2016年9月19日 (月)

「X-MEN:アポカリプス」 エンターテイメントと思想のバランス

「X-MEN」新三部作の最終章です。
前作「フューチャー&パスト」ではタイムトラベル要素が入ってきたので、間が空いてから見るとタイムラインがわからなくなります。
しかし今回はジーンやサイクロップス、ストームなど「X-メン」の主なキャラクターが登場し、旧三部作と新三部作のリンクが明快になってきます(実際は前回過去の改変を行っているから、タイムライン的には別になりますが)。
ジーン、サイクロップス、ストームは旧三部作から俳優陣も若々しくなっています(過去を描いているので当たり前か)。
とはいえ助っ人として登場するあの人は変わらず。
他の誰が演じてもブーイングが来そうなので、なかなか変えづらいですよね。
不死の体だから老けないってことで。
「X-MEN」シリーズは登場人物も多いし、超能力もド派手なものが多いので、話のスケールがかなり大きくなりがちです。
ともすると大味になりやすいのですが、さすがブライアン・ジンガーは手堅くまとめ、その辺もバランス良くしていますね。
強大な力を持つ適役が登場すると、従来のキャラクターがこじんまり見えたり、妙なパワーアップをしたりと、話がインフレを起こしやすい。
今回などはX-MENサーガの時系列としては真ん中辺になるので、無理はパワーアップは先に繋がらなくなりますし、手加減が難しいところです。
究極に個の力を高めることにより、それ以外の人間を支配し、平和を実現しようとするアポカリプス。
彼が見ている世界は戦いがなく平和なのかもしれないですが、それぞれの人間は抑圧されている世界です。
しかし、プロフェッサーXが目指しているのは、誰でもがその違いにかかわらず平和に暮らしていける社会です。
旧三部作に比べ、ミュータントが象徴するマイノリティの苦しみ の描き方は新三部作薄いですが、それが「X-MEN」シリーズの描く思想であることは間違いないでしょう。
大作のアメコミ映画としてエンターテイメント感は強く出しつつも、「X-MEN」らしい思想は保っている作品となっていると感じました。
さてこれで「X-MEN」サーガは繋がったわけですが、次回はどういう風に展開しますかね。
個人的にはミスティークとマグニートがどう合流していくかが見てみたいところです。
(それとも新しいタイムラインでは合流しないのか?)

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2016年9月 9日 (金)

「ゴーストバスターズ(2016)」 オリジナルのテイストを大切にしてる

1984年に公開されて世界中でブームとなった「ゴーストバスターズ」。
公開当時、自分は高校生でこの映画を観てすごく楽しかった覚えがあります。
最近のハリウッドは昔のヒット作のリメイクものが多いので、こちらの作品もそういう要請によるものなのでしょうね。
昔の作品が好きだったりすると、リメイクやリブートであまりに改変されているとがっかりするものですが、本作は想像以上にオリジナルに忠実だと感じました。
大きく変わっている部分は、主人公ゴーストバスターズたちが男性から女性になったところです。
ただ大きく変わっているのはそこくらいで、4人のメンバーの役割もおおむね印象は同じでしたね。
ちなみにオリジナルと今回の作品のキャラクターの対比はこんな感じでしょうか。


ピーター(♂)  : エリン(♀)
レイモンド(♂) : アビー(♀)
イゴン(♂)   : ジリアン(♀)
ウィンストン(♂): パティ(♀)
ディナ(♀)   : ケヴィン(♂)


作品の雰囲気がオリジナルと大きく変わらなかったのは、旧作に関わっているメンバーがかなり関与しているからでしょうか。
オリジナルの監督であったアイヴァン・ライトマンが製作、出演者の一人であったダン・エイクロイドは製作総指揮を務めています。
ビル・マーレイはゴーストに懐疑的な研究者として劇中に、シガーニー・ウィーバーもエンディングでカメオ出演出演していました。
本作のパティのおじ役でちらりと顔をだしたのは、オリジナルで4人目のゴーストバスターズであったアーニー・ハドソンでしたね。
びっくり。
唯一旧ゴーストバスターズで出演していなかったのは、ハロルド・ライミス。
2年前に亡くなったようで、この作品は彼に献じられていました。
旧作とのイメージを大切にしているのは他にも。
ゴーストバスターズたちが出動するときに乗っていく車もイメージはオリジナルと一緒。
たぶんナンバープレートも同じじゃないかな?
あとオリジナルでゴーストバスターズの事務所だった旧消防所もちらり出てきました。
ちらりだけどけっこう重要なポジションでしたよね。
あれはオリジナルで使ったのと同じ場所なのかな?
オリジナルではシガニー・ウィーバーが演じたヒロインのディナがゴーストたちの憑代になっていましたが、本作では観賞用ヒーロー(ヒロイン?)であるケヴィン(クリス・ヘムズワース)が同じ役回り。
あまりにおバカな役っぷりでなかなか良かったです。
ストーリーの展開もオリジナルとは大きな隔たりはなかったので、旧作育ちの自分としては安心して観ることができました。
ラストでは「ズールー」というあの言葉が登場・・・。
リブートでも「ゴーストバスターズ2」もあるのかな。

