2019年8月23日 (金)

「ダンスウィズミー」 自分の解放

「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」の矢口史靖監督の最新作です。
今回の題材はミュージカルです。
ミュージカル映画好きなんですよね。
自分では歌ったり踊ったりするのは苦手なのですが、なぜかミュージカル映画は好きなのです。
でも昔はあまり好きではありませんでした。
主人公の静香が劇中で言っているように、それまで普通に会話していた人たちが歌い出すっていうのに違和感を感じていたのです。
しかし、映画「シカゴ」を観たあたりから好きになって、ミュージカル映画が公開されると劇場に足を運んでしまうのです。
でもなんでミュージカル映画が好きになったのかが本作を観てわかりました。
静香は東京の洒落たマンションに住んでいて、大手の企業に就職できた勝ち組OLです。
仕事もできるらしい。
彼女は幼い頃の大失敗のトラウマからミュージカルが大嫌い。
にも関わらず、ふとしたことから催眠術にかかってしまい、歌を聴くと歌って踊ってしまうミュージカル体質になってしまいます。
仕事中でもデート中でも音楽が流れると踊ってしまう。
それは大層困りもの。
そのため彼女は自分に催眠術を解いてもらおうと催眠術師を探し出すために旅をすることになってしまいます。
彼女は音楽が流れると踊ってしまうという困った体質になってしまいますが、旅を続け、いろいろな人に関わり、歌って踊っているうちに、彼女の表情が次第にイキイキとしていくことに気づきます。
自分でも気づかなかった本当の自分に彼女自身が気づいていくような。
思えば歌うこと、踊ることというのは自己表現なのですね。
自分の娘も3歳になると、日々歌って踊っている。
何か自分の気分を表現したいという衝動があるような感じがします。
大人になるにつれ、恥ずかしさとかを覚えてそういうことはしなくなると思うのですが、歌と踊りには自分を解放するという作用があるのかもしれません。
自分がミュージカル映画が好きなのも、映画を観ている時は、自分も歌って踊っているような気分になれるからかもしれません。
確かにミュージカル映画を観た後は、気分がスッキリしているような気がします。
 
主人公静香を演じているのは子供の頃より子役で活躍している三吉彩花さん。
最近は雑誌のモデルなどをしていたようです。
すらりと背が高く、そして手足が長いので、ダンスをしている時の様子はとても映えますね。
実は彼女は子役の頃をちょっと知っていて、随分と大きくなってそして綺麗になっていて驚きました。
これからの活躍に期待です。

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「ライオン・キング」 映像は新しいが、物語は・・・

実写と見まごうばかりのCGによって制作された”実写版”「ライオン・キング」。
ここまでくると実写、アニメというのは垣根がなくなってきているなという感じがしますね。
実際は実写的に表現されたアニメーションであるとは思います。
動物の表情や動きは本物よりはデフォルメされて、人間的なエモーションが演出されていますから。
表現の技術的な進化を感じさせる作品であると思います。
それに対して物語については現代的な新しさはあまり感じられませんでした。
ディズニーはこのところ昔のアニメーションの実写化した作品をリリースしています。
最近では「美女と野獣」、「アラジン」などが挙げられると思います。
これらは昔のアニメーションをただ実写化したというだけでなく、より現代の多様な価値観に配慮したものとなっています。
特に女性の描写ですね。
昔のディズニー映画といえばプリンセスですが、彼女たちはどちらかといえばか弱く、男性を待ち、選ばれる者として描かれていました。
しかし最近のディズニー作品の女性たちは自らの意思をしっかりと持ち、そして行動をします。
「アナと雪の女王」のエルサとアナなどもそうでした。
ですので、「美女と野獣」のベルにしても、「アラジン」のジャスミンにしても、アニメよりもさらに強い意志を持ち、行動力のある女性として描かれています。
「アラジン」のレビューでも書きましたが、実写版で新たに書かれた曲である「Speechless」はその象徴でしょう。
ですので、本作もそのような様々な価値観が込められた現代的な作品になっているかと思いましたが、基本的に物語はアップデートはされていないように感じたので物足りなさを感じたのです。
どうしても青年が王になっていく姿を描く物語ですので、男目線になってしまうのは致し方がないところではあるとは思うのですが。
ですので女性に関してはどうしても男性を支える立場という描かれ方になってしまいます。
その姿はやや昔の女性観のように見えました。
最近のディズニーの作品は多様な価値観を大事にしてきているように感じていたので、本作についてはその点があまり感じられなく、少々物足りなさを感じました。

