2016年8月 7日 (日)

「シン・ゴジラ」 これってエヴァンゲリオン?

すでに観た周りの人の間では評判がいいらしい。
しかし、個人的にはこれは「ゴジラ」なのだろうか、はたまた「怪獣映画」なのだろうかとちょっと気にかかってしまった。

まずはおそらく多くの人が指摘しているであろう「エヴァンゲリオン」との類似性に触れたい。
監督が同じなので、作風が似ているのは当たり前ではあるのだが、自然とそうなっているのではなく意識的に行っているように感じた。
それを強く感じたのは、音楽である。
伊福部昭の「ゴジラ」のスコアを使っているところに庵野監督のオリジナルへのリスペクトを感じ、旧作ファンとしては嬉しさを感じたのではあるが、驚いたのは「エヴァンゲリオン」の楽曲を本作劇中で使っていたことであった。
「エヴァンゲリオン」の楽曲は個性的なものが多いが、その中でもとりわけ印象的なのはネルフが使徒迎撃作戦(例えばヤシマ作戦とか)を実行するときに流れることが多い、「ダンダンダンダン、ダンダン」という打楽器の出だしではじまるあれ(Decisivle Battel)である。
この楽曲は「シン・ゴジラ」では対策本部がゴジラに作戦実行を行う時に、しばしばアレンジを替えて使われている。
アレンジは変わっていても曲の印象は「エヴァンゲリオン」のそれと変わらない。
このことにより本作のゴジラ対策本部はネルフと同じような存在であるように見えてくる。
本作の対策本部は非常に官僚的でありつつも、ある意味の臨機応変さを持った現場力もある組織に見え、それはネルフとの特徴に一致する。
これは同じ曲を使うことによって意図的にそう見せようとしているように感じる。
対策本部=ネルフとするのであれば、ゴジラ=使徒という図式も「シン・ゴジラ」の中に見えてくる。
実際、今回のゴジラは第一形態から第四形態まで次第に進化していくが、これは使徒が第一形態→第二形態と進化する存在であったことを連想させる。
また本作のゴジラはなぜか東京を目指し、そしてその理由が何であるかは物語の中ではわからない。
「エヴァンゲリオン」においても使徒は第三新東京市を目指すが、当初はその理由は謎のままであった。
この点においても「シン・ゴジラ」と「エヴァンゲリオン」の類似性を感じる。
本作のゴジラは異質感をまとっている。
第一形態は得体のしれない気色の悪い姿をしていて、挙動も生理的に不快感がともなうが、これは人とは相いれない存在であることを意味しているように思う(ぎょろりとした目はこれもエヴァに通じる)。
これも使徒の形態が、従来の怪獣的なモンスターとは異なることによる、異質感を持っていることと通じるものがある。
本作でも最終形態は我々が見慣れた「ゴジラ」になっているが、まったく人間とは相いれないという点では変わらない。
もともとゴジラという存在は「荒ぶる神」と劇中で言われるように、人間とは相いれない存在ではあった。
が、それを傲慢となってしまった人類への神か、地球かからの警告であるという解釈をするならば、まだ人間とゴジラは近しい存在とも言える。
しかし、本作における「ゴジラ」は何も人類とのつながりを感じられない異質感というものが際立っている。
この異質感がエヴァにおける使徒に通じるように感じられてならない。

Photo

↑バンダイからこういうフィギュアも出るようなので、ゴジラ=使徒という図式はやはり意図的なものであるのだろう。

庵野監督は「エヴァ」で行っていたことを再度、ゴジラという題材で行っているように感じてしまうのだ。
そもそも「エヴァンゲリヲン」の劇場版の最終章はどうなるのかまるで聞こえてこない。
もともとのテレビシリーズの「エヴァンゲリオン」も明確的な物語の週末を描いていないのだが、劇場版の方も本当に終わるのかという疑問が残る(2作目のポジティブなトーンでこの監督は変わったと思ったのだが、3作目でやっぱり変わってないと思った)。
「シン・ゴジラ」にしても「エヴァ」的な思わせぶりな終わり方である(次回作があってもより「エヴァ」っぽい話になる予感がある)。
もしかすると庵野監督は物語を終わらせられない人なのではないか。
これは個人的な感覚でいうと、エンターテイメントの監督としては如何なものかとも思う。
まずは「エヴァンゲリヲン」をしっかりとまとめ上げてほしい。

