「侍戦隊シンケンジャー」 奇でありながら王道

スーパー戦隊シリーズというと、正直言ってシリーズごとの当たり外れが大きいところがあります。
本日最終回を迎えた本作「侍戦隊シンケンジャー」は最近の中でも大当たりと言ってもいいぐらいに完成度が高かったように思えます。
スーパー戦隊というのは男の子が小さい時は必ずと言っていいほど通る道なので、このシリーズはある種の型というものがあります。
例えば、5色(時に3色の場合もある)のカラフルなコスチュームに身を包む戦士たち、というフォーマット。
このわかりやすいフォーマットを守りつつも、毎年新しさを出していくというのが制作者の腕の見せ所です。
現在「仮面ライダーW」のプロデューサーである塚田英明さんが担当されていた時は、かなり意欲的に刑事もの、ファンタジーものと言ったように新しいモチーフを取り込んでいました。
最近はやや王道のわかりやすいモチーフの方(日笠プロデューサーのときは比較的この傾向が強い)が多かったですが、本作では和風モチーフを取り入れています。
今までも和風モチーフの戦隊シリーズとしては「忍者戦隊カクレンジャー」、「忍風戦隊ハリケンジャー」とありましたが、いずれもモチーフは忍者。
本作は今までなかったのは意外ではありますが、タイトルにあるように侍がモチーフとなっています。
意外ではありましたが、実は戦隊ものと時代劇というのは思いのほか相性がいい。
というのも「水戸黄門」などのいわゆるテレビ時代劇というものも、かなりフォーマット化されている番組なわけだからです。
よく考えれば、スーパー戦隊シリーズにある「名乗りシーン」というのは、まさに時代劇そのものなのですよね。
本作でも「名乗りシーン」はカッコいいですが、第1話で冒頭でシンケンレッドが登場する際の口上(「水戸黄門」の伊吹吾郎さん!)があるのですがこれがかなり決まっていました。
この口上とアバンタイトルでの迫力のある大立ち回りで、本作はいい作品になるだろうと思いました。
フォーマット化された時代劇を戦隊シリーズに持ち込んだからといって、型にはまったつまらない作品になるとは思いませんでした。
侍モチーフを持ち込むことは、戦隊シリーズとしては冒険的なことを行っているからです。
それは殿(シンケンレッド)と家来という上下関係を持ち込んだからです。
時代劇的にはある意味当然なのですが、小さい子供向けで身分差みたいなものを描くのはなかなか難しそうでした。
けれども結果的には非常にうまくいったと思います。
シンケンジャーのメンバーは1年間に及ぶ戦いの中で、身分の上下という決められた関係以上に、信頼感という強い絆で結ばれていったからです。
それを描くにはそれぞれのキャラクターの関係性をしっかりと描かなくてはいけないのですが、これはやはり小林靖子さんの脚本の見事さに負うことが大きいでしょう。
「仮面ライダー龍騎」「仮面ライダー電王」とキャラの強い登場人物が絡み合う物語を得意とする小林さんですから、本作においてもしっかりとキャラクターを描いています。
小林さんはキャラ同士を絡ませるのが得意のように見え、1年間という長丁場であるため例年少々中だるみしそうになる中盤では、キャラクターを二人ずつ絡ませるエピソードを送り出し、これがまたそれぞれおもしろく仕上がっていました。
そして後半、シンケンレッドこと志葉丈瑠が、実は志葉家の当主ではなく影武者であった(時代劇好きにはたまらない設定!)ということが明らかになるにあたり、シリーズ最初の頃になぜ丈瑠が仲間を持つことをいやがったかということがわかるという仕掛けになっており、このあたりの構成の妙には唸らされました。
影であることが明らかになり、仲間と別れて戦う丈瑠ですが、その元に仲間たちが集まります。
殿だから命を預けたのではなく、丈瑠だから命を預けたのだと。
戦隊シリーズというのはそのフォーマットゆえに「仲間」をテーマに描く物語ですが、本作は戦隊シリーズとしては異例の設定ながらもその基本テーマをしっかりと表現できたと思います。
演じる俳優陣も初めての演技という方もいたようですが、それぞれのキャラクターをうまく演じていたと思います。
特にシンケンレッドの松坂桃李さんはデビュー作であるということですが、殿という役柄に違和感を感じない堂々とした演技であったと思います。
ちなみに僕はシンケンピンクこと白石茉子を演じる高梨臨さんがお気に入りでした。
小林脚本ということで悪役キャラも魅力的であったと思います。
着ぐるみではあるのですけれど、それぞれに背景があり、活き活きと感じられるのは、やはり「仮面ライダー電王」でイマジンを人気者にした小林さんならではでしょう。
本作は年間を通して全くパフォーマンスが落ちないシリーズに仕上がっていたと思います。

