2020年3月24日 (火)

「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」 自立した女

「スーサイド・スクワッド」のヒロイン(?)ハーレイ・クインを主人公としたスピンオフ作品で、DCエクステンデッド・ユニバースの一つ。
とはいえ、最近のDCはマーベルのような各作品が緊密に結びついているユニバース作品群とは異なり、キャラクターの個性を重視した単品主義に方針変更しているように見えます。
ですので、本作は「スーサイド・スクワッド」の続編的なストーリーとなっていますが、その他の作品との結びつきは薄いです。
「ワンダーウーマン」「アクアマン」「シャザム!」など個性豊かな作品が生まれてきているので、単品主義は悪い選択ではないと思います。
ただそれぞれの個性が強い分、好き好きが分かれるがあるのは致し方ないところかもしれません。
本作の前日譚である「スーサイド・スクワッド」自体が個人的にはあまり好みではありませんでした。
登場するキャラクターが多すぎているからか、作品のトーンの問題なのか、全体的にごちゃごちゃとしていて慌ただしい印象を持ったのです。
ノイジーで不条理な感触は制作者の狙いだったと思うのですが、個人的には性に合いませんでした。
その不条理さを体現していたキャラクターがジョーカーであり、その恋人であるハーレイ・クインであったと思います。
確かにハーレイ・クインは他にはない個性を持つキャラクターです。
彼女は既存の価値観には縛られない。
常識は通用しない。
前作では唯一彼女が縛られていたのがジョーカーへの愛であったのですが、本作では別れたことになっているため、もはや彼女を束縛するものはありません。
ハーレイ自身が言っているように、彼女は自立した女になったのです。
彼女が支持されたのは、誰からも何からも自由であるということだったのでしょう。
誰しも何かしらに縛られて生きています。
社会的な価値観であったり、人間関係やしがらみなど。
家族もある意味では縛りであったりします。
そういうものを全て放り出して、自由に生きたいと思う瞬間は誰しもあるものでしょう。
ですが、現実的にはそんなことはなかなかできません。
だからこそ映画の中だけでも、自分自身に正直で、奔放に生きる彼女に共感する人も多いのでしょう。
そういうことは頭で考えると分かるのですけれどね・・・。
個人的にはどちらかというと無秩序よりは秩序を大事にする方なので、どうも勝手気ままに自由すぎる生き様を見せるキャラクターにはなかなか思い入れができません。
最近のDC作品と同じように、本作はハーレイ・クインのキャラクターを重視した作風となっています。
ですので作品のトーンは無秩序であり、ノイジーです。
まさに彼女のキャラクターそのものの雰囲気です。
この作品を受け入れられるかどうかは、ハーレイ・クインのキャラクターに感情移入できるかどうかによるのでしょう。
私の場合はちょっと難しかった。
冒頭に書いたように好き好きが分かれる作品だと思います。

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2020年3月21日 (土)

「仮面病棟」 ややご都合主義

<ネタバレ含みます>
ある病院を舞台にしたサスペンスです。
 
主人公速水がある病院の当直医として1日限りのバイトをしていた晩、突然ピエロの面を被った強盗が病院に押し込み立てこもります。
一緒に彼に撃たれた女子大生、瞳もやってきました。
他に病院内にいるのは認知症の患者たちと、院長と二人の看護師。
ピエロが病院に来たのは偶然ではなく、何か目的があるらしい。
そして院長や看護師たちの動きにも不審な点が。
この病院には何か秘密があると速水は感じ始めた・・・。
最後のどんでん返し自体は意外性もあり楽しむことができますが、いくつか気になる点もあり、謎解きの部分は全て納得できたわけではありません(私が見逃しているところがあるかもしれませんが)。
そもそも普通の市民である犯人らが物騒な拳銃を持っている理由が示されていません。
そして大きなトリックの一つである瞳の腹部の銃槍について、元々あった傷を素人が致命的にならず隠蔽するようにつけるなんてことができるのかという点。
瞳は患者の一人であったというわけですが、化粧や髪型を変えただけでいつも世話をしている看護師たちが気づかないというのも不自然です(一人は気付きましたが)。
彼女と姉が病院に担ぎ込まれた時は、身元不明であったということです。
一時的に記憶を失っていたということでしょうか。
それとも怪我によって意識不明であったということでしょうか?
もし意識不明な状況であったのに臓器摘出手術をしたとすると、意識が戻ってしまったら院長らはどうする気だったのでしょう?
絶対に記憶が戻らない自信があった?
また記憶が戻った瞳はなぜ自分の身元を告げないまま、身元不明のまま病院で過ごしたのか?
姉の復讐をするため?
そうすると目覚めた時から、大体の計画は彼女の頭に浮かんだということなのでしょうか?
 
