2025年11月 8日 (土)

「『爆弾』」スズキタゴサクは何者なのか?

ある晩、名乗る冴えない中年男が野方署に連行された。
酔っ払って酒屋の自動販売機を壊し、その上店員にも暴行を働いたという。
その男は「スズキタゴサク」と名乗るが、取り調べをしていく中で「自分は霊感が強い」と言い、何かが起こると予言をし始める。
彼の言葉通り秋葉原で爆弾が爆発し、その後も次々と彼の予言通り東京の各所で爆発が起こっていく。
予告を見た時の本作の印象は、山田裕貴演じる捜査一課の類家と、佐藤二朗が演じる犯人スズキとの1対1のサイコサスペンスだった。
しかしいざ蓋を開けてみると、犯人スズキに対して、警察サイドは総掛かりで挑んでいる。
最初にスズキに対応するのは、野方署の刑事等々力で、次は捜査一課で類家の上司である清宮、そして最後に類家となる。
最後の類家とて、スズキの計画に肉薄するものの、事件を止めることはできない。
それほどまでに神がかった計画を立てたスズキタゴサクとは何者なのか?
普段から職場や学校に通うときに通っている道。
喉が渇いて目についた自動販売機でジュースを買った瞬間、爆発が起こり、吹き飛ばされる。
なんとも不条理である。
吹き飛ばされた人間に意識があれば、「なんで自分が」と思うだろう。
残された家族も「なんで彼が」と思うだろう。
不条理である、と。
本作には不条理に翻弄される人物が多く登場する。
野方署の巡査長矢吹もその一人。
彼は同僚に手柄を横取りされた結果、憧れの刑事になれず交番勤務を続けている。
彼にとっては不条理なことである。
彼が捜査の中で無鉄砲な行動をとりがちなのも、その不条理を取り消したいと考えるからであろう。
矢吹の同僚倖田は劇中でスズキに怒りに任せて迫る場面があるが、彼女の気持ちを動かしているのは不条理を許したくないという思いだろう。
これらの物語の発端となる野方署の長谷部の家族がその最たるものだ。
彼らは長谷部の起こした不祥事により、見知らぬ人々から心無い非難を浴びる。
確かに長谷部がしたことは恥ずべきことかもしれない。
しかし、だからと言ってこれほどまでに迫害されるほどのことなのか。
不条理である。
長谷部とコンビを組んでいた等々力にも同じような思いはあったろう。
不適切行為があったとはいえ、長谷部自身の刑事の力量や功績まで否定されるべきものではない。
その思いから出た言葉によって、また言われなく等々力自身も責め立てられる。
当事者は不条理と感じるが、実は当事者でない者にとってはそのように感じることはない。
部外者である彼らは、事件とは安全な距離を取れており、だからこそ無責任に推論し、勝手に発言する。
そしてそれが当事者たちをさらに苦しめるのだ。
しかし、スズキの行動は彼ら部外者を一気に当事者にした。
いつどこで、爆破に巻き込まれるかわからない。
不条理がいつ襲いかかってくるのか。
不条理、ということは理由がないと言うことである。
なぜそうなったか、ということが説明できない。
たまたま?偶然?
人は説明ができないことに対して、不安を抱く。
説明ができれば解決できる。
逆に言えば、説明ができないことは対処できない。
それは神の技かもしれない。
スズキの行為は神の視座とも言える。
彼はある意味、人を超越している。
彼は人間の良い面も悪い面も、強さも弱さも、そして人間こそが持つ矛盾も、深く理解している。
だからこそ人を翻弄できる。
スズキが等々力を好ましく思っているのは、彼が人の強さ、弱さ、矛盾を併せ持った人間らしい人物だからではないだろうか。
この映画の登場人物の中で、スズキの視座に迫れる唯一の人物が類家だ。
彼も鋭い観察眼、深い洞察力で犯人の本質に迫ろうとする。
彼は思考を深めていく過程で、スズキの視座に上がっていこうとする。
スズキもそれを楽しんでいるようだ。
しかし、類家自身が言っているように彼は人であることに「踏みとどまる」。
彼にとっては他人がどうしようもなくバカに見える。
自分の思考についてこれないことについて、イラつく。
しかし、それでも類家は人を超越しない。
神の視座には上がらない。
だからこそ、類家はスズキに勝てない。
スズキが仕掛けた最後の爆弾は結局見つからなかった。
事件に関わった者たちは、誰も容疑を認めていない。
類家の、警察の敗北である。
スズキタゴサクは何者なのか。
彼は不条理そのものである。

