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2006年10月31日 (火)

本 「ブレイブ・ストーリー」

この夏公開されたアニメーション映画「ブレイブ・ストーリー」の原作です。
正直言って映画はいまいちかと思いました。
「ゲド戦記」でも思いましたが、何度も見たことがあるようなRPG的な世界に食傷した感じでした。

さて原作ですが、映画を観た後に読み始めました。
宮部みゆきさんは好きな小説家の一人ですが、今まで読んだファンタジーもの(「ICO」等)はあまり感心しませんでした。
ご本人がRPGがお好きらしく、そのファンタジーな世界を使っているのですが、あまりそこにはオリジナリティを感じませんでした。
ということで、あまり小説「ブレイブ・ストーリー」はあまり期待しないで読み始めたのです。

映画に比べ小説は主人公ワタルの現世のパートが丁寧だなと思いました。
また長編である分、幻界での旅のさまざまなエピソードの積み重ねがワタルを成長させていくところがよかったですね。

ワタルは両親の離婚という自分の力ではどうしようもない現実にさらされます。
あまりに利己的な大人によって傷つくワタルは、宮部みゆきの小説によく登場する少年です。
またワタルの学校に転校してきたミツルも過去に暴力によって肉親を奪われた子供でした。
どちらの方が悲劇的かというのではなく、自分ではどうしようもない悲しい状況に追い込まれた立場としては、この二人の少年は同じです。
ワタルとミツルは同じものを映した鏡像の関係と言えると思います。

鏡と言えば、この物語には「真実の鏡」と「常闇の鏡」という二つの鏡がでてきます。
「真実の鏡」は喜び、希望、善など象徴、「常闇の鏡」は哀しみ、絶望、悪のシンボルです。
遥か昔、幻界が生じた時、「真実の鏡」は割れ世界中に散り、「常闇の鏡」はあるところに封印されました。
「常闇の鏡」が封じ込められたということは、都合の悪いことは見ないようにしよう、なかったことにしようという、誰でも思ってしまう心の弱さを暗示しています。
しかし都合の悪いことはなくなってしまうわけではなく、見ていないだけでいつしか大きくなり、いつの間にか人はそれに飲み込まれてしまうでしょう。
そうしないための方法はその都合の悪いことに勇気(ブレイブ)をもって立ち向かうことです。
ワタルは現世での理不尽な出来事をリセットしようと幻界の旅を始めました。
しかし旅を通じて、哀しみや不幸にぶつかる度にそれをないことにすることはできない、一度できたとしてもその場しのぎにすぎないとわかります。
自分の幸福のためその場しのぎで他人を犠牲にしても、その後に来る不幸を避けることはできない。
不幸を受け止めていく勇気こそが必要なのだと。

これは多くの宮部みゆき作品に共通するテーマです。
そういう意味で「ブレイブ・ストーリー」は宮部みゆきさんの考え方がはっきりとでている代表作と言えるでしょう。

「ブレイブ・ストーリー<上>」 宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-04-361111-0
「ブレイブ・ストーリー<中>」 宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-04-361112-9
「ブレイブ・ストーリー<下>」 宮部みゆき著 講談社 文庫 ISBN4-04-361113-7

宮部みゆき著「今夜は眠れない」の記事はこちら→

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2006年10月29日 (日)

「スネーク・フライト」 ストレート直球勝負のB級パニック映画

飛行機の中に突然毒蛇がうじゃうじゃと現れ、乗客たちは恐怖に襲われる!
パイロットが倒れ、飛行機は墜落の危機に!
乗客たちは生き延びられるか!?

・・・タイトルそのまんまな内容でした。
ヒネリもいっさいなし、あまりにストレートなB級ぶりに潔さを感じてしまいました。
感動させてやろうとか、問題提起してやろうとか、そんなイヤらしい思惑が作り手に全然ない。

「飛行機の中で毒蛇に襲われるんだぜ!コワくない?」
「そりゃクールだ!作っちまおうぜ!」
って会話があったかなかったか知りませんが、そのぐらいなノリで作っているのではないですかね。
事件の証人を抹殺するのに飛行機に毒蛇撒くなんて普通やらないだろ、なんてツッコミはしてはいけない。
この映画のストーリーは、飛行機に蛇というシチュエーションを作るためにあるんです。
概してシチュエーションが主で、ストーリーが従の映画は予定調和的でこなれていない感じがするものですが、それは普通の映画の話。
この映画にそんな野暮はダメ。
「飛行機に蛇」、これがやりたい、だから作った。
潔いです。

そんなアホらしい映画にでてしまうサミュエル・L・ジャクソンがすごい。
国民的SF映画やマニアに大人気の監督作品に出演している輝かしい経歴を持っているのに、こんな映画にでてしまうなんて。
インタビュー等では本人はこういう映画、結構好きそうなんですが。
最後の方で「ファッ○ン○ザーな蛇野郎どもを、○ァッキンマ○ー、片付けちまおうぜ」と期待通りの台詞を吐いてくれるとはなかなかわかってらっしゃる。

たまにはこういう思い切りのいい映画もいいです。
一般受けはしないでしょうけど。
B級モンスターパニック映画お好きな方、僕は「トレマーズ」もお薦めです。

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「弁護士・灰島秀樹」 エキセントリックなキャラだけど、思いのほかオーソドックスな話

「踊る大捜査線」シリーズのスピンオフ「容疑者・室井慎次」のさらにスピンオフ企画です。
「容疑者・・・」では敵役だった弁護士・灰島秀樹を主役とした物語です。
映画では八嶋智人さんが演じるだけあって、かなりエキセントリックに描かれていて、あまり好きなキャラクターではなかったのでした(仲間の弁護士たちも)。
口達者な感じがどうも鼻について・・・。
キャラがたちすぎているので、ちゃんとドラマに仕上がるかと思っていましたが、蓋を開けてみたら弁護士ものとしてはオーソドックスな作りにできていましたね。
というより思いのほか普通な感じ。
「踊る」シリーズは少々強引な展開がありますが、今回はあまりなかったような感じです。
主要な登場人物が出た時点で、だいたい展開読めましたし。
全体的にはやや喰い足りない感じはしました。

