2023年3月23日 (木)

「シャザム!〜神々の怒り〜」前作の良さが活かせず

前作「シャザム!」はそれまでのDC EUとは異なる明るいトーンでスマッシュヒットとなりました。
見かけはスーパーヒーローでありながら、中身は子どもというユニークな設定が新鮮でした。
スーパーヒーローの力を馬鹿馬鹿しいことに使うというのが、いかにも子供っぽく笑いを誘ってくれました。
その続編なので期待をしておりましたが、結果としては個人的にはあまり評価をできません。
前作はヒーローでありながら、子どもというギャップが新鮮で、その彼がヒーローとして自覚を持ち、大切なものに気づくというのがプロットでしたので、本作はそのギャップが効きにくい。
ですので、そのギャップは活かせず、ストーリーとしては非常にオーソドックスなものになってしまっているのです。
あまりスーパーヒーローものを見ていない方にとっては、わかりやすく見やすいかもしれませんが、この手のジャンルを見慣れているファンには少々物足りないのではないかと思います。
前作でスーパーマンが登場したことからわかるように、本作は従来のDC EUに属するものですが、こちらについてはリセットされることがアナウンスされているということで、本作の立ち位置も非常に微妙です。
本作にもカメオである人物が登場しますが、これもまさに「カメオ」という登場の仕方で、MCUのように考えられた上で、キャラクターを登場させているのに比べると安易さを感じさせます。
それは前作もそうですし、「ブラックアダム」のスーパーマンでも同様で、DC EUの悪い意味でのゆるさの表れと言えるでしょう。
「シャザム!」については新しいDCユニバースに組み込まれるかどうかは現在のところは不明です。
一旦は見納めということになるのでしょうか。

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2023年3月21日 (火)