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2016年8月31日 (水)

「秘密 THE TOP SECRET」 パンドラの箱

<ネタバレ注意の記事になっています!>

この作品で描かれる事件の発端は、主人公である第九室長薪と連続殺人犯貝原の出会いである。
重要なシーンであるので、ここを一度思い出したい。
貝原は教会のミサに参加していた。
彼がキリスト教信者であるかは描かれていないが、身なりが貧しく、ミサ後教会の施しを受けたところを見ると、信者ではなく施しをもらいに来ていたのではないかと思われる。
ミサが終わった時、彼は椅子に忘れられていた財布を見つけ、持ち主に渡そうと立ち上がる。
しかし彼は足が悪いのかゆっくりとしか歩けず、持ち主を見失ってしまう。
その時、彼はちょっとした逡巡の後に財布を懐に入れてしまう。
おそらくそれほどの悪気はなく「まあ、いいか」「ちょっと得したな」というくらいだったのかもしれない。
しかしその一連の行為を見ていた薪は、警察であることを告げた上で、貝原に罪を犯さないようにと言い、財布を預かる。
その上に貝原がそういった行為をした背景をわかったように、金の施しを与えたのだ。
映画の中で描かているのはこう言った描写である。
これがどうしてその後の陰惨な事件の連鎖につながっていくのか。
おそらく、貝原は薪に行為を見咎められ、施しをされた時に、財布を懐に入れてしまう逡巡と罪を犯そうとしているという自覚を全て、薪に見抜かれてしまったという気持ちになったのであろう。
誰でもある行為を行うときに心の中で善悪のせめぎ合いがあったりするものだ。
例えば、100円を拾ったときに誰も見ていなかったら交番に届けず、ラッキーと言ってポケットに入れてしまったり、電車で疲れて座っている時に目の前に老人が来ても寝たふりをしてしまったり。
罪の意識を感じながらもちょっとしたことをしてしまうということは誰でもあるだろう。
ただそれを誰かに「お前は気づいて席を譲らなくてはいけないと思ったのに譲らなかっただろう」と言われたら、顔から火が出るほど恥ずかしく感じるだろうし、言った相手に対し不快な気持ちも抱くことだと思う。
誰でも頭の中でちょっと人には言えないような恥ずかしいこと、不道徳なことを考える。
しかし普通は理性的に考えて大それたことを実行することはない(100円をポッケに入れてしまうことはあったとしても)。
貝原は薪に指摘された時、自分の心にある恥ずかしい部分を露わにされたことに怒りを感じたのではないだろうか。
その相手である薪は悪意があるわけではなく、非常に純粋な気持ちで言ったということも貝原にはわかったであろう。
しかしだからこそ自分とは異なる、純粋な精神を持つ薪に苛立ちを感じたのではないか。
その純粋さを汚したいという衝動を貝原は持ったのではないかと思う。
そしてさらに薪が人の脳の記憶を読む技術を開発していることを貝原は知った。
それはある意味人間の本分を超え、神の領域にも足を踏み出すこととも言える。
純粋な精神がさらに神の高みに登っていく。
貝原の中に、薪を堕落させたいという衝動がより強くなっていったのだろう。
この作品には鍵というモチーフが各所に出てくる。
鍵とはみてはいけないものをしまっていくということ、禁忌の象徴。
薪は人の心がしまってある箱の鍵を開けてしまった。
その禁忌を破った時に出てくるのは絶望か、希望か。
まさに人間の心、記憶はパンドラの箱である。
貝原から続く陰惨な事件は絶望である。
箱の中にあった暗い心を見てしまった人々は自殺をしたり、発狂したりした。
あまりの闇に触れた時、人は自分の心にも同様の闇が存在することに気づいてしまうのではないか。
自分自身すら気づいていなかた闇に絶望する。
おそらく開けてはいけない鍵なのだろう。
しかしパンドラの箱と同様に、そこにあるのは絶望だけではない。
物語の最後に出た幸せそうな風景。
これは盲目の少年のパートナーである犬が見ていた映像の記憶である。
犬が見ていたのは幸せそうな人々の光景であった。
人の世は絶望だけではなく、希望も確かに存在する。
それだけが救いであり、薪が生きていけるのもこれがあるからではないだろうか。