ここからは個人的な好みの問題になってしまうのだが、自分が育ってきた世代の趣味でいうと、「怪獣映画」やその他のエンターテイメント映画に求めるものは、カタルシスなのである。
もちろんいろんな屁理屈を込めたり、思想が入っている映画を解釈する行為も好きなのだが(上記を見ればわかる通り)、でも怪獣映画にはカタルシスは求めたい。
「シン・ゴジラ」にはカタルシスはなく、見ていると「エヴァ」にも通じる閉塞感ばかりが強まっていく。
こういう閉塞感を自分は怪獣映画には求めていない。
個人的には怪獣映画のベストは平成「ガメラ」の第1、2作。
これにはカタルシスがあった。
もし怪獣が東京に来たらということをリアルにシミュレーションしたという点で平成「ガメラ」と「シン・ゴジラ」は同じであるが、目線が異なる。
「シン・ゴジラ」は圧倒的に政府サイドの目線で描かれる。
それは非常にリアリティがある描写ではあるのだが、ゴジラがモニター越しのリアリティがない存在のようにも見える(テレビで見る福島原発とか、地震の後の街の様子のような)。
対して「ガメラ」は中山忍演じる鳥類学者と螢雪次朗演じる警察官が一般人からの目線となっている。
ガメラやギャオス、レギオンへの一般人からの目線が描かれているので、それは別の意味でリアリティのあるシミュレーションになっている。
「ガメラ」で描かれている怪獣は自分ごと化できるが、「シン・ゴジラ」のゴジラは自分ごと化しにくい。
だから怪獣が倒された時もカタルシスがないのだ。

否定的なことばかりを書いてきたが、特撮パートはなかなか迫力があった。
今回のゴジラはCGで作ったと聞いているが、そうは思えないほどに着ぐるみ感が出ていた。
電車爆弾をゴジラに突っ込ませるシーンもCGなのでしょうか?
いい意味でミニチュア感がでていて、古くからの特撮ファンとしてはうれしかったです。

| | コメント (1) | トラックバック (5)

2016年7月29日 (金)

「インデペンデンス・デイ: リサージェンス」 虚しい拡大再生産

前の「インデペンデンス・デイ」が公開されてから、もう20年経っているんですね。
久しぶりの続編「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」も監督は前作と同じくローランド・エメリッヒです。
まあ、この方の作風は相変わらずで、作品は相変わらず大味です。
前作ではホワイトハウスを上空を覆う巨大UFOが光線で攻撃するというビジュアルが印象的でした。
あの時代はああいう映像はあまりなかったので、とても印象的でした。
地球を何度も破滅させている男エメリッヒは今回も派手に異星人の攻撃を描いてはいるのですが、観客サイドもそういう映像を見慣れてしまっているところもあり、前回ほどの強い印象は持てませんでした。
今となってはよくあるビジュアルといった感じです。
UFOも地球を覆うほどに巨大になり、破壊度も規模が大きくなっているのですが、インフレを起こしているだけであって、目新しさは感じないのが残念なところです。
あとは異星人の設定も、数々のエイリアンものを焼き直ししているようで新鮮味がありません。
ハリウッドは、異星人をアリやハチのような社会性のある昆虫をモチーフとした設定で描くことが多いですよね。
「エイリアン2」の時はとても新鮮でしたが、もうこの手の設定は食傷気味です。
映画的にはボスキャラを倒せば全て解決するという使い勝手の良さがあるとは思うのですが、いい加減に使い古されてしまった設定であるような気がします。
そろそろ新しいアイデアが出ないものですかね・・・。
エメリッヒなので、キャラクターが類型的で薄っぺらいのは相変わらず。
それでも前作の「インデペンデンス・デイ」では大統領の演説から、それぞれの人々が自分を犠牲にしても地球を守りたいという気持ちがあって、それにより異星人を撃退するという終盤に、カタルシスを感じたものです。
続編である本作はそのようなカタルシスも感じないのですよね。
前作と同じ構造でただ規模を大きくしているだけの、虚しい拡大再生産のような感じがします。
こういう展開になると予想していたので、がっかり感も少なかったんですけれど、それでも残念な出来でした。

