2025年12月31日 (水)

2025年を振り返って<映画>

今年も恒例として、その年に見た作品のランキングです。
ランキングとは言いつつ、厳密に点数をつけているわけでもないので、なんとなくこんな感じというように見てもらえるとありがたい。
今年劇場で見た映画の本数は68本(複数回見たものは1回でカウント、リバイバルはカウントしない)で、昨年よりも8本減った。
海外出張など行っていたからかもしれない。
さて今年のランキングは以下のとおり。
あまり突飛なものは入っておらず、世間の評判とそれほど違わないかと思う。
1.「劇場版 『鬼滅の刃』 無限城編 第一章 猗窩座再来」
2.「国宝」
3.「F1/エフワン」
4.「『爆弾』」
5.「サンダーボルツ*」
6.「Flow」
7.「知らないカノジョ」
8.「野生の島のロズ」
9.「ワン・バトル・アフター・アナザー」
10.「8番出口」
1.「劇場版 『鬼滅の刃』 無限城編 第一章 猗窩座再来」
これを1位にするとあまりにもベタかと思いもしたが、劇場に4回も通ってしまったのだから、仕方がない。
手書きとCGを融合させた密度感のあるアニメーションは、他の作品と比べてもレベルが数段違う。
物語も濃厚で、3時間がまさに「息も付かせぬ」展開となっている。
出し惜しみせず全てを出し切っているスタッフに脱帽だ。
2.「国宝」
今年最も話題になった邦画であろう。
普段あまり映画を見なさそうな人から、この映画はどうかという問い合わせをされたことからも、世間の関心が高かったことがわかる。
話題になる前に見に行って、二人の物語に引き込まれ、すごいものを見たという印象を持った。
吉沢亮と横浜流星に演技は見事というしかない。
3.「F1/エフワン」
リアルなレースシーンが非常に見応えがあった。
物語はそれほど驚くようなものではないが、圧倒的な迫力が映像にある。
これは劇場で、それもなるべく大きいスクリーンで見てほしい。
4.「『爆弾』」
今年後半の話題作。
全く展開が読めず、見ている側も犯人に翻弄される。
佐藤二朗の怪演を是非見てほしい。
救いがなく、現代の不条理を描き、日本の「セブン」とも言えるかもしれない。
5.「サンダーボルツ*」
私はマーベルファンで、今年は3本も映画が公開されて嬉しい年であった。
が、その出来はまちまちであった。
「ファンタスティック4」は個人的には不満であったが、その前に公開されていた「サンダーボルツ*」は大いに楽しめた。
キャラクターがクセがあり、そのためかえって共感ができる。
「ファンタスティック4」はキャラクターが完璧すぎるのかもしれない。
6.「Flow」
これは映像にやられた。
セリフが全くなく、物語は映像から受け取るしかない。
CGで描かれているが、動物たちの生命力を感じる。
そして多弁ではない物語の中から、読み取る楽しみもある。
7.「知らないカノジョ」
これは泣けて泣けて仕方がなかった。
あまり恋愛ものをランキングに入れる方ではないのだが、主人公たちの切なさに心が動かされた。
miletが想像以上に演技が上手く、驚いた。
8.「野生の島のロズ」
最近のCGアニメの傾向であるが、CG感をなくした手書き風のタッチが物語にマッチしている。
ロズとキラリの交流が切ない。
物語が考え抜かれて構成されているため、身を任せて楽しめる。
9.「ワン・バトル・アフター・アナザー」
PTAが作ったアクション映画だが、やはり一癖も二癖もある。
2時間半くらいある長尺だが、最初から最後まで不穏な緊張感が続く。
主演のディカプリオよりも、ショーン・ペンが演じるロックジョーの存在感が凄まじく、この映画の不穏さを背負っている。
アクションシーンもあまり見たことがない映像で、さすがPTA。
10.「8番出口」
これはランキングに入れるか迷った。
他にもいい作品はあったのだが、やはり今までにないチャレンジをしているで、ピックアップをした。
ワンシチュエーションで展開する作品であり、どのように盛り上げるか難しいところだが、主人公の変化を描いており飽きさせない。
選外になったものでもいい作品は数多くあった。
来年もいい作品に出会えることを願って・・・。

最後にずっとココログでブログを書いていましたが、今年限りでこちらは終了します。
並行してnoteでも書いていたので、そちらに拠点を移します。
アドレスはこちらです。

https://note.com/harayan2


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2025年12月29日 (月)

「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ 」訪れた混沌

「アバター」シリーズは第3作目で「混沌」を迎えたと言えるかもしれない。
物語としても、シリーズとしても。
前2作は構造としてわかりやすかった。
2つの対立軸があったからだ。
地球人(スカイ・ピープル)とナヴィ。
これは文明と自然という対立軸を表している。
これはまた破壊と調和とも言える。
前2作は文明が自然を侵食していくが、最後には自然によるしっぺ返しを食うという構造になっている。
物語はナヴィ側の視点で語られるため、観客は自然と彼ら側に立つので、最後の大逆転で大きなカタルシスを味わうことになる。
実は本作の話の展開は「ウェイ・オブ・ウォーター」と表面的には似ているのだが(そのため少々既視感がある)、前作ほどの高揚感はない。
なぜか。
それは今までのようなわかりやすい対立軸が揺らいできているからだと思う。
地球人とナヴィの対立軸を、キャラクターでわかりやすく体現しているのが、クオリッチ大佐と主人公ジェイクである。
それぞれ彼らは地球人とナヴィのものの考え方を代表して相容れない敵同士である。
前2作では彼らの対決が物語のクライマックスでもあった。
しかし、本作では驚くほどに彼らが近似していることが描かれる。
彼らは共に海兵隊の出身である。
そもそも規律を重んじ、人々をまとめ上げるリーダーシップを持つ気質も両者似ているのだ。
そしてまた本作では、自分の子であるスパイダーに対するクオリッチの愛情を描かれるシーンが多く見られる。
これにより彼の父親としての面が描かれ、彼が単なる冷酷な軍人ではないということわかる。
さらにはクオリッチはアッシュ族に出会い、彼らにシンパシーを感じ、行動を共にするようになるのだ。
それまでナヴィを野蛮人と毛嫌いしていた彼が、上官に反抗し、アッシュ族風の戦闘化粧をして戦いに挑む様は、明らかに前2作とは変わっている。
反対にジェイクはナヴィの将来のためにスパイダーを手にかけようともする。
これは親子の情を大切にする彼らしくない行動であるが、時折見せる指揮官としての側面が見せる冷酷な判断であったのだろう。
このようにクオリッチとジェイクが立つサイドが違うだけで、実は似ている存在であることが強調される。
また本作ではアッシュ族という部族が登場する。
彼らは火山によって壊滅されたエリアに住む部族で、そのため他部族を襲うことで生活を立てている。
彼らはナヴィたちが信仰する母なる女神・エイワを信じない。
調和を重んじるナヴィの中にあって異質な存在であり、事実スカイ・ピープルから銃を手に入れ、クオリッチらとナヴィを襲う。
地球人=悪、ナヴィ=善とわかりやすく整理されてきた「アバター」シリーズにおいて、その図式を揺るがせる存在である。
他にも対立軸を混沌とさせる変化は起こっている。
ナヴィ側で言えば、彼らは伝統・しきたりを重んじて生きてきていた。
またジェイクは軍隊のように彼らを指揮・統率してきていた(ロアクは父親であるジェイクに「イエス・サー」と答える)。
年長者・上位者が強い力を持つ文化であるが、ここにきて若者たちが台頭してきているのだ。
ロアクやトゥルクンのパヤカンなどは伝統に意見して、立ち上がる。
ナヴィ側も一枚岩ではなくなっているのだ。
地球人も同様である。
地球側は今までまさに軍事組織として描かれていた。
上官の命令は絶対であり、その象徴でもあったのがクオリッチ大佐だ。
しかし前述した通り、クオリッチは上官である将軍に逆らうこととなる。
他にも欲に突き動かされてトゥルクンを狩る者、逆に彼らを保護しようとジェイクを助ける者などがおり、人類側の思惑も一致していない。
このように本作ではわかりやすかった対立軸が揺らいでいるのだ。
そのため今までのような爽快感はなく、何か後味が悪いような混沌とした印象が残る。
これは意図したものなのであろうか。
個人的にはこれは意図したものであろうと考える。
混沌とした「惑星パンドラ」のこの状況は、まるで今の世界のようでもある。
様々な価値観があり、至る所に対立がある。
そこにはまだ解決の道筋も見えない。
カオス(混沌)である。
ギリシャ神話に登場するパンドラは箱を開け、数多くの災厄が放たれた。
これは不可逆的なものであり、災厄がなくなることはない。
しかし、箱には希望が残っていたとも言われる。
人類が惑星パンドラを訪れたことによって、沸き起こった災厄はなくなることはない。
災厄によってもたらされた混沌も続いている。
しかし、希望は残っているかもしれない。
その希望をこのシリーズは語っていくつもりなのではないだろうか。

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2025年12月26日 (金)