来週からは「天装戦隊ゴセイジャー」。
予告を観る限りけっこうベタベタな戦隊ものになるような感じもあり(日笠さんだし)やや不安。

「侍戦隊シンケンジャー 銀幕版 天下分け目の戦」の記事はこちら→

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「ゴールデンスランバー」 イメージに踊らされるな

伊坂幸太郎さん原作の映画化は三度目となる中村義洋監督作品。
「アヒルと鴨のコインロッカー」、「フィッシュストーリー」も良かったですが、本作でも伊坂作品との相性の良さを見せてくれます。
僕は中村監督の「チームバチスタの栄光」も「ジェネラルルージュの凱旋」も好きなので、今回も期待してしまいます。
本作で主演を務めるのは堺雅人さん。
「ジェネラルルージュの凱旋」でも中村監督と組んでいますし、息の合ったところを見せてくれそうです。
作中に大小いくつもの伏線(花火とか、二重丸とか)を張り、それをひとつずつ最後までしっかりと回収していく中村監督の手際はもはや職人芸と言ってもいいでしょう。
なるほどこれがここにかかってくるのか、と唸らされることしばしばです。

人というのは、よほど知っている人ではない限り、与えられた情報に基づいた先入観で人と対します。
それが全く関係のないテレビや新聞などで知る人のことだったらなおさら。
僕たちは無頓着に与えられた情報は真実だと疑いもなく受け入れ、そうだったんだと納得してしまいます。
作品の中でも言われているように、イメージ、なのですよね。
イメージっていう言葉もよく考えていると不思議な言葉です。
その言葉が意味していること自体がぼんやりと曖昧。
日本語にすると「印象」なのかもしれませんが、「印象」ほど「自分が感じる」といったような積極的な関与はないような感じがします。
あくまでも「受け」というか。
僕たちはそういう曖昧な「イメージ」でいかに物事を判断し、知ったような気持ちになっているということに本作を観ると気づきます。

主人公青柳(堺雅人さん)は総理大臣暗殺犯の濡れ衣を着せられ当局に追われます。
そもそもそれを仕掛けたのは当局らしい。
青柳を犯人にしようと幾重にも仕掛けられた罠。
次々と報道される作られた「証拠」。
そして青柳は逃亡中、人を信じても裏切られ、そして当局が作った「イメージ」により徐々に追い込まれていきます。
けれども、そのような中で彼の無実を信じている人々がいました。
それは彼の両親であり、友人であり、同僚でありました。
青柳と直接に付き合い、彼の人柄を「知っている」人々です。
彼らは無実の証拠を持っているわけではありません。
けれども彼の人柄を「知っている」からこそ、彼の無実を信じられるのです。
父親は報道陣に囲まれたとき、「お前たちは息子の何を知っているのか」と言い放ちます。
真実を報道する立場であるマスコミも、「イメージ」に踊らされているのです。
真実と人に言われることほど、怪しいものはないということです。
よく重大事件が起こったとき、インタビューで「そんな人に見えなかった」と答えるシーンがよくあります。
インタビューに答えた人とどれだけ実際に親しかったのか、わかるものではありません。
また冤罪事件でもいかにも犯人と報道されれば、普通の人は信じてしまいます。
冤罪だと言う人々も、犯人とされる人を見知った人なのです。
やはりその人と接して、付き合い、感じることがないと、その人をわかったことにはならないのですよね。
報道に限らず、人づての評判で人のことを色眼鏡で見てしまうことは多々あります。
なかなかそうならないようにすることはできないのですが、(自分も含めて)人は「イメージ」に踊らされてしまうということを肝に銘じておいた方がよいのでしょうね。

