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2006年12月31日 (日)

本 「偽史日本伝」

弥生時代から明治時代で有名な歴史的エピソードを、「実はほんとはこんなだったのよ」といった偽の歴史をユーモア交えて描いた短編集です。
とりあげたエピソードもメジャーな話ですし、全体的に軽いタッチなので、歴史ものニガテという方でも楽しく読めるのではないかなと思います。
全14編ですが、お気に入りのエピソードをいくつかご紹介します。

「おそるべき邪馬台国」
邪馬台国がどこにあったのか、それは未だに研究者の間でも決着がついていない問題です。
北九州にあったのだ、大和にあったのだなどといろいろな説がありますが、そもそも邪馬台国の場所について言及されている「魏志倭人伝」の記述がひどく曖昧なのです。
つまりどうとでもとれるような書き方をされているのです。
それを逆手にとったアイデア、なかなか小気味良いです。

「苦労判官大変記」
ご存知義経と武蔵坊弁慶の逸話を題材にとってます。
美形で通っている義経が実は・・・。
これもなかなかのアイデア。
山田風太郎の忍法帖で使いそうな感じもします。

「嵐」
元寇を題材にしています。
収録されているものの中では、最もSF色の強い作品。
元寇が何故起こったのか、その原因をSF的解釈で解き明かします。
なるほどと膝をうちたくなるアイデア。

「人生かし峰太郎」
坂本龍馬暗殺を取り上げています。
突然現れ、坂本龍馬を暗殺から救い出す謎の男。
その名は田原峰太郎。
その人物は何者か。
読んでみるとうまいパロディだということがわかります。

代表的な作品をご紹介しましたが、なかなかおもしろい作品集なので、是非。
(僕は古本屋で見つけたので、なかなか探しにくいかもしれませんが・・・)

「偽史日本伝」 清水義載著 集英社 ハードカバー ISBN4-08-774266-0

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2006年12月30日 (土)

「デート・ウィズ・ドリュー」 押しの弱い「電波少年」

「華氏911」や「スーパーサイズ・ミー」等、最近ドキュメンタリー映画もよく公開されるようになりました。
「スーパーサイズ・ミー」はモーガン・スパーロック監督などは自分自身の体を使い(文字通り命をかけて)作った、過酷かつ毒のあるユーモアたっぷりのドキュメンタリーでした。
まさにセルフ「電波少年」といった感じ。

そういったセルフドキュメントの流れのこの作品「デート・ウィズ・ドリュー」です。
限られた時間、限られたお金の中でアイデアを振り絞り、なんとか憧れのスター、ドリュー・バリモアとのデートを実現しようとするドキュメンタリーです。
僕はこういうオバカなアイデア好きなので、けっこう期待して観に行きました。

監督兼主演はブライアン・ハーズリンガー氏。
テレビのクイズ番組で得た賞金を元手に、なんとかドリューと会おうと奮闘します。
けれども、ブライアンの打つ手は思いのほか正統派。
マジめにコツコツ知り合いをあたってドリューとのコネクションを探し、平行して自分の魅力度アップを図ります。
「華氏911」や「スーパーサイズ・ミー」のような毒を期待していたのですが、それほどではなく・・・。
マイケル・ムーアには「そんなに体制と張り合って大丈夫か」とハラハラし、モーガン・スパーロックには「死んじゃうんじゃないの、無理すんな」とドキドキしたりしたものですが、そういった切羽詰まった感はブライアン氏にはありません。
ブライアン氏、なんというか楽観的というのでしょうか、先にあげた二人のような「世間に物申す」といった主張はないんですよね。
そこらへんがセルフ・ドキュメントの割に体当たり感がヨワくて、作品全体も押しが弱く感じた気がします。
電波少年のなすびの方が展開にドキドキしたなあ(古い?)。

最後にドリューに会えるかって?
それは観てのお楽しみです。

ドリュー・バリモア主演の「ラブソングができるまで」の記事はこちら→

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「遥かなる大地へ」 トムとニコールのひとつ屋根の下

ロン・ハワード監督作品です。
彼の作品の中ではあまり有名な部類ではありませんが、僕はけっこう好きな作品です。
19世紀末、アイルランドからアメリカに渡った小作農の息子(トム・クルーズ)と、貴族の娘(ニコール・キッドマン)が自分の土地を手に入れるための旅をしていく中、身分の違う二人がお互いに魅かれていきます。
トムは自分の土地を手に入れたいと願う農民の息子。
学はないけれども、農作業で鍛え上げられた肉体と、強い意志を持つ青年です。
ニコールは何不自由なく暮らせている貴族の娘ですが、古くさい慣習にとらわれた社会から飛び出し、アメリカでモダンな女になりたいという気持ちとそれを実践する行動力を持った娘です。
その二人が始めは反発しながらも、旅をいっしょにしていき、一つ屋根の下で暮らすようになり、次第に魅かれるようになっていきます。
当然、トムの恋のライバル(許嫁)も現れ、そして二人の間を裂く事件も起こります。
まさに典型的な青春ラブストーリー(まるで「キャンディ・キャンディ」のようだ)で、どろどろした恋愛ものばかりではなく、たまにはこういうさわやかなのもいいですね。

確かトムとニコールはこの映画の製作しているときは、結婚ばかり。
画面を見ていても二人の間でラブラブビームが飛び交っているよう。
二人ともとっても若いし。
しかし、ニコールはこの作品から15年くらい経っていますが、全く美貌は衰えないですね。

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2006年12月28日 (木)

「鉄コン筋クリート」 コドモの精神世界へのオトナの精神の侵略

2006年はアニメーションの当たり年だったのかもしれません。
大作、話題作だけにとどまらず、「時をかける少女」「パプリカ」等、個性を出した作品もいくつか公開され、評価されてましたね。
そういう2006年のアニメーションの締めくくりに「鉄コン筋クリート」を観てきました。
予告で観た映像がすばらしく、とても期待していた作品でした。

映像はすばらしい!
画面全体からうける密度感が圧倒的でした。
「パプリカ」も密度感のある映像でしたが、この作品はまた違う印象です。
「パプリカ」は言うなれば色彩の密度感。
彩度の高い色彩が画面を埋め尽くしているカラフルで躁っぽい印象でした。
対して「鉄コン筋クリート」は描き込みの密度感でしょうか。
キャラクターはいたってシンプルな線で表現されていましたが、背景の宝町の描き込みの密度がものすごい。
色使いも単調ではないのですが、全体のカラーイメージは懐かしさを感じるトーンで統一されているので、色よりも描き込みの方が印象に残ります。
初めて大友克弘さんの漫画を見た時の印象に近いですね。
CGも当然使っているのですが、基本的には手書きの質感を生かしていました。
この質感を外国人監督が作ったことに驚嘆します。
日本人だけがジャパニメーションを作れると思っているとやばいかもしれません。
対照的に夏に公開された「時をかける少女」はシャドーの塗り分けもしないシンプルなタッチが新しかったですが、今年は大作(「ゲド戦記」「ブレイブストーリー」)が今までの表現の枠を越えられなかったのに比べ、マイナーな作品が個性のある表現に挑戦していた年だったようです。

