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2007年1月28日 (日)

「どろろ」 全体的に消化不良でもったいない

早く観たいと思っていた映画だったのですが、ややもの足りない感じがしました。
期待度が高すぎたかな・・・。
映画を構成するさまざまなパーツをみていくと、それほど悪い点はないのですが、なんだか全体としてはあまり心が動かされませんでした。

ニュージーランドでロケをしたという風景はさすがに違います。
「ロード・オブ・ザ・リング」もそうでしたが、はるか遠くまで見通せる広大さは、空間のスケールが異なるような印象を受けます。
西部劇のように乾いて枯れた感じも今までの日本の時代劇ぽさはなく、新しい感じがしました。
日本で撮影してたらいくらがんばってもこうはならないでしょう。
けれどもこれはニュージーランドの自然の力のおかげですよね。

アクションは魔物との戦いに、殺陣に加えVFXやワイヤーアクションを取り入れてスピーディに表現していました。
合成なども違和感なくされていて、これらのアクションシーンはなかなかの出来だったのではないかと思います。
ただ何か中途半端な感じがしました。
ワイヤーアクションで感じるフワフワ感、軽い感じってありますよね。
香港映画の時代物で空中でチャンチャンチャン!と剣を合わせる感じです。
それに対して日本の時代劇の殺陣は、鉄と鉄がぶつかり合うような重い感じがあります。
ガシっ、ギリギリといった感じです。
ワイヤーアクション特有の軽い感じと、殺陣の重い感じが画面でしっくりとあっていなかったような感じがしました。
アクションの見せ場も前半はいくつか、中盤にハイライトといったところがありますが、ラストはあまり大掛かりなものはなく・・・。
もっと盛り上げて欲しかった・・・。

ストーリーの点では。
百鬼丸は産まれた時に体の四十八カ所を魔物たちも奪われています。
魔物を打ち倒すたびに奪われた体は戻るので、完全な体になるためには四十八の魔物を倒さなければなりません。
つまり百鬼丸は産まれた時には死んでいたも同然で、それから体を取り戻していく再生の物語でもあります。
自分のアイデンティティを取り戻す旅と言ってもいいかもしれません。
百鬼丸がのどを取り戻して思いっきり声を出す喜びに浸るシーンはいい場面ですね。
映画の最後の魔物を倒した時に取り戻すのは心臓=ハートで、喜びや痛みという感情を取り戻したという場面もラストとしては良かったかなと思います。
またその成長の途中には、父親殺し(越え)の要素も入ってきていました。
再生物語、父親越えなどの構造は神話などでもよくあるパターンなのですけれども、魔物を倒すたびに失われた体を取り戻し再生していくというアイデアには手塚治虫のすばらしい想像力を感じます。

映画の中では百鬼丸がどうしてそのような宿命を背負ったかというのが、前半描かれていますが、全体から観るとやや長い。
ラストは思いのほかあっさりしていて、やや拍子抜けの感もありました。

先にも書いたように個々の要素を観ていくとこの映画はそれほど悪くはないのです。
でも全体でみると、どうもぼやけてしまっているような感じがします。
百鬼丸の自我再生の物語にするのか、ややこしい心理描写はほとんど抜きにして超アクションムービーにするのか、このあたりがどうも曖昧だったような気がします。
やりたいことがたくさんあったのでしょうか。
全体的には消化不良でもったいない感じがしました。

柴崎コウさん出演「舞妓Haaaan!!!」の記事はこちら→

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2007年1月27日 (土)

本 「流れよわが涙、と警官は言った」

年始に「スキャナー・ダークリー」を観たので、久しぶりにフィリップ・K・ディックの小説を手に取ってみました。
ディックの小説は読むのにエネルギーがかかるので、ちょっと敬遠していたのですけれど。
今回読んだのは「流れよわが涙、と警官は言った」です。

小説の世界の設定は、ディックの作品らしいです。
登場人物の一人、エンターテナーのジェイスン・タヴァナーはある日突然、自分が存在しないことに気付きます。
タヴァナーが暮らすのは極度の警察国家(これもディックの小説ではよく出てきますね)であり、人々は何から何までコンピューターに登録をされているのですが、タヴァナーのデータが全くなくなっているのです。
それどころか、日頃から親しくしていた人々すらもタヴァナーのことを知りません。
タヴァナーは自分が全く存在していなかったところに突然放り込まれてしまっていたのです。
途中より、存在していないことになっているタヴァナーの存在が次第に現実味を帯びてきます。
このあたりの虚から実への変化のグラデーション具合、もやもやした感じがディックらしい(それでも他の小説の方がもっとわかりにくい感じがしますが)。

久しぶりに読んで以外だったのが、この小説ではかなり愛について触れている箇所が多いということ。
ある種パラノイアチックな印象だったディックが、愛、そしてそれを失うことによる悲しみを語っていることにちょっと驚きました。
少し引用します。

「どんな愛でも忘れることができるが、子供に対する愛だけは別だそうだ。一方通行だがね。けっして見返りはない。そしてもしなにかがその人間と子供のあいだを引き裂いたら-たとえば死とか、それとも離婚のような不幸だがね-その人間は二度と立ちなおれない」

「それでもわたしは悲しみを味わいたいのよ。涙を流したいの。<中略>悲しみはあんたと失ったものをもう一度結びつけるの。同化するのよ」

この小説を書いた頃、ディックの妻は子供を連れて、彼の元を去っていったということです。
小説にディックの感じた悲しみが現れているような気がします。

「流れよわが涙、と警官は言った」 フィリップ・K・ディック著 早川書房 文庫 ISBN4-15-010807-2

フィリップ・K・ディック作品「ユービック」の記事はこちら→

フィリップ・K・ディックの小説を原作としている映画「スキャナー・ダークリー」の記事はこちら→

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本 「妖虫」

講談社江戸川乱歩推理文庫版で、「妖虫」と未完である「悪霊」が収録されています。
講談社のこのシリーズは僕が好きなイラストレーター天野喜孝さんが表紙を描いているので古本屋で目につくと買ってしまいます。

さて内容についてですが、まずは「妖虫」から。
文庫の解説で中島河太郎さんが書いているように、江戸川乱歩の今まで使用したお得意のネタを出してきただけという印象は否めません。
あと、これも中島氏が書いていますが、探偵役が魅力的ではないですね。
もうすこし特徴というか、キャラ立ち(江戸川乱歩の頃は無論こんな言葉はないでしょうが)した探偵が欲しかったですね。
「悪霊」の方は未完となっていますが、一章、二章と小説の書き方(一人称から三人称へ)を変えたりしているところに苦労を感じますが、どうにも収拾つかなくなった感じがします。
物語も何かノリが悪い感じがしました。
書き続けるのが苦痛だったのでしょうか。

「妖虫」 江戸川乱歩著 講談社 文庫 ISBN4-06-195215-3

江戸川乱歩著「陰獣」の記事はこちら→

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「僕は妹に恋をする」 たぶん若い子たちは共感できるんですよね・・・

昨日の映画「それでも僕はやってない」から「ボク」つながりでこの映画を観てきました。
新宿武蔵野館初回9:00からでしたが、けっこう人は入っていました。
ほとんど女性でしたが、松本潤さん目的でしょうか。
かくいう僕は榮倉奈々さん見たさでしたが(おいおい)。

原作の漫画は600万部を越えるヒット作とのこと。
頼と郁の双子の兄妹が魅かれ合い、悩み、傷ついていく、決して報われない恋を描いています。

大人気の少女漫画ということですが、双子の兄妹の恋の話に僕はちょっとというか、ほとんど感情移入できず、ついていけませんでした。
頼の親友であり、郁に恋をしている矢野くんが、頼に向かって「自分の気持ちに素直になれよ」と言ってましたが、それでいいのかと思ったりして。
郁の恋のライバルである友華の「兄妹なのに、やっぱ変だよ」という台詞の方がそうだよねと頷いたり。
女性だったらそのあたりはスッと入れるのでしょうか。
後の席の方で、ぐしゅぐしゅ泣いているような気配があったので、そう思ったりしました。
たぶん若い子たちは共感できるんですよね・・・。
やっぱり僕には無理でした。

切なさや葛藤を描こうとしているのか、台詞と台詞の間、芝居と芝居の間が開き過ぎている印象を受けました。
また長回しやカメラもフィックスな感じで淡々としていたと思います。
感情移入できていると気にならないのかもしれませんが、ちょっと退屈な感じでした。

主演の松本潤さんはきれいな顔立ちとは思いましたが、感情を抑えている役なので、演技がうまいという感じはうけませんでしたね。
榮倉奈々さんはかわいらしかったですが、どうしてもシリアスな役なので、明るい笑顔があまり見れなかったのが、残念なところでしょうか。

榮倉奈々さん主演「檸檬のころ」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「阿波DANCE」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演「渋谷区円山町」の記事はこちら→

榮倉奈々さん主演のテレビドラマ「ダンドリ。」の記事はこちら→

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2007年1月26日 (金)

