2018年6月10日 (日)

「デッドプール2」 無駄遣いな笑い(いい意味で)

やはり他の映画よりも外国人の観客が多かったような・・・。
字幕を観ながらの鑑賞だと、英語を話す彼らと微妙に笑うタイミングが違うのですよね(苦笑)。
マーベルの中でも「アベンジャーズ」や「X-MEN」とは異なる方向を目指している異端児作品、「デッドプール」の続編です。
映画のマニアックな小ネタや、悪ノリお下品トークなどがふんだんに入り笑わされてくれた前作でしたが、本作もそのノリは継続しています。
個人的には前作よりも楽しめたかもしれません。
「デッドプール」の世界観に慣れてきたからかな。
前作ではまだ慣れておらず、どのように受け止めていいかがわからなかったところもありました。
本作はいくつも笑えるところや、面白かったところがあります。
なんというかむやみに無駄遣いな笑いがいいですよね。
いくつか自分のツボにはまったところを書いていきましょう。

まず笑わせてもらったのは「007」風のオープニング。
そもそも「007」っぽいオープニングってなんなんでしょうね。
ムードがある音楽と超スローモションな映像。
女性の肉体と武器のモチーフ。
幾何学的で抽象的なレイアウト・・・。
いろいろあると思うのですが、スタイルがあるからこそ出ているのがデッドプールでも「007」っぽいって見えるのですよね。
ところどころ「フラッシュダンス」も織り込んでくるし・・・(笑)。

せっかく集めたXフォースの面々が次から次へと脱落していくのも面白い。
ピーター以外は何かしらの超能力を持っているはずなのに、それを発揮するまもなく、あっさりと・・・。
まさに無駄遣い。
ピーターも実は何かあるのかなと思ったら、本当に何もなかったでしたねえ。
やっぱり無駄遣い。

あとはデッドプールが下半身を吹き飛ばされつつも、それが再生していく過程ですね。
下品と言えば下品なんですけれどね。
「クララが立った!」的なところはバカバカしくてサイコーでした。

もちろん「グリーンランタン」ネタも相変わらずで良かったです。
ライアン・レイノルズ的には無くしてしまいたい黒歴史なのですね。
いつまでもネタに使えるいい作品ではありますが(苦笑)。

新登場のキャラクターについてもケーブルはただの悪役かと思っていたら、存外いい奴でしたね。
ジョシュ・ブローリンは「インフィニティ・ウォー」のサノスといい、ただの悪役ではない味わい深い役が多いですね。
続編が作られるとしたら、Xフォースのメンバーとしてレギュラー定着ですかね。

あとドミノも良かったですね。
運がいいのが、超能力っていう。
デッドプールとは別の意味で絶対やられないというのが、新しいアイデアだと思いました。
だからこそアクションなど今までとは一風変わったアクションになっていたと感じました。

おちゃらけたところだけでなく、ストーリー的にもちょいといい感じのところがあるのもいいアクセントでした。
最初にデッドプールが「ファミリー映画だ!」と言ったところは、?と思いましたが、終わってみると確かにファミリーをテーマにした作品になっていました。
デッドプールが誰かのために戦うようになるとは思わなかったですが、作品に深みが出たと思います。

デッドプールがトニー・スタークにアベンジャーズに入りたいといって断られたというネタがネットに出ていましたが、それも20世紀フォックスがディズニー(マーベルが傘下)に買収されたら、実現しちゃうかもしれないですね。
されなくても、スパイダーマンみたくコラボしてもおもしろいかも!?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 9日 (土)

「仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判」 二人の背負う十字架

「仮面ライダー」シリーズの劇場版となりますが、いわゆるテレビで放映されている平成仮面ライダーシリーズとは異なり、非常に大人向けの内容となっています。
そもそも「仮面ライダーアマゾンズ」とはアマゾンプライムでのネット配信用に作られたシリーズで、そのため色々なテレビでの表現上の制約(残酷描写など)から解き放たれて、かなりチャレンジングな内容となっています。
脚本は小林靖子さんで、仮面ライダーシリーズでは「仮面ライダー龍騎」で脚本を担当、13人の仮面ライダーが登場し、お互いに最後の一人になるまで戦い合うという当時としては非常にセンセーショナルな内容でした。
最近では「進撃の巨人」のアニメのシリーズ構成を担当しており、ご存知の通り、こちらも色々な意味でのセンセーショナルさを持っている作品でした。
本作で登場する怪人はアマゾンと言われる人工生命。
彼らは人間の科学によって生み出されたあたかも人間のような姿形をした生命ですが、彼らは人を喰う。
研究所から脱走したアマゾンズは人間社会の中に隠れ、人を喰らいます。
彼らを狩るために、アマゾンズを開発した科学者、鷹山仁は自らにアマゾン細胞を注入し、アマゾン化、アマゾンアルファとなります。
また人間とアマゾン細胞から生み出されたアマゾン、水澤悠はアマゾンでありながらも人を喰うことを厭います。
実はアマゾンの中にも人を喰わず、静かに暮らしたいと考える者もいたのです。
悠はアマゾンオメガとなり、人もアマゾンも守ろうとします。
「仮面ライダーアマゾンズ」はこの二人の物語です。
鷹山はアマゾンが誰であろうと(自分の子であろうと)、彼らを抹殺するという強迫観念を持っています。
彼のアマゾンへの行為は苛烈であり、彼の新年は半ば狂気のようになっています。
それが彼らを生み出してしまった自分の責任であると考えているのです。
彼は「生み出した者」として、十字架を背負ってしまったのです。
そして悠はアマゾンとして「生み出されてしまった者」です。
彼が人を喰うこといかに厭っても、その本能は抑えられない。
そのように生まれてしまったことに彼は責任はないのですが、しかしそういう自分を受け入れなければいけません。
彼はまた違った意味での十字架を背負っているのです。
このシリーズは善と悪との戦いを描いているわけではありません。
生き物が生きるか死ぬかという極限の中に追い込まれ、そのような状況においても尚、生きることを求めてしまうという生命が持つ業を描いているように思います。
劇場版においては鷹山も悠もそれぞれが持っていた「越えてはいけない一線」をも越えます。
鷹山は人を喰うアマゾンを滅ぼすために、アマゾンを抹殺しようとしていたわけですが、その彼が人間を殺してしまう。
また食らうことを忌避していた悠は鷹山を止めるため、アマゾンを喰らいます。
そこまで二人は追い込まれるわけです。
そこまでして二人は生きること、自分が存在している意味を果たそうとするわけです。
「越えてはいけない一線」を越えることは自分が守るべきことと矛盾が起こるわけですが、その矛盾を抱えることを承知で(さらに業を抱えることを承知で)、彼らは戦いに向かいます。
まさに生きるためにはなんでもする、生命の本質を彼らは体現しているのです。
スッキリとした答えが出る作品ではありません。
悶々とするところもあります。
それは理性や倫理、ルールという枠組みで見る味方に慣れているからかもしれません。
生命とはもっと生々しいものであるのでしょう。
「仮面ライダー」シリーズとしては非常に異質感のある作品です。
しかしある種の型ができてきているテレビシリーズに対するアンチテーゼでもあるのでしょう。
そういう作品を作れる「仮面ライダー」はまだまだ懐が深く、可能性を持っているシリーズであると感じました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月24日 (木)

「GODZILLA 決戦機動増殖都市」 諦めか、融和か、支配か

アニメーション版ゴジラ3部作の2作目です。
1作目は想像していたよりも、近年稀に見るSF色が強い作品でした。
前作のラストではようやく無敵のゴジラを倒したと人類が歓喜したその時、それは本当のゴジラではないことが判明、さらに巨大なオリジナルのゴジラが登場し、愕然としたところで物語は終わりました。
そしてさらに地球上には人類の子孫と思しき人々がおり、またかつて対ゴジラ決戦兵器と開発されたものの、開発途上でゴジラに破壊されたと思われていたメカゴジラが存在するかもしれないということが暗示された終わり方でした。
さては2作目はゴジラVSメカゴジラかと思ったわけですが、本作は予想を斜め上にいく展開でした。
本作におけるメカゴジラの本質はそれを構成するナノメタルでした。
これは自己増殖し、進化することができる金属素材です。
いわば金属でできたゴジラ細胞ともいうべきものでしょう。
ナノメタルはゴジラの目を逃れ増殖し、対ゴジラ用の要塞都市メカゴジラシティとなっていました。
人類らはこのメカゴジラシティを使い、再びゴジラに決戦を挑みます。

