« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月30日 (月)

「クィーン」 ペルソナを演じ続ける孤独

エリザベス二世を演じるヘレン・ミレンがアカデミー主演女優賞を受賞した作品です。
ダイアナ妃がパリの自動車事故で亡くなってから一週間の英国ロイヤルファミリーを描いています。
とは言ってもダイアナ妃の自己の謎を解くとか、パパラッチの問題を浮き彫りにするとかいう内容でもありません。
それどころか女王がダイアナ妃に対してどのような感情を持っていたかという点も深くは描いていません。
事故が起こってからの一般市民の反応、ロイヤルファミリーの動向、ブレア首相の対応などを淡々と順繰りに描いていきます。
この淡々さが少々眠気を誘うもあり、もう少し中盤盛り上がりが欲しかったように思いました。
予告を観た時の印象はもっとサスペンスっぽい感じもあるのかなと思っていたので、やや面食らった感じもありました。

けれども観ているうちに、この作品が描きたかったのはダイアナ妃にまつわる事件ではないというふうに思いました。
ある役割を担わなくてはいけなかった一人の女性を描きたかったのだと思いました。
ちょうど今、哲学関係の本を読んでいるのですが、その中で「ダブルなわたし」という言葉が出てきました。
シェイクスピアの言葉に「世界は劇場。人生は演劇。人間は役者」という言葉があります。
詳しくは書きませんが(というよりまだはっきりと理解しきれていない)、僕たちが生きているこの世界を劇場に見立ててとらえる考え方です。
そこにおいて人間は役者としております。
けれども人間は役柄としての自分、役柄を演じている自分という二面性(ダブルなわたし)を持っているわけです。
実は普通に生きている時は役柄としての自分として生きていること、そしてそれが本当の自分であると思う傾向が強いはずです。
会社員としての自分、母親としての自分といったように。
けれども時折、役柄を演じている本当の自分が顔を出す局面があります。
そのとき人は「ダブルなわたし」の存在の差に不安を感じるものです。
というより常々感じてはいるのでしょうけれども、それを感じないようになっているのです。

さて余談が多くなりましたが、この作品のエリザベス女王は、女王としての役柄としてのみ徹底的に生きていたのだと思いました。
幼い時に、女王として生きなくてはいけない立場となってずっとそれを演じ続けてきた。
彼女の発言はすべて女王としての立場としての発言です。
エリザベス個人としての発言は、夫や息子などに対するプライベートにおいてもほとんどありません。
常に女王としての仮面(ペルソナ)をつけて生きてきた。
というより生きざるを得なかったということだったのでしょう。
ダイアナ妃の葬儀のために、ロンドンに彼女が戻ってきたとき、彼女は宮殿の前に山のように積まれた花を見ます。
ダイアナのために国民が手向けた花々でした。
そこには「ダイアナを殺したのはあなたたちだ」と書いてあるメッセージもありました。
エリザベスはずっと国民のために女王としての役割を果たすため、女王としての立場で発言してきました。
自分自身を殺してまでも。
けれどもそれは国民には伝わらない、そして彼女本来の自身を非難されるように言われる。
花束を見つめる彼女の顔には、悲しみが浮かんでいました。
けれども彼女は国民に振り返る時は、顔に笑みを浮かべます。
女王として振る舞わなくてはならないから。
それはとても孤独なことなのでしょう。
そのように彼女は生きてきたし、これからも生きていかなくてはいけないのです。
映画の中のブレアは女王のその気持ちを唯一理解したと思われる人物。
それもわかっている女王は、それでも彼の前でもやはりペルソナを外そうとはしません。
それを背負っていかなくてはいけない覚悟と悲しさを感じました。
そういう意味で、ヘレン・ミレンの演技は賞に値するものだったと思います。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (12) | トラックバック (56)

2007年4月29日 (日)

「ホリデイ」 30代、自分のスタイルを変えることに臆病になる年頃

昨日の鑑賞作品はドリュー・バリモアの「ラブソングができるまで」だったので、チャリエンつながりで本日はキャメロン・ディアスの「ホリデイ」を観てきました。
ドリュー・バリモアもコメディ上手ですが、キャメロン・ディアスもコメディ似合いますよね。

キャメロン・ディアス演じるアマンダも、ケイト・ウィンスレット扮するアイリスも、仕事は順調ながらもプレイベートは絶不調、クリスマスを前にして二人とも大失恋をしてしまいます。
失恋の痛手から逃げ出すように、お互いの家を交換してしばらく滞在するという「ホーム・エクスチェンジ」を二人は行い、アマンダはロンドンへ、アイリスはL.A.に向かいます。
失恋をしたときの二人のリアクションが対照的でおもしろいです。
アイリスは悲しみや怒りを内々に秘めてしまい、それを相手に伝えることができない。
相手を思ってというよりも、そういう感情を人前で表すのがとても恥ずかしいと思ってしまうタイプなのかもしれません。
目の前で恋人に婚約発表されても、その人の前では笑顔を作ってしまう。
やっと大声で泣けるのは、自分の家に帰ってから。
アマンダは逆に、浮気した相手にも攻撃的。
相手の非を責めまくります。
そして自分から別れを告げ、そしてそのストレスを発散するかのように友人たちにしゃべり倒す。

失恋というものを目の前にした二人の態度は対照的ですが、うちにある感情は極めて似ています。
30代独身で仕事も順調だったりすると、少なからず自分の生き方のスタイルというものができていますよね。
けれども生活に恋愛という要素が入ってくると、失恋するにしてもうまくいくにしても、相手がいるものなので自分のスタイルというものは崩れざるをえません。
これが怖いんですよね。
アイリスは相手の気持ちが自分にないことを薄々感じていながらも、相手に必要とされているという状態を変えることに臆病です。
アマンダは休暇中に知り合ったグラハムと心が通じ合ったとわかっていても、本格的につき合い始めることに躊躇します。
このスタイルが変わることに関しての臆病さというのは、30代シングルの人にとっては男女限らず共感するところがあるのではないかなと思います。
グラハムも苦労してシングルファザーを務めていますが、なんとか出来上がったスタイルに恋愛という要素が入ってくることへ臆病さがありました。