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「劇場版 動物戦隊ジュウオウジャー ドキドキサーカスパニック!」 新しい戦隊のリーダー像

動物をモチーフとしていて、描かれているエピソードもオーソドックスである「動物戦隊ジュウオウジャー」。
安定感のある典型的な「スーパー戦隊」であるので、テレビ本編も安心して観ていられます。
その「ジュウオウジャー」の恒例の夏の劇場版ですが、やはりテレビと同様に安心して観られる「スーパー戦隊」の映画に仕上がっています。
劇場版だからといって、トリッキーなエピソードではなく、子供達でもとてもわかりやすいお話になっていると思います。
個人的に今回の「ジュウオウジャー」はメンバーキャストがとてもいいかなと思います。
一人ひとり見ていくと、まだ経験が少ない方もいるので演技的には気になるところもあるのですが、メンバーが揃っている時の雰囲気がとても良い。
5人でいる時の和やかな感じが良くて、そのあたりも観ている時の安心感につながっているのかもしれません。
割と個性豊かな4人のジューマンたちをまとめているジュウオウイーグルこと大和はわかりやすい強烈なリーダーシップを持っているタイプではありません。
かといってひとり突っ走ってしまうタイプでもない。
どちらかといえば、メンバーのことをよく理解して、というより理解しようとしてくれる、包容力のあるリーダーなのではないかなと思うのですね。
リーダーが引っ張ることによりまとまるチームというよりは、懐の深いリーダーに人々が集まってくるチームというイメージでしょうか。
よくよく考えてみると、大和は今までのスーパー戦隊にはなかったタイプのリーダーなのかもしれません。
そして今の時代求められているのもこういうリーダーなのかもしれないなと感じました。

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「劇場版 仮面ライダーゴースト 100の眼魂とゴースト運命の瞬間」 テレビ本編をなぞっているような 

仮面ライダーの夏の劇場版はとてもよくできている時と、それほどではない時の差が結構あるような気がしている。
今回の「ゴースト」の劇場版はどうだったかというと、後者の印象であった。
もともと今回の「仮面ライダーゴースト」についてはテレビ本編についても個人的にはあまり乗り切れていない感があり、劇場版への期待が薄かったということもあるが・・・。
映画全体的にドラマが薄いというか、既視感があるような印象があった。
テレビ本編をなぞっているという感じで、劇場版らしいイベント感、スペシャル感がもっとあっても良かったように思う。

まず「仮面ライダーゴースト」は「主人公がすでに死んでいる」という設定が最もユニークな点だと思うのだが、テレビシリーズでも活かしきれていないような気がしている。
テレビのオープニングにタケルのタイムリミットは毎回提示されるのだが、それがいわゆるタイムリミットサスペンス的には描かれておらず(第1シーズンの最後はそうだったが)、効果的であるとは言い難い。
第1シーズンで使ってしまったので、2度目は使いにくいとも言えるが、それだと構成そのものが要検討であったように思う。
また主人公タケルが自分の命よりも、他人の命を大切にする心優しい青年であることはテレビ本編の中盤でもカノンの復活のエピソードの時に描かれている。
自分の存在よりも人を大切にするという彼の行為によって、誰の命であっても大切であるということを伝えられているように思う。
ただ、このような構成が「ゴースト」では何回かきりのいいタイミングで繰り出されてくるので、ちょっと既視感が出てしまうような気がする。
今回も出てくる登場人物は違うものの、タケルが自らの命を捧げて他人を救おうとし、命の大切さを伝えるということがテーマであるので、やや食傷気味にはなった。
劇場版の敵であるアルゴスは世界の人々をゴースト化しようとする。
人々を均質化し、生や死のない平和な世界を作ろうとする試みであるが、これはテレビ本編の敵となるアデルも人々の魂を自らに取り込み平和な世界を目指しているが、基本的には狙いは同じであり、テーマのかぶりが感じらるのも既視感につながっているのかもしれない。