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2025年11月 1日 (土)

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ ウルズハント -小さな挑戦者の軌跡-」良くも悪くも総集編

「鉄血のオルフェンズ」のオンエア開始からもう10年。 物語が進むに従って、どんどん悲劇に向かって追い込まれていく三日月らの軌跡から目が離せませんでした。
オンエア終了後、アプリとしてリリースされたのが「ウルズハント」でした。
興味はあったものの、アプリという特殊な公開方法のため、見ることができませんでした。
それが「鉄血のオルフェンズ」10周年ということで、劇場版と公開されました。
「ウルズハント」は元々は12話あったようで、本作はそれらの総集編となります。
そのためかなりナレーション頼りに物語は進められており、描かれる場面も端折られているようです。
私が若い頃の「ザブングルグラフィティ」のような印象です。
ですので、単体の映画として見るとかなりついて行くのが難しい。
無論ストーリーは追えるのですが、主人公を含め登場するキャラクターたちに感情移入をする余裕がないのですね。
なので、目の前で淡々とストーリーが進んでいくという冷めた視点になってしまいます。
おそらくガンダム瑞白星とモビルアーマー戦は、ガンダムバルバトスのそれと匹敵するようなアクションであったと思うのですが、そこも淡白になってしまい残念です。
キャラクターたちももっと詳しく知ることができれば魅力的に見えたはず。
できれば、12話をあらためて配信してくれるとありがたいです。 おまけであった「鉄華団」のエピソードは短いながら、良かったですね。
彼らの一番幸せな日々を見させていただきました。

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2025年10月26日 (日)

「おーい、応為」同士であり、親子

冨嶽三十六景などで知られる浮世絵師葛飾北斎には、その才覚を受け継いだ絵師である娘がいました。
それがお栄、号が葛飾応為です。
応為は「おうい」と読み、これは北斎がお栄をいつも「おーい」と呼んでいたことから付けられたとも言われています。
応為の作品はそれほど残されていませんが、そのいくつかが劇中でも登場しています。
それらが「吉原格子先之図」「夜桜美人図」「百合図」です。
私は応為の絵は見たことがなかったのですが、特に「吉原格子先之図」「夜桜美人図」は光と闇の使い方が印象的かつ特徴的で、レンブラントのようにも思えました。
北斎とはまた違った才能を見ることができます。
応為の作品数が少ないのは、北斎作品と呼ばれているものの中にも、彼女が描いたものもあるとも言われ、実際共作もあったようです。
さて、本作はその応為が主人公となる作品です。
今までも北斎が登場する映画は数々あり、そこには応為も登場していましたが、このようにスポットが当たるのは初めてではないでしょうか。
応為は北斎の弟子と結婚するものの、夫の絵の拙さに我慢がならず貶したところ離縁されたという逸話を持つ女性。
男っぽいものを好み、当時としては破天荒なタイプの女性であったと思います。
江戸時代の女性と言えば、生まれてから親に従い、夫に従い、子供従い、と一生の間、自分では物事を決められない立場でした。
応為は離縁後は北斎の元で、好きな絵を生業として絵師として活躍します。
劇中、応為は北斎のことを「鉄蔵」と呼び、まるで親らしく扱っていません。
一緒に暮らしているものの、北斎、応為はそれぞれの創作に夢中であり、雑多な生活に関わることには無関心の様子です。
親子というよりは、それぞれ自立したアーティストとして生き、刺激を受けているという状況でしょうか。
それぞれの創作を追求するという点では、互いにリスペクトしているようにも思います。
それぞれの口が悪いのは、親子としての屈託のなさでしょうか。
彼らは親子でありつつ、創作に取り憑かれた同士でもあったのでしょう。
北斎は晩年、応為に自分が死んだら、自由に生きていいと伝えます。
彼はアーティストとしての応為を尊敬し、一緒に刺激しながら創作をしてきたことに満足しつつも、親として娘の一生を奪ってきたのではないかと考えたのです。
それに対し、応為は元々自分はこのように生きたいから生きてきたと返します。
親だから世話しなくてはいけないから一緒に暮らしてきたわけではなく、身近にいる最も優れたアーティストとして尊敬する北斎のそばにいて、刺激を受けたかったからだということでしょう。
その当時としての女としての幸せではないかもしれない。
しかし、それは自分が生きたかった人生であると。
応為にとって、北斎はどうしようもない親で目を離せない存在でもありましたが、最も尊敬する芸術家でもあったのでしょう。
応為は、アーティストとしても、女性としても自立した考えを持った人物であったのかもしれません。
北斎の死後、応為の行く末に正説はないようです。
一人になった彼女の作品がどのように変わっていったのか、知りたいですね。

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2025年10月24日 (金)

「ワン・バトル・アフター・アナザー」観たことのないカーアクション

ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)監督のアクション映画ということで大いに話題になっています。
確かに後半のカーアクション(そう呼んでいいのかどうかわからないですが)は、あまり見たことのない画であり、PTAらしい独創性が表れているように思いました。
カーアクションと言われてまず思い浮かぶ派手なカメラワークやスピード感のある演出といったものはほぼありません。
どちらかというとカメラはロングからズームで車を捉えているようなカットが多く、ゆったりと構えている印象です。
上下に波を打つように続く道を走る車を正面から捉えているカットが印象的で、正面からのためスピード感はほぼありません。
しかし、波打つ道に車が隠れ、そして再び表れたりすることで、不思議な緊張感が出てくるのです。
このようなカーアクションはあまり見たことがありません。
唯一、印象として近いと思ったのはスピルバーグの「激突」ですが、彼が本作を続けて3回見たという話も伝わってきていて、何か通じるものを感じたのかもしれませんね。
このようにカーアクションとしての新しい見せ方をしている本作ではありますが、PTAらしい映画でもあると思いました。
私がPTAの作品で見たことがあるのは「マグノリア」と「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の2本のみ。
個人的には、彼の作品は濃厚なドラマと強烈なキャラクターたちという印象が強く、見る側にも非常にエネルギーを要求するイメージがありまして、ちょっと躊躇してしまうところがあります。
それでも今回見に行ったのは、最初に触れたPTJとしてどのようにアクション映画に挑むのかという点に興味があったのです。
本作の中で強烈な印象を残すのは、ショーン・ペンが演じるロックジョーで、この人物はPTA作品にしばしば登場する強い個性を持った登場人物です。
彼は国境警備をする軍人であり、権威主義であり、また白人男性至上主義でもあります。
しかし、その反面、革命家でありペルフィディアに支配されることに快感を求めるアンビバレントな感情を持ち合わせています。
彼は排他的な白人男性至上主義の秘密結社に入ることを望みますが、その時に障害になるのが、ペルフィディアとの間に生まれたかもしれない子供です。
その子の存在は、彼の「純潔」を揺るがすこととなり、彼は執拗にその子ウィラを追いかけます。
ロックジョー、そして彼が所属を望む結社の男たちは、距離をとって眺めると、共通して自分中心の子供ぽさを持っているように思います。
しかし、その彼らは権力を持っているため、こっけいさと怖さを併せ持っており、理解し難い不気味さを感じます。
ディカプリオが演じるボブはかつてペルフィディアの同志であり、そして恋人であり、ウィラを自分の子と信じて育ててきました。
十数年平和に暮らしてきて、怠惰な生活を送っていた彼は、ロックジョーがウィラを狙って行動してきたことをきっかけに、かつての革命家としての闘争心が目覚め始めます。
それと同時に、当たり前の存在としていたウィラを失うかもしれないという危機感に直面し、本当の親として自覚し始めます。
そういう意味で彼は非常にまともであり、観客として共感しやすい人物です。
PTJの作品はクセが強い人物が多いため、自分が共感できる人間を探しにくいのですが、本作は主人公が最も共感しやすいため、他の作品に比べ圧倒的に見やすいと思います。
ロックジョーたちの不気味さが描かれていくほどに、ボブの存在が際立ってきます。 冒頭に触れた荒野でのカーチェイスの表現は、娘に届きそうで届かないボブの不安を表しているようでもあり、アクションシークエンスそのものがボブへの共感を強めていっているようにも思います。 大団円とも言える終わり方であり、もやもやもなくすっきりとした読後感です。
PTJ慣れていない方でも観やすい作品かもしれないです。

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2025年10月12日 (日)

「トロン:アレス」サイコガンダム??

デジタル世界を映像化した画期的な作品「トロン」。
数々の映像作品が「トロン」の影響を受けました。
そのシリーズ最新作がこちら「トロン:アレス」です。
今までの2作はデジタル世界に人間が訪れるという展開でしたが、本作では逆。
デジタル世界のプログラムたちが現実世界を侵食します。
ジャレッド・レトが演じる主人公はデリンジャー社のセキュリティプログラム「アレス」。
冒頭よりアレスが学習する過程が描写されますが、現在AIで主流となっている敵対的生成ネットワーク(GAN)でしたね。
敵となるプログラムと戦い、勝てるまで試行錯誤して学習していく。
敵対的生成ネットワークをわかりやすくビジュアル化していました。
今回はデジタル世界のものがリアル世界にやってくるわけですから、その表現の加減が難しかったと思います。
思いっきりCG的なものでは現実世界ではあまりにおもちゃっぽくなってしまいますし、リアルすぎるとそもそもデジタルっぽくない。
デザイン、テクスチャなどの匙加減が上手で、リアル世界の中でデジタル世界のメカが存在感を持って描かれていました。
オリジナルから印象的であったライトサイクルの後ろに発生する光の帯ですが、現実世界ではそれが物理的に存在するようになるという発想は面白い。
予告でも見られた光の帯によってパトカーが真っ二つにされるシーンなどはビジュアル的にもインパクトがありました。
最終盤に現実世界に出現した巨大なメカですが、なんか既視感がありました。
なんだろうと考えたのですが、あれば「Zガンダム」のサイコガンダムですね。
サイコガンダムがモビルフォートレス状態でホンコンシティに来た場面を思い出しました。
ビルの間を宙に浮きながらゆっくりと進んでくる様は、まさにサイコガンダム。
人型でもなんでもないデジタル感のある異質感のある形状も共通しているように感じました。
サイコガンダムにインスパイアされたんじゃないですかね。
ストーリーとしては新味があったようには思いませんでした。
永遠の命を持つ非人間の主人公が人間と触れ合う中で人間性を発見し、自らも人間として生きていく道を選ぶ、というのは今までも繰り返し語られてきた話です。
主人公アレスもあっさりと人間になりたい、という気持ちになりましたが、もう少し葛藤があったらドラマチックになったかもしれません。
ラストで数々の罪を問われたデリンジャー社の社長はデジタル世界に逃亡しました。
次回作はデジタル世界とリアル世界の全面戦争になるのでしょうか。

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2025年10月 5日 (日)