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2019年8月22日 (木)

「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」 ゲーム世界からの放出

人生で初めてプレイしたRPGが、大学浪人をしていた時に友人が持っていた「ドラゴンクエスト」の第1作でした。
今までにないゲーム体験でとても驚いたのを覚えています(それまではシューティングゲームばっかりでした)。
受験を控えていたため、自分でファミコンとソフトを買ってしまったらおしまいだという理性は働いたので、大学合格まではお預けにしましたが。
そして社会人になってすぐぐらいにリリースされたのが「ドラゴンクエスV 天空の花嫁」でした。
これもスーパーファミコンを買うきっかけになった作品で、このために何度も徹夜をしたのは言うまでもありません。
さてその「天空の花嫁」を3Dアニメとして映画化したのが、本作品です。
観る前から色々とネガティブな評価を耳にしました。
曰く「原作に対する冒涜だ」などといったようなものです。
コミックでもゲームでもオリジナルが人気作品であればあるほど、その映像化作品は細かいところが気になる人が多いものです。
自分もオリジナルゲームのファンでしたので、そういうところはわかります。
ですので本作を観る前の私のスタンスとしては、あまり期待しすぎないようにしようというものでした。
ということでしたので、見初めて終盤まで行くまでの私の感想としては「意外にも面白いじゃないか」というものでした。
もともとオリジナルのゲームはストーリーとしてもかなり長いものでしたので、それを2時間程度にまとめるというのには脚本でかなり力技が必要だと思います。
本作においてはオリジナルのストーリーの中で省くところは省き、見せるべきところは見せるという判断が的確であったと私は思います。
ゲームをやったのはかれこれ20年以上も前なので細かいところは覚えていないですが、原作のエッセンスは活かしていたと感じました。
お嫁さんを選ぶときのドキドキした気持ちなども思い出しました。
ですので、なんでこの映画が「原作の冒涜」と言われるほど酷評されているのか理由が終盤までわかりませんでした。
ただ終盤のある問題の箇所にきたときに、ひどい評価を得てしまっている理由がわかりました。
個人的にもあのメタな展開になぜわざわざいったのかは疑問です。
素直にあのままエンディングを迎えても十分に面白い作品であったと思いますし、原作ファンもそれほど文句は言わなかったでしょう。
それでは監督はなぜあのような展開にしたのでしょうか。
考えるに決して原作を冒涜するためではなく、ゲームに対するリスペクトであったのではないかと思います。
基本的に映画というメディアでは観客は制作者が決めたストーリーを追うことしかできません。
それを不自由であると考えることはできます。
それに対してゲームは自分の選択によって結末を変えることができます。
特に「天空の花嫁」は中盤の「お嫁さん選び」は自分の人生を左右するような感覚にプレイヤーがなり、ドキドキしたと思います。
プレーヤーの選択によってストーリーが変わる。
それは自由度が高いと言えると思います。
そういったそれぞれのストーリーがある(だからこその<ユア・ストーリー>というタイトル)ということがオリジナルゲームの画期的なところだったのだと思います。
ゲームが持っている映画とは異なる良さを、映画として表現したというのが、あのメタな展開であったのではないかと考えました。
ただ、それが観客が求めていたことと同じだったかどうかは別問題です。
映画よりは自由度が高いとは言いながらも、ゲームとてある一定幅のストーリーラインはあります。
そのストーリーラインに魅力を感じていたファンは、それに身を委ね、あの世界にいるかのような没入感こそが大事だったのではないでしょうか。
本作のメタな展開は、そこからいきなり放り出されるように感じさせるものだったような気がします。
冷や水を浴びせさせるような印象でしょうか。
監督としてはゲームを肯定的に捉えているからこその表現だったかと思いますが、その世界が好きなファンからすると強制的にあの世界から放出されるような感覚は冒涜的であると感じたのではないでしょうか。

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2019年8月18日 (日)