さて続いて、内容についての感想です。
舞台となる宝町はさまざまな時代、国のものがごちゃっごちゃっと詰め込まれたごった煮のような場所。
まるで子供の頃、好きなものを何でも入れたおもちゃ箱のよう。
ここをクロはオレタチノマチと呼びます。
僕には、そこはコドモたちの精神世界のような気がしました。
好きなモノであふれているところ。
そこにはまだ、善と悪といったオトナの基準はありません。
まだ未分化な精神なのです。
コドモは大人からみると、とても残酷なことをする時があります。
例えば、虫の足をもじってしまうとか・・・。
また既成概念にとらわれず、とても無邪気に物事を表現したりして、大人がびっくりすることもあります。
それらのコドモの精神の象徴がクロとシロという登場人物で、それはまだ未分化なものであるので、二人は引き離されるととても不安定な状態になるのでしょう。

物語は宝町へヤクザが計画する子供たちのテーマパーク建設計画を軸に展開します。
理路整然と作られた計画というのは、大人たちの精神を象徴しているのでしょう。
袋小路や脇道などが入り組んだ宝町の地図の真ん中に、直線と円弧という幾何学的な設計のテーマパークが作られている様子は、コドモの精神世界へのオトナの精神の侵略を表しているような気がしました。
まだ未分化な精神に無理矢理大人の論理を押し付けることの危険性は昨今の様々な事件などに見て取れます。
クロの暴れぶりはキレるコドモを想像させますし、シロが一心不乱に絵を描いている様子は引きこもりを感じさせます。

自分もいろんなものが入っていたおもちゃ箱を持っていた。
でもいつしかそんなことは忘れてしまう。
オトナになると、コドモたちが自分と同じように整理されていないごちゃごちゃしたおもちゃ箱を持っていることに気付かない。
それをわかってあげたうえで、コドモたちと話してあげないといけないと思ったりしました。

声の出演をされていた方々すばらしかったですね。
うまいかどうかというより、作品世界にあっていたと思います。
「フラガール」の蒼井優さん、「硫黄島からの手紙」の二宮和也さん、良かったですよ。
僕としては一番良かったのは、”ネズミ”の田中泯さん。
”ネズミ”というキャラクター自体も味わい深かったのですが、その役に見事合っていました。

「鉄コン筋クリート」、アニメーションの当たり年の最後にふさわしい作品だったと思います。

マイケル・アリアス監督作品「ヘブンズ・ドア」の記事はこちら→

「パプリカ」の記事はこちら→

「時をかける少女」の記事はこちら→

「ゲド戦記」の記事はこちら→

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2006年12月27日 (水)

「のだめカンタービレ」 生きて動いてる「のだめ」ワールドにびっくり!

テレビドラマ「のだめカンタービレ」のレビューです。

原作の漫画は昨年ぐらいに会社で大ブレイク。
小学生の子供さながらコミックをみんなで回し読み、そして大いにはまり、結局全巻大人買いしてしまいました。
クセのあるキャラクターは漫画ならでは!と思っていたので、今回のドラマ化が決定を聞いたときは、ほんとにおもしろくなるのかなーと半信半疑でした。
生きている女優さんがほんとに「ぎゃぼっ」とか言うの?(観たらほんとに言っていてびっくり)
コミックが当たっているから、視聴率かせぎではないの?というような斜に構えた気持ちもでたりして、HDに録画しておいたのですが、しばらく観ずに放っておいたり。
けれども!
観始めたら結構はまりました。
いいじゃないですか!

まず良かったのは、原作で好きだったエピソードがうまく生かされていること。
現在も連載中なのでさまざまなエピソードがあるのですが、端折るところは端折り、おもしろいところは上手に生かしていました。
長野の音楽祭等はごっそり省いてましたけど、三木清良は同じ音大生の設定にしたりといった工夫をし、うまく後半につなげてましたね。
初期の傑出したエピソード、こたつにまつわる話はまさかドラマでやると思わなかったのにやってました、スゴい。
あとSオケコンサートでリアルマングースが出たときはしびれました、ほんとに。
ギャグもコミックっぽい表現をうまーく(スローモーション、CG、人形・・・等を使って)とりいれていましたね。
一歩間違うとはずしてしまいそうな微妙な匙加減でできていた

音楽もチカラいれてましたね。
ちゃんと聞かせてくれるようにしてたのが良かったです。
テレビドラマなので、コンサートシーンとかしょぼくなるかと思いきや、最後はサントリーホールまでを使ってしまうとは、なかなかの迫力。(サントリーさんがスポンサーだったのでできたのでしょうけれど)
その他、小道具など細部へのこだわりがドラマの制作者たちが「のだめ」好きなんだろうなーという愛情ひしひし感じました。

ドラマ化で一番心配していたのはキャスト。
あの非現実的なキャラたちを誰が演じられるのか。
放映前にポスター見たときは、いまいちイメージ違うなーと思ってましたが・・・。
動いてみるとほとんどのキャラが漫画のイメージがでてたなーと思います。
すべてのキャラクターのコメント書きたいとこですが、印象的なところだけ。
のだめの上野樹里さん。
始めは舌足らずなしゃべり方が気になりましたが、見ているうちに独特の「のだめ」口調に慣れてしまいました。
ついに漫画を読んでも上野風「のだめ」口調が頭の中から離れず・・・。
いい意味でキャラクターを進化させたと思います。
「その口やめろ!」と千秋に言われる「ひょっとこ口」もまんま表現してましたね。
そういえば母お手製のワンピースも漫画そのままのデザインででていました。
千秋の玉木宏さんもいい感じ。
オレさまぶりをいい感じで表現。
髪型などもしっかり漫画にあわせてイメージ通り。
最終回のコンサートシーンの指揮振りも見事でした。
最終回の前に「敬愛なるベートーヴェン」のエド・ハリスの指揮を見ていたので、比べてしまうかと思ったのですが、ヒケはとらなかったですよ。
シュトレーゼマンは竹中直人さんとキャスティングを聞いたときは、安易な解決方法だと思ったのですが、観てみるとこの役できる人、他にいないかも。
外人さんをあててもまったくおもしろくないだろうし、普通の日本人だと滑りそうだし。
こんなに漫画っぽい役をケレン味たっぷりに演じられる人はあまり浮かばないです。
他のキャラにもいろいろ書きたいことがあるのですが、長くなるのでこのへんで。

最後に最終回でもキャラにハマっていた女優さんがいました。
それは、のだめの母、ヨーコ。
宮崎美子さん、ナイスキャスティング!
「寸法とらせていただきます!ハアハア!」
漫画通りだったので、びっくりしました。

ドラマスペシャル「のだめカンタービレ inヨーロッパ」の記事はこちら→ 映画「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」の記事はこちら→ 「のだめカンタービレ(アニメ)」の記事はこちら→ 上野樹里さん主演「スウィングガールズ」の記事はこちら→
ドラマでもこの方の曲、流れてましたね。「敬愛なるベートーヴェン」の記事はこちら→

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2006年12月25日 (月)