僕なども平日は仕事は忙しくてたいへんだけれど、おもしろくて飽きないで過ごせてますし、休日はそれなりにいろいろやることあったりする。
一週間はそれなりに充実していたりする。
なので若い頃のように恋愛というものにガツガツとした感じはなくなってきたりもしていたり。
30過ぎて手痛い失恋を二度ほどしたりして、なにか臆病にもなったりしているのかもしれません。
たぶんこの年頃の人は少なからずそういう感じあるのではないかな。
僕はこの映画にでてくるキャラクターたちへの共感度とても高かったです。

ジャック・ブラック演じるマイルズがアイリスにこう言われます。
「あなたっていい人ね」
「それが僕の弱点さ」
ううっ、「いい人ね」は決して男性にとっては褒め言葉じゃないんですよね。
何度この言葉を言われたことか・・・。
あっけらかんと「僕の弱点さ」と言えるマイルズはちょっとカッコいいですね。

しかし、現状満足しがちなので、やはり気分転換に旅などに出なくてはいけないかな・・・。
仕事忙しくて予定たてられずGWに突入してしまったが・・・。
いかんいかん。

ケイト・ウィンスレット出演「エターナル・サンシャイン」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (16) | トラックバック (49)

2007年4月28日 (土)

本 「銀輪の覇者」

太平洋戦争前の時期、日本で開催された(フィクションです)本州横断自転車ロードレースを舞台にした小説です。
ロードレースとは、「ツール・ド・フランス」などが有名ですけれども、チームで長距離を数日かけて走破する自転車レースです。
最近「オーバードライヴ」という漫画でも取り上げられているので、ご存知の方も多いかと思います。
自転車というのは思いのほか風の影響が大きい乗り物です。
自転車競技ともなるとその速度自体が大きいため、空気の抵抗も大きい。
自転車のチームは走行するとき、一台づつ縦列で並びます。
これは一列に並ぶことにより、先頭車両が風受けになって、その後の車両は風の抵抗を受けにくくするためです。
当然、先頭は体力の消耗が激しくなるためずっと風受けになるわけにはいけません。
そのため先頭車両をローテーションで順繰りに変えていきます。
またチームの構成メンバーも瞬発力が強いタイプ、持続力があるタイプ、坂道が得意なタイプ、どの地形でも対応できるタイプなどをそろえ、地形や他チームの動向にあわせ、全体のペースやアタッキングポイントをどうするかなど極めて戦略性が高いスポーツになります。
また逆に自転車を走らせるのはあくまでその車両に乗っている個人なので、過酷なレースにどこまで踏ん張るれるかというのは人間力まで問われる個人の力が試されるスポーツでもあるわけです。
こういう戦略性、個人の力の双方が必要とされるスポーツであるロードレースを素材に使い、エンターテイメント小説として、この作品は良くできていると思いました。

レースに挑むにあたり即席にできた主人公響木のチーム。
そのメンバーはすべての人間が、過去や背景に謎があり、それぞれの思惑でそのチームに参加しています。
そういう思惑がありつつも、彼らはレースを続けるうちに次第に仲間としてまとまっていきます。
山師的な大会主催者、大会を賭博に使おうとする仁義に厚いヤクザもの、軍の不正を暴こうとする特高警察、自転車部隊を創設しようとしている軍隊など、さまざまな組織や個人がそれぞれの目的でレースを利用しようとします。
そのあたりが絡み合っていきながらストーリーが進んでいくさまはおもしろいですね。
キャラクターの書き込みはややオープンだったので、深みがない感じがしましたけれども、十分合格点でしょう。
後日談はちょっと余計な感じもしました。
レース終了で終わらせた方が盛り上がって終わったかもしれません。
ともあれ、自転車好きな人は楽しめる小説だと思います。
そろそろいい季節なので、自転車で河沿いでも走ってこようかなあ。

「銀輪の覇者」 斎藤純著 早川書房 ハードカバー ISBN4-15-208562-2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ラブソングができるまで」 互いに認め合えるパートナーが得られる人生は素敵だ

肩肘張らずに楽しめるラブコメディーです。
ヒュー・グラントが80年代に活躍した元ポップスター、アレックスを演じています。
オープニングはアレックスがボーカルを務めた一世を風靡したグループ「POPS」のプロモからのスタート。
いかにも80'Sな音楽と映像は懐かしい感じで、80年代が10代だった僕はなにか若かりしころの写真を見てるようなこそばゆい恥ずかしさを感じて笑ってしまいました。
プロモの中の、ノリノリのダンスと歌を披露するヒュー・グラントが、いかにもその時代に存在していたスターのような感じが良かったですね。

コメディというのは見ていて楽しくて、そして少し人生について考えさせてくれる作品が好きです。
人生って正面切って考えると重いので、普段あまり考えることは避けがちですが、コメディという笑いの中だったらちょっとは人生について考えるきっかけにもなったりします。

ヒュー・グラント演じるアレックスは「過去に生きる男」。
80年代に活躍したスターだけれども、時代に乗り遅れ、今は人気は失速、地方の巡業で日々を過ごしています。
それでも往年のファンはいるようで、イベントの格さえ選ばなければ、そこそこ舞台は盛り上がる様子。
アレックスにはよくある「忘れられたスター」の悲壮感はあまり漂っていません。
過去に築いたネームバリューはそこそこ効くので切迫した悲壮感はないのかもしれません。
そのためか将来に対しては軽い諦めと、そして楽観を両方持った男です。
同じくヒュー・グラントが演じていた「アバウト・ア・ボーイ」のウィルも親の遺産で食っている男でしたが、似たようなイメージですね。
自分の行く末に対して空しさは感じるものの、今楽しく生きているからあまり考えないようにしようというような気持ちの人です。
そういう意味ではあまり未来を見ようとしない「過去に生きる男」と言っていいのでしょう。

ドリュー・バリモアが演じるのはソフィーという女性。
かつてつき合っていた恩師でもある作家に、小説の中で自分のことをモチーフにされ、そして自分の才能を否定されたためすっかり自信をなくしてしまった女性です。
自分の才能そして夢に対して自信ががなくなり、未来が見ることができなくなった人ですね。

