「どろろ」 全体的に消化不良でもったいない
早く観たいと思っていた映画だったのですが、ややもの足りない感じがしました。
期待度が高すぎたかな・・・。
映画を構成するさまざまなパーツをみていくと、それほど悪い点はないのですが、なんだか全体としてはあまり心が動かされませんでした。
ニュージーランドでロケをしたという風景はさすがに違います。
「ロード・オブ・ザ・リング」もそうでしたが、はるか遠くまで見通せる広大さは、空間のスケールが異なるような印象を受けます。
西部劇のように乾いて枯れた感じも今までの日本の時代劇ぽさはなく、新しい感じがしました。
日本で撮影してたらいくらがんばってもこうはならないでしょう。
けれどもこれはニュージーランドの自然の力のおかげですよね。
アクションは魔物との戦いに、殺陣に加えVFXやワイヤーアクションを取り入れてスピーディに表現していました。
合成なども違和感なくされていて、これらのアクションシーンはなかなかの出来だったのではないかと思います。
ただ何か中途半端な感じがしました。
ワイヤーアクションで感じるフワフワ感、軽い感じってありますよね。
香港映画の時代物で空中でチャンチャンチャン!と剣を合わせる感じです。
それに対して日本の時代劇の殺陣は、鉄と鉄がぶつかり合うような重い感じがあります。
ガシっ、ギリギリといった感じです。
ワイヤーアクション特有の軽い感じと、殺陣の重い感じが画面でしっくりとあっていなかったような感じがしました。
アクションの見せ場も前半はいくつか、中盤にハイライトといったところがありますが、ラストはあまり大掛かりなものはなく・・・。
もっと盛り上げて欲しかった・・・。
ストーリーの点では。
百鬼丸は産まれた時に体の四十八カ所を魔物たちも奪われています。
魔物を打ち倒すたびに奪われた体は戻るので、完全な体になるためには四十八の魔物を倒さなければなりません。
つまり百鬼丸は産まれた時には死んでいたも同然で、それから体を取り戻していく再生の物語でもあります。
自分のアイデンティティを取り戻す旅と言ってもいいかもしれません。
百鬼丸がのどを取り戻して思いっきり声を出す喜びに浸るシーンはいい場面ですね。
映画の最後の魔物を倒した時に取り戻すのは心臓=ハートで、喜びや痛みという感情を取り戻したという場面もラストとしては良かったかなと思います。
またその成長の途中には、父親殺し(越え)の要素も入ってきていました。
再生物語、父親越えなどの構造は神話などでもよくあるパターンなのですけれども、魔物を倒すたびに失われた体を取り戻し再生していくというアイデアには手塚治虫のすばらしい想像力を感じます。
映画の中では百鬼丸がどうしてそのような宿命を背負ったかというのが、前半描かれていますが、全体から観るとやや長い。
ラストは思いのほかあっさりしていて、やや拍子抜けの感もありました。
先にも書いたように個々の要素を観ていくとこの映画はそれほど悪くはないのです。
でも全体でみると、どうもぼやけてしまっているような感じがします。
百鬼丸の自我再生の物語にするのか、ややこしい心理描写はほとんど抜きにして超アクションムービーにするのか、このあたりがどうも曖昧だったような気がします。
やりたいことがたくさんあったのでしょうか。
全体的には消化不良でもったいない感じがしました。
| 固定リンク | コメント (20) | トラックバック (75)
最近のコメント