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2006年11月26日 (日)

「魁!!クロマティ高校 THE MOVIE」 ボケキャラ全員集合!

昨日の「デスノート」に引き続き、漫画原作映画ということで(?)本日は「魁!!クロマティ高校」を観賞です。

最近、映画や小説を評価するときに「キャラ立ち」がいいなんてことを言いますが、この映画、「キャラ立ちまくり」です(もちろんいい意味で!)。
というよりストーリーはほとんど皆無、キャラクターのアクの強さで押し切ってます(当然いい意味で!!)。
ほとんど全員がボケキャラで、誰もつっこまない。
ボケキャラたちが勝手をやっていくので、当然、話はどんどんズレていくわけです。
そのズレていく流れに、身をまかせてしまうともうたまりません。
何も考えずに「もう私をこのままどこかへ連れて行って」という感じで、ある意味、カイカン。

それではクロ高をどこかへ連れて行ってしまう、ボケキャラたちのご紹介デス。
まずは一応主人公らしい神山くん役の須賀貴匡さん。
「仮面ライダー龍騎」で主役をやっていた二枚目さんですが、端正な顔なのにひたすらボケまくり。
いいことをしていると思っている勘違いクンで、どんどん話をかき回していってしまいます。
一見普通の人っぽいので、濃いキャラの連発にひいてしまいそうな初めての方でも「クロマティ高校」ワールドに入りやすい入り口となってます。
僕は原作読んでいないのですが、映画オリジナルのキャラクターということで、この設定が効いているなと思いました。
あとお気に入りはフレディ役の渡辺裕之さん。
わざわざカラーコンタクトまで入れるほどで、フレディな感じでてます(ほとんどセリフないのに)。
存在自体がおかしい。
あとはマスク・ド・竹野内の板尾創路さんも良い味でした。
この作品ではキャラクターのモノローグが多いのですが、これがやたらおもしろい。
ナンセンスな笑いに拍車をかけてる感じがします。

山口雄大監督の作品はこれが初めてだったのですが、セリフや動作に微妙な間があるんですね。
その間がなんとなくナンセンスに気づく合図というか、きっかけだったりして、僕は笑いのツボにはまりやすかったです。

後半はあのゴリとラーも出演。
高山善廣さん演じる竹野内豊をボスと呼んで連れて行ってしまいますが、これは似ているからでしょうか?
それだったら途中に出てきた松崎しげるさんの方が、ゴリに似ていたような・・・。

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2006年11月25日 (土)

本 「水族館狂時代 -おとなを夢中にさせる水の小宇宙-」

水族館、好きなんですよね。
学生時代、葛西臨海水族園や八景島シーパラダイスができた頃でよく行きました。
初めて葛西でマグロの回遊を観た時は、やはりすごいなーと思いました。
時々行ってもやはりすごいなーと思いますよね。
これは企画が良かったのでしょう。

著者はCMディレクターから水族館のコンサルタントになった方。
読んでいて、魚や虫、植物への愛を感じます。
この方に限らず、日本人は魚好き。
日本には百カ所ぐらいの水族館があるのだそうです。
奈良県と鳥取県以外はすべての県であるとのこと。
この本では全国の様々な水族館が紹介されています。
最近では沖縄の美ら海水族館が規模も大きく、展示もいいらしいです。
行ってみたくなりました。
あと新しくなった江ノ島の水族館も。
この本は読み物的には知恵がつくとかそういうものではないのですが、水族館にはとっても行きたくなります。

著者のお気に入りでも葛西の水族園をあげていたりするので、近隣住民としてはちょっと嬉しかったりして。
最近はちょっと水族館自体ご無沙汰ですけれども。
明日、葛西方面行くので水族園でも覗いてみようかしらん。

「水族館狂時代 ーおとなを夢中にさせる水の小宇宙ー」 奥村禎秀著 講談社 新書 ISBN4-06-149864-9

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「デスノート the Last name」 大きな力は人を狂わす

客入りがいいのか、ずっと混んでいたため敬遠していたのですが、やっと観てきました。
映画化されると聞いた時から心配していたのはキャスティング。
原作の大ファンだったので、イメージが違うとやだなと思っていました。
しかし<前編>を観たときにその心配は払拭されました。
月もLも、なかなかいいキャスティングだったと思います。
Lの松山ケンイチさんいいですね。
目のクマの具合とか、けだるい感じとか。
セリフ回しのリズムが特徴的で、普通の人とちょっと違うLの雰囲気がでていたと思います。
なかでも藤原竜也さんは月のイメージぴったりでした。
正義感が強く、知能明晰でクールだが、人を人と思わない冷酷さがある月のキャラクターにこれ以上ないほど合っていると思います。
藤原さんは一年ほど前にテレビドラマ「古畑任三郎」スペシャルに出演していましたが、そちらも自分勝手で冷酷な若い犯人役でした。

原作漫画はかなりの長編。
原作は物語の途中で探偵役が入れ替わるという大波乱の展開なので、映画ではどうまとめてくるかと思っていましたが、上手にコンパクトに構成されていたと思います。
(原作はL二代目のあたりから無理矢理話を長引かせている感じもしました)
第二のキラがでてきたり、ノートが二つ出てきたりすると、トリックや仕掛けが複雑になり、原作ではわかりにくくなってしまうのですが、さすが映画、映像で見せてくれるので理解しやすかったかと思います。
原作のL二代目が月に仕掛けたトリップをうまくとりいれてました。
原作とは違う結末という触れ込みでしたが、Lの身を挺した作戦のところはなかなかハラハラさせられました。

ここまでが映画の感想なのですが、ここからは映画を観ていて考えたこと。
前の記事で京極夏彦さんの「邪魅の雫」のレビューを書いていますけれども、「デスノート」を観ていて、この小説と共通点があるなと思いました。