「シン・仮面ライダー」その男は泣きながら敵を殴る

「仮面ライダー真」ではなく、「シン・仮面ライダー」です(これがわかる人はかなり古くからのライダーファン)。
庵野秀明氏による「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」に次ぐ、「シン解釈」の「仮面ライダー」となります。
私は「ウルトラマン」は本放送ではなく再放送が初見で、「仮面ライダー」はV3くらいからリアル視聴をした世代です。
子供の頃から両方とも好きでしたが、今現在は「ウルトラマン」は追いかけられておらず、「仮面ライダー」のみで、思い入れが強いのは、「仮面ライダー」でしょうか。
そういうこともあるからか、「シン・ウルトラマン」と「シン・仮面ライダー」のどちらが良かったかと問われれば、「シン・仮面ライダー」と答えるでしょう。
「シン・ウルトラマン」はウルトラマンの人格を描くという点で、まさに新解釈をしていたと思います。
「シン・仮面ライダー」は新しい解釈というよりは、オリジナルや石ノ森章太郎の漫画のエッセンスを割とストレートに現代風にリファインしたような印象です。
主人公本郷猛はショッカーに改造され、人間を超えた力を手に入れます。
「仮面ライダー」シリーズにおいて共通的に描かれているエッセンスとしては、主人公の超越した力は敵側のテクノロジーによって生み出されたものである、ということがあります。
これは「ウルトラマン」や「ゴジラ」にはないものです。
このことにより仮面ライダーは戦うことにより「同族殺し」という宿命を背負うことになります。
本作の仮面ライダーのマスクもそのようにデザインされていますが、印象的な大きな複眼の下にクマのように見える黒い部分があります。
これは通称「涙ライン」と呼ばれていて、元々はスーツアクターの覗き穴として設けられていましたが、デザイン上「仮面ライダーは同族殺しを宿命として背負いながら、泣きながら戦っている」と解釈されていると聞いたことがあります。
本作の本郷猛も己が得てしまった簡単に人の命を奪ってしまう力に戸惑い、困惑しながら戦います。
彼も泣きながら戦っているようにも見えます。
仮面ライダーは等身大のヒーローで、人外の力を持っていますが、ウルトラマンほどに超越はしていません。
またウルトラマンは人間とスケール感が違いすぎて、彼の行動が人間に与える影響は小さすぎて見えません(これをリアルに描いたのが「平成ガメラ」)。
等身大であるからこそ、相手に与えるダメージもリアリティがあり(本作はPG12指定のダメージ表現)、だからこそ痛みも伝わってきます。
彼が戦えば必ず敵の命(本作のショッカーの戦闘員はショッカーに共鳴する人間)を奪う。
彼はそれを知った上で、泣きながら拳を振るう。
「仮面ライダー」は哀しみを背負った存在であり、その部分を庵野監督は丁寧に描き出しているように思えました。
冒頭に書いたように本作は庵野監督が、自分らしさよりもオリジナルらしさを重要視して作り上げたもののように思えますが、彼らしさがないわけではありません。
本郷のセリフで「世の中を変えるのではなく、自分を変える」というものがありました。
本作におけるショッカー怪人たちは、通常の社会とは異なる価値観を持っています。
自分の価値観に合わせて社会を破壊し、変えていこうとしているのが、彼らなのですが、本郷は異なる見解を持っています。
彼も人間としては高い能力を持っていますが、社会には馴染めず、父親の事件のこともあり、うまく生きられなかったようです。
その点では、他のショッカー怪人と同様と言えます。
しかし、彼は社会の価値観を大切にし、自分を変え、そしてその守護者になったわけです。
古い「エヴァンゲリオン」では碇シンジは社会や親に受け入れられないという苦しみを背負っていました。
しかし、それは彼が社会や親を受け入れないということも裏返しでもありました。
彼はそれに気づかず、苦悩します。
しかし、「シン・エヴァンゲリヲン」では彼は全てを受け入れることができたように見えました。
まさに本作の本郷猛は受け入れ切った上で、彼が社会のためにできることを為すという、大人になったシンジのようにも見えます。
庵野監督の作品は、彼自身の社会との対面の仕方という価値観が反映しているように思っていますが、本作では社会との関係性が非常に大人になっているように思えました。
「仮面ライダー」シリーズとしての位置付けに加え、庵野監督作品群の一つとしての見方も興味深い作品かもしれません。

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2023年3月18日 (土)

「映画ドラえもん のび太と空の理想郷」原作者へのリスペクト

劇場版の「ドラえもん」の最新作で、久しぶりのオリジナルストーリーです。
脚本家は現在大河ドラマ「どうする家康」を執筆している古沢良太さんです。
「ドラえもん」らしくタイムマシンを使った伏線も張ってありますが、この辺は元々デビュー当初から「キサラギ」などでしっかりとした構成力を見せていた古沢さんらしさも感じました。
さて本作ですが、オリジナルストーリーでもありますが、劇場版の「ドラえもん」の多くがそうであるように、日常とは異なる世界(それは過去であったり、宇宙であったり、地底であったりしますが)にのび太たちが冒険に行くという立て付けになっています。
タイトルにある「空の理想郷(ユートピア)」とは、空中都市パラドピアで、この都市は時空を調節する力を持っていて、そこに暮らす人々は平和で穏やかな生活を送ることができています。
本作のテーマは現代らしくズバリ多様性となるでしょう。
パラドピアの人々は皆、優秀で穏やかです。
そこで暮らし続けると、都市を照らす光の影響を受け、皆そのようになっていくのです。
しずかちゃんやジャイアン、スネ夫もその光の影響を受け、みな「いい人」になっていきますが、さすがのび太は一人だけダメな子のままです。
皆が画一化され、管理されている未来都市というイメージは今までも数々のSF映画でも語られてきました。
一見ユートピアに見えるが、その実は人間性を否定したディストピアであるというテーマですね。
本作もそのテーマをなぞっているように思います。
多くのこのテーマの作品は前半よりユートピアの皮を被ったディストピアであることは醸し出されているのですが、本作が巧みであるのは、途中までは本当にユートピアとして見えるように描いていながら、中盤くらいで一気にものの見方を180度変えるような出来事を置いているということでしょうか。
そのため多様性というテーマがより強調してわかりやすくなったと思います。
ラストのスペクタクル感も十分にありましたし、見応えのある劇場版に仕上がっているかなと思いました。
古沢良太さんは原作者の藤子・F・不二雄さんを強くリスペクトしているようで、その思いが伝わってくる作品となっています。