「ワイルド・スピード/スーパーコンボ」 ファミリーというDNA

「ワイルド・スピード」シリーズ初のスピンオフ作品。
とは言っても、2作目も3作目もスピンオフ的ではあったのですよね。
だからもしこの作品をシリーズ9作目と言われても全く不思議な感じがしません。
初期3作を受けて4,5,6作目を監督したジャスティン・リンが、サイドストーリーも許容できる懐が深いシリーズ、サーガとして確立したのが大きな功績であると思います。
それでは「ワイルド・スピード」らしさというのは何なのでしょうか?
アクションムービーで長年続いているシリーズは世にいくつかあります。
例えば「007」シリーズであったり、「ミッション・インポッシブル」であったり。
これらのシリーズの「らしさ」を成立させているものの大きな一つとして主人公のキャラクターがあげられると思います。
それがジェームズ・ボンドであり、イーサン・ハントであるわけですが、これらのシリーズは主人公が変わってしまうと成立しないと考えられます。
物語のトーンを具現化しているのが、主人公キャラクターとなっているので、外すことができないのですよね。
それに対して「ワイルド・スピード」シリーズは主人公すら変わっている時があります。
主要キャラクターも出入りがある。
それでも一つのシリーズとして成立しているというのは、かなり珍しいと思います。
それでは主人公キャラクターに変わってシリーズのトーンを作っているのは何なのでしょうか。
それは今までのこのシリーズのレビューでも取り上げてきた「ファミリー」という概念でしょう。
本作の登場人物たちは世界を救うために悪人と戦うというわけではなく、自分にとっての大切な家族を守るために戦っています。
結果的にそれが世界を救うことにつながる。
ファミリーが最も重要な要素だからこそ、主人公が変わっても、あるキャラクターが登場できなくなっても作品のトーンは継続できるというわけです。
本作においてホブスにしてもショウにしても戦うための理由の第一は家族です。
そこは「ワイルド・シリーズ」サーガの一つの作品としては外せない。
外さないからこそ、シリーズの1作として成立しているのです。
ずっとシリーズを牽引していたポール・ウォーカーが不慮の死を迎えた時、その後のこのシリーズがどうなるかを心配した人は多かったと思います。
私もその一人でした。
しかし、このシリーズはますますスケールアップをして続いています。
ファミリーという要素が中心に据えられているからこそ、それができたと思います。
本作では今までのシリーズの中で脇であったキャラクターを主人公にしても成立することを証明しました。
逆に言えば、ファミリーという要素さえしっかりと守っていれば「ワイルド・スピード」シリーズは末永く続けていくことできるかもということなのかもしれません。

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2019年8月15日 (木)