「沈黙の艦隊 北極海大海戦」信条に真摯に行動する

2023年に公開された「沈黙の艦隊」の続編です。
大沢たかおさんが演じる主人公海江田は、「キングダム」とはまた違った、静かなる存在感を出していました。
ですが、元々大作であった原作を踏まえた映画化作品であったので、前作はまさに導入部分といったものでした。
サブタイトルにあるように本作は、東京から国連があるニューヨークを目指す「やまと」の旅路が描かれ、特に北極海でのアメリカとの潜水艦が一つのクライマックスとなります。
潜水艦戦というのは相手が見えない中での戦いであり、心理的な駆け引きが潜水艦映画の見どころとなり、極限の中での人間性が描かれ今までも数々の名作が作られてきました。
しかし本作の主人公海江田というキャラクターは人間離れして冷静沈着であり、動揺する姿を見えないタイプです。
ですので「やまと」側では極限状態を感じるシーンはありません。
その代わり相手側のアメリカ側にはドラマが描かれていて、ここは共感できました。
「やまと」と戦う最新鋭の潜水艦「アレクサンダー」を率いるのはベイツ艦長と言い、名門の海軍一家の養子となった男です。
彼の義理の兄に対する尊敬と愛情、軍人一家としての誇り、そして自分の鑑の部下たちへの責任の中で、大きな決断を迫られる部分は引き込まれる部分がありました。
本作で登場してくる人物の多くはプロフェッショナルです。
軍人も、政治家も、ジャーナリストも。
それぞれに自分の信念を持ち、行動しています。
登場人物たちは、プロであり、そしてかつ人間でもあり、彼らは己が信じる考えに真摯に行動しようとしています。
それぞれの信条は違うかもしれない。
互いにその信条に真摯に行動しようとしています。
海江田とベイツ艦長、衆院選に挑む元与党の政治家たちもそうです。
そしてそれぞれ相手も真摯に行動していることがわかるからこそ、終わった後は互いに尊敬の意を持つことができているのだと思います。
打算ではなく、信条に真摯に行動するというのは、美しくもあります。
本作での最終局面はニューヨーク沖での「やまと」VSアメリカ空母艦隊です。
物量に任せた攻撃を加えるアメリカ海軍に対し、「やまと」は魚雷を撃たずにピンを打つだけにとどめてメッセージを発します。
「戦う意志はない」と。
それは圧倒的に「やまと」に不利な戦いであるのですが、そこでも海江田は己の信条に真摯なのです。
結果、ベネット大統領が言うようにアメリカが一方的に「やまと」を攻撃しているように見える、という構図を作りました。
原作ではこの後、海江田のニューヨークの演説になり、大きな戦闘シーンなどはなかった記憶があります。
3作目はあるのでしょうか。
そこで海江田の理想がどのような形で語られるか、見てみたいですね。

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2025年9月28日 (日)

「宝島」希望は失われた

沖縄の基地問題は度々ニュースで報じられていて、沖縄の方々が激しく抗議をしている様子を見てきました。
沖縄だけが基地負担を強いられていることへの怒りは分かりつつも、現在の東アジア情勢を考える限り、基地自体を無くすこともまた難しいと思っています。
なので、どうしてもここまで激しく抵抗をするのだろうか、冷静に考えれば違った答えになるかもしれないのに、と感じていました。
本作では自分も含め多くの内地の人間が知らない、戦後の沖縄が語られています。
戦中の話は、今までも映画や報道なので度々触れてきました。
しかし、本作を見て、戦後から本土復帰までの年月はほぼ知らなかったことに気付かされました。
当時の沖縄はアメリカの占領下でした。
駐留しているアメリカ兵が何か犯罪をしても、ほぼ罪に問われることはありません。
そしてまた日本政府も沖縄返還を目指しつつも、沖縄の人々の苦しみに寄り添っているわけではありません。
沖縄はアメリカと日本に二重に虐げられていたとも言えます。
こういう経験をしてきたのであれば、現在においても沖縄の人々が基地に対して大きな抵抗感を持っているというのは納得できます。
現在の東アジアの状況と合わせて、決着させるのは相当に難儀であるということを改めて認識しました。
主人公たちは、米軍から物資を奪い住民に配っていて、戦果アギヤーと呼ばれていました。
そのリーダーがオンちゃんと呼ばれる若者です。
若者たちが米軍たちへの憂さ晴らし的な意味合いで戦果アギヤーをやっている中、彼の目線は未来へ向かっていました。
得た物資を売り払った金で学校を作ったりしていたのです。
皆で米軍に忍び込んだ時に兵隊に見つかり散り散りになる中、オンちゃんは行方不明になりました。
残った若者たちは、さまざまな道を歩きます。
オンちゃんを探すために刑事なるグスク。
米軍への怒りを晴らすためにヤクザからテロリストとなるレイ。
オンちゃんを待ち続けるヤマコ。
そしてキーとなるのが、彼らが何かにつけ気にかけることになる浮浪児のウタ。
彼はハーフであり身寄りのない子です。
沖縄ですから、アメリカ兵と沖縄の女性の間に生まれ、捨てられた子であろうと思われます。
そういう意味では彼はまさにアメリカと沖縄の歪んだ関係の象徴とも言える存在です。
誤りの子であるとも言えます。
しかし終盤になり、ウタをオンちゃんが育てていたことがわかります。
オンちゃんは、ウタを産みなくなった女性が持っていたペンダントから少なくとも愛しあった二人の間から生まれたということを知ります。
ウタは誤りの子ではなく、愛の子であった。
オンちゃんはウタに希望を見たのではないでしょうか。
不幸な関係にあるアメリカと沖縄にもいつか幸せな関係になれると。
しかし、オンちゃんは亡くなり、またウタも死んでしまいます。
希望が失われてしまった。
幸せな関係は築けなかった。
それは今現在の沖縄の人々がアメリカに抱く感情につながります。
再び、希望を持つことはできるのでしょうか。

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2025年9月27日 (土)

「大長編 タローマン 万博大爆発」思想には共鳴、映像は?

話題になっているということで「タローマン」を見てきました。
こちらの作品はNHKの深夜枠で放映されていた特撮ドラマの劇場版ということですが、全く知りませんでした。
1970年ごろに放映されていた特撮ドラマの体で作られていて、デザインや映像、特撮の技術などはその頃のテイストを意識して作り込まれています。
特撮好きの私としては、本来は大好物のジャンルではあるのですが、なぜか本作にはあまり乗れないかったのです。
なぜだろう?
考えますに、70年代の特撮ドラマを再現するというところをかなり真剣にやっているあまりに「あざとい」感じを受けてしまったのかもしれません。
「こういうの好きだよね?」というようなウケ狙いのような印象を受けてしまったようにも思います。
もちろん制作者の方々はそういうやましい気持ちはなかったのだとは思います。
インタビュー記事などを見ると、岡本太郎の思想を表現するのための適切な手法を選んだということなのでしょう。
とはいえ、個人的に(捻くれているのかもしれませんが)、「あざとさ」を感じてしまい乗り切れなかったということになります。
とはいえ、作品の狙い自体には共感するところもありました。
仕事でもなんでも人は皆が考えそうなことで満足しがちです。
そのほうが安心するからでしょうか。
しかし、実際人の心を動かすのは、誰も思いつかなかったことであり、そのような発想は初めて口に出した時は「べらぼう」な印象を与えるものです。
ただし真に人の心を動かすアイデアには、ただ突飛なだけではなく、人の真理のようなものが隠れていたりするのです。
岡本太郎の思想としては、大衆がなんと言おうと、その真理に遠慮なく臆することなくタッチしにいくべきであるということだと思います。
その考え自体には共感しますし、そのため本作のテーマ自体は全く自分もその通りだと思います。
つまりは表現自体が私個人にとっては、あまり性に合わなかったということなのだけかもしれません・・・。
そういえば岡本太郎の思想には共鳴しますが、彼の作品自体は別に好きでも嫌いでもありませんでした・・・。

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2025年9月25日 (木)

「ブラック・ショーマン」新境地開けず

主演・福山雅治、原作・東野圭吾と言えば「ガリレオ」シリーズです。
テレビドラマ、映画と展開され、人気シリーズとなりました。
ドラマはそれまでの福山さんのイメージとは異なる理系キャラである湯川がハマり役となり、ユニークなトリックや豪華なキャストが演じる犯人との対決が見どころでした。
映画は、事件に関わる人たちの心情を深く掘り下げ、心を打つ物語が展開されて、ドラマとはまた違った趣の作品になっていたと思います。
そのタッグが再び組まれ、新しい物語が展開されるのですから、期待しないわけにはいきません。
福山さんが演じるのは天才マジシャン、神尾武史。
マジシャンですので、人の心理の隙をつくのを得意とし、実の兄が殺された事件の謎解きに挑みます。
理系でロジカルモンスターの湯川とは逆の人物のようでありますが、人を食ったような物言い、マイペースで捜査をしていく様は共通しているところもあります。
そのためか、また福山さんが演じているからか、神尾というキャラクターは新しさはあまり感じません。
「ガリレオ」を初めて見た時のような新鮮さを感じなかったのが正直なところです。
東野圭吾さんのドラマは事件の背景にある関係者たちがそれぞれ悲しみや葛藤を持っていることが多いです。
その隠された思いが次第に明らかになっていき、本当の思いにたどり着いた時に心を揺さぶられます。
本作においても登場人物たちの隠された思いはあり、それを神尾は明らかにしていきます。
しかし、それに触れた時、今までの「ガリレオ」シリーズにあったような身を切るような悲しみを感じるまでにならなかったというのが、正直な感想です。
その原因がどこにあるのか、私はわかりませんでした。
ミステリーらしく、探偵役が関係者を集め、真相を順々に明らかにしていく場面があります。
そこでは主人公がマジシャンならではで、派手な演出が仕込まれており、それに目をくらませられた登場人物たちが真実を口にし始めるわけです。
その派手な演出が、隠された思いの切なさを相殺してしまっているようなことが起こっている感じがしました。
フジテレビ的にはシリーズにしたかったんだろう、とは思いますが、なかなか厳しそうです。