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2023年3月12日 (日)

「フェイブルマンズ」映画の力

スピルバーグ初の自伝的作品と宣伝されている作品で、鑑賞する前は彼が映画に魅せられ、両親らに見守られながら、その道を歩んでいくという家族のハートウォーミングな作品かと勝手に思っていました。
冒頭だけはそのようなテイストのように感じられもしましたが、何か不穏な雰囲気が最初から漂います。
父親も母親も二人とも子供たちのことを愛しています。
彼らは正反対の性格、価値観を持っており、それで互いに惹かれ合い愛し合ってもいますが、何か根本のところでは通じきれていない感じもします。
二人の関係の微妙な危うさが最初から漂っているのです。
母が時折見せる乾いたような顔、父親の親友であるボビーに対して見せる屈託のない笑顔、愛する妻を敬うように接する父親、そして彼の顔に浮かぶ不安そうな表情。
それらは普段の生活ではあまりに何気なく、それゆえ誰も気づかないようなものです。
しかし、後半で主人公のサミーが自身で言うように「カメラはありのままを写す」のです。
些細なこともフィルムは定着させる。
それは残酷な真実も定着させる。
結果、サミーが偶然に撮影してしまった母親の真実の気持ちを写し込んだフィルムは、彼の家族を崩壊させてしまいます。
このように先ほどあげた「カメラはありのままを写す」という言葉は真実であり、それは暴力的とも言える力を持っていますが、またそれだけではありません。
映画には撮影するということのほかに、編集するという要素もあるのです。
カメラはそのまま写すかもしれませんが、編集には人の意思が入ります。
ストーリーを、人の感じ方をコントロールすることができるのです。
後半のプロムの場面で、サミーは撮影した卒業ムービーを披露します。
そこの中ではサミーを目の敵にしていた男子生徒ローガンはまるで英雄のように描かれます。
皆はローガンのことを喝采しますが、彼自身は屈辱を感じてしまいます。
自分自身がフィルムの中で描かれたほどではないことを彼はわかっていて、そうであることをサミーもわかっていることに気づいたわけです。
サミーが「あえて」そのように編集したことに侮辱を感じたのですね。
編集により人の感じ方をコントロールする、ということもまた暴力的な力を感じます。
母親の事件、そしてプロムの出来事を通じ、サミーは映画の持つ暴力性に気づいたのだと思います。
終盤で彼はフォード監督に映画監督なんて心がボロボロになる仕事なのに、それでもやりたいのかと問われます。
しかし、彼はやりたいと言います。
彼は両親の血を強く引き継いでいます。
母親は「心を満たさなければ、別の自分になってしまう」と言い残し、家族の元を離れました。
父親も自分の仕事に意義を強く持ち、そのために家族を犠牲にしてしまいます。
この一族は自分らしくしか生きられない、という血を持っているのでしょう。
中盤で登場するおじさんは「芸術と家族」の板挟みに合うかもしれないと予言をしました。
まさにサミーはその予言通りの道を歩みます。
母親は彼の元を去る時に「自分らしく生きるように」と言い残しました。
その言葉通り、彼は自分がやりたいことをやっていくという修羅の道を歩み始めたのです。
本作はスピルバーグの自伝的な作品ということで、描かれてた出来事は本当に彼の人生に起こったことかどうかは私はよくわかりません。
しかし、彼が映画というものをどう捉えているかということについて非常によく伝わってきました。
それは私が想像していたものよりも、非常に激しいものであったことに驚きを感じました。
この目線で彼の作品を見直したら、違ったように見えてくるかもしれません。