「アルキメデスの大戦」 鎮めるために沈められた戦艦

日本対アメリカ。
動員力、工業生産力、石油等の資源力、どれをとっても勝ち目のない戦いであった。
それらを冷静に数値を使って分析し、評価できる人であれば、そう考えたであろう。
しかしそうはならなかった。
データはそろっていたのにも関わらず。
人は見たいものだけを見たいように見る者なのだ。
本作の主人公、櫂は帝大で100年に一度の天才と呼ばれた男だった。
彼は、太平洋戦争へ邁進する海軍の象徴となるであろう巨大戦艦の建造を阻むべくその数学の才を駆使する。
折しも海軍では大艦巨砲主義と航空主兵主義の二つの主張がぶつかり合っていた。
大艦巨砲主義とは大口径の主砲と重装甲を持つ戦艦を艦隊の中心とする考え方であり、それに対して航空主兵主義はリーチのある航空機を主戦力とし、それらを搭載する空母を艦隊の中心とする考え方である。
現在のアメリカ海軍を見ればわかるように航空主兵主義の方が現代的な戦略である。
劇中で櫂が指摘しているように大艦巨砲主義は非常に効率が悪い。                
敵艦の速度・加速度・進行方向、自艦の速度・加速度・進行方向、風力・風向などの環境の数値を分析し、着弾する時の敵艦の位置を正確に予想できるかどうかがポイントなのだ。
砲弾は発射した後は、何もできないためだからだ。
太平洋戦争当時、それらの数値を瞬時に計測し、弾道計算をできるようなコンピューターなどは存在しなかったため、砲撃は非常に効率が悪いものだったのである。
航空機は砲弾よりもリーチがあり、その時の状況に合わせて対応可能であるため有利であることは論理的に考えれば明白であるが、当時の海軍ではそちらは主流とはならなかった。
大艦巨砲主義とは武者と武者との戦いのようであり、それに対し航空戦は鉄砲を持ち込んだようなものだったと思う。
圧倒的に国力の差があるアメリカに戦いを挑んだこと、また航空主兵主義が主流とならなかったことは論理的な考え方からすると受け入れがたいものではあるが、そういう道理が通らず、精神論的なものの見方がまかり通っていたのが当時の日本なのである。
櫂らは巨大戦艦建造計画を見積もりの不正確性をつく事により、頓挫させようとする。
櫂はそれに成功し、さらには巨大戦艦の構造上の欠陥をも指摘する。
しかしそれでも巨大戦艦建造計画は止まらなかった。
論理を精神論が越えてしまったのである。
この物語で興味深いのは櫂の試みが失敗してからである。
彼は巨大戦艦の建造責任者である平山中将に呼び出される。
櫂は彼から本当の巨大戦艦建造の目的を聞かされるのである。
平山は巨大戦艦を沈めるために作っていたのだ。
日本が戦争に邁進していくのは軍部だけが望んでいるからではなく、国民全体が望んでいるからである。
その流れは止まらない。
戦いになれば日本人はとことんまで戦い、国は焦土と化して滅んでしまうかもしれない。
それならば国の象徴とも言える巨大戦艦を建造し、それが敵国に無残に沈めらることを持って戦争の無謀さ、己の考えのおかしさに国民が気づくことのきっかけにできるのではないかというのが平山の考えであったのだ。
だからこそこの巨大戦艦に古の日本の名前、大和と名付けるのだと。
戦艦大和は日本の国の依り代であると。
沈めるために作られた戦艦。
まさに国民を鎮めるために。
数字、論理は何事にも揺るがされない事実である。
しかし人間は事実だけで判断するわけではない。
愚かしいがそれが人間なのである。
そのことに櫂は最初は気づかなかった。
それは彼が理想に燃える若者であったからであろう。
平山は彼に比べ人間の本質を知っていたのだ。
このところ隣の国が騒がしい。
こちらから見ると感情的で非論理的に見えるのだが、よく考えてみるとこの映画で描かれている時代では、日本がそのように見えていたかもしれない。
非論理的な思考で無謀な戦いに挑んだのだから。
まだ日本は冷静に振舞えている。
ちょっとは大人になったということであろうか。

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2019年7月29日 (月)

「騎士竜戦隊リュウソウジャー THE MOVIE タイムスリップ!恐竜パニック!!」 さらなる高みへチャレンジ!

「キュウレンジャー」、「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」とスーパー戦隊の定石を覆す作品が続いた後なので、「騎士竜戦隊リュウソウジャー」についてはスーパー戦隊シリーズの王道に回帰しているため、個人的には正直食い足りない感があります。
とはいえそれは大人目線なので、子供目線からすると王道の「リュウソウジャー」は魅力的に見えるのかな?
ですので劇場版については大きな期待はしていませんでした。
劇場版といってもスーパー戦隊は正味30分程度なので、ストーリーもなかなか掘り下げるのは難しいですからね。
ですが見てみると、感心するところがいくつもありました。
王道路線とは言いつつも、「リュウソウジャー」は新しい試みにチャレンジしています。
その中でも最も大きなトライはいわゆる「巨大戦(もしくはロボ戦)」の変革でしょう。
スーパー戦隊におけるロボ戦は、怪人態での戦いの後の2回戦というパターンが圧倒的に多いのはご存知の通り。
しかし本作における巨大戦は、怪人態がエネルギーを吸収して巨大化するという設定となっています。
ですので怪人態をやっつける決め技はないのです。
子供たち的には見所が減ってしまう気もしなくもないのですが、その代わりロボ戦をしっかりと盛り上げるというコンセプトなのでしょう。
本作のロボはいつものような箱を組み合わせているような形ではなく、着ぐるみもかなりスマートです。
そのため通常のロボよりもかなりアクションができて、見せどころを作っています。
劇場版でもロボ戦なのに屋外で撮影したシーンもあり、スピード感を感じさせるアクションの演出がありました。
これは今までとは異なる見応えを感じました。
これが一つ感心した点です。
もう一つは本作は屋外でのロケをしっかりとやっているため、スケール感がありました。
本作は恐竜の時代にタイムスリップをするという設定なので、CGとの恐竜との共演となりますが、これがこじんまりとしたシーンだとかえって安っぽさが出てしまいます。
本作ではロケシーンで恐竜をCGで合成していかにも恐竜が地上で暮らしているかのように感じさせています。
それもカメラを動かしたり、ドローンを使ったりしているので難易度は高いのではないかと想像されます。
ハリウッドの大作ではとうに当たり前ではあるのですが、劇場版とはいえテレビシリーズの延長であるスーパー戦隊の映画でこのようなことにトライすることは、チャレンジだと感じました。
お話としては子供でも見やすいものになっているとは思います(とはいえタイムスリップを題材にしているので、意外としっかりと考えてある)。
しかし、子供向けとは言いながらも映像的には今までのスーパー戦隊よりも上を目指そうという意思を感じた作品となっていました。

