きていくための指針にもなりますが、呪縛にもなります。
ジャックは人を救わなければならないという呪縛を持っている。
ロックも、マイケルも、サイードも、みなも・・・。
自己が自己を呪縛する、そういう人間の業みたいなものがシーズン2はさまざまな人物に見ることができます。

登場人物も増え、また島のビーチ以外のシーンも多くなるので、シーズン1よりやや散漫な感じがあるのは否めません。
当然のごとく、最終回ではまた大きな謎を残していきます。
さてさてシーズン3はどのような展開になりますか・・・。

謎の部分に触れることができないので、「LOST」はレビューが難しいです・・・。

「LOST シーズン5」の記事はこちら→ 「LOST シーズン4」の記事はこちら→

「LOST シーズン3」の記事はこちら→「LOST シーズン1」の記事はこちら→

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本 「核爆発災害 そのとき何が起こるのか」

広島やビキニ環礁の事例を分析し、核爆発が起こった時にどのようなことが起こるのかを科学的に解説した本です。
何よりも驚いたのは広島では核爆発直下でも生き残った人がいらっしゃったということ。
当然偶然的な要因(たまたま地下にいた、電車が込んでいたため熱風を直接浴びることがなかったなど)があるのですが、それでも生き残れないわけではない。
また知らなかったこととしては、核爆発が起こって生じる放射能は半減期がとても短いということ。
なんとなく核爆発が起こるとそのエリアは核汚染され永久的に住めないイメージがありましたが、よく考えれば広島や長崎でも人は暮らしているのですよね。
核爆発直後を生き残り、すぐにその場所を立ち去る、もしくは遮蔽された場所(地下)などで3〜4日ほどいられれば生き残る確率はあがるということです。
当然核戦争などということはあってはならないのですが、もしそのようなことがあった場合でも正しい知識を持っていれば生き残る確率をあげることができるのだなと思いました。

「核爆発災害 そのとき何が起こるのか」 高田純著 中央公論新社 新書 ISBN978-4-12-101895-3

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2007年5月20日 (日)

「かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート」 いかにも香港カンフー映画らしい

映画検定のあと、せっかく渋谷方面に来たのでここでしかやってない「恋愛睡眠のすすめ」を観ようと試験会場からダッシュして映画館に行ったら、上映10分前なのに長蛇の列・・・。
またの機会とあきらめて、六本木でこの映画を観てきました(まったく路線が違うけど)。

オープニングタイトルはパラパラとカラフルなコミックがめくられるような入り方。
まるでマーベルです。
というよりパクってないか、これ。
原作は香港の人気コミックなんですね。

僕はアクションものはキライじゃない、というより好き。
子供の頃、特撮ものを浴びるように見て、中学生の頃はジャッキー・チェンがヒーロー。
カンフー、ワイヤーアクション、SFXときたら涎がでます。
カンフー映画でカンフー使いが「ハッ、ハッ、ハッ」と攻撃防御を芸術的に受けるさまにはしびれてしまいます。
さてこちらの映画「かちこみ!ドラゴン・タイガー・ゲート」はアクションシーンは魅せてくれます。
ワイヤーと特撮を上手に使い、マンガチックな派手なアクションシーンで楽しませてくれます。
特殊技術だけだとアニメみたいで味気ないものなのですが、俳優さんも香港の方だからアクションの訓練を受けているのか、やはり動きが美しいのでよりアクションに華があります。
主役の二人、ドラゴンは手技、タイガーは足技がメインで対照的。
特にタイガーを演じていたニコラス・ツェーはかっこよかった。
必殺技(!)ドラゴンドリルは、まさにマンガにでてくるような大技で派手で見応えありましたね。
「見せる」アクションっていうんでしょうか。

さてストーリーの方はというと・・・。
これはちと、いかがなものかと。
キャラクターの描き方がとても大ざっぱでしたね。
ずっと生き別れていたドラゴンとタイガーは巡り会っても、さして盛り上がらず普通に会話してるし。
ドラゴンを愛している(と思われる)悪の組織の美女ローザの扱いも中途半端だったし。
そもそも物語の最初はタイガーが主役のような感じで描いていたのに、いつの間にかドラゴン主役みたいな話になっているし。
龍虎門を作りドラゴンとタイガーの親であるフーフーは行方不明っぽかったので、てっきり敵の親玉が親父という典型的な「スター・ウォーズ」パターンを期待していたら、親父の話には一切触れずただの悪者だったし。
いくらでもドラマとして(クサかろうと)盛り上げるネタはあったろうになあ。
ドラマ部分はけっこうあっさり、淡白。
ま、もともとカンフー映画というのはストーリーなんてあるようでないものだったりするので、香港らしいといえば香港らしいのかもしれないですけれど。

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映画検定受けてきました

せっかくこういう映画のブログをやっているので、キネマ旬報の映画検定を受けてみようと思い立ち、本日受けてきました。
初めてなので、4級と3級を。
久しぶりに「試験」という雰囲気を味わいましたー。
会場は国学院大学だったのですが、大学に入るのも久しぶり。
受験の頃を思い出しましたよ。
一応キネ旬のテキストやら問題集やらは読んで予習もしていきました。
キネ旬の商売に乗せられている気がしなくもないけど。

4級の問題は、最近の映画の話が多かったので、けっこう答えられたかもしれないです。
4級はいけるかも。
3級は、昔の邦画だったり(坂妻とか言われても・・・)、イタリアの古い映画(まったく観てないからわからない・・・)の話についての問題もあってなかなか手強い。
ここらへんは、学生の頃にさんざん使った「カン」の勝負で(笑)。
3級は受かるかなー、ちょっと微妙。

受験していた方々は若い方から年配の方まで、さまざまでした。
みんな映画好きなんだろうなあ。
もしかして日頃、ブログでやりとりさせていただいている方もいたりして。
久々に学生気分を味わったので、今日は充実しましたー。

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2007年5月19日 (土)

「かもめ食堂」 主義はあるけど、肩に力が入っていない生き方

フィンランドのかもめはまんまるなんですねえ。

サチエの生き方がいいですね。
マサコの台詞にありましたが、「ぼーっとしているのは難しい」。
とかく日本人は日頃「いそがしい、いそがしい」と言って生活していて、いざGWみたいに長期の休みになると暇を持て余したりしますよね(僕なんかもそうです)。
ココロに余裕のある生活に慣れていないということでしょうか。
最近は北欧のライフスタイルの人気が高まったり、スローライフという言葉も一般的になってきていますが、まだまだゆとりを楽しむ生活が染み付いていない。
サチエの生き方には焦りがない。
お客がすぐには来なくても、焦らない。
「人は変わっていくものだから」
でも、
「たぶんよく変わると思う」
サチエの生き方には、楽天的だけど成り行きまかせともちょっと違う、ある種の信念みたいなものはあるような気がします。
それがあるから焦りがないのかな。
とかく人は何をするにも理由をつけたくなるもの。
そうじゃないと動けない。
自分を納得させるために人は理由をつけたがる。
サチエは言います。
「どうしてものときはどうしても」
「やりたくないことはやらない」
主義はあるけど、肩に力は入っていない。
とても素直な生き方。
そんなふうに力まず生きるのが、一番難しいんですけれど、ね。
だから憧れてしまうのでしょう。

日本人はなんとなくイメージで北欧の人はとても質の高い生活を送っていると思っている。
でも「悲しい人は悲しいし、寂しい人は寂しい」。
人が生きるってことはどうしてもそういうことはつきまとう。
でもおいしいものを食べていると何か幸せな気分になれる。
「みんな何かを食べてないと生きていけない」
だから、
「地球最後の日にはおいしいものを食べて過ごしたい」。
おいしいものは人を幸せにするチカラがあるんですよね。
僕は食品メーカーに勤めているので、食のチカラというのを再認識もさせられました。