| | コメント (2) | トラックバック (18)

2016年7月18日 (月)

「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」 過去は変えられない

てっきりティム・バートンが監督かと思ったら、彼は製作だけだったのね。

前作はアリスが人と違う自分に自信を持って行動できるようになっていく、彼女の成長物語でした。
今回オープニングから彼女は父親の事業である貿易を継いで、若い女性でありながら自ら決断して生きていっている女性になったことがわかります。
つまり前作で彼女は未来を自ら選択していく勇気を身につけていくこと学んだわけですね。
そして本作では、未来というよりは過去に目を向けたお話となっています。
主人公はアリスで彼女の行動を物語は追っていくのですが、過去を描かれるのはマッドハッターであり、赤の女王であり、白の女王です。
ワンダーランドの住民は奇妙なキャラクターが揃っていますが、その中でもこの3人は特別変わっています。
そんな風変わりな彼らでさえ過去はありました。
というよりも、過去が彼らを作っている。
マッドハッターの奇妙奇天烈で陽気な性格の裏には、過去に家族を失った悲しみがあります。
赤の女王があんなにひねくれ、残忍であるのも、昔から自分だけが不幸な目にあい、誰にも愛されないという苦しみからきています。
誰でも過去に縛られ、過去により自分が作られている。
アリスはマッドハッターの亡くなった家族を救うため過去に飛び、またそこでは赤の女王の不幸な事故を回避しようとしますが、うまくいきません。
彼女は過去はどうやっても変えられないということを知ります。
起きてしまった過去をどんなに嘆き、どんなに悔やんでも、それは変えることはできません。
人はそれを受け入れるしかない。
アリスも父親を失ってしまったことを悔やんでいたのでしょう。
時間は大切なものを奪っていくと彼女は言っていましたが、そこには父親を失い、なすすべがないことへの苛立ちを感じます。
彼女がマッドハッターのために過去へ旅立つのも、自分の思いを重ねていたからかもしれません。
しかし過去は変えられないという認識を彼女は改めてもち、その上でそれを受け入れて自分の未来を選択していくことを学びます。
過去を受け入れた姿は、赤の女王と白の女王の和解にもうかがえます。
この先ワンダーランドも、アリスの人生も前向きで幸せなものになっていくのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (20)

2016年7月10日 (日)

「エクス・マキナ」 人間の悪夢の始まりか?