この3部作のSF色を強くしている設定の一つがゴジラに戦いを挑み、負け、放浪する羽目になったのが、人類だけではなく、エクシフ、ビルサルドという種族も一緒であるということです。
エクシフもビルサルドも故郷を追われ、地球にやってきました。
優れたSF作品は現実の社会問題などを暗示しているものが多いですが、この設定もそのようなものと受け止めることができます。
本作で明らかになるように人類と同様に、エクシフも怪獣「ギドラ」に故郷を滅ぼされました。
ギドラが彼らの技術によって生み出されたものであるかわかりませんが、彼らはその滅びからの学びによって自己犠牲や献身を解く宗教を持つようになります。
一方ビルサルドはやはり自らのテクノロジーで自分たちの世界を追われますが、彼らはあくまでテクノロジーで自然をコントロールできるという考え方を持っています。
本作において、彼らの考え方は顕著に表れ、自らの技術が生み出したナノメタルを使いゴジラと戦います。
しかし、劇中でも指摘されているように彼らの技術がゴジラに勝ったとても、それが新たなゴジラとなる危険性を孕んでいました。
これら3種族はともにテクノロジーの進化の過程で、自然・世界から大いなるしっぺ返しをくらい、滅びに面します。
その経験の中で、生物はどう学ぶことができるのかというこの作品は描いています。
その学びを経た上で生物はより進化することができる。
諦めるのか。
融和するのか。
支配するのか。
ビルサルドはあくまで自然を支配することを目指し、結果より圧倒的な力によってねじ伏せられます。
所詮力では自然を制することはできません。
ゴジラは野蛮で暴力的です。
それだからこそ自然の力を象徴したものとも言えます。
無限とも言える自然を征服することはできません。
それではただその力に屈服して、滅びを待つのか。
それとも融和の道はあるのか。
一つその可能性が見出せるのが、本作に登場した新たな種族フツアです。
彼らは人類の子孫と思われ、ゴジラに支配された世界に適応しています。
フツアはその遺伝子に昆虫のものも取り込んだと思われ、それによりゴジラ化した世界に順応したのです。
まさに融和と言えるでしょう。

圧倒的なゴジラになすすべもない3種族。
そして次回作ではエクシフを滅ぼした「ギドラ」の登場も暗示されます。
ゴジラVSギドラとなるのか。
はたまた再び斜め上を行く展開となるのでしょうか。
なかなか展開は読めませんが、そこがこのシリーズの面白いところ。
さらにハードなSF的な展開を期待したいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月12日 (土)

「アベンジャーズ/インフィニティ・ ウォー」 無限に続く戦いか

ある意味、今までのマーベル・シネマティック・ユニバースの総決算とも言える作品ですね。
事前に観た方はかなりの高評価をしていたので、期待して観に行ってきました。
個人的には今までとは異なり、かなり重い展開であることと、登場人物が多くてやや話が忙しいのが気にはなりましたが、マーベルファンに対してのイベント映画としてはしっかりと堪能できました。
総決算と言えるくらいだけあって、登場するヒーローの数も半端ありません。
なかなかこれだけ出てくると、それぞれのキャラクターのことを描くのに時間がないと思うのですが、なんとかまとめあげていたと思います。
中でもアイアンマン、ソー、スターロードあたりが中心に話が進んで行きます。
とはいえ、真の主役と言ったら敵役のサノスになるのではないでしょうか。
登場したキャラクターの中でも最も時間をかけて語られていたのは彼ではなかったかと思います。
サノスについては今までのマーベルムービーの中でも名前は何度となく語られてきました。
曰く宇宙最強の敵と。
なので私はサノスはただただ無慈悲な完全な悪の存在であるというようなイメージを持っていました。
しかし、本作を観るとサノスは純粋な悪といった単純な人物ではありませんでした。
彼は容赦なく人々を殺していきますが、それは彼の中では慈悲でありました。
増えすぎた生き物がやがて資源の枯渇に滅びて行く。
そうなれば全ての生物が絶滅してしまう。
だから生き物を半分にし、余裕を持って行きていけるようにする。
宇宙のバランスを保つということを大義としています。
これは歪んだ考えであることは間違いありませんが、彼は彼なりの考えを持っているということがわかります。
そしてそれはある側面では説得力を持っているということがあります。
そしてまた彼は人としての感情、愛情を持っている(歪んではいますが)こともわかります。
ただただ単純な悪ではない。
彼なりに正しいと思う信念をサノスは持っています。
だから彼は強い。
強大なパワーを持っているから彼が強いわけではなく、彼が信念を曲げないから強いのですね。
それに対し、アベンジャーズたちは常に押されます。
かつてないほどの劣勢に彼らは立たされます。
そして衝撃的なラストを迎えます。
当然これでマーベル・シネマティック・ユニバースが終わるわけはないでしょう。
キーとなるのはドクター・ストレンジが持っていたタイムストーンかと思います。
インフィニティ・ウォーというタイトルからすると無限に続く戦いということですから、時間がポイントになるかと思うのですよね。
今はサノスの手に渡っていますが、これにドクター・ストレンジを何か仕掛けを施したような気がします。
タイムストーンなので、時間を巻き戻してしまうとか(アメコミではよく使われる手)。
もしくは人々を半減させるということで、片方はもう一つの宇宙(ユニバース)に移ったとか。
何かびっくりするような解決方法を見せてくれることでしょう。
劇場では「アントマン&ワスプ」の予告が入っていましたが、こちらはこのインフィニティ・ウォーより後の時間軸なのかな?
それでしたら、何かしらの答えが用意されているかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「レディ・プレイヤー1」 情報の洪水の中での宝物