二人とも自分に自信がない点(そして本人たちが思っている以上に才能はある)は共通しています。
そんな二人が出会い、互いにインスパイアしていきながら、歌を作り上げていく様は素敵だなと思いました。
相手の才能を認めてあげること、そしてそれを信じてあげることが、相手に自信を与えます。
自信はさらに才能を開かせ、未来を見せてくれる。
アレックスはソフィーの作詞能力を信じ、ソフィーはアレックスの作曲の力を信じた。
アレックスの地方巡業で、ソフィーがアレックスの歌の力を信じて励ます場面は好きなシーンです。
お互いに相手を認め合って、そして二人でさらに高みにあがっていける。
そういうパートナーが得られる人生は素敵だと思います。

ストーリーについては終盤に向けての盛り上がり感がもう少し欲しかった感じがします。
その点はちょっともの足りないところ。
主演の二人は申し分なかったかと。
二枚目でダメ男のヒュー・グラント、美人だけどおしゃべりでおっちょこちょいのドリュー・バリモアはそれぞれ、二人が過去に演じてきたはまり役をそのまま持ってきたイメージ。
意外性という新鮮味はないかもしれませんが、安心して観れました。

 

ドリュー・バリモアとデートをしようとする男のドキュメンタリー「デート・ウィズ・ドリュー」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (31) | トラックバック (63)

2007年4月23日 (月)

「ウルトラマンメビウス」 一年間通して見事なシリーズ構成力

1年にも渡るテレビシリーズ全体のシリーズ構成が見事でした。
基本的には「ウルトラマン」というシリーズは一話完結(一部前後編などもあるものの)が基本形です。
けれども、「ウルトラマンネクサス」では平成ライダーシリーズがヒットしたことに影響を受けたためか、大河ドラマ的シリーズ構成に転換します。
僕はこの作品は好きだったりするわけですが、一般受けはしなかったようで、当初予定を大幅に繰り上げ終了します(ようは打ち切り)。
続く「ウルトラマンマックス」では一転して、初期のころのような一話完結構成に戻しました。
金子修介監督、三池崇監督、実相寺昭雄監督などを起用し、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」にあるような至極の一編はあるものの、全体的には品質がばらけていたように感じました。
そして本作「ウルトラマンメビウス」。
前二作の反省を活かしたのか、基本的には一話完結の体裁をとりながらも、年間を通してのゆるやかなシリーズ感を出すという絶妙なバランスで構成されていました。
年間を貫くテーマとして設定されていたのは、若者たちの「成長」と「友情」。
ベタなテーマではありますが、一年間という長丁場を初期のテーマで貫けたということは、視聴者の評判も良かったということでしょうか。
地球防衛隊のメンバーをすべてルーキーとした設定が見事。
メンバーそれぞれのキャラクターを丁寧に描いていたため、結果的にはシリーズ全体が厚みをもったように思えました。
後半ウルトラマンの正体が仲間にバレるという、今までやっていそうでやっていなかった荒技に挑み、それを越えて地球人とウルトラマンの「友情」を描こうという試みは斬新だったと思います。
ゆるやかなシリーズ性という点では、怪獣が頻出しはじめた裏に蠢く謎の女、敵か味方かわからぬ青い巨人、異次元人ヤプールの影、そして歴代ウルトラマンの客演など、全体として興味を引き続ける「仕掛け」を用意していたところも見事だったと思います。

あと本作は「ウルトラマン80」までの世界観を引き継ぐという設定の中、過去作品からの引用が多くありました。
過去作品、また本作品の中の台詞や設定(これがメジャーな話ではなく、ややマイナーなエピソードからの引用も数々あった)を取り入れて、上手に構成していた脚本は昔からのファンを満足させたと思います。
僕が子供の頃、リアルタイムで観ていたのは「帰ってきたウルトラマン」以降であったので、このあたりからの引用が多かったのは嬉しかったです。

各話でいろいろ触れたいエピソードはあるのですが、キリがなくなるのでこの辺で・・・。
一年間夢中にさせてくれた見事なシリーズ構成でありました。

できることはやり尽くした感のある「ウルトラマンメビウス」。
しばらく「ウルトラマン」のシリーズは作られないのでしょうね・・・(しみじみ)

映画「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」の記事はこちら→

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月22日 (日)

「ブラッド・ダイヤモンド」 いつか理想郷になることを願う

モノの価値というのは、人々がそれに価値があると信じるから生じるのであって、そのモノ自体が価値を持っているわけではありません。
例えば紙幣。
これは国がその紙幣がさまざまなモノと交換できると保証しているから価値があるのであって、その保証がなければただの紙切れです。
ダイヤモンドもそうかもしれません。
最も堅い鉱石として工業的な価値はあるとは思いますが、宝飾品としての価値は人々がそれを欲しいと思うということによって作られています。
アフリカの人々にとって、以前はダイヤモンドはただの堅くて綺麗な石という以上のモノではなかったのではないでしょうか。
けれどもそれがいつの間にか人の命を越えるほどの価値を持ってきてしまった。
その中でも特に希少な淡い赤色を帯びたダイヤモンド、血の色をした赤い石、それがブラッド・ダイヤモンドになります。
そのブラッド・ダイヤモンドを巡る人々の模様を描いたのが本作です。

物語の終盤、デニーとソロモンがブラッド・ダイヤモンドとソロモンの息子ディアを取り戻すための旅の途中の二人の会話がとても印象に残りました。
デニーはダイヤモンドがあれば何にでも手に入ると言います。
自分が生まれ育ったアフリカ、そして最も嫌悪するアフリカを脱出するチケットだと。
そんなダニーの思いをソロモンはわからないと言います。
彼にとって何ものにも代え難い価値を持っているのは、家族なのです。
紙幣にしても、ダイヤモンドにしてもそれ自体はなんの価値もない。
いくらお金を貯めても、ダイヤで身を飾ってもそれは空虚なものなのかもしれません。
けれども自分の子供というものは、自分が存在をしたということの証明であって、人の命は存在するだけで価値があるのだと思います。