というようにいくつも気になる点があり、ミステリーとしては納得性がありませんでした。
何人かいる身元不明者のネームプレートを写したり、全ベットが埋まっているはずなのに開いていたベットがあったということをさりげなく見せるなど、フェアでありたいという姿勢はいくつも感じるのですが、全体的にはご都合主義な感じは否めません。
もうちょっと丁寧さがあればもっと良い仕上がりになったように思います。

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2020年3月20日 (金)

「Fukushima 50」 あの時の経験を活かす

東日本大震災から今年で9年。
未曾有の規模の地震や津波に国民は恐れ慄きましたが、さらに皆が不安に感じたのは放射能でした。
震源地に近い海岸線にあった福島第一原発は、想定以上の津波に襲われ電源がシャットダウンされました。
そのため、原子炉の冷却ができなくなった結果メルトダウンし、放射能が炉外に漏れ出します。
さらには燃料棒を覆うジルコニウム合金が水と反応して発生した水素に着火し、水素爆発が発生。
原子炉建屋の屋根が吹っ飛んだ映像に驚いた方も多かったでしょう。
なぜ皆があれだけ放射能に恐ろしさを感じたかというと、誰も日本で原子炉事故といったケースを経験したことがなかったこと、そして放射能が見ることができず、何がどのように自分に影響を与えるのかがわからないことだったからだと思います。
経験もなく、見ることができない脅威だからこそ、根拠のない憶測が横行します。
皆さんも覚えているように、多くのデマや流言などもありました。
風評被害という言葉が多く使われるようになったのも、この頃だったと思います。
一般市民に対しいち早く正確な情報を伝えなければいけない政府と東電もまた憶測に基づき動いていたというのは、本作でも描かれている通りです。
未経験で不明瞭な状況だからこそ、確実に状況を見極めながら、できることを着実にやっていくということが大切になります。
それを行なっていたのが、まさに現場にいた「Fukushima 50」と呼ばれるようになったスタッフたちであったのですね。
彼らとて人間ですから、怖かったでしょう。
けれども一般人よりは放射能の怖さを知っているからこそ、高い職務意識で未曾有の災害に挑んだのだと思います。
想定外の津波であったという言い訳を言っている東電という会社は信用ならないですが、そこで働く人々は真摯でした。
スタッフの人命を守りながら、引かずに見えない恐怖と戦い続けた彼らには感服します。
その後の日本の社会に大きな影響を与えた事故でしたが、彼らが最前線で戦ったからこそ、今の復興もあるのかもしれません。
この作品を観ながらこのような事態は今まさに、日本で、世界で形を変えて起こっていると感じました。
そう、コロナウイルス です。
このようなパンデミックを現在生きている人々は経験したことがありません。
そしてまたウイルスは放射能と同様に見ることができません。
だからこそ皆不安を感じます。
あの時と同じように多くデマが流れ、トイレットペーパー騒ぎのように人々は右往左往しています。
しかし、あの時よりも日本社会全体としては冷静さは保っているような印象も受けます。
政府や地方自治体の動きもしっかりとして事態を把握し、冷静に対応していると感じます。
少なくとも東日本大震災時の首相のオタオタしたようなその場限りの対応の拙さはないように見えます。
また国民一人ひとりも欧米などに比べ比較的冷静に対処しているように感じます。
まだ状況は予断を許さないとは思いますが、「持ち堪えている」のは、あの時の経験が政府にも企業にも国民にもあるということが、他の国とは違うということかもしれません。
Fukushima 50と同じように、恐ろしさを感じながらも高い職務意識で患者に対応している多くの医療関係者の方もいらっしゃいます。
我々国民がしていかなければならないのは、あの時の経験を活かし、常に冷静に情報を見極め行動していくということだと感じました。

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「映画 賭けグルイ」 ハイテンション!ハイリアクション!