それでも最後のシンポジウムの場面での、相手にまわった部下たちとのディベートはなかなか見応えありました。
脚本の君塚良一さん、これがやりたかったのですねー。
それまでのお話はこれをやるための前振りだったのかも。

さらにスピンオフ企画が続くなら、哀川翔さんが演じていた工藤刑事を主役でやってくれないかしらん。
「巡査部長・工藤敬一」とか・・・。
渋いところで大和田伸也さんで「副総監・安住利夫」とか・・・。

踊る大捜査線スピンアウト企画「容疑者 室井慎次」の記事はこちら→

口達者なPRマンの話 「サンキュー・スモーキング」の記事はこちら→

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2006年10月28日 (土)

「トリスタンとイゾルデ」 愛とは満たされる気持ちと不安な気持ち 

トリスタン伝説はもともとはアーサー王伝説にも取り込まれたケルト民話の一つです。
12世紀頃フランスの宮廷詩人たちによって騎士道物語として形作られていきました。
この映画はワーグナーの楽劇をベースにしているのかな・・・?(あまり詳しくなくて)

騎士道物語としての「トリスタン物語」やワーグナーの楽劇で、トリスタンとイゾルデの愛は媚薬がきっかけになるそうです。
この映画では二人の愛は、媚薬などのまじりっけはない純愛。
偶然に出会った二人の愛はさまざまなしがらみによって引き裂かれます。
それでも二人の愛は燃え盛り、その愛は国をも滅ぼそうとする。
書いていると、ちょっと恥ずかしいですね・・・。
それでも映画を観ているとそれほど照れてしまう感じはなかったです。
このような純愛ものは、作品として中途半端な出来だと観ていてかえって恥ずかしいのですが、この作品はしっかり撮っているのでそのような感じはありませんでした。
中世のイギリスはこうだったのだろうかと思わせる壮大な景色の中でのロケ、時代感のある村や城のオープンセットなどは雰囲気がでていてかなり良かったです。
撮り方もトリッキーな構図も少なく、抑えた色調も合わせて、王道で落ち着いた感じがする映画でした。

イゾルデが、トリスタンの主君であるマーク王に輿入れするあたりの、二人の描き方が良かったです。
二人は愛し合っているにもかかわらず、口にする言葉、目に見える態度は、何故か相手を混乱させ傷つけてしまう。
そんな微妙なすれ違いが繊細に描けてたような感じがします。
相手の本当の気持ちがわからず、信じたり、疑ったり・・・。
相手を思いやる気持ち、また自分のことばかりを思ってしまう気持ちの間で揺れ動く・・・。
自分たちの愛の成就、それに対する親や主君への義の狭間での悩み・・・。
愛するということは、満たされる気持ちと同時に失うかもしれないという不安な気持ちが同居してしまうものなんですよね。
その間に物語が生まれ、純愛ものというのは連綿と語られ、作られ続けているのでしょうか。
この映画をみて、恋愛にかぎらずとも、思いを口にすること、態度に表すこと、相手に伝えることの難しいよなということを改めて感じました。

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本 「陰獣」

以前に講談社から江戸川乱歩推理文庫として出版されていた「陰獣」を古書店で購入しました。
このシリーズは天野喜孝さんのイラストを使った装丁で好きだったのですが、廃刊になり手に入れにくかったのですが、たまたま見つけました。

いうまでもなく江戸川乱歩という作家は現在の日本の小説に大きな足跡を残した作家です。
現在活躍している小説家でも影響を受けた人は多いでしょう。
でも私自身は子供の頃少年探偵団シリーズは読んだり、ずいぶん前にいくつかの小説を読んだ記憶があるだけで最近はほとんど読んでおりませんでした。

「陰獣」は短編集ですが、江戸川乱歩の雰囲気がよくわかります。
独特の触感がある人です。
読んでいてぬめぬめとした感じ、ねっとりした粘液質な感じを受けます。
それがお腹の奥の方に少しずつ溜まっていく感じが、妙に居心地悪い感じを与えます。
なんか気持ち悪くて目をそらしたいけど、見てしまうといったニュアンスでしょうか。
私が好きな京極夏彦の小説もそんなところあるのですが、これは江戸川乱歩の影響でしょうか。
描かれている時代的としても同じくらいですし。

短編集の最後におさめられている「陰獣」はなかなか凝った作りの小説でした。
ある種のセルフパロディのような仕掛けです。
小説家が二人登場しますが、それぞれが江戸川乱歩自身の別の側面を代表しているように思われるのが、おもしろい。
いくつかそれまでの作品をよんでから「陰獣」を読むと、より楽しめると思います。

「陰獣」 江戸川乱歩著 講談社 文庫 ISBN4-06-195205-6

江戸川乱歩著「妖虫」の記事はこちら→

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2006年10月22日 (日)

本 「神の箱舟」

ハードカバーの小説を買う時、けっこう「表紙買い」をしてしまうのだが、大概は満足する。
この本も「表紙買い」をしてしまったのだが、まったくカンが外れてしまった。
全くいいところのない小説である。
まずストーリーがご都合主義の極地だ。
都合のいいようにキーアイテムが人から人へ渡ったり、女子高生がなぜか探偵まがいなことができてしまったり。
(キーアイテムは最初は烏が運んでいた。おとぎ話でもそんな展開しません。)
登場人物も多いのだが、それぞれがすごく薄っぺらい。
なんでこのキャラクターがその行動をとるのかがわからない。
ストーリーを進行させるためにだけ動いている気がする。
何を描きたかったのだろうか。
そのストーリーも何かテーマがあるわけでもなく、何か今までにない発想があるわけでもない。
文章表現が稚拙で、比喩表現が取って付けたようで鼻につく。
そして同じような表現が繰り返し出てくる。
ほんとにプロの小説家なのだろうか?
本の帯には「スラプスティック・サスペンス」と書いてあったが、どこがスラプスティックで、どこがサスペンスなんでしょう?
本の編集者はちゃんと仕事をしているのでしょうかと疑問を持ちたくなる本でした。

