「クィーン」 ペルソナを演じ続ける孤独
エリザベス二世を演じるヘレン・ミレンがアカデミー主演女優賞を受賞した作品です。
ダイアナ妃がパリの自動車事故で亡くなってから一週間の英国ロイヤルファミリーを描いています。
とは言ってもダイアナ妃の自己の謎を解くとか、パパラッチの問題を浮き彫りにするとかいう内容でもありません。
それどころか女王がダイアナ妃に対してどのような感情を持っていたかという点も深くは描いていません。
事故が起こってからの一般市民の反応、ロイヤルファミリーの動向、ブレア首相の対応などを淡々と順繰りに描いていきます。
この淡々さが少々眠気を誘うもあり、もう少し中盤盛り上がりが欲しかったように思いました。
予告を観た時の印象はもっとサスペンスっぽい感じもあるのかなと思っていたので、やや面食らった感じもありました。
けれども観ているうちに、この作品が描きたかったのはダイアナ妃にまつわる事件ではないというふうに思いました。
ある役割を担わなくてはいけなかった一人の女性を描きたかったのだと思いました。
ちょうど今、哲学関係の本を読んでいるのですが、その中で「ダブルなわたし」という言葉が出てきました。
シェイクスピアの言葉に「世界は劇場。人生は演劇。人間は役者」という言葉があります。
詳しくは書きませんが(というよりまだはっきりと理解しきれていない)、僕たちが生きているこの世界を劇場に見立ててとらえる考え方です。
そこにおいて人間は役者としております。
けれども人間は役柄としての自分、役柄を演じている自分という二面性(ダブルなわたし)を持っているわけです。
実は普通に生きている時は役柄としての自分として生きていること、そしてそれが本当の自分であると思う傾向が強いはずです。
会社員としての自分、母親としての自分といったように。
けれども時折、役柄を演じている本当の自分が顔を出す局面があります。
そのとき人は「ダブルなわたし」の存在の差に不安を感じるものです。
というより常々感じてはいるのでしょうけれども、それを感じないようになっているのです。
さて余談が多くなりましたが、この作品のエリザベス女王は、女王としての役柄としてのみ徹底的に生きていたのだと思いました。
幼い時に、女王として生きなくてはいけない立場となってずっとそれを演じ続けてきた。
彼女の発言はすべて女王としての立場としての発言です。
エリザベス個人としての発言は、夫や息子などに対するプライベートにおいてもほとんどありません。
常に女王としての仮面(ペルソナ)をつけて生きてきた。
というより生きざるを得なかったということだったのでしょう。
ダイアナ妃の葬儀のために、ロンドンに彼女が戻ってきたとき、彼女は宮殿の前に山のように積まれた花を見ます。
ダイアナのために国民が手向けた花々でした。
そこには「ダイアナを殺したのはあなたたちだ」と書いてあるメッセージもありました。
エリザベスはずっと国民のために女王としての役割を果たすため、女王としての立場で発言してきました。
自分自身を殺してまでも。
けれどもそれは国民には伝わらない、そして彼女本来の自身を非難されるように言われる。
花束を見つめる彼女の顔には、悲しみが浮かんでいました。
けれども彼女は国民に振り返る時は、顔に笑みを浮かべます。
女王として振る舞わなくてはならないから。
それはとても孤独なことなのでしょう。
そのように彼女は生きてきたし、これからも生きていかなくてはいけないのです。
映画の中のブレアは女王のその気持ちを唯一理解したと思われる人物。
それもわかっている女王は、それでも彼の前でもやはりペルソナを外そうとはしません。
それを背負っていかなくてはいけない覚悟と悲しさを感じました。
そういう意味で、ヘレン・ミレンの演技は賞に値するものだったと思います。
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