本 「『関係の空気』『場の空気』」
この本のタイトルにある「空気」とは何か?
なかなか説明するのが難しいが、下の文章を読むとなんとなくわかると思う。
「お前、空気読めよ」
その関係や場を支配している雰囲気というか、共通の認識というようなものだと言えるだろうか。
「関係の空気」というのは、1対1の関係性における「空気」だ。
夫婦の間で「おい、あれ」「はい、どうぞ」みたいな他人ではさっぱりわからない会話が成立するのも、夫婦の間の「空気」よるものだし、上司と部下で「例の件どうなっている?」「アレはですね・・・」というやりとりができるのも同様だ。
ただしそれが成立するのは、あるレベル以上の関係性が両者の間で成り立っている場合のみになる。
まだつき合って間もないのに「おい、あれ」などと言ったら、十中八九ふられるだろう。
「場の空気」は多人数での関係の間にある「空気」のこと。
上述した「空気読め」の「空気」だ。
日本人においてはこの空気がある種の決断を醸成することが多いという。
「ホリエモン」騒ぎやら、小泉劇場などといった現象は「世論」といった「空気」に流された結果であるという。
太平洋戦争末期の戦艦大和の沖縄戦なども論理的には敗北必至と予想されたが、場の空気がそれ以外のプランを封じ込めていたということだ。
言葉であれば、何らか反駁することができるが、はっきりしない「空気」は抵抗するのが難しい。
抵抗しても「抵抗勢力」にされてしまうのだ。
著者によれば、そのような空気を醸成しているのが、日本語ということらしい。
日本語は略語や指示語が多い。
「リストラ」といえばもともとは「リストラクチャリング」だったりするわけだが、略語を使われることが多くなるともともとの言葉もわからなくなり、また意味も変わる。
「OS」などと言った略語も普通の生活で使うようになっているが、これは「オペレーション・ソフト=コンピューターを動かすための基本ソフト」ということを知らない人にとっては、チンプンカンプンの言葉だろう。
つまり略語などは知っている人たちには共有化されている「空気」があるのだが、知らない人は「空気が読めなく」なってしまうのだ。
略語などは一種の暗号(コード)と考えてもよく、それをデコードできない人は「空気」を共有できていないこととなる。
略語などのコードを知っていると、符牒を知っている秘密組織の一員のような気分になるから不思議だ。
専門家ぶる人がよく専門用語ばかり使うことがあるが、それも特権意識というか選民意識みたいなことの現れなのだろうか。
「空気が読めない」人がいると、その場のコンセンサスがえられにくくなり、場はその人を排斥しようとしてくる。
その人は居づらくなってしまうのだ。
筆者は特に「場の空気」については、日本語の会話の対等性を重視する。
一方が「空気」を支配するような状況を作らないようにしなくてはいけないという。
意外なことだが、いわゆる「タメ口」は対等性を阻害するということだ。
上下関係が感じられる敬語よりも、一見公平なようにも見えるがそうではない。
「タメ口」は自分勝手な言い分を相手に飲み込ませるようなニュアンスがあり、そういう意味では一方的だ。
「です・ます」などの丁寧語などは、相手を尊重している感じがある。
それが会話の対等性になる。
「です・ます」調がいいなどとすると、なんか堅苦しい感じかもしれないが、「相手の言うことをきちんと聞くこと」「相手にきちんと自分の考えていることを伝えようと努力すること」が大事だということなのだろう。
相手のことを尊重する気持ちがあれば、そうそう「タメ口」はでてこない。
それぞれがそのような気持ちを大事にすれば、結果的に居心地のよい「空気」に職場も家庭もなるのではないだろうか。
「『関係の空気』『場の空気』」 冷泉彰彦著 講談社 新書 ISBN4-06-149844-4
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