本 「伊勢神宮 -東アジアのアマテラス-」

東アジア全体の歴史との関連を踏まえつつ、神道、なかでも伊勢神宮とそこに祀られる天照大神の姿の変遷を追っています。
天照大神信仰のルーツ、道教の神道への影響、近代・戦時の神道などいろいろな側面から、神道についてアプローチしているのはおもしろいが、その幅を広げてしまったためかやや散漫な印象が残りました。

それでも、ひとつ興味深く読んだ内容がありました。
「非寛容という伝統」という段の文章からの引用です。

「日本という国は中世以来、自国を神国として近代に至るまで中国の土着的な宗教である道教に連なる信仰のあり方を邪宗とみなし、さらにヨーロッパ・アメリカから宣教されたキリスト教の受容を拒絶する姿勢を一貫してとりつづけてきたことがわかる。<中略>神道と国家の緊密なしばり、古代の祭政一致的内容は、世界宗教としての普遍性とは遠くかけ離れたところにある。」

戦前、戦中を通じ、日本は民族支配のために神道を信じることを占領国の国民に強要しました。
けれども表面上は現地の人々は神社にお参りにしたけれども、信じることはなかったと書いてありました。
神道の精神は日本人にとっては文化のベースとなっているあたりまえのものであっても、文化的に成り立ちが異なる別の国の人にとってはそれは普遍的に信じられる宗教には見えなかったのでしょう。
筆者はこれを「非寛容の伝統」と表現していました。

また筆者は折口信夫は、神道はキリスト教のように人類全体にとって普遍的な宗教であるべきとして、神道の宗教化を語ったと書いています。
神道の宗教化とは何とも不思議な感じがしますが、神道は教典といったものはほとんどありません。
その「精神」は連綿と続いていますが、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランといったような文書にはなっていません。
言語化をしなかったため、その精神は日本人の文化との結びつきは強いものの、人類全体が共有できる普遍的なものにはならなかったと論じています。
読んでなるほどと納得しました。
「キリスト教を信じている」「仏教を信じている」というのは聞きますが、「神道を信じている」とはあまり聞きません。
信じるというには何か言語化されたものが必要なのかもしれません。
神道の精神は日本人としてとてもしっくりするものなのですが、信じるというよりは日本人として生きている精神のバックボーンであるとか、そういうもののような気がします。

「伊勢神宮 -東アジアのアマテラス」 千田稔著 中央公論新社 新書 ISBN4-12-101779-X

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2006年12月24日 (日)

「犬神家の一族(2006)」 おかげでトラウマはなくなりました

ミステリー映画はよく観ますし、推理小説もかなり読みます。
けれども1976年版「犬神家の一族」は観たことがありません。
それどころか、横溝正史さんのミステリーは小説も映画もいっさい観たことがないんです。
なぜかというと・・・。
小学生の頃、テレビで見た「犬神家の一族」CMがあまりに怖かったから!
あの有名な湖から二本の裸の足がにょきっと出ているシーン。
角川映画の第一弾ということで、やたらあのCMがかかっていました。
小学生の僕にとっては、それを見るたび何か妖しいもの、怖いものに見え、顔を背けてました。
あと角川文庫の表紙画もおどろおどろしかったし・・・。
どうも金田一シリーズは「怖い」という印象が残り、ずっと避けていました。
(今となってはもっと怖いサスペンス見ているけれど・・・)

ということで、幼い頃のトラウマを引きづりつつ、ちょっとドキドキしながら新しい「犬神家の一族」を観に行きました。
感想はというと・・・。
え、こんなもんなの・・・? 拍子抜けという感じでした。
原作はずいぶん前の作品なので、ミステリーのトリックの予想がついてしまったというのが、そう思った原因のひとつであるかもしれません。
あと、上に書いたようにトラウマになりそうなほどの前作のものすごい印象が残っていて、そしてもっと複雑だったり過激な表現を観ていたというのもありますね。
ちょっと苦手だったのが、オーバーアクションの俳優さんたちの演技です。
「ギャー」とか「キャー」とかのリアクションが派手で作り物っぽい。
佐清の素顔よりも、松子・竹子・梅子三姉妹の驚きの表情の方が怖かった。
特に富司純子さん(失礼・・・)。
旧作を見ていないのでどこが違うとか言えないのですが、あえてリメイクものを作った意図みたいなものを感じませんでした。
監督も主演も同じだからでしょうか。
同じ話でも新しい監督さんにやってもらった方が、新しい味が出せたのかもしれません。

観ていてちょっと退屈してしまったので、おかげですっかり横溝正史ミステリーのトラウマはなくなりました。
よかったのか・・・?

横溝正史原作、稲垣吾郎が金田一を演じるテレビドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」の記事はこちら→

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2006年12月23日 (土)

「敬愛なるベートーヴェン」 表現者にとって、理解者は何事にも代え難いもの

漫画「のだめカンタービレ」のおかげで、普通にクラッシックを聞くことが多くなりました。
昔はモーツァルトとベートーヴェンの違いもよくわからなかったんですけれど、進歩したものです。
ということで、二年前だったらほとんど興味がわかなかったであろう「敬愛なるベートーヴェン」を観に行ってきました。

まずエド・ハリスがベートーヴェンに結構はまっていたので、びっくり。
エド・ハリスは好きな役者さんなのですが、「ザ・ロック」や「アビス」のあまり髪の毛がないイメージが強く、音楽室の肖像画で見慣れたぼさぼさ頭のベートーヴェンとなかなか結びつきにくかったのですが、なかなかどうしてぴったりはまっていました。
(もちろん、あれは鬘ですよね・・・)
第九初演のシーンは見応えありました。
爆発的に歓喜が溢れる演奏・合唱と、ベートーヴェンとアンナの魂を込めた指揮振りがシンクロし、迫力あるシーンだったと思います。
アンナを演じたダイアン・クルーガーも知性がありそして意思の力がある美女で役柄に合っていたと思います。

この映画におけるベートーヴェンにとってアンナは唯一の理解者だったのでしょうね。
天才であるベートーヴェンの頭の中に溢れる音楽のイメージ。
言葉にならないそのイメージは、そのままでは誰も覗くことができないため他人には理解しがたい。
それを耳で聴こえる旋律にして初めて人々はベートーヴェンの頭の中に存在する神のイメージを感じることができるのです。
しかしその旋律をつくりあげるには、自分の頭の中のイメージを楽譜に定着しなくてはいけません。
頭の中には次から次へとイメージが溢れてくる。
それを定着するのに追いつかない。
そのもどかしさが、「野獣」と称されるベートーヴェンのエキセントリックな性格としてでてきたのでしょう。
彼に必要なのは自分のイメージを理解してくれ、それを表現できるサポーター=コピスト。
自分が感じるであろうことを感じていると信じられるコピスト、それがアンナだったのです。
同じことをイメージできる人がいてくれる、それは創作をする人にとっては何ものにも代え難いものでしょう。

これに近い感覚はわかりますね。
僕はデザイン関係の仕事をしています。
ある仕事でこんなイメージでと思ったことも、なかなか他の人が感じてもらえるデザインに定着できずにもどかしく感じることもしばしばです。
というのは僕は絵を描くのがあまり上手じゃないんで(デザインやっているのに・・・)。
でも、長年いっしょにやっているデザイナーだと、「こんな感じだよね」と僕のイメージを理解してしっかりとデザインに定着してくれる時があります。
「そうそう、そんな感じ!」
わかってもらえてるなーと理解されてもらっている快感というか、一緒に作り上げている感じというかそういうのを感じます。
映画監督が○○組などと相性のいいスタッフで映画を撮るのも同じ感じかもしれません。
ベートーヴェンがアンナに感じたのもそういう気持ちなのかなと思います。
「私にもフーガが見えました」
ベートーヴェンの臨終の時にアンナが言った一言はベートーヴェンは何にも増して嬉しかったに違いありません。

ベートーヴェンがアンナをずっと「アンナ・ホルツ」とフルネームで呼んでいたのが印象に残りました。
ベートーヴェンにとってアンナは自分のイメージを理解してくれるかけがえのない大事な人。
そしてアンナは若く美しい女性でもあったのです。
大事に思う気持ちは恋愛感情に成長していってもしかたがないと思いますが、そうするとベートーヴェンはアンナを失ってしまう可能性もあるということに気付いていたのかもしれません。
そのため事務的にフルネームで呼び続け、愛という感情に移行しないよう自制をしていたのではないかと感じました。
ベートーヴェンは男としての感情よりも、ベートーヴェンという人間として理解されたいという気持ちを大事にしたのでしょうか。

気に入らなかった点がひとつ。
感情的に盛り上がるポイントでのカメラワークがわざとらしかったですね。
ハッとするときカメラもグッとズームになるとか、陶酔している時の揺れるカメラとか・・・。
ややクドい感じがわざとらしかったです。

ベト7がテーマ曲のドラマ「のだめカンタービレ」の記事はこちら→

ダイアン・クルーガー出演「ミシェル・ヴァイヨン」の記事はこちら→

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2006年12月18日 (月)

本 「破裂」

冒頭は医療ミスの内部告発から始まります。
そこに書かれている医師の言葉には、人の生命を八百屋が大根を見るように、ただの自分の仕事の対象としてしか見ておらず、それが人一人の生命であることの意識の薄さがあらわれているようで怖くなりました。
物語はそのような内部告発から大学病院内の権力闘争等が描かれ「白い巨塔」のような展開になります。
しかしこの小説はそれだけでは終わりません。
父親を医療ミスによって亡くしてしまった娘の病院を相手にした裁判は、法廷スリラーのような緊迫感があります。
厚生労働省の官僚が使う”内諜”の暗躍は、スパイサスペンスのよう。
主人公がストレスにより溺れていく麻酔中毒の描写はディックでしょうか。
長い小説ですが、読んでいて全く緊張感が途切れることはありません。
作者の方は現役の医師ということですが、これほどの小説が書けるとは驚きです。
さすが医師ということで、医療に関する専門用語などがたくさんでてきますが、決して読みにくいわけではなく、医師の現場のリアリティにつながります。
最後の物語のまとめ方はやや性急な感じがしました。
とはいえ、読み応えのある小説でありました。
今後の作品に期待です。

「破裂」 久坂部羊著 幻冬社 ハードカバー ISBN4-344-00698-4

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2006年12月17日 (日)

本 「図書館内乱」

有川浩さんの「図書館戦争」が好評だったようで、シリーズ化になりました。
僕が「図書館戦争」を手に取ったのは、書評等で話題になる前でした。
いつものごとく本屋を流していたら、不思議なタイトルが目に入りました。
「図書館?」
「戦争?」
意外な言葉の組み合わせで興味をひくところなどは、タイトル付けがうまいですね。

読んでみるとかなりおもしろい。
難解なミステリーと違い読みやすさはライトノベルのよう(ほめ言葉デスよ)。
その割に「何故図書館が武装組織を持つように至ったのか」など設定は、綿密に組み立てられていました。
このあたりの設定が薄っぺらいとなかなかこのような世界に入り込めないものなのですが、とてもきちんとしていました。
登場人物も魅力的。
メインは主人公郁と、その上司堂上のラブコメタッチの関係が軸になってます。
周りの人間も一癖二癖あるキャラクターで、読み終わったときは「ああ、終わってしまった」と、この登場人物と別れるのが寂しい感じがしました。

けれども。
好評により第二弾「図書館内乱」が発売。
みんな郁たちのその先が知りたかったのでしょうね。
「図書館戦争」がさきほどの二人が軸だったのですが、今回の「図書館戦争」はその周りの人々、小牧教官、郁の同期の柴崎、手塚などにスポットがあたり、よりそのキャラクターの魅力が描かれます。
小牧教官のエピソードとかふんわりと甘酸っぱくて良かったです。
もちろん、郁と堂上のやきもき関係も継続。
最後にちょっと動きもあり・・・。
次回作が待ち遠しくなりますね。

キャラクター的にも映像化向きのお話。
どこかでアニメ化など進んでいるんでしょうねえ。

図書館戦争シリーズ「図書館危機」の記事はこちら→ 図書館戦争シリーズ「図書館革命」の記事はこちら→ 図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅰ」の記事はこちら→ 図書館戦争シリーズ「別冊 図書館戦争Ⅱ」の記事はこちら→ アニメ版「図書館戦争」の記事はこちら→

「図書館内乱」 有川浩著 メディアワークス ハードカバー ISBN4-8402-3562-7

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「硫黄島からの手紙」 アメリカ人も日本人も、同じ人間

イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」に続く硫黄島二部作の二作目です。
「父親たちの星条旗」では戦争においてアメリカという国家が英雄を作り出していくことを描いていました。
なかなか自国のことをひいた目線で語れる人はいないと思いますが、それを行ったイーストウッドの真摯な姿勢に好感を持ちました。
そのため、二作目である「硫黄島からの手紙」も期待していました。

けれども、不安もありました。
日本人ではないイーストウッドが日本人の心を描けるのかと。
今までハリウッドに何度も見せられた怪しげな日本人像を見せられるのではないかと。

しかし心配は杞憂に終わりました。
そして僕が抱いていた心配も見当外れであったこともわかりました。
監督は日本人を描こうとしていたわけではなかったのです。

公開前の宣伝でことさら言われていたのが、アメリカの視点「父親たちの星条旗」、日本人の視点「硫黄島からの手紙」という構図。
確かに「父親たち〜」で描かれているのはアメリカ兵ですし、「硫黄島〜」は日本兵です。
しかし、この二部作でイーストウッド監督が描こうとしていたのは、硫黄島戦をとらえる双方の視線ではないと、今回の「硫黄島からの手紙」を観て思いました。
監督が描きたかったのは、アメリカ人も日本人も戦争について同じことを思っているということ。
戦争に子供や夫を送り出す、母や妻の辛さは日米両国ともに変わらない。
戦地で妻や子供、仲間のことを思い、命を投げ出そうとする覚悟にアメリカも日本もないのです。
元憲兵である清水が「鬼畜米英」という言葉のイメージしか捉えていなかったと言っていました。
アメリカに渡った経験がある西は部下に対し、お前はアメリカ人に会ったことがあるのかと問います。
アメリカ人も戦時中は日本人をジャップやイエローモンキーなど差別的な言い方で呼んでいました。
戦争の恐ろしいところは、相手をいつしか人間としてではなく、戦略地図に載っている記号(イメージ)として捉えるようになってしまい、概念化してしまうことでしょう。
そうなってしまうと、相手が同じように妻や子供を思いつつ戦っていることがわからなくなります。
相手も撃たれれば痛みを感じることを忘れてしまいます。
相手が記号であり自分たちと同じ人間ではないと思えば、どんなひどいことをしても許されると考えてしまいます。
相手も悲しみを感じる人間であること、人を想う人間であることを忘れないようにしていれば、争いを避けられるのにと感じました。

出演していた日本人俳優もすごぶる良かったですね。
外国映画出演も数多い渡辺謙さんは相変わらずの安定感。
硫黄島に降り立ち自分の目で、地勢と部下たちの状況を確かめ大局を判断する、なかなか優れた上司でした。
なかなかこのようにできる人はいません。
上に立てば立つほど部下は戦術に必要な駒に見えてしまいます。
これも記号化してしまうことにより、人間性を忘れてしまう例かもしれません。
西郷を演じる二宮さんも上手でしたね。
彼の演技はほとんど観たことがなかったので、驚きました。
こんなに上手だったとは。
「鉄コン筋クリート」では声優にも挑戦ということで期待度高まります。
他にも伊原さんの演じていた西、中村獅童さんの伊藤なども魅力的でありました。
死にきれなかった伊藤中尉の最後の泣き笑いのような顔は迫真の演技でした。

イーストウッド監督は二部作という特異な構造を使うことにより、一方的な視点になってしまうことを避け、日米双方の国民の感情も配慮しつつ、自分たちは同じ人間であり苦しみも楽しみも感じる存在であるということをお互いに理解できるように描きました。
全体の抑えた演出もさることながら、このような新しい構造の試みを行った監督に敬意を表したいです。

「父親たちの星条旗」の記事はこちら→

クリント・イーストウッド作品「チェンジリング」の記事はこちら→ クリント・イーストウッド作品「グラン・トリノ」の記事はこちら→

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2006年12月16日 (土)

「カーズ」 ゆっくり走るのもいいね

無機物であるところの車たちが、なんとイキイキとしていること!
アメリカのCGアニメは、日本のアニメーションとはまた異なった表現として確立してきてますね。
特にピクサーのアニメーションは、キャラクターのデフォルメ具合のバランスが非常にいいです。
特にこの作品では、自動車をキャラクターにしてますが、メタリックな車の無機物としての質感と、生きている人間のような暖かさのような相反するところのバランスを見事に解決していると思います。
画面の中で自動車たちがほんとに生きているように見えるから見事です。

キャラクターがイキイキとして見えるのは、グラフィカルな表現力もさることながら、それぞれのキャラクターの性格付けもうまくできていることが要因だと思います。
特にバイプレーヤーの役回りのキャラクターが魅力的。
退役軍人のようなジープや、ヒッピー風のフォルクスワーゲンのワゴンなんかいい味だしてます。
僕のお気に入りは、タイヤ屋さんのフィアットとちっちゃな三輪車(?)のコンビ。
イタリア訛りの英語がなんとも・・・。
レース上での見事なピットインには喝采!
最後に憧れのフェラーリのシューマッハに会えて、コテンと倒れてしまうとこなどはとても愛くるしかったです。

レースシーンなども子供向けとは言わせないぐらいの十分迫力ありますね。
冒頭とラストのレースシーンは、「デイズ・オブ・サンダー」にも負けないでしょう(笑)

ストーリーもしっかりしていて、明確にテーマも盛り込んでいました。
自分の成功のことばかり考えていたマックイーンは、他人を気にしない個人主義ばかりが蔓延している現代のアメリカの都会に暮らす人々を風刺しているのでしょう。
成功ばかりをおいかけ、10分でも早く行くことを気にし、大事なものを失ってしまう。
まっすぐなバイパスばかりが正しいことではないですよね。
曲がりくねった路を寄り道しながら進むのも豊かかもしれません。
「ゆっくり走るのもいいね。」
大切なことに気付いたマックイーンの台詞にそのあたりが表れていました。

日本車はでてなかったですね・・・。
それともどこか出てたかな?

「カーズ2」の記事はこちら→ ピクサー作品「WALL・E/ウォーリー」の記事はこちら→

ピクサー作品「レミーのおいしいレストラン」の記事はこちら→

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2006年12月10日 (日)

「功名が辻」 千代の功名

大河ドラマを最初から最後まで観たのは何年振りでしょう。
良妻として山内一豊の妻、千代の物語を描いた司馬遼太郎の小説を原作にしています。
このドラマの前は「山内一豊の妻」という存在は知っていたのですが、戦前に良妻として教科書に載っていたというような話くらいしか知りませんでした。
大河ドラマになるということを聞いたときは、なんと地味なという印象でした。
けれどもなにげに見た第一回目からハマってしまい、十数年振りに大河ドラマを年間通しで見てしまいました。

大河ドラマはキャスティングがニュースになるくらいですが、今回の「功名が辻」はほんとにすばらしかった。
千代役の仲間由紀恵さん、一豊役の上川隆也さん、良かったです。
仲間さんが「旦那さま」と愛情を込めて一豊を呼ぶ姿がとても愛らしい。
歳をとっても夫を愛しているという姿はとても可愛らしいものでした。
最終回を見ていて思ったのですが、十代の頃から亡くなる頃まで何十年にも及ぶ役でしたが、その年齢らしさを演じ分けていて、女優としてもすばらしいなと思いました。

戦国時代と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人ですが、それぞれはまり役だったように思います。
織田信長役の舘ひろしさんは、目をひんむいた時の迫力がものすごかった。
鬼気迫るという感じでしょうか。
柄本明さんも、情に厚いが利にも聡い秀吉に合っていたと思います。
途中から赤ら顔、名古屋弁に拍車がかかりいよいよサルっぽくなっていましたね。
老年にさしかかり、淀に溺れていき、そして見捨てられる時の姿は、自分が招いたこととは言え、哀れさを感じました。
そして徳川家康の西田敏行さん。
秀吉のサルに対し、タヌキと称されることが多い家康ですが、西田さんもタヌキっぽい。
秀吉が亡くなったときのため息のような「長かった・・・」という台詞に、待ちの家康の人生が表れていたと思います。

三人とも権力の頂点を目指し、それを手に入れるのですが、それと同時に変貌していきます。
得たものを失う恐怖、若いものに追われる恐怖によって疑心暗鬼に陥り、周囲の者を害していってしまいます。
三人とも死ぬときは本当に幸せだったのだろうかと思いました。

それに比べ、一豊は功名をたてたものの土佐国一国のみの主です。
城無しからの立身出世としてはめざましいですが、数多ある大名の一人です。
それでも死す時は先の三人に比べ幸せだったでしょう。
偉くなっていっても、家の者を大切に思う一豊らしさは失われず家臣たちにも慕われて亡くなったのですから。
慢心した時もありましたが、それを諌め、そしてなりよりも一豊らしさを愛していたのが、妻の千代。
千代がいたからこそ、一豊は変わらずいられたのでしょう。
出世を助けた女大名としてよりも、一豊らしさを守っていったことこそが、千代の功名なのでしょう。

最後に心に残るベストの場面というと・・・。
吉兵衛の討ち死の場面でしょうか。
信長にしても、秀吉にしても歴史上の有名な人物はその行く末を知っているので展開は読めますが、吉兵衛は・・・。
予告を見たときに悪い予感がしましたが、あの場面では一豊といっしょに「死ぬなー」と言ってしまいたい気持ちになりましたね。
武田鉄矢さん、とっても良かったです。

原作小説「功名が辻」の記事はこちら→ 仲間由紀恵さん主演映画「大奥」の記事はこちら→

大河ドラマ「風林火山」の記事はこちら→

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「パプリカ」 パブリックとプライヴェートの境目がなくなったら・・・

予告で映像を見た時から、是非観たいと思っていた作品です
自分と他人、正気と狂気が混じり合った、悪夢の不条理感が、ノイジーな色彩と動き、意味不明な言葉の羅列でよく表されていました。
まるで決壊したダムによって引き起こされる洪水のように、その許容量を越える情報量にさらされると呑み込まれる感じがしました。 

かつてはパブリックとプライヴェートの間には境界が存在していました。
「そと」と「うち」というのがはっきりと分けられていました。
けれでもテクノロジーの発達(なかでもインターネット等の情報技術)により、その境目は曖昧になってきています。
さまざまな問題が指摘されているように、隠されていたプライヴェートが衆目にさらされるようになってきています。
そのなかでも、夢は極めてプライヴェートであり、かつ自分でも意識できない無意識化のもの、超プライヴェートなものと言っていいでしょう。
それが、さらされるようになったら・・・。

「夢まで支配されたくない」
DCミニ開発によってひき起こされる危険性を察した乾理事長がこう言います。
結果的に彼はその危険性を示すため事件を計画します。
自己をパブリックにさらされることへの恐怖感でしょう。
しかし、彼は一般的に夢の支配を拒否しているのではなく、「自分の夢」だけを守ろうとする極めてプライヴェートでエゴイスティックなものの見方をしています。

「みんなで夢を共有できたらいいのに」
これはDCミニの開発者時田の言葉。
すばらしい考え方のようにも見えますが、これも極めてエゴイスティックな見方です。
「共有する夢」は「自分の夢」といっしょであるだろうという思い込みがあります。
自分が楽しいことは、人も楽しいと思い込んでいる、幼く自己中心的な考え方です。

これからさらに共有化する技術が発展し、いつかDCミニのように意識も共有できるようになったら・・・。
「公」と「私」の間はどうなっていくのか・・・。
境目がなくなってしまったとき、幼い精神、エゴイスティックな精神は他の精神への危険性を増していくような気がします。
心ない掲示板への書き込み等のように。
パブリックとプライヴェートの境界がなくなるとき、すべての人間が大人の精神を持たなくてはいけなくなるのでしょう。

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本 「奇想の20世紀」

19世紀末から20世紀初頭にかけて、あらゆる分野で未来予測がもてはやされた。
それを1900年のパリの万国博覧会を中心にしながら、振り返っている内容。
解説している内容は、産業、科学、風俗、芸術、スポーツ、消費など多岐に渡っており、いつもながら荒俣氏の博識には驚かされる。
1900年と言えば、100年ちょっと前。
世代的には4世代くらい前になるのだろうか。

まえがきで荒俣氏はこう書いている。

「わたしたち二十世紀末に生きる者に、欠けていきつつある能力が一つある。未来を空想する力である。たとえば今から百年先の西暦2100年のことを、もはや誰も考えられなくなった。
いや、考えようとしなくなった、と書くべきだろうか」

そういえば、僕が小さい頃は、未来都市というのが子供向けの絵本や雑誌などでも見られた。
リニアモーターカーが摩天楼の中を突き進み、空にはエアカーが飛び、ロボットが普通に人と暮らすというような。
最近はそういう楽天的な未来像というのは見ることがない。
時折映画や小説などで描かれる未来は、「ブレードランナー」以降に見かけられる煤け、頽廃した未来である。
そこには昔のような輝かしい未来はない。

荒俣氏は「未来」という発想自体が特殊であったと書いてある。
確かに19世紀末になるまで、ほとんどの人々は今を生きることだけに精一杯であり、また「未来」を実現する力も持っていなかった。
科学の発展や、封建社会の崩壊などにより大衆がやっと自分たちの「未来」を空想し、実現する力を持ったのが1900年頃の世界なのだ。
ウソである空想が、ホントの現実になるダイナミックな世界だったのだろう。
空想は現実になる。
「未来」は輝かしかったのだろう。

ミレニアムもすでに去った現在、ウソとホントの境目はあいまいになってきている。
虚像がリアリティを持ち、ホントが現実感を失ってきている。

荒俣氏は20世紀初頭のフランスのル・コルビジェとシュヴァルの都市についてのそれぞれの考え方を、パブリックを重視するか、プライヴェートを重視するかという視点で解説している。
そしてパブリックとプライヴェートの優劣は決して決着がつかないとも書いている。

ウソとホント、パブリックとプライヴェート、虚と実、これらの間にはずっと長い間、断絶があった。
20世紀初頭その断絶を埋める方法を手に入れた。
21世紀に入った現在に至り、100年間の営みによりその断絶はかなり埋まってしまった。
ウソとホントの間に差がなくなってしまったことが、「未来」を見るエネルギーを失ってしまったことになるのだろうか。

「奇想の20世紀」 荒俣宏著 NHK出版 文庫 ISBN4-14-084179-6

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2006年12月 9日 (土)

「初恋」 手前勝手なヒロイズムとナルシシズム

1968年、三億円事件発生。
またこの年は東大紛争が起こり、学生運動がピークを迎えた年でもあります。
高度成長は依然として続いていたけれども、様々な問題(公害など)が起こり始め、社会全体に焦燥感、閉塞感が漂い始めた時代でしょうか。
1968年は僕の生まれた年です。
当然、三億円事件をリアルタイムで追いかけられるわけがないですが、映画の中で描かれている時代の空気は僕が育った頃もまだ残っていたような気がします。
映画の中で描かれている若者たちにも息苦しい閉塞感がただよい、彼らは何する訳でもなく、日々ジャズバーに集まり、無為に時間を過ごしています。

三億円事件の犯人が実は少女だった・・・かなり無理がある設定についてはここでは何も言いません。
フィクションとしてみれば、どんな説でもありでしょうから。

三億円事件の実行犯みすずを演じている、宮崎あおいさんは相変わらずいい女優さんです。
「結局何も変わらないのかよ!」
「もうひとりはいやだよ!」
今回の役は台詞が非常に少ないのですが、言葉を発するときにとても思いがのっています。
主人公みすずの閉塞感、恋することでの希望、そしてそれを失った時の喪失感がとてもよく伝わってきました。
いいなと思ったところは、バイクに初めて乗れるようになったときの彼女の表情。
微かに笑みを浮かべ、髪をなびかせてバイクに乗る姿に、解放された喜びが表れていました。

この先、触れたいのは主人公みすずの初恋の相手の岸という男についてです。
映画では三億円事件の筋立てを考え、実行犯みすずに指示をした男だということになっています。
映画を見終わり、この男にむかっ腹がたちました。

映画のラスト、みすずが彼の部屋で見つけた本に書かれていた、岸の文章です。

「僕は恋をした。たぶん一生に一度の恋を。だけどそれを告げることはないだろう。僕には彼女の目を曇らせることができないのだから。」

なんというナルシシズムだろう。
岸という人間の幼さを表している文章だと思う。
自暴自棄な仲間たちと距離をとりニヒルに社会を眺め、頭を使って社会に対抗すると豪語している割に、自分は世間を騒がす事件の実行犯とはならず、人の思いを利用する。
裏で事件を演出しているということの自己満足感。
手前勝手なヒロイズム。
演出された事件も当局から見れば、子供だましでしかなく、早々にからくりを見破られてしまいます。
そして国外退去を命じられるも、多分岸という男は権力にたてつき破れた悲劇のヒーローとしての思いしかないのでしょう。
自分の恋すらも犠牲にした殉教者として。
しかし、岸は、自分も恋し、そして彼女も恋をしていることがわかっているにも関わらず、一人の少女の想いすらを真正面に受け止めようとしない独りよがりな子供であるように思います。
敗北に酔う自分の影に、時効のない心の傷を背負わされた少女の姿が彼は想像できたのか。
権力にたてつく悲劇のヒーローとしての自分に最後まで酔っているような男に見えました。
このような男には虫酸が走る思いがします。

心の傷に時効はないと最後にみすずは語ります。
しかし、時効がない傷はない。
時間がかかろうとも、いつかは心の傷は癒えます。
いつか心の傷が時効を向かえ、みすずが幸せになれる日がくると思いたかったです。

原作小説「初恋」の記事はこちら→

宮崎あおいさん主演「海でのはなし。」の記事はこちら→

宮崎あおいさん主演NHK大河ドラマ「篤姫」の記事はこちら→

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本 「女子大生会計士の事件簿 DX.1 ベンチャーの王子様」

<会計>をわかりやすく解説するための小説ということです。
僕はお金関係・計算関係キライなので(仕事では仕方なくやっていますが)、やさしく<会計>のことがわかるのならと思い、この本を手に取ってみました。
けれども・・・。
<会計>がわかりやすいとかいう前に、小説としてまったくおもしろくない。
まるで素人(作者は会計士ということで小説は素人なのだろうが)くさい内容。
本来の趣旨は<会計>に興味をもってもらうことだろうが、それにしてもページ数同様に薄い内容で、読んでいて何も残らない。
なので、<会計>もおもしろそうと思わない。
興味をもってもらいたいなら、それなりのレベルのものを読ませてもらいたいものだと思う。
一応小説として売り出しているのなら・・・。

あとなんで女子大生なのか、よくわからないです。
全然学生らしいシーンないじゃないですか。

「女子大生会計士の事件簿 DX.1 ベンチャーの王子様」 山田真哉著 角川書店 文庫 ISBN4-04-373701-3

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2006年12月 3日 (日)

「武士の一分」 戦い、そして妻の深い愛に気付く

「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」に続く山田洋次監督の時代劇三作目です。
前二作とも好きだったので、期待して観に行ってきました。

「たそがれ清兵衛」の清兵衛の昔ながらの生き方しかできない不器用なところが微笑ましかった。
義を重んじ、不条理なお上の命に従い、慕う女性への想いを切り捨て、元藩士との戦いに向かう。
お互いの想いを抑えつつ、果たし合いへ向かう準備をする真田広之さん、宮沢りえさんの二人のシーンは名シーンだと思います。
特に宮沢さんの立ち居振る舞いはすばらしく、襷をとる所作も美しく見えるほどでした。
最後の立ち回りも凄まじい緊迫感。
ほとんど光の入らない小屋の中での一騎打ちは、息をつくのもはばかれるような緊張感がありました。

「隠し剣鬼の爪」の宗蔵は、古い生き方しかできない清兵衛に対しリベラルな精神の持ち主。
こちらも主命の戦いというのは同じですが、最後には侍の身分を捨て、幼なじみのきえと生きる道を選びます。
松たかこさんは、不幸な境遇でもポジティブに生きようとするきえをやさしく力強く演じていました。
最後にきえを迎えにいった永瀬正敏さんと松さんの会話もいいシーンでした。

さて「武士の一分」は。
話題になった木村拓哉さんの起用ですが、全二作の主演ペアの演技がとても良いだけに、比べるとちょっと物足りない感じがしました。
「たそがれ清兵衛」の真田広之さんなどはいままでに彼が観せたことのない演技をしていたように感じましたが、「武士の一分」はいつもの木村さんとあまり変わらない感じがしました。
月9などで観る木村さんと同じイメージなんですよね。
全体的に幼いというか、青臭い印象を受けてしまいました。
立ち回りもがんばっているとは思います。
けれども若者らしい荒々しい感じはしましたが、真田さんや永瀬さんほどのキレは感じませんでした。
動きが大味な感じがするという印象でしょうか。

タイトルにある「一分」とは聞き慣れない言葉だったので、調べてみたところ「面目」という意味でした。
つまり「武士の一分」は「武士の面目」という意味ですね。
前二作では主人公は主人の為に戦いましたが、今回新之丞は己の「武士の面目」のために戦いに赴きます。
自分のために戦うのが前二作と違うところです。
新之丞は戦いが終わり、そしてやっと自分が戦ったのは自分の面目のためでなく、愛する妻の面目のためだったのだと気づきます。
妻の行為は自分を傷つけた。
しかしそれは自分を妻が守ろうと精一杯やったことだったと。
自分が大事だと思っていた面目=プライドが妻の自分への想いに比べ、なんと小さいことかと気づいたのです。

ここまで書いてこんな風にまとめられるのではないかと思いました。
「たそがれ清兵衛」は大人の男女の話。
会話だけでなく、仕草などで二人の間に言葉なくとも気持ちが伝わることがわかります。
  清兵衛(大人)ー朋江(大人)
「隠し剣鬼の爪」は大人の男と、少女のお話。
宗蔵のきえへの気持ちは初めは保護者としてのものから次第に愛情へ変わっていきます。
きえの想いも無条件な尊敬が愛する気持ちになっていきます。
  宗蔵(大人)ーきえ(少女)
「武士の一分」は少年と、大人の女のお話。
加世には、新之丞に対し子を世話をするような母性愛を感じます。
新之丞は事件が起こるまでは、加世の深い愛に気づききれていません。
  新之丞(少年)ー加世(大人)
そういうことだとすると、新之丞の青臭さというのは計算づくだったのかもしれません。

山田洋次監督の時代劇は脚本がいいです。
男女の間でかわされる会話が、想いが深く伝わりなんとも味わい深いのですよね。
今回の作品もいい場面がいくつもありました。
特にぐっときたのが、新之丞が視力を失ったときの会話。
新之丞は自分の視力がなくなったことを気づきますが、加世に心配かけまいと口をつぐんでいます。
そのことに加世が気づき、何故隠していたのかと問いかけます。
 新之丞 「おまえに心配をかけたくなかったのだ」
 加世 「私はあなたを心配したいのです」
   (方言が入っていたのでセリフとは厳密には違うと思いますが)
こんなこと言われたら、男はその人を絶対守りたいと思ってしまいますよ。

一応山田洋次監督の時代劇三部作は完結ということですけれども、そんなことを言わずもっともっと撮ってほしいと思っています。

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映画 は行, 映画・テレビ | | コメント (30) | トラックバック (74)

本 「カリストの脅威 -アシモフ初期作品集1-」

SF小説の巨匠、アイザック・アシモフの初期の作品集です。
ほとんどデビューしたばかりの頃の作品で、他の作品集には載っていないものを集めたということです。
時代としても戦前だったり、10代に書いた作品であるため、(アシモフも認めているように)どれもいまいちな気もします。
火星人や金星人がでてくる話というのは、さすがに時代を感じてしまいます。
しかしその後のアシモフらしさの萌芽のようなものも感じます。
「焔の修道士」という作品などは後のファウンデーションシリーズにつながる要素を感じますし、ご本人がユダヤ人
であることからくる差別をテーマにした作品もいくつか収録されています。

先に書いたように作品のレベルとしては高いとは言えないですが、アシモフファンでしたら、彼の原点を味わってみるという意味で読んでみてもいいかもしれません。

「カリストの脅威 -アシモフ初期作品集1-」 アイザック・アシモフ著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011136-7

アシモフ短編集「母なる地球 アシモフ初期作品集3」の記事はこちら→

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2006年12月 2日 (土)

「スウィングガールズ」 上野=のだめの原点?

何故かいままで観ていませんでした。
最近、ひとつのジャンルになりつつある「みんなで一生懸命がんばる青春ムービー」の代表選手ですね。
「フラガール」や「ダンドリ。」、「スウィングガールズ」みたいなのに、僕はヨワいんです。
ストーリーはだいたい想像ついちゃいますけど、いいんです。
みんなで一生懸命やって得る達成感、いいじゃないですか?
先に「フラガール」を観てしまったので、どうしても比べてしまうのですが、感動は断然「フラガール」のほうが上。
「スウィングガールズ」はどちらかというとコメディ色が強いですね。
肩が凝らずにお気楽に観れるので、それはそれでよいかと。

今回観ようと思ったのは、上野樹里さんが気になったから。
ちょうどフジテレビの「のだめカンタービレ」で上野さんはあの「のだめ」を演じています。
ドラマのキャスティングが発表されたとき、上野さんはほとんど知らなく、誰?という感じでした。
月9なのでもっとメジャーな人を持ってくるかと思ったのですが、意外でした。
のだめ=天然不思議ちゃんは漫画でこそ成立しているキャラではと思っていて、ドラマはどうかと思っていたのですが、上野=のだめがけっこういい。
かわいい顔をしていながら、とぼけた表情など漫画っぽい演技が不思議な味わい。
で、上野さんが気になって「スウィングガールズ」を観てみたんですけど、この映画で演じている友子ものだめっぽい。
キャラが漫画っぽいんですよね。
性格も動きも。
走っていてコケているところなんかは、「ぎゃぼ!」とか言いそう。
なるほど、上野さん、のだめに適役なワケです。

今回は「スウィングガールズ」のレビューなんだかよくわからなくなってしまいました。
「のだめ」はテレビシリーズ終わったらいずれレビューをいたします。

のだめちゃん、この映画でいちはやくマエストロ・シュトレーゼマン(竹中直人)と共演していたんですね。
(竹中直人はやっぱり指揮者・・・。)
最後まで「のだめ」ネタですみません・・・。

上野樹里さん主演テレビドラマ「のだめカンタービレ」の記事はこちら→

「フラガール」の記事はこちら→

「ダンドリ。」の記事はこちら→

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2006年12月 1日 (金)

「007 カジノ・ロワイヤル」 ホットで幼いボンド、受け入れられる?

本日初日、新生ジェームズ・ボンドの最新作「007 カジノ・ロワイヤル」を観てきました。
映画の日ということもあり、丸の内ルーブルはほぼ満席でした。

007シリーズをきちんと劇場で見始めたのは、ティモシー・ダルトンの頃から。
ショーン・コネリーやロジャー・ムーアはテレビ放映で観たぐらい。
僕としてはボンドはピアーズ・ブロスナンのイメージが強いです。
新生ジェームズ・ボンドを演じるのはダニエル・クレイグ。
予告を観た時の印象では、先代と比べるとかなり精悍で野性味のある感じを受けました。
そういう意味で、制作側の新しいジェームズ・ボンドを作ろうという意思は感じました。
時代も変わっているのだから、ボンドは新しくなっていい。
どんな新しいボンド像を見せてくれるかと期待して映画館に行きました。

オープニングタイトルはいつもながらグラフィカルでお洒落。
いままではセクシャルなイメージがあるタイトルデザインでしたが、今回はトランプをモチーフにとてもスマートにセンス良い仕上がりでした。
このあたりは007らしさが残っていて、観ていていやが上でも期待度が高まってきました。

しかし・・・。
僕としては、新しいボンドは受け入れられなかったです。
俳優が変わってその人らしいボンドになるのは、それはいい。
ショーン・コネリーのボンドと、ティモシー・ダルトンのボンドと、ピアーズ・ブロスナンのボンドは違っていて当たり前。
けれどもボンドとして持っていてほしい共通点はあるのでは?と思います。
今回のボンドはそれがない。
僕のボンドのイメージは、スマートで余裕があるクールなオトナ。
どんな危機の中でもユーモアを吐く余裕があり、恋を楽しむゆとりもある。
そういう「チョイワル」な感じがカッコいいのです。
今回のボンドはある意味若い。
00(ダブルオー)に成り立てという設定のためか、無鉄砲で自信過剰、初めて愛にはまり込む。
表情はあまり変えないですが、極めてホットで幼い性格で描かれてます。
ボンドとしては暑苦しい。
他のキャラクターだったら全然許せるのですが、ボンドとしては・・・、ちょっと受け入れられなかったです。

007お約束の秘密兵器やボンドカーなどもあまり出番がなく残念。
男のコはこういうのにヨワいのだから、ぜひ見せ場を作ってほしかった。
ボンドカーが潜水艦になっちゃったりとか、空を飛んじゃたりとか他の映画だと、バカらしくて許されないのだからやればいいのに。

ストーリーも歯切れが悪い。
どんでん返しといういうよりは、継ぎ足し継ぎ足しの構成で、「え、まだ終わらないの?」という感じ。
終わるに終わらせられなくなり、だらだらと連載が続いてしまった週刊少年漫画誌の漫画のよう。

とはいえ、見せ場もありました。
オープニングの爆弾魔のチェイスはなかなかの迫力。
毒を盛られ、遠隔地で毒への対処法を指示してもらうシチュエーションは新しい。
ヴェネチアでの仕掛けもアイデアは良かったと思います。

新しいボンドを作ろうという意気込みは感じました。
しかし違えてしまえばいいというものでもないのではないのでしょうか。
変えることにより、他にはないボンドらしさを捨ててしまったら、このシリーズ続ける意味合いがないのではないかなと思いました。

「007 慰めの報酬」の記事はこちら→

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