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2023年3月10日 (金)

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」自己肯定

本年度アカデミー賞に最多ノミネートされた本作は、斬新な設定で、色々な要素が詰め込まれています。
まさにカオス。
これをどう消化していいのか考えてしまいます。
マルチバースとカンフーをテーマにしているということだったので、鑑賞する前はSFアクションかと思っていたのですが、これらはメインテーマを描くための設定なのですね。
ではメインテーマは何かというと、これもまた人によって捉え方はあるかと思いますが、私は自己肯定なのかなと思いました。
主人公のエブリンは若い頃に夫と駆け落ちしてアメリカに渡り、今は寂れたクリーニング店の女店主となっています。
店はパッとしないし、役所からは税金に関して呼び出しを受けるし、夫は冴えないし、娘は全く理解できない。
日々懸命に生きてはいるけど何か虚しい、最低の人生だと感じる。
そんなエブリンが税務署を訪れた時、突然夫が別人格のようになり、ある手順を踏むように指示をします。
その指示通りにすると彼女はマルチバースにアクセスし、別世界の夫から世界をカオスに陥れようとする悪ジョブ・トゥパキと戦うよう伝えます。
エブリンがマルチバースにアクセスすると、別ユニバースの彼女の経験・スキルを身につけることができます。
その能力を使い、ジョブ・トゥパキを倒すのです。
別のユニバースのエブリンは、女優であったり、カンフーの達人であったり、腕のいいシェフであったりと様々な能力と地位を持っています。
それに比べ主人公のエブリンは何も持たない。
何もないベースにさまざまな能力をインストールしていく感じでしょうか。
主人公のエブリンは最低ランクのバージョンとも言えます。
一見別ユニバースのエブリンの方が幸福のようにも見えますが、それぞれの彼女にもそれぞれ悩み・苦しみもあります。
女優のエブリンは成功を手にいますが、それは夫になるはずでったウェルモンドと別れたからであり、彼女は成功の代わりに愛を失っています。
指がソーセージの世界の彼女は、主人公エブリンを激しく責める税務官のディアドラと、彼女の世界は恋人となり愛を育みます。
先に書いたようにエブリンはマルチバースにアクセスするとスキルとともに経験もインストールされます。
それにより彼女は様々なバージョンの人生を経験し、自分の人生とそして彼女の周りの人々を俯瞰して様々な視点で見ることができるようになります。
冴えないと思っていた夫は深い優しさで彼女を支えていたこと、厳しい税務官も実は寂しい経験をしていた人であること、そして娘も彼女なりの悩みを持っていたということに気づきます。
そして自分の人生もそれほど悪くないと思います。
自己肯定感です。
そしてもう一人、エブリンの娘、ジョイです。
実は彼女こそが世界の敵であるジョブ・トゥパキです。
彼女が執拗にエブリンを狙ってくる理由がありました。
彼女は幾多のマルチバースにアクセスし、様々なバージョンの自分を経験することにより、自分自身には何もないという感覚になり、虚無感に陥ったように見えます。
本作のマルチバースは現代の我々の周囲にあるインターネットの比喩とも取れます。
インターネット上のSNSを見ると、それこそリア充な発言が飛び交っていて、それを見ているとだんだん自分がつまらない人間だという気分になることもあるかと思います。
本作のジョブ・トゥパキはそれをマルチバースレベルで経験したと言えるかもしれません。
だからこそ、全てを無にしてしまいたいという衝動に駆られているのでしょう。
そんな彼女も実は一人だけ共感を感じている人物がいて、それこそが主人公のエブリンなのです。
彼女もマルチバース上で最低レベルのバージョンで、だからこそ彼女だけが自分と同じような虚無感を感じてくれるとジョブ・トゥパキは思ったのでしょう。
ネタバレになるので詳しくは書かないですが、ラストは多段階で、終わるかと思いきや終わらないという展開になります。
その度ごとにジョブ・トゥパキとエブリンの関係も共感と反発を揺れ動きます。
結果的にはジョブ・トゥパキ自身もエブリンに受け入れられ、救われます。
彼女自身も虚無感から救い出され、自分はそのままで良いという肯定感を得ます。
母親と娘という関係は意外と対立することも多く、それは同性ならでは価値観・人生観の対立とも言えます。
エブリンとジョイ=ジョブ・トゥパキもその価値観の違いから対立をしますが、それぞれに自己肯定感を得て、その結果相手のことも受け入れられるようになったのでしょう。
自己肯定ができなければ、相手の価値観を受け入れる余裕はないですから。
自分が不幸か、不幸じゃないかは、状況・環境ではなく、自分が自分らしく生きていられているという実感があるかどうかなのでしょうね。