「それでもボクはやってない」 もう裁判が人ごとではいられないのかも・・・

周防正行監督の久しぶりの新作です。
今までもユニークな題材を選んできた周防監督ですが、今回は痴漢冤罪事件を取り上げていました。

痴漢という犯罪は、女性にとってはもちろんたいへんな問題だとは思いますが、男性にとってもなかなかやっかいなことなのです。
僕も毎日満員電車で通勤していますが、このあたりは変な誤解をされないよう気を使います。
なるべく吊り革につかまって手を見えるところに出しておくとか、本を読んだり荷物を持ったり手をフリーにしてない状態にしたり。
この映画で描いているように痴漢は、加害者と言われてた場合、その反証を提出しないと無実にならないということを前にテレビで見たことがあり、怖いなあと思っていました。
朝の通勤電車に乗っているときは、ボーッとしていることが多いので周りにどんな人がいたとか、どんな体勢だったとか後で説明せよと言われても、覚えてませんと言うしかできないですものね・・・。
この映画で「私人による逮捕」というのがあるのを初めて知りました。
よくよく気をつけなくてはいけません。

この作品は今までの周防監督の映画とは違い、笑える場面はあまりありません。
どちらかというと淡々と物語は最後まで続いてきます。
これを退屈、長いと感じる向きもあるかと思いますが、僕はこれが裁判の現実なのだろうと感じました。
この映画を観ていて感じるジリジリとじれったい感じは、宙ぶらりんな状態で何ヶ月も拘留されている時に感じるであろう気持ちに近いのかもしれません。

素人にはわざとわかりにくくしているのかと思われるような、検事・弁護士・裁判官の法廷の言い回しもじれったい感じがあります。
たぶん法廷の言葉というのは、客観的な事実を評価するという裁判という制度が、なるべく主観や感情というものを排除してできあがってきたものなのでしょう。
普段僕たちが使っている言葉というものはただの文字や音だけではなく、そこには感情が少からず乗ってきています。
その感情があるおかげでその言葉は自分の心に入ってくるのだと思います。
裁判というものが、目の前の案件を処理するだけになってしまったとき、そこには人というものが無味乾燥なものになってしまいそうな怖さを感じました。
証拠をあげることが難しく、被害者の主観に負うことが多い痴漢冤罪事件に、日本の刑事裁判の問題点が現れているという荒川弁護士の言葉の意味がやっとわかりました。

痴漢冤罪事件に自分が巻き込まれる危険性は(注意していても)全く排除することはできないでしょう。
また以前に書きましたが、いずれ裁判員制度が導入されると僕たちも人を裁く立場になることもあるかもしれません。
裁く立場になるかもしれないし、裁かれる立場になるかもしれない。
いつまでも裁判を人ごとだと思っていられないのかもしれません。

加瀬亮さん出演の映画「ハチミツとクローバー」の記事はこちら→

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2007年1月25日 (木)

「GARO 白夜の魔獣」 雨宮監督の映像アイデアが光る

昨年の年末にCSファミリー劇場の10周年記念で放映していた作品をやっと観賞。
昨年テレビ東京系列で放映していた「GARO」のスペシャル版です。
「GARO」は毎週放送される30分の特撮番組でしたが、深夜帯の放送ということもありハードなストーリー、映像が今までの子供向けと思われる特撮番組と一線を画する作品でした。
何しろスゴかったのが、テレビシリーズとは思えないほどの特撮シーンのクオリティ。
よく見ると少なからず粗はあるのですが、雨宮監督の類いまれなる想像力から生み出されるアイデアをしっかりと映像化していました。
特にシリーズ中盤のガロとゼロのビルを降下しながらの一騎打ち、そして最終回の空を翔るゲートの上でのバトルのクオリティはテレビとは思えない出来で驚くほどでした。

さて今回のスペシャル版です。
一度シリーズものとしてストーリーは完結しているので、物語はややキレがが悪い感じはありました。
放送は前編、後編と分けて放送していましたが、前編はややもの足りない。
ただ後編に入り、「奈落の森」の場面になると俄然「GARO」らしくアイデア溢れる映像となっていました。
木々の間を奈落の底に向かって落ちるという絵は、カメラを90度傾けているのだけなのですが、とても新鮮に感じました。
普通に撮ると「ジェダイの騎士」なんですけどね。
ほんの少しのアイデアでとても新しい映像に見えました。
雨宮監督のセンスの勝利でしょう。

テレビシリーズからのレギュラーである、小西大樹さん、藤田玲さんのアクションの質は相変わらず高かったです。
今回はけっこう長回しで吹き替えなしのアクションシーンが多かった気がしますが、横山アクション監督の信頼感のなせる技でしょうか。
スペシャル版で初登場のもう一人の魔戒騎士ダンを演じた山本匠馬さんは、小西さん、藤田さんほど動きがきびきびとしてなかったのは、仕方がないことかもしれません。
また、テレビシリーズで邪美を演じていたさとうやすえさんが同じ役で復活していました。
テレビではたった2回の出演でしたが、日本人とは思えないスタイル、そしてすばらしいアクションを見せてくれていました。
さとうさんはバレエをずっとやっていた方なのですね。
どうりで動きが美しかったです。

最後にテレビシリーズの主立った出演者もちらりと出演。
スペシャル版ならではの監督の配慮が嬉しかったですね。

劇場版「牙狼<GARO> ~RED REQUIEM~」の記事はこちら→

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2007年1月22日 (月)

本 「ブルー・ムーヴィー」

ふと立ち寄った渋谷のブックファーストで、平積みになっていた小説。
POPにキューブリックの「博士の異常な愛情」の脚本家が書いた官能小説といった惹句があったので、手に取ったのですが・・・。

「ブルー・ムーヴィー」とは、平たく言えばポルノ映画ですね。
キューブリックをモデルにしたと思われる天才監督が、ポルノ映画をまじめに撮ったらというようなお話。

で読んでみたのですが・・・。
内容はただのポルノ小説でした・・・。
帯には官能コメディと書いてありましたが、全然笑えないし、下品だし、ただそれだけ。
店頭で平積みするような作品じゃないですね。
確かに他の書店では店頭で見たことない小説ではありました。
どういうセンスしているんだろ、ねえ、ブックファーストさん。

「ブルー・ムーヴィー」 テリイ・サザーン著 早川書房 ソフトカバー ISBN4-15-208778-1

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2007年1月21日 (日)

「仮面ライダーカブト」 自分が変われば世界が変わる

完全新生というコンセプトで仮面ライダーというフレームから脱却しようとした前作の「仮面ライダー響鬼」から一転し、原点回帰というスローガンを打ち出したのが、「仮面ライダーカブト」。
昆虫モチーフ、「変身!」というかけ声、ライダーキックやライダーの乗るバイクなど、仮面ライダーらしい要素を復活させていて昔からのファンは嬉しいところでした。
ただそれだけでなく、昆虫の脱皮をヒントとした「キャストオフ」という二段変身、周囲よりも高速に動くことにより周りが止まって見える「クロックアップ」など意欲的な表現に果敢にチャレンジしていて評価できます。

けれども「カブト」がシリーズの中でもユニークだった点と言えば、水嶋ヒロさん演じる主人公、天道総司のキャラクターでしょう。
日米に限らず昨今のヒーロー像というのは、悩み成長するヒーローというのが増えてきてますよね。
平成の仮面ライダーもそうですし、アメリカでは「スパイダーマン」なども成長するヒーローと言えるでしょう。
けれども天道総司は自ら「天の道を往き、総てを司る」というだけあって、今までにないオレ様キャラ。
世界には自分より優れているものはいないと言っている人物で、つまりはこれ以上は成長しないキャラクターと言っていいでしょう。
放映開始時は、圧倒的な自信を持っているこのキャラクターはすごぶる魅力的で今までにない新しさがあると思いましたが、一年間という長い間、成長しようがないキャラクターで保つのかという心配もありました。
製作サイドも迷いが出たのか、キャラクターに幅をだそうとしたのか、夏ぐらいには天道のキャラをちょっといじろうとしましたが、観ている方としては逆にブレているような気がしました。
同じ時期、映画では同じ名前で違う性格でやっていたのも、ある意味かたまりすぎているキャラクターが動かしづらかったということかもしれません。

残念なところしては、他にもいくつか。
まず白石プロデューサーのシリーズではありがちなのですが、年間で話が広がりすぎて最後に収拾ができなくなるというのは、本作でも感じました。
いくつか謎などがありましたが、駆け足でまとめたという感じがします。
あと映画制作中、メインの脚本の米村正二さんが外れ、代わりに井上敏樹さんが書かれてましたが、これがあまり良くない。
井上さんはメインで脚本をやるととてもいいのですが、今回みたいに数回受け持つ時は遊んでしまうクセがあるようで、担当されているときは「カブト」らしさがなかったような気がします。
最近ライダーシリーズで恒例の井上さんの夏のコメディ篇はあまり好きではありません。
映像関連では、最後の方はほとんど「クロックアップ」が観れなくなったことも残念です。
ネタがなくなったのか、撮影にとてつもなく手間がかかるからかはわかりませんが、新しい表現だったのでもうすこし見たかったのが正直なところです。