「やっぱり猫が好き」が好きだったので、小林聡美さんともたいまさこさんの組み合わせは嬉しかったですね。
お二人ともいい味出しています。
片桐はいりさんもお二人に上手にからんでいたと思います。
全体的になんか透明感のある映画でしたね。
映像の色合い、雰囲気もそうでしょうけれども、間の取り方などもその空気感にうまく影響を与えていたような気がします。

原作小説「かもめ食堂」の記事はこちら→

荻上直子監督「めがね」の記事はこちら→

荻上直子監督「恋は五・七・五!」の記事はこちら→

荻上直子監督「バーバー吉野」の記事はこちら→

こちらは焼肉プルコギ食堂「The 焼肉ムービー プルコギ」の記事はこちら→

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本 「ぼんくら」

宮部みゆきさんの時代ミステリーです。
読み始めたときは、短編集かと思ったのですが、実は全体が一つのミステリーとして繋がっているという仕掛け。
さすが宮部みゆきさん、鮮やかな展開です。
登場するキャラクターも魅力的です。
主人公の同心平四郎に付き添う甥の弓之助がいいですね。
弓之助は目を見張るほどの美少年ですが、なんでも計ってしまうという癖をもっている変わった子供。
ものごとをきちんきちんと論理立てて考えることができるために、次第に事件の謎に迫っていきます。
その事件自体は忌まわしい現実だったりするわけで、同じく事件の真相に気づく平四郎が甥を気遣いそれを見せまいと気遣うところは、宮部みゆきさんらしくほろりとさせてくれます。
またそのときの弓之助も健気でなんともいいんです。
それ以外にも、勝ち気だけれども情が深いお徳、なんでも記憶してしまう癖がある”おでこ”、もと女郎でお徳の手伝いをしているおくめなど魅力的なキャラクターが登場しています。

先に書いたように短編が実はひとつの謎に繋がっているという構造が秀逸。
短編のおもしろさと長編のおもしろさが味わえる作品だと思います。

本作の続編「日暮らし」の記事はこちら→

「ぼんくら<上>」 宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-06-274751-0
「ぼんくら<下>」 宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-06-274752-9

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本 「陰陽師 飛天ノ巻」

夢枕獏氏の小説には、「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」などでもそうですが、「よい漢(おとこ)」といわれる人物が出てきます。
「よい漢」というのは、見目がいいという意味ではなく、気持ちがいい男とでもいいましょうか、男が友人としてもちたくなるようなタイプの人物です。
物事を素直に見る、本人はわかっていないかもしれないけれども、物事の本質をつかんでいるような人物。
先にあげた「沙門空海〜」では橘逸勢が、「陰陽師」シリーズでは源博雅がそのようなとして描かれています。
この小説「陰陽師 飛天ノ巻」の中の「源博雅堀川橋にて妖しの女と出逢うこと」という短編では、源博雅の人物像がよくわかります。
「紗門空海〜」での空海、「陰陽師」での安倍晴明は、知識や呪術的能力に関しては、相方である橘逸勢、源博雅よりも遥かに上です。
でも空海、晴明は、彼らの相棒に男惚れしていると言っていいでしょう。
彼らは能力や知識の高さゆえか、世から距離をとっているように見えますが、相棒たち(橘逸勢、源博雅)の目線、素直にものを見る目というのをとても信頼しているということがわかります。
というより世を見る目という点でいえば、空海、晴明は自分よりも相棒の方が上だと思っている節があります。
当然、橘逸勢、源博雅も彼らの相棒の能力、人柄をかっています。
夢枕獏氏の小説にでてくるそういう風にお互いに認め合っている人物同士の間の会話が、とても心地よい。
ただ酒を酌み交わしているだけの場面でも、二人の友人の間には何か通じているという感じが気持ちいい。
男だったらこういう友人が一人でも欲しいと思わせるのが、夢枕獏氏の小説にでてくる「よい漢」なんですよね。

夢枕獏作「陰陽師 付喪神ノ巻」の記事はこちら→

「陰陽師 飛天ノ巻」 夢枕獏著 文藝春秋 文庫 ISBN4-16-752804-5

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「ミシェル・ヴァイヨン」 車好きにはたまらない

リュック・ベンソン製作のレース映画です。
リュック・ベンソンといえば、「TAXi」なども作っていますが、やっぱり車が好きなんでしょうか。
僕も自動車映画は好きなんですよね。
観ていてやっぱりアドレナリンがブンブンでてきて興奮する感じが好きで。

この映画は「ル・マン24時間耐久レース」が舞台になっています。
ご存知の方も多いかと思いますが、「ル・マン24時間耐久レース」は毎年6月に実施される、文字通り24時間を3人のドライバーで走り続けるという過酷なレースです。
ドライバーの技量・体力ももちろんですが、車自体の性能、なかでも耐久性が要求されるレースです。
自動車メーカーはこのレースで培った耐久性能などを一般自動車に応用するための研究の場と考えていたりもします(もちろんブランド力向上やイメージアップなどもあります)。
またレース会場となるル・マン市サルテ・サーキットはほとんどが一般道です。
なかでもユノディエールという直線部分は全長6キロにも及びます(あまりに危険なので、途中に減速しなくてはいけないシケインが設けられました)

以前はテレビ朝日でル・マンは放送していたのですが、最近はなかなか中継してくれないので残念です。
91年にマツダが優勝したときは感動したんですけれど。
あまり一般受けしないんでしょうねえ。

前段が長くなりましたが、映画について。
映像はなかなか迫力ありました。
コントラストの強い色合い、そして構図も凝っていたりしたので、全体的にスタイリッシュな映像です。
車載カメラを多用しているので、臨場感溢れ、まるで自分でル・マンを走っているような気分になります。
僕はPSの「グランツーリスモ」をやりこんだくちなんですが、まさに「グランツーリスモ」の映画版といった感じがしました。
(ゲームにもサルテ・サーキットが入っているんですよねー)
ストーリーについては荒さもありますが、映像を楽しめればこちらはまあいいかという感じもあります。
悪役がとてもはっきりしているので、あまり考えず楽しめるかなと思います。
きれいな人がでているなと思ったらダイアン・クルーガーでした。
女性レーサーの役でしたが、凛々しくてかっこよかったですね。

車が好きな人にはたまらない映画でしょう。
あんまり関心がない人にとっては、どうでもいい映画でしょうね(笑)。

こちらも自動車映画「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」の記事はこちら→

ダイアン・クルーガー出演「敬愛なるベートーヴェン」の記事はこちら→

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2007年5月13日 (日)

本 「魔界都市ブルース 幻舞の章」

菊地秀行氏の「魔界都市シリーズ」の最新刊です。
僕は菊地氏の作品は高校生の頃から朝日ソノラマの「エイリアン」シリーズ、「吸血鬼ハンター」シリーズなどのファンでした。
「魔界都市」シリーズに関しては一時期HPも立ち上げてたことがありました。
「魔界都市」シリーズの魅力は主人公、秋せつらに代表されるキャラクターの魅力度、そして菊地氏によって生み出された魔界都市<新宿>の魅力です。
魔界都市には、古今東西のホラー、SF、おとぎ話、伝説などがごった煮のように詰め込まれています。
いわば「なんでもあり」の世界であって、映画好きと知られる菊地氏の趣味が全開となっているのが魅力です。

けれども作品数が多いことで有名な菊地氏ですが、多作の影響からか数年前からあまり作品が魅力的ではなくなってきているように思えました。
もともとその傾向がありましたが、特に長編は同じようなアイデアの使い回し、話の収拾がつかず破綻するようなこともしばしば感じました。