初めて本作の予告を観た時、非常にびっくりしました。
デロリアンが爆走していて、アイアン・ジャイアントが大暴れしている!
なんじゃこりゃ!と。
それでもってスピルバーグ監督作品って・・・。
そして、実際に本編を観てみると、出るわ、出るわ。
キングコングにTレックス、チェストバスターにビートル・ジュースにガンダム、メカゴジラ!!
「オレはガンダムで出る!」って、日えー。
80年〜90年に若かりし頃を過ごした自分としては、ど真ん中の映画やアニメをネタとしたアイテムがエピソードが満載。
全く気づかなかったネタもいくつもありそうです。
使っている曲も有名な曲ばかり。
版権の許諾が非常に大変だったろうなあと想像するわけですが、これができるのはやはりスピルバーグだからでしょうねえ。
スピルバーグはまさに80年代以降のクリエーターではカリスマ中のカリスマ。
彼以降のクリエーターは少なからず彼の影響を受けていると考えていいでしょう。
そのカリスマから、映画の中に自分のキャラクターやアイテムを使いたいと言われたら、イエスと言いますよね。
彼くらいの大御所でしたら、作品に対してもリスペクトをしてくれて、大切に扱ってくれそうですし。
お話の筋自体はそれほど新しいものではありません。
自分たちの世界を支配しようとする組織に対し、アウトサイダーたちが協力してその支配に対して戦う。
しかし、先ほど書いたようなネタの情報量が半端ない。
それを追いかけて行くだけで大変。
また映像のスピードも速いし、画面上の情報量も多い。
その情報を処理する速度が要求されるので、観る方も疲れます。
私は普通の劇場で観たのですが、IMAXで3Dとかだったら、ぐったりしちゃうのじゃないかなあ。
情報処理力が要求されるということでは非常に現代的ではあります。
あと何度も確認で観てしまうといったフリークの方も出るかもしれないですね。
溢れそうになるほどの情報量があるというのは、現代的かもしれません。
インターネットには見切れないほどの情報があります。
人々はその情報のシャワーをまさに浴びています。
シャワーを浴びている中で、本当に大切なことは何かを見失ってしまうということはままあることです。
主人公は戦いの中で、本当に大切なこととは何かということを見つけられたのだと思います。
先ほどお話としてはよくあるパターンと書きましたが、この物語は主人公が冒険と試練を重ねた上で、宝物を得るというパターンでもあります。
主人公が手にしたのは、リアルの世界での本物の友情と愛情でした。
情報過多の中で、本質が見極めにくい世の中で、自分が本当に感じられる愛情こそが宝物なのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月30日 (月)