「邪魅の雫」を読んだ居ない方もいらっしゃると思うので、ちょっと解説を(これから読む!という方はネタバレになってしまうかもしれません)。
「邪魅の雫」では「しずく」と言われる毒薬が凶器に使われます。
これは青酸化合物の一種ですが、呑ませなくても相手に一雫垂らすだけで死に至らしめることができるものです(もちろんフィクション)。
そのためその「しずく」は相手にけどられることなく、暴力をふるうこともなく、ただ垂らすだけで相手を殺すことができる凶器となります。
ある意味これはナイフや拳銃よりも恐ろしい。
なぜならば、あまりに簡単に人を殺すことができるから。
ナイフでも拳銃でも、手に入れるのには何かしらの危険性があるし、人を殺すにはそれなりのテクニックがいるでしょう。
しかし「しずく」にはその行為を行うためにリスクはほとんど伴わない。
簡単に殺せてしまうのです。
そうすると人の生命の重さはおそろしく軽くなってしまう。
「邪魅の雫」では、「しずく」が人から人へ渡り、その度ごとに邪に魅入られたようにそれを使い殺人が起こっていくのです。

「デスノート」と似ていませんか?
「デスノート」も書くだけで人を殺せてしまう。
あまりに簡単に。
ノートは自分は正義だと信じてしまった人の手を渡り、制裁・浄化という名分のもとに殺人を引き起こす。
Lが「デスノート」は史上最悪の殺人兵器だと言います。
簡単でかつ、強力無比な殺人兵器。
Lにそのことを指摘されるまで、もしかすると死ぬまで月は「デスノート」を人を殺す道具とはとらえておらず、何か偉大な力だと思っていたのでしょう。
そしてそれは自分の力とイコールだと。
世界を変える力を自分は持っていると。
しかしそれは父親が言うように、独りよがりの正義でしかない。
持ち物がいかに高性能であろうと、それはそれを持つ人の力とは何も関係がない。
人殺しの高性能兵器である「デスノート」の力を、自分の力と同一視してしまったことが、月の間違いだったのでしょう。

大きな力は人を狂わす。

「DEATH NOTE デスノート <前編>」の記事はこちら→ 「デスノート」のスピンオフ作品「L change the WorLd」の記事はこちら→ 松山ケンイチさん出演「神童」の記事はこちら→

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2006年11月24日 (金)

本 「邪魅の雫」

この作品のキーワードは世界と世間。

そもそも世界とは何か?
ここでは世の中で起こるすべての出来事、事象としてみよう。
人間が認識できる範囲は限られている。
自分が見て、聞いて、味わって、触って・・・感じられるところは限られている。
本やテレビ等の映像メディア、今ではインターネットなど直接感じられなくても、知識として得られる範囲は広がっているが、これにも限界はある。
世界のすべてを認識している人間はいない。
しかし、自分が感じている範囲が限定されていることを忘れ、自分の認識が世界をイコールだと思ってしまいがちである。
知らないところにも、世界が存在していることが頭から抜け落ちる。
世間とは、ある人とある人との間に共通してある世界認識といっていい。
つまりA君とB君との世間と、B君とC君との世間は同じとは限らないし、どちらが真であるということもない。
己が世界だと思っていることが他者にとって共通の世界であると皆が信じている状況で、あえてそれぞれの人間が操作された情報しか与えられなかった場合、微妙に次第にそれぞれの世界認識はずれてくる。

この作品では、章立てごとに登場人物が連続殺人事件をそれぞれの限られた情報による世界認識でとらえていて進行していく。
登場人物それぞれの間(世間)で情報交換はされるものの、認識のズレはうまらない。
物語が進行しても何が事件なのか「わからない」のだ。
それが微妙な世界認識のズレによって引き起こされていることが、読んでいてはじめのうちはわからない。
しかし度の合わない眼鏡を長時間しているような酩酊したような居心地の悪い状態を感じる。
最後に京極堂がそのズレを解き明かし、事件の構造をはっきりとさせる。
ようやくピントのあう眼鏡を手に入れたようなすっきり感。
この構成、京極夏彦はやはりすごいと思う。

「邪魅の雫」 京極夏彦著 講談社 新書 ISBN4-06-182468-4

京極夏彦著「陰摩羅鬼の瑕」の記事はこちら→

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「プラダを着た悪魔」 お洒落な「働きマン」

このところ重めのテーマの映画が続いたので、軽いタッチの映画をということで「プラダを着た悪魔」を観てきました。
予告などからの印象だと、ニューヨーク版「働きマン」かな?と思っていきましたが、当たらずとも遠からずという感じで、素直に楽しめました。
アン・ハサウェイが「働きマン」の松方より断然お洒落でしたが。

メリル・ストリープがファッション誌のやり手のカリスマ編集長役です。
決して怒鳴ったりはしないのですが、静かで有無を言わさない物言いがコワい。
会社にくると周囲に臨戦態勢をとらせるほどの緊張感。
かなりの無理難題を吹っかける。
実際、僕のまわりでもこういう上司いました。

僕が入社した頃はちょうどバブルの終わり頃。
残業をしていると電話が鳴り、上司から今から飲み屋に来いとのこと。
時計を見ると11時。
あしたプレゼンなのにと思いつつも、仕方なく飲み屋へ・・・みたいなことありましたね。
さすがに今はこのご時世なので、こんなことはほとんどないですが。

会社生活15年くらいになりますが、様々なタイプの上司とつき合いながら、折々いろいろ教えてもらいました。
相手を気遣う気のまわし方とか、社会人としての立ち居振る舞いとか、仕事の効率のよい進め方とか。
仕事に対する考え方とか。
今思えば、みなさんその人なりの仕事の哲学もあるんですよね。
厳しい人も優しい人も、共感できる人も共感できない人も、それぞれの哲学があって接してくれて、そういうのが積み重なって、段々と自分なりの仕事の哲学ができてきていたのかなとも思ったりします。

主人公アンドレアを演じるアン・ハサウェイはとってもキュートでした。
仕事とプライベートに挟まれて悩むというのは、男女ともに若い頃はよくありますよね(若くなくてもあるか)。
厳しい上司、気持ちが離れていく恋人、そんな状況でも仕事をがんばろうとするアンドレアの一生懸命さは伝わってきました。

仕事をいっしょにした人材コンサルの方が言っていました。
最近は、会社に入ってそれほど時間が経たずに自分がいるべき場所じゃないと転職を考えてしまう若い人が多いとのこと。
下積みとかそういうのは鬱陶しいと思うのかもしれないですが(僕も若い頃はイヤだった)、でもそこから得られるものも多いのですよね。
この物語のアンドレアのように。
彼女が鬼編集長から学んだことは、仕事に対する誇り、仕事に真摯に向き合う姿勢だったのだと思います。
編集長の価値観自体には共感できなくても、仕事のプロとしての取り組み姿勢には何か感じるものがあったのでしょう。
その姿勢さえ真摯でありさえすれば、どこに行っても認められるはずです(逆にそれがなければどこに行っても認められない)。

