「J・エドガー」 「アメリカ」の国家像とかぶる
ジョン・エドガー・フーヴァー、彼はFBI初代長官にして、48年もの長期にわたりその職を務めました。
彼はその任期の間にFBIを盤石な組織として作り上げ、また科学捜査、組織捜査を進めてきました。
情報収拾の重要性を認識し、時には盗聴などの超法規的な手段を使ってまでも情報を集めようとしました。
また社会的影響力のある政治家等の著名人の個人的な情報についても機密ファイルとして持ち、それにより歴代の大統領へも影響力を持っていたとも言われています。
そのためか様々な映画などでFBIのトップはフーヴァーを髣髴させるようなキャタクターであることも多かったりします(「ザ・ロック」のFBI長官などはまさにそのようなイメージ)。
「J・エドガー」はそのような伝説的人物の複雑さを描こうとする作品です。
本作ではフーヴァーが強い権力を志向する人物となる一端を、母親の教育によるものとしています。
「女々しい男はいらない」とまで言う母親により育てられたフーヴァーは、尽きることなく権力を求めます。
キング牧師に対し敵対心を持つのも、その思想への警戒というのもあったかと思いますが、同時に自分以上に国民の注目を集めるということへの敵愾心のようなものがあったように描かれています。
大統領の就任パレードの様子をビルから見下ろし、その歓声を聞いているフーヴァーは、こう思っていたのでしょう。
「みなが歓声を上げている大統領ですら、自分に対して恐怖心を持っているのだ」と。
自分の自伝では、自身が主役になるように事実を改変したりということもフーヴァーはやっていました。
彼は幼い頃に刷り込まれた子供っぽい権力欲というものを死ぬまで持ち続けていた人なのでしょう。
しかしその権力志向は私利的かというとそうではないというのが、本作で描かれているフーヴァーでした。
基本的に彼は、国家や国民を守ろうとし、正義を貫く信念を持っていた人物とされています。
自身に正義があることを、揺るぎなく信じていた人物でもあります。
そういう点において、彼は悪ではないのですね。
またフーヴァーが同性愛的な性向を持っていたことも描かれています。
幼い頃より男らしくあれと言われ続けてきたことへの反動なのでしょうか。
それとも母以上の女性を見いだせなかったことからくるものでしょうか。
子供っぽい権力欲を持ちながらも、正義を守る男でもあるフーヴァー。
正義を守る男でありながらも、女々しさ、臆病さをもった弱い面をあったフーヴァー。
そのような複雑な人物像を本作は描きます。
本作を観ていて、このようなフーヴァーのような人物をみたことがあるなと思って考えていたのですが、思い至ったのは、こういう性格を持っているのは「アメリカ」という国家そのものではないかと。
アメリカは「強い国家」というものを志向し、そして戦後は「世界の警察官」という自覚で、彼らが信じる「正義」を貫くべく超大国として活動を続けてきました。
またアメリカは科学的であったり、理論的なアプローチを好み、さまざまな新しいプロジェクトを世界に先駆けて実施してきた国でもあります。
しかし、彼らが掲げる「正義」は、なにか子供っぽさを孕んだ一方的な「正義」であることの危険性のようなものを感じている方も多いかと思います。
このような複雑なアメリカ像というものが、本作で描かれるフーヴァー像とかぶっているように感じました。
まさにフーヴァーの一生は、アメリカが世界の超大国として成長していく歴史とほぼ同一となっています。
しかし、人には寿命があり、長い間君臨していたフーヴァーもその一生を閉じます。
人は寿命があり、どう抗おうとその歴史は閉じてしまいますが、国家はそうはならない。
フーヴァーが晩年に健康面から以前のようには動けなくなったように、アメリカも現在は以前ほどの権勢を誇ってはいません。
けれどもその一生を閉じるわけにはいかないのです。
本作はイーストウッド監督が、アメリカという国家に「どういうふうにしていきたいのだ?」と問うているようにも思えました。
老いてもなお盛んに活動し、毎年のように映画を撮り続けているイーストウッドだからこそ、その問いに重さがあるように感じました。
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