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2006年12月25日 (月)

本 「伊勢神宮 -東アジアのアマテラス-」

東アジア全体の歴史との関連を踏まえつつ、神道、なかでも伊勢神宮とそこに祀られる天照大神の姿の変遷を追っています。
天照大神信仰のルーツ、道教の神道への影響、近代・戦時の神道などいろいろな側面から、神道についてアプローチしているのはおもしろいが、その幅を広げてしまったためかやや散漫な印象が残りました。

それでも、ひとつ興味深く読んだ内容がありました。
「非寛容という伝統」という段の文章からの引用です。

「日本という国は中世以来、自国を神国として近代に至るまで中国の土着的な宗教である道教に連なる信仰のあり方を邪宗とみなし、さらにヨーロッパ・アメリカから宣教されたキリスト教の受容を拒絶する姿勢を一貫してとりつづけてきたことがわかる。<中略>神道と国家の緊密なしばり、古代の祭政一致的内容は、世界宗教としての普遍性とは遠くかけ離れたところにある。」

戦前、戦中を通じ、日本は民族支配のために神道を信じることを占領国の国民に強要しました。
けれども表面上は現地の人々は神社にお参りにしたけれども、信じることはなかったと書いてありました。
神道の精神は日本人にとっては文化のベースとなっているあたりまえのものであっても、文化的に成り立ちが異なる別の国の人にとってはそれは普遍的に信じられる宗教には見えなかったのでしょう。
筆者はこれを「非寛容の伝統」と表現していました。

また筆者は折口信夫は、神道はキリスト教のように人類全体にとって普遍的な宗教であるべきとして、神道の宗教化を語ったと書いています。
神道の宗教化とは何とも不思議な感じがしますが、神道は教典といったものはほとんどありません。
その「精神」は連綿と続いていますが、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランといったような文書にはなっていません。
言語化をしなかったため、その精神は日本人の文化との結びつきは強いものの、人類全体が共有できる普遍的なものにはならなかったと論じています。
読んでなるほどと納得しました。
「キリスト教を信じている」「仏教を信じている」というのは聞きますが、「神道を信じている」とはあまり聞きません。
信じるというには何か言語化されたものが必要なのかもしれません。
神道の精神は日本人としてとてもしっくりするものなのですが、信じるというよりは日本人として生きている精神のバックボーンであるとか、そういうもののような気がします。

「伊勢神宮 -東アジアのアマテラス」 千田稔著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101779-X

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