僕も今では若手の教育などもしていたりします。
入社時は何もわからずオタオタしていた若手が、今ではテキパキ仕事をできるようになるととっても嬉しいものなんですよね。
この映画でとっても共感したところが、アンドレアがハリポタの原稿を時間通りに揃え、編集長に提出した場面。
「なかなかやるわね」という表情をメリル・ストリープがしてましたけど、そんな時あるんですよね。
ある日の打ち合わせ、突然あまり関係ない書類が必要になったとき。
「あの書類ある?」
絶対オタオタするだろうなって思ったのですけど。
「これですね!」
すっと書類が。
ちゃんと展開を読んでた、偉いぞ後輩。
一人前の「働きマン」になってきたぞ。
多分映画の中のメリルと同じ表情していたと思います。
内心結構嬉しいものなんですよ。

今回は映画のレビューになってないかも・・・。

ちなみに雑誌の編集長ってその雑誌においてはかなりチカラを持っているんですよね。
僕は広告関連の仕事をしているのですが、某ファッション誌に会社の広告を出そうとしたら、入稿してからいきなり原稿差し替えに。
なんで?と代理店や雑誌社の営業に聞くと、原稿のテイストがその雑誌のテイストに合わないと編集長が言っているからとのこと。
別に品がない広告ではなかったのですが、お気に召さなかったらしいです。
僕らはお金払っているのに!
かなりフンガイしたものです。

重ね重ね映画とはかけ離れた余談でした・・・。

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2006年11月23日 (木)

「トンマッコルへようこそ」 お腹いっぱい食べられることだけで満足できればいいのに

久石譲さんの音楽がとても作品の雰囲気にあっていました。
音楽は全然詳しくないのですが、久石さんの音楽はとても心やさしい感じがします。
メロディが流れるようで覚えやすく、映画の中で繰り返し聞いているうちにしみじみとしみ込んでくるようです。
スペクタルな場面ではとても高揚する音楽にもなりますし。
好きな音楽家の一人です。
パク監督が久石譲さんの起用を熱望したとのこと。
作品自体の画作りも、そういえば宮崎駿監督の雰囲気に似ているような気もします。
村の周りに置いてある彫刻(?)は「千と千尋の神隠し」に出てきそうですし、イノシシのシーンは「もののけ姫」のタタリガミの暴走シーンのような感じがしました。

パク監督の映画は初めて見ましたが、とても美しい画を撮る人だなという印象です。
オープニングタイトルもセンス良かったです。
一番印象に残ったのは、蓄えていたトウモロコシの小屋で手榴弾が爆発するシーン。
トウモロコシがポップコーンになって雪のように村中に降るシーンはとても美しかったですね。

この映画、重要な場面で何かが空から降ってきます。
物語のきっかけとなる飛行機に乗った米軍パイロット。
兵士たちの間に極限まで張った緊張感を解きほぐす、ポップコーン。
頑な兵士たちの心をやさしく洗い流すような雨。
そして暴力の象徴としての爆弾。
最後にすべてを覆うように雪が降ります。
とても美しく、それら空から降ってくるものを見上げる村の人びとや兵士たちの表情が良かったです。

最近、戦争を主題にした映画を立て続けに観ていていろいろ考えさせられます。
本作は基本的にはファンタジーですが、戦争、争いをテーマにしているとも言えます。
どちらが仕掛けたかもわからず戦う兵士たち。
上層部の命令により部下や民間人を手にかけなくてはいけない兵士たち。
命令を発するのは国家というシステムで、そこで戦う個人のことはいっさい考えていません。
個というものが全体に比べないがしろにされるところに戦争の恐ろしさがあります。
敵だと言われていた人たちも、個人として接すれば相容れる人だったりするのです。
国家や主義といった目に見えない大きなものよりも、顔のあるひとりひとりの人がいるという想像力があれば争いは起こらないのにと思います。
トンマッコルの人々は物質的には豊かではないかもしれませんが、いきいきと一生を過ごせる豊かな人生をおくっています。
映画の中で北朝鮮の兵士がトンマッコルの村長にどうしたらこんなふうに統治できるのかと問いかけます。
村長は
「腹いっぱい食べさせるのだ」
と答えます。
「父親たちの星条旗」では作られた英雄によるプロパガンダが描かれていました。
日本でも「欲しがりません勝つまでは」というスローガンがありました。
なんて不自然なことでしょう。
お腹いっぱい食べられる、それで満足できるような気持ちに皆がなれればいいのにと思いました。

最後に。
村を守るため爆撃を誘導し自分たちが爆弾の雨にさらされることになった兵士たちの笑顔がとても印象に残りました。
それまでは命令だからということだけで戦っていた兵士たちが、ほんとうに守りたいと思う気持ちで戦ったという気持ちが表れた晴れ晴れしい笑顔でした。

戦争について考えさせられる「父親たちの星条旗」の記事はこちら→

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2006年11月19日 (日)

「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」 監督の趣味の映像集じゃん!

この映画、出演者はブルーバックを背に撮影し、背景等はほとんどCGなのだそうである。
それも大半を監督がパーソナルコンピューターであるMacintoshでコツコツと作ったものらしい。
Macintoshユーザーとしては、ちょっと嬉しい。
個人でここまで作れるというのは、パソコンの性能アップもかなりのレベルまで来たということですかね。
この点については感嘆するばかり。

画像のテイストは好みの分かれるところだろう。
レトロフューチャーな雰囲気は個人的には好きなのだが、昔風なテイストを狙ったのか全体的にぼんやりとした感じは観ていて緊張感がないように思えた。
また時折、背景が書き割りのように見え、安っぽい印象を受けた。

ストーリーの方はというと、これが全然おもしろくない。
「スカイキャプテン」が何者かよくわからない(アメリカでは有名なの?)、危機がなんだかよくわからない、キャラクターも深みがないということで、観ていて緊張感がない。
「スカイキャプテン」はプロペラ機なのに、敵はロケットやらエアカーみたいなのを使っているので、これは明らかにテクノロジーのレベルが違うだろ!みたいな突っ込みを入れたくなるようなところが満載。
プロペラ機がいきなり、海の中を飛んじゃうのはどうかと思う・・・。
アドベンチャー映画なのだからそんなことを気にしなくてもというのはあるのかもしれないが、映画の設定世界の中での辻褄は合わせておくべきだと思う。
このあたりは感覚的なものなのだけれど結構大事。
宮崎駿はこのあたりのセンスが抜群だと思う。