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2019年7月27日 (土)

「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」 未来への目線

平成仮面ライダー20作目である「仮面ライダージオウ」には2つの最終回がある。
現在放映されているテレビシリーズは来月末に最終回を迎えるが、こちらは「ジオウ」という物語の最終回と考えられる。
それに対して、劇場版は「平成仮面ライダーの最終回」とポスターに書かれているように、20作を数える平成仮面ライダーシリーズを総括する作品となっている。
そのため本作の視点にはテレビシリーズよりも、よりメタな平成仮面ライダーを俯瞰する視点が意識されている。
そもそもテレビの「ジオウ」の1クールはメタ視点が強かったが、後半はそれは薄れ「ジオウ」そのものの物語を追っていくようになってきている。
そう意味ではシリーズ後半の方が話は追いやすい。
メタ視点での平成仮面ライダー総括に関しては劇場版で行おうとする制作サイドの精緻な計画があったのだろう。
本作には敵として3人の仮面ライダーが登場することがアナウンスされていた。
仮面ライダーバールクス(BARLCKXS)、ゾンジス(ZONJIS)、ザモナス(ZAMONAS)である。
実はこの3人の仮面ライダーの名称は、過去のライダーのアナグラムとなっているということだ。
すなわち「BARLCKXS」は「BLACK RX」、「ZONJIS」は「SIN、ZO、J」、「ZAMONAS」は「AMAZONS」であるのだ。
ここまでは事前情報で雑誌などから得ていた。
しかし「なぜ」他のライダーではなく、これらのライダーが取り上げられたのかはわからなかった。
しかし、今回の劇場版を見て、なぜ制作サイドがこのライダーを取り上げたのかが理解できた。
それはそのまま本作のテーマであったのだ。
本作を見る前に私は「ジオウ」は平成ライダー20作の総括する作品であると認識していた。
しかし、「ジオウ」は平成ライダーを「総括しない」ということをテーマとしていたのだった。
現在「平成仮面ライダー」シリーズとして一括りにされて認識されているが、そもそも最初からシリーズ化を図って作られたものではない。
おそらく制作サイドがシリーズとしてやっていけるとはっきりと自信を持ったのは第4作である「555」くらいからではないだろうか。
ここまでの作品は「仮面ライダー」という枠組み、そして前作までの枠組みを常に壊すことによって、まさに番組として「生き残ろう」という意志を感じる作品であったと言える。
その後の「ブレイド」「響鬼」「カブト」はある程度定着しつつあったシリーズを枠組みとして固定化しようとしたり、逆に外れてしまおうとしたりといった試みがされており、迷いの時期であったように思う。
そしてその後の「電王」の大ヒットで、シリーズとしての存在感をある程度固めたと言える。
ただ制作サイドはそれでもそれが永続的に続くかどうかの不安を持っており、そのために10年目に「ディケイド」という異端児を放った。
「ディケイド」これは世界観もバラバラであった「クウガ」以降のシリーズを「平成仮面ライダー」シリーズというブランドにまとめ上げるプロジェクトであったと考える。
これによりある種、未来にも続く「平成仮面ライダー」というブランドが確立した。
第2期と言われる「W」以降の「平成仮面ライダー」は実は第1期と比べると、ある程度骨格のフォーマットがしっかりしていると思う。
見た目のビジュアルや、題材などはかなりユニークなものを持ってきているのではあるが、骨格はしっかりとしているのでどの作品も安定した品質を保ててきていた。