「楓」 滅私の恋

冒頭ニュージーランドで亜子が楓に似た葉を「こっちの楓」と言い、そして日本に帰国後、本物の楓を拾うシーンがある。
また彼女は複視であり、時折ものが二重に見えてしまうことに悩まされる。
これはいずれもメタファーであり、涼が双子の弟、恵を演じていることを暗示している。
恵はニュージーランドで事故死してしまった。
同行していた恵の恋人である亜子は悲嘆に暮れ、彼女の心の重荷を減らすために、涼は顔がよく似た恵を演じることにする。
涼も亜子に想いを持っていたのだ。
この物語はニュージーランドでの事故を起点に話が始まり、基本的に時系列で語られていく。
涼と亜子のその時の気持ちが彼らの口で語られるシーンはほぼなく、そのときにどのように感じているかは想像するしかない。
時折、過去のシーンがインサートされていくが、それにより彼らの本当の想いが明らかになっていくという、巧みな構成だ。
考えてみると、「恋」というものは極めて主体性が強いものだ。
「私」が、彼(彼女)を好きになる。
「恋する」ということ自体には相手が自分をどう思うか、ということは関係がない。
お互いに「恋する」ことによって初めて両思いになる。
すなわち「恋する」という行為は本質的にわがままなものであるのだ。
涼は亜子に恋をしている。
しかし、彼は自分の「恋」であるにも関わらず、自分を出さない。
恵を演じ続ける。
彼の恋は「滅私の恋」だ。
本来「恋」はわがままなものだ。
弟がいなくなった今、彼が自分の気持ちを亜子に伝えることもできただろう。
自分の気持ちに素直であろうとすれば、そうすることが自然だ。
だが、涼は自分を殺して演じ続ける。
自分の気持ちを叶えるよりも、亜子のことを一番に考え、彼女を支えていきたいと思う。
すでに亡くなってしまっている弟への遠慮もあるのかもしれない。
やはり亜子を愛していた弟の気持ちも知っている。
彼が亡き今、自分の気持ちだけを叶えることは卑怯であるように思えたのだろう。
そんな彼にとって、亜子の「おかえり、恵ちゃん」はなんと残酷な響きを持っていたのだろう。
亜子は恵に恋している。
その彼を失うことはどれほどの喪失感であろうか。
自分の一部を失うほどのものであったに違いない。
そのような状態で、亜子は涼に縋るしかなかった。
彼が恵を演じていることをわかっていても。
「恋」はわがままなものだ。
自分の気持ちを通すことが、どれだけ涼に負担をかけ、傷つけているかもわかっている。
けれどわがままを通すことしかできない。
涼の気持ちが伝わってくるほど、彼女は苦しく、追い込まれていく。
涼は、亜子と恵の二人の願いである流星探しを叶えるため、明け方の海に亜子を誘う。
そのとき亜子の目には、ずっと二重に見えていた恵と涼の姿が一つになる。
そして涼はそっと亜子にキスをする。
この時の涼は、恵ではなかったと思う。
本当に亜子のことを愛しく思い、涼としてキスをした。
そして亜子もこのとき、涼が演じている恵ではなく、涼自身に恋に落ちたのではないだろうか。
だからこそ、亜子はこれ以上、涼に負担をかけてしまってはいけないと考える。
涼の思いを弄んでいるように感じたのかもしれない。
そのとき、亜子は涼に恋をしていた。
だからこそ亜子は身を引く。
これも亜子の「滅私の恋」なのだ。
涼も恵も、高校生の時の屋上での出来事の真実を亜子にずっと言えなかった。
騙していることはわかっている。
けれど、それを伝えてしまったら、たくさんのものが壊れてしまうかもしれない。
けれど、それは杞憂なのだ。
亜子にとってそれはきっかけであったのかもしれない。
しかし彼女が恵に恋をし、そしてまた涼に恋したのは、二人それぞれの本当の姿を好きになっただけなのだ。
こっちの楓も、あっちの楓も代わりにはならない。
二人にそれぞれ、彼女は恋に落ちた。

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2025年12月21日 (日)

「エディントンへようこそ」狂っていく距離感

コロナパンデミックは2019年から2023年までと言われる。
いまだにその時の記憶は生々しい。
人類がかつて経験したことがない規模の疫病の世界的流行であり、多くの感染者が出た。
当初はウィルスについての情報も少なく、どのように感染を食い止めるか、官民ともに手探りであった。
そのような中で正偽が定かでない情報がネットを中心に拡散していったことも記憶に新しい。
本作の舞台となるのはコロナ禍真っ只中のニューメキシコ州の小さな街、エディントンである。
ロックダウンが実施され、住民たちは外出が規制されている。
当然、経済は停滞、また自由もある程度制限される中で、住民たちの間ではストレスが次第に蓄積されていく。
そのような中、主張が全く異なる二人によるエディントン市長選がきっかけとなり、街に不穏な空気が満ちていく。
予告を見た時は、この作品のテーマは「アメリカの分断」なのだろうと予想していた。
コロナを未曾有の危機とする派、そしてただの風邪とする派の対立は日本でもあったが、それが制御できないほどにエスカレートしていく、といったようなイメージだ。
本作を製作したA24は「シビル・ウォー」でも「分断」をテーマにしている。
制御できないエスカレートという点は予想通りではあったが、そこで描かれているのは2派による分断といった単純なものではなかった。
コロナで取られていた対策の一つとして、ソーシャル・ディスタンスがある。
これは感染を防ぐために、人と人の間で安全な距離をとるというものだ。
当時日本でも在宅勤務、リモート授業などが推奨された。
それの最も過激な方法がロックダウンとなる。
人間は社会的な生き物と呼ばれるように、人と人との繋がりの中で生きている。
家族以外の人間と物理的な距離をとるというのは、現代社会においては誰も経験したことがないものであったはずだ。
人間というのは不思議なもので物理的な接触が薄くなると、相手に対しての感情移入はしにくくなっていく。
物理的距離とともに心理的距離も離れていく。
物理的な距離が離れたことによる直接的な情報入手がしにくくなったこと、そしてコロナの正体がよくわからず確からしい情報が入手しにくいことで、人々は情報ソースをネットに求めるようになった。
特にSNSによる情報を人々は頼りにするようになった。
インターネットにより情報伝達には物理的な距離は関係がなくなっている。
またSNSにより、マスコミを介さず、個人でも情報発信ができるようになった。
ある意味、グローバルレベルで情報伝達の障壁が劇的に下がったのだ。
たった一人の意見が、世界レベルで影響を与えることも可能になった。
コロナ禍による物理的接触の制限と、同バーチャルでの情報接触の高濃度化が同時に起こったのだ。
これは全地球規模での情報実験とも言える。
近くにいるはずの人が遠くにいるように感じ、遠くにいるはずの人にシンパシーを感じる。
本来コミュニティというものは物理的距離、そして価値観の共有によって一体感が出るものだが、エディントンではこれが崩壊していく。
人と人の距離感が狂っていくかのように。
コミュニティが崩壊し、人はそれぞれ信じたいものを信じるようになる。
そして法律や道徳といった社会的なルールに加え、様々な思想、すなわち白人至上主義、それに対する反論、さらには陰謀論やスピリチュアルまでがインターネットという情報のごった煮の中でごちゃ混ぜになって語られる。
さらには個人的な願望、または悪意がSNSにアップされ、共有され、切り抜かれ、またさらに共有される。
このような情報のスープの中で誰も正しい判断ができなくなっていく。
それぞれが信じたいものを信じていく中で、解決の手段として暴力が選択されるのだ。
本作の登場人物は滑稽でもある。
情報に翻弄されて、自ら階段を転げ落ちていく。
しかし、それは人ごとではない。
情報のごった煮は、エディントンだけで起こっているわけではない。
自分たちも本作の登場人物のように振る舞ってしまうかもしれない、というところに本当の恐怖がある。

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2025年12月14日 (日)

「ロマンティック・キラー」計算なし、駆け引きなし

主人公、星野杏子(上白石萌歌)は好きなものはゲーム・チョコ・猫で、恋愛には一切興味なし。
学校が終わると一目散に家に帰り、ゲーム三昧の日々。
それで本人は大満足なのだ。
しかし、そこに魔法界から魔法使いリリがやってくる。
彼(彼女?)曰く、魔法界は人間の愛をエネルギーとしているらしい。
しかし、あまりに恋愛をキャンセルしている杏子のおかげで、魔法界は愛のエネルギーが得られず破滅の危機を迎えている。
なんとしても杏子に恋愛をさせるべく、リリによるロマンティック・トラップが始まる。
本作はラブコメディーだが、ヒロインが恋愛に全く興味がないというのが
ユニークなところだ。
そんな杏子をキュンとさせるべく、リリによってあの手この手で恋愛トラップが仕掛けられるのだが、どこかで見たことのあるようなシチュエーションが繰り広げられる。
美男子と偶然ぶつかって・・・という定番から始まり、バスは暴走するわ、パラシュートで不時着するわ、タイムリープする男子は登場するわ、と古今東西の恋愛トラップの目白押しである。
元ネタを思い浮かべながら、思わず笑ってしまった。
杏子が押し寄せるイケメン軍団と一騎討ちする長いシーンは「HiGH&LOW」を彷彿とさせ、上白石萌歌のアクションは一見の価値ありだ。
登場するイケメンたちの中でもキーとなるのは三人の男子だ。
何か影のあるクールな美青年。
一途に杏子を思う純朴な幼馴染。
世間知らずの俺様な王子様男子。
いずれも恋愛コミックやラノベに登場しそうな定番なキャラクター像だ。
彼らはそれぞれ杏子に惹かれ、次第に距離を詰めていく。
さて、そんな男子たちに好かれる杏子という女子はどういう子か。
ゲーム・チョコ・猫好きで、恋愛には一切興味なし。
こう聞くといわゆるコミュ障的で陰キャな女の子なのかと思いきや、杏子はそんなことはない。
クラスの中心というわけではないが、割とみんなとうまくやっている様子だ。
皆の憧れのイケメンたちと距離が近くとも、なぜか女子たちにハブにされることはない。
意外とコミュ力は高いのかもしれない。
リリのトラップにハマらないようにしているのも、決して人が嫌い、とか恋愛が嫌いというわけでもないように見える。
どちらかというと自分が好きなもの(ゲーム・チョコ・猫)を否定されていることに憤慨しているように思える。
つまり彼女は自分の気持ちにとても素直な女の子なのだと思う。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。
ある意味、潔い。
三人に対しても、杏子は自分の気持ちのままに言葉を発する。
恋愛にありがちな計算とか、駆け引きといったようなことを彼女は考えない。
相手をあるがままに見て、自分が思ったことをそのまま口にする。
リリができることは、時空を歪めて、杏子の周囲に彼女が好きなりそうな男の子を配置することだけだ。
彼らの気持ちを直接操ることはできない。
すなわち、彼らは本当に杏子のことを好きになる。
杏子はあるがままに自分を見てくれて、素直に気持ちを伝えてくれる。
その気持ちはまっすぐに彼らの心に届く。
杏子が最後に三人のうち誰を選ぶのか、着地点をどうするかは、見ていても一番に気になっていたところだった。
結論としてはかなり力技ではあったが、うまく着地させていたのではないかと思う。
杏子の選択も、自分の気持ちに素直である彼女らしいものと言えるだろう。
どんな選択をしたのかは、劇場で確かめてもらいたい。

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2025年12月13日 (土)

「ペリリュー 楽園のゲルニカ」異なるタッチの意味

ペリリュー。
恥ずかしながらこの島の名を本作を見るまで知らなかった。
この島はパラオ諸島にあり、太平洋戦争の終盤で米軍と日本軍で激しい戦闘が行われた場所ということだ。
圧倒的な戦力で米軍は襲いかかるが、周到な準備と地の利を生かしたゲリラ戦で日本軍は抵抗を続けた。
これはその後行われる硫黄島の戦いを彷彿とさせる。
そして戦争終結を知らぬまま、生き残った日本兵は2年近くも戦い続けたのだ。
戦争という重々しい題材であるが、本作のキャラクターはデフォルメされたほのぼのとしたタッチをしている。
日常を舞台にしたギャグ漫画に登場しそうにも思える。
キャラクターのルックが持つ日常感と、描かれる血生臭い戦争の非日常がアンバランスで、それがかえって悲惨さを際立たせている。
キャラクターのタッチは柔らかいのだが、戦闘シーンに登場する戦闘機や戦車、トラックなどの兵器類は非常にリアルな3DCGで描かれている。
それら兵器は冷たく、硬質である。
これこそが戦争のリアルだというように。
また、タイトルに「楽園」とあるようにペリリューの自然や生き物は瑞々しいリアルなタッチである。
輝く太陽に照らされる自然は、戦争といった愚かな人間の営みとは無関係と言ってるかのように、鮮やかに表現されている。
これもまたリアルである。
主人公の田丸は漫画家志望の初年兵だ。
その創作力を島田少尉に買われ、功績係に任命される。
死亡した兵隊の家族へ、どれだけ戦死者が国の役に立ったかを書き記すのが功績係の役回りである。
戦闘とは関係ない事故で亡くなった場合も、その家族には名誉の戦死であったと伝える。
彼は戦友のためにそのような文章を書くのだが、不思議な気分にもなる。
「嘘くさい」
と彼がつぶやくことがあるが、そもそも勝ち目のないように見える戦争を勝てると皆が信じていることが「嘘くさい」と薄々気づいていたのかもしれない。
「信じたいから、信じるのか・・・」
とも彼は言っている。
冒頭に書いたような様々なタッチが本作の中で混在している意図はここにあるのかもしれない。
無機質な兵器のリアルなタッチが象徴する戦争の非人間性。
対照的に瑞々しく鮮やかなリアルな自然が表現する生命力。
2つのリアルに対して、キャラクターたちはデフォルメされてリアル感は排除されている。
彼らがリアルの世界では生きていないかのように。
彼らは冷静な現状把握とは離れた世界で生きている。
今は劣勢でも必ず日本は勝つ、という幻想の世界で。
物理的なパワーを象徴する兵器類のリアルを見ずに、精神的な世界で生きる。
生き生きとした生命の輝きを見ずに、大義のために無駄に命を落とす。
ずっとそう信じてきた。
今さら後戻りはできない。
なぜなら死んだ者たちが無駄死にになるから。
なぜなら今の自分が否定されることになるから。
まさに確証バイアスの罠に嵌っている。
彼らがそのような確証バイアスの罠にいることを表現しているのが、デフォルメされ日常感溢れるキャラクターデザインなのではないかと思う。
思えば、当時は日本全国民が、確証バイアスの罠に嵌っていたのかもしれない。
そしてそれは今の時代でも油断をすれば、その罠に落ちることもあるのだ。

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2025年12月12日 (金)

「ナイトフラワー 」家族の距離

「母は強し」と世に言う。
これはヴィクトル・ユーゴーの「女は弱し、されど母は強し」という言葉に由来する。
まさにこの言葉を体現しているのが、本作の主人公、夏希である。
夏希は小春と小太郎という二人の子供を育てているシングルマザーだ。
彼女は多額の借金を抱え、幾つもの仕事を掛け持ちしているが、食うや食わずの生活を続けている。
小太郎はヤンチャな盛りの幼稚園生だが、姉の小春はもう分別もつく小学校の高学年だ。
小春は家庭の事情もわかっており、決して母親に無理を言わない。
唯一大好きなバイオリンを続けるために、母親に内緒で小春は街角で演奏をして授業料を稼いでいた。
それを偶然見かけた夏希は自分の不甲斐なさに涙するのだ。
ギリギリの生活の中、夏希は偶然にも合成麻薬を手にし、それを売るバイヤーとなる。
彼女は至って普通の女性だ。
普通に生活していれば、暴力が支配する闇社会とは縁がない。
薬を扱うということは、それによる被害者を自らの手で生み出すということだ。
誰かの人生を破滅に導く手助けをしているかもしれない。
それでも夏希は売人となる。
自分は罪を背負うことになるだろう。
酷い目にあうかもしれない。
しかし、子供を育てていくため、子供に明るい将来を与えるために、自ら罪を負う。
まさに「母は強し」である。
夏希と並んで主人公に近い立ち位置の女性が多摩恵だ。
彼女は格闘家であるが、夜は風俗嬢として働くという生活を続けている。
その多摩恵は、ある日チンピラに暴力を振るわれた夏希を助ける。
その後、彼女は夏希のボディガードを買ってでて、二人でコンビの売人となるのだ。
なぜ多摩恵は見ず知らずの夏希を手助けしようとしたのか。
多くは語られないが、多摩恵は母親に捨てられた過去を持つ。
おそらく彼女はそのようなことから、自らが強くならなければ生きていけないと、格闘を行うようになったのだろう。
そして、多摩恵は夏希に自らは持つことができない母親を見たのかもしれない。
自分を犠牲にして子供を守ろとする母親を。
多摩恵にとっての理想の母親である夏希を守ろうと思ったのだ。
「家族になろう」と夏希は多摩恵に言う。
これはある意味、プロポーズだ。
多摩恵は夏希の家族とって、父親のような存在になる。
母親と子供たちを守る存在。
そして多摩恵も今まで得ることができなかった家族を得る。
夏希と多摩恵の間には友情でもなく、または恋愛感情でもないが、強い絆が生まれる。
まさに家族の絆である。
多摩恵を慕う幼馴染の海は、多摩恵の試合で交わされる彼女たちのアイコンタクトに自分が入り込めない絆を感じ、身を引くのだ。
四人で寝るには狭い部屋で、彼女たちは川の字で寝る。
肩を寄せ合って。
彼女たちは本当の家族ではないかもしれない。
でも心の様は本当の家族だ。
この物語にはもう一つの家族が登場する。
夏希が麻薬を売る女子大生の家族だ。
彼女の家は広々としていて、そこに両親と住んでいる。
しかし、彼らの関係は冷え冷えとしているように見える。
父親は娘が何をしているのかには興味がなく、母親を使用人のように扱う。
母親もそんな夫に何か口答えすることはなく、娘の素行を心配しながらも問いかけることができない。
そんな母親を軽蔑したような目で娘は見る。
裕福な家族ではあるが、家族の間の距離は離れきっている。
夏希の家族とは対照的だ。
娘は家を出て、麻薬に溺れていく。
この二つの家族、違うのは距離感だ。
多摩恵の試合で彼女がノックアウト寸前となった時、夏希は見ておられず目を逸らそうとする。
しかし小春は「ちゃんと見ないとあかん」と言う。
家族が歯を食いしばって戦っている姿を見なければいけないと。
目を背けようとする女子大生の家族とは違う。
また小春が同級生にいじめられバイオリンを壊された時、多摩恵は仕返しに行こうとするが、それを小春は止める。
お母さんが頑張っているのに、問題は起こしたくないと。
多摩恵は小春に「お前、強いな」と言う。
親が子供を育てるだけではない。
子供からも親は学ぶ。
小春の一言で夏希や多摩恵が気づいたように。
苦しくても、みっともなくても、それでも家族は全てを受け止める。
そして支え合う。
ゼロ距離で。
川の字のように。
夏希が育てていたナイトフラワーが最後に咲く。
夜にしか咲かないと言われいる花が、昼に咲く。
薄暗い社会の片隅でしか生きられなかった彼女たちが、ようやく明るい未来を持つことができることの象徴だろう。

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2025年12月10日 (水)

「ズートピア2」現代の風刺画

多くの様々な種類の動物たちが一緒に暮らす街「ズートピア」。
「ズートピア」は「Zoo」と「Utopia」から作られた造語であり、動物たちの理想郷ともいうべき場所。
そこには争いはなく、動物たちは平和に暮らしている。
「ズートピア」シリーズは、一見ディズニーらしい平和なファンタジー世界のように見えるのだが、その実は現代の風刺画である。
古今東西、風刺画で動物が題材として使われることはよくあり、日本では鳥獣戯画などが挙げられるし、西洋でも多くの例が見られる。
このシリーズはそのような風刺画の流れを汲むようなものであると思う。
一作目の「ズートピア」が公開されたのは2016年。
その時に書いた自分のレビューを見ると「多数決の怖さ」というタイトルをつけていた。
「ズートピア」では肉食動物と草食動物が仲良く暮らしているが、ある時肉食動物が草食動物を襲うという事件が発生。
人数(頭数?)に勝る草食動物は肉食動物を危険視し、彼らを追い込んでいく。
この作品では、真実を探ることなく、扇動され、多数決によって社会の流れが決まっていくというポピュリズムを描いていると私は思う。
そしてそれによって大きな分断が社会に生じていく。
奇しくも2016年はトランプ氏が大統領に就任した年であり、その後アメリカ社会において社会の分断が進んでいったのは周知である。
まさかトランプ大統領就任を予見していたとは思えないが、社会の変化の兆しを掴み、風刺した作品であることは間違いではない。
続く「ズートピア2」でもこの風刺の精神は継承されている。
本作で描かれているのは「多様性」であると思う。
中でも現代のアメリカの大きな社会課題である「移民問題」を風刺しているように感じた。
私も本作を見るまで気づかなかったが、「ズートピア」には爬虫類はいない。
哺乳類だけである。
その理由が本作では明かされる。
キーマンとなるのはヘビのゲイリーだ。
ヘビは「ズートピア」では危険な種族であると認識されている。
かつてある事件があり、ヘビを含む爬虫類は危険な存在とされ、彼らは「ズートピア」を追われた。
「ズートピア」の住民はヘビであることだけで彼らを危険分子として排斥する。
彼らが何を考え、何を思うのかということには配慮しない。
これは中東出身であるからテロリスト、中南米出身だから麻薬の売人といった短絡的なものの見方に通じるように思う。
トランプ大統領はしばしば移民問題について発言をするが、このようなステレオタイプなものの見方を感じてしまう。
これはアメリカだけに限られた話でもなく、最近の日本でもしばしば論議になる外国人問題でもこのようなものの見方が現出しているようにも感じる。
本作で語られているのは、このような人種・種族レベルの多様性だけではない。
個人としてのものの考え方の違いについても語られている。
主人公のジュディとニックは生まれも、抱えるトラウマも、価値観も大きく異なる。
それゆえ同じ出来事を前にしても意見が異なることもしばしばだ。
「あなたと私は違いすぎる」とジュディは言い、ニックと袂を分つ場面がある。
しかし、彼らは互いに良きバディとして求め合う。
相手のことを大切に思う。
ジュディの行動力とニックの慎重さ。
自分にないものを相手が持っており、その違いがあることよってより良いものが生まれる。
相手に必要とされていると感じる。
登場人物の一人パウバートは「違うのはいやなんだ!」と叫ぶ。
彼は誰にも必要とされていない、と感じているのだろう。
何か違う考えを持っているだけで、排斥される社会は息苦しい。
対してニックは「相手は相手らしく、自分は自分らしく」と言った。
自分らしく生きていけて、そして誰かに必要と思ってもらえる社会。
そのように皆が思えて、行動できる社会こそが「Utopia(理想郷)」だ。
「Utopia」という言葉には「どこにもない場所」という意味もある。
「ズートピア」はまだ理想の世界にはまだ遠いのかもしれない。
物語の最後に鳥の羽がハラリと落ちてきた。
そう言えば、この物語には鳥類は登場していない。
次回は鳥類を巻き込んだ風刺が語られるのだろうか。

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2025年12月 7日 (日)

「港のひかり」 強さとは何だ

藤井道人監督はアウトサイダーを描いている印象が強い。
ここで言うアウトサイダーとは社会の枠組みからはみ出してしまった者たちである。
昨年多くの映画賞を受賞した「正体」では、冤罪を着せられてしまった男、鏑木は名前と顔を変えながら、社会の片隅で身を隠しながら生きていた。
また「ヤクザと家族 The Family」では、社会における居場所を失ってしまったアウトサイダーとしてのヤクザが描かれている。
かつてヤクザという存在は日本映画においては一つのジャンルとなっていた。
高倉健が主人公を演じていた時代はある種のヒーローとしての立ち位置であり、北野武監督の作品などに登場するヤクザは極悪非道の悪の存在である。
善悪それぞれの面で描かれていたヤクザであるが、共通しているのは一般人にはない強さであるかもしれない。
この強さには暴力的な強さという側面もあるが、もう一つは精神的なものもあると思う。
義理とか仁義などの信念に対し、命を賭すほどの精神的な強さ。
それら複合した強さが一般人からすれば恐れ、そして畏怖の対象となっていたのがヤクザであったのかもしれない。
(これはあくまで物語上のヤクザの話である。現実世界のヤクザはそんなものではないと思う)
「ヤクザと家族 The Family」が新鮮だったのは、そのヤクザを題材としながら、現代のヤクザを弱者として描いたところであった。
警察の対暴力団の活動は近年激しくなり、どの暴力団も苦しい状況と聞く。
そして一般人からの目線も厳しい。
かつてあった畏怖のようなものはすでになく、この作品の主人公元ヤクザの山本はただ社会からはみ出した者として排斥される姿が描かれる。
「港のひかり」の主人公の三浦は、「ヤクザと家族」の山本がそのまま生きていたら、というような存在にも見えてくる。
義理や仁義という信念を心に持ちながら、社会の片隅で生きている。
「ヤクザと家族」において山本が尊敬するオヤジを演じていたのが本作の三浦役の舘ひろしであるのも興味深いところだ。
三浦は若頭の頃、心酔するオヤジに「強さとはなんだ」と問われる。
うまく答えられられない三浦に向かって、オヤジは答えを言う。
「誰かのために生きられるか」
本当の強さとは自分のために生きるのではなく、誰かのために自分の生をかけられるかということだ。
三浦はその言葉を胸に秘めて生きていく。
そしてある日、三浦は目の見えない少年幸太に出会い、彼のために生きていくことになる。
そして幸太も間近で三浦の生き方を感じることにより、彼の精神、強さを受け継いでいく。
三浦が所属していた河村組の面々、特に組長の石崎は、三浦とは対照的である。
三浦が精神としての強さを象徴しているのに対し、彼らは暴力としての強さを表している。
暴力としての強さは他者を犠牲にして自分のために生きていく。
弱肉強食の世界であり、もし隙が出た場合は、より強い者に食われてしまう。
石崎の懐刀であった八代の最後の行動などはそれを端的に表していると思う。
十数年ぶりに二人が再会した時、幸太はこう言う。
「おじさんだったらどうするか」
悩んだ時に三浦だったらどのように行動するか、と考え幸太は人生の岐路で答えを出してきていた。
誰かのために生きる、ということを第一に考えた時にどう自分は行動するべきか。
おじさんの存在、おじさんの生き方は幸太にとって生きる指針であった。
真夜中に海原を進む船にとって帰る場所を示す「港のひかり」であったのだ。
そして幸太に対し、三浦は
「強くなったな」
と答える。
自分の生き方を受け継いでくれる者を得られ、自分の人生が決して無駄ではなかったと思えた瞬間であったのだろう。
ヤクザ、警官と立場は真逆ではあるが、「誰かのために生きる」という信念は伝承された。
本当の強さが。

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2025年11月30日 (日)

「TOKYOタクシー」人生と時代を巡る東京の旅

ある日、個人タクシー運転手の浩二は、老齢のマダムすみれを乗せた。
彼女は東京を去るにあたって、思い出の場所を巡ってみたいと言う。
東京の街を巡りながら、すみれは自分の半生を浩二に語っていく。
葛飾、浅草、上野、千住、渋谷、銀座、新宿・・・。
カメラに写し出されるのは、東京の今の街並み。
昔の面影を残している街もあれば、ガラリと様変わりした場所もある。
すみれの話は戦争の頃から始まる。
幼い頃、空襲によって父親を亡くしたこと。
当時隅田川では炎に追われ、川で溺れ死んだ方も多いと聞く。
そして青春時代の初恋の話。
相手は在日2世で、北朝鮮への帰還事業で祖国に帰ってしまい、その後会うことはなかった。
帰還した在日は夢を持って北朝鮮に渡ったが、行方知れずになった者も多い。
初恋の相手との間には息子を得て、高度経済成長時代にすみれは再婚をし、団地住まいとなる。
しかし、その夫はすみれにも息子にも暴力を振るうようになった。
女性の人権が叫ばれるようになる前である。
そして、すみれは息子を守るために、夫を半殺しの目に合わせてしまう。
彼女は服役をするが、その間に息子を事故により亡くしてしまうのであった。
彼女の人生には時代性が色濃く反映されている。
それを聞く、浩二はどこにでもいるような平凡な男である。
妻と中学生の娘の三人暮らし。
個人タクシーを生業としているが、生活は慎ましい。
娘が私立高校の推薦を受けられそうと聞いて喜ぶが、その学費の額に驚く。
娘は文句なく可愛く、なるべくその願いを叶えてあげたいと思う。
妻とは恋愛結婚だったようだが、今では空気のような存在。
何かと出費が多いため経済的な悩みが多く、妻にはくどくどと金策をするように言われている。
そう、どこにでもいるような平凡な男。
浩二はすみれの話を聞きながら、自分たちの生活が平凡なものながらも、かけがいのないものであることに気づいたのだと思う。
家族というのは毎日接するからため、その存在を当たり前と思ってしまいがちだ。
まさに空気のように。
対してすみれは父親を、初恋の相手を、そして息子を失ってきた。
そういう時代であったと言えば、それまでかもしれない。
でも今の当たり前が通じない時代であったのだ。
そんな時代を生きる中で愛する人々をすみれは失ってきていた。
現在はまた今なりの問題も色々あるが、大切な家族と平凡でも一緒に暮らしていけるのは幸せなことだ。
浩二がすみれの話を聞いて、思わず妻に電話してしまうところが可愛い。
すみれは、昔も悪いところだけではなかったと言う。
商店街はもっと活き活きとしていて、元気だった。
高度成長期という時代背景があるかもしれない。
確かにあの時代は、どんどん豊かになっていくということを疑ってもいない時代であった。
すみれは息子を失ってから、ずっと一人であったのだろう。
事業で成功していたように見える彼女の葬式は思いの外、小さかった。
身寄りがないことがこれからもわかる。
ずっと寂しい、という気持ちを抱えていたのだろう。
人生を終えようとする時に、自分の人生を浩二と共有できたことは彼女にとってどれだけ嬉しかったことか。
何か残せたという気持ちになれたのではないだろうか。
浩二を息子と言うには、ちょっと歳が下かもしれない。
けれど、自分の半生を話し、それに共感してもらったことによって、息子のような感覚を持ったのかもしれない。
だからこそ、もう少し彼と一緒に過ごしたかった。
そして最後に彼のために何かを残してあげたくなったのだ。
時代が変わり、街並みが変わっても、人にとって大切なことは変わらない。
すみれと浩二、その人生の最後と途中において、そのことを共有し合えた。
それはある日の奇跡かもしれない。
暖かな余韻の残る作品でありました。

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