映像的には新しい試みがあったかもしれないが、映画はやはりストーリー。
監督の趣味の映像集となっていたように見え、映画としては不満が残ります。

空中要塞はカッコ良かったけど(メカ好きとしては)。

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2006年11月18日 (土)

「ワールド・トレード・センター」 小さくても力強い善の力を信じたい

9・11から5年。
まだその時の記憶は生々しく、テロ事件をテーマにしていることもあり重そうな内容のお話だと思ったので、観に行こうかどうか迷っていました。
ですが、先週「父親たちの星条旗」を観て、いろいろ戦争についてなど考えたりするいい機会になったので、公開終了間際に行ってきました。

観る前はテロという行為を扱っているので「ミュンヘン」のように、やるせない気持ちになってしまうのかなと思っていたのですが、この映画では人間の善の部分に対する希望が描かれていました。

この映画はグラウンド・ゼロから生還した二人の警察官の実話を基にしています。
ニューヨークの警察官ジョン、ウィルは人々を救出するため今にも崩れそうなワールド・トレード・センターに向かいます。
いくら警察官であり人を助けるのが職務だとしても、誰も経験したことのない大惨事を目の前にした時の気持ちはどんなものだったのでしょう。
もうもうと煙をあげ、破片が降ってくるビルを見上げる時、警官たちの表情にも恐怖心が見えます。
そこには恐怖心と義務感の心の中での葛藤が感じられます。
それでも警察官という職務に対する義務感、そしてなによりも苦しんでいる人を救いたいという気持ちから志願して彼らはビルに向かうのです。
そして二次災害に巻き込まれ脱出ができなくなったジョン、ウィルを、海兵隊員、消防士、警察官たちがまさに命をかけて救出活動を行います。
彼らを突き動かしてるのは一人でも救いたいという気持ち。
ウィスコンシンから来た警官のセリフにこうありました。
「何もしないわけにはいかない」
これには義務感などを超えた、人を救いたいという突き動かされるような気持ちが表されていると思います。

テロは悪意のある、人を傷つける行為で認める訳にはいきません。
しかしそういうことが今すぐなくなると思えるほど楽観視できる世の中ではありません。
また「父親たちの星条旗」にも描かれているように、国家というシステムは個人ひとりひとりの存在とは関係なく大きな力を持っていることも事実です。
そういうことを考えると悲観的な気持ちになるのですが、しかしこの映画では希望が描かれています。
ひとりひとりの個人の力では、戦争をなくしたり、テロをなくしたりすることはすぐにはできないかもしれない。
でも個人ができる範囲で人を思い、良いことをしようと思えれば、少しずつでも救えるものはあるのではないか。
小さくても力強い善の力を信じたいと思える映画でした。

戦争について考えさせられる「父親たちの星条旗」の記事はこちら→

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本 「忍者月影抄」

山田風太郎の忍法帖の角川文庫版、古本屋で購入です。
「伊賀忍法帖」「甲賀忍法帖」「魔界転生」と数々映画化、漫画化されているだけあって、山田風太郎さんの忍法帖シリーズはおもしろい。
古い作品を読んでみると、これらの作品から様々な作家が影響されていることがわかります。

その山田風太郎忍法帖シリーズの中で、先にあげた三作品ほどには有名でないのがこの作品「忍者月影抄」。
「甲賀忍法帖」シリーズのロミオとジュリエット的なドラマや、「魔界転生」のような今までにないアイデアみたいなのは、この作品はなく、いわゆる風太郎忍法帖のオーソドックスパターン、忍者軍団通しの忍法合戦です。
伊賀、甲賀の忍者に加え、江戸と尾張の柳生の剣士が何十人も出てきて、忍法、剣法を駆使し戦い合います。
その忍法のアイデアがユニーク。
なんでこんなことを思いつくのかと思ってしまいます。
山田風太郎さんはすごいです。
かなりの人数の登場人物がでてくるので、それぞれのキャラクターの描き込みが浅い感じはしますが、それは仕方がないことでしょう。
この作品は単純に山田風太郎のセンスオブワンダーを楽しむのが、いいのかなと思います。

「忍者月影抄」 山田風太郎著 角川書店 文庫

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2006年11月13日 (月)

本 「魔女とカルトのドイツ史」

この本ではカルトを「カリスマを狂信的に信奉し、集団妄想によって引き起こされた異常な宗教的・社会的行動」と定義し、その原因となる背景をドイツ史を通じてひも解こうと試みている。
ドイツでは、舞踏病や魔女狩りからナチスにいたるまで、カルト的な歴史的な事件が起きている。
有名な「ハーメルンの笛吹き男」伝説もカルト的なものの一つらしい。

著者はキリスト教的な教義とそのために隠されてしまいデモーニッシュ化されたゲルマン神話の関係や、真面目でやるとなったら論理的に徹底して行う側面と、魔術等に魅力を感じる非論理的な側面という二つ持つドイツ人気質というのものが、カルトの背景であると言っている。

また歴史的な分析からカルトの発生するメカニズムを次のように説明している。
人間に限らず動物もストレス過多の状況になると、パニック状態になることがある。
動物はパニック状態になると、群れの中の弱い者がいじめられたりするが、人間はそのストレスを発散する仕組みを編み出した。
それがカーニヴァルや祭りであるが、それは鬱積した感情を発散させる役割だった。
しかしキリスト教などの宗教が広まり、その教義による縛りが強くなると、原始より伝わってきていたそのような風俗が禁止される。
それにより抑圧された感情がカルト的なものとして爆発するということらしい。
そういえば中世のユダヤ人迫害はペスト禍の後に起こり、ナチスは第一次大戦後のあとの窮乏したドイツの状況で発展した。
爆発の矛先はどの時代でも弱者に向かう。
それが魔女とされた女性であったり、ユダヤ人であったりしたのだ。

しかしドイツ人だけがカルト的であると言っているのではない。
カルト的になってしまう危険性はどの国民でもある。

「わが総統!・・・無限の愛を込めて、わたしは日々神さまに感謝せざるを得ません。神さまがその恩寵を通じ、わがドイツ民族にかくもすばらしい総統をお恵みくださったからです。」

これは本書の中で引用されているヒトラーのシンパの一兵士の手紙である。
この熱狂はどこかで聞いたことはないだろうか。
そう、北朝鮮の国営放送はいつもこんな感じではないだろうか。
でも日本は違うのでは?
果たしてそうか?