公開時に気になっていた作品だったのですが、見ていなかったTVシリーズを受けての作品だったようで、鑑賞を断念。
改めてNetflixでテレビシリーズを全て見てからの鑑賞となりました。
本作の舞台となる私立百花王学園は生徒会を頂点としたギャンブルによる階級制度があります。
そこに主人公蛇喰夢子が転向してきます。
彼女は一見古風なお嬢様のようにも見えますが、真性のギャンブル狂で、賭事に挑むときは性格が一変します。
まさに「賭けグルイ」です。
この蛇喰夢子を演じるのが現在売り出し中の浜辺美波さん。
普通の少女から、深窓のお嬢様、そしてちょっとズレたような変わり者まで幅広く演じることができる女優さんですが、本作での振れ幅はかつて無いほどのレベルですね。
ギャンブルをテーマとした作品としては「カイジ」シリーズが思い浮かびます。
そこで主人公カイジを演じる藤原竜也さんの演技も、非常にハイテンションでしたが、その藤原さんにも負けるとも劣らないほどのテンションで浜辺さんは夢子を演じます。
彼女の演技の振れ幅は最近の若手女優の中でNo.1と呼べるものだと思います。
夢子以外のキャラクターに関しても、全てがハイテンション・ハイリアクションの演出で通されています。
漫画にもある表現なのだと思いますが、ショックを受けたときの文字通り「目が点」になる時の表現はまさにその究極。
全編的にコミック的な大仰な演出になっていますが、それがギャンブルという究極の心理戦においてははまっています。
全体のトーンはかなり独特でこれは英勉監督のセンスの賜物でしょう。
映画版で描かれる賭け事は大掛かりなものではなく、カードゲームが主体となり、大掛かりな装置によるギャンブルがメインの「カイジ」と好対照ですが、とは言っても地味ということではありません。
シンプルなカードゲームであるということで、より心理戦にフォーカスされ余計にドキドキさせられます。
浜辺さんに負けず劣らずの振れ幅を見せるのが、テレビではあまり姿を表さなかったキャラクター歩火を演じる福原遥さん。
彼女の演技も見ものでした。
前半と後半は全く異なるキャラクターのよう。
浜辺さんと福原さん、この二人の演技だけでも見る価値はあります。
最後は夢子と生徒会長のバトルになるのかと思いきや、そこまでは至らず。
またテレビシリーズなり、映画があるということでしょうか。
夢子が何者であるかも明らかにされておりません。
今後また彼女たちに会えることを期待したいと思います。

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2020年3月19日 (木)