そして今回の作品は「魔界都市」シリーズの中でも久々の短編集。
最近の長編はスマッシュヒットがないのですが、短編には期待が高まります。
菊地氏もあとがきで書いていますが、主人公秋せつらが光って感じるのは、僕も短編の方だとおもいます。
「魔界都市ブルース」というシリーズ名がついているように、短編には何か悲しさを背負っている<新宿>の住民が登場してきます。
一応主人公は秋せつらではありますが、本当の主役は<新宿>という街であり、その<新宿>の住民たちなんですよね。
必ずしもハッピーエンドではない結末を迎えることもあるのですが、怪物たちが跋扈する<新宿>において住民たちになにか人間らしさを感じるシリーズです。

さて長くなりましたが、本作品の読後の感想は・・・。
正直言うと、新しさを感じなかったです。
菊地氏がもともと持っていたあふれるような想像力、そしてその暴走感を感じない。
こじんまりとまとまっている感じでしたね。
ちょっと残念な印象を持ちました。

「魔界都市ブルース 幻舞の章」 菊地秀行著 祥伝社 新書 ISBN978-4-396-20829-5

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「The 焼肉ムービー プルコギ」 仲良くなりたかったらまず飯をいっしょに食え

最近はめっきり「肉食いてえーッ」となることが少なくなりましたが、映画を観たら焼肉食べたくなりましたー。
赤肉派か白肉派かと言われれると、決めかねますねえ。
どっちも好きです、ハイ。
渋谷にある「ゆうじ」はとっても小さい店ですがホルモンのおいしさにこの店で目覚めました。
確か予約できなかったので、会社を早めにでて行った記憶が・・・。
あと三宿の「トラジ」(チェーン展開している「トラジ」とは別系)。
ここのハラミも初めて食べたときはあまりのおいしさにびっくりしました。
どちらも最近行ってないなあ。
登場人物のトラオ、タツジの名前、なんとなくこのあたりのお店からとっているのかもしれないなと思いました。

さて映画の方は、ストーリーはとてもベタな展開で、あまり新しさは感じません。
展開は読めますし、今更「料理の鉄人」ぽいのも、ね。
ただ安心しては観られる展開なので、あまり気合いを入れずとも楽しめる映画だとは思います。
「バベル」とかだと観る前に気合い入れないといけないですものね。
ただしお腹が減っている時に観るのは危険かも。
観ていると絶対焼肉食べたくなってきて映画に集中できなくなる可能性が・・・。
いわゆるシズル(食べ物の撮影)は観ていてとても上手に撮っているなあと思っていた(食品メーカー勤務なので気になるんです)のですが、グ監督はCM出身の方ですね。
食品のCMも手がけている方なので、なるほど上手なはずです。
松田龍平さんはいつものクールな感じとは違い、ちょっとヘタレた感じのあるタツジを好演していました。
山田優さんも「アキハバラ@DEEP」に引き続き、オトコ前な女の子がよく似合います。
長く綺麗な脚を惜しげもなく見せてくれるので、男性陣にはいい目の保養ですね。

じっちゃんが言っていた言葉、「仲良くなりたかったらまず飯をいっしょに食え」は真理ですよね。
仕事とかでも会議だけだとなかなかすぐには打ち解けられない。
ごはんをいっしょに食べ、飲んでいるとなんとなくその人と親しくなれる。
そういえば、自分も会社に入った頃、上司によく食事に連れて行ってもらいました。
焼肉とかもね。
細かい人で焼肉の焼く順とか、礼儀作法にうるさい人だったのですが、いろいろ会社だけでは教われないことをごはんを食べながら教わったような気もします。
実は明日は会社で新人くんの配属日。
さっそく新人くんを連れて焼肉でも食べにいこうかな。

山田優さん出演の映画「アキハバラ@DEEP」の記事はこちら→

こちらはフィンランドの食堂「かもめ食堂」の記事はこちら→

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2007年5月12日 (土)

「ハチミツとクローバー」 素直な恋ごころを忘れたくない

大学はデザイン系でした。
映画の中で描かれているように学内のそこかしこで、誰かが何か作っている様子は懐かしくもあり・・・。
けど工学部であったのためか普通の美大と違い、男ばっかりでしたね・・・。

「人が恋に落ちる瞬間を初めて見てしまった」
いい台詞です。
出てくる登場人物がみな、かわいらしくて愛おしい。

人は恋をすると、自然と笑みがこぼれてくる。
自然と好きな人のことばかりを見てしまう。
その人に会えると思うと、何か一日がとてもキラキラしているように感じる。
恋をしている相手が笑顔になってくれると、それだけでとても嬉しい。
自分がいっしょにいることで笑顔になってくれると、もっと嬉しい。
竹本くんがはぐちゃんに恋をし、彼女の笑顔や悩んでいる表情で一喜一憂する彼の様子がとてもかわいらしい。

好きな人には、好きな人がいる。
自分に振り向いて欲しい。
けれど好きな人はとても純粋に人を好きになっている。
あきらめなきゃいけない、けどやっぱり好き。
せつなくて、健気な山田さん(関めぐみさん)もとてもかわいらしい。

「僕は彼女のためにできることのあまりの少なさに愕然とした」
好きな人のために何かしてあげたい、好きであると自然とそういう気持ちになります。
相手は自分には特別な気持ちは持っていない。
相手を支えることはできない。
そんなとき、役に立てない自分のふがいなさに気づき、恥ずかしくて逃げ出したくもなる。
でもそれは相手をほんとに思っているから、そう思ってしまうもの。
できることだけでも何かやってあげたいという気持ちを持っている竹本くんがとてもかわいい。
はぐちゃんの筆を直してあげたりすること。
彼女は気づかないかもしれない。
気づかないかもしれないけれども、何かしたいというその気持ちが恋をするということなんですよね。
いつかは相手を支えられるようにありたいと思うこと、それが大事。

真山くんもはぐちゃんも、告白をされて「ありがとう」と言いますね。
とても良かった。
おつき合いしてくれないかもしれないけれど、相手が自分の気持ちを誠実に受け止めてくれたこと、それだけで救われます。

ほんと登場人物がみな素直な子たちで良かったですね。
生きているといつの間にか、恋することも何ごとも計算高くなってしまうものです。
でもこの映画を観て、純粋に人を好きになること、それはとても素敵なことだなあと思い出した気がします。
いつまでも素直な恋ごころを忘れたくないものです。

はぐみ役蒼井優さん出演の映画「フラガール」の記事はこちら→

他にも蒼井優さん関連では「蟲師」「鉄人28号」の記事があります。

加瀬亮さん主演の「それでもボクはやってない」の記事はこちら→

関めぐみさん主演の「恋は五・七・五!」の記事はこちら→

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本 「宇宙からの帰還」

立花隆氏の著作で、アポロ計画までの宇宙飛行士へのインタビューからまとめられたノンフィクションです。
地球を宇宙から実際に見たことがある人は、スペースシャトルの時代になっても限られた数しかいません。
確かに僕たちは宇宙から撮影された地球の写真などは何度も見ています。
けれどもやはり自分の目で地球を眺めた時、そこで受けるものはかなり大きいものがあるようです。
そのとき何を感じたか、その体験がその人のその後の人生にどう影響を与えたのかを追っているのが、この作品です。
宇宙飛行士を辞めたあと、その経験者はさまざまな転身を図っています。
政治家になった人、宗教家になった人、実業家になった人、また精神を病んでしまった人・・・。
宇宙での体験はそれぞれの方の人生に大きなインパクトを与えたようです(そんなものはなかったという方もいるということですが)。
そのなかでも比較的共通しているのが、地球というものの儚さ、唯一さみたいなものを感じた方が多かったようです。
宇宙空間はそれこそ生命というものが全く存在しない場所。
その中で唯一、地球だけが青々と生命を宿している。
けれどもそれは広大な宇宙に比べてとても儚く見える。
アポロ計画当時は冷戦まっただ中であり、中東やベトナムでも戦争があった時代です。
小さな地球でそこに暮らす人間同士の争いがとても小さく見える。
無意味に見える。
生命のない宇宙において地球が存在していること、そのことに感動を覚えるということです。
そこに神を見るという人もいました。
神は信じない人でも、その地球が存在していることにそれ自体に感情を揺さぶられるようです。
この本を読んでいて、先日読んだハイデガーの話を思い出しました。
<世界が存在すること>が存在することに驚く。
それを感じるのが存在神秘という体験。
ハイデガーが生きていて、宇宙船から地球を見たらどう思うのだろうと思いました。

