「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」に続く山田洋次監督の時代劇三作目です。
前二作とも好きだったので、期待して観に行ってきました。
「たそがれ清兵衛」の清兵衛の昔ながらの生き方しかできない不器用なところが微笑ましかった。
義を重んじ、不条理なお上の命に従い、慕う女性への想いを切り捨て、元藩士との戦いに向かう。
お互いの想いを抑えつつ、果たし合いへ向かう準備をする真田広之さん、宮沢りえさんの二人のシーンは名シーンだと思います。
特に宮沢さんの立ち居振る舞いはすばらしく、襷をとる所作も美しく見えるほどでした。
最後の立ち回りも凄まじい緊迫感。
ほとんど光の入らない小屋の中での一騎打ちは、息をつくのもはばかれるような緊張感がありました。
「隠し剣鬼の爪」の宗蔵は、古い生き方しかできない清兵衛に対しリベラルな精神の持ち主。
こちらも主命の戦いというのは同じですが、最後には侍の身分を捨て、幼なじみのきえと生きる道を選びます。
松たかこさんは、不幸な境遇でもポジティブに生きようとするきえをやさしく力強く演じていました。
最後にきえを迎えにいった永瀬正敏さんと松さんの会話もいいシーンでした。
さて「武士の一分」は。
話題になった木村拓哉さんの起用ですが、全二作の主演ペアの演技がとても良いだけに、比べるとちょっと物足りない感じがしました。
「たそがれ清兵衛」の真田広之さんなどはいままでに彼が観せたことのない演技をしていたように感じましたが、「武士の一分」はいつもの木村さんとあまり変わらない感じがしました。
月9などで観る木村さんと同じイメージなんですよね。
全体的に幼いというか、青臭い印象を受けてしまいました。
立ち回りもがんばっているとは思います。
けれども若者らしい荒々しい感じはしましたが、真田さんや永瀬さんほどのキレは感じませんでした。
動きが大味な感じがするという印象でしょうか。
タイトルにある「一分」とは聞き慣れない言葉だったので、調べてみたところ「面目」という意味でした。
つまり「武士の一分」は「武士の面目」という意味ですね。
前二作では主人公は主人の為に戦いましたが、今回新之丞は己の「武士の面目」のために戦いに赴きます。
自分のために戦うのが前二作と違うところです。
新之丞は戦いが終わり、そしてやっと自分が戦ったのは自分の面目のためでなく、愛する妻の面目のためだったのだと気づきます。
妻の行為は自分を傷つけた。
しかしそれは自分を妻が守ろうと精一杯やったことだったと。
自分が大事だと思っていた面目=プライドが妻の自分への想いに比べ、なんと小さいことかと気づいたのです。
ここまで書いてこんな風にまとめられるのではないかと思いました。
「たそがれ清兵衛」は大人の男女の話。
会話だけでなく、仕草などで二人の間に言葉なくとも気持ちが伝わることがわかります。
清兵衛(大人)ー朋江(大人)
「隠し剣鬼の爪」は大人の男と、少女のお話。
宗蔵のきえへの気持ちは初めは保護者としてのものから次第に愛情へ変わっていきます。
きえの想いも無条件な尊敬が愛する気持ちになっていきます。
宗蔵(大人)ーきえ(少女)
「武士の一分」は少年と、大人の女のお話。
加世には、新之丞に対し子を世話をするような母性愛を感じます。
新之丞は事件が起こるまでは、加世の深い愛に気づききれていません。
新之丞(少年)ー加世(大人)
そういうことだとすると、新之丞の青臭さというのは計算づくだったのかもしれません。
山田洋次監督の時代劇は脚本がいいです。
男女の間でかわされる会話が、想いが深く伝わりなんとも味わい深いのですよね。
今回の作品もいい場面がいくつもありました。
特にぐっときたのが、新之丞が視力を失ったときの会話。
新之丞は自分の視力がなくなったことを気づきますが、加世に心配かけまいと口をつぐんでいます。
そのことに加世が気づき、何故隠していたのかと問いかけます。
新之丞 「おまえに心配をかけたくなかったのだ」
加世 「私はあなたを心配したいのです」
(方言が入っていたのでセリフとは厳密には違うと思いますが)
こんなこと言われたら、男はその人を絶対守りたいと思ってしまいますよ。
一応山田洋次監督の時代劇三部作は完結ということですけれども、そんなことを言わずもっともっと撮ってほしいと思っています。
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