けれどもいつしか人の命と空虚なモノの価値の重さは逆転してしまっている。
上に書いたことはただの観念上のことかもしれません。
現実的には、アフリカを始め第三世界には貧困というものが歴然とあり、それらは僕たちが紛争ダイヤを買わなくなったとしてもそれだけで良くなるものではないのでしょう。
映画の中で描かれていた少年兵の問題ももともとは貧困に根ざし、一朝一夕には解決しないのかもしれません。
けれども劇中でソロモンが言っているように、子供たちの時代には平和になった理想郷になると信じて少しずつでも行動を起こすことが大事なような気がしました。

俳優陣はすばらしかったです。
「ディパーテッド」を観たときディカプリオの演技を見直したのですが、この作品でもとても存在感がありました。
ダイヤモンドを巡り、善人でも悪人でもない人間らしい迷い、気持ちが揺れ動く様を上手に表現していたと思います。
最後にソロモンたちを逃し、すばらしい景色を眺めていると言ったときの赦しを得たような微笑みは印象的でした。
ソロモンを演じるジャイモン・フンスーはほとんど観た印象がなかったですが、とても良かったです。
ダニーが迷い進む人間だとしたら、ソロモンはただひたすら息子のことを思う一途な父親。
洗脳され残酷なことをしてしまった息子を、それも包み込むように愛する親の思いがあふれていました。

エドワード・ズウィック監督は、重いテーマを扱っていながらエンターテイメントとしても見応えのある仕上がりにしていたと思います。
エンターテイメントといっても、テーマ自体は真摯に扱っている感じがして、心に響いてくる感じがありました。
「ラストサムライ」の時も思いましたが、ズウィック監督は物語の舞台となる場所の風景を映すのがうまい感じがしました。
映像だけでなく、音楽にもその場所のイメージがよく現れていたと思います。

アフリカの赤い土は血を吸った色だと、この映画の中でゲリラが言っています。
その赤い大地が紛争の素となるダイヤモンドを産んだ。
けれども赤い大地は僕たち人類を最初に産んだ場所でもあるわけです。
その土地がいつかソロモンの言う理想郷になる日を願ってやみません。

レオナルド・ディカプリオ出演「ディパーテッド」の記事はこちら→

レオナルド・ディカプリオ主演「アビエイター」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (35) | トラックバック (76)

2007年4月21日 (土)

本 「1週間は金曜日から始めなさい」

世の中には残業とかが好きではないかと思うくらいいつも残業している人がいたりしますが、僕は基本的に残業はあまり好きではありません。
しなくてはいけない時は当然しますけれども、なるべくならしたくない。
ただ僕が所属しているのは依頼を受ける部門だったりするわけで、やるべきことはかなりある。
そうなるとなにをするかというと効率的な時間の使い方しかないわけで。
社会人を長くやっていると、そういうノウハウも自分なりに編み出しているわけですが、この本の著者が主張していることは僕がいろいろ試行錯誤しながら実践してきたことに通じるなと思いました。

著者がこの本で書いているのは、時間密度をあげるということ。
たくさん仕事をしている=長い時間仕事をしていると勘違いしている人は社内には多くいます。
けれどもこれはよく考えるとおかしくて、短い時間で結果をだすならばそれに越したことはないのです。
仕事の質と量は必ずしも比例しません。
時間がないから、したくても○○できない。
これはよく言われることですが、著者はそうではないと言います。
○○するために、時間を作る。
時間を作るためには、何かしら工夫をしなくてはいけない。
そこに何かが見つかるはずです。
時間に支配されるのではなく、時間を支配するということなのですよね。

タイトルにある「1週間は金曜日から始めなさい」というのは、金曜日までの5日間をその週の稼働日と考えないということ。
その週の稼働日は月火水の3日間。
木曜日はその週の総括。
金曜日は翌週、もしくは中長期のビジョンを考える日。
1週間を金曜日までと考えると、自然とそれだけの時間があるという前提で仕事を組み立ててしまいます。
けれども1週間が木曜日までしかないとしたら。
それはそれで、それに合うように仕事を組み立てるのでしょう。
ようは自分でそう思えばいいだけのこと。
これが時間を支配するということなのです。
最近はよほどたいへんな状況でない限りは、深夜にまで及ぶ残業などはしなくなりました(といいつつ最近はそんなことを言ってられない状況ではありますが)。
多少は時間を支配する力がついてきたということでしょうか。

「1週間は金曜日から始めなさい」 臼井由妃著 かんき出版 ソフトカバー ISBN978-4-7612-6393-5

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ナイト ミュージアム」 子供向けだけど手抜きをしていない

博物館って昔から好きなんですよね。
中でもこの映画の中にでてくるような自然史博物館系が。
東京で言うと、やはり国立科学博物館です。
恐竜や世界の動物やら、飛行機、ロケットなどなど、子供の頃から好きなものがたくさんあって、いまでも時々行きたくなります。
男っていうのはいくつになってもこういうものに惹かれるものです。
そういえば国立科学博物館はリニューアルしたという話も聞いたので、今度また行ってみないと。

さて本作品「ナイト ミュージアム」ですが、予告で「ジュラシック・パーク」ばりにホネホネティラノが追いかけてくるシーンで男の子ゴコロにグッときてしまい、見なくてはと思っていました。
さすが手慣れたクリス・コロンバス製作ということで、子供といっしょに楽しめる良質のファミリームービーに仕上がっていました。
もともと原作が児童書ということもあるのか、ストーリーは特に目新しいものはなく、大人の目で見るとちょっともの足りない感はあります。
けれども子供の目で見ると、このくらいのわかりやすさというのがいいのではと思ったりもしました。
ところどころに入っているオーバーなアクションのギャグも子供にうけるのではないかと思います。
声をだして笑ってしまったのが、主人公ラリーとお猿のデクスターのピンタの張り合い。
ベタな吉本喜劇みたいな感じなんですが、こういうベタな笑いは年齢を越えるものです。
アメリカの映画のすごいところは、子供を中心にターゲティングした映画であっても、映像に関してはまったく手を抜かない点。
先に書いたホネホネティラノのCGも見事でした。
しっぽをパタパタと振る仕草で、いかつい化石をかわいく見えたりさせるのは、なるほどという演出。
後半、博物館の全員がホールでドタバタしているのを見て、子供の頃好きだったドリフとかを思い出したりしました。
そういえば日本って、思いっきりベタで子供に安心して見てもらえる映画って少なくなってきましたよね。
「ドラえもん」くらいかしらん。
そういえば「ドラえもん のび太の恐竜」でもティラノサウルスに「桃太郎印のきびだんご」をあげると、しっぽパタパタでなついてきていたなあ。