劇場版でタケルとアカリが約束するのは「一緒にごはんを食べる」ということであった。
テレビ本編でもタケルとアカリは約束をするというエピソードがあり、これもかぶっているように思う。
公開時のタイミングがずれていれば気にならなかったと思うが、本編も最終盤の盛り上がりのところであるので、劇場版とエピソードが似通っていることは気になった。
御成が言っていた「生きることとは食べること」というのはいい言葉で、これをもっと膨らませてエピソードを作れれば、「ゴースト」のテーマである生の大切さということをもっと表現できたのではないかと思った。

劇中登場した「仮面ライダーエグゼイド」はかなり驚いた。
なるほど、こうきたかという感じ。
このところ正統派のライダーが多かったので、こういう変化球はちょっと期待してしまう。

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2016年8月 7日 (日)

「シン・ゴジラ」 これってエヴァンゲリオン?

すでに観た周りの人の間では評判がいいらしい。
しかし、個人的にはこれは「ゴジラ」なのだろうか、はたまた「怪獣映画」なのだろうかとちょっと気にかかってしまった。

まずはおそらく多くの人が指摘しているであろう「エヴァンゲリオン」との類似性に触れたい。
監督が同じなので、作風が似ているのは当たり前ではあるのだが、自然とそうなっているのではなく意識的に行っているように感じた。
それを強く感じたのは、音楽である。
伊福部昭の「ゴジラ」のスコアを使っているところに庵野監督のオリジナルへのリスペクトを感じ、旧作ファンとしては嬉しさを感じたのではあるが、驚いたのは「エヴァンゲリオン」の楽曲を本作劇中で使っていたことであった。
「エヴァンゲリオン」の楽曲は個性的なものが多いが、その中でもとりわけ印象的なのはネルフが使徒迎撃作戦(例えばヤシマ作戦とか)を実行するときに流れることが多い、「ダンダンダンダン、ダンダン」という打楽器の出だしではじまるあれ(Decisivle Battel)である。
この楽曲は「シン・ゴジラ」では対策本部がゴジラに作戦実行を行う時に、しばしばアレンジを替えて使われている。
アレンジは変わっていても曲の印象は「エヴァンゲリオン」のそれと変わらない。
このことにより本作のゴジラ対策本部はネルフと同じような存在であるように見えてくる。
本作の対策本部は非常に官僚的でありつつも、ある意味の臨機応変さを持った現場力もある組織に見え、それはネルフとの特徴に一致する。
これは同じ曲を使うことによって意図的にそう見せようとしているように感じる。
対策本部=ネルフとするのであれば、ゴジラ=使徒という図式も「シン・ゴジラ」の中に見えてくる。
実際、今回のゴジラは第一形態から第四形態まで次第に進化していくが、これは使徒が第一形態→第二形態と進化する存在であったことを連想させる。
また本作のゴジラはなぜか東京を目指し、そしてその理由が何であるかは物語の中ではわからない。
「エヴァンゲリオン」においても使徒は第三新東京市を目指すが、当初はその理由は謎のままであった。
この点においても「シン・ゴジラ」と「エヴァンゲリオン」の類似性を感じる。
本作のゴジラは異質感をまとっている。
第一形態は得体のしれない気色の悪い姿をしていて、挙動も生理的に不快感がともなうが、これは人とは相いれない存在であることを意味しているように思う(ぎょろりとした目はこれもエヴァに通じる)。
これも使徒の形態が、従来の怪獣的なモンスターとは異なることによる、異質感を持っていることと通じるものがある。
本作でも最終形態は我々が見慣れた「ゴジラ」になっているが、まったく人間とは相いれないという点では変わらない。
もともとゴジラという存在は「荒ぶる神」と劇中で言われるように、人間とは相いれない存在ではあった。
が、それを傲慢となってしまった人類への神か、地球かからの警告であるという解釈をするならば、まだ人間とゴジラは近しい存在とも言える。
しかし、本作における「ゴジラ」は何も人類とのつながりを感じられない異質感というものが際立っている。
この異質感がエヴァにおける使徒に通じるように感じられてならない。