最終回は、久しぶりに天道の語りが出て、とても良かったのでここに収録を。

「人間は変われる。
人間もネイティブもあるものか。
この世界に生けとし生けるもの、すべての命はみな等しい。
他者のために自分を変えられるのが人間だ。
自分のために世界を変えるんじゃない。
自分が変われば世界が変わる。
それが天の道。」

自分が変わっていくというのは、常に自身が脱皮(キャストオフ)し続けていくということ。
最後にカブトらしい台詞だなと思いました。

最後に水嶋ヒロさんはとても天道というキャラクターにぴったりとはまっていたと思います。
彼でなかったら天道総司というキャラクターは産まれなかったでしょう。

劇場版「仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE」の記事はこちら→

テレビシリーズ「仮面ライダー電王」の記事はこちら→

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本 「朝鮮半島「核」外交 -北朝鮮の戦術と経済力-」

昨年後半の北朝鮮の核実験を受け、タイムリーに出版された新書です。
まだ少ししか経っていないのに、びっくりする早さで新書もでるものなんですね。

日本からとても近い国で核実験やミサイル発射実験を行われると誰でも不安になります。
けれどもいたずらに何の知識もなく騒ぎ立てることというのは、それは危険だと思います。
この本では北朝鮮が戦争をしようにもできない状態ということが、経済力という視点からとてもわかりやすく書かれています。
著者は石油会社に勤めてから、新聞記者になった方ということなので、北朝鮮の戦争遂行能力を石油輸入量、備蓄量という点から見て、戦争をする能力はないと書いています。
北朝鮮に関しては正確なGDPは出ていないのですが、この本によると島根県の予算にも満たないということです。
また北朝鮮が得る利益はトヨタの利益よりも少ないとのことで、正直驚きました。

著者はギリシアのツキジデス、そしてアメリカの政治学者ケーガンの言葉を引用し、戦争の原因を「過度の恐怖、間違った脅威」、「指導者の誤った判断」によるものと書いています。
いたずらに北朝鮮の行いの表面上だけでとらえ、本質を見ずにいたずらに恐怖に駆られた対応をしてはいけないのかもしれないと思いました。

「朝鮮半島「核」外交 -北朝鮮の戦術と経済力-」 重村智計著 講談社 新書 ISBN4-06-149869-X

小川和久著「日本の戦争力」の記事はこちら→

村田晃嗣著「アメリカ外交 -苦悩と希望-」の記事はこちら→

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「ディパーテッド」 緊張感が持続する150分

香港映画「インファナル・アフェア」をマーティン・スコセッシがリメイクした作品です。

2時間半という長い尺でしたが、まったく緊張感がとぎれることなく、というよりも緊張感をずっと持続して観ることができました。
オリジナルを未見なので比べることはできないのですが、ハリウッド版はとてもいい仕上がりではないでしょうか。

まず良かったのは、出演者たちです。
予想はしていましたが、ジャック・ニコルソンがとてもいい。
レオナルド・ディカプリオ演じるビリーを”ネズミ”と疑い、バーで二人でサシで話している場面のフランク(ジャック・ニコルソン)はおそろしく怖い。
口調は穏やかでユーモアまじりで話しますが、その裏にある凶暴さが透けて見えるようで。
フランク本人も相手にそれが伝わっていることがわかって話しているという感じがとてもよくでていました。
ビリーの手のひらはぐっしょり冷や汗で濡れていたことでしょう。
あんな顔して迫られたら、僕だったら悪いことしてなくても謝ってしまうかもしれません。
ディカプリオも思いのほか良かったですね。
いままではあまりいい俳優さんと思ったことはなかったのですが、「ディパーテッド」のビリー役ははまり役だった気がします。
マフィアに侵入し、いつ正体がばれるかもしれない緊張感により、焦燥し、落ち込み、時には爆発する不安定な感じがよく表現できていたと思います。
凄むときの表情は、役柄でもボスであったジャック・ニコルソンの影響を受けているような形相で、迫力があったのではないでしょうか。
対するコリン役のマット・デイモンは終止クールな印象で通していました。
何度かある正体がばれそうになる局面を、感情を抑え理性的に行動することによりそのピンチをクリアしていく冷静さがでていました。
同じように敵方に潜入している”ネズミ”であるビリーとコリン。
ビリーはその緊張感により感情の起伏が激しい不安定さを抱え、コリンは緊張感を押しつぶすために感情を抑え一見クールにふるまう。
熱と冷の二人と言ってもいいかもしれませんが、その対比はよくでていたような気がします。

マーチン・スコセッシの演出も良かった。
ディカプリオと組んでいた「ギャング・オブ・ニューヨーク」はとても長く感じて飽きてしまったのですが、本作品も同様に長丁場の映画でしたが、緩急を巧みに使い、全く飽きさせられませんでした。
ビリーとコリンが初めてニアミスする場面、また携帯電話でやり取りする場面など物語が動く場面では、激しくカットを切り替え急テンポに、それ以外はゆったりとというリズムがあったと思います。
シナリオはずっと張りつめているような感じが最後までありました。
オリジナル観ていなかったので、僕にとってはエンディングはけっこう衝撃的でした。

「インファナル・アフェア」も観なくてはいけないですねー。

レオナルド・ディカプリオ主演、マーティン・スコセッシ監督作品「アビエイター」の記事はこちら→

マーティン・スコセッシ監督作品「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」の記事はこちら→

レオナルド・ディカプリオ主演「ブラッド・ダイヤモンド」の記事はこちら→

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2007年1月20日 (土)

本 「クリプトノミコン」

いろいろな書評でも評価が高い、数学、暗号を題材にしたSF小説です。
文庫で4巻に渡るので、読むとかなりのボリュームになりますね。

時は第二次世界大戦前夜、プリンストン大学で数学を学ぶ、チューリングテストで名高くなる若き日のチューリング、そして大学の友人ローレンス、ルディ。
戦争が始まり、彼らはそれぞれ母国で暗号にたずさわっていきます。
英国、米国の連合国側とドイツ、日本との諜報戦、そして隠された金塊の謎が展開します。
物語は第二次世界大戦時と、ローレンスの孫ランディが生きる現代の二つの時系列が平行して展開していきます。
ランディは第二次世界大戦時に隠された金塊の謎に関わっていきます。

暗号に関わる諜報戦のところがおもしろい。
イギリスのチャーチルは、味方がドイツの暗号を破っていることを相手にわからせないために、暗号の内容がわかっていても相手の作戦に対して対応しなかったといいいます。
攻撃を防ぐために情報を手に入れるのに、情報を手に入れることを秘匿するために攻撃をさせる。
なんのための諜報なのかがわからなくなっていく、情報戦の倒錯感がおもしろいですね。

そのあたりはおもしろいのですけれども、登場人物はいずれも鼻持ちならない人間が多く、いまいち感情移入しづらく、かなりの長さのこの作品を読みきるのはちょっと辛かったです。

「クリプトノミコン1 チューリング」 ニール・スティーヴンスン著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011398-8
「クリプトノミコン2 エニグマ」 ニール・スティーヴンスン著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011401-5
「クリプトノミコン3 アレトゥサ」 ニール・スティーヴンスン著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011404-6
「クリプトノミコン4 データヘブン」 ニール・スティーヴンスン著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011407-2

暗号についてのノンフィクション「暗号解読 -ロゼッタストーンから量子暗号まで-」の記事はこちら→

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「マリー・アントワネット」 わたし自身を見て欲しい

マリー・アントワネットが王太子妃としてフランス王家に嫁いだのは14歳の時。
そして38歳でフランス革命によりギロチン台の露と消えます。
本作はソフィア・コッポラらしい視点でマリー・アントワネットという女性を描いた作品になっていると思います。
歴史ドラマというよりは、フランス宮廷を舞台にした女性映画という感じです。

ローティーンでたった一人で、祖国を離れ見知らぬパリへ嫁いできたマリー・アントワネット。
周りを取り囲む初めての人々、わからないしきたり、ささやかれる悪口・・・。
本音を語れる知己もおらず不安であろう日々を、マリーは14歳とは思えぬ気丈で大人なふるまいでのりきります。
けれども甥が産まれた時、世継ぎを産めないことを暗に責められ、マリーは一人自室で大きな声で泣いてしまいます。
映画の中でマリーが大きく感情を表すのはこの場面のみですね。
それ以外、人前ではレディとして振る舞うことを、おそろしいほど自制して行っています。
10代の女の子にとって、それはとてもたいへんなことでしょう。

14歳といえば、現代では中学生くらい。
友達といろんな話をして遊んでいたい年頃。
そして注目されてちやほやされたい年齢。

でもマリーは同じ年頃でも、王太子妃としての役割だけを望まれる。
世継ぎを産むという機能のみを求められる。
誰もマリーという一人の人間として見てくれない。
オーストリア王家の娘であれば、自分でなくてもいいのではないか。
世界の富を手にしているフランス王妃であり、毎日のようにおいしいものが食べられ、きれいな服が着れて、美しい愛人と逢瀬を繰り返しても、なにか寂しさがつきまとう。
自分って何?
フランス王妃ではなく、一人の女性としてのマリーとは何?
わたし自身を見てほしい。
同じような寂しさを、ソフィア・コッポラ監督「ロスト・イン・トランスレーション」で東京でのシャーロットにも感じたように思います。

やすらいだように見えるのは、田舎の別邸で子供たちと過ごしているマリーの姿。
子供たちは、マリーは王妃という役割の人物ではなく、お母さんというマリー自身を見てくれたからなのでしょう。
暴動が起きた朝、夫であるルイと初めて気持ちが繋がったように見えたのが、救いでしょうか。
宮殿を脱出する時に見た朝日をマリーはどのような気持ちで眺めていたのでしょう。

ソフィア・コッポラのフランス宮廷の解釈が新しかったです。
背景は実際の宮殿を使っていますが、音楽や衣装でとてもポップな監督らしいセンスがでていたと思います。
音楽は軽快なロックを上手に使ってましたね。
観ていてウォン・カーウァイ監督の「恋する惑星」をふと思い出しました。
なんとなく音楽の使い方、似てませんか?
マリーの着ている服や髪型もポップでかわいらしかったですね。

キルスティン・ダンストは今まであまりきれいだと思ったことはなかったのですが、この作品ではとてもキュートに見えました。
嫁ぐ時の初々しさから、母親となり気丈に夫と最後をともにする覚悟を決めた妻の姿まで、とても上手に演じていたと思いました。

ソフィア・コッポラ監督「ロスト・イン・トランスレーション」の記事はこちら→

藤本ひとみさんの小説「マリー・アントワネットの遺言」の記事はこちら→

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2007年1月19日 (金)

本 「ボーナス・トラック」

第16回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作です。
ひき逃げ事故で死んでしまった亮太が、幽霊(?)として地上にとどまり、それを見える若い男の草野の家にしばらく居候する・・・。
映画「ゴースト」などでもある幽霊ネタの物語でそもそもその点においては、オリジナリティのようなものは感じない。
けれど読んでいてなんかいいのです、この作品。
出てくるほとんどの登場人物がいい人なんです。
世の中の風潮を反映しているのか、最近は小説もまったく共感できない人々がでてきて読んでいて辛いときがあります。
宮部みゆきさんの小説なんかでは性根からしての悪人がよくでてきますよね。
本作品「ボーナス・トラック」の登場人物はほんとにいい人たちばかり。
読んでいてほっとします。
主人公が死んだことをあまり深刻に受け止めておらず、相棒との会話も軽妙だったりして、読みやすくすらすらと行ける感じですね。
ラストでもほろりと涙をさそうような物語で、読後感もいいです。
最後まで読むとタイトルの意味もわかったりします。
午後半日ゆっくりとした時間がある時に、読むにはいい本ではないでしょうか。

「ボーナス・トラック」 越谷オサム著 新潮社 ハードカバー ISBN4-10-472301-0

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2007年1月14日 (日)

「ラッキーナンバー7」 途中の転調に乗り切れず

原題は「LUCKY NUMBER SLEVIN」。
7(SEVEN)ではなく、SLEVIN。
SLEVINは主人公の名前です。
タイトルがミステリーの謎に関係している作品なので、邦題とはいえこういう改変はどうなのでしょう?

と苦言を呈しながら、映画そのものがおもしろいかというと、あまりおもしろくなかったです。
まったく予備知識なしで観に行ったので、前半では運のトコトン悪い青年(それこそジョン・マクレーン並)のクライム・コメディ系のお話かと思いました。
それにしてはだらだらとしていてリズムが遅い感じがしてましたけれども。
途中から急に転調し、ハードな復讐譚になります。
このあたりの変調はどんでん返しのつもりなのかもしれませんが、やや唐突なため、いまいち乗り切れませんでした。
物語の作り方の基本として、「起承転結」とか「序破急」とかの構造がありますが、この作品は「転」や「破」のところで作品そのものの調子が変わってしまっているような気がします。
肌触りが変わったというか。
ジョシュ・ハーネットが拳銃を握ったときに表情が急に変わるので、この変調は監督の意図したものであると思います。
ですが、そのポイントの前後で違う作品のような肌触りについては、僕としてはついていけなかった感じがありました。
謎解きについても延々と説明調で、観ていてつらいですね。

乗り切れないのは、登場人物への感情移入がしにくいというのもあるかもしれません。
何故にブルース・ウィルス演じるグッドキャットは20年前にあのような行動をとったの?
ほんのちょっといっしょにいただけで、何故にあんなにスレヴンとリンジーは魅かれ合っちゃうの?
などなど。
モーガン・フリーマン等、著名な俳優さんがたくさんでている割に登場人物が全然魅力的でないのです。

ということで、久しぶりに不満たらたらな映画鑑賞後の感想でした。

ブルース・ウィルス主演「16ブロック」の記事はこちら→

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2007年1月13日 (土)

「帝都物語」 嶋田久作さんでリメイクを、是非

先日亡くなられた実相寺昭雄監督の1988年の作品。
原作は荒俣宏さんの同名の小説「帝都物語」です。
「陰陽師」や「風水」等、今では一般知識となっている言葉も、荒俣さんが「帝都物語」で使うようになってからポピュラーになった言葉です。
この小説には学生時代に大いにハマりました。
原作者荒俣宏さんの幅の広い博学ぶりに圧倒され、この作品を読むことを通じていろんなものに興味を持ちました。
歴史、科学、博物学、文学、宗教、オカルト等々、自分がいろんな本を乱読するようになったのは、荒俣宏氏の影響は少なからずあるでしょう。

そして「帝都物語」の監督は実相寺昭雄さん。
この監督はある意味、僕にとってのカリスマでもあります。
これも学生時代ですが、8mmで映画作りをちょこっと齧ったりしたのですが、実相寺監督の凝った画面作り、ライティングなどは大いに影響されマネをしたりしてました。
子供の頃に夢中になっていた「ウルトラマン」を、なかでも子供心にも不思議な印象をもった話を実相寺監督が撮っていたことを学生時代に知り、驚いたものです。

「帝都物語」の映像は、まさに実相寺監督が作ったという印をいたるところに感じさせるものに仕上がっています。
光と影のコントラストを活かしたライティング、極端にパースがついてレイアウトされた構図などはまさに実相寺スタイル。
このように個性がでる監督は、そうそういないものだと思います。
今見ると、当時最先端だったビデオ合成を駆使していますが、やはり現在のCGに比べるともの足りないですし、ミニチュアのストップモーションアニメーションなどもやや古くさい感じがします。
けれども先にあげた実相寺監督の映像スタイル自体は褪せるものではない気がしました。

ストーリーとしてはかなりの長編となる原作を映画化しているので、無理があるところがあるのは否めません。
原作を読んでいないと、最初の入りのところで加藤に由佳里が狙われるのか、その理由が思いっきり端折られているので、映画で初めて「帝都物語」に触れる人はとまどうでしょう。
それ以外にも話がジャンプしている箇所があるのでとてもわかりづらく、脚本としては出来はあまり良くないと思います。

ただその弱点を補ってあまりあるのが、加藤保憲役の嶋田久作さんのキャスティングでしょう。
原作でも異様に顔が長い異相という表現をされている加藤ですが、まさに嶋田さんはそのイメージぴったり。
特徴のある低い声も加藤の持つ不気味さを醸し出しています。
加藤が本当に生きて現れたよう。
加藤は嶋田さん以外にありえないいうほどのマッチングです。
「妖怪大戦争」で豊川悦司さんが加藤を演じていましたが、やはり違和感ありました。
このときも是非嶋田さんにやっていただきたかったです。

CG等の特殊技術も進化した現在で、もう一度この作品をリメイクしてくれたら嬉しいのですが・・・。
もちろん嶋田久作さんで、是非。

「帝都物語」の原作者荒俣宏氏のノンフィクション「奇想の20世紀」の記事はこちら→

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2007年1月 8日 (月)

「ロスト・イン・トランスレーション」 思いがロストしてしまうのは・・・

僕としては期待度が高い「マリー・アントワネット」が公開間近なので、ソフィア・コッポラ監督の映画「ロスト・イン・トランスレーション」を予習を兼ねて観賞しました。

"translation"は翻訳という意味。
「ロスト・イン・トランスレーション」は翻訳する際になくなるものといった意味でしょうか。

日本企業のCMの撮影のために東京を訪れた映画俳優のボブ。
カメラマンの夫の仕事についてきて東京に滞在しているシャーロット。
二人とも日本語も話せず、周りの日本人とコミュニケーションがとれず孤独を感じています。
同じホテルに泊まっている二人は、お互いに同じような思いを感じていることがわかり、親しくなっていきます。

「ロスト・イン・トランスレーション」というタイトルが象徴的にわかるのが、ボブがCMの仕事のシーンです。
演出家の指示がボブにきちんと伝わりません。
明らかに演出家はいろいろ指示をしているはずなのに、通訳が端折ってしまっているわけです。
トランスレーションをする際に、意味がロストしています。
日本という異境を訪れた二人の異邦人、そこでのディスコミュニケーションから感じる孤独感を淡々と描いていきます。

けれどもタイトルに込めた監督の思いはもっといろいろあるように感じました。
二人が孤独を感じているのは、言葉の通じない異境にいるからでしょうか。
ボブはアメリカに帰り、家族といっしょに暮らしたらその孤独感はなくなるのでしょうか。
シャーロットは夫が仕事からもどり、いっしょにいられたら寂しさはなくなるでしょうか。
そうではないのでしょう。
同じ言葉が話せれば自分が伝えたい意味、思いは相手に通じるのでしょうか。
相手に対して、自分の口から言葉を発した時、何か自分の本当の気持ちとは違ってしまっているということはありませんか。
ボブは遠くアメリカにいる妻と電話で何度も話をします。
単語だけを拾っていくと、そこには相手のことを考えていたりするような言葉はあります。
けれどもそこで思いの交流がなくなっています。
同じ言語を話していても、思いを言葉にトランスレーションした瞬間に、思いはロストしてしまっています。

同じような孤独感を感じるボブとシャーロットも、ボブが日本を離れる時、英語で別れの挨拶をしていても、何故か思いは交流しません。
けれども街なかでシャーロットを見つけ追いかけて、そして抱きしめます。
ここでボブは劇中で初めて笑います。
ホテルで別れた時に伝えたいことが伝えられた満足感でしょうか。
思いが相手に伝わらずロストするのは、翻訳や言葉の問題だけではないのでしょう。
ボブはいい夫であるため、妻に孤独感を伝えようとしなかった。
シャーロットはよき妻であるため、夫に寂しさを話そうとしなかった。
わかってくれないでは、いつまでたっても思いは伝わらない。
相手に伝えたいという思いこそが、自分の思いを伝えるものなのでしょう。

ソフィア・コッポラ監督の作品は初めて観ました。
若手にありがちな変に凝った映像を撮るというよりは、淡々と二人の気持ちや日本の風景を描くのに好感が持てました。
「マリー・アントワネット」への期待度高まります。

あとスカーレット・ヨハンセン、やはり美しいですね。
「アイランド」の時よりもちょっとぽっちゃりしていて幼い感じがかわいらしくもありました。
きれいなおみ足をやたら見せてくれるので、目の保養にもなりましたです。

ソフィア・コッポラ監督「マリー・アントワネット」の記事はこちら→

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「王の男」 ひとりの人間として見てもらえない息苦しさ

タイトルにある「王」とは朝鮮王朝第10代国王燕山君(ヨンサングン)のこと。
朝鮮半島の歴史の中でも名だたる暴君であったと言われています。
けれどもこの作品の中ではヨンサングンは残酷な振る舞いはしますが、それだけの暴君としては描かれていません。

始め王は玉座に座り無表情で登場します。
その表情には宮廷で行われていることすべてに関して無関心であるようにも感じます。
それは宦官などの官僚、良王であった先代の威光、様々な宮廷の取り決めにより、王という立場である自分が縛られ何もできないことにあきらめてしまっているようにも見えます。
しかしチャンセンとコンギルと芸人一座の、王自身を風刺する劇を見ることにより、表情に笑いが戻ってきます。
それまでの無表情とは異なった、子供のような笑い。
王の周りに居る人々は、ヨンサングンをヨンサングン個人として見ているのではなく、国政を行うためのシステムの一部として見ています。
ですので、王がこうしたいと言ったことも官僚たちは無下に却下していきます。
彼らにとっては自分たちの行いを認めてくれるだけの王がいてくれればいいのです。
そういう中、芸人たちは自分を一人の人としてとらえ、嘲った。
人としてとらえてもらったことが王にとっては嬉しかったのかもしれません。

またコンギルはその美貌のためトラブルに巻き込まれることも多く、兄貴分であるチャンセンの庇護下にずっとありました。
コンギルはチャンセンを慕い、チャンセンもコンギルを大切に思っていたのでしょう。
しかしチャンセンの思いは自分自身を犠牲にする深いもので、それが時としてコンギルにとっては縛りのようにも感じるようなこともあります。
守ってもらえている安心感、信頼感をチャンセンに持ちつつも、束縛されている感じをぬぐい去れません。
チャンセンはもしかするとコンギルを自分だけで所有したいという思いだけだったのかもしれません。

そんなコンギルは王と出会ったとき、同じ束縛された人間の思いを感じたのかもしれません。
また王もコンギルといっしょにいる時だけ、自分自身を解放し、自分らしくいられるということがあり、彼を近くに置きたかったのでしょう。

重臣たちも、そしてチャンセンも二人が一人の人間として考え感じる存在であることを気付きません。
システムの一部、また愛の対象としてだけ、自分の都合によってでしか相手をとらえていません。
それが王とコンギルが感じている息苦しさだったのかもしれません。

結局周囲の人々はそんな二人の気持ちをわかることなく、最後に悲劇が起こります。
劇中では描かれていませんが、あのクーデターのあとヨンサングンは廃主されたということです。

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2007年1月 7日 (日)

本 「13階段」

この小説の映画化作品は劇場で観ました。
江戸川乱歩賞をとった小説が原作だったので、話題にもなっていたと思うけれども、あまり内容を覚えていませんでした。
山崎努さんが出ていたなあというのと、全体的にあまり良いと思わなかったという印象だけ。
今回調べてみたら、反町隆史さんが主演でしたね。
すっかり忘れてました。

さて小説の方ですが、作者の高野和明氏はこの「13階段」がデビュー作。
そして乱歩賞受賞です。
読んでみた印象ですが、映画より小説の方が全然おもしろい。
映画は反町さん演じる三上の過去のエピソードを膨らませていましたが、原作は比重が違いましたね。

小説の中盤で丁寧に書いているのが、死刑制度について。
非常に重い内容で、この制度について知らないことがたくさんあるのだなと思いました。
刑務官の南郷が刑に立ち会ったときの場面が描かれていますが、刑の執行そしてその後の刑務官の気持ちは想像したこともありませんでした。
作者も作品の中で「死刑の存廃論議は簡単に結論が出ることではない」と書いてありましたが、僕自身もどうすべきなのかまだよくわからないです。
けれども2009年には裁判員制度が導入することになります。
僕らも判決に関わるようになるかもしれないのですが、自分自身で対処できるのか怖いです。

重いテーマだけでなく、この小説はエンターテイメントとしても一級品です。
冤罪の可能性がある死刑囚の刑の執行が迫るというタイムリミットがある中の、過去の事件の真犯人の証拠さがしのサスペンス。
その中で南條と三上もそれぞれの過去を抱え、その記憶を恐れながらも、冤罪を晴らしたいという人間描写。
後半は一気に読ませてくれます。

文庫版の解説で宮部みゆきさんが書かれていますが、高野和明さんの小説には「社会に対して何らかの負債を持つ人間が、それを背負いつつも社会のために生きることはできるか。」というテーマが一貫してあります。
「13階段」はそれを真正面からとらえてかなり重いテーマになっているので腰がひける方もいるかもしれませんが、そういう場合は同じ作者の「クレイヴディッカー」「幽霊人命救助隊」から読んでみたらいかがでしょう。
両方とも「13階段」ほどヘビーではないですので。

高野和明著「K・Nの悲劇」の記事はこちら→

「13階段」 高野和明著 講談社 文庫 ISBN4-06-274838

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「ローレライ」 福井晴敏氏の小説は映画化には向かないのでは?

福井晴敏さん原作の小説は、映画には向かないんじゃないかと最近思います。
この二三年で立て続けに映画化されていますが、これはという出来なものがない。
「戦国自衛隊1549」、「亡国のイージス」(好きな阪本順治監督だったので残念だった)、そして本作品「ローレライ」。
「ローレライ」は福井晴敏さんの「終戦のローレライ」が原作になります。
小説の企画自体は、友人であり本作品がデビュー作となる樋口真嗣監督との話の中から生まれたものであると聞きます。
映画の企画と小説は同時並行で進んでいたようですね。

福井晴敏さんの小説は読むと、映画に向いていように思えます。
なんといってもエンターテイメント性が抜群でぐいぐいと読むものを引き込んでいきます。
福井さんは30代(調べたら同い年だった)、映画やアニメーションが好きだった人のようで、小説を読んでいてもその場面がビジュアルで浮かんでくるようです。
読んでいるとこの映像を観てみたい!と思ってしまいます。
けれども「亡国のイージス」も「終戦のローレライ」も原作はかなりのボリューム。
これを2時間できれいにまとめあげるのはなかなか難しい。
どうしても原作を割愛しなくてはいけないところがでてきてしまう。
そうなると映画ですので、福井作品の大きな魅力である迫力あるビジュアル感を優先してしまいます。
削られるのは人物描写。

福井作品はボリュームがあるので、小説では登場人物の背景などについて書き込まれています。
どうしてこの人物はこう考えるのか、こう行動するのかの理由がきちんと背景としてあります。
このあたりが映画では端折られている。
なので、映画では登場人物の感情の動き、行動がどうも薄い印象がありました。
浅倉や高須なぜあのような行動をとったのか、彼らが経験した南方での悲劇の内容が映画ではよくわからない。
折笠と田口の関係は、小説版では福井作品に共通してみられる、人生を諦めている中年男が、自分と同じような若者に未来を見いだすという関係性がみられますが、映画ではこのあたりもあっさりとしている。
パウラと折笠の関係も、死に急ぐ少年が守るべき少女を得て生きようとしていくという福井作品共通のテーマも希薄ですね。
(パウラ役の香椎由宇さん、この作品がデビューだったようで、台詞が棒読みできびしかった)
映画では二人はもいつの間にか魅かれ合ってる。
どうも映画はそのあたりの人物描写の浅さが目立ち、ラストでも心が動かない。
そもそも二時間程度の尺に、ボリュームのある原作をおさめようとするのが厳しいのではないのかもしれません。
冒頭に福井作品は映画化に向かないのではと書いたのはこういう意味です。
映像化するとしたら、映画ではなく連続ものなどにした方が向いているのかもしれません。

福井晴敏氏原作の映画「亡国のイージス」の記事はこちら→

樋口真嗣監督作品「日本沈没」の記事はこちら→

樋口真嗣監督作品「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」の記事はこちら→

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2007年1月 6日 (土)

「悪魔が来りて笛を吹く」(2007・TVドラマ) ライトな金田一

昨年末に「犬神家の一族(2006)」を観賞して、ようやく横溝トラウマ解除されたので、ちょうどタイミングよく放送されたフジテレビの「悪魔が来りて笛を吹く」を観ました。
あまりこういう2時間サスペンスは見ないのですが、たまたま演出:星護さん、主演:稲垣吾郎さんの名前を見たので、これは観てみようと。
このお二方、「笑の大学」のコンビですね。
あと星護さんは「古畑任三郎」も演出されていたので、期待しての観賞です。
当然、今までのの映画化作品、原作はまったく知らず(当然、犯人も知らず)で観てみました。

先日の市川崑監督の昭和テイスト溢れる「犬神家の一族」を観てしまったせいか、まず気になったのは全体の画面の明るさ。
フィルムではなくビデオでの撮影だから仕方がないのでしょうけれど、僕の中の横溝作品の陰々としているイメージとちょっと違うなと思いました。
あと稲垣金田一が、どうもしっくりとこない。
稲垣さんは演技が下手なのか、それともわざとなのか、台詞回しがちょっと芝居がかっていましたね。
前半は「笑の大学」に通じるちょっとコメディな雰囲気も感じました。
キャスティングも「犬神家の一族」の強烈な三姉妹に匹敵するようなメンバーではなかったので、画面の仕上も相まってライトな感覚だなと思いました。

ストーリーは原作そのままなのでしょうか。
さすが横溝正史、複雑な人間関係の中、事件が起こるさまをきちんと構成しています。
謎解き編はけっこう楽しめました。
このあたりは推理ものの醍醐味。
ただし語られている内容はかなり忌まわしい内容。
そういうのが苦手な僕は、普段だったら「うへェ」と気後れしてしまうのですが、星監督のライトな演出で救われました。
市川監督だったら、富士純子さんがでていたら、げんなりしちゃったかもしれないです。
フルートの曲に隠された謎は原作の小説からのプロットなのでしょうけれど、非常におもしろかった。
横溝正史、いいじゃないですか。

俄然横溝作品を読んでみてみたい気分になってきました。
そういう意味で観てよかったかな。

横溝正史原作、市川崑監督作品「犬神家の一族(2006)」の記事はこちら→

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2007年1月 5日 (金)

「スクール・オブ・ロック」 大きな声で気持ちをシャウト!シャウト!シャウト!

「ナチョ・リブレ」の記事をエントリーしたときに「スクール・オブ・ロック」を未見だと書きましたら、皆さんからお薦めをされました。
やっと観ました!
ジャック・ブラック、ほんとにおもしろいですね!
お薦めいただいた皆さま、ありがとうございます。

「ナチョ〜」で僕が一番ツボだったのが、シスターへの愛を歌い上げているシーン。
「スクール・オブ・ロック」では全編ジャックがテンション高く歌いまくり!シャウトしまくり!
こりゃ、たまらん。いいぞ。
ジャックはいいオトコではない(ケダモノ系?)ですが、顔の表情が豊かで、なんだかチャーミングに見えるから不思議。
おデブだけれど、ギターを持たせたらハイテンションでたちまちスター(気分?)。
魂の叫びの歌声にマイってしまいました。
「ナチョ〜」は微妙な間で笑いづらかったですが、「ロック〜」は笑いどころたくさんありました。
「ナチョ〜」の笑いの微妙さは、ブラックではなく監督の個性なのかな。

笑いだけでなく、お話も先生ものとしての感動場面も用意してありました。
ジャック・ブラック演じるデューイはお金欲しさに友人のネッドの振りをして臨時教師に雇われます。
そして担任している生徒たちをそそのかし、ロック・バトルに出場すべくバンドを結成するのです。
デューイは本職の先生ではないので、生徒に勉強を教えるという気持ちはさらさらない。
そもそも教える立場なんて思っていない。
ただロック・バトルに出場し、優勝したいだけ。
けれどもデューイは生徒たちの隠れた才能を知らず知らずのうちに伸ばしていきます。
デューイは教える対象としてではなく、いっしょに演じる仲間として生徒たちを同じ目線で見ているのですね。
彼の基準は「1ステージで世界を変えることができる」演奏をできるかということ。
生徒のアイデアの方が自分よりよければ、臆面もなく生徒のアイデアを活かすことができる。
先生生徒、上司部下といった関係のとき、メンツやらなにやら、なかなかこうはできません。
教えるという高い目線ではなく、同じ目線でいっしょにいいものを作ろうとする気持ち。
その気持ちが生徒たちのステップアップに繋がったのでしょう。
生徒たちも個性があってよかったですね。
評価ばかり気にした妙に世慣れたマネージャーの女の子。
内気でお父さんのいうことに逆らえないメインのギターの男の子。
太っていることを気にしていて人前にでることが苦手だったコーラスの女の子。
ステージに上がる子だけでなく、証明や衣装の担当の子もみんなイキイキとしていました。

校長先生が見ているのは、父母たちだけ。
ほんとうは生徒自身を見なくてはいけないのに。
校長先生は無意識ではこうではいけないとわかっていたのでしょう。
最後の演奏の後にデュ−イは校長先生に聞きます。
 「怒ってますか?」
 「怒ってるわよ!でも感激したわ!」
大声で答えるこのときの校長先生もイキイキとしてました。
何かと気持ちを押し殺さなければならないことが多い世の中ですが、たまには大きな声で気持ちをシャウトすることはイキイキと生きていくためには必要なのかもしれませんね。

この記事書き終わって、ふと気付いたら監督はリチャード・リンクレイターだったんですね。
先日リンクレイター監督の「スキャナー・ダークリー」を観てきたばかりなのですが、あまりに雰囲気が違うのでびっくり。
思うにこの監督は、自分の個性を前に出すというより、素材の個性を引き出すタイプなのかもしれません。
「スキャナー・ダークリー」ではディックの世界観を上手に表現してましたし、「スクール・オブ・ロック」ではジャック・ブラックの良さが存分に引き出せていたと思います。

ジャック・ブラック主演「ナチョ・リブレ 覆面の神様」の記事はこちら→

ジャック・ブラック主演「テネイシャスD 〜運命のピックをさがせ!」の記事はこちら→

リチャード・リンクレイター監督「スキャナー・ダークリー」の記事はこちら→

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本 「数学的にありえない」

この作品いろいろな書評でも評判いいですね。
僕は書店の平積みでこの本が目に入り、タイトルがユニークだったので思わず購入してしまいました。
ジャンルとしてはマイケル・クライトン系のサンスペンスといったところでしょうか。

クライトンの小説では、あるキーとなる技術をうまく小説の中に取り入れて一級のサスペンスに仕上げています。
この作品の著者、アダム・ファウアーが取り上げているのは、確率論、量子論や不確定性原理あと未来予知。
僕は高校の頃、数学の授業でも最も苦手だったのが、確率論でした。
他の数学と違って答えを出すというのではなく、可能性が確からしいことの率をだすという考えが当時はよくわからなかったのかもしれません。
それから本で量子論などの簡単な解説を読んだりするようになると、けっこうおもしろい考え方だなと思うようになりました。
でも日常生活的には違和感のある考え方なのでとっつきにくいですが、そのあたり著者は小説の中でわかりやすく説明しています。
そのあたりはクライトンっぽいでしょうか。
あと未来予知あたりは、先にあげた数学とは相容れない、オカルトチックないかがわしい感じがするものですが、そのあたりは下巻に入るあたりで見事にまとめあげています。
(このあたり下手にやると「サイン」みたいになって拍子抜けしてしまいトンデモ系になってしまう恐れがあります)

本作は読みやすさ、テクノロジーの上手な取り入れ方についてはマイケル・クライトン系と書きましたが、かと言って違う感じもあります。
下巻の訳者解説(矢口誠氏)でうまく表現されていたので、引用します。
「クライトン系のサスペンス小説は、たいていなんらかのタイムリミットが設定されていて、物語はその着地点に向かって収束していく。このため、基本となるプロット自体は、どちらかといえば直線的でシンプルだ。しかし、本書はちがう。著者のアダム・ファウアーは、巧妙なストーリーテリングで緊張感を持続させつつ、物語の着地点を最後まで明かさない。いったい物語はどこに収斂するのか?それがこの作品の大きな読みどころのひとつとなっている」
書いてある通りですね。
正直上巻を読んでいる時はそれほどおもしろいと思いませんでした。
たぶんゴールが見えない状態だったので、どうも散漫な印象を持ったのでしょう。
けれども下巻に入ったあたりから物語は収斂し始め、けれども最後までゴールは見れず、どこへいくのだろうということ自体もサスペンスでした。
最後まで読み切って、上巻のさまざまなところに仕掛けられた巧妙な伏線に気付き、この作者うまいなーと思いました。
上下巻いっしょに買って、一気に読むことをおすすめします。

「数学的にありえない<上>」 アダム・ファウアー著 文芸春秋 ハードカバー ISBN4-16-325310-6
「数学的にありえない<下>」 アダム・ファウアー著 文芸春秋 ハードカバー ISBN4-16-325320-3

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2007年1月 4日 (木)

「大奥」 「理」と「情」

女同士のドロドロしたドラマは本当は好きではないのですけれど・・・。
テレビシリーズの「大奥」も全く観ていないのですけれど・・・。

「功名が辻」で好演していた仲間由紀恵さんの着物姿が再び観たくって、それだけで行ってきました(正直)。

仲間由紀恵さん、きれいですねー。
さすが「きれいなお姉さん」です。
仲間さんは「TRICK」のようなおとぼけキャラでもいいですが、「功名が辻」の千代や本作の絵島のように賢女というのもとても似合います。

ということでもともとは不純(?)な動機で観に行ったので、ストーリーの期待度全くなしだったためか、なかなか楽しめました。
女同士のドロドロとしたドラマは苦手と書きましたが、観てみれば権力闘争・陰謀の話で、今までにも邦画でよくあった政治・経済ドラマの女性版みたいなものだったので、あまり拒否反応は起こりませんでした。
「金融腐食列島 呪縛」等とかそうですが、こういった集団の闘争・陰謀劇は東映テイストみたいなものなんでしょうか。

話の元になったのは、江戸時代に実際にあった「絵島生島事件」というもの。
大奥の風紀の乱れが問題となり、死罪までが出た事件だそうです。
内容は映画の中で描かれていますが、事件は大奥で権勢を誇っていた月光院派に対しての天英院派の陰謀ではないかという説もあります。
映画はその陰謀説を基に作ったお話しになります。

この映画を観ていて、権力争いの陰謀劇よりも、絵島という女性についてのキャラクターについていろいろ思いました。
大奥は、他人への嫉妬、権力への欲望、愛の独占などのドロドロした感情が渦巻く「情」の世界です。
その中で派閥の関係を差配していく役割を担うのが御年寄絵島です。
その役割をこなすには高度なバランス感覚が必要で、そういう意味では絵島は「情」の大奥の世界で「理」で生きている人物だと言えます。
しかしそのためには絵島は自然と自分の「情」に蓋をして、それらに流されぬよう無意識に囲いを作っていかなければなりませんでした。
始めは自分が使える月光院が間部への愛に殉じてまで貫こうする気持ち、その愛を独占したいという気持ちを、絵島はそうであろうと頭で(理で)わかっていても、心では(情では)わからなかったのでしょう。
しかしその「情」はなくなったのではなく、囲いをされていただけで、生島との出会いでその囲いに穴が開きます。
「あなたは囲いの外に出ていても、屏風をたてたままだ」
と生島は絵島に言います。
「情」はあってももうまく表現できない、「情」に流されてしまえない人というのはいます。
けれどもその「情」に流され、そしてその「情」が通じたと感じたとき、絵島は喜びを感じたのでしょう。
たった一夜だけだったとしても、大切な一時。
絵島も言っていたように、そういう一時があるだけでも甲斐のある人生と言えるのかもしれません。

最後に生島役の西島秀俊さん、こういう気持ちを読ませない役が上手ですよね。
「アンフェア」等でもそうでしたが、最後までこの人は本当に信じられるのかと思いドキドキしてしまいます。

仲間由紀恵さん主演の大河ドラマ「功名が辻」の記事はこちら→

西島秀俊さん出演「海でのはなし。」の記事はこちら→

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2007年1月 3日 (水)

「スキャナー・ダークリー」 今までで最もディックの臭いがする作品

フィリップ・K・ディックの小説「暗闇のスキャナー」の映画化作品です。
ディックの小説は今までもいくつか映画化されています。

代表的なものをいくつかあげると・・・。
 「ブレードランナー」:リドリー・スコット監督
 「トータル・リコール」:ポール・バーホーベン監督
 「マイノリティ・リポート」:スティーブン・スピルバーグ監督
 「ペイチェック」:ジョン・ウー監督
映像を見ただけでこの監督が撮ったんだ!とわかりそうな個性がある監督の名前が並んでいますね。
まったく個性の異なる錚々たる名監督が映画化したいと考える魅力がディックにはあるのでしょう。
ディックの小説/映画化作品に共通していることは、主人公が自らのアイデンティティの喪失に直面することです。
自分が確かにあったと記憶していること、今見ていることが本当に現実なのか、それは作られた記憶ではないのか、幻覚ではないのか。
現実であるということは、何をもって現実だというのか。
それを保証するものはおそろしく何もないのです。
それこそ「我思う、故に我あり」とでも思わなければ(もしくは深く考えないようにしなければ)、アイデンティティの喪失の危機に直面します。
ディックの作品の登場人物は現実と妄想との間をさまよい、アイデンティティを取り戻そうとします。
そのあたりの虚実の描き方が、名だたる映像人の想像力を刺激するのでしょうか。
虚実の表現には監督のカラーがよく出やすいのか、それぞれの監督のクセが強く出ているように思います。
逆に元ネタとしてはディックのアイデンティティ喪失の物語を基盤としていますが、監督の個性が際立ち、ディックらしい作品というのは今まであまりなかったような気もします。

そこで今回の「スキャナー・ダークリー」ですが、僕は今までで最もディックらしい雰囲気のある作品になっていると思います。
オープニングの次から次へとわき出す虫の妄想。
とってもとってもなくならない幻視のイライラ感は、よくディックの小説の雰囲気を出していると思います。
デジタル・ペイント・アニメーション処理をされている映像もうまく寄与している気がします。
実写だとリアルすぎて気持ち悪い、しかしアニメーションだと現実感がない。
現実と幻視の間という不安感の表現にこの方法は向いていると思いました。

麻薬のおとり捜査を行っているフレッド。
潜入操作をしていますが、あるとき麻薬中毒者の役を演じている自分自身を監視するように命令されます。
監視している自分。
監視されている自分。
それはどちらが本当か。
自分自身を見ている自分。
また監視中のフレッドは常に「スクランブルスーツ」を身につけます。
「スクランブルスーツ」とは、表面をあらかじめインプットされている人間の容姿をランダムに投影するハイテクスーツ。
それを着用しているとき、フレッドは「誰でもなくなる」のです。
もちろん自分自身でもなくなるのです。
麻薬の症状も合わさり、フレッド=ボブは、虚と実が入れ替わる中、自分自身のアイデンティティを失い崩壊していきます。
このあたりがディックの小説の肌合いに最も近いと思います。
監督のリチャード・リンクレイターの作品は観たことがないので、この監督のカラーというのはあまりわからないのですが、今回監督は意図してデジタル・ペイント・アニメーション技術を用い、「自分の個性」を消してディックの臭いを出そうとしたのではないのかと思いました。

リチャード・リンクレイター監督「スクール・オブ・ロック」の記事はこちら→

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「エラゴン/遺志を継ぐ者」 三番、四番煎じのファンタジー

剣と魔法と姫とドラゴン。
ファンタジーものといったら出てくる要素をすべて盛り込んだ映画です。
そういう意味では王道のファンタジー映画と言えるのかもしれませんが、ストーリーもキャラクターもにこれといった目新しさは感じませんでした。
数多あるRPGや、古今東西いくつもあるファンタジーの要素を拝借してきたという印象ですね。
映像的にとても見劣りがするということもないのですが、さりとてここがスゴいという箇所もない。
「ロード・オブ・ザ・リング」ではありますよね、このシーンが印象的というのが。
この作品にはピーター・ジャクソン監督のオタク的こだわりが細部まで渡っていて、中ツ国の世界が見事に構築されています。
この世界はトールキンが作ったものですが、それを僕たちの目に見える形にしたジャクソン監督のイマジネーションがすばらしい。
けれども本作で描かれている世界は、なんだか「どこかで見たことのある」世界なのです。
背景となる風景・美術、人々の衣装、クリーチャーやドラゴンのデザインで何かここが新しいと思えるところが欲しかったですね。

ストーリーとしても、今までよく観たことのある展開。
若者が特別な力を得て、善良な人々と姫を悪の力から守る。
こんなSW的というか今まで手垢がついた話を見せられても・・・(SWはあの話を宇宙を舞台にやったのが新しかった)。
また「ロード・オブ・ザ・リング」の話ですが、こちらはフロドが指輪の力に取り込まれそうになったり、アラゴルンが王への道を歩んでいく様であったり、キャラクターそれぞれのドラマをしっかりと描いているため、ハラハラしたりドキドキしたりという観客を呑み込む力があったと思います。
「エラゴン」はストーリーが一本道で、見たようなキャラクター設定で展開されるので、そのようなハラハラ感はまったく感じませんでした。

主演のエド・スペリーアスは初めての映画出演とのこと。
悪くはないけれども花がない。
「ハリー・ポッター」のようなダニエル・ラドクリフのような個性もあまり感じませんでした(これはそもそものキャラクター設定の問題かもしれませんが)。
ジョン・マルコビッチはあれだけ予告で出ていた割に、悪の巣窟で命令しているシーンのみ。
これはどうなんでしょう?

「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリー・ポッター」シリーズ、「ナルニア国物語」などヒット作を他社が出しているので、フォックスがあわててこの作品を作った感じがいなめません。
二番煎じ(三番、四番か)と言われても仕方がないかもしれません。

「ロード・オブ・ザ・リング」の記事はこちら→

「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」の記事はこちら→

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2007年1月 2日 (火)

本 「悪の読書術」

同じ著者は「悪の対話術」「悪の恋愛術」という新書を出しています。
これらは相手から自分がどう見えるか計算し、それをわかった上でどのように相手をコントロールするということを書いています。
コミュニケーション関連の本はえてして相手の気持ちをわかるということが大切だということが書いてあるものですが、これらの本では相手の気持ちをさりげなく操作するにはどうしたらいいかということを書いているので、あえて「悪」ということを書いたのでしょう。
これは無論悪いことをせよという意味ではなく、少なからずコミュニケーションは相手の気持ちを動かすこと(操作すること)を考えるものなので、それを建前をいうのではなく正面からとりあげたという意味で、おもしろい本ではありました。
新書としても売れたようで、その第三弾が本書になります。

基本的に今までのシリーズと同じで、相手からよく見られるためにはどのような本を読めば良いかというようなことが書いてあります。
人に見られるファッション等には気を配る人がいるのに、その人の内面が見える本について語るとき、無防備な人が多いと著者は書いています。
社交的によく見られるためにはこのような本を読んでいた方がいいということですね。
前二作についてはなるほどというふうに思いましたが、本書での主張はどうも僕としてはいただけません。
当然、人前で本について語るとき、相手のことやそのときの状況を考えて話題を選ばなければならないのは当然のことです。
けれどもそれは本に限らずあらゆる話題について同じように状況見て話さなければならないと思います。
人からどう思ってもらいたいから本を読むというのは、ちょっと違うかなと思います。
人と話す上で教養としてさまざまな本を読んでいた方がいいのは当たり前で、けれどもそのためだけに本を読むというのもいかがと思います(著者はそこまで言っていませんが、そう受け取る人もいるでしょう)。
人からの見栄えだけで本を選ぶということは本の消費材化を招くような気がしますね。

あと著者は文章の書き方がどうもひねている感じがします。
斜に構えているというのでしょうか。
ちょっと気に障る印象を感じました。
著者もご自分のことを扱いにくい人間と書いていますが、それもちょっと言い訳がましい印象を持ちました。

「悪の読書術」 福田和也著 講談社 新書 ISBN4-06-149684-0

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「シリアナ」 複雑化する世界

中東のオイルマネー、利権に関与するアメリカ政府、アラブの王国、オイルカンパニー、弁護士、テロリストなどがそれぞれの思惑に従い、行動し、関係していく模様を描くドラマです。

物語の中盤になるまで、どのような展開になるのかわからないので、観ていてとてもフラストレーションがたまります。
登場人物が多く、またさまざまな場所でそれぞれ物語が進行していくので、全体像が把握しにくいですね。
最後にはそれらがすべて繋がっていることがわかってくるのだけれども、観ていて油断しているとなんだか訳がわからなくなってしまいます。
この映画の登場人物にはわかりやすい記号は貼られていません。
この人はイイモノ、あの人はワルモノといったような。
なんでも最後には解決してしまう主人公や、すべてを計画している黒幕のような人物もいません。
登場人物たちは自分がいる状況の中、自分の信念や主義や欲望に従い行動します。

命令によって不法な武器取引や暗殺を行うCIAのエージェント、ボブ。
テロとの戦いなどという信念はこの人物には感じられません。
淡々と与えられた命令に従って職務を遂行していき、拷問にも耐え抜きます。
けれども使い捨ての駒のように切られ、そしてナシール王子の暗殺が再び計画されたことを知った時、彼は再びベイルートに向かいます。
その行動には正義といったものは感じられず、自分を裏切った組織への当てつけのようにも見えました。

スイスのエネルギー・アナリスト、ブライアンはアラブの石油王のパーティに家族で招かれた時に、事故で息子を失うという悲劇に見舞われます。
しかしその時にアラブの王国の第一王子ナシールと知り合い、彼が改革派であることを知ります。
いつしかブライアンは王子のブレーンの役割のようになり、自分の考えが実現し、社会を変えることができそうな快感を味わいますが、その時彼は死んだ息子のことをすでに忘れてしまっています。

ナシールはアラブの石油産油王国の第一王子、そして次期王座を弟と争っていました。
ナシールは閉鎖的で伝統的なアラブ王国の体質を変えたいと願っていますが、アメリカによる頸城から離れようとするためにテロも厭いません。
ブライアンはそんな彼を進歩的で尊敬すべき人物とみますが、アメリカは彼を自国にとって危険な人物だとみなします。

その他にも様々な登場人物が自分の思惑で動きます。
弁護士で野心家のベネットは、企業合併を成立させるために司法省との取引に応じ、生け贄として自分の上司をも捧げます。
パキスタンからの出稼ぎ労働者ワシームは突然の解雇により職を失ったとき、真摯に自分たちの教義を語るイスラム過激派の組織に影響されていきます。

ラストは救いのない結末で、正義は必ず勝つといったようなお気楽なことはいっさい語られず、冷徹なまでに陰謀の勝利になります。
そもそも正義とはなんなのか。
アメリカ側から見たら、アメリカの利益を追い守るのが正義でしょう。
イスラム側から見れば、自分たちの仕事や信教の自由を守るのが正義でしょう。
そして登場人物たちは自分たちの正義を貫くためには、悪いことに手を染めることも厭いません。
人や国が自信の欲望や主義によって行動していく様子に暗澹たる気持ちになります。
しかしすべてをコントロールしている人物もこの映画にはでてこない。
それだけ世界が複雑化し、人間自身でもコントロールできないほどに世界は絡み合い不安定な状態になってしまっているのかもしれません。
そういう意味ではわかりにくい序盤は、複雑化した世界を描いていると言えるかもしれません。

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2007年1月 1日 (月)

本 「ステップファザー・ステップ」

宮部みゆきさんのライトな感じのミステリーです。
ショートストーリーの連作になっています。
「今夜は眠れない」の系統でしょうかね。
宮部みゆきさんは「模倣犯」などの重めのミステリーも読み応えあっていいですが、この作品のような軽めのものもおもしろいですね。

直と哲の中学生の双子と、ひょんなことから二人の父親代わり(ステップファザー)をすることになってしまった職業的な泥棒の「俺」のまわりで、毎回事件が起こります。
この作品はミステリーですが、その事件の謎解きに大きなトリックを使っていたり、社会性のあるテーマを取り上げているわけではありません。
どちらかというと、突然双子の親になってしまった主人公「俺」の人情ものといった感じでしょうか。
いつか二人の本当の親が戻ってきたら別れなくてはいけないと、あまり子供たちに愛情を持たないようにする「俺」がかわいい。
結局二人が困るとがんばってしまうのだけれど…。

直と哲の二人の話し方がとってもユニークです。
文節ごとに代わりばんこにしゃべるんですよね。
まさに二人で一人といった感じです。

「ステップファザー・ステップ」 宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-06-263285-3

宮部みゆきさんのライトなミステリー「今夜は眠れない」の記事はこちら→

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