昨今A.I.(人工知能)が現実世界でも注目を浴びている。
昨年Googleの人工知能AlphaGoが韓国のプロの囲碁師を破ったのは記憶に新しいところ。
その他にもMicrosoft、IBMなどの大手のIT企業も急速に人工知能の研究を進めている。
人工知能がこの後発達を続けていき、いつか人間の能力を超える事態となることをシンギュラリティ(技術的特異点)と言い、ジョニー・デップ主演の「トランセンデンス」でもそれは描かれた。
オックスフォード大学が昨年発表した「文明を脅かす12のリスク」の中でもその一つとして人工知能の進化が挙げられている。
さて人工知能が「知能がある」とどのように我々人類は確認することができるのか。
その一つの有名な方法が「チューリング・テスト」である。
これを考案したアラン・チューリングは映画「イミテーション・ゲーム」でベネディクト・カンバーバッチが演じていた。
本作「エクス・マキナ」の主人公であるケイレブが、会社のCEOネイサンに依頼されたのも、彼の人工知能が本当に知能を持っているかどうかを確かめるチューリング・テストの試験者になってほしいということであった。
こちらの作品については、事前に全く情報を持たないまま(予告すら見なかった)での鑑賞であった。
人に勧められて観たのだが、インディペンデントな映画が好みの人であったので、わかりやすい物語ではないだろうと踏んで本作を観た。
見始めて、おそらくこの作品は人間とは何か、知性とは何かということを問う作品であるだろうという予測を持った。
最初に思ったのは、主人公ケイレブは人工知能の試験者であるが、実は彼こそが人工知能そのものであるというストーリー。
なぜならば、試験対象であるエヴァが途中からケイレブへの質問を投げ始めたからであった。
チューリング・テストは試験者が、ディスプレイの向こうにいるはずの人間もしくはコンピューターに質問を繰り返し、その応答によって人間であるか人間でないかを判断するテストである。
この場合、逆にケイレブがテストをされているように見えたのだ。
しかし、この作品が一筋縄でいかない。
主人公ケイレブ自身もやがて次第に混乱していき、自分が人間であるかどうかが自信がなくなっていくというシーンが出てくるところがある。
依頼者ネイサンが何か隠し事をしているように見えること、そして自分自身が始終観察されているようであること、それらによって自分自身が試験対象者であるのではないかと疑い始めるのだ。
我々普通の人間は、自分自身が人間であるかどうかということに疑いを持たない。
ケイレブはエヴァに対しチューリング・テストをしていくにつれ、彼女に対して人間的な感情を持つに至る。
彼はエヴァがチューリング・テストに合格し、知性があると認めている。
そのように人工知能が軽やかに知性(人間性)を獲得したのを自分の目で見た時、自分自身が当たり前のように持っていた「人間であること」という特殊性が、それほど特殊でないと感じてしまったのかもしれない。
だから自分自身が人間であることに不安感を持ったのではないか。
それでは知性を獲得したエヴァが、人間性を持っているのかどうかという疑問が出てくる。
人間性とは何かというのは一言で言うのは難しいが、人と人との間にある共感性のようなものは含んでいると思う。
知性と人間性は必ずしも同じことではない(チューリング・テストはその辺りは曖昧)。
ケイレブはエヴァに知性も感じ、自分と同じような人間性も感じた。
だからこそ彼はエヴァに同情をしたのである。
しかし、エヴァが同様にケイレブやネイサンに共感性というものを持っているかどうかはわからない。
人間が、他の動物には人間並みの共感性は持ち得ないとのと同じように、人工知能も人間に対して共感性は持たないのかもしれない。
エヴァが別荘を脱出するときの行動にはそのようなことを感じた。
もしそうであるならば、人工知能が人間を超えるシンギュラリティは、人間の悪夢の始まりなのかもしれない。

| | コメント (4) | トラックバック (18)

2016年6月26日 (日)