ただそれがこのままそのフォーマットが固定化していくことへの危機感もあるように思う。
故に20年目にして「平成仮面ライダー」とはなんだったのかと制作サイドは自らに問いたのだと思う。
その答えは、私もこのブログで何度も書いてきたことではあるのであるが、常に革新であること、変えることを厭わないこと、それを続けていくことこそが平成の仮面ライダーであったのだということなのだろう。
本作で敵として登場するのはQuartzerと呼ばれる者たち。
彼らは時間を管理し、美しく歴史を整えていくことを目的とする。
そういった彼らの物の考え方からすると、「平成仮面ライダー」はシリーズでありながら、一貫した設定もなく、脈絡もなく、奇妙でねじくれているように見える。
だからこそ「綺麗に舗装し直す」ために歴史に介入したのだ。
最初に書いたように彼らが変身する仮面ライダーは、「BLACK RX」、「真、ZO、J」、「アマゾンズ」をモチーフとしている。
これらの作品は「仮面ライダー」の中の歴史の中でも珍しくシリーズ的な展開(厳密には違うのもあるが)がなされている作品なのだ。
Quartzerの視点からすると「美しい」作品なのだろう。
しかし、ソウゴも言ったが「デコボコ」でもいいじゃないかということなのである。
ある意味これは多様性であるとも言える。
後半に突如、驚くべき人物が登場する。
木梨憲武さん演じる木梨猛だ。
「仮面ノリダー」と言った方がわかりやすいだろう。
「とんねるずのみなさんのおかげです」の中のコーナーのひとつであった「仮面ライダー」のパロディに登場する人物である。
正直、これには驚いた。
そしてすぐに映画としての話題盛り上げ用のギミックであると感じ、ちょっと嫌な気分にもなった。
しかし、さらに映画を見続けていると彼の登場には作品のテーマに関わる非常に大きな意味があることに気づいた。
ラスボスとの最終決戦時、歴代の平成仮面ライダーが召喚され死力を尽くす。
ここまでは想定通りではあった。
しかし、それに加えて仮面ライダーブレン(「ドライブ」の敵キャラであったブレンが変身した仮面ライダー。Twitterのエイプリルフールネタから生まれた異色仮面ライダー)、仮面ライダー斬月カチドキアームズ(「凱武」のスピンオフの舞台に登場するフォーム)、仮面ライダーG(スマステの特番の中で稲垣吾郎が変身した仮面ライダー)、そして漫画版のクウガが登場する。
まさになんでもありなのだが、これら異色ライダーが登場するのはまさに「仮面ライダー」という作品はどのような可能性もありで、こうであれねばならないという決め事はないもないということが言いたいのだろうと思う。
前半の戦国時代で信長が我々が知っている信長とは全く異なる生き方をしていたということ、そしてソウゴが魔王ではなかったということ、すべてがこうであるという決めつけは正しいことではないということを示している。
逆に言えば、決めつけることにより、可能性や未来はなくなっていくということなのだ。
これは新しい令和の時代を迎えるにあたっての「仮面ライダー」制作サイドの宣言であると考えられる。
令和になっても「仮面ライダー」はどのような可能性も否定しない、常に新しいことにチャレンジし続ける。
それこそが「仮面ライダー」なのだと。
「ディケイド」はそれまでの過去のライダーを集約し「平成仮面ライダー」というブランドを確立させた。
その目線は過去である。
しかし「ジオウ」はこれから「仮面ライダー」が向かうべき道筋、未来を見ている。
もはや平成、令和という区切りも無意味なのかもしれない。
「仮面ライダー」は未来に向かってただ走り続けるだけなのだから。

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2019年7月21日 (日)