「宇宙からの帰還」 立花隆著 中央公論 文庫 ISBN4-12-201232-5

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2007年5月 6日 (日)

本 「広告会社は変われるか」

仕事はメーカーで広告関係の業務をしているので、広告代理店の方ともよく仕事をします。
広告代理店という会社は、僕たちクライアントにとって強力なパートナーであることは間違いありません。
けれども油断ができないというのも正直思うところもあります。
このあたりの事情はそもそもの日本の広告代理店の成り立ちに帰するところがあります。
欧米の広告代理店は早くからAE(アカウント・エグゼクティブ)制を取り入れ、一業種一社が基本となっています。
欧米の広告代理店の「代理」とはクライアントの「代理」ということです。
日本の広告代理店は、電通を例にとっていうと、もともとは新聞の広告スペースをいかに売るかというところがスタートになっています。
つまり日本の広告代理店は媒体サイドの「代理」であるというニュアンスが強いのです。
電通でいうと歴代社長になるのは、新聞局(枠として持っている新聞の広告スペースを売る仕事)の出身者だというところからもわかるかと思います。
上に書いたように、頼りになるパートナーでありながらも、油断ができないというのはこのあたりにあります。
日本の広告代理店の大手はほとんどがAE制をとっていますが、いざとなるとクライアントサイドではなく媒体サイドに立つという危惧がクライアント側からみるとあるのです。

この本は電通総研をされていた藤原治氏が書いています。
思い切ったタイトルからすると何か問題提起をしているという期待があり、読んでみました。
けれども読んだ感想は、このままでは日本の代理店は変われないというものでした。
インターネットなど既存のメディア概念(いわゆる「枠」という思想)ではとらえられないというのを、危機感をもって書いています。
けれどもこれはスペースを販売している広告代理店としての危機感であり、逆にメーカーからすればチャンスなんですよね。
本の中で、広告主から広告代理店に対して要望を出している、料金の透明性の問題をとりあげていますが、著者はこの論議がまったくナンセンスだと書いています。
ナンセンスと断じるこの考え方がまさに広告代理店が変われない理由だと思います。
これからはインターネットが発達すればするほど、旧来のように広告スペースを買う必要がなくなります。
もちろん旧来メディアがなくなるわけではありません。
けれども確実に広告費における比率は下がるでしょう。
メーカーにとっては、お客さんと直接やり取りができる、お客さんの望みがわかる方法がそこにあるわけです。
今までのような一方的な流れではありません。
そのときのパートナーは旧来の広告代理店である必要がありません。
元広告代理店のエグゼクティブであった方なので、これでも思い切ったことを書いているつもりなのかもしれませんが、この程度のことでは広告は変わらない。
著者は広告代理店も変わらなくてはいけないというような趣旨を書いていますが、このレベルではたぶん広告代理店も生き残れない。
まだ、広告代理店の人たちはわかっていないのだなということを痛感した本でありました。

「広告会社は変われるか」 藤原治著 ダイヤモンド社 ハードカバー ISBN978-4-478-55021-2

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2007年5月 5日 (土)

本 「魔法探偵」

著者は日本ファンタジーノベル大賞優秀賞をとった方。
この賞をとる方は相性がいいので読んでみたのですが、まったくおもしろくない。
主人公の探偵が、不思議な事件に遭遇するという話の連作なのですが、そのあたりの不思議な事件というのが、どうも中途半端な感じがしました。
不思議な事件というのは幽的なものだったり、子供の頃の懐かしい時代に紛れ込んだりしてしまったりするようなもの。
著者がこの作品で不可思議さみたいのを追いたいのか、人情ものみたいのするのか、ユーモア小説にしたいのか、どうもよくわからない。
ジャンル分けすること自体はナンセンス(先日読んだ「ユグノーの呪い」などはジャンル分け関係なくおもしろい)なのですが、どうも著者の狙いがわからない。
そういう意味で中途半端な感じがしました。
描いている時代も現代だったとは途中で気づきました。
全般的に昭和レトロのような雰囲気なんですよね。
主人公の探偵のキャラクターも不鮮明でしたし。
妙に時代がかったしゃべり方(今時、○○ぢゃなんてしゃべり方しないですよね)も気になりました。
これがキャラクター形成に関係するならわかるけれども、そんなことはなかったですし。
終わり方もこれで終わりというような終わり方。
いくつかのエピソードの連作という体裁なので、ひとつのエピソードが終わったということなのかもしれないですが、こんなキャラクターだと、シリーズ化も見込めないです。
あわよくばシリーズ化などと思わず、その前にちゃんと小説としてしっかりとして欲しかった。

「魔法探偵」 南條竹則著 集英社 ハードカバー ISBN4-08-775343-3

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「バベル」 人はなんと不完全な生きものであろうか

「バベルの塔」のエピソードが出てくるのは、旧約聖書の創世記。
聖書によれば、人類はもともとは一つの言語を話していました。
けれども人は天まで届くような「バベルの塔」を築くことにより、人々が全地のおもてに散らないようにしたのです。
そのような人の所行を神は不遜とし、人々に違う言語を話させるようにしました。
人々は混乱し、やがて世界各地へ散っていったということです。
当然これは史実ではないのですが、人々が違う言語を話していることの聖書における解釈です。

映画「バベル」はある一つの事件を中心に、モロッコ、日本、メキシコで物語がパラレルに進行していきます。
モロッコで観光に来ていたアメリカ人の女性が、モロッコ人の少年が撃った銃弾に倒れる。
その銃弾を発射したライフルの元所有者は日本人。
負傷した女性の子供デビーとマイクは遠く離れたアメリカで、メキシコ人の乳母アメリアに付き添われ両親の帰りを待っている。
けれどもメキシコ人の乳母は、息子の結婚式に出席するため二人の子供を連れてメキシコに帰る。
一発の銃弾の衝撃が、世界各地に伝播していく。
いまだかつて人類が経験したことのないほどに世界は密接に繋がっている。

本作はディスコミュニケーションをテーマにしています。
聖書のバベルのエピソードにもある、言葉の壁。
全く異なる言葉を話す人々、違う文化の人々に囲まれている時の不安感。
妻スーザンが瀕死の重傷を負った時のリチャードの焦燥。
違う言葉を話す人々に対して、人間は無意識に警戒感がわいてくる。
アメリカーメキシコの国境で、憎まれ口をたたいたために国境警備隊員に目をつけられるサンチャゴ。
警備隊員ははなからサンチャゴを怪しいと見ているスタンスでした。
異なる言葉を話す人々の間にはディスコミュニケーションが発生してしまう。

けれどもディスコミュニケーションの原因は言葉だけに帰することはできない。
リチャードとスーザンの間には、次男の死によって溝ができてしまっている。
自分のせいじゃない、でも自分を責めてしまっている悩むスーザン(精神安定剤のようなものを服用していました)、リチャードは救わず、自分だけその辛い状況を逃げ出してしまう。
妻の自殺、そして周囲の自分への疑いで疲れきっているヤスジロー、母親の自殺の現場を見てしまった娘のチエコの間にもわだかまりがあります。
チエコは唖であり、普段生活していても周りの人々から奇異の目で見られてしまう。
それに対して怒りといらだたしさをチエコは感じる。
モロッコにおいても、おもしろ半分にバスを銃撃してしまう兄弟、この幼いふたりであっても価値観において差があり、それは父親との間にもあります。
同じ言葉を話す人々の間でもディスコミュニケーションは起こる。
「バベルの塔」のエピソードで神が言葉を分かたたなくても、人々はいつかはバラバラになってしまったのかもしれません。

人とは自分の勝手を通してしまう自己中心的な生きものなのかもしれません。
同じバスに乗り合わせた人々はスーザンが死ぬかもしれない状況においても、自分たちは危険な場所から立ち去りたいと主張します。
スーザンを撃ったユセフは、自分の行ってしまったことを隠すため警官にウソをつきます。
アメリアは自分の息子の結婚式に出席するために、不安がありつつも幼いデビーとマイクを、彼らの両親が大変なメキシコに連れて行きます。
リチャードも妻が大変な状況ということがあるため、アメリアが息子の結婚式だということはわかっていても、彼女に子供たちの面倒を強要します。
リチャードは妻を助けにきたヘリに搭乗する時、それまで懸命に世話をしてくれていたモロッコ人のガイドに金を渡そうとします。
彼はガイドがお金のために助けてくれたと思ったのでしょうか、それともせめてものお礼のつもりだったのでしょうか。

けれども人は人との繋がりを欲し、人を愛する生きものでもあります。
チエコは言葉が話せないそのもどかしさ、人と繋がりを持ちたいという気持ちを肉体で伝えようとします。
彼女にとっては言葉(声)はコミュニケーションツールになりえない。
人と繋がっていたい。
彼女は肉体を通じてしか、気持ちを伝えられない。
ユセフが最後に銃をとったのも、自分を守るというより、親と兄を守るという気持ちの表現でしょう。
アメリアは砂漠で迷ったときも、自分の子供にようにデビーとマイクを守ります。

人はなんと不完全な生きものであろうか。
人は他人の気持ちが全くわかる生きものではない。
人は勝手な生きものである。
でも、人は人を愛して、人と繋がっていたいと思う生きものでもある。

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「アキハバラ@DEEP」 ストーリーより小ネタに目がいってしまう

ネットで知り合った5人組が、画期的なサーチエンジンプログラムを開発した。
そしてその価値を見抜いたネット業界の最王手デジタル・キャピタル社にそのプログラムを奪われてしまう。
そして5人組はそのプログラム、そして自分たちの誇りと自由を取り戻すため、デジキャピへの侵入作戦を計画する。
といったようなストーリーでした。
見終わったらもうすこし爽快感を味わえるかなと思っていたのですが、それほどではなかったですね。
途中に挟み込まれていた、ペットの少女のエピソードや拷問シーンなどがどうも不快感があったからかもしれません。
金と力を持つ大企業に対して、何ももっていない5人組がいかに知恵をしぼって闘うかというところが見物かと期待していたのですが、どちらかというと行き当たりばったりでしたね。
もうちょいキャラクターに感情移入できればよかったのでしょうけど。
ロバート・レッドフォード主演で「スニッカーズ」(チョコじゃないよ)という映画がありますが、こちらはけっこう好きな映画だったので、そんな感じになるかと思ったらそうでもなかった。

あとはアトランダムに気になった点を・・・。

ところどころガンダムの小ネタが出ていたので、ファーストガンダム世代としてはクスっと笑ってしまいました。
デジキャピの警報音は、ホワイトベースと同じでしたね。
最後の戦闘服に装着されているスティック型のスタンガンは、ビームサーベルのよう。
最後はジェット・ストーリーム・アタックでしたからね。
「俺を踏み台にした!」を是非言って欲しかったところです。

山田優さんのキックがきれいでびっくりしました(パンチはそれほどではなかったですが、やや猫パンチ気味)。
スッと足が伸びていて、それにけっこう蹴り上げの速度が速い。
足が長いのでかっこよく決まります。
なかなかやりますねー。
最近さぼり気味のジムでの格闘技エクササイズ、やりたくなってきました。

ネットの海云々の話は劇中でページが言っていたように誰も所有できないという話はその通りですよね。
僕は仕事がメーカーで広告担当なのですが、大手広告代理店がやはりそのあたりをわかっていないということを日頃感じます。
旧来メディアのスペース販売というところからどうも脱しきれていない。
ネットはそれじゃダメだということを早くわからないと!

秋葉原、最近行っていないですねー。
10年くらい前は家電量販店もそれほどなかったので、安い電気製品を買うために行きましたが、最近はどこでも買えるし。
そういえば初めてMacを買ったのは秋葉原でした。
PowerMac7500という機種でしたが、しめて70万(!)。
当時のハードディスクは1Gでした。
それでもスゴい!と思ったんですよ。
今ではメモリースティックよりも少ないですが・・・。

今回のレビューはどうも散漫でしたね。
作品自体にあまり入り込めなかったので、小ネタ目がいってしまい・・・。
ご勘弁を。

山田優さん出演の映画「The 焼肉ムービー プルコギ」の記事はこちら→

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2007年5月 4日 (金)

本 「ユグノーの呪い」

タイトルにあるユグノーとは、フランスでのプロテスタントの呼び名です。
サン・バルテルミーの虐殺という事件が、歴史の教科書でもでてきますが、これはカトリック側当時フランス国内で増えてきていたプロテスタント(ユグノー)を大量虐殺した事件です。
この事件が、この小説のストーリーにも関係してきます。
と書くと歴史ミステリーのように思えますが、この小説はまったく違う。
読み始めるとヴァーチャル記憶空間、ヴァーチャル療法士などSF的な言葉がでてきます。
この小説ではヴァーチャル療法士という職業があります。
脳の記憶をまるごとコピーする可能な技術がこの小説の中では開発されています。
ヴァーチャル療法士は、患者の記憶がコピーされた仮想空間に、自身もヴァーチャル化して入り、その世界に存在しているトラウマの原因を取り除いて治癒させる職業です。
ヴァーチャル記憶空間は患者の記憶が作り上げた夢に表れてくるような空間です。
そこではトラウマは人格化されていて、治癒させるためにはその人格を説得しなくてはいけない。
そしてその人格までたどり着くまでにいくつかの検閲という関門がある。
検閲が提示する謎を解くか、検閲自体を打ち破らなくては最終の人格にはたどりつけない。
このあたりは巻末の解説でも書いてありましたが、RPG的な要素もありますね。
この小説にでてくる患者のヴァーチャル記憶空間では、現代東京と16世紀のパリが渾然一体となって存在している。
夢の中でみる景色が不条理であっても、なぜかつながっていると納得してしまうように。
患者の記憶空間では、歴史事実とは異なりユグノー側がカトリック側を殺害している。
それは何故か。
患者は何故見たことのないはずの16世紀パリを記憶として持つのか。
この辺りがミステリーの中心になります。
今まで書いたようなことからすると、この小説は歴史ミステリーとも、SFミステリーとも、心理ミステリーとも思えます。
そのどれでもないのかもしれません。
読んでいけばいくほど、そんなジャンル分けなど関係なくなるほどに引き込まれていきます。
決して読みにくい小説ではないので、読み始めれば一気にやめられずに読んでしまうような小説です。

「ユグノーの呪い」 新井政彦著 光文社 文庫 ISBN978-4-334-74214-0

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「ゲゲゲの鬼太郎」 松竹さん、子供向けだと思ってバカにしてない?