オープニングとラストのエレベーターのシーンはなるほどという構成でした。
このあたりの構成が中村監督の職人芸だと思います。

伊坂幸太郎原作、中村義洋監督作品「アヒルと鴨のコインロッカー」の記事はこちら→
伊坂幸太郎原作、中村義洋監督作品「フィッシュストーリー」の記事はこちら→

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本 「100年予測 -世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-」

地政学という学問分野があります。
これは地理的な位置関係の国家間の政治、関係に影響を研究する学問です。
「坂の上の雲」の秋山真之が影響を受けたアメリカのマハンの海洋国家論なども地政学的な考え方と言えるでしょう。
例えば日本という国を地政学という視点で見た場合はどうなりますでしょうか。
日本とは四方を海で囲まれ、またその領土内に現代の産業に不可欠なエネルギー資源(石油や天然ガス等)や原料資源を持たない国家です。
ですから必然的にそれらの物資は国外から輸入せざるを得ないわけです。
そうなると日本にとって一番良い状態というのは自由に安全に外国と貿易ができる状態というわけです。
現在日本が平和憲法を掲げ、戦争放棄している意味、また日米安保ということにこだわるのはそこにあると思います。
けれども何かしらの原因により貿易が出来ない状態になった場合、日本は呼吸ができない状態になると言ってもいいでしょう。
それが起こったのが太平洋戦争であるわけです。
日本が満州などに進出しようとした理由の一つは資源の確保でありました。
その行為に対し列強が経済封鎖をかけてきた時、日本は呼吸できない状態となり海上の支配権を持つために太平洋戦争へと突入したのです。
とはいえ、物量的に太平洋を支配することのできない日本に対し、それができるアメリカが勝利することは必然であり、だからこそ現在において対米関係というものを政権が重要視することになるわけです。

長々と書きましたが、本著はそのような地政学的なものの見方により、今後100年の世界の趨勢を予想するというものです。
現在の中国は日の出の勢いであり、今後アメリカと中国が超大国として君臨すると予想する方は多いですが、本著では中国はそこまでの勢いはもてないと予想します。
これもなるほどと思わせるところがあります。
また21世紀中旬に日本とトルコの連合が、アメリカと戦争を行うというショッキングなことも書いていますが、それに至る論旨の組み立てはそれなりに説得力があります。
その予想が現実的であるかどうかは別にしても、ここで出てくる20世紀の制海権にというものを拡張した考え方である言わば制宙権のような考え方が出てきます。
これはおもしろい。
マハンのシーパワー論にもあるように海洋を支配できるパワー(軍事力)を持つ国が世界の覇権を握るとされます。
かつてはスペインであり、その後イギリスのであり、現在においては制海権はアメリカが持っています。
本著では21世紀においても依然として制海権はアメリカが握り続けると見ているので、アメリカの覇権時代は続くと言っています。
ただそこでさきほどの制宙権といえる考え方がでてきます。
これはすなわち宇宙空間での活動の覇権をどの国が握るかということも重要だと書いています。
確かに戦争やさまざまな国際活動は情報こそが命であり、現代のインテリジェンスにおいて、偵察衛星やGPSなど宇宙を介して得られる情報が多いわけです。
例えば僕たちが日常的に使っているGPSはアメリカの衛星による情報を利用しています。
もしアメリカと日本との関係が深刻なものとなったとき、アメリカはそれらの情報を利用させるでしょうか。
そうなった場合、日本は自前でそういう設備を持たなくてはいけないわけです。
そういうことを想像すると、宇宙での覇権が今後の地政学的なものの見方で重要だというのは正しいかもしれません。

実際に本著の予想通りに世界情勢が動くかどうかはわかりませんが、知的刺激として日々の世界各国の動きをニュースで見る時に地政学的なものの見方で眺めてみてもいいかもしれません。

「100年予測 -世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図-」ジョージ・フリードマン著 早川書房 ハードカバー ISBN978-4-15-209074-4

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「インビクタス/負けざる者たち」 俺たちのチーム

タイトルにある「invictus」とは聞き慣れない英語だと思ったら、「不屈」を意味するラテン語なのですね。
本作で描かれる南アフリカ大統領マンデラも、ラグビー代表主将ピナールも、まさに「不撓不屈」といった人間として描かれていました。
アパルトヘイトというのは人種隔離政策のこと。
僕が学生の頃はまだ南アフリカはアパルトヘイトを実施していて、教科書にも載っていました。
そのアパルトヘイト政策が撤廃されたのが1991年ということですから、これは僕が社会人になった年。
つい最近です。
当時、アパルトヘイト政策が撤廃というニュースを聞いたとき、正直その後しばらく南アフリカは混乱するのではないかと思いました。
やはり人種差別の意識というのは、白人・黒人双方にとって長年お互いに積み重ねられたものがなかなか払拭されないと思ったからです。
黒人は白人に対する今までの恨みつらみがあったでしょう。
白人は黒人による仕返しに戦々恐々としていたでしょう。
そういう思いは互いに疑心暗鬼を起こすことにより、治安悪化、政情不安の懸念があったと思います。
けれどもまだまだ問題はあるにせよ、想像以上にスムーズに南アフリカの国民は克服していったように思います。

本作でも黒人、白人が互いに牽制しあうような場面がいくつかあります。
ひとつは大統領警護官たち。
黒人の警護官にとってマンデラは「自分たち」の大統領であり、黒人の手で守りたいと思います。
けれどもマンデラは前大統領の警護を担当していた白人警護官も留任させます。
彼らはプロとして仕事を果たそうという意識はあったとは思いますが、内心は複雑であったと思います。
かつては格下と考えていた黒人が自分たちの上司になるわけですから。
けれども彼ら警護官は黒人・白人に関わらず、マンデラ大統領の人格に魅せられ次第に団結していきます。
マンデラはかつて自分を何十年も閉じ込めていた白人たちを赦し、人種を越えて南アフリカという国を一つにしようとしていたからです。
劇中でマンデラはピナールにリーダーのやるべきことは何かと問います。
ピナールは自分が範を垂れることと答えます。
まさにマンデラは、人種を越えて国民がまとまるべきということを自らの行動で国民に示します。
南アフリカ国民の象徴はマンデラ自身であり、そして南アフリカラグビー代表チームであったのです。
人種を越えてまとまろうということはスローガンとしてはいくらでも言うことはできます。
けれどもそれを国民の意識にしっかりと根付かせるにはわかりやすい象徴が必要なのです。
それがラグビー代表チームだったのです。

実は僕たち日本人もこれによく似た事例を身近に知っています。
2001年の日韓共同開催のサッカーワールドカップです。
このスポーツイベントを期に、日韓それぞれの国民は互いに対する意識を劇的に変えたと僕は思っています。
それまでは歴史的な背景もあり、日韓双方の国民意識はお世辞にも仲がいいというものではありませんでした。
韓国国民はやはり戦中の日本人の仕打ちに対する恨みがあります。
また日本人はそういうことへの弱みと、いつまでも恨み続けられることへの苛立ちといったものも持っていたと思います。
2001年のワールドカップも開催が決まったとき、うまくいくのかと思いました。
けれども結果的には大成功に終わったわけです。
その実施過程の中で互いの国民が交流していくなかで、お互いの文化に対する理解が進んだと思います。
ご存知の通り、日本では韓流ブームが起こりましたし、韓国でもジャパニーズ・ポップは人気です。

マンデラ大統領の意を汲み、そして彼自身の人格にも触れ、ピナールはチームを奮起させます。
そして奇跡のラグビーワールドカップ優勝までこぎ着けるのです。
互いに反目し合っていた白人と黒人の警護官が自国のチームが勝ったときにかわす台詞があります。
 白人警護官:「勝ったぞ」
 黒人警護官:「俺たちのチームが?」
そう、代表チームは白人にとっても、黒人にとっても「俺たち」のチームになっていたのです。
彼らだけでなく、スタジアム全体、そして国民全体が、彼らを「俺たちの」チームと思ったのでしょう。
国民全体がひとつの国としてまとまっていく高揚感、に我知らず涙してしまいました。

監督は高品質な作品を次から次へと発表し続けるクリント・イーストウッド。
最近の作品はかなり重めの題材の作品が多かったですが、本作は直球勝負の感動ものです。
「チェンジリング」「グラン・トリノ」は人の暗部についても掘り下げるところがありヘビーな印象がありますが、本作は人間の善なる部分に焦点を描いているので、その点では楽な気持ちで観れると思います。
ただ直近の二作と本作で共通しているのは、人の意志の強さは何かを動かすことができるということだと思います。
「チェンジリング」の母親クリスティン、「グラン・トリノ」のウォルト、そして本作のマンデラ。
これらの人物は強固で揺るぎない意志を持ち、行動した人々でした。
強い意志を持ち続けられれば、いつか物事を動かすことはできる。
まさに不撓不屈の精神です。
これがイーストウッド作品のテーマなのだなと改めて感じました。

クリント・イーストウッド作品「チェンジリング」の記事はこちら→
クリント・イーストウッド作品「グラン・トリノ」の記事はこちら→

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「ターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズ シーズン1」 「T2」の呪縛

「ターミネーター2」のその後を描いたテレビシリーズです。
ジョン・コナーはハイスクールの学生となっており、そこへ未来のジョンが彼を守るために再びターミネーターを送り込んできます。
基本的にプロットは「ターミネーター2」と酷似しているため、それほど新鮮味がありません。
「ターミネーター2」でサイバーダイン社の開発者ダイソンが死んだために「審判の日」は一度は回避されたものの、また未来ではスカイネットが開発されることになることがわかります。
それをサラとジョンは再び阻止しようとするのが、物語の骨子でう。
新味がある点と言えば、ジョンを守るために送り込まれてくるのが美少女ターミネーターであるということ。
女性型ターミネーターというのも「ターミネーター3」で一度トライアルはしているので、新味というところまでいきませんけれども。

シーズン1はアメリカのテレビシリーズとしては短めの全9話。
その割に全体的に物語をドライブしていくパワーが希薄であるような気がしました。
VFXが発達してきているため、以前は映画でしかできなかったようなことがテレビシリーズでできるというのはあるのでしょうが、それにしてもストーリーが「ターミネーター2」と似すぎているというのが問題でしょう。
そしてテレビシリーズであるがゆえに、だらだらと引き延ばされているような感じを受けます。
またT2とT4の間を描いているという点も、物語のドライブ力を保てないことに繋がっていると思います。
視聴者はもう「審判の日」が起こってしまうことを知っています。
本シリーズでタイムパラドックスの話をしてしまうと、到底整合性はとれなくなってしまうので、その点には触れません。
けれどドラマとしては、「審判の日」を阻止できるかどうかが最大のポイントになりますし、それが起こること(視聴者から見れば)は決まっているのだとしたら、そこで描かれるコナー親子の戦いもやや空しく見えたりもするのです。
けっこう作品と作品の間を狙うという難しいことにチャンレンジしているので、整合性を保つためにかなり小さくまとまっているような気がします。
そのため冒険できずヒットした「T2」の焼き直しとなってしまっているように思いました。
あまり「T2」の呪縛にとらわれずに自由に作った方が良かったのではないのでしょうか。

アメリカではシーズン1は好調だったものの、「シーズン2」は大コケらしく打ち切りが決定したようです。
二匹目の泥鰌はいなかったということでしょうか。

映画「ターミネーター」の記事はこちら→
映画「ターミネーター4」の記事はこちら→

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「ラブリーボーン」 死により生を描く

これは、私が天国に行ってからのお話。

日常の生活で生きていることを素晴らしい、と感じながら過ごしている人というのはそう多くはないのでしょうか。
かくいう自分もいつものとおりの日常を、忙しいとは言いながらも淡々と過ごし、その毎日は明日も明後日も、明々後日も、その先もずっと続くとなんとなく思っています。
けれどその日常は無限に続くものでは絶対にありません。
人には死というものがあるから。
死は日常の断絶であり、その断絶は本人だけでなく、その周囲の人々の人生にも一つの断層を作ります。
近しい人の突然の死によって、日常が永遠に続くものではないという真実を人は突きつけられます。

冒頭の映画のキャッチコピーにあるように、本作はスーザン・サーモンという少女の死によって始まります。
けれども本作は、よくあるサスペンススリラーにあるように死へ至る道を描くのではなく、彼女の死によって逆説的に「人の生」というものを描いています。
スーザンの人生は14年というほんの一瞬のような短い間です。
けれども短いからといって、その生が意味がなかったということではないのです。
彼女がこの世に生まれ、そして去っていったこと、それは家族や周りの人々にしっかりと刻み込み、影響を与えます。
それに人の生の意味があるように感じました。
彼女の死は、家族や友人の人生、生き方に少なからず影響を与えます。
特に家族は喪失感に苛まれます。
父親はスーザンを殺した犯人探しに妄念と言っていいほどの想いで没頭していきます。
母親は娘の死を受け入れられず、逃げるように家を出て行ってしまいます。
妹は父親や母親の動揺をみたからか、姉の人生の分まで生きようかとするがごとく勉強やスポーツに打ち込み、急速に大人になっていきます。

スーザンの死によって、家族は呪縛されます。
そしてスーザン自身も自分の死を受け入れられず、生と死の間をさまよい続けます。
ずっと憧れていた男の子にデートにさそわれたときの嬉しい気持ち。
まさに人生がキラキラと輝いているその時に人生を強引に断たれた無念はいかばかりでしょう。
この物語において、人は天国へいくには自分の死を受け入れなくてはいけないようです。
そのためには自分の死というものを追体験しなくてはいけないのです。
スーザンにとって、それはまさに死ぬほどの恐怖であり、またキラキラと光る自分の人生を失ったことを認めたくないという気持ちもあったのでしょう。
けれどスーザンは彼女の死によって、大好きな家族がずっと呪縛され続けている姿を見ているうちに、自分の死を家族にも受け入れてほしい、そして自分も受け入れなくてはいけないと考えます。
死ぬほどの恐怖にもう一度、向かい合わなくてはいけない。
けれどその恐怖を越えさせるのは、やはり愛なのです。
愛という言葉は陳腐すぎて、個人的にはあまり軽々しく使いたくないのですが、これを説明するには愛という言葉が最も適切だと思います。
家族がスーザンの死に縛られているのも、彼女に対する愛ゆえ。
だからこそそれを解き放つのもスーザンの家族に対する愛なのです。

本作は少女連続殺人事件を題材として扱いながらも、ミステリーでも、スリラーでもありません。
犯人は最初からわかっています。
確かに並のスリラーよりもサスペンスとしての出来もいいですが、それが本質ではないと思います。
やはりこれは人の生について語った物語であると思うのです。

幻想的でメタファーに満ちたスーザンの天国は、さすがピーター・ジャクソンならではで豊かなイメージに溢れた世界でした。
彼女がいた生と死の間の世界にあるメタファー(ゴムまりやむぎわら帽子など)はラストで犯人に殺害された女性たちが登場するときに、彼女たちを象徴するものであるということがわかります。
スーザンと同様に彼女たちも、自分の死を納得する旅を終えてきたのでしょうか。
そんな彼女たちが笑顔で天国に向かうのにちょっとは心が安らぎます。
また映画の中でモチーフとしてよく登場したのが扉です。
金庫の扉、犯人の家の扉。
地下室の扉、スーザンが自分の死に向かい合う時に開ける扉。
開かない扉、開く扉。
自分が死を迎える時もそういう扉を開けることがあるのでしょうか。

スーザンを演じたシアーシャ・ローナンは初めて観ましたが、彼女しかいないと思えるキャスティングであったと思います。
少女と大人の間の微妙な歳であり、最も輝いているその一瞬をフィルムによくぞ抑えたと思います。
彼女が無邪気に笑う姿は誰が見ても輝いて見え、それを理不尽に断った暴力に憤りを感じます。
けれど殺人でなくとも、理不尽な出来事により、人が突然に死を迎えるということはあります。
愛する人の死は衝撃ではあると思いますが、それを受け入れ、そして自分の中に取り入れることこそ、その人が生きている証となるのでしょう。
これもまた陳腐な言い方なのですが、「自分の心の中に生きている」ということなのでしょうね。
そういう使い古された言葉について、正面から誠意を持って作り上げた作品であると思いました。

ピーター・ジャクソン監督「ロード・オブ・ザ・リング」の記事はこちら→

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本 「ハゲタカⅡ」

真山仁さんの「ハゲタカ」の続編になります。
やはりこのシリーズは鷲津と芝野という二人のキャラクターの魅力に尽きると言っていいでしょう。
鷲津は「ハゲタカ」と呼ばれる外資ファンドのトップであり、「ハゲタカ」として世間には振る舞おうとします。
彼自身の内面にある熱い思いであったり、葛藤であったり、そういうものは彼の行動だけをみている世間には伝わりません。
鷲津は時に大胆に、そして多少の非情な手段を持ちいって行動します。
けれども彼の周りにいるアランやリン、サムなど周囲の者には、鷲津の大胆な行動の裏にある、とても壊れやすく繊細な心を感じ取っているのが、小説を読んで伝わってきます。
芝野は鷲津の反則手とも言えるような行動に対して、とても正攻法に企業再生を行っていきます。
彼は非情に理知的であるため、断固としたリストラなども厭いません。
会社は個人のものではなく、ステークホルダーのものという信念に基づき、行動します。
彼の行動も下から見ればクールに見えるかもしれませんが、やはり熱い心情を彼の中に感じることができます。
そして彼も完璧な人間ではなく、自分のためにアルコール依存症になってしまった妻を抱え、途方に暮れることもあるのです。
鷲津と芝野は、強い信念をもち、それに基づき行動できる意志を持っている強い男ですが、完璧な人間ではなく、弱いところも持っています。
このあたりが彼らに感情移入をさせやすくしているのでしょう。
一作目の「ハゲタカ」では鷲津と芝野は互いに鍔迫り合いをするライバルのような関係ですが、本作では正真正銘のハゲタカであるアメリカのファンド、プラザに対し、手を組みます。
それまでのライバルが大きな敵に対し共同戦線を張るというのは、よくある話ではあるのですが、やはり読んでいても熱くなります。
鷲津と芝野というライバル同士の二人は切磋琢磨しながらも、互いにリスペクトしている。
この関係性がオーソドックスでありながら、思い入れを深くして読んでしまいます。
結局、本作の冒頭でアランを殺した犯人は謎のままに。
それは東洋系の女性らしい。
ここから次回作「レッドゾーン」に繋がっていくのでしょうか。
こちらも読んでみたいと思います。

前作「ハゲタカ」の記事はこちら→

「ハゲタカⅡ<上>」真山仁著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275687-7
「ハゲタカⅡ<下>」真山仁著 講談社 文庫 ISBN978-4-06-275689-1

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ご訪問者の皆様へ

すみません、ココログがメンテをしたところ、TB・コメントのフィルタリングがかなりきつくなったようでして、一部の方のTB・コメントがスパム扱いになっているようです。
一通り見て気がつき次第に復活させますので、申し訳ございませんがよろしくお願いします。

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本 「続巷説百物語」

タイトルに「続」とあるように京極夏彦さんの「巷説百物語」の続編となります。
京極さんと言えば「京極堂」シリーズですが、こちらの「巷説百物語」シリーズは江戸時代末期を舞台とした時代小説となっています。
数編の短編が語られ、それが実は一つに繋がっているという構造ですが、こちらは京極さんの盟友である宮部みゆきさんの時代小説でも多くみられるところです。
時代小説と言っても京極さんの作品ですから、登場してくるのはやはり妖怪。
ですが、本シリーズで語られる妖怪も「京極堂」シリーズと同様に実際に存在するというものではなく、人間の心の隙間や仕組みの中に潜むとらえどころのないものとして扱われています。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」
とは京極堂が小説の中でよく口にする言葉ですが、本作も同じ考え方に立脚しています。
「京極堂」シリーズにおける京極堂の役割を果たすのが、本作では「小股潜りの又市」になります。
本作の語りは山岡百介ですが、こちらが「京極堂」シリーズの関口にあたりましょうか。
京極さんの作品らしく、本作もかなり分厚く読み始めるまでは躊躇しますが、読み始めてしまえばあれよあれよと読み進んでしまうのは、やはりさすがです。
決してライトノベルのように読みやすいわけではないのですが、それでも読ませてしまう物語の力が京極さんの作品にはあるように思えます。
本作もそれぞれの短編も読み応えがあり、それぞれの作品の又市の仕掛けに喝采をあげますが、全体としても大きなドラマチックな流れがあり、その点も読み進めさせる力かもしれません。
このあたりは宮部みゆきさんの作品もそうですね。
「巷説百物語」を読んでからずいぶんたって本作を読みましたが、本シリーズはあと「後巷説百物語」「先巷説百物語」とリリースされていますので、こちらも読んでみたいと思います。

「続巷説百物語」京極夏彦著 角川書店 文庫 ISBN978-4-04-362003-6

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「パーフェクト・ゲッタウェイ」 ネタバレしないと語れない

<ネタバレしています!というよりネタバレしないと語れません>

地上の楽園と言われるハワイ。
日本からもハネムーンで行く方々も多いかと思いますが、アメリカでもそのようですね。
主人公クリフとシドニーはオアフ島で結婚式をあげ、カウアイ島へ新婚旅行へ向かいます。
ハワイの大自然の中をトレッキングをしながら数日過ごそうという趣向。
けれどもオアフ島では新婚カップルを殺した男女が逃走するという事件が発生しており、彼らはどうもカウアイ島へやってきたらしい。
トレッキング途中に出会う、ニックとジーナ、ケイルとクレオという他の二組のカップル。
これら3組のカップルの中に、殺人犯が紛れ込んでいるのか・・・。
ハワイのジャングルと言えば海外ドラマ「LOST」を思い浮かべますが、想像していたよりかなり出来のいいサスペンス・スリラーとなっていました。
ぶっちゃけミステリーやスリラーというのは、「最も犯人らしくない人間が犯人」だったりするので、誰が犯人かということは、この手の作品を見慣れている人は見当をつけることはできるでしょう。
とわかっていても後半に入り、視点がぐるんと180度変わるという手際はかなり見事なものになっていました。
作り手も「最も犯人らしくない人間が犯人」であると観客が思うであろうことも予測済みであるように感じます。
この観客の外側目線をわかりつつ、作品内世界の目線に持っていく手際が上手だと思いました。
クリフがニックをカヌーで沖に出ようと誘います。
観ている側は、悪い予感でざわざわとした気持ちになります。
このあたりから視点がじょじょにクリフ&シドニーからニック&ジーナにスライドし始めます。
そしてジーナが、クリフたちの結婚式のビデオを何気なく観たとき、一気にぐるんと視点が変化します。
悪い予感が当たってしまった時のような感覚。
ここで観客はニック&ジーナに感情移入をしてしまうのです。
ここからは一気に次から次へと彼らを危機が襲います。
観客としてはニック&ジーナと同一目線になっているので、いっしょにハラハラドキドキしてしまいます。
当初の「最も犯人らしくない人間が犯人が犯人じゃないの〜」と外側目線で観ていた観客も、このあたりからサスペンスを「自分ごと」のように感じるようになります。
このあたりの感情移入のさせ方が見事だなと思いました。

ミラ・ジョヴォビッチ以外は、出演者もスタッフもほぼ知らない人ばかりだったのですけれど、思いかけずにいい作品にあたりました。
一点だけ難をあげればフラッシュバックのところですかね。
ちょっとモタっとした感じがありました。
ここだけもうちょいさっくりといけたら完璧でした。
とはいえ、いい仕上がりのサスペンス・スリラーだと思います。

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«「Dr.パルナサスの鏡」 テリー・ギリアムの物語の作り方