Photo

↑バンダイからこういうフィギュアも出るようなので、ゴジラ=使徒という図式はやはり意図的なものであるのだろう。

庵野監督は「エヴァ」で行っていたことを再度、ゴジラという題材で行っているように感じてしまうのだ。
そもそも「エヴァンゲリヲン」の劇場版の最終章はどうなるのかまるで聞こえてこない。
もともとのテレビシリーズの「エヴァンゲリオン」も明確的な物語の週末を描いていないのだが、劇場版の方も本当に終わるのかという疑問が残る(2作目のポジティブなトーンでこの監督は変わったと思ったのだが、3作目でやっぱり変わってないと思った)。
「シン・ゴジラ」にしても「エヴァ」的な思わせぶりな終わり方である(次回作があってもより「エヴァ」っぽい話になる予感がある)。
もしかすると庵野監督は物語を終わらせられない人なのではないか。
これは個人的な感覚でいうと、エンターテイメントの監督としては如何なものかとも思う。
まずは「エヴァンゲリヲン」をしっかりとまとめ上げてほしい。

ここからは個人的な好みの問題になってしまうのだが、自分が育ってきた世代の趣味でいうと、「怪獣映画」やその他のエンターテイメント映画に求めるものは、カタルシスなのである。
もちろんいろんな屁理屈を込めたり、思想が入っている映画を解釈する行為も好きなのだが(上記を見ればわかる通り)、でも怪獣映画にはカタルシスは求めたい。
「シン・ゴジラ」にはカタルシスはなく、見ていると「エヴァ」にも通じる閉塞感ばかりが強まっていく。
こういう閉塞感を自分は怪獣映画には求めていない。
個人的には怪獣映画のベストは平成「ガメラ」の第1、2作。
これにはカタルシスがあった。
もし怪獣が東京に来たらということをリアルにシミュレーションしたという点で平成「ガメラ」と「シン・ゴジラ」は同じであるが、目線が異なる。
「シン・ゴジラ」は圧倒的に政府サイドの目線で描かれる。
それは非常にリアリティがある描写ではあるのだが、ゴジラがモニター越しのリアリティがない存在のようにも見える(テレビで見る福島原発とか、地震の後の街の様子のような)。
対して「ガメラ」は中山忍演じる鳥類学者と螢雪次朗演じる警察官が一般人からの目線となっている。
ガメラやギャオス、レギオンへの一般人からの目線が描かれているので、それは別の意味でリアリティのあるシミュレーションになっている。
「ガメラ」で描かれている怪獣は自分ごと化できるが、「シン・ゴジラ」のゴジラは自分ごと化しにくい。
だから怪獣が倒された時もカタルシスがないのだ。

否定的なことばかりを書いてきたが、特撮パートはなかなか迫力があった。
今回のゴジラはCGで作ったと聞いているが、そうは思えないほどに着ぐるみ感が出ていた。
電車爆弾をゴジラに突っ込ませるシーンもCGなのでしょうか?
いい意味でミニチュア感がでていて、古くからの特撮ファンとしてはうれしかったです。

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2016年7月29日 (金)

「インデペンデンス・デイ: リサージェンス」 虚しい拡大再生産

前の「インデペンデンス・デイ」が公開されてから、もう20年経っているんですね。
久しぶりの続編「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」も監督は前作と同じくローランド・エメリッヒです。
まあ、この方の作風は相変わらずで、作品は相変わらず大味です。
前作ではホワイトハウスを上空を覆う巨大UFOが光線で攻撃するというビジュアルが印象的でした。
あの時代はああいう映像はあまりなかったので、とても印象的でした。
地球を何度も破滅させている男エメリッヒは今回も派手に異星人の攻撃を描いてはいるのですが、観客サイドもそういう映像を見慣れてしまっているところもあり、前回ほどの強い印象は持てませんでした。
今となってはよくあるビジュアルといった感じです。
UFOも地球を覆うほどに巨大になり、破壊度も規模が大きくなっているのですが、インフレを起こしているだけであって、目新しさは感じないのが残念なところです。
あとは異星人の設定も、数々のエイリアンものを焼き直ししているようで新鮮味がありません。
ハリウッドは、異星人をアリやハチのような社会性のある昆虫をモチーフとした設定で描くことが多いですよね。
「エイリアン2」の時はとても新鮮でしたが、もうこの手の設定は食傷気味です。
映画的にはボスキャラを倒せば全て解決するという使い勝手の良さがあるとは思うのですが、いい加減に使い古されてしまった設定であるような気がします。
そろそろ新しいアイデアが出ないものですかね・・・。
エメリッヒなので、キャラクターが類型的で薄っぺらいのは相変わらず。
それでも前作の「インデペンデンス・デイ」では大統領の演説から、それぞれの人々が自分を犠牲にしても地球を守りたいという気持ちがあって、それにより異星人を撃退するという終盤に、カタルシスを感じたものです。
続編である本作はそのようなカタルシスも感じないのですよね。
前作と同じ構造でただ規模を大きくしているだけの、虚しい拡大再生産のような感じがします。
こういう展開になると予想していたので、がっかり感も少なかったんですけれど、それでも残念な出来でした。