「初恋」 ロマンとバイオレンス

三池崇史監督は好きなのですが、ここ数年の作品に関しては何かバランスが悪い感じがしていていました。
特に直近の「ラプラスの魔女」は三池監督らしくなかったと感じたのですが、さて三池監督らしいは何なんでしょうか?
バイオレンス?
もちろんこれも「らしさ」の一つでしょう。
ただ「テラフォーマーズ」や「無限の住人」でも特徴の一つであるバイオレンスの表現はありましたが、何か足りないというバランスが悪い感じがして仕方がありませんでした。
本作「初恋」を観終わった後、久しぶりに三池監督らしい作品であったと感じたのですが、それでやっと「らしさ」が何であるかわかったような気がします。
それは「ロマン」なのではないでしょうか。
「生き様」と言い換えてもいいです。
バイオレンスが特徴とされる三池作品は、実はロマンティックさも魅力のひとつなのだと改めて感じました。
本作ではヤクザとチャイニーズマフィアの激突が描かれるので、もちろんバイオレンスはたっぷりです。
しかし、それ以上にロマンティックさがある。
冒頭に登場するチャイニーズマフィアの女殺し屋チアチーが酒を飲みながら、今の日本人には「仁がない」というようなことを言ってボヤきます。
彼女は高倉健の名前を出しますが、日本のヤクザは仁義を重んじると考えていたが、現実はそうではないと言いたかったのでしょう。
確かに現実的にはヤクザの世界も世知辛い。
仁義を重んじるヤクザはすでになく、皆がイメージしている仁に厚いヤクザの姿は数々の映画などで作りあげられてきたファンタジーなのかもしれません。
本作に登場する多くの人物もそのような仁義を持ち合わせる人物は少なく、私利私欲のために動きます。
誰かを騙して自分だけが得をしようとする。
そのような人物が多い中で、ピュアすぎる主人公のレオとモニカの存在が際立ちます。
捨て子であったせいか、レオにははそもそも感情が薄いような、何か乾いている印象を受けます。
そしてさらに彼は自分の死が間近であることを知り、自分の人生が無意味であったように感じ、空虚さを感じるのです。
そしてもう一人の登場人物モニカは幼い頃より強い者に虐げられ、何かを望むことがありません。
ただ従順に言われたことを諾々とやっている。
彼らは望むことがない人々であり、欲に塗れた他の登場人物とは異なります。
その二人が出会い、レオはモニカを助けることだけを唯一の望みとして一緒に逃亡します。
彼は彼女を救うことに自分の存在する意味を感じたのかもしれません。
彼の思いは相手に何も求めないからこそ非常にピュアです。
実際の世の中に彼らのような純な人はなかなかいない。
ファンタジーとも言えるわけですが、だからこそロマンティックなのです。
三池監督は恋愛ものは初めてということですが、二人のピュアな想いを丁寧に描けており、改めて監督もロマンティックな人なのではないかと思ったのです。
他にもロマンのある人物が登場します。
登場するヤクザの中でも武闘派と言われ、チャイニーズマフィアと戦いを繰り広げる権藤です。
彼こそがヤクザ映画の中で描かれるファンタジーとしてのヤクザであったと思います。
売られた喧嘩はしっかりと買う、というある意味真っ直ぐなヤクザとしての信念を持っている。
計算高さはまるでない。
そういう意味では彼もピュアであるとも言えます。
そして冒頭にも紹介したチャイニーズマフィアの構成員であるチアチー。
彼女も仁義を大切に考える人物でした。
権藤もチアチーもその心情としては共通点がある二人でした。
もし彼らがもっと早く出会っていたら、展開も変わっていたのではないかと思うと少し寂しいものもあります。
今の世の中、彼らのような仁に厚いヤクザなどは存在しないとすると、彼らの存在もファンタジーであり、ロマンティックな存在です。
彼らはそういう人物だからこそ、レオとモニカをそれぞれ救ったのでしょう。
レオやモニカ、権藤、チアチーの存在が、油断のならない他の登場人物たちとの対比で浮かび上がります。
これはロマン(ファンタジー)とバイオレンス(現実)の対比なのかもしれません。
実はこれは三池作品に通底するものような気がしたのです。
こう考えると最近の作品で感じた「らしくない」感じは、このバランスがうまくいってなかったからかもしれないと思ったのです。
本作はそのバランスが非常に良く、さらにはロマンとバイオレンスの対比が明確に感じられるということで、三池監督の代表作と言っていいかもしれないと思いました。

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2020年3月14日 (土)

「チャーリーズ・エンジェル」(2020年) 女性の美しさとは

2000年、2003年とキャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、ルーシー・リュー主演、マックG監督で公開された「チャーリーズ・エンジェル」のリブート版です。
リブートと言っても、設定的にはそれらを受け継ぐ形となっており、写真でキャメロンたちの姿を見ることができます。
基本的にはスパイ美女たちが事件を解決していくというフォーマットはテレビシリーズ、マックG版と変わらないのですが、やはりディテールは現代的にアップデートされています。
元々テレビシリーズのエンジェルたちは、金髪グラマーというアメリカンな美女たちでしたが、マックG版で初めてアジア系がメンバーに入り、そして本作でもよりメンバーも多様性を広げています。
本作のエンジェルの一人サビーナを演じるのはクリスティン・スチュワートです。
私生活で彼女は女性と付き合っていることをオープンにしていますが、本作のサビーナも同性愛者であるという設定のようです。
本作の監督はエリザベス・バンクスで、本作では重要なキャラクターとしても出演もしています。
シリーズ初の女性監督ということですね。
「チャーリーズ・エンジェル」というシリーズは時代とともに変わっていく女性の立ち位置をキャッチアップして進化してきていると言えるでしょう。
テレビシリーズの頃は、女性に求められるものというのは表面的な美しさ、それもステレオタイプなパツキングラマーというものでした。
しかし2000年の映画では、個性が異なり、また見た目もかなり違う3人が主人公となり、それぞれの女性がそれぞれの美しさを持っているということをメッセージとして持ち始めたと思います。
それはプロデューサーでもあったドリュー・バリモアの考えであったのかもしれません。
それが本作ではその考えがさらに強まり、それぞれ女性の生き方は自分で決めていくことが、その人の生き方の美しさであるというメッセージになっていると思います。
サビーナは裕福な生まれであったようですが、その価値観故にドロップアウトしたようです。
またメンバーの一人ジェーンはMI6に属していましたが、その組織の冷徹さが受け入れられず、エンジェルになります。
そして事件の中心人物となるエレーナも属する組織の考え方に疑問を持ち、それと戦おうとします。
彼女たちは自分自身で考え、その考えに基づき自ら選び行動する。
表面的な美しさではない、生き方の美しさこそが女性の美しさだということなのかもしれません。
アクション映画としても見どころとしてはまずまず。
ストーリーも終盤で捻りも入りますので、退屈しません。
出演者はキャメロン・ディアスのような華やかさはちょっとないので、映画としてのゴージャスさはちょっと足りない感じはありますが、合格点だと思います。