「・・・それぞれの効果的なプロパガンダは、ポイントを極力しぼり、これをスローガンのように継続的に使い、その言葉によって意図したことを、最後の一人までもがはっきりとイメージできるようにしなければならない。」

これもこの本の中で引用されている一文である。
出典は何かというと、ヒトラーの「我が闘争」である。
結構これを読んで驚いた。
この文章の状況、どこかで似たようなものを見たことないか?
まさに小泉首相の郵政民有化を掲げた総選挙はこんな感じではなかったか。
誰も郵政民有化の中身はよくわからず、口当たりの良いスローガンや、首相の自信のある口ぶりに舞い上がりはしなかったか。
そういえばヒトラーのナチスドイツも選挙で選ばれたのであった。
昨今問題になっているいじめも、抑圧されたものの弱者への爆発と考えられなくもない。

ドイツ史とあるタイトルからカルト化される危険度がドイツ人が高いというふうに思ってはいけない。
ドイツ人でなくてもカルト化する危険性はあり、そのメカニズムはドイツ史を研究するとわかりそうだとこの本では言っている。
ドイツの歴史の中で得た教訓を、私たちも他山の石として学んでいかなければならないと思う。

「魔女とカルトのドイツ史」 浜本隆志著 講談社 新書 ISBN4-06-149705-7

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2006年11月12日 (日)

「父親たちの星条旗」 必要が英雄を作る

イーストウッド監督の硫黄島二部作の第一作です。

「必要が”英雄”を作るのだ」という内容の言葉がありました。
マカロニ・ウェスタンのガンマンや「ダーティ・ハリー」などアメリカの”英雄”を演じてきたイーストウッドの作品、「父親たちの星条旗」におけるこの言葉はどんな意味があるのでしょうか。

太平洋戦争硫黄島戦での有名な星条旗を掲げた兵士たちの写真。
米国人でもない僕でも目にしたことはあるので、有名な写真なのでしょう。
写真に写っていた無名の兵士たちは、戦意高揚のため祭り上げられ”英雄”にされてしまいます。
国のためと、彼らは戦時国債をさばくキャンペーンに参加しながら、次第に世間の”英雄扱い”に違和感を感じ、また苦しんでいきます。
自分たちは”英雄”などではない、たまたま生き残っただけだ、と。
”英雄”とは何なのか。

国や世間にとって、”英雄”がどんな名前をし、どんな人であるかということは重要なことではありません。
皆の意思のシンボルとなる役割を誰かが果たせばいいのです。
たまたま硫黄島戦では、その役割がドクやレイニー、アイラたちに廻ってきました。
しかし国からすれば彼らでなくても良かったのです。
もし彼らが死に、マイクやイギーが生き残ったとしても、”英雄”は作られたのでしょう。
”英雄”は国家や社会という巨大なシステムが必要とするものなのかもしれません。

もし戦争という事態になったとき、自分は戦うのだろうか。
もちろん戦争なんて起こってほしくはないし、したくはないしのだけれども、もし戦わなければならないとき、自分は何のために戦うのだろうか。
国家のため?
それはないだろうと思う。
やはり家族を守るため、仲間を守るために戦うのであろう。
「彼らは国のために戦いをはじめた。彼らは戦友を守るために死んでいった」
といった言葉も映画ではあったかと思います。
やはり個人のレベルでは仲間を守りたいという気持ちでしか戦えない。
しかしその気持ちはいつの間にかシステムに”英雄化”し飲み込まれてしまう。
そういえば日本においても戦中戦後、戦争で亡くなった方を英霊として祀っていたりします。
そういう意味では、アメリカでも日本でも、社会が”英雄”を欲するという点は同じだったのかもしれません。
国家と国家、システムとシステムの戦いに、個人が飲み込まれていく。
戦争というものの恐ろしさを感じました。
”英雄”を演じ続けてきたイーストウッドが発するからこそこれらのメッセージは重みがでます。
いろいろ考えさせられた映画です。

イラク戦争も泥沼化している中、アメリカは岐路に立っています。
国民全体は厭戦気分が高まっているようですが、そんななか作られた”英雄”がでてこないことを祈ります。

二部作の第二作「硫黄島からの手紙」は12月から公開。
本作で二作目への期待も高まりました。

「硫黄島からの手紙」の記事はこちら→ クリント・イーストウッド作品「チェンジリング」の記事はこちら→ クリント・イーストウッド作品「グラン・トリノ」の記事はこちら→

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2006年11月11日 (土)

「ショーシャンクの空に」 希望は決して諦めない強い意志の先にある

終身刑とは人を廃人にする刑だ。
モーガン・フリーマン演じるレッドが劇中でこう言いました。
死刑が是か否かは置いておいて、終身刑は命があるだけ死刑に比べると軽い刑だと思っていました。
でも終身刑は人から希望を奪い取る重い刑なんですね。
いつ出られるか、出られないかもしれない、いまさら出ても・・・。
そんな状況において希望を持つことは、苦しむことに他ならない。
だから日々希望を忘れて淡々と生きていく。
はたしてこれは生きているということなのか。
希望を持たずに生きるということは、やはり人間として廃れてしまっているのでないか。
仮釈放されたブルックス老は何十年振りに社会に戻っても、そこに未来を見ることができず、自殺してしまいます。
長い刑期の間に、希望を持つ力を奪い取られてしまったようで、とても哀しいエピソードでした。

そのような厳しい状況の中でも、希望を持ち続けたティム・ロビンス演じるアンディがすばらしい。
夢見ることが許されない環境でも、心の中では希望を持ち、それを諦めない意思力を持っている。
心の中からは音楽は消せない。
所内放送でレコードを無断でかけたアンディが罰を与えられた後、こう言いました。
この音楽は希望と置き換えてもいいでしょう。