続編「ナイト ミュージアム2」の記事はこちら→ ベン・スティラー監督・脚本・主演「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (36)

本 「発酵 ミクロの巨人たちの神秘」

最近「もやしもん」という漫画がお気に入りです。
今までにない「発酵」というものをテーマにした珍しい漫画で、主人公は僕たちのまわりにいる微生物を見ることができる能力を持っています。
漫画の中でも発酵について詳しく解説していたりしますが、興味がでてきたのでこちらの本を読んでみました。
実は勤めている会社も発酵技術をベースにしている会社だったりするので、全く知らないわけではないのですが、知識の再確認という意味も込めてです。

日本という国は発酵食品に特に恵まれている国です。
味噌や醤油、納豆、酢、漬け物、日本酒など。
たしかに身の回りの食べ物はほとんどなにか発酵の恩恵を受けているものが多い。
著者は世界の中でも発酵というものを生活の中に深く取り入れてきたのが日本人と書いています。
食べ物だけでなく薬なども発酵で作られています。
抗生物質というのはお医者さんに行くとよく聞きますが、よく効く薬というくらいのイメージしかありませんでしたが、これも微生物の力によって生み出されたもの。
抗生物質とは微生物によってつくられる化学物質で、他の微生物の発育または代謝を阻害する物質とのこと。
なるほどだから病気の原因となる微生物を、抗生物質で抑制できるんですね。
江戸時代は火薬のもとも、発酵でつくっていたということです。
「発酵」という技術はさまざまな分野に応用できるのだなと驚きました(勉強不足でした)。

著者が「発酵」という技術の定義は「あくまでも人間社会にとって有益なものであること」と書いています。
上記に書いたように発酵はさまざまな分野に応用されています。
けれども間違った使い方をしてしまうと、「細菌兵器」などを生み出し「バイオテロ」などにも結びつく危険性があります。
あくまでも「人間社会に有益なものであること」というのを心に刻んで、研究者には発酵を深く研究していて欲しいと思いました。

「発酵 ミクロの巨人たちの神秘」 小泉武夫著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-100939-8

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月20日 (金)

「蟲師」 映画が説明不足のため、あえて想像力を広げて観てみた

大友克弘氏に関する僕の初体験は、氏の漫画「童夢」。
人間業とは思えない緻密な書き込みや、従来の漫画とは異なる「視覚効果」(コンクリート壁に打ちつけられた時に生じる丸い窪みとか)に度肝を抜かれました。
大友さんは、その後アニメーション制作にも活動の幅を広げ、数々の作品を作ってきました。
その大友監督が久しぶりの実写監督作品の「蟲師」、期待せずにはいられません。

と期待していったのですが、観終わった時の印象はなんともつかみどころのない作品だなというものでした。
まずは映像関係。
大友作品の特徴は漫画にしてもアニメーションにしても、「動き」だったと思います。
人物の動き、カメラアングルの動き、氏の作品には今までにないような映像を見せてくれるという驚きがあったと思いますが、本作に関してはほぼそのような印象は感じませんでした。
ストーリーはアクションがあるものでないので、派手な活劇を期待するわけにはいかないと思いますが、やはり大友監督ならではの新しい動きのある映像を見せてもらいたかったところです。
普通の人には見えない「蟲」の表現についても、あまり新しさは感じませんでした。
自然や生命のもつ不可思議な力、そしてその力を育んでいる「森」というイメージでは、「風の谷のナウシカ」の腐海も共通すると思いますが、本作品の表現は「ナウシカ」を越えるようには見えません。
ストーリーも淡々と展開していくだけで、いまいち乗り切れなかったですね。
感情が表れないキャラクターのためか、主人公ギンコに感情移入しきれませんでした。
ギンコとぬいの関係や、ギンコと淡幽の関係などもう少し感情的に盛り上がる方が観やすかったかと思います。
唯一ギンコの相棒として旅をともにする虹郎は親しみが持て、良かったですね。

原作の漫画を全く読んでいなかったため、「蟲」とは何かとか、その他でてくる特別な用語(「光酒」「光脈」など)の意味があまりされていないので、ちょっと不親切な感じがしました。
「蟲」とは何なのでしょう?
映画の中では、人間とは別の世界にあるもの、けれどもまったく互いに影響がないわけではないといったような説明があったかと思います。
原作などでは何か説明があったのかもしれないので、これから書くことは全く見当違いかもしれないですけれど、映画を観て感じた僕が感じた「蟲」のイメージついてちょっと書いてみたいと思います。
「蟲」というのは、人の思いや記憶というものの残滓(「幻魔大戦」などでよくでてくる残留思念みたいなもの)ではないかと、僕は思いました。
そのような思念が見える人には、それが「蟲」という形で見えるのではないかなと。
ギンコにとっては突然母親を失った記憶、そして自分を救ってくれた擬似的な母との別れの記憶は、トラウマとなって封印されました。
その封印された記憶の象徴が「蟲」としては「銀蟲」というものとして見える。
ぬいにとっては実の夫や子を失った悲しみ、そしてギンコと分かれた無念が次第に心の中に溜まっていったマイナス感情が「蟲」として表現されたものが「常闇」。
淡幽が「蟲」の話を記録していくのは、まさに見えない記憶を文字で記録することにより本質を露にし、それを認識することによってトラウマを除こうとする認知療法のカウンセラーとしての役割にも見えました。
まったく見当違いかもしれませんが、映画があまり説明をしていなかったので、あえていろいろと想像して観てしまいました。

蒼井優さん出演「ハチミツとクローバー」の記事はこちら→

蒼井優さん出演「フラガール」の記事はこちら→

蒼井優さん出演「鉄人28号」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (18) | トラックバック (52)

2007年4月16日 (月)

本 「ミッキーマウスの憂鬱」

さらさらっと読める、ディズニーランドを舞台にした青春小説。
正直言って物語はありがちです。
それでも青春ものが好きな僕としては、こういう物語は決して嫌いじゃないんですよね。