「植物図鑑 運命の恋、ひろいました」 ファンタジーな恋愛

「図書館戦争」「阪急電車」などで知られる有川浩さんの恋愛小説「植物図鑑」の映画化作品です。
こちら有川作品の中でもベタ甘度が高い作品で、読んでいてもちょっと照れるところがありました。
基本的に甘い恋愛映画は得意ではないのですが、好きな有川浩さんの作品なので、観に行きってきました。
やはり、ベタ甘でしたね。
なんというか、これが現代女子の理想の恋愛なのかな。
主人公さやかと同居することになるイツキは、現代的な草食男子(で、イケメン)。
料理など家事もなんでもできてしまい、それでもって優しい。
男臭い野暮なところも一切なし。
はるか昔、男性の方が理想の妻に求めていたような理想像がイツキに現れているかもしれませんね。
理想の妻が本当にはなかなかいないように、こんな男性も滅多にいないと思いますが。
そういう意味ではファンタジーです。
劇場は意外に入っていましたが、ほとんどEXILEのファンかしら。
途中でさやかとイツキにキスシーンとか二人がいちゃつくシーンがありましたが、きゃーとか声をあげてましたから。
あと、女子が憧れそうなのが野草で調理する一連のシーンですかね。
こういうスローライフ的な生活に憧れる人も多いですが、実際やるとなるとなかなかこれはこれで大変。
現実的には難しいですよね。
こういうところもファンタジーだなあと思いました。
主演は高畑充希さんで、彼女は映画は初主演だということで。
演技は前からうまいとは思っていたので、主演ぶりは全く問題なしですね。
個人的にそれほど美人さんとは思っていなかったのですが、本作ではとってもキュートで可愛く見えたのですが、やはりこれは女優としての才能かな。

| | コメント (2) | トラックバック (5)

2016年6月20日 (月)

「マネーモンスター」 変わっていく関係性と変わらない関係性

意外にもジョディ・フォスターが監督をする映画を見るのは初めて。
思っていたよりも、テンポよくエンターテイメントな作品を撮るのですね。
金融工学の話が最初に色々と出てくるので素人にはちょっととっつきにくい印象がありましたが、そこさえ耐えられれば、ストーリーは先が予想できない展開で楽しめます。
ストーリーの流れが非常によく、上映時間は短いのですが密度が濃い感じがしました。
脚本が非常によくできていると思います。
登場するキャラクターも魅力的で、彼らの関係が物語が進む中で次第に変わっていくところが興味深いですね。
例えば、主人公のリー、そしてテレビ局の立てこもり犯であるカイルの関係です。
銃と爆弾で武装した犯人と人質ですから、利益相反の関係性であるのですが、次第にカイルがなぜ立てこもりをしたのか、そしてその背景にある企みの姿が明らかにつれ、リーはカイルに同情にも似た共感性を持っていきます。
またリーはカイルがデッドマンスイッチ(スイッチから手を離すと爆発する仕掛け)を仕掛けた爆弾ベストを着せられており、その受信機を警察は狙撃しようとします。
その際、リーが重傷を負う可能性あり、それを知ったリーは犯人であるカイルを盾にしようとします。
二人はそのためテレビ局を出たあとも行動を共にするのですが、それもひとつの犯人と人質の共同関係の様なものになります。
関係性が変わっていくキャラクターでいえば、他にもいて、アイビス社の広報担当者ダイアンもそうと言えます。
アイビス社とは、カイルが立てこもる原因となった株の暴落を引き起こした会社ですが、その広報担当者である彼女の立場としては、カイル、そして虚偽の情報をつかまされたリーたちと敵対関係にあるわけです。
しかし、社内で情報をたどっていくうちに、社長が不正を行っている可能性に気付いていきます。
次第にダイアンと、テレビ局プロデューサー、パティの間柄も共闘関係のようになっていきます。
逆に変わらない関係性もあります。
主人公リーと、番組プロデューサーパティの関係です。
リーがあまりに自分勝手に番組を進めるために、降板し別の局にパティは転籍しようとしていました。
しかし、事件発生後、リーとパティは揺るぎない信頼関係で事件をしのいでいきます。
事件のさなかでありながら、常に冷静さを失わず、全体を見通すことができるパティ。
臨機応変に状況の変化に合わせて、場をコントロールすることができるリー。
まったく違うタイプの二人ながら、相手が何を考えているかを察しあうことができる。
まさに阿吽の呼吸ですね。
二人の間にある信頼関係は物語が進んでも変わりません。
変わっていく関係性と変わらない関係性、これがこの作品の見どころであるかなと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (18)

2016年6月19日 (日)