牢獄ははじめは強制された環境でしょう。
しかし、その環境に慣れていくに従い、夢を持たないで生きていくことが普通になってしまう。
それは人間であることをやめてしまうこと。
刑務所という環境は特殊ですが、夢や希望を忘れてしまうことは、普通の生活でもあります。
どこであっても希望を持ち続けることは大事であり、そして持ち続けることは強い意思の力が必要だということを改めて感じました。

140分以上の長尺で、かつ淡々とした語り口でしたが、途中で全く飽きることなく最後まで観賞できる映画でした。
フランク・ダラボンの脚本がとてもよいですね。

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本 「クラッシャージョウ ダイロンの聖少女」

高千穂遙さんのスペースオペラ「クラッシャージョウ」シリーズの最新刊です。
といっても発売されたのは、一年ほど前ですけれども。

「クラッシャージョウ」シリーズはかなり歴史のあるシリーズです。
僕が初めて読んだのは、中学生で「ガンダム」に夢中だった頃、キャラクターデザインの安彦良和さんが挿絵を書いていたので、手に取ったのが最初だったと思います。
「クラッシャージョウ」はアニメ映画にもなりました。
安彦良和さんが監督、作画監督を兼任していた作品で、絵がとても美しかった印象があります。
作者の高千穂遙さんは、後々「マクロス」のメカデザインでブレイクする「スタジオぬえ」を立ち上げたメンバーでもあります。

さて「ダイロンの聖少女」ですが、ストーリーとしてはスペースオペラの王道ですね。
いまどき珍しくあまり奇をてらっていない展開なので、大人になった今読むと、少々物足りない印象です。
あまり小難しい主義主張や、SF的な背景もないので、さらっと読めます。
ライトノベル感覚というのでしょうか。
今はやっているライトノベルの源流は、「クラッシャージョウ」シリーズ等SFジュブナイルがそろっていたソノラマ文庫あたりなのかもしれません。

「クラッシャージョウ ダイロンの聖少女」 高千穂遥著 朝日ソノラマ 文庫 ISBN4-257-77047-3

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「ナチョ・リブレ 覆面の神様」 幸せってなんだっけ?

メキシコの伝説のレスラー「暴風神父」の実話をベースにしたストーリーです。
以前、ジャン・レノもこの実話を基にした映画にでていたような・・・。

けっこう期待して観に行きました。
実は「スクール・オブ・ロック」はおもしろいと薦められていたのですが、結局未見で、こちらをまず観てみようと。
笑えるところはいろいろあって楽しめたのですが、もっと大笑いできるイメージだったので、ちょっととまどいましたが・・・。
監督のジャレッド・ヘスなのか、ジャック・ブラックによるものかよくわからないですが、微妙な間の笑いですね。
アメリカっぽいというよりは、ヨーロッパっぽい間な感じでした。
どかーん!ゲラゲラというよりは、フフっ、クスクスという感じでしょうか。
試合の前のシスターへの愛の歌などはなかなかです。
「エンカルナシオ〜ン、エンカルナシオ〜ン・・・」
情熱をこめたラテンな歌声、耳に残りますねー。
ジャック・ブラックは歌も上手で、表情も豊か。
あの体型の割に体の切れもいい。
芸達者な人ですねえ。

主人公のナチョはすべてにおいてすごく真面目で素直。
レスリングへの憧れ、強くなりたいという情熱、子供たちを思う気持ち、シスターへの想い・・・。
自分の気持ちに素直でそのために一生懸命がんばる姿は、他の人からすると滑稽にも見えます。
なんでそこまでするの・・・?という感じでしょうか。
でも日々いろんなことに辻褄をあわせて、なんとなくこんなもんだと自分で納得してしまう僕らのほうが、もしかすると、こうあるべきという枠をかってにはめている生き方をしているのかもしれません。
教会の人も、世俗で生きている人も、教義やお金・名声といった枠で縛られているようにも思えます。

ラストの試合での勝利のときの全身での喜びようと、賞金で子供たちとピクニックに行くときのナチョの表情が良かったです。
ほんとに幸せそうでした。
生きることの幸せってなんだっけ?と考えてみたりもしますね。

ジャック・ブラック主演「スクール・オブ・ロック」の記事はこちら→

ジャック・ブラック出演「ホリデイ」の記事はこちら→

プロレス界を舞台にしたミステリー小説「マッチメイク」の記事はこちら→

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本 「フラッシュフォワード」

神田の古本屋さんで購入した早川書房のSF小説です。
作者のロバート・J・ソウヤーの作品は「ゴールデン・フリース」というのを読んだことがあり、かなりおもしろかった印象が残っているのですが、内容までは覚えてませんでした。

内容について、ちょっと書きます。
CERN(ヨーロッパ素粒子研究所・・・HTMLによるWWWを生み出したことで有名)の科学者ロイドとテオは大規模な実験を実施、しかし実験は失敗に終わり、世界中の人々の意識は21年だけ未来に飛んでしまいます。
人々は自分が見た未来をもとにさまざまな行動を起こしていきます。
果たして未来は変更可能なのか、不可能なのか。
一種のタイムパラドックスものと言えるかもしれませんが、未来を覗くのが一回だけ、また世界の全員が同じ時間のビジョンを見るということが新しい発想に思えました。

僕がSF小説が好きなのは、ある一つのアイデア(上に書いてあるような事件)が起こった場合、世の中や人々の生活はどう変わっていくのかというシミュレーションのおもしろさがあるからです。
優れたSF作家は、世の中がどう変化するのかというのをさまざまな側面からとらえ、作品の背景にちらちらとのぞかせています。
それがSF的なありそうもない設定にリアリティをあたえていきます。
まさに「センス・オブ・ワンダー」ですね。
この作品の作者、ロバート・J・ソウヤーはそのへんの書き込みはしっかりしていると思いました。

話の中では、並行宇宙論やタイムパラドックスのようなSF的な要素も楽しめますし、21年後に殺されることがわかった主人公の一人テオの犯人探しなどのミステリー要素も盛り込まれていますので、読んでいて飽きません。
ですので、何かと難しそうでとっつきにくいイメージがあるSF小説ですが、読みなれない人でも入りやすいのではないでしょうか。

ロバート・J・ソウヤー作品「ターミナル・エクスペリメント」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「占星師アフサンの遠見鏡」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「さよならダイノサウルス」の記事はこちら→
ロバート・J・ソウヤー作品「イリーガル・エイリアン」の記事はこちら→