「神の箱舟」 高野裕美子著 小学館 ハードカバー ISBN4-09-379719-6

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2006年10月21日 (土)

本 「『関係の空気』『場の空気』」

この本のタイトルにある「空気」とは何か?
なかなか説明するのが難しいが、下の文章を読むとなんとなくわかると思う。

 「お前、空気読めよ」

その関係や場を支配している雰囲気というか、共通の認識というようなものだと言えるだろうか。

「関係の空気」というのは、1対1の関係性における「空気」だ。
夫婦の間で「おい、あれ」「はい、どうぞ」みたいな他人ではさっぱりわからない会話が成立するのも、夫婦の間の「空気」よるものだし、上司と部下で「例の件どうなっている?」「アレはですね・・・」というやりとりができるのも同様だ。
ただしそれが成立するのは、あるレベル以上の関係性が両者の間で成り立っている場合のみになる。
まだつき合って間もないのに「おい、あれ」などと言ったら、十中八九ふられるだろう。

「場の空気」は多人数での関係の間にある「空気」のこと。
上述した「空気読め」の「空気」だ。
日本人においてはこの空気がある種の決断を醸成することが多いという。
「ホリエモン」騒ぎやら、小泉劇場などといった現象は「世論」といった「空気」に流された結果であるという。
太平洋戦争末期の戦艦大和の沖縄戦なども論理的には敗北必至と予想されたが、場の空気がそれ以外のプランを封じ込めていたということだ。
言葉であれば、何らか反駁することができるが、はっきりしない「空気」は抵抗するのが難しい。
抵抗しても「抵抗勢力」にされてしまうのだ。

著者によれば、そのような空気を醸成しているのが、日本語ということらしい。
日本語は略語や指示語が多い。
「リストラ」といえばもともとは「リストラクチャリング」だったりするわけだが、略語を使われることが多くなるともともとの言葉もわからなくなり、また意味も変わる。
「OS」などと言った略語も普通の生活で使うようになっているが、これは「オペレーション・ソフト=コンピューターを動かすための基本ソフト」ということを知らない人にとっては、チンプンカンプンの言葉だろう。
つまり略語などは知っている人たちには共有化されている「空気」があるのだが、知らない人は「空気が読めなく」なってしまうのだ。
略語などは一種の暗号(コード)と考えてもよく、それをデコードできない人は「空気」を共有できていないこととなる。
略語などのコードを知っていると、符牒を知っている秘密組織の一員のような気分になるから不思議だ。
専門家ぶる人がよく専門用語ばかり使うことがあるが、それも特権意識というか選民意識みたいなことの現れなのだろうか。
「空気が読めない」人がいると、その場のコンセンサスがえられにくくなり、場はその人を排斥しようとしてくる。
その人は居づらくなってしまうのだ。

筆者は特に「場の空気」については、日本語の会話の対等性を重視する。
一方が「空気」を支配するような状況を作らないようにしなくてはいけないという。
意外なことだが、いわゆる「タメ口」は対等性を阻害するということだ。
上下関係が感じられる敬語よりも、一見公平なようにも見えるがそうではない。
「タメ口」は自分勝手な言い分を相手に飲み込ませるようなニュアンスがあり、そういう意味では一方的だ。
「です・ます」などの丁寧語などは、相手を尊重している感じがある。
それが会話の対等性になる。

「です・ます」調がいいなどとすると、なんか堅苦しい感じかもしれないが、「相手の言うことをきちんと聞くこと」「相手にきちんと自分の考えていることを伝えようと努力すること」が大事だということなのだろう。
相手のことを尊重する気持ちがあれば、そうそう「タメ口」はでてこない。
それぞれがそのような気持ちを大事にすれば、結果的に居心地のよい「空気」に職場も家庭もなるのではないだろうか。

「『関係の空気』『場の空気』」 冷泉彰彦著 講談社 新書 ISBN4-06-149844-4

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「アンフェア the special -コード ブレーキング-」 相変わらず高い脚本の完成度

「アンフェア the special」、録画したきり観ていなかったのをようやく観ました。

「アンフェア」の連続ドラマは今年の前半にフジテレビ系列で放映されていました。
テレビドラマはあまり観る方ではないのですが、このドラマに関してはおもしろそうだなと鼻が利きました。
昔、浅野温子さんが女性刑事役を演じた「沙粧妙子 ー最後の事件ー」が好きでしたが、同じニオイを感じました。
今回は嗅覚はハズレませんでした。
第一回から見始めて、見事にはまりました。
毎回ドラマの中で展開されるどんでん返しに翻弄され、翌週が楽しみで仕方なかったですね。

このドラマ、いいところはいろいろありますが、まずは脚本でしょうか。
練りに練り上げられた構成、それも1回1回だけでなく、きちんと連続ドラマとしての全体構造がしっかりしています。
あとで見直しても、こんなところにも伏線張っているのだなと、感心しきりです。

キャラクターもクセのある性格設定で、かつクセのある俳優さんたちが演じているので、より魅力がアップ(いわゆるキャラがたっている)していたように思います。
特に主演の篠原涼子さんがカッコいい。
今まで篠原さんのイメージはちょっとケバっぽい役柄が多かった気がしましたが、もともと美人系のクールな印象のある顔立ちの方ですので、クールな女性刑事(雪平)という役に見事にハマっていたと思います。
他の出演者も魅力的で、そしてそれぞれ怪しい雰囲気を醸し出しているので、途中では雪平刑事以外は誰が犯人でもおかしくないなーと思ったりして・・・。