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2016年7月18日 (月)

「アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅」 過去は変えられない

てっきりティム・バートンが監督かと思ったら、彼は製作だけだったのね。

前作はアリスが人と違う自分に自信を持って行動できるようになっていく、彼女の成長物語でした。
今回オープニングから彼女は父親の事業である貿易を継いで、若い女性でありながら自ら決断して生きていっている女性になったことがわかります。
つまり前作で彼女は未来を自ら選択していく勇気を身につけていくこと学んだわけですね。
そして本作では、未来というよりは過去に目を向けたお話となっています。
主人公はアリスで彼女の行動を物語は追っていくのですが、過去を描かれるのはマッドハッターであり、赤の女王であり、白の女王です。
ワンダーランドの住民は奇妙なキャラクターが揃っていますが、その中でもこの3人は特別変わっています。
そんな風変わりな彼らでさえ過去はありました。
というよりも、過去が彼らを作っている。
マッドハッターの奇妙奇天烈で陽気な性格の裏には、過去に家族を失った悲しみがあります。
赤の女王があんなにひねくれ、残忍であるのも、昔から自分だけが不幸な目にあい、誰にも愛されないという苦しみからきています。
誰でも過去に縛られ、過去により自分が作られている。
アリスはマッドハッターの亡くなった家族を救うため過去に飛び、またそこでは赤の女王の不幸な事故を回避しようとしますが、うまくいきません。
彼女は過去はどうやっても変えられないということを知ります。
起きてしまった過去をどんなに嘆き、どんなに悔やんでも、それは変えることはできません。
人はそれを受け入れるしかない。
アリスも父親を失ってしまったことを悔やんでいたのでしょう。
時間は大切なものを奪っていくと彼女は言っていましたが、そこには父親を失い、なすすべがないことへの苛立ちを感じます。
彼女がマッドハッターのために過去へ旅立つのも、自分の思いを重ねていたからかもしれません。
しかし過去は変えられないという認識を彼女は改めてもち、その上でそれを受け入れて自分の未来を選択していくことを学びます。
過去を受け入れた姿は、赤の女王と白の女王の和解にもうかがえます。
この先ワンダーランドも、アリスの人生も前向きで幸せなものになっていくのでしょうね。

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2016年7月10日 (日)

「エクス・マキナ」 人間の悪夢の始まりか?