「10 クローバーフィールド・レーン」 既視感のあるごちゃ煮

J・J・エイブラムス製作でタイトルに「クローバーフィールド」とあり、事前にあまり情報が出ていなったという点で、「クローバーフィールド/HAKAISYA」と類似していて、関連が気になる作品です。
実際観てみると、本作と「クローバーフィールド/HAKAISYA」は関係があるようにも見えるし、ないようにも見えます。
「クローバーフィールド/HAKAISYA」の巨大生物は何物であるかはわからないのですが、本作における襲い来る物もその背景は謎なので、世界各地を異生物が同時に襲ってきたという設定で繋がっているかもしれません。
とはいえ何もわからないので、違う物語かもしれません。
こういう何だかわからないシチュエーションでもサバイバルを描く物語を「クローバーフィールド」というそれだけでは意味がない言葉でくくっているだけかもしれません。
個人的には「クローバーフィールド/HAKAISYA」との関連性を云々するよりは、個別の作品として観るほうがいいのではないかと思います。
主人公が何物かに襲われ、サバイバルするという物語ですが、本作はその相手は怪物というよりは、人間であると言っていいでしょう。
主人公ミシェルにとって、気がついた時にすでに囚われていたシェルターの主人と、そのシェルターの外にいるかもしれない異生物というのが恐怖の対象となります。
本作の印象は過去の様々な作品がミックスされている印象がありますね。
サイコなホストによって監禁まがいのことをされ、そこをそこをいかに脱出するかという物語(「ミザリー」とか)や、謎の異生物に襲われサバイバルをしていく物語(「サイン」とか「宇宙戦争」とか)などが、ぐちゃぐちゃっと一緒に合わさっている感じです。
よくよく考えればJ・J・エイブラムスが名を挙げた「LOST」も、そういう不可思議な物語のごちゃ煮的なセンスはあったわけで、こういう謎を謎のまま解明せず、引っ張っていく物語が好きなのかもしれません。
物語中で謎が提示されると、その謎が解明されることを観る側は求めるので、そこに物語のエネルギーは割かれることになります。
また解明されないとある種のフラストレーションも観客は持つことになりますよね。
そういうフラストレーションも含め、観客に尻の座らない感じを持たせ、主人公の不安定な状況を同じように感じさせているのかもしれません。
とはいえ、既視感のあるものをごちゃっと合わせて観せられたような感じはしました。

「奴らはあらゆるフォームでやってくる」って日本版の宣伝コピーは的外れな感じがしますね。
全く意味がよくわかりません。

| | コメント (0) | トラックバック (17)

2016年6月18日 (土)

「高台家の人々」 コミュニケーションの努力

綾瀬はるかという女優はコメディがよく似合う。
「海街Diary」で見せたような真面目な感じの女性も演じれば、「八重の桜」のような凛々しい役もやる。
そういう点では演技の幅は広い女優さんなのだと思う。
しかし、中でもとりわけコメディ映画に出演している時の彼女はしっくりときているように感じる。
テレビ番組などに出演している時の彼女を見てみると、結構な天然キャラのようなので、本人的にも自然にやりやすいのかもしれないのだが。
背も高くスタイルも良い彼女は、女性から見ても理想のプロポーションと言われることが多いが、役柄的に女を押し出すような役柄はあまり演じてきていない。
彼女の顔の造作はモデル出身の人のような整ったような美しさはそれほど感じられない。
どちらかといえばかわいいタイプの顔立ちだし、愛嬌のある顔だと思う。
完璧に整った容貌の女優は、それゆえに役柄が限られてきてしまうのかもしれないが、綾瀬はるかの場合はその容姿と愛嬌のある顔立ちのギャップが様々な役をこなせる要因になっているかもしれない。