「いぬやしき」 ヒーローの本質

奥浩哉さん作の漫画が原作で、「GANTZ」同様に佐藤信介監督がメガホンを取っています。
「GANTZ」は原作も映画も非常にタッチが硬質なのですよね。
圧倒的な状態に対して、無常感というか、自分ではどうしようもない感じがあります。
そのような環境の中で、人は人らしく生きて戦えるか、状況に飲み込まれて人らしさを失っていってしまうかというところが描かれていたと思います。
そういう点において、本作「いぬやしき」も同じようなテーマを感じました。
あるときに、何者かによって人間ではないものに作り変えられてしまった獅子神という高校生と、犬屋敷という中年サラリーマン。
彼らが得たのは同じ能力ですが、二人はその力を全く異なることに使います。
獅子神の状況は不幸なものであることには間違いないですが、言ってしまえば不幸であるのは彼だけではない。
しかし、もともと自分の心の中にあった鬱屈した思いを吐き出すことができる力を得てしまったおかげで、彼は変わってしまいます。
そして一線を越えてしまったおかげで、どんどんと周りの者も不幸に巻き込んでいってしまいます。
彼の中には「こんなはずじゃなかった」という思いがあったのだと思います。
そしてまたその鬱屈した思いが、他への攻撃という形で現れてしまった。
そういう点で言えば、彼は非常に幼い心の持ち主であったのかもしれません。
かたや犬屋敷という男も幸せではありません。
家庭でも職場でも蔑ろにされており、ただそういう自分を諦めて生きています。
しかし、彼が獅子神と違っていたところは、人の不幸も幸せも自分のことのように感じることができる共感性でしょう。
これは人が持つ人らしい力であるのですが、それを獅子神は持っていなかった。
犬屋敷は人の持つ当たり前の共感性という力を持っていたのですが、人のために役に立つ能力を今までは持っていなかった。
それを彼は得ることができ、その力を人のために使った。
それまで人の役に立てなかったからこそ、それが彼の生きがいのようになったのでしょう。
人は誰かの役に立ちたいという思いは普通に持っているものなのですよね。
そういう意味では犬屋敷が特別な人間ではあったわけではありません。
当たり前の男なのですよね。
獅子神は世の中をわかっているような感じで見ていますが、その実何もわかっていませんでした。
人がどのように喜び、悲しむかということを想像できなかった。
自分のことだけで、他人のことを考えることができなかった。
犬屋敷は人に対して共感できる心を持っていた。
誰かが喜ぶこと、悲しむことに思いを馳せることができた。
それがこの二人の違い。
それが一人を悪役にし、一人をヒーローにした。
ヒーローにとって大事なのは見かけやその能力なのではなく、人としての心であるわけです。
設定としては非常に変わった作品でしたが、描いているのはヒーローの本質でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「パシフィック・リム: アップライジング」 ここまでくるとトランスフォーマー?

ギレルモ・デル・トロのオタク魂が爆発していた前作「パシフィック・リム」の続編になります。
前作は巨大ロボットと怪獣という「日本の文化(?)」を真正面に挑んだ作品になっていました。
変にハリウッド的にならず、あくまでも日本の特撮的な匂いを残した仕上がりになっており、特撮ファン的には気分が上がって見ることができました。
なので、続編が作られるらしいという情報があったときは、またそれこそ期待度が高まったのですが、さてどうだったでしょうか。
最初に感想を言うと「コレジャナイ」感ですね。
確かにCGなどがさらにパワーアップしているのですが、それゆえか「パシフィック・リム」と言うよりは「トランスフォーマー」を見ている気がしてきました。
前作であった巨大ロボットを動かしているという重々しさがなくなったんですよね。
歩くにしても走るにしても非常に軽快ですし。
あまりにアクロバティックな動きをすると、巨大ロボットというよりはスパイダーマンっていうような感じがしてきました。
やっぱりロボットにしても、怪獣にしても「ドシーン、ドシーン」という巨大感、重量感は欲しいのですよ、やっぱり。
デル・トロはわかったいたように思いますが、今回の監督からはちょっとそういうところはあまり感じなかったですね。
前作と同様に二人のパイロットがイェーガーを操縦するという設定は変わりません。
この設定により、前作ではイェーガーを動かすことが非常に難しく、それゆえの重量感を感じたものですが、今回はあまりその辺にはフューチャーしていなかったですね。
二人のシンクロが重要だということが、ドラマを産んでいたとも思うのですが、そこが希薄になったため、ドラマ性も感じませんでした。
ドラマ性よりは、ドッカーンバッターンというわかりやすいアクションの比重が高まっているのは、最近のレジェンダリーの作品に共通しているというところだと思います。
以前はもう少しマニアックなところがある会社だったという印象です。
中国系の資本に買われてから、割と派手なわかりやすい話が多くなってきたような感じがします。
なんかみんな一緒の雰囲気の作品になってきた感じがします。
途中で、量産型のイェーガーがプリカーサーに乗っ取られて、半怪獣のようになる場面がありますが、ほぼ「エヴァンゲリオン」でしたね。
使徒になってしまったエヴァ。
白い機体でしたし、エヴァ感満載でした。
引用といえばそうなのですが、丸パクリだったので、これはこれでどうかなと。
メジャーになりすぎず、オタク道を走った続編になって欲しかったです。
次回作もあるような雰囲気で終わりましたよね。
敵陣に踏み込んで行く展開になっていくと、益々「パシフィック・リム」というよりは「トランスフォーマー」な感じがしてきますね・・・。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月14日 (土)