予告を観たときからヤバいかなーと思っていたのですが、観に行ってきてしまいました・・・。
ほら、コワいものみたさってあるじゃないですかー。
ブログのネタにもいいかなって(動機が不純だ)。

そんなことで観てきたのですが、やはり予想通りの出来映えでした。
まずは特撮シーンが、今時の映画とは思えないほどのレベルの低さ。
質的には毎週放映している東映の特撮番組の方がよほどレベルが高い。
それに今時CG使えばいいというものではないというのが、わかっていないのではないでしょうか。
ようは想像力を広げ今までに観たことのないような映像を作るときに、手段としてCGを使うんですよね。
CGさえ使えばという発想は、手段が目的化しているように思えます。
カットの作り方などは凝ったところもなく、ほんとうに安易でした。
先日「スパイダーマン3」で見たことのない映像を作ろうとする制作者のこだわりに感心したのですが、それに比べると観ているこちらが恥ずかしいくらいのアイデアのなさでした。
着ぐるみで再現している妖怪もいましたが、これはこれでちゃちい。
こちらも「仮面ライダー」の方がよほどレベルが高いです。
特撮ものが少ない松竹だからか、映像の質的なもの、独創性といったところで相当マイナスポイントでした。
(ある本を読んでいたら、東映も「ゲゲゲの鬼太郎」の映画化を企画していたと書いてありました。
そちらが実現したらどんな作品になっていたのでしょう?)

ストーリーは子供向けでわかりやすい。
逆に言うと大人にはまったくもの足りない。
子供向けと言っても現代の子供は相当レベルが高いので、こんなありきたりなストーリーで満足できるのでしょうか。
鬼太郎に絡んでくる少年がいるのですが、昔ながらの子役のようなベタな演技で興ざめです。
最近は子役でも演技が達者な子がいるだろうに、なんでこんな風にしてしまったのでしょうか。
どうも作り手側に子供向けの映画はこんなものというステレオタイプな見方があったのではないでしょうか。
ウェンツ瑛士さん、どうも鬼太郎に似合わなかったですね。
あの銀髪カツラがどうも。
鬼太郎がハリセンボンを発射してハゲになってしまうギャグも笑いどころなのでしょうが、今時らしからぬ古いギャグで全く笑えず・・・。

悪い点ばかりというのもなんなんで、良かった点を。
まずはねずみ男の大泉洋さん。
ねずみ男のこすっからしい感じがよくでていたと思います。
全体的に笑いがすべっていた作品でしたが、大泉さんの小技ギャグだけは笑わせていただきました。
あと収穫は井上真央さん。
この方はほとんど初めて観たのですが、かわいいですねー。
演技もきちんとしていましたし。
最後はお話に飽きてしまったので、彼女だけを観てました(笑)。

全般的に何か古くさーい一昔前の子供向け映画の感じがする映画でした。
どうも作り手が子供向け映画だからこんなもんって勝手に決めているような安易さを感じてしまって。
最近観た「ナイト ミュージアム」などは子供向けであってもとても丁寧に作っていたのに比べると、なんだか・・・。
実写版の「鉄人28号」もこんな感じだったなあ。
と思って調べてみたら、「鉄人28号」も松竹でした。
だめだなあ、松竹。

続編「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」の記事はこちら→

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2007年5月 3日 (木)

「渋谷区円山町」 「好き」というその素直な気持ち

「僕は妹に恋をする」と同じく榮倉奈々さん目当てで観に行ったのですが、映画が終わったと思ったら、すぐに別の物語が進行し始めて、びっくり。
この映画、別々の物語が渋谷を舞台に進む二部構成だったんですね。
観るまで知らなかったので、少々面食らいました。
ポスターとかは榮倉さんだけだったような気がしたんだけど。
第一部が榮倉奈々さん主演。
第二部が仲里依紗さん、原裕美子さん主演でした。
仲里さんは昨年公開のアニメ「時をかける少女」の真琴の声を担当していた方です。
原裕美子さんはモデルの方らしいですね。
榮倉さんもモデル出身ですが、この二人さすがに手足が長い。
というよりほんとに日本人かと思うくらい。
僕らの世代とは食べているものが異なるに違いない。

渋谷区円山町とは東京在住の方は知っているかと思いますが、ラブホテルが立ち並んでいるエリアですね。
映画の中でもでてますが、109とか東急のすぐ脇にある場所です。

第一部は。
榮倉奈々さん演じる由紀江が、新しく赴任してきた教師に恋をするという話。
ある日、由紀江は休日に渋谷に出かけたときに、担任教師(あだ名がヤマケン)が恋人とラブホに入るのを目撃してします。
普段学校では冴えないヤマケンに、オトナの男性を感じてしまい由紀江は恋をしてしまいます。
由紀江は自分の気持ちにストレートな女の子。
相手が好きになったらはっきりと「好き」と言ってしまう子。
10代の女の子だけが持つ、素直さとわがままさ。
相手が担任教師でも、「好き」という気持ちを隠さない。
由紀江は本当にヤマケンが好きなのか、恋に恋する乙女なのか。
ヤマケンじゃなくても「お前はオトナに憧れているだけだ」と言いたくなりますが、10代の少女にとってはそんなこともどうでもいいこと。
理屈なんてなくて、好きだって思ったんだから、好きなの!というある意味純粋な気持ち。
「好きになったら、もっといろいろなこと知りたい」
ヤマケンが海が好きだというのを気づき、彼に海の写真集をプレゼントするくだりはけっこう好きな場面でした。
大人でもなく子供でもないというのは、言い古された陳腐な言葉ですが、そんな感じを榮倉奈々さんがよくだしててました。
ちょっと舌足らずで子供っぽいしゃべり方と、すらりと背が高い容姿がそんなアンバランス感を出しているのかもしれません。
あと僕が興味深く見れたのは、ヤマケン。
設定は25歳という年齢。
高校生の由紀江から見たら十分「オジサン」なのですが、自分もその年齢を通過してみるとまだまだ大人になりきれない年ですよね。
教師ですが、何かしゃべり方はまだ若者っぽい感じ。
けれども、由紀江に「ラブホにいっしょに行きたい」と迫られても、教師として「お前、なに言ってんだ」という感じで大人らしく説教したりもします。
ある種、子供をあしらっている感じでした。
元恋人がホテルに入るところを目撃してしまったとき、ヤマケンも大人としての冷静な気持ちはなくなり、由紀江の前で感情を爆発させてしまいます。
そんなところが、由紀江とはちょっと違いますが、彼も大人と子供の間という感じが出ていたと思いました。

第二部は。
東京からちょっと離れた高校に通う女の子、糸井と有吉。
糸井は他の子たちから嫌われることがイヤで、周りからいじわるされながらもニコニコと愛想良くしている女の子。
有吉は、周りの子たちとは群れずに一歩距離を置いている女の子。
有吉はいつも媚びているような糸井がいらだたしい。
けれども気になる。
自分も前にいじめられていたから。
糸井は、周りから離れ自分を持っている有吉をカッコいいと思う。
二人とも、それぞれ笑顔だったり、仏頂面だったりという仮面をつけて周りになんとか対応している。
自分のほんとの気持ちをだしていない子。
そういう点では一部の由紀江とは対称的な女の子たちかもしれません。
たぶんお互いに同じようなにおいを感じたんだろう、二人はいつしか友達になっていく。
二人で過ごした渋谷の夜の二日間、糸井は有吉の胸で泣き、泣く有吉を糸井が抱きしめる。
二人とも今まで出したことのないほんとの気持ちを表すことができた。
そしてお互いを大切に好きと思えるようになった。

年上の教師に恋する女の子。
周囲から孤立し、惹かれていく二人の女の子。
テーマとしては使い古された感もあるものですが、女性監督らしくなにか「好き」ということ、その気持ちというのが素直に表れていたような気がします。

榮倉奈々さん主演「檸檬のころ」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「阿波DANCE」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「僕は妹に恋をする」の記事はこちら→