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2020年3月12日 (木)

「キャッツ」 延々と続く自己紹介

ちょうど大学生の頃、劇団四季の「キャッツ」が大ブームとなっていました。
私は映画はよく観るものの、舞台鑑賞は全く馴染めなかったので、そのころはそのブームには全く興味を惹かれませんでした。
また当時はミュージカルにも興味はなかったのです。
そして何十年か過ぎ、舞台には今もなお興味は持てないのですが、ミュージカル映画は大好きになっているので、あの「キャッツ」が映画になると聞けば、見たくなるものです。
とは言いながらも、色々と忙しくしているうちに公開日から3週間程度経ってしまいました。
ようやく観に行こうとして、上映時間を調べてみると1日に1回くらいしか上映していません。
早く観に行かなくては!と焦って出かけたのですが、やや嫌な予感があったのも確かです。
何でまだひと月も経っていないのに、上映時間が絞られているのだろう・・・。
「キャッツ」はタイトルの通り、猫たちが主人公です。
ロンドンの路地裏で、ある夜に開催される猫たちの舞踏会。
そこでNo1のパフォーマンスを見せた猫は天上に昇って、新しい生を得ることができるといいます。
本作ではその舞踏会に参加する個性豊かな猫たちが、それぞれユニークなパフォーマンスを見せていくのです。
しかし、この猫たちのパフォーマンスが一匹づつ順番に延々と続いていくのが、非常に退屈なのです。
最初の1、2匹くらいまで我慢できるのですが、猫たちの自己紹介だけでほとんどの時間を使い、ほとんどストーリーらしきものはありません。
途中、ほんとに睡魔と戦うのに苦労しました。
超有名な曲「メモリー」がかかるのはかなりの終盤となります。
ただそれを歌うキャラクターの背景が丁寧に描かれているとは言えず、そこに込められた想いが伝わってきません。
歌は上手いと思いますが。
ミュージカルの歌はキャラクターの想いを表現するものであり、それが伝わってこないのはミュージカルとして落第であると思います。
個人的にはあまりに酷い出来だと思ったので、舞台版を観たことがある人に話したら、舞台の方もストーリーらしきものはあまり強くないとのこと。
ストーリーが薄いというのはオリジナルからしてそうらしいので本作のせいではないのかもしれません。
ただ舞台の場合はストーリーが薄くても、それを演じる役者のパフォーマンスを直に感じることができるので、それはそれで成立するのかもしれません。
ただそれを映画というメディア、すなわちスクリーンと観客との距離があるメディアに落とし込んだときはそのような演者と観客が共有するライブ感はないため、ストーリーの薄さが目立つのかもしれません。
また本作では役者をCGで猫風にアレンジしているという映像処理をしていますが、これが非常に微妙です。
人間が猫を演じているわけでもなく、猫そのものでもない。
リアリティがあるわけではなく、かといってファンタジーらしからぬ生々しさがあります。
舞台はあくまで人間が猫を演じてるという体ですが、本作は人間と猫が融合しています。
その奇妙な合成が生理的にやや気持ちが悪い。
演者にはバレリーナやダンサーを起用し、その躍動的なパフォーマンスを活かしたかったのだと思いますが、奇妙な人間と猫の合成生物が変に肉体感を持っているのが、生理的にむず痒さを感じさせます。
成功したミュージカルを映画化して成功した事例はたくさんありますが、舞台というメディアの特性、映画というメディアの特性を理解して移植しないと、このような失敗を生むという教訓になる作品だと思いました。