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2023年3月 8日 (水)

「湯道」湯の道

タイトルの「湯道」というのは、本作の脚本家である小山薫堂さんが提唱している概念ですが、茶道、花道、香道、柔道、剣道と、文武問わず、とかく日本の文化には「道」という言葉がつくものが多い。
「道」という言葉を辞書で調べると、「芸術・技芸などのそれぞれの分野」などと出てきますが、これはあることの極みに達する道のりということを表しているのでしょう。
茶を飲む、花を生けるという行為は誰でもできますが、その行為の意味を考え、その意味に基づき所作を洗練させていき、極限までに突き詰めていくことが「道」なのでしょう。
行為の意味を極めるということは、自分と他者・環境の関係性を突き詰めて考えるということでもあるかと思います。
「道」は思想でもあるのでしょう。
特に日本人は自分と自然という関係性を深く考えてきた民族であると思います。
小山薫堂さんは諸外国に比べても「お風呂に入る」という行為が好きな日本人の文化が、自分と自然との関係性を見つめる行為として昇華できると考えているのでしょうか。
「道」は個人個人の行為の本質を突き詰めていく中で、意味を象徴的に表した所作、「型」というものに行き着きます。
本作でも「湯道」のさまざまな所作が紹介されていますね(フィクションですが)。
本来は「型」には意味がありますが、えてしてその型ばかり
を追求し、その心が抜けてしまうこともあります。
本作に登場する温泉評論家は温泉を極めて、「温泉は掛け流し」しか認めないという極端な考えを持っています。
しかし、なぜ湯に浸かるのかという行為の意味を見失っています。
お湯に入る時、人は何も身につけず、心を全て解放できる。
そして心の中から温まり、気持ちいいと思う。
だからこそ素直になれる。
そういったお風呂の意味合いを彼は忘れてしまい、スペックだけに気を取られてしまっているのですね。
本作に登場する「湯道」の家元も、そしてその後を継ぐ弟もお風呂の意味合いというものを理解しています。
所作や作法はその意味を表している象徴でしかない。
また「道」の危険なところは、別の考えを認めにくいということもあります。
上で書いたように道は思想なので、違う思想は受け入れにくい。
しかし、そもそもは誰でもできる行為なわけなので、それぞれのやり方があって良いはず。
意味を極めていく中で、型に収斂されていくわけですが、それだけが正しいというわけではありません。
本質的には多様であるわけです。
本作にはたくさんの登場人物が出てきますが、それぞれのお風呂の楽しみ方が描かれています。
その多様性も真実の姿であるとも思います。
小山薫堂さんは食にも造詣が深く、さまざまな著作があります。
食もそうですが、お風呂も誰もが毎日行うことです。
また小山さんは「おくりびと」で誰もが経験する大切なひとを送るという行為も描いています。
小山さんは誰もが経験する行為の本当の意味というものを考え続けている方なのかもしれません。