榮倉奈々さん出演ドラマ「ダンドリ。」の記事はこちら→

仲里依紗さんが声で出演している「時をかける少女」の記事はこちら→

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「ロッキー・ザ・ファイナル」 原点回帰、やや食い足りない

あのロッキーが帰ってきた!
「ロッキー」が劇場公開したのは1976年、もう30年も前なんですねー。
たぶん初めて観たのはテレビだったと思います。
男の子なので、やはりこういうドラマには素直に感激してしたのを覚えています。
そういう記憶があるからか、あのロッキーのテーマが流れてくると、条件反射的にファイトが湧いてくる感じがします。
(今でも仕事でプレゼンがある日とか、通勤時間にiPodでロッキーのテーマを聞いたりします)
1、2、3まではとても好きな作品でした。
けれども、4、5は・・・。
4はいつの間にロッキーはランボーになったんだ?と思ったりしましたし、5を観た時はこんなのロッキーじゃないと怒ったりしたものでした。

そういう意味で今回の「ザ・ファイナル」は期待半分、警戒半分の気持ちで観に行きました。
全体的な作品の雰囲気は1、2に近い感じでしたね。
原点回帰ということでしょうか。
ロッキーのキャラクターも3、4、5から1、2に戻った感じ。
彼の本来の性格、洗練されていない朴訥さが戻ってました。
イタリア系アメリカ人らしく家族や仲間を愛していて、ちょっと強引だったりするところがこの男らしい。
周りの人もその不器用さがわかったりするので、みんな彼をいとおしく思うんですよね。
ストーリーはほぼ予想通りの展開。
ストーリーの進行は1、2の焼き直しのような感じもありました。
現状に満足できない自分→挑戦する決意→練習→試合という展開。
そういう意味で新鮮味は感じなかったです。
そこが「ロッキー」らしいというところなのかもしれないですが。
加えられた要素としては、彼の年齢に関すること。
肉体は老いる、けれども心は老いない。
挑戦しようという心があれば、いつまでも老いないというメッセージでしょうか。
このあたりは、そうだろうなーと思うけど、強い感動まではいかなかったです。
同じメッセージだったら、「世界最速のインディアン」の方が心に響いた感じがしました。
若いチャンピオンのキャラクターをもう少し深く描けば、対比でロッキーの姿勢がより明確になったような気がします。
劇場を出るとき、他の男性のお客さん(僕より10〜15歳くらい上の男性)が「感動した」と話しているのが聞こえましたが、ちょっと上くらいの年代の方のほうが共感性が高いのかもしれません。
まだ自分は老いるという感覚はまだないんですよね。

ちゃんとロッキーの家には亀がいましたね。
エイドリアンの店で買った亀かな・・・。
まさか30年も生きているとは思えないけど。

あと良かったのはエンディング・ロールのフィラデルフィア美術館の前の階段でみんながロッキーのマネをしているところ。
僕もあそこ行ったら、絶対同じことをするだろうなあ。
それだけみんなの記憶、心に残るシリーズではあるなと思いました。

シルベスター・スタローン監督作品「ランボー 最後の戦場」の記事はこちら→

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「サンシャイン 2057」 圧倒的な力を前に人は何を見るか

SF小説は好きなのでよく読みますが、その中でも好きなのはハードSFというジャンル。
Wikipediaによると、ハードSFというのは「科学性の極めて強い、換言すれば科学的知見および科学的論理をテーマの主眼に置いたSF作品を指す」とあります。
映画においてはSFというと、舞台が宇宙で、活劇があって、といった「スター・ウォーズ」の影響が強いスペース・オペラ(活劇)のイメージが強いですよね。
どちらかというと科学的裏付けなんてあまりないような冒険活劇ですね(これはこれで好きですが)。
そういう中では珍しく「サンシャイン 2057」はハードSF的なエッセンスが詰まった映画でした。

まずは宇宙船のデザインがまさにハードSFでした。
太陽に近づいていくため、花弁のような巨大なシールドを展開していく宇宙船。
巨大なシールドにより太陽の影響(電磁波等)を防いでいるのでしょう。
決して格好のいいデザインではない。
けれども理にかなっている。
スペース・オペラにでてくるようなただカッコいいだけのデザインでないところがSF好きには好感度大でした。
映像に関しても重厚で、最近のスピード感はあるけれども軽い感じのSF風映画とは一線を画します。
宇宙はあくまで静かで冷たい。
「2001年宇宙の旅」の宇宙空間のシーンに似たものを感じました。
劇中、宇宙服なしで宇宙船から宇宙船へ渡るシーンがあります。
宇宙というとでたらすぐ死んじゃうイメージがありますが、実はそうではないんです。
短い時間であるならば、可能なんですよね(当然息は続く間でないとダメですが)。
劇中であるように極低温の影響や、宇宙線の影響もあるので全く安全ではないのですが、可能は可能です。
前に読んだSF小説(何の作品か忘れましたが)、でやはりそのようなシーンがあったのを思い出しました。

さて映画の内容について。
近い未来、太陽は次第にその力を減じていきます。
そのため地球は冷え始め、人類は滅亡の危機を迎えます。
人類は起死回生の策として、太陽内部で核爆発を起こし、それをきっかけとして太陽を再活性化しようと計画します。
それで派遣されたのが、イカロス2号の乗組員たち。
けれどもミッション遂行の時期が近づくにつれ、乗組員は任務の重み、孤独に苛まれます。
選ばれたエリートといえど、いら立ち、逃避などが目立ち始め、次第にきしみを生じていきます。
そのあたりの逼迫感はよくでていたと思います。
自分の行動に人類の未来がかかっているという状態に極限まで追い込まれる。
そしてそういう状況にたたされた人間の前に、近づいていくため次第に大きくなっていく太陽が見える。
太陽は衰え始めたとはいえ、曝されれば人間は一瞬のうちに燃えてなくなる。
すべては灰になる、圧倒的な力を持っています。
太陽はそもそも地球に生命を芽生えさせ、育てた力。
太陽の活動がほんの少し変化しただけで人間は滅亡してしまう。
そんなパワーを目の前にした時、人間は何を思うのか。
そこに神を見るのか。
人間の無力さ、この世の無常さを感じるのか。
艦長のカネダが太陽に焼かれ死ぬとき、精神科医のサールは無線で「何が見えるのか」と問います。
カネダはそこに何を見たのでしょうか。
そしてサールも死ぬとき何を見たのでしょうか。
人間ははかない。
宇宙の大きさに比べると紙のように薄い隔壁をでただけで死んでしまう。
太陽のエネルギーの数パーセントをあびただけで死んでしまう。
なんともろいものなのか。
登場人物たちは死すとき何を思ったのか。
最もそのような無力さを感じていなかったのはキャパ、メイス、キャシーだったような気がします。
彼らが若かったということが大きいのかもしれません。
無力さを感じるにはまだ若かった。
自分の力を信じられるほど若かった。
年長の他のメンバーは太陽の圧倒的な力を前に、己の無力さを悟ってしまったのでしょう。
キャパたちは悟らなかった。
最後まであがいたという感じがしました。

後半でてくるホラー風味の登場人物はいかがなものかと思いました。
別にあんな外見にしなくてもいいのに。
あの姿によってそこらへんにあるスリラー映画のように見えてしまったのが惜しい。
全編ハードな設定で押すと一般客がついてこないのはわかりますが、このあたりは中途半端感がありました。

ダニー・ボイル監督「スラムドッグ$ミリオネア」の記事はこちら→

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2007年5月 1日 (火)

本 「ハイデガー=存在神秘の哲学」

懲りずにまた難しい本にチャレンジ。
ハイデガーは京極夏彦氏の小説「陰摩羅鬼の瑕」でもちょっと触れていて、いつか関連図書を読んでみようと思っていました。
とは言ってもハイデガーの解説の本なので、本人の著書よりは何倍も簡単でしょう。
と思って読み始めたら、やっぱり手強かった・・・。