映像もスタイリッシュで良かったです。
クールで硬質な感じのある都会的な映像で、ハードなストーリーや雪平というキャラクターによく合っていたと思います。
「アンフェア」のスタイルを作った監督と言っていいでしょう。
先日記事に書いた「ダンドリ。」も小林監督がメインでしたね。
あちらはチアダンスという題材だったので、明るくポップな映像でした。
とても器用な監督なのでしょう。

「special」は観る前はちょっと心配していました。
連続ドラマで完結している物語を、人気がでたため、スペシャルや映画にすることは多々ありますが、あまりうまくいっているものは多くないからです。
スペシャル版で描かれる出来事(後日談)が、物語としては余計な付け足しになっていることがあったりします。
上に書いた「沙粧妙子」シリーズはそんな印象がありました。
けれども「アンフェア the special」に関してはそんな感じはしませんでした。
テレビシリーズの結末を踏まえ、さらにその影響を踏まえてキャラクターたちが動いていくか、やはり練り上げられた脚本だったと思います。
シリーズ同様、先を読ませぬ展開は相変わらず、一気に2時間強を見せてくれました。

「アンフェア」は映画化されるようですね。
スペシャル版の最後も思わせぶりな終わり方で、シリーズのような後の引き方・・・。
否応なく期待を高められてしまいます。

映画「アンフェア the movie」の記事はこちら→

原作小説「推理小説」の記事はこちら→

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「16ブロック」 職人監督の品質保証印が入った映画

「リーサル・ウェポン」シリーズで有名なリチャード・ドナー監督作品です。
僕はリチャード・ドナー監督は結構好きで、よく作品を観ています。
「リーサル・ウェポン」シリーズは全部観てますし、「マーヴェリック」「暗殺者」「陰謀のセオリー」等も結構好きなんですが、世間一般的にはやや地味な監督ですよね。

僕が思うにこの監督はすごく器用なのではないかと思います。
なにか映画会社サイドから注文があっても、上手に対応できてしまうベテランという感じでしょうか?
えらく愛想がよくて腕がいい寿司職人ってイメージがします。
「トロちょうだい」「あいよ!」「こっちはえんがわね」「わ〜かりましたぁ!」
で、そこそこおいしい寿司だったりする。
こんなイメージです。
映画会社ではこんな会話があるかも・・・。
「監督、こんどは歴史もので」「あいよ!」「こっちはサスペンスでね」「わ〜かりましたぁ!」

冗談はさておき、ドナー監督の作品はどれも上映時間がコンパクトでありながら物語上の破綻などはほとんど見られません。
驚かせどころや見せどころなどのツボもわかっているので、飽きさせません。
ミスリードっぽい感じで見せておいて、実は・・・みたいなことをこの映画でもいくつか見せていました。

本作品「16ブロック」も職人芸な映画という印象でした。
「人は変われるんだ」ということをテーマに主人公の情感もでてますし、アクションもテンポがある小気味良い感じで観ることができます。
ただ、いかんせん職人で腕があると思いますが、強烈な個性があまりでないところが物足りないといえば物足りないでしょうか。
シャマラン監督等は最初観ただけでわかってしまう感じはありますが、そのような強烈さはドナー監督にはないように思えます。
とはいえ、決して外さない腕のある監督だと思います。
プロデューサー的には安心できる人でしょうね。

さて主役のブルース・ウィルスですが、落ちぶれた中年刑事役がはまっていました。
最初のシーンのおなかのタプタプ具合はまさにやさぐれた中年の雰囲気がでておりました。
ブルースの演技で良かったのは目の表情。
なんか虚無的な感じがずっとある。
それに対しモス・デフはどんな困難な状況であっても、目がキラキラしている。
この対比が両者の人生観を表していてよかったです。
それでも後半に行くに従い、エディ(モス・デフ)の影響でブルース演じるジャック刑事の目にも光がともり始めます。
ラストの裁判所、そしてバースデイのシーンのブルースの目の表情はよかったですね。

全体的に抑えたつくりの映画だったと思いますが、職人監督が品質を保証した良作だと思います。
(傑作とまで言えないところがドナー監督らしい)

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2006年10月15日 (日)

「サンキュー・スモーキング」 マジョリティ化された情報と個人の判断

現代ではアメリカでも日本でもタバコは悪者扱いです。
タバコの危険度は様々なところで証明されているので、そのことはほぼ間違いない事実でしょう。
僕自身はタバコは吸わないですし、あの煙も嫌いなのでタバコはできればなくなって欲しいとは思います。
ですが、この映画はタバコが良いか悪いかを論じているものではありません。
他の危険性について考えさせられる映画です。

情報というものはそれだけでは何も役に立ちません。
情報とは、自分なりに分析し、それに基づき判断するためのソースです。
情報化社会と言われて久しく、インターネット等を通じて大量の情報がやり取りされます。
しかし行き交う情報は玉石混合であり、自分に役に立てるには、結局自分自身での判断が必要になります。

また紛らわしいのは情報の中に判断めいたものが混じっていることが、昨今多くなってきたということです。
例えばテレビの健康番組で「○○は血液をサラサラにする」といった情報が発信されます。
その日のスーパーでは○○はとたんに売り切れます。
このような情報に踊らされている消費者は、自分で情報を使い、自分では判断するということを行っていません。
決めている気でいるかもしれませんが、本当に○○が効果があるということを納得して、自分で判断していないのです。
テレビが言っていたからいいに違いない。
でもそのテレビが言っていたのは、たった一人の学者の一説だったりするのです。
他の学者は別のことを言っている。
テレビが言っているから、偉い人が言っているから、みんなが言っているから。
マジョリティ化された情報が必ずしも正しいとは限りません。
間違っているとも限りません。