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2025年9月23日 (火)

「8番出口」親になるまでの旅路

ボレロとおじさんが印象的な予告でした。
原作となるのはインディーズゲームだそう。
延々と地下鉄の通路をループしながら異変を見つけて脱出するというゲームらしい。
登場人物は非常に少なく、その中で主人公となるのが二宮和也さん演じる男。
彼はある日、地下鉄通路のループに迷い込んでしまいます。
そこはなんの変哲もないただの地下通路。
しかし、歩いていくと奇妙な出来事、異変が起こります。
明らかに異変であるのがわかるのもあれば、ほんのちょっとの違いであることもある。
それを見つけられなければ、また最初からやり直し・・・。
この無限ループは彼の心象とも言えます。
彼はこの無限ループに入る直前、恋人から妊娠したことを告げられます。
彼は激しく動揺をします。
子供を産ませるべきか、それともやめさせるべきか、そういう思いがぐるぐると巡っていたのでしょうか。
それともただ流され、その決断ですら、恋人に丸投げしようと思ったのでしょうか。
冒頭、電車の中で子連れの若い母親がサラリーマンに怒鳴り散らされる場面に彼は遭遇しています。
彼はそれを見ないようにし、イヤホンをして自分の殻に入りました。
このことから彼はあまり周囲に対して無関心であり、事なかれ主義であり、自ら決断するようなタイプでもないことがわかります。
そんな彼の目の前に突如現れた問題。
それは見てみないようにできる類のものではありません。
ぐるぐると巡る迷いが、まさに迷宮となった地下通路として表出しているように思います。
彼は喘息持ちらしく、ループに入り込んだ時は頻繁に咳き込み、よろよろと吸入器を使います。
地下通路に加えてこの描写は観る者に、強い閉塞感を感じさせる効果がありました。
男は彷徨う中で一人の少年と出会います。
彼は心細いこともあったのか、少年と行動を共にします。
その少年は、未来に彼が持つことになるかもしれない子供のメタファです。
子供と一緒に行動するようになってから、彼は咳き込むこともなくなり、足取りも確かなものになっていった印象があります。
そしてある命の危険を感じるほどの大きな異変があった時、男は少年を救おうと自分を犠牲にする行動をとります。
地下迷宮を巡る旅は、彼が父親としての自覚と成長を得る旅路なのかもしれません。
彼がはっきりと父親としての自覚を持った時、無限ループは終了するのです。
初めて親になる時は誰でも初めての経験です。
自分が親の役割を果たせるのか、考えます。
考えながら、そして動きながら、次第に親としての自覚が出てきます。
ゴールがはっきりとしているわけではないので、何をしたら正解なのかも若rない。
失敗しながら親をやっていく過程こそが、自覚を作る。
地下通路の無限ループは親として成長していく過程の象徴なのですよね。
こう書いてみると、おじさんパートの映画の中での意味合いがちょっとわからなかったですね。
無限ループの緊迫感を印象付ける、という意味はあったと思いますが、主人公の男の親としての成長にどう結びつくのかがちょっとわからなかった。
もう一回見るとわかるかな・・・?

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