小説の主人公後藤は最初登場した時、彼にはとても甘ちゃんな感じを受けました。
自分の中で描いてきた仕事に対する夢というものはあるのですが、現実的に目の前にある仕事というものに対しての態度がまだ子供っぽいというか。
あんまり共感できないなという感じがありました。
けれども後藤は二日間の仕事を通じて、仕事の現実を受け止め、そしてそのうえでその仕事に夢とプライドを持てるように成長していきます。

あまり僕は知らないディズニーランドのバックステージが舞台になっています。
ディズニーランドの裏側ってこんな風になっているのかあと読んでいて、妙に関心。
でもディズニーランドって、商標権などかなりうるさいところだと聞いていたので、ミッキーマウスなんてタイトルに使っていたりして大丈夫なのかと変なところを心配したりもしました。
読み終えると、小説の最後に「この物語はフィクションです。実在の団体名、個人名、事件とは全く関係がありません」というおなじみのクレジットが。
ああ、ディズニーランドの裏側もフィクションだったのかな。
それで文句言われなかったのかしらん。

「ミッキーマウスの憂鬱」 松岡圭祐著 新潮社 ソフトカバー ISBN4-10-475101-4

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月15日 (日)

本 「天使と悪魔」

こちらの作品はダン・ブラウンのラングドン・シリーズの第一作目です。
ベストセラーとなり、映画化もされた「ダ・ヴィンチ・コード」はこのシリーズの二作目になります。

僕は「ダ・ヴィンチ・コード」は面白くないとは言いませんが、あれほど大絶賛されるほどの小説ではないなと印象がありました。
次から次へと謎を解いていく話はおもしろくないわけではないのですが、どうもその謎解きが一本道のようで単調だったような気がしたのです。
ひとつしかない筋を追っていくだけのRPGをやっているような印象です。
キリストの家族に関する謎などというのは、今までも数々使われてきたネタでしたし、そんなに新しいかな?という感じを受けました。
この小説自体はとても読みやすい構成なので、普段あまり小説を読み慣れない方には向いているのかもとも思いました。
だからベストセラーとなったのかもしれません。
逆をいうとリニアな展開であったため順を追っていけるため、小説よりも映画向きかしらんとも思っていたら、映画化されましたね。
映画もちょっといまいちでしたが。

ということもあって、あまり期待せずに手に取った「天使と悪魔」。
読んでみると「ダ・ヴィンチ・コード」よりもおもしろいじゃないですか。
特に犯人が事件を起こす背景というのが、丁寧でおもしろい。
その人物が生きていた人生、そして信じていること・価値観というところから発する犯罪。
そのあたりがきちんと描かれているので、単なる謎解きRPGのような単調さがないところが「ダ・ヴィンチ・コード」と違うかなと思いました。

映画化作品「天使と悪魔」の記事はこちら→
ダン・ブラウン著「デセプション・ポイント」の記事はこちら→

「天使と悪魔<上>」 ダン・ブラウン著 角川書店 文庫 ISBN4-04-295501-0
「天使と悪魔<中>」 ダン・ブラウン著 角川書店 文庫 ISBN4-04-295507-X
「天使と悪魔<下>」 ダン・ブラウン著 角川書店 文庫 ISBN4-04-295502-9

| | コメント (8) | トラックバック (9)

「デジャヴ」 疲れるくらい作品に巻き込まれた

見終わって、ふぅ疲れたーというのが、最初の感想でした。
タイムパラドックスものということで、まだ謎が多い前半部は、何も見落としてはならない!と集中して観賞。
ストーリーを追いつつも、ヒントっぽい思わせぶりな映像がでてくるため、これは伏線か?などと考えながらの観賞なので、脳みそをけっこう使いました。
現在進行形の状況と同時に、過去を覗くことができる機械での映像が行ったり来たり描かれているので、きちんと整理していないとわからなくなりそうな感じもあったので、気を抜けませんでした。
また手持ち風のぶれた映像、細かいカット割り、ズームの多用などトニー・スコット監督らしい動きのある映像ではありました(「エネミー・オブ・アメリカ」もこんな感じだったような)が、その動きが激しすぎて観ているとなんだか車酔いみたいな感覚にもなりそうに。
特にゴーグルを付けながらのカーチェイスのシーンでは、現在と過去の映像が激しく入れ替わったり、同時に見えたりするので、酔いそう・・・という感じになりました。

後半、ダグが過去に行ってからは、いくつかの謎(犯人や動機など事件のあらまし等)も明らかになったため、ストーリーが事件を防げるかという点に集約されていくので、前半戦と打って変わってわかりやすく観やすくなってました。
最後まで事件を阻止することができるのか、クレアの生命を救うことはできるのかという点は映画の最後までひっぱっていたので、サスペンスのボルテージは下がらずに展開していたと思います。
前半戦が脳(ブレイン)が酷使した感じとすると、後半戦はドキドキハラハラといった心(ハート)の方を動かされたという感じでしょうか。
疲れるくらいに作品の中に巻き込まれてしまったということかもしれません。
お客さんを最後まで話さないの手練手管は、さすがエンターテイメント映画のベテラン、トニー・スコットといったところでしょうか。
映画で描くタイムパラドックスものとしてはけっこう複雑な設定だと思いますが、観る限りあまり破綻はなかった感じがしましたので、脚本はかなり練られているなという印象でした。

ダグが過去に行くときの格好は下着で体育座り。
「バブルへGO!」の広末さんといっしょでしたね。
あの機械も日立製でしょうか?(笑)

トニー・スコット監督、デンゼル・ワシントン主演「サブウェイ123 激突」の記事はこちら→ デンゼル・ワシントン主演、トニーのお兄さんのリドリー・スコット監督作品「アメリカン・ギャングスター」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

映画 た行, 映画・テレビ | | コメント (20) | トラックバック (52)

2007年4月14日 (土)