「フラッシュフォワード」 ロバート・J・ソウヤー著 早川書房 文庫 ISBN4-15-011342-4

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2006年11月 5日 (日)

「ザ・センチネル 陰謀の星条旗」 だしが入っていないみそ汁のようだ

タイトルにある「センチネル=SENTINEL」、聞き慣れない単語だと思って調べてみたら、「見張り、番人」といった意味のようです。
シークレット・サービスを大統領の「番人」に例えたんでしょうね。

この映画、観ようかどうか迷っていたのですが、公開も終わりそうなので行ってしまいました。
悪い予感はあったのですが、マイケル・ダグラス、キーファー・サザーランド出演ということで、意外とおもしろいかもと思ったのですが・・・。
予感的中してしまいました。

予告を見て、マイケル・ダグラスとキーファー・サザーランドの知的攻防のあるサスペンスフルなドラマを期待していたのですが、あまりそういうのは感じませんでした。

頭からベテランのシークレット・サービスとファースト・レディの不倫・・・。
現実味がなさすぎて、物語にのれませんでした。
サスペンスドラマではなく、メロドラマだったのか・・・。
どうして二人がそういう間柄になったか背景の説明があればもう少し奥行きがでてきたと思うのですが。
「彼女を愛してる」
で片付けられても・・・。
そういう意味ではメロドラマとしても不十分。

マイケル・ダグラスとキーファー・サザーランドの和解も淡白。
ここでももう少し二人の気持ちを描ければ、深いドラマになったと思います。
敵の黒幕の元KGBなども存在感あまりなくあっさりやられてましたし。

サスペンス映画は登場人物同士の緊張感がポイントなのに。
何か入れ忘れちゃっている感じです。
お料理知らない人が、みそ汁にだしを入れ忘れてしまっている感じ。
「あれ、おいしくない、なんで・・・?」みたいな。

ほとんど褒めるとこなく、今回のレビューは短めで。
唯一の収穫は、新人シークレット・サービスを演じていたエヴァ・ロンゴリア。
全然知らなかったのですが、テレビ畑の女優さんなのですね。
知的で格好いい女性でした。

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2006年11月 4日 (土)

「アタゴオルは猫の森」 カラフルな映像に新しいCGの可能性を感じる

カラフルな色彩が印象に残る映画でした。
特にオープニングのお祭りのシーンは、豊かな色合いの花火やライトを使って色鮮やかに演出されていてワクワクしました。
すべて3DCGで表現されているようですが、不思議な質感のある映像ですね。
ボオッとちょっとフィルターがかかっているようで、CG映像によくあるクッキリカッチリした感じではなく、やわらかなタッチを感じしました。
絵本のような印象を狙ったのかもしれません。
またセルアニメと比べると、輝度や彩度が高い鮮やかな感じがしました。
全体的に蛍光色的な色合いという感じでしょうか。
セルはどうしても塗料を塗ったものを撮影するということになるので、色の幅が狭くなると思いますが、CGの場合そのような工程がないので、鮮やかになるのでしょうか。
新しいCGの使い方だなと思いました。

ヒデヨシとヒデコのコンビ、息があっていて良かったです。
キャラクターと声がベストマッチだったのではないでしょうか。
特にヒデコはかわいらしかったですね。
最後は凛々しくもありました。
ただ人間たちのキャラクターデザインはいかがなものかと。
よくあるテレビゲームのような感じで安っぽい感じがしました。
他の映像は凝っているのだから、これはなんとかしてほしかったです。

石井竜也さんの音楽も、懐かしい米米クラブのようなノリとリズムがあって、映像とマッチしてよかったと思います。

お話はそれほど奇抜なものではなく、安心して見れます。
ただテーマはしっかりしていたと思います。
時折ヒデヨシが本質をついている台詞を言っていましたね。
みんなといっしょというのは、安心できるし、心地よい。
究極の秩序はみんな同じように感じ、考えること。
でもそれは生きているっていうことなのだろうか。
トコトン生きるということは、おいしいものを腹一杯食べて、笑うこと。
人生を楽しむこと。
そういうことは日々の忙しさで忘れてしまいがちですよね。
そういうことを思い出させてくれる映画でもありました。

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「伝説巨神イデオン」<接触篇><発動篇> まだ希望はあると思いたい

「機動戦士ガンダム」の後に富野喜幸(現 由悠季)監督が作ったアニメーションテレビシリーズの映画版です。
テレビシリーズは東京12チャンネル(現 テレビ東京)で放映されていましたが、内容が難解だったためか、暗すぎたためか、視聴者がついてこず打ち切りとなりました。
しかし、その後ガンダムブームの影響もあり、再注目され、<接触篇><発動篇>の2部作で、一挙に劇場公開となりました。
<接触篇>はテレビシリーズの再編集、<発動篇>に関してはほぼすべての原画は描き起こしになっています。
こうみると、「新世紀エヴァンゲリオン」も同じような道筋をたどってますね。
ちなみに「エヴァンゲリオン」を製作したガイナックスの母体となった「ゼネラルプロダクツ」ではSF大会用のオープニングで「イデオン」のパロディをやっていました。

物語はある植民星で二つの異文明の接触からは始まります。
それは地球人がソロ星と呼ぶ惑星で、そこにバッフ・クランという地球人と姿形がいっしょの文明が訪れます。
偶然のきっかけで両者は戦闘状態に入ります。
ソロ星には古代文明が残したメカニックが埋められており、地球人は人形のロボットを「イデオン」、宇宙船を「ソロ・シップ」と呼びます。
それらのメカを動かすエネルギーは未知のもので、バッフ・クランの伝説にある「イデの無限力」だと思われ、その力は圧倒的で、攻撃してくるバッフ・クランの攻撃を一撃で粉砕します。

出だしは以上のような感じです。

ロボットアニメでありながら、出てくるメカニックはあまりカッコいいと言えるものはありません。
地球サイドのメカはいまゆる見慣れたものが多い。
地球人から見て敵となるバッフ・クランのメカは、見ていても異質感があるものです。
これが異文化に接した時の感触であるというのを狙ってデザインをしているとしたら、かなり凄いと思います。