「タバコは体に悪い」
事実そうだとしても、判断するのは自分です。
体に悪いとわかっていても吸うのを決めるのも自分、吸わないと決めるのも自分です。
判断だけは誰にも渡してはいけないものだと思います。
情報操作がコスト低く行える現代において、そのような危険性をこの映画は訴えているような気がします。

お父さん(アイヴァン・ライトマン)の作品「Gガール 破壊的な彼女」の記事はこちら→

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本 「陰摩羅鬼の瑕」

京極堂シリーズの文庫版「陰摩羅鬼の瑕」を読みました。
分冊でない方を購入しましたが、相変わらず厚いです。
厚いですが、さすが京極夏彦さんですので、ぐいぐいと引き込まれてしまい、一気に読んでしまいました。

「世の中には不思議なことなど何もないのだよ」
これはこのシリーズで京極堂がしばしば口にする言葉です。
この言葉の意味は、世の中の見え方というのはそれぞれの人によって異なり、その違いによってあることがある人にとっては不思議なことに見え、そうでない人には何も不思議ではないことに見えるということでしょう。
京極堂の憑き物落しはそのものの見方を変換することによってなされます。

本作でも世の中のものの見方、世界観が物語の芯になります。
僕たちは普段生きていて当たり前だと思っていること、常識・倫理・道徳・通念・記憶というものは、誰にとっても同じもので、しばしばどの時代においても同じだと思いがちです。
しかしそんなことはなく、江戸時代の常識と現代の常識は無論異なります。
そして同じ現代であっても、その当たり前だと思っていることも人それぞれで違うかもしれません。
本作では誰にとっても常識として認識しているけれども、改めて説明しようとするとできない「死」というものがテーマになっています。
何が「死」かというのは、法律上、倫理上、宗教上さまざまな定義があります。
そして誰にとっても「死」は不可逆的なものであるがゆえ、誰もその定義の正しさを証明できません。

本作の謎解きに僕は唸らされました。
人のものの見方、世界観・死生観というものを謎解きのキーに使った作者のアイデアに感服しました。

新書で京極堂の新作が出たようです。
本作を読んで文庫でやっと追いついたので、今度は新書に手をだそうと思っています。

「陰摩羅鬼の瑕」 京極夏彦著 講談社 文庫 ISBN4-06-275499-1

京極夏彦著「邪魅の雫」の記事はこちら→

京極夏彦著「ルー=ガルー 忌避すべき狼」の記事はこちら→

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2006年10月14日 (土)

本 「今夜は眠れない」

”いちばん速く駆けるものが必ずしも勝つわけではなく、勝っているように見えるものが必ずしも勝者ではないということを”
この作品のラスト近くで語られている言葉です。
ちょうど同じタイミングで、こちらも宮部みゆきさんの「ブレイブストーリー」も併読していましたが、同じ趣旨のことが書いてありました。

宮部みゆきさんの小説には、ミステリーにせよ、ファンタジーにせよ、自分のことばかり考える人が出てきます。
一見、この人たちは成功しているようにも見えるし、自分でもそう思っているのですが、実は大事なことを忘れている人たちです。
対して、善良な心をもった人々も登場してきます(本作のように概して少年であることが多い)。
その子たちは少年から大人になる途中、親という庇護を離れ世間というものに触れていきます。
その中で、人というのは思っていたほど善良ではなく、世界には悪意をもった人もいるのだということに否応なく気づかされます。
自分のために人を押しのけることを厭わない人(それが親だったりすることもある)がいることに、傷つきます。
しかし宮部みゆきさんの小説にでてくる少年たちは、傷つきながらも、世界を受け入れ、その上であきらめずやはり善良であり続けようと選択します。
それがしばしば宮部みゆきさんの作品ででてくる言葉「勇気」でしょう。

この作品のレビューに全然なっていませんが、「今夜は眠れない」はそんな宮部みゆき作品に通じるテーマを味わうのに、ミステリー苦手な人でも入りやすい作品です。

「今夜は眠れない」 宮部みゆき著 中央公論新社 文庫 ISBN4-12-203278-4

宮部みゆき著「ブレイブ・ストーリー」の記事はこちら→

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「レディ・イン・ザ・ウォーター」 ナイト・シャマランのおとぎ話世界にひたれるかどうか?

「シックス・センス」を観た時に度肝を抜かれ、若いのに侮れない監督してM.ナイト・シャマランの名前を覚えました。
その後、新作を発表する度に、あの驚きを再びと期待して劇場に足を運びましたが、「サイン」「ヴィレッジ」と落胆することが続きました。
自分の期待度が大きかったということもあるかもしれませんが、どうも「シックス・センス」のヒット以降、ナイト・シャマラン監督(と映画会社)も奇抜に奇抜にという方向に無理矢理持っていったようにも感じました。

そのようなことで本作「レディ・イン・ザ・ウォーター」はそれほど期待しないで観に行きました。

感想としては・・・、好き嫌いが分かれる映画でしょうね。
というより好きか嫌いかではなく、これを認めるか認めないかという感じでしょうか。
本作に限らずナイトシャマラン監督の作品は、ストーリーに隠された「謎」がポイントになり、「謎」と「オチ」の落差が、即その作品の評価につながるようなものでした。
「シックス・センス」では多くの人が、「えっ!そういうことだったのか!」と驚き、「ヴィレッジ」では「おいおい、そういうオチかよ!」とがっかりしたかと思います。
その差が作品の評価になっていたかと思います。
この落差はなかなか微妙で、あまり非現実的てもいけないし(ご都合主義に見える)、かといってありきたりでもだめだという、かなり難しいところを狙ってきていたのだと思います。