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2023年3月 6日 (月)

「アントマン&ワスプ:クアントマニア」「アベンジャーズ」への布石

<ネタバレあります>
MCUのフェーズ5の幕開けとなる作品で、「マルチバース・サーガ」のメインヴィランとなる征服者カーンが登場します。
「アントマン」はこれまでは軽妙なコメディタッチで描かれており、MCUの中でも独特のポジションをとっていました。
本作はターニングポイントとなる位置付けのためか、コメディタッチは抑え気味となっています。
今回舞台のほとんどは量子世界となっています。
前作でのジャネット救出でその一端は見ることができましたが、本格的に量子世界が描かれるのは本作が初めて。
そこはまた一つの宇宙のようで様々な民族のごった煮のような世界が描かれます。
その世界観は「スター・ウォーズ」に通じる感じもしますね。
ストーリーとしても「スター・ウォーズ」を思わせるような展開で、量子世界を支配したカーンに対し、アントマンらと量子世界のレジスタンスが協力して戦う、まるでSF戦争映画のような展開です。
そのためか、ストーリーとしては思いのほか単純であり、驚きはあまりありません。
個人的にはアントマンことスコット・ラングとその娘キャシーの関係をもっと掘り下げて欲しいなと感じました。
スコットが失った娘との五年間に関して葛藤がもっとあるのかと思っていたのですが・・・。
また、サノスのさらに上をいく最強の敵と言われる征服者カーンですが、それほどの凶悪さを感じなかったことも物足りなさを感じたところかもしれません。
本作のカーンはドラマシリーズ「ロキ」で登場した「存り続ける者」の変異体です。
冒頭に書いたようにカーンはアベンジャーズの最新作「アベンジャーズ:カーン・ダイナスティ」のメインヴィランです。
本作でも非常に強い力を見せつけ、アントマンらを苦しめますが、最後はアントマンとワスプに封じ込められます。
とはいえ、最凶ヴィランとしてはあっけない印象も受けました。
同じ変異体であれば「存り続ける者」の方が不気味さがありました。
「存り続ける者」は初めてマルチバースを発見し、自分の世界以外へ行き来することができるようになった人物です。
その結果、それぞれの世界の彼の変異体は互いに争うようになりユニバース同士の激しい戦いを巻き起こしました。
そのため「存り続ける者」は自分の世界のタイムライン(神聖時間軸)以外を存在させないことにより、世界間戦争防ぐため、TVAを設立したのです。
しかし「ロキ」の最終話で、ロキの変異体であるシルヴィに「存り続ける者」は殺され、TVAも崩壊、そのためマルチバースが存在することになったということが描かれました。
フェーズ4でさまざまなマルチバースが登場したのはそのためです。
「存り続ける者」は一つのタイムラインしか認めないことにより、世界間戦争を防ぎました。
そして本作のカーンは彼がそのほかの世界を全て征服することにより、世界間戦争を防ごうとしたのです。
しかし、彼はアントマンらによって封印されました。
「アベンジャーズ」の「インフィニティ・ウォー」「エンドゲーム」の驚きのある展開に対して、物足りなさを感じたわけです。
しかし、それは最後のポストクレジットで翻りました。
本作のカーンを量子世界に追放したのは、他のカーンたちだったのです。
無数のユニバースに存在する無数のカーンたちがある場所に集まっています。
そこにいるのはカーンのみ。
彼らを取り仕切っているらしい幹部たちも全てカーンの変異体です。
彼らはまるで一つの国家のよう。
まさにカーン・ダイナスティ(カーン王朝)です。
アベンジャーズが戦うのは、一人のカーンではなく、無数のカーンの変異体なのでしょう。
たった一人のカーンですら、手こずらざるを得なかったわけですから、それが無数となった場合は、非常に難しい戦いになることが想像できます。
確かに、カーンは最凶ヴィランであると、頷けました。
本作はカーンという最強の敵を印象付けるための壮大な前振りという位置付けになったような印象です。
そのためか作品としては少々物足りなさを感じました。