「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」 乱世の男

昨年クリストファー・ノーランの「ダンケルク」で第二次世界大戦の初期のダイナモ作戦が題材となり、ダンケルクから脱出しようとする兵士たちの姿が描かれました。
本作はちょうど同じ時代、イギリスサイドの話です。
ウィンストン・チャーチルは、それまでドイツに宥和的な態度をとっていたチェンバレンに代わりイギリス首相になりました。
本作を見て感じたのは、チャーチルは極めて政治家らしい政治家であるということ。
政治家としての野心を隠そうとはしませんし、ドイツや政敵にも容赦はしません。
しかしながら、国を思い、国民を思う気持ちは他のどの政治家よりも持っています。
彼は聖人君子ではありません。
ことば巧みに国民を戦争に導く扇動者にも見えます。
彼は複雑な人間であり、一筋縄ではいきません。
フランスが降伏するに至り、チャーチルが追い込まれ庶民の声を聴く場面があります。
彼はドイツには屈服したくないという国民の意見を直接聞き、勇気をもらいます。
人民の声は彼を弱気から救っただとは思いますが、チャーチルはその意見を政治的に利用もします。
その後、閣外大臣に演説をするときにも庶民の声と言っている部分に巧みに自分の意見をのせているのですね。
この辺りは議員たちを自分が進みたい方向に上手に誘導しているわけです。
その後彼らの指示を背景に国会で演説を行い、挙国一致内閣はドイツに対し徹底抗戦の方針を決めます。
彼は彼自身の理想を持ち、強引に、そして犠牲を厭わず邁進します。
しかし、その犠牲にも心を痛め弱気になるところも持ち合わせています。
彼は演説し言葉で人々を先導しますが、また周りの人々の言葉に救われもします。
彼は完璧な人間ではありません。
近くに居たら、非常に扱いにくい人間でしょう。
しかし、強い理想があり、それを推し進める強さがある。
それがかつて見たことのない状況において諦めない力を人々に与えるのでしょう。
彼は乱世に生きる人だったのかもしれません。
彼は第二次世界大戦を戦い抜きドイツを屈服させ、その後戦争終了後は首相の座を追われます。
平和なときには彼の性格は過激に過ぎたのかもしれません。
ただ世の中が混乱しているときは強力な個性、リーダーシップが求められるものです。
確かに、彼は乱世の男だったのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年3月30日 (金)