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2020年3月 3日 (火)

「ナイブズアウト/名探偵と刃の館の秘密」 今時珍しい「本格」ミステリー

クラッシックな趣のあるミステリー映画です。
最近だとケネス・ブラナー監督の「オリエンタル急行殺人事件」がありますが、このタイプの本格ミステリーは少ないですよね。
私はアガサ・クリスティーのミステリーが好きで、ほとんどを読んでいるので、この手の作品は思わず見にいってしまいます。
舞台となるのは現代なのですが、雰囲気は非常にクラッシックです。
監督のライアン・ジョンソンはアガサ・クリスティーのようなミステリーが撮りたいということでこの作品を企画したらしく、まさにその狙いがしっかりと映像に現れています。
本作の名探偵はブノワ・ブラン。
最後の紳士探偵と劇中で言われていますが、確かにこのような人物は現代にはなかなかいないですね。
しかし、この人物を違和感なく存在させているのは、主演のダニエル・クレイグならではでしょう。
007の印象が強いですが、本作ではアメリカの強い南部なまりのあるキャラクターを抑制しながらも、名探偵らしい存在感をもって演じていました。
綺麗な英語を喋るイメージがあったのですが、さすが役者さんで南部なまりもとてもうまく、そのため新しいブノワというキャラクターを定着できています。
多少自信家なところはポアロを彷彿とさせるところがありますが、新しい名探偵キャラクターの誕生ですね。
この作品は好評だということで、第二作も作られるということで、またブノワの活躍を期待したいところです。
ミステリー映画なのでネタバレになるようなことは書けないのですが、印象的なキャラクターについて2、3記したいと思います。
一人はマルタという看護師。
彼女は本作で起こる事件のキーパーソンとなりますが、特徴的なのは「嘘をつくと必ず吐いてしまう」ということ。
「必ず」がポイントです。
つまり彼女は人間嘘発見機のようなものなのですね。
彼女を嘘をつかせずに、自分に有利にことを進めることができるのか。
探偵も犯人も頭を悩ますポイントになります。
あクリスは代表的なキャラクターであるキャプテン・アメリカから、善良な人というイメージが強いですが、本作では放蕩息子役を演じています。
一族からも使用人からも嫌われている人物ですが、果たして彼は皆が思う通りの人物なのか、それともその通りなのか。
彼のパブリック・イメージと相まって、ランサムがどのような人物であるのかもキーとなります。
トリックは今らしいハイテクな要素は用いておらず、あくまでスタンダードなものの組み合わせです。
目新しくはありませんが、なんでもありではない、納得性はあります。
雰囲気だけでなく、そういう点でも非常にクラッシックな作品として仕上げれています。
興行も評価も高いようですが、今のような時代にこのような作品が受け入れられるのも嬉しいですね。

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「スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼」 和製レクター

前作「スマホを落としただけなのに」は、現代人に欠かせないスマホというアイテムから、隠していた自分が丸裸にされていくという恐ろしさを描きました。
私たちにとってあまり身近なツールであるからこその怖さは、見ている人誰もが自分ごとのように感じられたと思います。
主人公もそして真犯人も本当の自分を偽って生きているというのも、アカウントの方が自分らしいことがあるかもしれないという現代人の一側面をうまく表していたと思います。
非常に今現在という時代を映し出していた作品であったと感じました。
前作で主人公の二人を凌駕するほどの存在感を放っていたのが、真犯人である浦野でした。
物語の前半はただのその他大勢のキャラクターであるように見えたのに、後半でその正体が分かったあたりからの異様なほどの存在感たるや・・・。
私はその時ほとんど初めて成田凌さんを認識したのですが、演技の振れ幅に圧倒されました。
おそらくそのような観客も多かったのでしょう、浦野がさらに重要な役となるのが今回の続編です。
浦野は前作で逮捕されているので、彼はまさに「囚われの殺人鬼」です。
本作の主人公は前作で浦野を逮捕した加賀谷刑事です。
前作では犯人のミスリードの対象となっていた人物ですが、彼もまた闇を抱えている男であり、浦野とついになる様な立場です。
まさにこの二人はレクター博士とクラリスのような関係で、新しく起きた事件に挑みます。
ミステリーとしての出来としては、残念ながら前作の方が上であったような気がします。
前作は主人公そのものが謎の大きな要素であり、後半それまでの前提が大きくひっくり返ることがミステリーとして俊逸でした。
それに加えて彼女を狙う犯人が誰かという謎解きも重なり、謎が複層的であったところも凝っていたと思います。
それに比べると本作はミステリーとしてはシンプルでありましたし、前作に比べて主人公たちは素直な人であったため、どんでん返しのようなものもありません。
見所はというとやはり浦野というキャラクターでしょう。
まさに和製レクターとも言えるキャラクターとして異彩を放っていたと思います。
主人公ら側になびくことなく、彼は彼の通常人とは異なる価値観に従って行動します。
レクター博士がクラリスに協力しているように見えながら、その残忍性は少しもなくなることなかったように、浦野もまた彼の価値観を変えません。
そのあたりのぶれなさはある意味見ていて気持ちがよく、そしてそれを演じる成田凌さんのパフォーマンスにも感心しました。
邦画にはあまりいないタイプのヴィランとしてさらに魅力が出てきたと思います。
最後ではまた次につながるような印象のシーンもありました。
次回作はありますでしょうか・・・?
再登場を期待したいところです。

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2020年2月23日 (日)

「1917 命をかけた伝令」 超絶技巧の撮影

全編がワンカットで構成された超絶技巧の戦争映画です。
実際はいくつかの長回しを編集したものですが、どこで繋いだのかはなかなかわかるものではないでしょう。
それだけ計算され尽くした撮影だったということです。
通常のカットを重ねていく映画であれば、不都合なところや難しいところは編集でうまく逃れるということができます。
しかし長回しの場合は、演技やカメラの動き、そして天候などのコンディションが合わなかった場合は、それで全てやり直しとなってしまいます。
メイキング映像を見ましたが、前半の延々と続く塹壕でのシーンは模型を作り、俳優とカメラの動きを何度もチェックしたということです。
机上での計算を経て、それを実際のスケールのセットを作り、実際の俳優が要求されるタイミングで演技できるようにリハーサルを重ねます。
非常に根気のいる作業であったと思います。
カメラは俳優たちとともに歩き、時にはカメラマンからワイヤーに、そして自動車に受け渡され、延々と彼らの動きを追っていきます。
ただ単純な長回しでは、観客は退屈してしまいます。
自在なカメラワークがあってこその長回しです。
見ていて驚いたのは戦闘地域の街でのナイトシーンで、闇の中を移動する主人公の周囲に照明弾が次々と上がるシーンでした。
ご存知の通り照明弾は打ち上げれて激しい光を放ち、そしてゆっくりと地上に向かって落ちていくものです。
光源が移動するので、照らされている部分と影の部分も動いていきます。
そしてこの作品は長回しなので、俳優もカメラも動いています。
俳優、カメラ、照明といった画面を構成する全てが動いている。
どれかのタイミングが合わなければ成立しません。
全てを計算し、それを本番でぴったりと再現できたらこそこの表現ができているのです。
長回しは技術的な卓越性を表現するだけのためではいけません。
本作では長回しのカメラが捉えているのは主人公だけです。
基本的にカメラはずっと主人公を追いかけます。
それにより見ている我々も彼と一緒の目線となります。
特に中盤から彼が一人となってからは、彼の焦りと不安をともに感じるようになります。
夜の街の陰から敵が突然現れるかもしれない。
砲撃により吹き飛ばされてしまうかもしれない。
そういった恐怖を感じつつも、進み続ける主人公の強い意思をともに感じることができます。
客観的に描くカメラではできない、臨場感があります。
主観視点のカメラとも違います。
まさに寄り添う視点でのカメラです。
本作は今年のアカデミー賞で撮影賞、視覚効果賞、録音賞を取りましたが、それも納得できる結果だと思いました。

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