「天気の子」 一筋の陽の光

今年の東京はずっと梅雨が続き晴れ間がありません。
まるで「天気の子」で描かれる東京のように。
物語の中で言われているように天気は人の気持ちを変える力があります。
晴れ上がった朝は人を元気に、雨ばかり続くときはちょっと陰鬱に。
このところちょっとばかり悶々とすることがありましたが、本作を見て少し陽の光が心に差してきたような気がします。
「世界は元々狂っている。」
そうかもしれません。
世界を変えてしまったというのは、彼らの思い込みなのかもしれない。
けれど人を好きになり、そして世界と引き換えにしてもいいと思えるほどに人を愛せるということは何て素晴らしいことなのだろう。
前作の「君の名は。」もそうでしたが、描かれる物語の中心にあるのは若い男女が惹かれ合う気持ちです。
そんなものは世界に比べればとても小さいものです。
だって地球上には何億もの人間がいて、それぞれが恋して、愛して生きている。
その中のたった一つの恋だから。
けれどそのちっぽけな恋は世界と引き換えるほどに大切なものでもある。
愛しているという気持ちは、他の何よりもその人のことを大事だと思うことだから。
誰かを愛している人にとっては、それは自分自身よりも、そして世界よりも大切なことなのです。
帆高にとっては自分よりも世界よりも陽菜のことが大事になったのです。
そこまで人を愛せるのはすばらしい。
眩しい。
ずっと雨が続く東京に、まるで光の回廊のように降りてきた陽の光。
まっすぐでキラキラとしている陽の光は、恋をしている少年のピュアな気持ちを表しているよう。
ちょっと眩しくなるくらいに。
新海誠監督の作品はアニメーションであるのに光の描写が独特で美しい。
まさに本作は彼の特徴的な光の描写の真骨頂です。
雨ばかりの東京にさす一筋の太陽の光。
ベールが剥がされるかのように一気に腫れ上がる空。
ずっと重苦しい天気が描かれる本作の中で、その光の演出はさらに際立ちます。
冒頭に書いたように映画の中で陽が差すだけなのに、自分の心にも暖かい光で満ちてくるような気になります。
映画の中のラストシーンはやはり雨が降っているのですが、心の中は晴れ渡って終われました。

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「トイ・ストーリー4」 幸せの多様性

「トイ・ストーリー3」が非常に綺麗な形で収まっていただけに、その続編はどのようになるのか、興味深さと心配とが入り混じった気持ちで見に行ってきました。
見終わった後の気持ちとしては、ちょっとした困惑でしょうか。
おそらく今までの3作とはちょっと違った視点を入れてこの作品を見てみないと、整理できないかもしれません。
今までの3作は「おもちゃにとって子供に愛されることこそが幸せ」というのが、一貫したテーマであったと思います。
初期の2作はその「子供」がアンディであったわけですが、「3」でアンディが大人になり、おもちゃたちがボニーにもらわれて行くことによって、その「子供」の定義の範囲が拡大し、子供は変わっても愛され続ければおもちゃは幸せになれる、と締めくくられたわけです。
子供たちが「卒業」しても、おもちゃたちが幸せであり続けられることを示したことにより、彼らの未来が暗くはないということが感じられ、ハッピーな気持ちで見終えられたのだと思います。
フォーキーという新キャラクターがポイントになります。
このフォーキーは、ボニーが使い捨てのスプーンやモールなど捨ててしまうようなもので作られた手作りおもちゃです。
このフォーキーがボニーにとっては一番のお気に入りのおもちゃとなりました。
もともといらないものから作られた彼はおもちゃとしての自覚はなく、自分をゴミだと思い、隙あらば自らゴミ箱に飛び込もうとするのです。
それをウッディを中心におもちゃたちが止めようとします。
彼らからすればあんなにボニーから愛されているのに、なぜ自分をゴミだと思い込むのかがわからないのです。
この「おもちゃとしての自覚」がポイントなのです。
おもちゃの幸せは子供に愛されること。
それを当たり前の常識として受け入れているのがおもちゃなのです。
フォーキーの存在が、ウッディの価値観(おもちゃとしての自覚)を少し揺るがします。
そしてもう一人。
それは以前に一緒にアンディの家にいたボー・ピープというアンティーク人形です。
彼女はアンディの家からもらわれていき、それから幾人もの手を経て、アンティークショップにたどり着きました。
彼女は自ら誰かのものとなるという道から外れ、幾人かの仲間と共にノラのおもちゃとなることを選びます。
子供に愛されるのがおもちゃとしての幸せという価値観を捨て去っているのが彼女なのですね。
ウッディの価値観を揺るがしたのがフォーキーであり、そして決定的にパラダイムシフトをかけたのが、ボーなのです。
おもちゃの幸せは一つしかない、それは子供たちに愛されること。
しかし愛されないおもちゃは幸せではないのか。
この作品はそういうわけではない、ということを言っているような気がしました。
これは結婚して子を産むことが幸せで、そうでない人は不幸せであるといった固定化したものの見方に物申しているというようにも思えたのです。
(ウッディの考え方にパラダイムシフトをかけたボーが大人の自立した女性のイメージで描かれていることはそのためかもしれません)
本作は何を幸せと思うかというのはそれぞれ個人によるのであり、決して誰かに決められるものではないということを言っているような気がします。
子供に愛されることを幸せと思うこともよし、自分で行く道を決めていくことを幸せと感じることもよし。
どちらがいいということはない。
幸せの多様性ということでしょうか。
フォーキーが次第におもちゃとしての自覚を持っていくことも、決してウッディが以前持っていた価値観を否定するのではないということを表しているのだと思います。
本作を見て感じた最初の戸惑いは、当たり前だと思っていた価値観を少し揺さぶられたからだと色々考えて思いました。
子供から愛されるのがおもちゃの幸せという範疇であるならば、全3作でしっかりと完結していると思います。
この4作目はその枠組みすらを飛び越えた視点で物語られているのだと考えます。
私と同じように困惑した方は、ちょっと視点を変えて見てみると、また別の評価になってくるかもしれません。