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2023年2月27日 (月)

「シャイロックの子供たち」普通の人

本作は池井戸潤原作、本木克英監督という「空飛ぶタイヤ」と同じ座組となっています。
「空飛ぶタイヤ」は扱っているテーマの重さからか、骨太な社会派ドラマといった印象を持ちました。
またドラマ「半沢直樹」で使われた「倍返し」という言葉が数年前に流行りましたが、池井戸さん原作の映像作品は、やられた方がやり返すカタルシスが特徴である印象もあります。
骨太さ、熱さといった今までの池井戸ドラマのトーンを期待していくと、本作は少し印象が違います。
主演が阿部サダヲさんであるというのは一つそういった印象を持つ大きな要素かもしれないです。
阿部サダヲさんは色々演じられる方ですが、割と飄々としたキャラクターのイメージがあります。
本作で阿部さんが演じる西木もそのようなイメージのキャラクターだと思います。
今までの池井戸ドラマの主人公は割と意志が強い熱い男が多かったかと思います。
彼らは主人公として非常に強いキャラクターでドラマを牽引する力があります。
つまりは彼らはフィクション的であり、現実離れしたキャラクターであるのでしょう。
西木はそれらのタイプとはちょっと違います。
飄々としていていて、情けないところも少々ある。
その反面、人をよく観察していてよく気が付きますし、言うべきところでは言うこともあるしっかりとした側面もある。
掴みどころがないとも言えます。
今までの池井戸ドラマの主人公に比べれば普通の人、なのかもしれません。
とは言いつつ、筋が通らないことは許せないという思いはこれまでの池井戸ドラマの主人公とは共通していて、その思いで後半はドラマを展開させていきます。
西木はこのような強さは持っているのですが、合わせて弱さも持っています。
ラスト前での西木の行動はこの弱さを表しています。
「強さ」一辺倒ではなく、合わせて人間らしい「弱さ」を持っているという点で、今までの池井戸ドラマの主人公に比べ、普通の人という印象を持たせるのかもしれません。
そのためか、カタルシスという点では半沢直樹的なものを期待すると少々物足りないかもしれないですね。

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2023年2月26日 (日)

「『鬼滅の刃』上弦集結、そして刀鍛冶の里へ」炭治郎の強さ

こちらの作品は厳密には映画として制作されたものではなく、「遊郭編」のラスト2話、そして「刀鍛冶の里編」の第1話をそのまま繋げたものとなります。
4月から「刀鍛冶の里編」のテレビ放映がされますので、そのティザー的な役割で公開されたと考えられますが、それでも劇場で見ると感じ方が違います。
やはり大画面と音響の違いは大きいです。
まず遊郭編の第十話ですが、これはほぼ全編、炭治郎ら鬼殺隊と妓夫太郎・堕姫の最終決戦を描きます。
私は元々は配信版をパソコンの画面で見ていて、それでもあまりの超絶作画に驚いたものですが、これを大画面で見るとさらに驚きます。
目で追いきれないほどのスピード感、迫力のあるアングル、緩急を織り交ぜたリズム、どれをとっても超一級品の仕上がりです。
「鬼滅の刃」の場合、手書きとCGを巧みに使い分けているようですが、それらの手法を知り尽くしているからこそ、使いこなせてこのような表現ができているのだと思いました。
これはテレビの画面だけでは収まらない仕上がりです。
そして第十一話です。
こちらは激しい十話から一転して、妓夫太郎・堕姫の悲しい過去のエピソードです。
「鬼滅の刃」は鬼にまつわるエピソードも心を打つものが多いですが、彼らの過去も哀しい。
社会の片隅でひっそりと生き、それでも迫害されて、人を憎み、結果鬼となった二人。
そして何より、彼らを思いばかる炭治郎に涙します。
炭治郎という男は剣が誰よりも強いわけではない。
けれどもその気持ちは決して揺らぐことがない。
それが彼の強さです。
第十話でも仲間が皆倒れ、自身の指の骨も折られたにも関わらず、決して鬼の首を獲ることを諦めなかった。
そして彼は人か、鬼かに関係なく、優しい。
最後に互いに罵り合う妓夫太郎・堕姫の口を塞ぎ、二人が安らかに逝けるようにしてあげました。
どんな状況であろうと、誰であろうと、優しいということに炭治郎は決してぶれません。
それは彼の強さです。
炭治郎の強さが味わえるのも「遊郭編」のラスト2話だと思います。
そうそう、善逸も伊之助のかっこよさを味わえるのもこの2話ですね。
特に善逸はかっこいい。
「刀鍛冶の里」編については、まだ導入編なのでなんとも言えませんが、柱が二人登場するので、どのように話が展開するか楽しみです(原作読んでいないもので)。