「リメンバー・ミー」 家族の絆

最近は数々3Dアニメーションを作るスタジオが増えてきていて、公開数も多いですが、やはりピクサーの作品は別格な感じがします。
卓越した美しい映像の素晴らしさも一段上のような気がしますが、やはりそれだけにとどまらず、非常にエモーショナルであることがピクサーらしいんですよね。
一言で言えば、必ず心を揺さぶられるところがあるということ。
ピクサーの映画が大人にも子供にも楽しめるというのは、そういうエモーショナルな部分も格別であることからだと思います。
本作は家族の絆を描く物語です。
こう書くと陳腐な感じに聞こえるのですが、誰でも何かしら自分の中に経験があるところを感じられると思います。
若い頃は家族の絆とかいうと、何かこそばゆいというか、斜に構えて見ていたところがあるのですよね。
けれど、子供ができたり、最近父を亡くしたりなんていうことがあったりすると、家族というものを考えたりするようになります。
息子と父というのは、成人になって独立してしまうとなかなかしっかりと話す機会はないものだと思います。
別段不仲というわけでもなかったのですが、それぞれが独立して自分の生活があると改めて話をすることもなかったのですよね。
照れ臭かったのもありますが。
しかし、いざ突然亡くなってしまうと、父親は自分に対してどう思っていたのだろうかと考えたりもしました。
いい息子であったのだろうかなどと。
死んだ人と話をしてみたいという人の気持ちもわからなくはなかったしもします(以前は想像もつかなかった)。
そういう意味では、本作の主人公ミゲルは死者の国に行き、記憶にもなかった先祖と一緒に冒険をします。
先祖が何を考え、何を感じていたか、それを知ります。
それは得難い経験ですよね。
そういう思いがあると、それを何かしら繋げていきたいと思うのだと思います。
繋げていきたいという気持ちが絆なのでしょう。
自分の子供にも何か自分なりに思いを残してあげたいと思いますし。
本作のココが父親を思っていた気持ちのように、娘にも思ってもらえたら嬉しいなと。
ココが最後に父親の思い出を語る場面では思わず涙が出てしまいました。

日本語版を見たのですが、ミゲルを演じていた子の歌がうますぎてびっくりしました。
まだ13歳だとか。
凄すぎです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ちはやふる –結び–」 一瞬を永遠に

「上の句」「下の句」ともに好きな作品で、2作見終わってから彼らのその後が見たいと思っていたところでした。
確か映画を公開中に続編を作ることが発表され、公開されるのを心待ちにしてい作品でした。
監督も変わらずなので、前作の良さをそのまま引き継いでいる作品になっており、また題材が百人一首であることを踏まえた良いまとめになっていたと思います。
特に今回印象的であったキャラクターが競技かるたの最高峰にいる周防名人ですね。
比較的熱い思いを持ったキャラクターが多い中で、一人冷静でかつ前向きではない人物で非常に印象に残りました。
彼が異質感を持っているというところもありますが、競技かるたのど真ん中にいるにも関わらず、一人離れた位置に立っているとも言える立ち位置みたいなものからくるのかもしれません。
離れた位置に立っているからこそ、物事の真理が見えているのか、彼が話す言葉には非常に重みがありました。
彼が並外れた「感じ」を持っているのは、特異な超能力のようなものではなく、皆が同じように聞いている音の本質を何もフィルターにかけずに聞いているからなのですね。
人は先入観や思い込みなどで、自然にリミッターをかけて、音を峻別してしまう。
そのリミッターを外してしまえば、音の本質が、そのものが聞こえてくる。
これは音に限った話ではないのでしょう。
自分の能力、自分の未来、いろいろなものに自分でリミッターをかけてしまっている。
そのリミッターやフィルターを外せば、一瞬の時も永遠になる。
限界がなくなる。
それは百人一首そのものが示しているのでしょう。
一千年も前の人の詠んだ歌で、今でもその当時の人々の気持ちがそこにあるように思える。
一瞬が永遠になっている。
これは限界がなくなったということなのですよね。
太一は自分の能力の限界をずっと気にしていました。
彼は勉強もスポーツも万能な男ですが、かるたにおいては天才的な新や千早には叶わないとずっと考えていました。
だから彼らの中に本当に入っていけない苦しさを持っていたのですよね。
しかし、それは彼が彼で設定していたリミッターでした。
彼は周防の言葉によって、自分が設定していたリミッターを外すことができました。
また千早はどちらかというと一瞬に生きていた女の子だったかもしれません。
その時、かるたをやっている瞬間が楽しい。
そのために頑張っている。
しかしその自分の一瞬のために人々が力を貸してくれたことに気づいた。
東京予選で負けそうになった時、その一瞬がなくなることに彼女は愕然としました。
しかし仲間の頑張りによって、その一瞬が続くことができるのだと知りました。
彼女は素晴らしい一瞬を永遠につなぐために、頑張ろうと思うようになったのです。
ラストで彼女がやがて先生となり、後輩たちを指導する立場になり、かるたを引き継いでいこうとしていることが示唆されます。
これは良いラストだなと思いました。
限界を取り払い、一瞬を永遠にする。
それだけの可能性を人は持っている。
ただの青春映画ではないメッセージを持っている気がしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«「ブラックパンサー」 手の届く範囲