こんな僕がハイデガーの解説などできるわけもなく、感じたことを。
ものが存在すること、それは何故と考えると不思議になります。
人間は何故存在するのか、存在しなくなったらどうなるのか(死んじゃったらどうなるのか)、子供の頃、布団の中でそんなこと考えたら恐くて眠れなくなっちゃったのを思い出しました(へんな子供だったな)。
でもたぶん人類が知恵をもってから、そういうことを考える人は何人もいて、だから宗教とか哲学とかが生まれたんですよね。
キリスト教など多くの宗教はこの世は神が作ったと言います。
けれどもハイデガーはそれを否定します。
この世界が存在するのは、神によるものだとすると、その神は何によって存在するのか?
神が存在する理由を求めると、さらに高次の存在が欲しくなる。
これは循環論法ではないか。
そもそも問いが間違っているのではないか。
世界が存在すること、それに理由はない。
<世界が存在するということ>が存在することが驚異的なこと。
ここはちょっと面食らいましたが、なんとなく感覚的にはわかる。
超越的な存在がこの世界を作ったのではなく、ただ存在することそれが驚き。

西洋の神は二元論でわかりやすくはあるのですが、ある種予定調和的な簡単さを感じます。
存在すること自体を神に帰するのはわかりやすいが、なにかしっくりこない。
この本ではわかりやすいいい例をだしていました。
音は在るのにない。
音は発せられるときは確かに在る。
けれどもすぐに消える。
発しながらすぐ無くなる。
これが存在。
わかるようなわからないような、でもなんかわかる。
ハイデガーの思想は、仏教の思想にも通じる感じがありました。
日本人だから少しなじみやすいのかもしれません。

とつらつらと感じたことだけを書いてしまいました。
やっぱり哲学の本は難しい。
けれどおもしろい。

「ハイデガー=存在神秘の哲学」 古東哲明著 講談社 新書 ISBN4-06-149600-X

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「ラン・ローラ・ラン」 あがく力

「パフューム ある人殺しの物語」のトム・ティクヴァ監督作品です。
公開時劇場で観ましたが、久しぶりにDVDで観賞しました。

なかなか解釈しにくい映画です。
夢なのか現実なのか、はたまたパラレルワールドの話なのか。
そんな説明はいっさいなし。
でも面白くないわけでもない。
いや、面白いというのとも違うかもしれないです。
理屈抜きに何かを感じたということかもしれません。

全編ローラは力強く走る、走る、走る。
いわゆる女の子走りじゃない。
大きく手を振って、大きいストライドで。
繰り返し、繰り返し走り続ける。
恋人は絶対に死なせない。
救ってみせる。
そこにローラの強い意志の力を感じます。
気に入らない展開も、時の流れも、強い意志と思いの力があれば、もしかするとひっくり返すことができるかもしれない。
そんなことできるわけないとあきらめない。
流れゆく状況に身をまかせない。
あきらめない。
とことんあがいてみる。
そうすれば変えることができるかもしれない。
何もしなくては変わらない。

「どうしよう・・・」と三回目のターンでローラは走りながらつぶやきました。
彼女に何か状況を解決する妙策があるわけではない。
でも彼女は走り続ける。
ただ走るしかなくても、立ち止まらない。
まずはそこから。
そんなあがく力をローラに感じました。

トム・ティクヴァ監督作品「パヒューム ある人殺しの物語」の記事はこちら→

トム・ティクヴァ監督作品「ザ・バンク -堕ちた巨像-」の記事はこちら→

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「スパイダーマン3」 慢心、自己嫌悪、そして許し

待ちに待った「スパイダーマン3」、初日の初回を観に行ってきました。
しかも映画の日だったので、お安く(笑)。
期待に違わず、三作目も良い出来でした。
一般的にシリーズ物は三作目ともなると、やりつくし感がでていてダレたりするものなのですが、さすがサム・ライミ監督、そんなことはなかったですね。
オープニングからして相変わらずカッコいい。
2時間越えの作品でしたが、要所要所でアクションの見せ所を作って飽きさせないのはなかなかのもの。
映像的には、今までもあった摩天楼を縦横無尽に飛び回るスパイダーマンのアクションはさらに磨きがかかっていました。
今回は上下にカメラが動く場面が多く、まるで自分がスパイダーマンになったかのように飛んでいるような感じになりました。

僕がスパイダーマンシリーズが好きなのは、主人公のピーター・パーカーの成長物語であるという点。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う」
一作目でベン叔父が、ピーターに言った言葉です。
まるでさえなかった青年ピーターは、ある日偶然から自分に特別な力が備わったことを知ります。
周囲の人々に対する劣等感から、圧倒的な力を手に入れた青年。
その力に浮かれ、それを自分のことにのみ使おうとしたピーターへ尊敬する叔父が言ったのが先の言葉です。
力を手に入れたものへの戒めとも言える言葉です。
それをピーターは胸に秘め、スパイダーマンとして人々を救おうと決心するのです。

そして第三作目。
人々を救い続けるスパイダーマン=ピーターはNYの人々のヒーローとなり賞賛されています。
また学生の頃から憧れていたMJの心もとらえたピーターは幸せの絶頂でした。
けれどもその幸せ、そして自信によって、ピーターはすこしずつ間違った考え方に流れていきます。

MJはブロードウェイの主演作を酷評され、舞台を下ろされてしまいます。
そんなMJにピーターは
「そんな批評など気にすることなどないよ、僕は君はすばらしいと思う」
と言います。
一見、やさしい言葉に聞こえます。
ピーターもやさしく接しなくてはいけないと思って言った言葉でしょう。
けれどもこの時のMJにとってこの言葉はやさしくはなかった。
彼女にとって、この言葉は高みから見下ろされ哀れまれているように聞こえたでしょう。
彼女が舞台に対して持っている本気の思いというものを、ピーターがほんとうにわかっていないように思えたのでしょう。
賞賛され、そして自分以外の女の子にも関心が持たれているピーターに対する嫉妬もあったでしょう。
それをピーターはわからなかった。
自分の自信が、いつしか慢心に変わっていることも。
そしてその慢心に寄生生物が取り憑いてしまうのです。
慢心は、他の人を愚かに感じさせる。
自分が一番だと思い込ませる。
若い頃、そこそこ自信が出てきた時に誰もが経験する気持ちでしょう。
その自分の慢心に気づくことができるかできないか、人間が大きくなれるかなれないか、ここにかかっています。
日本の「スパイダーマン3」の宣伝コピーは「「自分」に挑め」。
まさに自分自身の中にある慢心(黒スパイディ)への気づきを言い表しているように思えました。

慢心を乗り越えたとき、今度襲いかかってくるのは、自己嫌悪。
慢心していたときの自分が、どうにも恥ずかしく、そして傷つけた人への申し訳なさ、そして自信喪失によって消えてしまいほどになります。
雨に打たれる黒スパイディの姿はそれを象徴していたように思えました。
けれどもそれも越えなくてはいけない。
メイ叔母が劇中で言っていました。
「まずは自分を許すこと」
慢心し、自己嫌悪した自分自身をありのままに許し愛すること。
自分自身を認めてあげること。
そうすれば広い心を持ち、他人を許せる。
ピーターとハリーはお互いに許し、許されます。
彼らは本当の友人になりました。
叔父を殺してしまった犯人をも許します。
恨みは何も生み出さないから。

ピーターは三作品を通じては確実に成長しました。
そしてその成長物語は若かりしとき誰もが経験する道だったりします。
それが僕がこのシリーズにとても共感し、好きな理由なのかもしれません。

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