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2023年2月23日 (木)

「#マンホール」主人公への共感の逆転

主人公がある危機的な状況下に置かれて、そこから必死の脱出を図るワンシチュエーション・スリラーには、[リミット〕など傑作が多い。
映画としてはシチュエーションが変わらず、画的に変化が出しにくいという点では不利であるではあるが、そのような制約を凌駕するようなアイデアがあるところが、評価が高くなる理由だろうと思います。
本作「#マンホール」もそのようなワンシチュエーション・スリラーの一つとなります。
主人公川村は結婚式の前の晩、同僚たちによるお祝いの宴会の後、酔ったためかマンホールに落ちてしまう。
落ちる際に怪我を負ってしまったため、川村は自力ではそこから脱出できない。
彼は助けを求めるが、次第にこのような状況になったのは誰かが仕組んだためではないかと強く疑いを強めていく・・・。
本作でユニークなのは、現代らしくスマートフォンやネットの力を使って主人公が脱出を試みようとするところでしょうか。
大概このようなワンシチュエーション・スリラーの場合、携帯電話は早々に壊れたり、無くしたり、バッテリーが上がったりして使えなくなることが多いですよね。
万能アイテムなので、設定に制限を加えにくいということで真っ先に封印されるのだと思いますが、本作は違います。
自分が落ちた場所を特定するために、スマホのGPSを使ったり、情報を集めるために偽アカで、ネット民たちに情報を募ったり、今時の使い方で状況の打破を狙います。
しかし、便利さゆえの危うさも描いていて、スマホはすでにハッキングされていてGPSは狂わされていて、主人公はそれに気づかずミスリードされてしまいますし、利用としていたネット民は勝手に暴走し、コントロールから外れていきます。
自分で制御できていると思いきや、かえって翻弄されてしまうというのはネットではよくあることだと思います。
全てをコントロールできているという、自信は本作の主人公川村の特徴だと思います。
冒頭、彼は優秀な営業マンで人々からも人望が厚い人物として描かれます。
しかし、マンホールに落ちてからは徐々に彼の本質が見えてきます。
なかなか探しにこない警察には、かなり強い口調でクレームを言いますし、元彼女に対しても打算的な発言で自分の思い通りに動かそうとしています。
これは冒頭のイメージの人物とは印象がかなり違う。
この違和感が実は伏線になっていたのです。
本作を観ていると、最初はこの主人公を気の毒に思い、助けてあげたいと共感を持ちますが、次第に明らかになっていく彼の本質を見るに従い、徐々に彼から気持ちが離れていく気分になります。
見ている側の主人公に対する感じ方がいつしか真逆にさせていく展開が巧みです。
ラストは想像していない展開で驚きがあります。
主人公への共感が180度ひっくり返った上で、このラストは腹落ち感がありました。「#マンホール」

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«「バビロン」デイミアン・チャゼルの映画観