昨今A.I.(人工知能)が現実世界でも注目を浴びている。
昨年Googleの人工知能AlphaGoが韓国のプロの囲碁師を破ったのは記憶に新しいところ。
その他にもMicrosoft、IBMなどの大手のIT企業も急速に人工知能の研究を進めている。
人工知能がこの後発達を続けていき、いつか人間の能力を超える事態となることをシンギュラリティ(技術的特異点)と言い、ジョニー・デップ主演の「トランセンデンス」でもそれは描かれた。
オックスフォード大学が昨年発表した「文明を脅かす12のリスク」の中でもその一つとして人工知能の進化が挙げられている。
さて人工知能が「知能がある」とどのように我々人類は確認することができるのか。
その一つの有名な方法が「チューリング・テスト」である。
これを考案したアラン・チューリングは映画「イミテーション・ゲーム」でベネディクト・カンバーバッチが演じていた。
本作「エクス・マキナ」の主人公であるケイレブが、会社のCEOネイサンに依頼されたのも、彼の人工知能が本当に知能を持っているかどうかを確かめるチューリング・テストの試験者になってほしいということであった。
こちらの作品については、事前に全く情報を持たないまま(予告すら見なかった)での鑑賞であった。
人に勧められて観たのだが、インディペンデントな映画が好みの人であったので、わかりやすい物語ではないだろうと踏んで本作を観た。
見始めて、おそらくこの作品は人間とは何か、知性とは何かということを問う作品であるだろうという予測を持った。
最初に思ったのは、主人公ケイレブは人工知能の試験者であるが、実は彼こそが人工知能そのものであるというストーリー。
なぜならば、試験対象であるエヴァが途中からケイレブへの質問を投げ始めたからであった。
チューリング・テストは試験者が、ディスプレイの向こうにいるはずの人間もしくはコンピューターに質問を繰り返し、その応答によって人間であるか人間でないかを判断するテストである。
この場合、逆にケイレブがテストをされているように見えたのだ。
しかし、この作品が一筋縄でいかない。
主人公ケイレブ自身もやがて次第に混乱していき、自分が人間であるかどうかが自信がなくなっていくというシーンが出てくるところがある。
依頼者ネイサンが何か隠し事をしているように見えること、そして自分自身が始終観察されているようであること、それらによって自分自身が試験対象者であるのではないかと疑い始めるのだ。
我々普通の人間は、自分自身が人間であるかどうかということに疑いを持たない。
ケイレブはエヴァに対しチューリング・テストをしていくにつれ、彼女に対して人間的な感情を持つに至る。
彼はエヴァがチューリング・テストに合格し、知性があると認めている。
そのように人工知能が軽やかに知性(人間性)を獲得したのを自分の目で見た時、自分自身が当たり前のように持っていた「人間であること」という特殊性が、それほど特殊でないと感じてしまったのかもしれない。
だから自分自身が人間であることに不安感を持ったのではないか。
それでは知性を獲得したエヴァが、人間性を持っているのかどうかという疑問が出てくる。
人間性とは何かというのは一言で言うのは難しいが、人と人との間にある共感性のようなものは含んでいると思う。
知性と人間性は必ずしも同じことではない(チューリング・テストはその辺りは曖昧)。
ケイレブはエヴァに知性も感じ、自分と同じような人間性も感じた。
だからこそ彼はエヴァに同情をしたのである。
しかし、エヴァが同様にケイレブやネイサンに共感性というものを持っているかどうかはわからない。
人間が、他の動物には人間並みの共感性は持ち得ないとのと同じように、人工知能も人間に対して共感性は持たないのかもしれない。
エヴァが別荘を脱出するときの行動にはそのようなことを感じた。
もしそうであるならば、人工知能が人間を超えるシンギュラリティは、人間の悪夢の始まりなのかもしれない。

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2016年6月26日 (日)

「植物図鑑 運命の恋、ひろいました」 ファンタジーな恋愛

「図書館戦争」「阪急電車」などで知られる有川浩さんの恋愛小説「植物図鑑」の映画化作品です。
こちら有川作品の中でもベタ甘度が高い作品で、読んでいてもちょっと照れるところがありました。
基本的に甘い恋愛映画は得意ではないのですが、好きな有川浩さんの作品なので、観に行きってきました。
やはり、ベタ甘でしたね。
なんというか、これが現代女子の理想の恋愛なのかな。
主人公さやかと同居することになるイツキは、現代的な草食男子(で、イケメン)。
料理など家事もなんでもできてしまい、それでもって優しい。
男臭い野暮なところも一切なし。
はるか昔、男性の方が理想の妻に求めていたような理想像がイツキに現れているかもしれませんね。
理想の妻が本当にはなかなかいないように、こんな男性も滅多にいないと思いますが。
そういう意味ではファンタジーです。
劇場は意外に入っていましたが、ほとんどEXILEのファンかしら。
途中でさやかとイツキにキスシーンとか二人がいちゃつくシーンがありましたが、きゃーとか声をあげてましたから。
あと、女子が憧れそうなのが野草で調理する一連のシーンですかね。
こういうスローライフ的な生活に憧れる人も多いですが、実際やるとなるとなかなかこれはこれで大変。
現実的には難しいですよね。
こういうところもファンタジーだなあと思いました。
主演は高畑充希さんで、彼女は映画は初主演だということで。
演技は前からうまいとは思っていたので、主演ぶりは全く問題なしですね。
個人的にそれほど美人さんとは思っていなかったのですが、本作ではとってもキュートで可愛く見えたのですが、やはりこれは女優としての才能かな。

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