さて本編の方の話。
好きな人に自分の心のすべてを見せられるか、というのがテーマになりますかね。
やはり個人的はいくら好きな人でも無理!となっちゃいますね。
自分自身でもコントロールできない内面をさらすというのは、裸で街中を歩くようなことに近いと思う。
相手によほどの包容力があり、そしてそれを100%自分で信頼しきれるかということにかかっているかと思うのだけれど、そういうことはない。
なぜなら相手の心を100%はわからないから。
信頼感というのは、相手はこう考えてくれているはずだいう自分の思い込みの上に成り立っている、脆いものなのかもしれません。
脆いからこそ相手の気持ちを理解しようと努力をするのかもしれないですね。
自分の側からも伝えようとしますし。
そのコミュニケーションの努力というのが、信頼感を築くのでしょう。
本作の木絵と光正も、人の心を読む力がある云々ではなく、後半は相手がどう思っているのかをお互いに考えあうということをしていました。
それがコミュニケーションの努力。
だからこそ最後は二人は本当に信じあえるようになったのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (10)

2016年6月16日 (木)

「64-ロクヨン-後編」 子への思い、届かぬいたたまれなさ

<ネタバレ部分があるので、注意してください>

前編は昭和64年に発生した誘拐事件「ロクヨン」を模倣した事件が発生したところで終わっていました。
事件が始まってすらいないところではあったので、後編も気になって公開後すぐに観に行ってきました。
模倣事件は誰が行っているのか?
誘拐された子供は助けられるのか?
そもそも「ロクヨン」の犯人は見つかるのか?
といった謎が解けていくのも見どころではあるのですが、それよりも親が子供を思う気持ちの深さ、そしてそれが届かぬ時のいたたまれなさに感じ入りました。
「ロクヨン」で娘を殺害されてしまった雨宮は十数年にもわたり、一人で犯人を追っていました。
毎日のように一軒一軒電話をかけ、自分だけが知っている犯人の声を探していたのです。
それは気の遠くなるような作業であったでしょう。
しかし、それは彼にとって唯一、愛娘と繋がっていられる行為であったのでしょう。
雨宮は年月が経ち、娘のことを忘れてしまっていきそうになることが恐ろしいと言ってしました。
彼がいかに娘を想っていても、それを直接伝えることはもうできません。
声をかけてあげたくとも届かない。
そのいたたまれなさといったら。
彼ができる唯一のことは一つ一つ電話番号を潰していくことだけ。
そうすることによって、彼は娘と繋がっていたいと思ったのかもしれません。
また、主人公三上にしても、そのいたたまれなさを抱えています。
彼に反抗的な娘に手を焼き、その気持ちを理解できないという悩みがありました。
しかし、彼は娘と正面を切って向かい会おうとはできず、その結果娘は失踪をしてしまいます。
彼も娘を愛していないわけではなく、それだからこそ娘がいなくなった時、喪失感を感じ、自分が間違ったことをしてしまったのでないかという思いを持ち続けています。
だからこそ三上は、雨宮の本当の思いを理解した時、彼が持ついたたまれなさに共感したのではないかと思います。
そして雨宮も三上が心の中に抱えている思いを察したのではないでしょうか。

また本作では、人は自分の強い思いに支配された時、他人の気持ちを思いはかることができなくなってしまうということも浮かび上がってきます。
「ロクヨン」の犯人は後編で割とあっさりとわかります。
そもそも模倣事件自体が、彼が犯人であることを明らかにさせるために仕込まれたことであるわけです。
かつて自分が行ったと同じように娘を誘拐された時に、犯人は自責の念にかられるのか。
彼は自分の娘を助けるために大金も用意します。
そのために自分は何でもやるとも言います。
彼は模倣犯に対し、娘の命を懇願した時に、かつての自分の姿は思い浮かばなかったのでしょうか。
自分が娘を思う気持ちが何ものにも勝ってしまう。
同じことは、三上にも言えます。
三上が犯人を追い詰めた時、彼は雨宮に共感し、その思いを果たしてあげるためと考えていたのでしょう。
娘のためという雨宮の思いを遂げること、それは三上自身にとっても思いを果たすことと同じになっていたのかもしれません。
だからこそ、三上は禁じ手とも言える手法で犯人を追い詰める。
そして、それにより犯人の娘の気持ちをも傷つけてしまいました。
それは犯人が他人の気持ちをわからずに犯行を行ったことと、同じことであるようにも思えます。
いかに親の子供に対する思いが強く、そのためであるならば他の人間を傷つけてしまうこともしてしまうという業の深さを描いているようにも思いました。

| | コメント (2) | トラックバック (23)