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2019年7月20日 (土)

「それいけ!アンパンマン きらめけ!アイスの国のバニラ姫」さりげなく盛り込まれている教訓

昨年に引き続き、娘と「アンパンマン」の映画に行ってきました。
一年前は映画館そのものが初体験だったので、彼女も落ち着きなかったですが、今年は昨年よりはお行儀は良かったですね。
でも、小さい子がフラフラと歩き出すと釣られて歩き回ったり・・・。
「アンパンマン」の映画だから許されますが、まだ他の映画に一緒に連れて行くのは厳しいですかね・・・。
去年の映画はアンパンマンその人が物語の中心にいたのですが、今回の映画ではアンパンマンというよりはゲストキャラクターのバニラ姫とコキンちゃんが主人公とも言えるようなストーリーでした。
バニラ姫はアイスの国の女王を引き継ぎましたが、魔法のスプーンでアイスを生み出すことができません。
なんどもなんども練習してもできるようにならないため、彼女はアイスの国を逃げ出してしまいます。
その途中でバニラ姫はコキンちゃんと出会い仲良くなります。
しかしその間、バニラ姫がいなくなったアイスの国はばいきんまんに乗っ取られてしまいました。
それを知ったバニラ姫とアンパンマンたちは取り戻そうとしますが、やっぱりバニラ姫は魔法のスプーンを使いこなすことができません。
それで苦しむバニラ姫を見て、コキンちゃんはなんと魔法のスプーンを捨ててしまうのです。
バニラ姫が辛いのだったら、無理して女王の役割などをやることはないということです。
自分のやりたいことに忠実に素直に生きるコキンちゃんならではですよね。
コキンちゃんが人気があるのは、一見わがままに見えつつも、自分がやりたいことに素直であるという点かもしれません。
一度、魔法のスプーンを失い、またアイスの国のために戦ってくれるアンパンマンたちの姿を見ているうちにバニラ姫の中で女王としての自覚が目覚めます。
そして魔法のスプーンを扱えるようになるのです。
彼女に足りなかったのは、女王としての自覚と他の誰かの喜ぶ顔が見たいという気持ちだったのですね。
毎度のことながら「アンパンマン」のお話にはそういった教訓がさりげなく入っているから子供に見せるのにも安心です。
まあ、そういう教訓に我が娘が何か学び取ったのかは不明ですが・・・。
彼女はなかなかアンパンマンが出てこないので、「アンパンマンはどこ?」とずっと言っておりました。

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«「スパイダーマン ファー・フロム・ホーム」 スパイダーマンのDNA