本 「銃・病原菌・鉄」

タイトルは非常にとっつきにくいですが、この本はおもしろいですよ。
この本の中で著者は何故人間は五つの大陸で異なる発展を遂げたのかという謎をわかりやすく解き明かしています。
この本は著者がフィールドワークで知り合ったニューギニア人の友人の言葉から始まっています。
「白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」
かつて言われていたように人種的に、ヨーロッパ人が優れていて、アジア人が劣っているのか。
そうではないと著者は書いています。
西洋人がものを発達させ、ニューギニア人がそうではなかったのは、たまたまそれらの民族がそうなる状況にあったからだと言っています。
具体的にはそれぞれの民族が暮らしていた環境がそれぞれの文明の発展に大きく影響を与えてきたと説明しています。
たとえば食料生産は世界でいくつかの場所で開始されていたことがわかっています。
一つはイラク付近の中東。
そこで開始した食料生産の技術は西はヨーロッパ、東はインドまで歴史的には速い速度で伝わっていきます。
また一つはメキシコ付近。
しかしここで産まれた食料生産はなかなか広がっていきません。
なぜか。
ユーラシア大陸は東西に長く、そして広い。
東西の方向は緯度が同じため気候はほぼ同じで、植物の生育条件は変わらず開発された生産技術は伝播しやすい。
そして大陸が広いということは多くの人間がいるということ。
広まった技術がさらに革新されていく確率も高くなります。
けれどもアメリカ大陸は南北に長い。
南北は同じ距離を動くとしても気候は大きく変わります。
そのため植物はなかなかその土地に馴染めず、生産技術は伝播しにくい状況になります。
また暮らしやすいエリアは限られているため人口密度も低く技術革新も起こりにくいということです。
非常に納得しやすい論旨だと思います。
このように文明の発展は、人種の差ではなく、置かれた状況によるものだということをさまざまな点から解説しています。
著者の論旨の展開は、上に書いていたように解釈が入りにくいデータから導きだされているので、非常に明確です。
整理され丁寧に解説しているため、読んでいてもいちいち納得してしまいます。
サイエンス・ノンフィクションなので難しそうと思う方もいらっしゃると思いますが、名探偵が謎解きをしてくれているようなおもしろさがあります。
ミステリーを読む感覚でみたら、楽しめると思います。

「銃・病原菌・鉄<上>」 ジャレド・ダイアモンド著 草思社 ハードカバー ISBN4-7942-1005-1
「銃・病原菌・鉄<下>」 ジャレド・ダイアモンド著 草思社 ハードカバー ISBN4-7942-1006-X

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 8日 (日)

「ベッカムに恋して」 若者たちが越えていく通念の壁

先日観たオムニバス映画「パリ、ジュテーム」の中でも好きな一遍「セーヌ河岸」のグリンダ・チャーダ監督の作品を観ました。
少年少女がいくつかの障害を越えて自分の夢を叶えようとする物語、好きなんですよね。

主人公はイギリスで暮らすインド系イギリス人の少女、ジェス。
サッカーに恋し、そしてコーチであるアイリッシュの青年に恋します。
インドの文化では女の子が素足を出して人前にでるというのははしたないこと。
そして白人の男性とつき合うのももってのほかなことになるわけです。

人は人を、知らず知らずのうちに型(タイプ)をはめて見てしまいます。
男性か女性か、イギリス人かインド人か。
ジェスは試合中相手にパキスタン人と言われひどく怒ります。
インドとパキスタンは長年対立しており、二つの国の人の間では複雑な感情があります。
ただイギリスの人から見ると見た目の違いはほとんどわからないはずです。
イギリスにおいても、イングランド、アイリッシュというのは見た目ではわからないかと思います。
そこにあるのは歴史なものや文化的なものによって形作られた、自分たちや他者の概念化された型(タイプ)なんですよね。
そしてその型(タイプ)にあるイメージや概念をはめ込み、相手をそうあるべき、そして自分たちもかくあるべきだと思いがちです。
女性はサッカーをするのははしたない。
インド人はクリケット(英国の伝統的スポーツ)にはふさわしくない。
身近なことでも、「この人は血液型がA型なのにいいかげんなんだねー」なんてこともよく言いますよね。
そういう型にはめた見方というのは、個人それぞれの才能や能力とは全く関係ないことなのですよね。
けれども社会で通念とされてしまっているようなことは、なかなか個人でその通念を否定することは難しい。
そしてその通念を守っているのが、若い頃はそういうことに反対していた大人だったりするわけです。
曰く自分も若い頃はたいへんだったが我慢したというようなことです。
それでも若い子たちが思いをあきらめず、少しずつでも通念の壁を壊して、悩みながらも前進していく姿は見ていて清々しかったです。
お話の中には、そのような民族や性別の通念以外にも、ホモセクシュアルやレズビアンに関する見方など他のツ年の壁がとりあげられていました。
ただそれらもあまり仰々しくではなく、さりげなくとりあげられているのであまり重々しくは感じないのがかえって良いかなと思いました。

お話はこのような青春成長ものとしてはオーソドックスな展開ではありましたが、もともとそういう話が好きなので(笑)いい印象で見終わりました。
ただ時間はお話に対して全体的に長くもたもたしていた感もありました。
「パリ、ジュテーム」とこの作品しか見たことないのですが、この監督さんは短めの作品のほうが上手なのではと感じたりもしました。

グリンダ・チャーダ監督の短編が入っている「パリ、ジュテーム」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (5)

「大帝の剣」 男の子が好きなものがてんこ盛り

原作は夢枕獏氏の小説。
夢枕獏氏は菊地秀行氏と並び、いわゆる超伝記物というジャンルが一世風靡したときに中心となっていた作家です。
そのころの超伝記物というのはちょっとアダルト風味が入っているイメージもありますが、先のお二人はともにソノラマ文庫のジュブナイル向け作品(夢枕氏:キマイラ吼シリーズ、菊地氏:エイリアンシリーズ、吸血鬼ハンター”D”シリーズ)から有名になっていきました。
これらソノラマ文庫のシリーズは、男の子が好きなものがてんこ盛りとなっている冒険小説がそのルーツにあるような感じがあります。
モンスターから格闘技、超能力、超科学技術、古代の謎、エトセトラ。
細かい設定の齟齬など関係なし、おもしろければいいとセンスがふんだん溢れていた元気のいいシリーズでした。
この映画の原作「大帝の剣」もその流れを汲んでいる活劇小説で、山田風太郎の忍法ものを思わせるような剣劇、忍者、隠れキリシタン、豊臣の姫などの時代劇要素に加え、エイリアンやらオリハルコンやらアレキサンダー大王の剣やらSF的要素が絡み合った、男の子にはたまんない世界になっています。
登場人物も多く大風呂敷を広げてしまったためか、物語が収束せず完結していない小説ですが、映画公開とともに久しぶりに夢枕氏が書き始めたようです。