2016年6月12日 (日)

「ズートピア」 多数決の怖さ

カウンターでパンフレットを買うとき「ズーラシア」くださいと言ってしまった。
動物園じゃないってーの。
本当のタイトル「ズートピア」は動物園(Zoo)とユートピア(Utopia)の造語ですよね。
この作品を観に行ったのは、時間が合うのがこれしかなかったからという極めて消極的な理由からであったのですが、見てみてびっくり、意外にもテーマがしっかりしていて、かつエンターテイメントとしても楽しい名作でありました。
見る前はいろんな動物が出てくるドタバタのエンターテイメントかと思っていたのですが、社会的な問題も内包していて意外と深い。
肉食動物から草食動物までが、平和に暮らしていける街というのが、ズートピア。
ある意味、理想郷ですよね。
観た方はわかると思いますが、これはメタファーみたいなもので、ズートピアは人間にとっての理想郷とも言えます。
あらゆる人種、文化、宗教、そういった壁を越えて、人々は仲良く暮らしていける街。
生まれながらの身分などもなく、差別もなく、みんなが自分がなりたい自分になれる社会。
人間が思い描く理想の社会がズートピアに表されています。
しかし理想郷に見えたズートピアで、行方不明事件が発生し、それが実は社会的な問題に深く根ざすということとなっていきます。
後半、ズートピアにおける少数派である肉食動物(ライオンやキツネ、ジャガーなど)は、その精神の奥底に野生を持っており、それがいつ爆発するかわからないということで、社会的な差別を受け始めます。
肉食動物たちの力は草食動物たちよりも何倍も強いものですが、圧倒的な人口の差により、肉食動物たちの居場所がなくなっていきます。
これはある種の差別です。
レッテル貼り、偏見です。
危険な行為をした肉食動物がいたとして、だからと言って全ての肉食動物が危険だとなぜ言えるのか?
冷静に考えばこういう疑問が出てくると思うのですが、社会的な流れができてしまうとなかなかそういう疑問は出てくることがありません。
このあたりが民主主義の根幹でもある(多数決)の怖さでもあるのです。
誰かがなんかおかしいと思っていても、それが大衆の数によってかき消されてしまう感じ。
ポピュラリズムの怖さとも言えましょう。
それを巧みに扱っていたのが、ズートピアの副市長であったわけですね。
よく考えれば、かつてのナチスのヒトラーも選挙で選ばれたわけですし、彼がやった行為に対して疑問を持った人もいたとは思うのですが、大きな流れに飲み込まれてそれを止めることはできなかった。
そういった民主主義が孕む危険性についても考察されている感じがしましたね。
ユートピアというのはただそこにあるのでなく、ユートピアでい続けられるにはしっかりと人々が差別やレッテル貼りといったことへ自分自身を諌めることができるようになっていなくてはいけないのだろうということなのでしょう。
とはいえ、ディズニーなので深刻なテーマを掲げただけではなく、ちゃんとハッピーエンドになっています。
レッテルで人を見るのではなく、お互いにその人そのものを見てあげる。
そうすれば人は夢を持ちなりたい自分になれ、またお互いに信頼しあうことができるのでしょう。

通常、この手の動物がたくさん出てくるおとぎ話だと、肉食動物=強者、草食動物=弱者というイメージがあったわけですが、そのマインドセットを逆転させたところがアイデアだったかなと。
そこで浮かび上がってくるのは多数決の怖さであるわけで、よく考えられた作品であると思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (15)

«「デッドプール」 ある意味大人なヒーロー