登場人物たちが非常にエゴが強い人々が多い。
またキャラクターデザインが湖川友謙で、それまでのアニメによくあったかわいいテイストではなく、リアルなタッチだったため、見ているものの感情移入を拒否します。
キャラクターたちは対立し、裏切り、嗚咽し、泣き叫びます。
ソロ・シップに乗り込むメンバーは地球からもバッフ・クランからも追われ、その中で簡単に死にいたります。
物語の中で、意味もなく死にいたる状況というのは、見ているものにとっては、ある種の空しさを感じさせ、それがこの作品にずっと通奏低音のように響いているような気がします。
唯一の救いは地球人ベスとバッフ・クランのカララが愛し合い、子を宿すことにあります。
異文明同士でも理解しようとすることはできる。
しかし、それを人は憎しみの連鎖、エゴの拡張、メンツにとらわれ許せない。
結局人はそのような「悪しき心」から解放されることはないのだろうか。

テーマは宗教や哲学に通じるようなかなり重い内容です。
ちょうど僕はこの作品に触れたのが、中学生の頃だったのですが、はじめはさっぱり内容が理解できず、宗教や哲学の本なども読むようになりました。

結局、知的生命体の集合体である「イデ」は「悪しき心」をもつ人間(地球人とバッフ・クラン)を互いに戦わせ全滅させようとしていたのです。
そしてその中からまだ純粋な生命のもとを救い上げ、「良き心」を持つ生命として育てようとしていたのです。

初めてこの作品を見て20年くらい経ちますが、作品通してある「あきらめ」がやるせないです。
富野監督はこんなにも今の人間は悪いのか、一度滅びなくてはいけないと考えていたのでしょうか。
作品中登場人物カーシャがこう叫びます。
「私たちはなぜ生きてきたのよ。」
また主人公のコスモは
「認めないぞ、こんな甲斐のない生き方は!」
今の僕たち人間はまだ完全な善でもない。
ただまったくの悪でもない。
そんななかでソロ・シップのメンバーのようにあがきながらも生き続けていく。
その中でわかりあえることもあると思います。
僕はまだ希望はあるとみたいです。

富野由悠季監督作品「機動戦士ガンダム」の記事はこちら→ にほんブログ村 映画ブログへ

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2006年11月 3日 (金)

本 「日本の戦争力」

ちょうど1年くらい前に出版された本です。
テレビのニュース番組でよく見かける軍事アナリスト小川和久さんの著書です。

戦後の教育のたまものか、僕などはなんとなく軍隊は持つべきものではないと考えてたりします。
ただし、何か有事があった場合、日本はどうするのか。
有事がなくても平和を維持するためにどうしていかなければいいのか。
それにきちんと自分で答えられる気がしないのも事実です。

この本では平和というものを実現し、日本の国益を守るためになにをすべきかというのを理路整然と論じています。
これが非常にわかりやすい。
多くの日本人というのは戦争というものにアレルギーがあり、そもそも戦争に関する知識を得ること自体がやましいことな気がしているでしょう。
気持ち的には戦争反対と思いますが、何故と問われると説明できる人は少ないと思います。

自衛隊イラク派遣問題、北朝鮮問題、日米同盟問題・・・、ニュースなどではこのような問題はよく論じられていているように思えますが、考えてみるとなぜ問題なのか、本質的な課題はどこにあるのかという点については、自分でもよくわからないことが多いです。

この本では外交関係、軍隊の仕組み、平和を維持するためまたは戦争をするためのシステムなどがわかりやすく解説されています。
平和や戦争の仕組み、本質がわかるようになると、ややもすると感情論や主義論みたいなことで表面上の良い悪いしか語られない平和・軍事の課題についてどう考えるべきかわかるようになってくるような気がしました。
外交や軍事・平和についての考え方は極めてロジカルだという気がします。

政治家や官僚も平和や戦争問題について丁寧に説明することを避けているように思えます。
わざと表面上の説明しかしてないような気もします。
僕たちは丁寧な説明を求めなくてはいけないでしょうし、説明があったとしてもそれを理解できる知識も持たなくてはいけません。
平和や戦争のシステムやルールを皆が理解するようになれば、単純な感情論での表面的な議論ではなくなっていくのではと思いました。
そのためにあるレベルの平和や戦争の知識を持つことは、大切なのではないかと思います。
日本の周辺も騒がしくなってきている昨今、見て見ぬ振りを続けるのは難しくなってきているような気がします。

「日本の戦争力」 小川和久・坂本衛著 アスコム ソフトカバー ISBN4-7762-0212-3

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本 「ダンス・オブ・グランプリ -県立厚木高校ダンスドリル部全米制覇の記録-」

この夏テレビドラマで放映されていた「ダンドリ。」の原案となったノンフィクションです。
神奈川の県立高校のダンスドリル部がアメリカのチアダンス大会で優勝したという実際にあった話を追っています。
この高校生たちは高校に入ってからチアダンスをはじめ、それから2年で全米制覇をしたというから驚きです。

この本の中ではその高校生の言葉がいくつかでてきます。
その中でよく出てくるのが、「うちららしく」。
その「うちららしさ」とは何なのか。

高校生が何人も集まり厳しい練習をしていれば、必ず何か諍いや思いのすれ違いが起こります。
しかしこのモデルとなった高校生たちはそのようなことがあっても、必ずきちんとその日のうちに思いを話し合います。
なにかもやもやしたまま、持ち越さない。
言い合いになっても、みんながはっきりと自分の気持ちを言う。
それが結果的には相互理解につながっていき、連帯感が生まれてくる。
馴れ合いではない連帯感。
それが彼女たちのいう「うちららしさ」なんですね。
今時の若い子たちは個人主義、自分さえよければというのが強いイメージがあったのですが、こんな子たちもいるんだなと感心しました。

モデルとなった高校生たちのがんばる姿は非常に良かったのですが、読み物としての本の出来はあまり良くない。
これはライターがあまり良くないのだと思う。
全体的に文章が稚拙で、読んでいて臨場感があまり感じられなかった。
この手のノンフィクションは自分もその場に居るような気持ちにさせることが重要だと思うのだけれども。
そこがちょっと残念でした。

「ダンス・ラブ・グランプリ -県立厚木高校ダンスドリル部全米制覇の記録-」 長谷川晶一著 主婦の友社 ハードカバー ISBN4-07-244274-7

この本のドラマ化「ダンドリ。」の記事はこちら→

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