前段が長くなりました。
夢枕氏の小説には「大きな男」というのがよく出てきます。
それは単純に体が大きな男というだけではなく、心も大きいという男らしい男です。
(キマイラ吼シリーズの九十九などはその典型でしょう)
この物語の主人公、万源九郎もまさにそのような男。
小さなことは気にせず、自分が「おもしれえ」と思うことを追いかける男。
ある意味、気持ちは子供のまま体が大きくなった男の子なのかもしれません。
そういえば「世界最速のインディアン」のバートもこんなイメージ。
天野喜孝氏が描いている小説のイラストの熊のような大男のイメージが強かった源九郎ですが、阿部寛さんは思いのほかよく似合っていました。
粗野のように見え、周りが見えている大きな懐のある男、いい感じにでていたと思います。
阿部さん演じる源九郎の「おもしれえ」という台詞が繰り返しでてくるのですが、「バブルへGO!」の「効くねー」を思い出してしまいました。
周りに配されているキャラクターも原作通りクセのあるものたちです。
冒頭からかなりの数のキャラクターを投入していたので、話を収束できるのかと心配しましたが、なんとか力技で話をおさめていました。
堤監督の作品だけあって、遠藤憲一さん、宮藤官九郎さん、大倉孝二さんなど一癖ある俳優さんが出演されていましたが、その中でも際立っていたのは、破顔坊を演じていた竹内力さん。
竹内さんは最後の方はほとんど特殊メイクで素顔が見えない状態でしたが、オーバーな台詞回し、仕草で一発で竹内さんとわかる怪演でした。

ストーリーとしては、こういうハチャメチャで荒唐無稽なのがダメな方にとっては全然納得できないものでしょう。
ただ男の子の好きなガジェットがこれでもかとふんだんに取り込まれいるところについては、多少物語が破綻していてもまあいいかと許してしまいたくなります。
特殊効果的にも今時かなりお粗末なところも見受けられ、もう一歩という感じです。
これもまあそれで売っているわけでもないし、許しちゃおうかなと気分になってしまいました。
パンフを買ってみてみると、明らかに低年齢層を意識した作りになっていました。
こちらをみて、やはり男の子向けの冒険活劇にしたかったのだろうと思いました。
なかなか日本ではない、荒唐無稽な冒険活劇、あまり頭を使わないように見れば楽しめると思います。

堤監督、阿部寛さん主演の「自虐の詩」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (9) | トラックバック (38)

2007年4月 7日 (土)

本 「母なる地球 アシモフ初期作品集3」

アシモフの初期作品集の三作品目です。
この作品集に掲載されている作品はデビューしてからしばらくたっているので、前二冊に比べるともたつきもなくずいぶん手慣れてきているように感じます。
それぞれの作品が独創的なアイデアが効いていて、SFの短編かくあるべきというふうに仕上がっていると思います。
後にアシモフの主力シリーズとなるロボットシリーズの原点となる作品も収録されています。
作品集の表題作でもある「母なる地球」がそれですが、「鋼鉄都市」でも舞台となる惑星オーロラもこちらに登場します。
この作品、読んでいて思ったのは、今の世界を驚くほど言い当てていること。
もちろんそのままを言い当てているわけではありません。
小説の中のオーロラが代表する移民惑星国家群と地球の関係が、現代の日米露中韓の五箇国と北朝鮮の関係に似ている感じがしました。
小説の世界ではかつての文明の発祥地であった地球は移民惑星国家にも大きく技術的に遅れをとった後進国となっています。
地球は自らハイテクノロジーの工業製品を作ることはできず、農産物の輸出で得る資金で、輸出しなくてはなりません。
そのような状況の中、地球が秘密兵器を開発しているという情報が流れ両者の関係は一気に緊張が高まります。
両陣営の間で戦争回避のための交渉が始まる…。
なんだか先日の六カ国協議を思い出しませんか?
アシモフの先見力に驚きます。
というより人間や政治というものはそうそう変わりようのないものなのでしょうか。

「母なる地球 アシモフ初期作品集3」 アイザック・アシモフ著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011155-3

アシモフ短編集「カリストの脅威 アシモフ初期作品集1」の記事はこちら→

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 1日 (日)

「ヅラ刑事」 微妙なテイストで笑いきれず

このところ仕事が忙しくてやや疲れ気味だったので、あんまり(というか何にも)考えなくてもよさそうな映画をセレクト。
以前より興味があった河崎実監督作品「ヅラ刑事」です。
河崎監督の映画は初めて観ますが、「イカレスラー」「コアラ課長」とかタイトルだけでも自分好みな感じはしていました。
「ヅラ刑事」の主演はモト冬樹さんですが、「ゴーストライダー」のニコラス・ケイジ(刑事?)を観てた時から、この映画が気になっていたんです。

さて評価ですが、ちょっと微妙な感じですね・・・。
とってもオバカなC級を期待していたのですが、全体的に微妙に淡白な感じがしました。
「しょーもないなあ、ガハハ!」
と大笑いしたかったところだったのですが、どうも「苦笑・・・」という感じで。
河崎監督のテイストってこんな感じなのかな?
全体的に安っぽい感じなのはそういうものだとわかっているので気にはならないのですが、出演している方々の演技がどちらかというとあまりうまくない。
キャラ立ち優先だったのかもしれませんが、その立ち方もやや微妙でした。
モト冬樹さんぐらいかなあ、ちゃんとしていたように感じたのは。
キャスティングでモト冬樹さん決めた時点でこの映画は完成ってことなのかもしれませんけれども。
演出もあまりメリハリがあるようではなかったように感じました。
途中のカラオケ風の挿入歌も一番までは味わいがあったように思えましたが、三番までいくとややしつこいです。
もうちょいスカッと笑わせてほしかったのですが、やや欲求不満でした。

オープニングの往年の刑事物風のタイトルバックはらしくて良かったですけどね。

にほんブログ村 映画ブログへ

映画 た行, 映画・テレビ | | コメント (0) | トラックバック (5)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »