« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

2007年2月25日 (日)

「スピード2」 続編は変えるところと守るところの見極めが難しい

ヒット作の続編は難しいですね。
特に一作目がシリーズ化を前提に作っていないのに、思わぬヒットで続編製作が決まった場合は。
この作品「スピード2」もそのいい例です。
監督は一作目に続きヤン・デ・ポンなのですが、監督が同じだからといっていい作品になるとは限らないのは「ダイハード3」でも同じことがいえます(「ダイハード」は1と3は同じ監督ジョン・マクティアナンですが、出来は月とスッポン)。

予定していない続編を作るときは、何がファンに受け入れられたのかということを見ずに作らなくてはいけません。
この作品「スピード2」を作った人たちは何だと思っていたのでしょう。
この作品を見る限りは、このようなアイデアこそが受け入れられた要因だと考えていたということが想像されます。
 1.限定空間で事件が起こる。主人公はそこから出たくても出られない。
 2.お互いに相手が見えない状況での、犯人との丁々発止のやり取り。
このあたりはヒット作「ダイ・ハード」の影響が見れます。
 3.限定空間は止めるに止められない乗り物。
特に3が「スピード」をオリジナリティがあるものにしていると思います。
ただそれを表面的にとらえすぎているのではないでしょうか。
 ノンストップのバスや電車 → ノンストップの船
乗り物を変えればいいという安易さをアイデアに感じます。
「スピード」というタイトルのせいでなかなか乗り物以外の場所を舞台にするのは、難しいのかもしれませんが。
一作目「スピード」がいいのはアイデアはもちろんですが、次から次へとあとをひく脚本の良さだったと思います。
「スピード2」の事件はまったく一作目と同じような展開で新鮮さがありません。
次から次へと課題に対処していくスリリングさは一作目のほうが圧倒的に上です。
下手に前作をなぞるよりは、思い切って全く別の構造にしてしまってもよかったかもしれません。
(「エイリアン2」などはこれで成功したと思います)

この作品で守るべきところはキャラクターだったと思います。
キアヌ・リーブスが出演ができなくなったため、一作目でのジャックとアニーの恋はいきなり冒頭で清算されています。
そして代わりの相手が全然魅力的ではない。
前作で二人のキャラクターを気に入ったファンは、オープニングでがっかりしてしまいます。
ファンはキャラクターに思い入れがあるわけで、ここは変えてはいけないところでしょう。
「エイリアン3」を見た時にも似た憤りを感じました。

ヒット作の続編をつくればある程度の客を見込めるという製作側の安易さが感じられる作品です。
キアヌ・リーブスが出ないという判断をしたのは正しかったかなと思います。

続編は変えるところと守るところを見極めるところが難しい、と改めて感じさせる作品でした。

にほんブログ村 映画ブログへ

映画 さ行, 映画・テレビ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月24日 (土)

本 「仮説思考 -BCG流 問題発見・解決の発想法-」

本をいろいろ読んでいると、自分が今まで経験して自分の中で何か蓄積されたことを端的に表している本に出会えることがあります。
最近では、こちらの本がそれに当たります。

長年仕事をしていると、積み重なれた経験から知らず知らずのうちにスキルやノウハウが身に付いていきます。
僕の仕事はデザイン関連で、さまざまなマーケティング課題をデザインでソリューションする役割を社内で担っています。
課題はさまざまで与えられる時間もまちまちです。
そういう仕事をいくつもこなしていくのは、単なるデザインスキルというよりは、ものの考え方、思考法のスキルが必要になります。
効率的に効果的な答えを導くための思考スキル、それがこの本でも紹介されている「仮説思考」です。

この本でも従来的なやり方として紹介されているのが「網羅的思考」です。
さまざまなデータを集め、分析し、最も効果的であるという答えを導きだす。
一見これは正しい方法のように思えますが、お金と時間があればという前提がつきます。
日々スピードがもとめられ、こなす量も期待されていると、そんなことはできるわけもありません。
そういう状況で効率よくよりよい答えを導く方法が「仮説思考」になります。
現状あるデータ、情報においてよりよい答えである仮説をまず置く。
そしてその仮説をより確からしいと思えるように各種データを集めたり、検証を行う。
確信がもてればそれでよし、仮説が間違っているとわかれば、また別の仮説をたてる。
仮説が間違っていると無駄になるかと思うかもしれませんが、そうではありません。
「網羅的思考」ですべてを検証しているよりも、ある仮説に基づいて検証した方が当然確からしいかどうかという感触は早くわかります。
「網羅的思考」方法は最後までいかないと答えがわからないところに、効率性の悪さがあります。
デザインの開発でもたくさんの方向性を検討するというやり方がありますが(僕はこれを360度展開と言っていますが)、これは明らかに無駄です。
若い頃仮説がたてられるほど経験がなかったときはこういうやり方もしましたが、最近ではいくつかの方向性をつけデザインを開発していきます。
間違いは早めにわかるし手もうてる。
そう思って仕事をやってきましたが、まさにこの本ではその考え方をわかりやすく書いてありました。

会社の中で中堅どころで、いろいろ仕事があって処理しきれない、いい仕事の進め方はないのかと思っている方は一読をお勧めします。

「仮説思考 -BCG流 問題発見・解決の発送法」 内田和成著 東洋経済新報社 ハードカバー ISBN4-492-55555-2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「Gガール 破壊的な彼女」 ヘタレ男に、共感・・・

公開したばっかりだったのに、いつの間にかけっこう上映館が縮小していたので、もしやおもしろくないのかと思いつつ、観に行きました。

おもしろかったですよ!
監督はアイヴァン・ライトマン。
「サンキュー・スモーキング」を監督したジェイソン・ライトマンのお父さんですね。
「ゴースト・バスターズ」などが代表作です。
さすがコメディの大御所、楽しい作品を作ってくれます。

お話はいわゆるスーパーヒーローもののパロディ。
この作品見ていて思ったのですが、スーパーヒーローもののヒーローは何か特別な力を持っているけれども、とても性格は善良。
その力を悪用することはありません。
最近は悩めるヒーローも増えていますが、基本的には人格者ですよね。
特別な力を持っていて悪意がある人物はすなわち悪役になってしまうので、当たり前といえば当たり前なのですが。
この作品は人格者でもなく、悪人でもないフツーの人が超能力を持ったらというような、その間の狙い所が上手です。

ユマ・サーマン演じる「Gガール」は隕石から得た超能力で日々人々を助けています。
そういう意味では善良な人。
でも性格にやや難あり。
嫉妬深く、独占欲が強い・・・。
好きでいてもらえることは嬉しいけれど、やはりあそこまで過激だとひいてしまいますよねー。
ユマ・サーマンは僕の感覚からすると美人なのかどうなのかちょっと微妙なのです。
ややクールでとっつきにくく、コワい顔立ちの印象ですね。
そんなユマ・サーマンがこの役にはぴったり。
激情にかられて目の前でキレられたら、超能力持っていなくても、反射的に謝ってしまいそうです。
彼女もこの役を嬉々として演じているように見えました。
相手役のルーク・ウィルソンのヘタレっぷりも好印象。
女性が怒り始めたら男性は振り回されるしかありません・・・。
体を高速回転させるGガールはまさにハリケーン。
ヘタレ男はただ頭をさげて嵐が過ぎるのをひたすら待つのみです。

シナリオも出来はよかったですよ。
いわゆるヒーローもののフォーマットで人物を配しながら、ラストはうまくひねってます。
明るいラストはこのライトマン監督らしい感じでした。

エネルギッシュな女性二人が事件で活躍、男二人は置いてきぼり。
「ビールでも飲みにいきますか」
しみじみ・・・共感。

息子さん(ジェイソン・ライトマン)の作品「サンキュー・スモーキング」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (15) | トラックバック (40)

2007年2月22日 (木)

本 「探す力 -インターネット検索の新発想-」

ずいぶん前にコンピューター雑誌の書評で紹介されていて買っていたのですが、ずっと積んどいたまま手にしなかった本です。
先日仕事がらみでインターネットの情報検索についての話になったので、ふと思い出してみて読んでみました。

中身はどちらかというとHowTo本だったので、うなるような内容ではなかったです。
なによりもちょっと前の本なので、インターネット検索についての内容は現在ではかなり古く感じます。
ブログなどという言葉は欠片もでていません。
今となっては全然「新発想」でもなんでもないです(笑)。
やはりこういう本は旬の時に読むものですね。

読んでいいて改めて驚いたのはこの点、インターネットというものそれ自身とその環境の変化の早さ。
他のジャンルについて本を読んでいても、数年前に出版された本でもそれほど古く感じることはありません。
10年くらい前の本だったら、そういう感じもありますが。
けれどもインターネットがらみの本は2年くらい前の本でもとても古く感じます。
ドッグイヤーとも言いますが、それだけこの分野は早く変化しているのだというのを改めて感じました。

思えば10数年前会社に入った頃は調べものと言えば、本屋などを回って足で情報を探したものですが、いまではチャチャッとインターネットで調べられます。
逆に言うと、今の若い社員はインターネットで使ってしか情報を探せないんですよね。
若い人を見ていると、手軽になりすぎて情報の価値の評価や、その探しだすための思考力・想像力が落ちている気がしたりもします。

「探す力 -インターネット検索の新発想-」 原野守弘著 ソフトバンクパブリッシング ソフトカバー ISBN4-7973-1630-6

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月18日 (日)

「轟轟戦隊ボウケンジャー」 宝物は、仲間

悪の組織から平和を守るというのではなく、宝物(プレシャス)を追い求めるのが目的で、その経過で邪悪な企みのために同じ宝物を探す複数の組織(ネガティブ・シンジケート)と戦うというのが、目新しい設定でした。
「ハリケンジャー」あたりから成長するレッドという流れが強かったですが、久しぶりに頼れるレッドというのも新鮮に見えました。
揺るぎないレッド(明石)が軸になったため、周りに彼を越えようとする真墨(ブラック)、彼を信頼し慕うサブリーダーさくら(ピンク)などのキャラクターをうまく配置できていたような気がします。
「デカレンジャー」はプロ意識があり、「マジレンジャー」は兄弟の絆があって、戦隊全体がまとまっていました。
このシリーズはどちらかというと「デカレンジャー」的な組織としてのまとまりを描くのかと勝手に想像していたら、それとも違っていました。
よくあるような悪に対して戦うという使命感でもありません。
「ボウケンジャー」では一人一人が探し求めるもの・目標は異なります。
目標とする人物を越えるということだったり、失われた自分の記憶をとりもどすことだったり。
それぞれ違う目標=宝物(プレシャス)を追うなかで、チーム皆が持つ共通した宝物(プレシャス)に気付きます。
それがいっしょに冒険に挑む仲間たちだったのです。
その気付きが彼らを結束させ、30作品目の戦隊シリーズにふさわしいチームワークを見せてくれた気がします。

戦隊シリーズは新人の俳優さんが抜擢されることが多く、はじめのうちは素人っぽさが痛々しかったりするのですが、「ボウケンジャー」レギュラーメンバーは当初より完成度が高かったように思います。
さくら役の末永遙さんはあの歳で芸歴は十数年、蒼太役の三上真史も映画などに出られていた方だったので、最初のうちから安心して見ることができました。
すばらしいメンバーだったと思います。

シリーズ早々にメカが究極合体などしたので後半どうなるかと思ったら、年間で十数台もマシンがでてきてメカ好きにはたまらないシリーズでしたね。
男の子のお子さんをお持ちのご両親は気が気でなかったでしょうけれども(ねだられますよねー、たぶん)

「轟轟戦隊ボウケンジャー THE MOVIE 最強のプレシャス」の記事はこちら→

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ミニミニ大作戦(2003)」 もっとミニの活躍が見たかった

昨今アクション映画でも凝ったストーリーが多い中、その辺りはほとんど気にせずカーアクションを見せようという意図は割り切りがあっていいですね。
オリジナルは未見なので比べられないのですが、あまりストーリーが重要そうな作品でもなさそうなので旧作を気にしなくてもよさそうです。
オープニングのヴェニスのシークエンスはなかなかいい感じ。
見ていたら、一番最初の「ルパン三世」のテレビシリーズで現金輸送車を襲う話があったのを思い出しました(古っ)。
それも周到に練り上げられた計画で、一切人の血を流さず、警備の裏をかくという話だったと思いますが、この手の話はカタルシスありますよね。
後半のロスでの金の延べ棒奪取のシークエンスはもっとひねってほしかったですが。
2時間に満たない尺だったので、あれもう終わりって感じはありました。
キャストも何気なくいい人をそろえていたりします。
マーク・ウォールバーグ, シャーリーズ・セロン, エドワード・ノートン, ジェイソン・ステイサム、けっこういいメンバーですよね。

不満点と言えば、もっともっとミニ・クーパーのカーアクションを見せてほしかったです。
赤青白のミニが並んで走るのはかっこいのですが、マーク・ウォルバーグが乗っている車以外はあんまり活躍していなかったですよね。
ミニの小ささを活かしたアイデアなどがもっとアクションシーンに取り込まれていたらなあと思いました。
地下鉄構内へ階段を駆け下りていくシーンなどはミニらしいシーンではあるとは思いますが、こういうのをもっと見たかった。
ちょっと昔のいすゞジェミニのコマーシャルを思い出しちゃったりしましたが(またまた古っ)。
カーアクションとしては「ボーン・アイデンティティ」の方のミニの見せ場があった気がします。
見ているうちに、マーク・ウォールバーグとマット・デイモンがかぶってきました。
この二人似てません?
そういえばこの二人「ディパーテッド」では共演していましたね。

最後に映画と関係ないことを・・・。
ミニ・クーパーは旧デザインも新デザインも両方とも好きなんです。
新しいデザインは元のデザインのエッセンスを上手に活かし、そして新しくすることができた名デザインだと思います。
ややもするとモデルチェンジの時は、新しいことばかりが優先され、今までのデザインの良いところを捨て去ってしまうことが多いものですが、新ミニのデザインはそんなところはないですよね。
デザイン関係の仕事をしている身としては、こういう上手なデザインを見せられるとヤラレターと思ってしまいます。

マーク・ウォールバーグ主演「ザ・シューター 極大射程」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (2) | トラックバック (2)

本 「名もなき毒」

同じ大沢オフィスの京極夏彦さんと宮部みゆきさんがほぼ同じ時期に「毒」をテーマにした小説を送り出しました。
片や「邪魅の雫」、片や「名もなき毒」。
テーマが同じだったのは偶然だったようですが、名だたる人気作家が同じテーマを選んだところがおもしろいですね。
ミステリーでの殺人を行う手法はいくつもあり、それこそその手法を数々の作家が考案してきました。
撲ったり、刺したり、絞めたりなど至極暴力的な方法もあるかと思えば、事故のように死ぬように仕組まれる知能犯的なものまでそれこそ枚挙に遑がありません。
その中でもアガサ・クリスティーなどがよく小説で使った方法が毒殺。
毒殺の最大の特徴は、殺人者が被害者を直接手をくだす必要がないこと、そのため女性など力がない人でも、相手を殺めることができます。
また仕掛けさえできれば、被害者が死す場面に立ち会わなくてもいいこと、大量の人に被害を与えることができること。
つまり毒殺は「手を血で汚す」ことなしに、実感を伴わず相手を害することができる手法といっていいでしょう。
直接殺害する場合に比べ、加害者にとって被害者がとてもバーチャルに見えるんですね。
実感をともなわない殺人と言いましょうか。
このあたり、京極さんも宮部さんも注目して小説を組み立てているようですが、まったく違う話になっているのが、読んでみるとそれぞれの個性がでていておもしろいです。

「五人の命を、ミネラルウォーターに毒物を混ぜるということだけの簡単な作業で奪ってしまうことができる<中略>そういう形で行使される(他人を意のままにする)権力には、誰も勝てん。」
小説の中である人が語る台詞です。
簡単でかつ強制的な毒という手段は、自分の怒りを自分勝手に誰かにぶつけようとする人にとっては至極便利なものなのです。
それを気をつけることだけでは防ぎようがありません。
それよりも他人に自分の怒りをぶつけようとする人の心に潜む毒、そのものを見なくてはいけないのだと作者は語っています。
人の中にある「名もなき毒」とは何か、それを何であるか見つけ、中和していかない限りは安らかに暮らしていけないのでしょうか。

「自己実現」という言葉を発明したことにより、安らかに暮らしていけなくなったというところも何か考えさせられました。
理想の自分を設定し、そこに至らなくてはいけないという強迫観念。
前向きに暮らすことはいいことなのですが、「自己実現」できなかったら悪い人生なのでしょうか?
冷静な自己分析がないなかでの「自己実現目標」の設定は苦しむだけといいます。
僕が知っている人でもちょっとそういうタイプの人がいたりして。
何か始終イライラしているようにも見えます。
何か理想の自分があって、そこに届かないためにイライラしているのでしょうか。
それは自分以外の人にもぶつけられ、周囲にも影響を与えるため、全体の雰囲気も悪くなります。
まさに毒のようにひたひたと伝わっていきます。
なりたい自分を描くことは大事です。
それのためにがんばれるから。
けれどもそれを達成できないからといって、自分も周囲も否定しないことも大事だなと思いました。

「名もなき毒」 宮部みゆき著 幻冬社 ハードカバー ISBN4-344-01214-3

京極夏彦著「邪魅の雫」の記事はこちら→

| | コメント (4) | トラックバック (5)

2007年2月17日 (土)

「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」 ホイチョイはあの時代に戻りたい?

まさにバブル真っ盛りし時にヒットした映画「私をスキーに連れてって」を世に送り出してヒットさせたホイチョイ・プロダクションズとフジテレビが、バブル時代をおもしろおかしく振り返る映画です。
僕も学生の頃、あの映画を観て、スキーに行きました・・・。
まだ都庁が移転してくる前の新宿高層ビル下からスキーバスで。
僕の先輩はあの映画の影響でセリカを買ってましたね。
まさに浮かれた時代・・・。
あの浮わついた時代をバブルの申し子的な二社が描く狙いは、楽屋オチで笑かすつもりか、自嘲気味なニヒルな笑いでしょうか・・・。

僕が会社に入ったのは、まさにバブルが破裂する頃。
会社に入ったころはまだその残滓みたいなものは残っていて、上司につき合わされ夜中まで赤坂・六本木あたりをひっぱりまわされました。
その時の光景はまさに映画で描かれていた感じです。
ワンレン・ボディコンとか言ってましたね、そういえば。
さすがに札ビラを出しながらタクシーを止めたことはないですが、夜中の3時くらいに上司の帰宅のタクシーをつかまえるために延々道路で手をあげてたりしました(泣)。
まもなくバブルははじけ、交際費など贅沢に使えることはなくなったので、まったく自分は得することなかったですね。
個人的にはあまり派手なのはきらいなので、今の方が暮らしやすいかなとは思っていますが。
あんな浮かれている状態がそもそも変だったのですよね。
今の若い人の方が、よっぽど堅実です。
今、40代ぐらいで偉そうに若い人に「なっていない!」と説教している人がいたら、この映画を見せたらいいかもしれません。
自分の若い頃を思い出して、恥ずかしくてお説教できなくなってしまうかもしれないですね。

映画としては特に良くもなく、悪くもなく。
ホイチョイらしく、あの時代を懐かしむ小道具を散らばらせてそれなりに楽しませてくれますが、そのくらいでしょうか。
広末涼子さんは、お子さんがいらっしゃると思えないスタイルでびっくりしました。
髪型もアイドル時代(?)に戻ったような感じで、かわいらしかったです。

しかし今のままだったから日本経済は崩壊する、バブルの状態にもどせって映画では歴史を改変しますが、その方がはやく日本経済は崩壊しているんじゃないかとは思ったりはします。
そもそも無形のものにふさわしい価値以上の価値を幻想していたわけで、いつかその幻想は破れるんですよね。
それをなんとかつなごうとしても、いい思いばかりはしていられなかったでしょう。
やっぱりホイチョイは一世を風靡したあの時代の方がいいのかしらん。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (11) | トラックバック (82)

2007年2月14日 (水)

本 「悠久の銀河帝国」

この小説は第一部をアーサー・C・クラーク、そして第二部をグレゴリイ・ベンフォードが書いている二部構成になっています。
もともと第一部は「銀河帝国の崩壊」というアーサー・C・クラークのデビュー作。
この作品をベースに彼は「都市と星」というSF小説でも名作と言われる小説を書いています。
グレゴリイ・ベンフォードが「銀河帝国の崩壊」の続編として第二部を書き、合わせて出版されたのが「悠久の銀河帝国」になります。

読んだ印象は第一部と第二部は全く別物ですね。
第一部「銀河帝国の崩壊」は今までも何度か読みました。
僕にとって好きな作家の一人であるアーサー・C・クラークの原点とも言えるこの作品は、後々の作品にもあるように人類の進歩をポジティブにとらえている彼らしい視点がすでに入っています。
最近のSF小説は何か斜に構えたニヒルさやネガティブ感があるディストピアっぽいものが多いですが、アーサー・C・クラークはそのあたりは楽観的に見えます。
人間がさまざまなことを探求していこうとする気持ちは、何度か間違うことはあっても必ずいい方向に向かうはずだという人間に対する信頼感が感じられます。
主人公アルヴィンには、なぜか銀河鉄道999の星野鉄郎のイメージが重なります。
自分で夢を追い、実現しようと行動する若者といったところがかぶるのかもしれません。
人類には夢があると素直に思っている、そのあたりが僕がクラークの小説が好きな理由です。

けれども第二部は続編とはいえ、そんなクラーク的な考えはあまり出ていません。
当然設定などは引き継がれているのですが、テイストが変わっています。
グレゴリー・ベンフォードらしいユニークなアイデアが入っているSF的ギミックはありますが、それだけな感じがします。
クラークのような素直さはなく、最後は観念論のような話になりどうも物語に入れない。
クラークを継承するような物語でなければ、わざわざ続編とする理由が見当たりません。
映画でもえてして、ヒット作だから続編作ったという作品は大概ブーイングの嵐で失敗していますが、この作品も
そんな印象が残りました。

「悠久の銀河帝国」 アーサー・C・クラーク&グレゴリイ・ベンフォード著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011530-3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月12日 (月)

「不都合な真実」 何かを祈るときは行動すべし

勤めているのはどちらかというと古いタイプの会社なのですが、僕が記憶する限り初めてこの映画のチケットプレゼントなる乙な企画を社内でやっていました。
実施していたのは環境部という部署でしたが、その企画を通じて社内の環境問題への関心を高めたいという狙いらしいです。
ただ条件があって、映画を観た感想文を必ず提出とのこと。
職場の周りの人はめんどくさいーなどと言っていましたが、僕の場合はこんな風にブログに感想を書いているので、そんな条件は苦にもならず応募しましたら、見事に当選しました!
とは言いつつもチケットが送られてきたのは先週で、銀座での公開も終わってしまっていたので、慌ててまだ公開している六本木まで観に行ってきました。
けっこう観客動員がいいとは聞いていましたが、朝9:15の回でほぼ満席。
環境問題への関心度があがっていることが伺われます。

映画はブッシュ現大統領に僅差で敗北した、アル・ゴア元副大統領の講演がベースになっています。
恥ずかしながらこの映画の公開まで、彼が環境問題に力をいれている政治家とは知りませんでした。
どちらかというと「情報スーパーハイウェイ構想」のイメージが強かったです。

今年の冬は記録的な暖冬と言われています。
異常気象という言葉も日常的になり、何が異常なのかわからなくなってきていますが、その原因と言われているのが「地球温暖化」。
地球温暖化とは地球を取り巻く大気層の中のCO2量の増加により、地球からの放出する熱量が下がる(いわゆる温室効果)ため、気温上昇を招くといわれる現象です。
この地球温暖化という現象については、その現象自体を否定する意見もあります。
環境問題はグローバルであるがゆえナイーブ、かつ複雑であり、環境問題推進派も経済活動優先派もその意見はヒステリックになることもあります。
この映画を観て感心したのは、アル・ゴアの極めて理性的な説明力。
温暖化否定派の反論意見を受け止め、さまざまな精緻なデータを使い、わかりやすく説明していきます。
理解しやすい図解、上手に組み立てられたプレゼン・ストーリー、時折はさむユーモアにより、環境問題の実情とその考えの正当性を理性的に訴えていきます。
また映画としての強みである映像を上手に使っています。
氷河がどんどん後退していったり、キリマンジャロの雪がなくなっていく様子は、まさに百聞は一見にしかずといった説得力があります。
映画を観ながら、食い入るように観てしまいました。

この映画を観る前に想像していたのは、環境問題に及び腰な企業や国をセンセーショナルに追求していくというドキュメンタリーでした(マイケル・ムーアなどはそんな感じですよね)。
けれどもアル・ゴアは、何かを攻撃するという感じはない。
確かに世界的に影響力があるにもかかわらず、京都議定書を承認していないアメリカ政府に対しては、この映画の中でも政治の問題として課題があると突きつけています。
けれどもアメリカ政府が何か環境に関する規制を行えば、「地球温暖化」は解決するのかというふうに思っているわけではないと思いました。
エンディングのテロップででてきたアフリカのことわざがそれを言い表しているような気がします。
「何かを祈るときは行動をすべし」
環境は大事、地球を守れ、これを否定する人はいないでしょう。
けれどもその思いはえてして政府や企業などを非難するだけに向かいがちです(当然、国も企業もその努力をしなくてはいけないのですけれども)。
しかし非難ばかりしていて良い訳はない。
「祈る」気持ちがあるならば、自分の周りからでも少しずつ手をつける「行動」を行う。
アル・ゴアが言いたいことはそこなのでしょう。

映画の中身とちょっと違いますけれども、上でもちょっと書いたアル・ゴアのプレゼンテーション力にびっくりしました。
基本的に彼の講演を中心に構成されていますが、相手を引き込み自分の伝えたい内容をわかりやすく解説していく力はすばらしい。
講演自体も練られた構成で、退屈になりがちなデータの紹介も、わかりやすいビジュアル、トークで飽きなかったです。
まさにプレゼンテーションの見本。
僕は仕事柄プレゼンの機会も多いのですが、見習いたいものです。

アル・ゴアはアップルコンピュータの取締役でもあるので、使っているのはPOWERBOOKでしたね。
あのスライドはやはり「POWERPOINT」ではなく「KEYNOTE」かしらん。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (19) | トラックバック (45)

2007年2月11日 (日)

本 「ニュートンズ・ウェイク」

文庫でSF研究家の堺氏が以下のような解説文を書いています。
「読者諸兄に警告する。乗り遅れるな。
覚悟をしていただきたい。本書は最高速で突っ走る二十一世紀型最新鋭スペース・オペラなのだから。
<中略>
一度その速度に乗り、世界に馴染んでしまえば、一気呵成にラストまでご機嫌なドライブを楽しめるだろう」

僕は乗り遅れてしまいました。
最後まで作者の作った世界に馴染めず、置いてかれてしまいました。
ラストまで読み切るのが辛かった。
SFファン的には楽しそうなガジェットがたくさん出てきておもしろそうなのですけれど。
「後人類」「強制昇天」「実戦考古学」「啓蒙騎士団」・・・出てくる設定は文字を読むだけでワクワクしそうなものばかり。
でも乗り切れなかったです。
解説でも「最高速で突っ走る」と書いてありますが、でてくる設定、ガジェットが盛りだくさんでそれぞれの解説が追いつかず、不親切に感じたのかもしれないです。
それとも今のSF小説の読者は全然平気なのかな?
僕は好きなSF作家がアーサー・C・クラークやアイザック・アシモフだったりするので、古いのかもしれません・・・。

「ニュートンズ・ウェイク」 ケン・マクラウド著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011575-3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「守護神」 アメリカ版「海猿」

アメリカ版「海猿」と言われたりしていますが、まさにその通り。
「海猿」は海上保安大学校が、こちらはUSCS(アメリカ沿岸警備隊)のAスクールが主な舞台となります。
アメリカ沿岸警備隊は海難救助や沿岸整備などを主な任務としている組織です。
日本の海上保安庁はアメリカ沿岸警備隊をモデルにしているそうなので、映画も似てきてもしょうがないですかね?

ストーリーは、実力がある自信家の若者を、過去にトラウマを持つベテランが導くというオーソドックススタイルでした。
「海猿」は泣き所がけっこうあったのですが、「守護神」は涙が流れるまではいかなかったですね。
このような男のドラマは好きなので積極的に不満はないのですが、すべて展開は想定内だったので、その点もの足りないと言えばもの足りないところでしょうか。
軍隊や警察を舞台にした映画は数々ありますが、海難救助という映画はあまり見かけませんよね。
僕は「海猿」くらいしか思いつきません。
軍人が場合によっては「命を奪う」ということを任務としているのに対し、救難士は「命を救う」というのが職務になります。
場合によっては自分の命をかけても。
「人を救う」という場面にはしなくてはいけない決断があり、そこでは「命」とは何かと、「生きる」とは何かということを問いかけるドラマがうまれます。
特に「海猿」の原作の漫画は、その点を掘り下げて海上保安官仙崎が悩み、決断していく中での成長を描いています。
「守護神」はそのあたりに触れてはいますが、踏み込みがまだ浅いため涙腺がゆるむまではいけませんでした。
ケビン・コスナー演じるランドール、そしてアシュトン・カッチャー演じるフィッシャーの二人の男をバランスよく描こうとしたためでしょうか、もうすこし登場人物の悩みを深く描いてもらいたかった気がします。

救難士の訓練は「海猿」で描いていたのと同じ感じでしたね。
おもりをもっての立ち泳ぎは、自分だったら即溺れてます。
救難士という仕事は、人並みはずれた判断力と体力が必要とされるまさにエリートなんですね。

海難救助場面は迫力ありました。
当然CGなど使っているのでしょうが、まったくそんなことを感じさせないリアリティのある迫力がありました。
このあたりはさすがハリウッドというところでしょうか。

ケビン・コスナーを初めて観たのは「アンタッチャブル」の時なので、もう20年ほど前になります。
その時の役が若く才気と正義感にあふれ、上昇欲のある若者エリオット・ネスという役柄でした。
ネスはマローン(ショーン・コネリー)という初老の警官に出会い、導かれ成長していきました。
そのケビン・コスナーが今は若者を導く役をやるというのも感慨深いものです。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (18) | トラックバック (51)

2007年2月10日 (土)

「ファンタスティック・フォー」 やっぱり観るべきところはジェシカ・アルバのみ

「スパイダーマン」や「X-MEN」などアメコミの映画化作品はけっこう好きなのですが、この作品は受け付けませんでした。
まずはキャラクターが弱いです。
原作は60年代なので、彼らの超能力が「よくある」タイプであるのは仕方ないのですけれど、それでもチームリーダーがゴム男というのは、さすがに厳しい。
どうみてもあまり強そうじゃないです。
そして衣装もかっこ悪い。
男のタイツ姿は観ていてつらいです(ジェシカのスタイルの良さは堪能できますが)。
ゴム男以外も透明人間、怪力男、火の玉ボーイもステレオタイプ。
どうしても「どこかで観た感じ」というのがつきまとってしまいます。

演じる俳優さん方もちょっと地味目です。
ミスター・ファンタスティックを演じているのは、ヨアン・グリフィス。
「ザ・フライ」のジェフ・ゴールドブラムを細くしたような感じです。
実年齢は知りませんが、見た目やや年配風なので、ジェシカ・アルバと恋愛するのはいまいち納得いかないような・・・。

ストーリーもアメコミの王道で、最近では珍しくヒネリがありません。
悩めるヒーローのドラマを見てきているので、とてももの足りなく感じます。

そんなほとんど僕の心の琴線に触れなかったこの映画ですが、観ていて注目してしまうのは、やはりジェシカ・アルバ。
役がどうこうというよりもやはり美しい容姿は観ていて、目の保養にはなります。
ただ「イントゥ・ザ・ブルー」にしても「シン・シティ」にしても、彼女は自分の容姿をアピールする映画によく出ますが、女優としてあまり評価されないような作品が多いので、人ごとながら今後を心配してしまいます。
最近ジェシカ・アルバと若さと美しさで並び称されるスカーレット・ヨハンセンは、明らかに女優として作品を選んでいるような感じを受けるので、今後の作品選びに注目です。
と思っていたら、ジェシカ・アルバ続投で「ファンタスティック・フォー」の続編製作も決定したようですね。
作品情報を観てみると、ジェシカの名前がトップにあがっているので、彼女が主役なのかな?
あまり期待してはしていませんが、それはそれで見所が多くなるので、観に行ってしまうのでしょう、きっと。

続編「ファンタスティック・フォー:銀河の危機」の記事はこちら→

ジェシカ・アルバ出演「イントゥ・ザ・ブルー」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (6) | トラックバック (8)

「世界最速のインディアン」 生き方上手

「5分が一生に勝る」
「夢を追わない男は野菜と同じだ」
映画の中でバートがぽつりという言葉には深みがあります。

バート・マンローは実在の人物。
未だ破られていない世界最速記録を作った男です。
彼は故郷ニュージーランドから、1920年型インディアン・スカウトという年代物のバイクで塩平原で開催される世界最速を競う大会にでるべくアメリカに渡ります。

旅を続けていくバートは、何度も小さいトラブルに巻き込まれます。
そんなピンチでもバートは淡々としながら、けれども迷いなくそのトラブルを克服しています。
そしていつも何故か関わりあう人々はバートに救いの手を差し出します。
バートが屈託なく、バイクへの無垢な思い、世界記録への夢を語る姿に触れると、人々は何かこの人のためにしてあげたいという気持ちになるのでしょう。
そんなバートへの皆の気持ちのベースにあるのは、彼の生き方への憧れだと思います。
バートが世界記録を打ち立てる男だから、皆が憧れる訳ではないのです。
ほとんどの人は、一生をかけて夢を追う人生ということを送ることができないと思います。
一生をかけるに値する夢を見つけられなかった者。
夢を諦めなくてはいけなかった人。
ほとんどの人々がそうあるなかで、何も気負いもなく自分の夢を純粋に追い続けるバートの姿に何か憧れを持ってしまうのでしょう。
少年にとっては自分もこうありたいという姿。
大人になった人からすると、もしかしたら自分もこうあれたかもしれないという後悔と憧れ。
バートが夢を実現してくれたら、自分の夢も少しかなったような満足感を得られるかもしれないという期待。
かくいう僕も映画を観ていたら、最後はがんばれ!バートとまるで自分ごとのように応援している気持ちになりました。

アンソニー・ホプキンスは好演。
バートは彼以外に考えられないというくらいにはまり役でした。
今まではクセのある役が多かったですが、少年のように夢を追い続ける男を嫌みなく演じていて好感が持てました。
こんな人物が近くにいたら絶対好きになってしまいます。

撮影も良かったと思います。
冒頭の夜明けにバイクを小屋から出すバートの姿。
憧れの塩平原で朝を迎えるインディアンとバートのシルエット。
まさに手に汗を握る、息も詰まるようなスピード感、緊張感のあるレースシーン。
久しぶりにぞわぞわと鳥肌がたつほどに、すばらしい映像だったと思います。

かっこいいよ、じいさん!
これこそ生き方上手。
僕もこんな風に生きてみたい。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (28) | トラックバック (70)

2007年2月 4日 (日)

「亡国のイージス」 原作小説のダイジェスト版に見える

少し前に「ローレライ」についての記事で、福井晴敏さんの小説は映画に向かないのではと書きましたが、改めて「亡国のイージス」を観ると、その思いは強くなりました。
表現の形態が異なるので、小説と映画を比べても仕方がないのですが、いくつか思ったことを。

原作の魅力は一つはキャラクター同士の絡み。
工作員として徹底的に教育され人間らしい気持ちを失っていた如月一等海士が、次第に千石先任伍長に心を許していく様子や、ヨンファとチェ・ジョンヒの関係などは、映画ではさらりと描かれています。
真田広之さん、中井貴一さん、寺尾聡さん、佐藤浩市さんなど一人だけでも主役をはれるほど恵まれた俳優陣を揃えながら(それゆえかも)、それぞれのキャラクターの書き込みが薄いように思えました。
原作はかなりのボリュームがあり、各登場人物の背景について丁寧に描かれているため、なぜその時その人物がそのような行動をとるのかの納得性があります。
けれども本作品ではイージス艦の反乱事件の経過を追うだけで精一杯になっているので、登場人物の考えがわかりづらく、観ていてしっくりと入ってこない印象を受けました。
当然制作者サイドもそういう危惧は持っていたのか、フラッシュバック的に過去を映したり、台詞でダイレクトでキャラクターの主張を言わせたりすることにより、少しでも人物を描こうとする努力をしているのも感じました。
けれどもそれが精一杯。
やはりあの原作を2時間ちょっとで消化するのはかなり厳しいのでしょう。
厳しいならばある人物に徹底的にフォーカスしてもよかったかもしれません。

もう一つ原作の魅力はトム・クランシーの小説のようなテクノ・スリラー感。
福井氏の小説ではかなり兵器テクノロジーの書き込みは丁寧でした。
映画では自衛隊の強力もあり、実物のイージス艦や戦闘機がフィルムに収められ、小説ではなかなかできない存在感を出していたように思えます。

そして福井氏の作品に共通して通じている、平和や戦争というものを真剣に考えてこなかった日本の国家、国民に対するいら立ち感。
これは中途半端。
ヨンファや渥美が劇中で、台詞でそのような主張をしていますが、ストレートかつ突然なので腹に入り難い。
やはり人物が描ききれていないため、台詞の納得性が低いような気がしました。

以上あげたような原作の魅力を映画ではすべて実現しようとマジメに取り組みすぎている気がします。
そのためどっちつかずとなり、映画がなんだか小説のダイジェスト版のような感じに見えました。
映画という小説とは違う表現なので、思い切って原作の切るところは切り、新しく加えるところは加えるといった割り切りが必要だったように感じます。

福井晴敏氏原作の映画「ローレライ」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (0) | トラックバック (3)

本 「ネット時代の反論術」

ブログを初めて半年。
幸い、自分のブログを訪れてコメントをいただいている方々はよい方ばかりなので、楽しく運営させていただいてます。
ただ「ブログ炎上」などということをいろいろなところで聞くので、万が一のためにそういうことへの知識を持っていたほうがいいかと思っていたら、この本が書店で目に入ったので手に取ってみました。

内容は自分が想像していたのとちょっと違ってました。
「術」という言葉がタイトルにあったので、ハウツーについての解説かと思ったんですけれども。
確かに本の後半はいくつかの目的に合わせた「論戦」の仕方が書いてあります。
でもその内容はあまり重要ではないかもしれません。
あまりすぐ実行できるような内容でもないですし。

著者が言いたいことはあとがきに書いてありますが、「バカに対して反論するなんて、基本的に同じレベルのバカのやることだから、やめといた方がいいですよ」ということです。
(著者が書いている文章そのままの引用です、念のため)
特にネットでは簡単に議論のようなものができます。
しかも匿名で。
なにかかみ合ってないままに「論争」してしまうという状況は発生しやすいですよね。
著者も他人を「批判する」ことが、知性の証明だと思っている人が多いと書いています。

読んでいてなるほどと思ったことがありました。
著者によると、カントの「純粋理性批判」(もちろん僕は読んだことありません)などの「批判(クリティーク)」という言葉の語源はギリシア語の「クリネイン」という言葉だそうです。
この言葉は「分離する」というのがもともとの意味で、物事を細かく切り分け、どういう内容があるのか反省的にきちんと把握していくということが含意されているということです。
自分の思い込みではないかとまず疑ってみて、冷静に判断しないと「批判」ではないのですね。
僕も映画や本などについて批評めいたことをこちらで書いていますが、上記のような精神を持ってやっていかないといけないなあと思いました。

といいつつ、この著者の反感をあおるような書き口はあまり好きではないなあと思ったりもしました。

「ネット時代の反論術」 仲正昌樹著 文藝春秋 新書 ISBN4-16-660531-3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 3日 (土)

「墨攻」 映画の作りまで「墨守」しなくても・・・

漫画「墨攻」を原作とした日中韓の合作映画です。
タイトルにある「墨」とは「墨家」のことで、さまざまな思想が花開いた中国の戦国時代の諸子百家の一つです。
その思想は映画の中でも何度か出ていますが「兼愛」、そして「非攻」です。
「非攻」とは侵略を否定するが、守るための戦いは否定しないという考え方です。
今で言うと「専守防衛」と同じ考え方でしょうか。
戦争で世の中が乱れ、民が苦しんだ中国戦国時代の状況を反映しているのでしょう。
「自説を頑に守り続けること」という意味の「墨守」という言葉は、この墨家の思想に由来します。
漫画は読んでいないのですが、そのまた原作の酒見賢一さんの小説「墨攻」は読んでいました。
酒見賢一さんは僕の好きな小説家の一人で、孔子(儒家)を題材にした「陋巷に在り」など中国を舞台にした小説を多く書かれています。
ちなみに「墨攻」というタイトルは「墨守」という言葉から、酒見さんが作り出した言葉です。

ということで、原作漫画のそのまた原作に思い入れがあったので、とても期待して観に行きました。
ですが・・・ちょっと期待したレベルまではいっていなかったですね。

尺は2時間15分くらいで最近の映画では珍しくない長さ。
でも実際はとても長く感じました。
全体的に物語のリズムが単調なのかもしれません。
この手のアクションものというジャンルでは、物語の終盤に向けてうなぎ上りにボルテージがあがり大団円を迎えるという構造のほうがカタルシスを得やすいと思いますが、本作品ではそのような構成になっていなかったように感じました。
うまく表現できないのですが、この映画のシーンを、いわゆるハラハラする映像主体の「アクションシーン」と、人物とその物語が描かれる「ストーリーシーン」に分けるとすると、これらが行儀よく順番にでてくるような感じです。
アクション→ストーリー→アクション→ストーリーといった感じで、表裏で順番に攻守が入れ替わりたんたんと進んでいく野球の試合のようなイメージですね。
カタルシスのあるアクション映画は最後はアクションとストーリーが渾然一体となり指数関数的に盛り上がるものですが、そういう爆発力はなかったように思えます。

あとこの映画で期待していたのは、圧倒的に数的不利にたつ革離が知略をもって、どのように大軍と戦うのか、それをどのように映像で表現するのかという点でした。
その点についても、もの足りないと言わざるをえません。
合戦シーンは実際に多人数を使っているためか、最近欧米で主流となったCGで感じるような軽さはなかったように感じます。
高い位置からのカメラで、戦場で陣が生き物のように動く様をおさえるカットがいくつかあり、それは迫力あったと思いました。
けれども「MUSA -武士-」で描かれていたような戦いの重厚感のようなものはあまり感じませんでした。
いくつかイメージっぽい映像でごまかしているように感じる箇所もあり、なにか詰めの甘い印象があります。

主要なキャラクターのキャスティングは良かったと思います。
ストイックな墨家革離を演じるアンディ・ラウはとてもよく合っていたと思います。
また好敵手となる巷将軍を演じているアン・ソンギも相変わらず渋い味わい。
そういえば「MUSA -武士-」では革離のような役柄でしたね。
それ以外の方はあまりパッとしなかったですが。

全体的に、映画の作りがオーソドックスで冒険がなく、食い足りない印象です。
もっとワクワク、ハラハラしたかった。
映画の作りまで「墨守」しなくてもいいのに。

アンディ・ラウ出演「LOVERS」の記事はこちら→

アン・ソンギ出演「MUSA -武士-」の記事はこちら→

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (8) | トラックバック (70)

「あるいは裏切りという名の犬」 二人の男は互いの鏡像

ずっと観ようと思っていたのですが、気がついたら銀座でモーニングショーのみになっていたので、慌てて行ってきました。
フランス映画は久しぶりです。
フランスを舞台としていても「マリー・アントワネット」は英語でしたし。
原題は「36 QUAI DES ORFÈVRES」。
直訳すると「オルフェーヴル36番地」、これはパリ警視庁の住所ということで、センスなくタイトル付けると「パリ警視庁」って感じになるのでしょうか。
直訳よりも、この邦題はなんかノワールな感じでいいですね。

ヴリンクス(ダニエル・オートゥイユ)と、クラン(ジェラール・ドバルデュー)の二人の刑事の対立の物語です。
二人は以前同じ女性を愛し、そして現在でもそれぞれBRI(探索出動班)、BRB(強盗鎮圧班)というライバル関係にある組織に属し、そして次期パリ警視庁長官の座を競う関係。
かつては友であったと思われる二人、現在はヴリンクスの妻となったカミーユという女性を争った時から袂を分かったのでしょう。

ヴリンクスは愛する妻子を持ち、組織の中で部下にも慕われる男。
クランはかつて愛した女性を友に奪われたためか現在の妻とも距離をとり、そして組織では一匹狼的で上昇欲の強い男。
二人は同じ事件を追い、そして捜査の中で対立をします。
それぞれの性格、置かれている環境は異なり、そして幾多の場面で対立する二人ではありますが、この二人の本質は驚くほど似ています。
二人にとって、刑事という職業は天職といっていいのかもしれません。
ホシをあげるという目的のためには、手段を選ばないという価値観は実は同じです。
ヴリンクスは、はめられたとはいえ殺人という現場にいても、自分が追う犯人を捕まえるためにはそのことを黙しています。
クランは犯人を自分があげるため、仲間を犠牲にしても独断専行を行います。
目的のためには手段を選ばないというのは二人に共通しているのです。
映画の視点はややヴリンクス寄りですが、ブリンクスも甘いだけの正義の男ではありません。
妻の復讐をするためには手段を選ばないというその姿勢はクランと変わらないのです。
カミーユという女性を巡る争いではヴリンクスが勝ち、長官の座を競う戦いではクランが勝利しました。

そして最後はヴリンクスが生き残りました。
けれどもそれはほんの偶然だったのです。
ティティが犯人たちにクランの名前を囁かなければ逆になっていたかもしれません。

二人の男は互いの鏡像。
二人の間にある張りつめた静かな憎しみは、目的のためには裏切ることすら辞さない、そういう生き方しかできない己自身に対する嫌悪感なのかもしれません。

にほんブログ村 映画ブログへ

| | コメント (22) | トラックバック (33)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »