2012年5月20日 (日)

「牙狼<GARO>〜MAKAISENKI〜」 まさにサーガとなった

雨宮慶太監督のライフワークとも言える「GARO」シリーズのテレビシリーズです。
昨年の10月からテレビ東京系列で放映されていましたが、やっと録画していたのを観終えました。
最初の「GARO」がオンエアされたのが2005年ということですから、もう7年も経っているのですね。
そのときはテレビ番組だとは思えないほどのCG特撮、また横山アクション監督によるハリウッドばりのワイヤーワークアクションにたいへん驚きました。
その後、日本の特撮シリーズでもCGの使用、ワイヤーワークアクションなどは普通に使われるようになっていきましたが、その先端をいっていたのが「GARO」であったと思います。
新シリーズについてもそのエッセンスが引き継がれ、パワーアップしています。
宣伝ではテレビシリーズなのに製作費10億円と言われており、それも納得してしまいます。
最終回の総集編では前テレビシリーズの場面も流されていましたが、やはりHD前ということで画面が荒く見えてしまうのは致し方ないところ。
逆に今回はHDに対応し高精細で、美しい映像を作っているのですから(それもテレビシリーズで)、驚くばかりです。
前テレビシリーズでは主人公である鋼牙とヒロインカオルの物語が縦軸としてありました。
カオルとの物語についてはそれで一応の決着となっており、その後のスペシャル版、劇場版ではカオルは登場しませんでした。
しかし、今回はカオルもすべての回で登場することとなっています。
鋼牙にとってカオルは、戻るべき場所、彼にとっての基準点となっているように思います。
最近の特撮ヒーローものの中では珍しく「GARO」では、ヒーローである鋼牙=GAROは揺るぐことのない存在です。
最強の魔戒剣士と言われ、その実力に誰も異を唱える者はいません。
最強である男が主人公というのはなかなか物語は作りにくいものではあるかもしれません。
前シリーズでは、その最強の戦士が、封印していた人としての想いを持つということがカオルとの関係性の中で描かれました。
本作においては最強の戦士である鋼牙、そしてその基準点となるカオルを揺るぎない軸として、物語はより大河性を持ったうねりをもっています。
そこに今までのテレビシリーズ、スペシャル版、劇場版で登場したキャラクター、されには本シリーズから投入された登場人物がからまっていき、より物語としてはスケールが大きくなっています。
主人公を鋼牙を巡る物語というよりは、「GARO」ワールドのサーガと言えるようになってきています。
鋼牙の同志でもある銀牙戦士ゼロ=零が中心となるエピソード(鋼牙がほぼ登場しない)もいくつかありましたが、これができるのも鋼牙=カオルの軸が盤石だろうからだと思います。
雨宮監督のビジュアル、そして物語は装飾的であり、過剰であるところもあるかもしれませんが、それこそが雨宮さんの最大の魅力であると思います。
出し惜しみをしないビジュアルイメージ、ストーリー、それはインフレーションを起こして破綻しそうに見えながらも、そうはならない。
最強の戦士を主人公に据えるということからして、雨宮監督という方には出し惜しみという考えは全くないのでしょうね。
ラスト数話のビジュアルについてはそれだけで劇場版になるのではないかと思えるほどのレベルであったと思います。
今までのキャラクターが総登場ということで、本作が総決算となるかと思いましたが、劇場版も製作されることとなったようですね。
まだまだサーガは続くようです。

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「ファミリー・ツリー」 雨降って地固まる

主人公マット(ジョージ・クルーニー)はハワイ在住の不動産専門の弁護士です。
妻、そして娘二人を持つ、普通の男。
けれども彼は大きな二つの問題を抱えていました。
一つは妻がボートの事故により意識不明の重体で、余命が幾ばくもないという状態になってしまったということ。
もう一つは、一族で所有する広大な土地の売買問題。
さらには妻に浮気疑惑が発覚、問いただそうにも妻には意識はありません。
また娘二人は母親のこともあってか、反抗ばかりして、その取り扱いには戸惑うばかり。
マットはたぶん普通の真面目な男なのでしょう。
家族のために、一族のためにという思いもあって仕事に打ち込んできたのだろうと思います。
そのため、家族については妻にまかせきり、そういう自覚もマット自身にはあったかなと。
舞台はハワイとなっていますが、マットという男の暮らし方というのは日本の男性にも通じるところがあり、共感する方もいるのではないでしょうか。
マットは妻の事故に、驚き、そして戸惑い、さらに浮気が発覚してからは怒りの気持ちを持ちます。
これもすごく真っ当で当たり前。
それでもマットは、妻の見舞いに何度も赴き、手のかかる娘たちの面倒を見、また土地の売却問題についても手続きを進めます。
気持ち的にはしんどいながらも、やるべきことを戸惑いながらも粛々とやっていくというのは、やはりマットの真面目な性格が現れているのでしょう。
長女のアレックス、次女のスコッティの扱いには今まであまり面倒をみていないためマットは戸惑います。
けれどマットは投げ出すのではなく、彼なりになんとか彼女たちをしっかりとささえようとします。
彼自身も妻の事故と浮気により戸惑いもあるわけですから、なかなかにたいへんなことだったと思います。
アレックスはマットに反抗ばかりしていましたが、彼が真摯にいろいろな問題に対し取り組む姿勢を近くで見ることにより、次第に気持ちが通じ合うようになります。
マットも戸惑う中で、アレックスに対しどうするべきなのかと、相談するところがあります。
彼はアレックスを一人前の大人として扱い、彼の相談パートナーとして話をしたわけですね。
アレックスはそこまで自分をさらけだしてくれて、さらに自分を一人前として扱ってくれて、嬉しかったに違いありません。
祖父がマットに対し娘を不幸にしたとなじる場面で、アレックスが「パパもつらいのに、一生懸命やっている!」と父親を擁護したところはウルッときました。
アレックスはワガママ娘でしたが、後半では妹が動揺しないようにところどころ気遣おうとしたり、父親を支えようとしたりするようになります。
彼女は母親の事故を経て急速に大人になっていったと思います。
マットの一族の土地売買問題で一族会議のとき、結局はマットは土地の売却を行わないことにします。
いとこの一人は訴えるぞと言いますが、マットは「裁判になったらより絆が深まるから」と言います。
今回の妻の事故のゴタゴタは、妻の死という悲しい結果になりましたが、彼の家族にとってはそれを通じてそれまでバラバラだった家族が、ほんとうの家族として一体となるきっかけとなったのですね。
彼からしたら一族でゴタゴタしたら、結果的にはもっとまとまることになるのではないかという気持ちになったのかもしれません。
雨ふって地固まるという感じでしょうか。
死にいく妻に対し、マットは「my love,my pain,my joy」と言います。
苦しみも喜びも家族というものは共有するもの。
辛い時も、楽しい時も、バラバラではなくいっしょに。
家族の本質というのを普通の男を通じて、描いた物語でした。

ジョージ・クルーニーの普通っぷりがよかったです。
すごくダンディにもできる人ですが、本作は極めて普通に演じ切っていました。
妻の浮気発覚のところは、怒るだけではなくそこに戸惑いも感じられ、押さえているわけでもなく過剰でもない演技が良かったですね。
同じ場面の慌てて走っている「ドタドタ走り」が中年の普通の男って感じでね、ぴったりでした。

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2012年5月15日 (火)

本 「『上から目線』の時代」

久しぶりに本を読んで「目からウロコが落ちた」という気分になりました。
「上から目線」という言葉は最近よく聞きます。
自分自身も「上から目線」でものを言われて、カチンときたという経験はあります。
たぶん逆も知らず知らずのうちにやっているでしょう。
この本を読むまでは「上から目線」でものを言われるということによって起こる言われる側の不快感というものの原因は「言う側」に問題があると思っていました。
相手のことを尊重しない物言い、自分の力を笠に着た発言などと言ったことによるものだと。
しかし、著者は「上から目線」というものについて別の分析をしています。
著者が指摘するのは価値観・世界観の多様化による主義の対立としています。
例としてあげられているのが、野良猫の問題。
ある地域で野良猫が捨てられているとします。
ある住民Aはその野良猫を可哀想と思い、餌付けをしました。
しかしその餌付けを続けたため、野良猫が繁殖し、鳴き声による騒音問題、糞などの問題などが発生したりします。
そういった問題にさらされた別の住民Bは野良猫を殺処分するよう言ったとします。
その住民たちの会話を想定してみましょう。
A「動物愛護という観点から、殺処分するなんてことは許せない。あなたは人としてどうなのだ」
B「自分の庭に糞などをされて臭いに困っているし、衛生面でも問題だ。あなたは自分の家じゃないからそんなことを言っているのだろう」
ここでどちらの考えが正しいかということが問題ではありません。
Bさんからしてみたら、Aさんの言い方にはまさに「上から目線」を感じると思います。
そして逆にAさんもBさんの言い方に「上から目線」を感じることになるのです。
「上から目線」というものは相容れない主張を持つ相手に自分の考えを飲ませようという意志が強く出た時に発生するものなのです。
「目からウロコ」であったのは、この「上から目線」というものを双方が感じるというところでした。
一方向ではないということなのですね。
上司から部下へ、年配者から若者へといった方向だけではなく、逆でも「上から目線」は生じるのです。
例えば若い部下が、パソコンが苦手な上司に対して「今の時代、パソコン使えないと厳しいですよね」と言ったとしたら、IT弱者である上司からしたらやっぱり「上から目線」でものを言われたと感じることもあるのです。
「上から目線」の時代というのは、価値観・世界観の多様化がすることにより、それらがコンフリクトすることとなっている時代ということなのです。
以前の日本であればある程度社会の中である一定の共通認識、空気のようなものがありました。
しかしその共通認識は急速に崩れています。
以前は日本人の会話の中では定型フォーマットのようなものがありました。
初対面時の挨拶など、いわば「こう言っておけば間違いない」といったものですね。
そしてそれは共通認識があったからこそ成立していたものでもあったのです。
しかし現在においては相手がどんな価値観を持っているかわからないため、何気ない一言が相手の価値観に触れ、「キレられる」、「地雷」を踏んでしまう恐れをみなが持っているのではないのでしょうか。
そして人は他の人との会話が気詰まりになってしまう。
またその価値観がぶつかりあった時に人は互いに相手に「上から目線」を感じてしまうのです。

この本を読んで思い出したのがロマン・ポランスキーの映画「おとなのけんか」。
まさにあれは「上から目線」の応酬でした。
「上から目線」自体は著者によれば日本に限ったことではないとのこと。
そもそものこの考えの発想はアメリカ(著者はアメリカに住んでいます)のティーパーティ運動などは、高学歴高収入の人々の傲岸さへの右派(低学歴貧困層)の反発であったとみています。
右派はまさに「上から目線」を感じていたのだと。

この本は上記以外にも現代の日本人の状況が的確に分析されており、とても示唆を受けました。
パワハラの問題、モンスター○○の問題、そしてそもそも日本語というものが持っている構造上の特徴など。
こちらは是非一読をお勧めしたい本です。
著者の冷泉彰彦さんは「『関係の空気』『場の空気』」という著作のある方です。
こちらも話題になったので知っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

冷泉彰彦著「『関係の空気』『場の空気』」の記事はこちら→
ロマン・ポランスキー監督作品「おとなのけんか」の記事はこちら→

「『上から目線』の時代」冷泉彰彦著 講談社 新書 ISBN978-4-06-288141-8

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2012年5月13日 (日)

「映画『紙兎ロぺ』 つか、夏休みラスイチってマジっすか!?」 劇場版、マジっすか!?

東宝シネマズ系の劇場で本編の前に流されるショートムービーアニメ「紙兎ロペ」がまさかの長編映画化
です。
これを聞いたときは、ロペじゃないですけれど「マジっすか!?」と言いたくなりました。
このシリーズ、好きなのですよね〜。
実はDVDのVol.1は持っていたりします(現在はVol.3まであるらしい)。
シャンテに映画を観に行く時の楽しみの一つでもありました(以前は東宝シネマズ系全部でかかっていたわけではなかったのです)。
その後、人気が出てきたからか東宝シネマズ系の多くの館でかかるようになりました。
しかし、劇場版の制作が忙しかったからか、最近はかかっていなかったので寂しいところでした。
長編になってロペとアキラ先輩がたっぷり観れるのは嬉しいところではあるのですけれど、心配なところもありました。
長編になって話を長くするために、もともとのショートムービーが持っているゆる〜い空気感みたいなものがなくなってしまったらイヤだなと。
このシリーズの魅力はロペとアキラ先輩のたわいもないゆるい会話が魅力なのですよね。
「それ、あるある〜!」みたいな。
その心配は杞憂だったように思います。
長編になってもロペとアキラ先輩のたわいもない会話は変わりません。
長編ということで縦軸になる宝石泥棒の話はあるのですが、基本的に二人はその事件には関わらない。
彼らは夏休み最後の一日をいつものとおりゆる〜く過ごしているだけ。
最後の日なのにゆるくて、アキラ先輩大丈夫かというツッコミはあるのですが(笑)。
この二人の空気感を大切にしてくれたのは嬉しかったですね。
今回の長編で初めて知ったのはロペとアキラ先輩って高校生だったんですね。
やっていることは中学生、いや小学生レベルなのですが、大丈夫か二人?(笑)。

ショートムービーで好きなのは「携帯ゲーム編」と「紅白帽編」。
これも「あるある〜」なんですよね。
ロペとアキラ先輩以外のキャラで好きなのはアキラの姉ちゃん(篠田麻理子さん)、あとキリン先生です。

この記事書き上げてアップしようかとしたら、丸ごと消えてしまったのです、ガーン。
思わず言ってしまった。
「マジっすか!?」

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2012年5月12日 (土)

「ポテチ」 口には出さない秘めた「想い」

伊坂幸太郎さんの短編「ポテチ」を、中村義洋監督が映画化しました。
中村監督は伊坂作品はこれで4作目になりますね。
今までの作品についても僕も好きなのですが、中村監督と伊坂作品の相性はいいのでしょう。
伊坂さんの作品というのは、「人の想い」を描いているものが多いですよね。
そしてその「想い」というのは、口に出して大きな声で言うものではなく、胸の中に秘められているもの、けれど、その人の行動原理にもなるほどのとても強い「想い」なのです。
伊坂さんの作品はその秘められた「想い」が物語の最後に明らかになって、それによって人々がなぜこのように行動したのかが、すとんと腑に落ちるものが多いような気がします(「アヒルと鴨のコインロッカー」「ゴールデンスランバー」など)。
ミステリーではないですけれど、登場人物の行動と心の謎解きが行われるので、観終わったときになんというかすっきりと晴れやかな気持ちになるのですね。
このあたりの伏線の張り方を大仰にやるとクサかったりするのですが、仕掛けを感じさせないようにしながらも仕掛けている繊細さみたいなものが、中村監督にはあるような感じがします。
あと伊坂作品&中村監督に欠かせないのが濱田岳さん。
今までの3作品にも出演していますが、本作では主演です。
主人公忠司はすごく抜けていて天然ぽいところもあるのですけれど、とてもピュアな正直者。
このあたりの雰囲気は「アヒルと鴨のコインロッカー」に通じるところもあるような気がしますが、濱田さんはぴったりです。
中村監督と濱田さんは、ティム・バートンとジョニー・デップのよう。
こちらも相性がいいのでしょうね。
本作では中村監督、出演もして濱田さんとのやり取りまであって、そして最後は一番おいしいところを中村監督が持ってってます(笑)。

<ここから先はネタバレしています>

タイトルの「ポテチ」ですが、これは言うまでもなく「ポテトチップス」のことです。
冒頭にも書いたように本作も伊坂作品らしいお話しになっています。
濱田さんが演じる忠司が心に秘めた「想い」。
それが最後に明らかにされ、そしてなぜ忠司が「ポテチ」で涙を流したのかが明らかにされるわけです。

忠司は、バカ正直とも言っていいぐらいにピュアな男です。
生業は空き巣なのですが、盗みに入った先で人助けなどもしてしまったりするわけなのですね。
また忠司は地元のプロ野球チームの尾崎の大ファンで、すごく思い入れを持っています。
それは尾崎が忠司と同じ生年月日、同じ病院で生まれたと知ったからで、忠司にとっては尾崎はヒーローであったわけですね。
忠司は健康診断を受けた際、ある事実に気づきます。
それは母親と血がつながっていないのではないかということです。
そしてそれを調べたところ、病院で赤ん坊の取り違えが起こり、母親の実の子供は尾崎であるということを知ってしまうわけです。
忠司は自分が出来の悪い不肖の息子であるという自覚があります。
もし病院で取り違えが起こらなければ、母親は出来のよい息子を持ち、もっと幸せであったのではないかと思うのです。
しかし、物語上でこのような忠司の「想い」がわかるのはほんとに終盤のクライマックスです。
中盤くらいでタイトルにもなっている「ポテチ」に関わるあるシーンがあります。
忠司は同棲相手である若葉にコンソメ味のポテトチップスを買ってくるよう頼まれます。
彼は自分用に塩味を買ってきますが、若葉に間違えて塩味の方を渡してしまいます。
若葉は食べ始めてコンソメ味ではないこと気づき、「取り替えて」と言いますが、「やっぱいい」と塩味を食べ続けます。
忠司は「替えるよ」と言いますが、若葉は「食べてみたらこっちも美味しいからいい」と言うのです。
ここで忠司は思わず涙します。
「俺はどうしたらいいんだよ」と。
若葉もそうですが、観ている側はなぜここで忠司が泣くのかがわかりません。
ここが伊坂作品らしい絶妙な構成であると思います。
これがミステリーにおける「謎」の提示なのですね。
彼はなぜ泣いたのか。
しかし上で書いたように、忠司が出生の事実を知ってしまっていたということを知ると合点がいくわけです。
ボテチを渡し間違えたというのは、赤ん坊を取り違えたということに通じます。
忠司はその間違えに気づき取り替えようとしますが、若葉がそのまま食べ続けたことにより、やはり間違えたということは取り消せないのだと思ったのではないかと思います。
あるべき状態ではないのに、そのまま出来の悪い自分は母親の息子でいなくてはいけないという、母親への申し訳なさで彼は涙したのでしょう。
だからこそ本当の息子である尾崎は自分にとっても、そして本当の母親にとってもヒーローであってほしいと願うのです。
ここに忠司の純粋さを感じます。
けれど忠司の母親は、もし事実を知ったとて、忠司のことを息子じゃないと言うでしょうか。
たぶんそういうことはないのだと思います。
若葉が「食べてみたら美味しかった」と言ったように、母親も「お前の母親になってみたらよかった」と言ってくれるのではないでしょうか。
忠司を愛している若葉と、忠司の母親が意気投合したところから見ても、同じような感覚を持っている女性だと思います。
忠司、若葉、そして忠司の母親、それぞれの「想い」を大声でつまびらやかに語るのではなく、そこはかとなく感じさせるところが伊坂作品の真骨頂であり、また中村監督の過剰になりすぎない演出の匙加減なのだと思います。
本作は1時間強という小さな作品ですが、それでもやはり伊坂さん、中村監督らしさを持った作品に仕上がっていました。

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本 「三匹のおっさん ふたたび」

有川浩さん「三匹のおっさん」の続編です。
こちらの作品は好きだったので、シリーズ化は歓迎です。
前作は三匹のおっさんこと、ご近所限定の見回りをやっている清一、重雄、則夫と、清一の孫の祐希、則夫の娘早苗が中心の物語でしたが、今回は前回に登場したサブキャラクターが中心となるエピソードがいくつかありました。
清一の義理の娘であり、祐希の母である貴子を主人公にしたエピソードは意外ではありましたが、有川さん的にはやってみたかったとのことです。
いいお話に仕上がっています。
本作でところどころ触れられていることについて、僕も個人的に思っていたことがあり、「やはりそうだよね」と思うことがありました。
前作や本作でも、礼儀や社会のルールを守れない若者に対して三匹たちが、指導するというエピソードがいくつかあります。
「最近の若者は・・・」というのは常套句で、確かに若者の中にはこういう社会性のない人がいるのは確かです。
ただそれが若者だけかというと、最近はそうでもない。
僕も「最近の年寄りは・・・」と言いたくなるようなことが何度もありました。
例えば込んでいる電車で、シートに座っている老人が荷物を脇のシートに載せたままで平然としていたりすることを何度も見ました。
荷物は抱えるなり、網棚に上げるなりすればいいわけです。
また込んでいる車内にでかいリュックを背負ったまま入ってくる、並んでいる列を無視して割り込んでくる。
若者であれば注意すればいいのですが、年寄りについては注意するのも憚られます。
年寄りだから優先されるのは当然の権利と思っているのでしょうか。
有川さんもそのあたりは気になっているようで、本作では若者だけでなく、大人、年寄りのマナーの悪さについても一刀両断しております。
子供の頃、「自分がやられたらイヤなことはするな」と教わりましたが、こういう意識にない人が世代を問わずに増えてきているように思います。
「最近の若者は・・・」と言う前に、まずは自分の振る舞いが大丈夫かと胸に手をあてることが大人には必要かもしれないですね。

前作「三匹のおっさん」のレビューはこちら→

「三匹のおっさん ふたたび」有川浩著 文藝春秋 ハードカバー ISBN978-4-16-381260-1

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2012年5月 9日 (水)

本 「ちょんまげぷりん」

映画「ちょんまげぷりん」の原作小説です。
お話の展開、テーマは映画も小説もほぼ同じでした(途中の安兵衛が有名になるところの件はちょっと違いましたが)。
江戸時代からタイムスリップして現在にやってきた旗本侍の安兵衛が言うことが「分相応」。
「分相応」というと、「分相応をわきまえろ」みたいなネガティブな使い方もありますが、安兵衛が言っていることはちょっとニュアンスが違います。
安兵衛が転がり込むこととなる家の、ひろ子はシングルマザー。
シングルマザーだから子育てもしなくちゃいけないし、仕事もしなくちゃいけない。
彼女は決して仕事は嫌いじゃないのだけれど、幼稚園のお迎えもあるから仕事は早くあがらなくてはいけません。
そのため仕事も中途半端な感じもあるし、子供にもいろいろ不満をもたせているというのもわかっています。
そんなとき、転がり込んできた安兵衛が恩返しということで、主夫業を引き受けてくれることとなりました。
ひろ子は仕事に割く時間ができ、それに充実感を感じます。
けれど、家に帰る時間は遅くなり、子供とふれあう時間も少なくなってしまいます。
とかく現代人は背伸びをしてしまいがちなのかもしれません。
仕事も全力、家庭も充実というのは理想といえば理想ですが、なかなかそううまくいくことは難しい。
仕事に目一杯だと家庭は疎かになっちゃうし、家事ばかり追われると仕事も十分にできない。
たぶんみんな家族持ちの人はそういうジレンマにあるわけで。
どっちも100%というのはなかなか厳しいのですね。
そういうとき自分にとってのいいバランスを探っていくといかなくてはいけないのでしょうね。
それがその人にとっての「分相応」なのかもしれません。
そのバランスはその人、その家庭によって違うでしょう。
でも自分にとっても、家族にとってもいいバランスというのを見つけていくのが大切なのでしょうね。
それはたいへんなことかもしれませんが、重要なことではあるのでしょう。
また「分相応」というのは役割を固定するということでもないのですよね。
安兵衛は侍でしたが、お役がないという状況でした。
身分はあるけれど、仕事らしい仕事がないという状態です。
けれど彼は現代にきて、お菓子作りという自分の才能を発見しました。
彼はそこで初めて仕事をするという楽しさを味わうのです。
それは身分で定められているから、それを受け入れるということでは考えられないことでした。
彼は江戸時代に戻ってから、侍の身分を捨て、自分で菓子のお店を開くこととなるのです。
これは彼にとっての「分相応」を見つけたということなのでしょう。
「分相応」というのは自分にとってやりがいのある状態、バランスというのを、与えられるのではなく自分で探っていくということなのかもしれないですね。

「ちょんまげぷりん」荒木源著 小学館 文庫 ISBN978-4-09-408467-2

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2012年5月 6日 (日)

本 「シャーロック・ホームズの事件簿」

コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの最後の作品になります。
12の短編が収録されている短編集になります。
個人的にもこれでシャーロック・ホームズシリーズは完読ということになります。
学生の頃から少しずつ読んでいるので、20年以上かかってやっと(苦笑)。
久しぶりに読んで思ったのは、今現在読んでも、十分に読むのに耐えられるということですね。
推理小説やSF小説というのは、そこで語られる内容(推理小説であるとトリックとかSF小説では科学考証とか)が進化していて、あとで読むと古くさく感じたりすることもあるのですけれども。
確かに今読むと、古くさいところもなくはないのですけれど読めたものではないということではありません。
さすがにその後の探偵小説の大本になっているシリーズだけあって、トリックは古くさくなってもプロットは古びないのかもしれません。
久しぶりにこのシリーズを手に取ったのは、ガイ・リッチー監督の映画「シャーロック・ホームズ」シリーズを観たからです。
そこでは新しいホームズ&ワトソン像が描かれているわけですが、元々の小説を読んでみると、そのキャラクター造詣はそれほど突飛でもないことがわかります。
本作でもホームズは格闘技ができると本人は言っていたりしますし、ワトソンも元軍人(軍医)だけあって拳銃を持ってホームズを警護したりしてました。
このあたりのワトソンの描写はガイ・リッチーの「シャーロック・ホームズ」で描かれる射撃の名手のワトソン像に繋がるかもしれません。
また本作中ではホームズがワトソンのことをかなり評価しているということを窺わせる描写がいくつもありました。
ワトソン自身は自分のことを過小評価しているようですが、ホームズはワトソンならではのものの見方を自分の推理に役立てているということがわかります。
彼がいないとダメという感じがホームズにはあり、それも映画の「シャーロック・ホームズ」のホームズのワトソンへの強い友情(一部では愛情という説もあるが)の発想に繋がったのかもしれないと思ったりしました。
そういう点で、ガイ・リッチー版の「シャーロック・ホームズ」はそれほど突飛なものではないなと感じました。
挿絵や幾多の映像化された作品のイメージにとらわれずに、オリジナルを新で読むと、そういう風にも解釈できるということなのかもしれないですね。

「シャーロック・ホームズの事件簿」コナン・ドイル著 東京創元社 文庫 ISBN4-488-10109-7

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「宇宙兄弟」 原作ファン的には×!

原作のマンガは今年になってから読み始め、たちまち夢中になりました。
映画化されるということを知り、また知り合いからの猛烈なプッシュなどもあって手に取ったのですが、たいへん面白い。
宇宙飛行士になる道のりというのを多くの取材をベースにわかりやすく描き、また登場人物たちがとても魅力的です。
中心となる南波六太、日々人だけでなく、周囲の人物についてもサイドストーリーが丁寧に描かれているため、キャラクターがイキイキとしているのですね。
「宇宙兄弟」というタイトルから六太と日々人の兄弟物語ととれますが、実際はマンガは二人を中心にしつつも、宇宙を夢見る人々たちを描いている物語です。
夢見る力を信じる物語、そう原作のマンガは言えると思います。
マンガ原作の映画化にあたっては、キャスティングが重要だと言えます。
本作では六太を小栗旬さん、日々人を岡田将生さんが演じています。
特に六太は難しいかと思いましたが、小栗旬さんは原作のビジュアルイメージを壊すことはなかったかと思います。
原作のイメージ通りだったのは、せりか役の麻生久美子さんですね。
この方はぴったりでした。

では映画の評価についてですが。
原作ファンの自分としては、いまいちだったという気がします。
まだ連載も続いている作品ですので、それを2時間程度の尺に収めるというのはなかなか難しいというのは承知の上なのですが、やはり原作が持つ魅力を表現できているかというとそうはなっていなかったと思います。
原作のエピソードは端折るのは仕方がないと思います。
しかしどのエピソードを端折るか、またどのようにまとめ直すかというのが、原作ありの映画化作品の腕の見せ所となります。
原作の魅力の一つであったサブの登場人物のサイドストーリーが多少端折られるのは、仕方がありません。
けれどほぼ全く触れられていないので、ほぼその他大勢になっており、登場人物に魅力がありません。
原作の「宇宙兄弟」魅力は登場人物それぞれが持っている宇宙への「想い」を描くことです。
せりかにしても、ケンジにしても福田さんにしても、それぞれが同じように強い宇宙への「想い」を持っている。
そして彼ら宇宙飛行士を送り出そうとしている大勢のスタッフも同じく。
この多くの人の宇宙への「想い」が描かれているというのが、「宇宙兄弟」の魅力の一つなのですがこれがかなり減衰されています。
限られた尺のなかで、六太と日々人の兄弟にスポットをあてたいという判断もわからなくはありません。
ではその二人が魅力的かというとまだまだ足りない。
六太は冴えない男に見えます。
けれど彼が弟に遅れながらも着実に宇宙飛行士への道を歩んでいくのは、彼ならではの魅力があるからです。
その一つが周囲への目の配り方、注意力です。
映画でも椅子の仕掛けに気づいたというエピソードがちらりと出てきますが、これだけではなかなか伝えきれない。
そして彼の目の配り方というのは、単なる事象についてだけではなく、いっしょにいる周囲の人々の気持ちにも及ぶわけですね。
原作マンガの中での閉鎖空間での選抜試験におけるグリーンカードの一件、そして宇宙飛行士に誰がふさわしいかを自分たちで決めるということについてのエピソードは、六太が周りの人々の気持ちをくむことができ、そしてそれを自分では意識せずにまとめあげていく力を持っているかというのを表す好エピソードであったと思っています。
宇宙飛行士はその仲間に己の命を預けられるかどうかという気持ちで、メンバーを選ぶということです。
六太はまさに彼になら命を預けられると思わせられる人物なのですね。
そういうことを表す原作の閉鎖空間での選抜試験がかなり変えられていて、その本質が歪んでしまっているのが残念でした。
日々人についても同様です。
彼は一件、おおまかで大胆なところがある楽天家の人物に見えますが、うちに秘める強い「想い」は誰にも負けないものがあります。
そして決して諦めない、ほんとうの意味での強い楽天家なのですね。
だから月面でのローバーの自己の時も仲間を一緒に助けようとし、そしてそれを決して諦めない。
原作ではそういう日々人の強さをこの月面での事故で描いていたと思います。
しかし映画では一度彼は諦めてしまう。
これでは日々人の強さが描けていない。
兄弟二人に絞り込んだのはわかりますが、その兄弟のキャラクターも原作のそれを表現し切れていないように思いました。
基本的に脚本が悪いのだと思います。
脚本の大森美香さんは今までけっこう原作ものの映画化は上手にやってきた人なのだけれどなぁ。
ちょっと残念でした。

本物のバズ・オルドリンが出ていたのはちょっとびっくりしたけれど。

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2012年5月 5日 (土)

本 「数学的思考法 -説明力を鍛えるヒント-」

日本の子供たちの数学力が下がってきているという報道がされているのを聞いたことがある方はいるかと思います。
それこそ「ゆとり教育」の弊害ということで、授業時間や教える内容の見直しが検討・実施されています。
僕も最近は「円周率は3.14ではなく3で教えている」とか「台形の面積の出し方は教えない」と聞いて驚いた覚えがあります(さすがに円周率の「3」は見直されたらしいけれども)。
では、僕らが学生の頃のように公式ばかりを覚えさせられた状態に戻るのがいいのかというとそうでもないのですね。
著者がこちらの本で訴えているのは、試行錯誤の大事さ、丸暗記ではなくその公式などが導きだされるプロセスの重要性です。
僕が小学生の頃、台形の面積の出し方はこのように教えられました。
(上底+下底)×高さ÷2
こういった公式をたくさん覚えさせられて、算数・数学嫌いになった方も多いかもしれません。
僕はそのときの教育指針なのか、教えてくれた先生が良かったかは定かではないのですが、なぜこのような公式になったのかを教えてくれました。
まったく同じ形の台形を上下逆にしてくっつけると平行四辺形になります。
平行四辺形の面積の出し方は
底辺×高さ
です。
台形の面積の公式は同じ大きさの台形を2つくっつけてできた平行四辺形の面積を出し、それを最後に1/2にしているという意味なのですね。
平行四辺形の面積は鈍角から垂直線を立ち上げてできた鋭角を含む三角形を切り取り、もう一方にくっつけると長方形になることから出しています。
長方形の面積は底辺×高さですから、平行四辺形も同じ考え方で面積を出していいというわけです。
こういった論理の筋道を教えてもらったので、公式を普段の生活では使うことがなくても、それを導きだすことができるわけですね。
公式を丸暗記というのはけっこう辛い。
しかしそこに流れがあれば覚えやすいのです。
そしてその論理の流れが頭に入ると、その考え方を他にも応用できるわけです。
著者が試行錯誤やプロセスが大事だと言っているのはここにあります。
丸暗記で覚えたものは応用が利かない。
プロセスで覚えたものは応用が利く。
社会に出て公式なんぞ使わないから、数学なんて必要ないという人はいます。
公式を使わないという点については、確かにその通り。
微分・積分の公式なんて使うことはないですし、ピタゴラスの定理だってそう。
しかし、その公式にいたる考え方は物事を理解する上では、実は必要であったりするのですよね。
社会に出て思うのは「証明問題」などはしっかりとやっていたほうがいいなと思ったりします。
「どうしてそういう風にいえるのか」という論理性を求められることはかなり多いわけです。
数学的思考法というよりは、プロセスを教えるということは他の教科でも必要だったりするかなと思います。
例えば、歴史とか。
「いいくに(1192年)つくろう鎌倉幕府」などと年号を丸暗記した記憶のある方も多いかと思います。
個人的にはこの年号を覚えるというのは小さい頃から大嫌いで、正直覚えようとしませんでした。
しかし、歴史は大好きだったのですね。
どちらかというと「○○」という出来事があって、「△△」という出来事が起きたといった、因果を感じるのが好きだったのです。
因果というと小難しいですが、ようは物語、ストーリーです。
年号を穴埋めする問題は、テストの中で出ても1、2問、それは捨てて、もっとストーリーで理解して「頭に入ってくる」ほうがよほどいい点数を取れる(いい点数をとるというより単に好きだったということかもしれないですが)。
勉強がつまらないという子供の大抵は、丸暗記を強要されるからだと思います。
それは苦痛です。
社会人になっても苦痛です。
けれどそのプロセスを理解し、ストーリーを追っていくことは数学でも歴史でも、そして仕事でもけっこう楽しかったりするのです。
試行錯誤させる、プロセスを理解させる、それこそが教育の真髄なのではないかと思ったりします。

「数学的思考法 -説明力を鍛えるヒント-」芳沢光雄著 講談社 新書 ISBN4-06-149786-3

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