それで本作ですが、今までのようなどんでん返しは基本的にありません。
水の精「ストーリー」を青の天国に返すために、アパートの住人たちは「謎」を解き明かし、返す方法を見つけていきます。
そこの謎解き(住人たちの隠された能力を見つけ出していく件)にはある種、予定調和的だったり、ご都合主義に見えてしまうところがあるかもしれません。
このあたりがこの映画を認めるか、認めないかの分かれ目でしょう。
認めないという意見の方は、上述のご都合主義の展開がどうだろうかということだと思います。
それはそうかもとも思うのですが、僕はこの作品は予定調和であることも折り込み済みの映画かなと思いました。
この映画で描かれている世界は、現実のどこかにあるようなアパートを描いているのではないのでしょう。
普通のアパート、現代にいそうな人々がでてくるので、現代劇に見えてしまうのですが、この映画はファンタジー
のセカイでのお話なのだと思います。
「ハリー・ポッター」のセカイで魔法がでてきてもそれがおかしくないように、この映画の舞台コーブ・アパートもファンタジーワールドであり、さまざまな特殊能力をもつ人がいて、都合がよくそれらが見つかり、ストーリーは収束していくということは、おとぎ話的なセカイでの話なのですからすべて「あり」なのです。
それが「あり」だと思えて、ナイト・シャマランのおとぎ話世界にひたれないと、この映画は違和感のある映画でしょう(といってもそれが悪いわけではないので、念のため)

書いていて、ふと清涼院流水さんの小説のことが浮かびました。
この方も推理小説の世界に突拍子もない要素を持ち込んで、話題になりました。
アナグラムなどを使ったディティールに対するこだわり、(今までの推理小説の枠から大きくジャンプした)最後の解決のどんでん返しぶりは発表当時から、「こんなの推理小説じゃない!」という方と「新しい推理小説だ!」という人と意見がわれていたように思います。
なんとなくその世界観を許容できるかできないかみたいなところは、今回の「レディ・イン・ザ・ウォーター」は似ているなと思いました。

この作品は「癒し」の話でもあります。
主人公のクリーブランドは過去に起こった事件をずっと心の中にしまい込み、抜け殻のような生活を送ってきました。
最後にクリーブランドはその想いを口にだし、今までに心の中にあった哀しみ、憤りをすべて吐き出します。
心の中にある感情を思い切って口に出すことは、それを本人が自覚し、その感情に向かい合うためのきっかけになります。
この方法は心理カウンセリングでも使われる方法です。
自分自身を見つめ、自分が誰かのために役立っていることを自覚すること、他の人とつながっていることを感じることができることが、「癒し」への第一歩になります。
「救い」の余韻を感じる映画だと思いました。

M・ナイト・シャマラン監督作品「ハプニング」の記事はこちら→ にほんブログ村 映画ブログへ

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2006年10月 9日 (月)

「バックダンサーズ!」 涙腺の蛇口がキュッと閉まる

映画「フラガール」、TV「ダンドリ。」と最近ダンスもので涙腺が緩んでいるので、その勢いで「バックダンサーズ!」を観てきました。
感想ですが、観ていて涙腺の蛇口がキュッと閉まってしまいました。
一滴の涙もでてきませんでした。

「フラガール」もありがちと言えばありがちなストーリーなのですが、魅力的な登場人物のため感情移入がとてもしやすく、最後のダンスは自分のことのようにドキドキしながら観ることができました。
対して本作「バックダンサーズ!」はあまりにご都合主義な脚本に興をそがれ、登場人物への思い入れに至りません。

冒頭にあげた二作品では、登場人物はそれぞれ悩みを持ち、ダンスを続けるにあたりさまざまな困難に直面します。
しかし彼女たちはダンスが好き、仲間が好きという想いでそれらの障害を少しずつ克服していき、物語は最後には一人だけではなくみんなの気持ちが合わさった、言葉を超えた肉体の表現としてのダンスにおいて最大のボルテージを迎えます。
それは劇中の登場人物、そして観ている観客の気持ちがシンクロする瞬間で、観ている僕たちはそこで達成感=カタルシスを得ることができます。

そのカタルシスを得るためにはキャラクターへの共感を持って同一化ができないと厳しく、それがないと目の前で淡々とストーリーが流れているのを眺めているという感じになります。
本作はそれがしにくい。
この作品でも四人のキャラクターは背景があり、それぞれの悩みは描かれます。
ただそれらの悩みは、そのキャラクターが自分なりの答えを発見したことにより克服するわけでなく、大概は成り行きでなんとかなったように見えます。
彼女たちの想いの強さが伝わってこず、その想いが自分のことのように思えない。
ラストのダンスをいかに女優さんたちががんばって踊っていたとしても思い入れができないため、人ごとと見えてしまう。
そこでは涙はでてこない。

周辺のキャラクターもあまりにテレビチック、類型的で興ざめします。
「フラガール」の脇役キャラの豊かさと比べると天と地ほどの差があります。

きわめて平面的で工夫のない脚本、演出でとてもがっかりした作品でした。

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フラダンスを題材にした映画「フラガール」の記事はこちら→

チアダンスを題材にしたテレビドラマ「ダンドリ。」の記事はこちら→

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2006年10月 8日 (日)

「武士 -MUSA-」 漢(おとこ)の生き様を見よ!

朱元璋が明を興し、元を再び草原に追いやった時代が舞台です。
なかなか中国・韓国の歴史はなじみがないですが、日本の歴史で言うとちょうど室町時代になります。
映画の冒頭、長年蒙古に服属していた高麗は明との和平を結ぶために使節団を南京に送ります。
しかしあらぬ疑いをかけられ、使節団は流刑とされてしまうところから物語は始まります。

まったく期待していなかったのですが、骨太に描かれた男の生き様を堪能できるなかなか良い作品です。

映像としては、戦争スペクタクルものとして当然ながら、迫力ある合戦シーンなどもあります。
黒澤明の「乱」のように大人数のエキストラを使ったを重厚な映像でした。
「ロード・オブ・ザ・リング」のようにCGで増やした兵士を使った戦闘シーンも大いに興奮しますすが、こういうリアルな映像も別の意味で迫力あります。
血なまぐささもありますが、それが戦闘の重々しさをリアルに表していたような感じがします。

この作品、何が良かったかと言えば、それぞれに男らしさを感じるキャラクターとそれにベストマッチの俳優たちです。
公開時はチャン・ツィイー出演を売り文句にしていたかと思いますが、この作品は男優陣がとてもいい。
(もちろんチャン・ツィイーの美しさも堪能できます。
「グリーン・ディスティニー」でもそうでしたが、ちょっと生意気なお嬢様が似合いますね。)

まず寡黙な奴隷剣士ヨソル。
このキャラクターをチョン・ウソンは、大きな体躯を活かし堂々と演じています。
大柄な体を使い、ぶんぶんと槍を振り回す姿は武神のよう。
義を重んじ、かつ愛を内に秘め、それに殉じる姿はまさに漢(おとこ)です。
男が惚れこむタイプかもしれません。
物語でも、敵である蒙古軍の将軍は、その力量を見抜き武士<ムサ>として手に入れようと欲します。

そしてアン・ソンギが隊正役を演じます。
この隊正というキャラクターは知恵者であり、かつ行動力がある男。
部下たちの気持ちをくみ上げ、皆をまとめあげ引っ張っていく。
男がいつかはこうありたいと願うリーダー像で、アン・ソンギがしぶーく演じています。
こういうのもかっこいい。

そして最後にチェ・ジョン将軍。
自分自身の臆病さを、プライドで覆い隠している青年将軍です。
いくつかの失敗をし、人の命を犠牲していくなかで、自分自信の弱さに気づき克服することにより、成長していきます。
男の弱さ、繊細さを表現しているキャラクターでしょう。
チュ・ジンモがプライドが高いが、内面はナイーブな青年をよく演じていますね。

この作品見た時にふとイメージしたのは、「北斗の拳」。
荒れ果てた荒野を舞台にしているということもあるでしょうが、義に生き、愛に死す男たちの生き様から思い浮かんできたのかもしれません。
「七人の侍」のにおいも感じます。
においたつ男のロマンを感じる作品ですね。

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2006年10月 7日 (土)

「フラガール」 人を育てるということ

先頃までフジテレビ系列で放送していた「ダンドリ。」はチアダンス。
チアダンスに一生懸命な高校生たちが、様々な困難を乗り越えていき、またチームとして結束していくさまをコメディタッチで描いているドラマでした。
彼女たちの友情やダンスにかける熱意に毎回ほろりとされる場面があり、楽しみに見ていました。
さて「フラガール」の題材はフラダンス。
こちらのダンサーはどんな感動を与えてくれるのでしょうか。

舞台は石炭産業が斜陽になりかけた昭和40年の常磐炭坑。
炭坑の経営が、廃坑になる前に湧き出る温泉を使い「常磐ハワイアンセンター」を作ろうとしている時代です。
ちょうど僕が生まれるちょっと前くらいで、なんとなく雰囲気は懐かしい。
そういえば「常磐ハワイアンセンター」は「ウルトラQ」や「仮面ライダー」ではタイアップで舞台として使われていたという記憶があります。

先日たまたま見た「遠い空の向こうに」も炭坑が舞台でした。
二つの作品とも共通に描かれている炭坑というところは、先行きが怪しいことによって大人全体、街全体があきらめたムードで支配されています。
それでも若者たちは自分たちの夢を見つけ、それを我武者羅に追いかけていきます。
そのさまには、どんよりとした雲を吹き払うような輝きを感じます。
その輝きを「遠い空の向こうに」のラストでは晴れ渡るようなオクトーバー・スカイ、「フラガール」では色鮮やかな南国のカラーが、それまでの炭坑の陰鬱としたトーンを吹き払うことをイメージさせるのは、共通していますね。

この映画のドラマには、友達に誘われなんとなく始めたフラダンスの魅力に目覚めて、自分の夢として一生懸命がんばろうとする紀美子(蒼井優さん)の成長と、東京から流れてなげやりになった元ダンサー平山まどか(松雪泰子さん)がダンスの生徒たちを教えていくことを通じ自分の生き甲斐を見つけていくという、大きな二本の柱があります。
この作品、この二本の柱のバランスがとてもいい。

紀美子のストーリーに関しては、自身のダンスへの思いと達成、親との確執・和解、友情など感動しどころがたくさんあります。
演じる蒼井優さんは「鉄人28号」に出ているくらいしか見たことなかったのですが、この映画では非常に良かった。
清楚な美人ですが派手さはない顔立ちの蒼井さんは、内に想いを持ちながらがんばる役柄にあっていたように思います。
ラストのダンスシーンは、最高の笑顔と驚くぐらいに上手なフラダンスのパフォーマンスを見せてくれます。
フラダンスというのは手話でもあるというのをこの映画で知りました。
想いを体で表現するのがダンスなのですね。
ラストダンスではみんなの想いがつながっているのが感じられ、観客も紀美子と同様に達成感を味わうことができると思います。

個人的には平山まどか先生のストーリーはさらに良かった。
僕も最近仕事で後輩を指導し、いかに伸ばすことができるかを考えるようになってきました。
そのようなことをやりはじめてわかってきたのですが、教えることはおもしろい。
人がどんどん成長していく様子を見ることは、自分が自身で仕事をしていくことよりも、ある意味おもしろい。
平山先生も始めは自分中心の女性でした。
しかし生徒たちの思いに触れ、その成長を見守るにつれ、彼女たちを育てていくことに誇りを感じるようになります。
「いい女になりましたね」
といっしょにフラガールたちを育ててきた吉本(岸辺一徳さん)が言います。
この物語は平山先生の成長の物語でもあったのでした。
人を育てることは、自分も育てることだったりするのですね。

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チアダンスを題材にしたドラマ「ダンドリ。」の記事はこちら→

炭坑を舞台にした少年の成長ドラマ「遠い空の向こうに」の記事はこちら→

蒼井優さん出演「蟲師」の記事はこちら→

蒼井優さん出演「鉄人28号」の記事はこちら→

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本 「ワークショップ ー新しい学びと創造の場ー」

最近、仕事の中で「ワークショップ」という方法を取り入れることがあった。
もともと上司が別の仕事で参加し、感銘を受け、私の所属する部署にも取り入れることとなり、その仕切りを私がやることになったのだ。
最初は「ワークショップ?」「ファシリテーター?」なんだそりゃといってちんぷんかんぷんだったが、幸い外部の優秀なコンサルタントにご協力いただくことができ、「ワークショップ」を行うことができた。

「ワークショップ」とは通常の会議とは異なる。
通常の会議ではややもすると権力がある人、主張が強い人の声ばかりがいきかい、また建設的な意見の出し合いではなく、相手を論破することばかりが横行することが多くなる。
それで会議は無駄というような意見もよく聞かれることとなる。
「ワークショップ」とはそれらの会議とは基本的に異なる。
それぞれが公平に意見を出し合い、認め合い、相互に刺激して学び合う場である。
始めから答えはなく(会の目的はあるが)、その答えをみんなで見つけていく場である。

正直、自分でやってみる前はうまくいくのかという思いはあった。
私のイメージの会議というのは、自分が主催する場合、自分でのその会議の結論は用意していてその答えに参加者に納得してもらうものだった。
答えをある程度用意しておかないと迷走し収集がつかなくなることが今までも多々あったのだ。
参加した「ワークショップ」は違った。
日頃いっしょに仕事をしているメンバーばかりであったが、経験のないと思われる後輩たちの素直なものの見方を聞いてどきりとしたり、今までは言えなかった思いを聞いたりした。
私も日頃考えているが、忙しかったりして言えなかったことを言った。
しばらくしていくとだんだんとみんなで目指す方向性が見えてくるのだ。
ファシリテーターの方がとても優秀だったということもあるが、その体験は目からウロコがはがれるものであった。

自分の体験ばかりを書いてしまったが、この本「ワークショップ ー新しい学びと創造の場ー」はワークショップとは何かということをまず知るには入りやすい本だと思う。
会社、仕事でも様々な環境変化があり今までのスキームだけでは解決できない事態が多くなっている。
そのとき個人の経験で解決するのではなく、みんなの経験・知恵を合わせてその事態を乗り越えるために「ワークショップ」という方法は有効だと思う。
興味がある人はぜひ読んでみてほしい。

「ワークショップ ー新しい学びと創造の場ー」中野民夫著 岩波書店 新書 ISBN4-00-430710-4

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2006年10月 1日 (日)

「遠い空の向こうに」 さわやかな後味の少年の成長ドラマ

会社の後輩のお薦めで観賞してみました。
ホーマー・H・ヒッカムJr.というNASAの技術者が書いた自伝「ロケット・ボーイズ」を原作としています。
こちらはずいぶん前に読んだことがありましたが、ほとんど内容を忘れていました。

ストーリーとしてはとてもオーソドックスで、素直に心に染みる作りでした。
主人公の少年たちがさまざまな困難を乗り越えて夢を目指す姿は、やはり心に響きます。
「ダンドリ。」などもそうですが、こういうのに弱いんです・・・。
ただ全体的にとても抑えた演出で淡々と進む感じがあるので、感動ものとしてはやや盛り上がりに欠けたような印象もあります。
でも最後はホロッとさせられました。

「内なる声を信じなさい」という恩師の言葉が良かった。
だんだん大人になってくると周囲も見えてきたり、自分への期待も感じたりして、だんだん息苦しくなってくることってありますよね。
そのとき、自分の気持ちをきちんと見つめることは大事なことだと思います。
まわりへの感謝も忘れずに・・・。

主人公の四人の少年はほとんど他で見たことがない子たちですが、かえって自然な感じがでててよかったかもしれません。
特に主人公(ジェイク・ギレンホール)はそんなに美形でもないし、やや小太りだし、普通っぽい感じでしたね。
頑固な父親役の俳優さん(クリス・クーパー)が適役です。
むすっとしていて、ほんとに頑固っぽくて。
最後に息子のロケット打ち上げを見に来る場面は、息子と父親の気持ちが通じ合いよいシーンです。
青空を煙を引いて伸びやかに飛んでいくロケットが美しく、さわやかな後味のあるドラマでした。

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本 「マリー・アントワネットの遺言」

結構フランスを舞台にしている歴史小説が好きです。
佐藤賢一氏の作品が好きだというところもありますが、本作の作者藤本ひとみ氏の小説もよく読むので、この時代が好きなのかもしれない。

両氏は同じようにフランス革命前後のフランスをよく選ぶが、目線はやはり男と女の視点の違いが出てくると思う。
佐藤氏の描く登場人物からは男の生き様、不器用さ、また凶暴さと言ったものを感じる。
藤本氏の作品では、内面に渦巻く欲望に翻弄される男女を描いていることが多いと思う。
また藤本氏の作品では、女性から見た官能を感じることができる表現がある。
やはりこのあたりの湿った感じというのは、同じように佐藤氏の作品の中にあるエロティックな場面では男の凶暴性の現れみたいな表現になるのに比べて、女性の視点なのだろうか。

フランス革命というのは歴史が大きく動いたこともあり、マリー・アントワネットなど超有名な歴史上の人物が登場する。
こういう登場人物をそれぞれの作者がどう扱っているかを読み比べるのもおもしろい。
両氏の作品でも同じ時代・人物を扱った小説がある。
例えば、
 藤本ひとみ 「ジャンヌ・ダルク暗殺」
 佐藤賢一 「傭兵ピエール」
などです。
合わせてリュック・ベンソンの映画「ジャンヌ・ダルク」なども見てみるといいかもしれない。

「マリー・アントワネットの遺言」藤本ひとみ著 朝日新聞社 文庫 ISBN4-02-264299-8

ソフィア・コッポラ監督「マリー・アントワネット」の記事はこちら→

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