2024年6月 9日 (日)

「猿の惑星/キングダム」繰り返される所業

リブートされた「猿の惑星」シリーズ3部作に続く、第4作目です。
しかし、前作までの主人公であったシーザーは既に亡くなり、その死から300年が経過しています。
前作でもその予兆があった通り、人間はウイルスに犯され退化して野生化しており、変わって猿たちが地上の覇者となっています。
本作の主人公はノアという名のチンパンジーで、彼の種族は緑豊かな地で平和に暮らしていました。
一方、「キングダム」とタイトルにあるように、シーザーという猿が強権的な王国を築いており、彼は人類が残した遺産(兵器と見られる)を利用し、さらに覇権を広げようとしています。
これまでの3部作では人類VS猿の覇権争いが描かれていましたが、本作では人類の存在は後退し、エイプ同士の戦いが描かれます。
シーザーは人類の善良さも愚かさも知っていた指導者であり、彼はそれを踏まえて平和な世界を築こうとしていましたが、結果的はエイプの中でもかつての人類のような覇権主義の考えを持つ者たちが現れたわけです。
もはや、これは知能というのものは、いずれそのような道を歩まざるを得ないということを表しているのでしょうか。
人類が表舞台を退いても、エイプたちは同じことを繰り返しています。
シーザーがこれを知ったら、どう思ったでしょう?
ノアたち一族がシーザーの王国に移住させられ、強制労働させれられるのはバビロン捕囚のようでもあります。
主人公ノアは、シーザーに比べれば未熟で、猿の王国で自らも同族の仲間たちが虐げられる中、リーダーとして目覚めていきます。
本作はノアの成長譚とも言えるかもしれません。
本作は上記のようなエイプたちの争いが中心に描かれますが、その中で特異な存在がメイという女性で、ノアたちと行動を共にするようになります。
当初は他の人類と同様、退化し言葉を使えないと思われていましたが、実は言葉も操り、かつての人類と同様の高い知能を持っていることが明らかになります。
彼女は彼女の思惑があり、ノアたちと共に行動しており、それがエイプたちの戦いというストーリーに変化を与えています。
彼女の思惑とは何なのか、何のために行動しているのか、というのが、エイプたちとの戦いとは別のもう一方のストーリー上の牽引力となっていると思います。
結果、エンディングでウイルスに侵されていないかつての人類の生き残った子孫たちが存在することが明らかになります。
メイは地球上の各コロニーで生き残った人類たちが、ネットワークで繋がるためのキーを探していたのでした。
人類たちはこれで反撃できる力を得るのでしょうか。
次回作では再び人類とエイプたちの戦いが描かれるのでしょうか。
新展開の期待がされますね。

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2024年6月 6日 (木)

「青春18×2 君へと続く道」人生は旅

2006年、台南で暮らすジミーは、大学受験に挑みつつ、小遣いを稼ぐカラオケ屋のバイトに勤しみ、友人と夜中までテレビゲームをして過ごすような、ごく一般的な青年でした。
そんな彼が、その夏、日本から来て台湾に滞在していたアミと出会い、恋に落ちます。
その恋が彼の人生の道筋を作りました。
アミはジミーに自分の夢を語ります。
その夢は彩りに溢れた鮮やかなものでした。
好きな絵を描きながら、世界中を旅していきたい。
それがアミの夢でした。
まだ夢を持っていなかったジミーにとって、彼女の夢はとても眩しく、それが彼女への想いを深くしていったのかもしれません。
しかし、彼の恋は実らず、アミが日本に帰らなくてはいけない時がやってきます。
二人が別れる時、アミとジミーは約束をしました。
二人が夢を叶えたら、また会おう、と。
この約束がジミーの生き方を決めたのです。
ジミーは夢を叶えるために邁進し、そしてその夢を果たしました。
そして、挫折します。
彼が夢を捨て、挫折した時、彼の人生を決めた約束を思い出し、そして初恋の人の母国を訪れる旅に出ます。
それは自分の人生を振り返る旅であったのかもしれません。
この物語は夢を失い日本を旅するジミーと、彼がアミと出会った日々が並行して描かれます。
そして、アミがどのような運命に向き合っていたのか、見ている我々は進んでいく物語の中で知ります。
そして、ジミーは彼女の死を夢を叶える前にすでに知ってしまったことも、観客である私たち知ります。
私がふと不思議に思ったのは、なぜジミーはアミのその後の運命を知っていたのに、彼女の故郷を直接訪れるのではなく、回り道をして行ったのだろうかということでした。
結末はわかっているにしても、その悲しい事実に向かい合う勇気がなかったからでしょうか。
それもあったのかも知れません。
彼の日本への旅は彼自身の生き方を見直す旅であったのでしょう。
そして彼の生き方を決定づけたのはアミの存在でした。
彼はアミの夢、異国の地を回って、人々と出会いたい、ということをなぞることにより、彼女の気持ちに触れたかったのかも知れません。
ジミーは日本を旅する中で、様々な出会いを経験します。
その出会いにより、ジミーはアミを、そして自分自身を、深く感じ、考えるようになりました。
彼はその出会いにより、癒されていったのです。
それはかつてアミが台湾で経験したことだったのかもしれません。
ジミーはそのような出会いを経て、彼女の故郷に辿り着きました。
彼が知りたかったけど、知るのも怖かったのが、アミが台湾を訪れ、そしてジミーと出会ったことが、彼女を幸せにすることができたのか、ということだったのだと思います。
彼女が最後に描いたスケッチを彼は目にし、彼女の最後の時間の中で、台湾の日々がとても眩しく描かれていたことを知ります。
彼女は世界中を回ることはできなかったけど、台湾で素晴らしい出会いを得ました。
それは彼女の人生は短かったけれど、彼女は夢を叶えられたのかもしれません。
ジミーは夢を叶える途中で、アミの死を知り、少し脱線をしてしまったのかもしれません。
ただ彼の人生はまだ続きます。
アミのスケッチを見たことにより、再び彼は自分の夢を叶える人生の旅のスタートに立ちました。
まさに、人生も旅、なのですね。

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2024年5月20日 (月)

「ツイスター」かわいい人

この夏、続編「ツイスターズ」が公開されますが、そのオリジナルとなります。
制作総指揮はスティーブン・スピルバーグ、脚本はマイクル・クライトン、そして監督はヤン・デ・ポンという錚々たるメンバーの制作陣です。
ヤン・デ・ポンは「スピード」に続く監督第二作目で、公開当時、非常に期待していたのを覚えています。
最近は異常気象のためか、日本でも竜巻被害が多く見られるようになりました。
何年か前に関東地方でも大きな被害がありましたが、竜巻の通り道に沿って家屋が被害を受けている映像を見て、驚きました。
そんな日本よりも、さらにアメリカの中南部は大規模な竜巻が起こることが多く、被害も甚大です。
そのような竜巻による被害を避けるために、そのメカニズムを解き明かそうとする科学者たちが本作の主人公です。
彼らは「ストーム・チェイサー」と呼ばれ、竜巻に先回りして、小さなセンサーを竜巻に飲み込ませることにより、その構造を明らかにしようとしています。
公開時、先に書いたような陣容だったので、個人的には期待し、かつ楽しめました。
巨大竜巻の表現は現在の目で改めて見ると、アラも見えるのですが、当時としてはかなり頑張っていたように思います。
竜巻自体は自然現象ではあるのですが、禍々しさもあり、モンスターのようにも見えてきます。
人が制御できるところまでは程遠く、日本のゴジラのような存在のようにも見えますね。
ストーリーとしては複雑なところはなく、どんでん返しのような展開はないので、そこがヒットに結び付かなかった要因のようにも思えますが、私が魅力的だと思ったのは、キャラクターです。
特によかったのが、ヘレン・ハントが演じる主人公ジョーです。
ジョーは幼い頃、竜巻被害により実の父親を失いました。
冒頭、その回想シーンが描かれますが、彼女が見た竜巻はまさにモンスターのようでもありました。
彼女はその体験により、竜巻研究にのめり込みます。
劇中ではジョーは、同僚であり師でもある夫ビルと離婚間際な状態です。
ビルは再婚しようと考えており、そのためにジョーに離婚届にサインをさせようとして彼女の元を訪れますが、ジョーはのらりくらりと躱そうとします。
この様子がなんとも可愛いのですね。
彼女にとって、ビルは同じ志を持つ同士でもあり、同じ人生を歩むことができる伴侶です。
ただそれを彼女は素直に表すことができず、非常に不器用なところがとても愛らしい。
また彼女は竜巻が出現すると、のめり込むように危険を度外して竜巻に向かってしまう。
それは子供の頃に父親を失ってしまったことにより、父親を追いかけ続けているのかもしれません。
彼女の行動はそういう意味では非常に幼く、危なっかしい少女のようにも見えます。
ビルはそんな彼女を放っておけず、結局は一緒に巻き込まれていくのですが、彼にとって彼女は守ってあげなければいけない存在のようなのでしょう。
彼女を愛おしく思う気持ちは、今改めて見てみるとさらによくわかるような気がします。
私が当時、本作に惹かれたのは、この点であったのだと思います。
さて、新作はこの夏公開されます。
ビルを演じていたビル・パクストンはもう亡くなっていますし、キャストは全て新しくなるのでしょう。
ストーリーも前作を引き継いでいるものなのか、リメイクなのかはまだわかりません。
とはいえ、30年近く経っての新作ですので、どのような展開になるのか、興味を持って待っていたいと思います。

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2024年5月 5日 (日)

「陰陽師0」晴明と博雅の関係性は良い

このところ「キングダム」や「ゴールデン・カムイ」など原作の映画化作品の主演を務め、大ヒットを連発している山崎賢人さんが安倍晴明を演じているのが、この作品。
上記の作品は非常にアグレッシブなアクションが売りで動的な印象でしたが、本作ではどちらかというと静的で優美なアクションを披露しています。
原作は夢枕獏さんの「陰陽師」シリーズで、タイトルに「0」とあるのは、まだ晴明が陰陽師になる前の学生(がくしょう)の頃を描いているためです。
「陰陽師」シリーズは野村萬斎さん主演で2度映画化されていますが、私はそちらは未見です。
が、原作の方は数冊読んでいます。
「陰陽師」シリーズは夢枕獏さんらしい独特の世界観を持っているのと、もう一つ、安倍晴明と源博雅の深いつながりがシリーズを通して描かれているところが魅力です。
晴明は古今の知恵と呪術に精通していて、それを持って京の街で起こる怪異に向き合います。
そもそも怪異というのは、本作でも触れられる「呪」のように、自分でも気がつかないうちに持ってしまった思い込みによって、歪んでしまった目で世界を見ることにより引き起こされます。
時折、晴明ですら、その歪みに囚われることもあるわけです。
源博雅という男は非常に素直な人間で、そのため騙されることも多いのですが、その素直なものの見方が時として歪みを払ってくれることがあり、それによって何度か晴明は救われています。
このように晴明と博雅の友情は固く結び付けられており、小説でも二人が酒を酌み交わす場面がしばしば描かれています。
映画化するにあたり、この二人の関係性は大事にしてもらいたいと思っていましたが、原作者の夢枕獏さんもかなり関与しているということで、ちゃんと描かれていましたね。
博雅のキャスティングは染谷将太さんで少々意外でしたが、素直で愛すべき彼になっていました。
山崎賢人さんはかなりがっしりしているイメージで合うかな、と思っていたのですが、こちらも静かでありながら揺るぎない晴明にあっていたと思います。
ストーリーとしてもシンプルでありながら「陰陽師」の世界観を捉えていて、かつ先に書いた二人の関係性もしっかりと押さえていたので、よかったですね。
残念だったのは、幻想的な世界を見える形にするVFXで、少々物足りないところがありました。
今回は深層心理の世界なので、舞台としては複雑なものではなくなるのだと思うのですが、もっと幻想的であっても良いかなと思いました。
独特の世界観をもう少し作り上げられたら、より個性的になったのではないでしょうか。

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2024年5月 4日 (土)

「ゴジラxコング 新たなる帝国」ゴジラの捉え方の違い

「ゴジラ -1.0」のヒットの記憶も新しい中、モンスター・ヴァースシリーズの新作「ゴジラxコング 新たなる帝国」が公開されました。
アメリカではすでに公開されているようですが、このシリーズの中でも最高の興行成績となる見込みです。
世界的にヒットしている本作ですが、個人的にはいささかしっくりきませんでした。
「ゴジラ -1.0」はゴジラをオリジナルのような核、自然、神のメタファーとして捉え、そのような人間の力が及ばない存在を前にしての人間のドラマが描かれました。
ゴジラは日本人としては、このような神と災厄が入り混じったような存在、いわば荒ぶる神のような存在として描かれる方がしっくりきます。
しかし、この荒ぶる神という概念は欧米人にはいささかわかりにくい。
ですので、モンスター・ヴァースにおける怪獣(劇中ではタイタンと呼ばれる)はまさに巨大な生物であるという位置付けです。
神というような及ばない存在ではなく、何かしらの理屈で説明できる存在として描かれます。
ゴジラはまだその中でも人間的にはその行動が予測できない存在となっていますが、コングに関しては感情があり、人間の持つ価値観に近いところで行動していうように見えます。
ですから姿形はモンスターでも、ヒーロー映画に登場するようなヒーローの位置付けとも言えます。
本作ではさらにその位置付けを強化するように敵役のコング、スカーキングが現れます。
スカーキングはまさにヒーロー映画におけるヴィランであり、自分の欲のために帝国を支配しようとする権力者として描かれます。
怪獣という存在が矮小化され、人間のスケールで理解できる存在となっているのです。
スカーキングはまさに人間そのもので、俗物っぽく、彼を中心に引き起こされる今回のイベントはもはやヒーローアクション映画のようなものとなっており、日本のゴジラ映画(初期)とはかなり様子が違っています。
そのため物語の後半で展開される怪獣バトルは、スタローンやシュワルツェネッガーが登場していたアクションムービーのようなテイストを持つ怪獣プロレスのようであり、ゴジラの持つ神秘性のようなものは皆無となっています。
予告編でも話題になっていたゴジラとコングが爆走しているシーンなどは、日本人と欧米人のゴジラの捉え方の違いを表していると思います。
「シン・ゴジラ」にしても「ゴジラ -1.0」にしてもゴジラは人間ではコントロールできない自然や核を象徴した荒ぶる神であり、ある種の近寄りがたさを持っています。
そのため、人間は永遠にその本質を理解することができず、なんとか戦い、そしてなだめながら、共存を図っていくしかない存在です。
そのためゴジラは凶暴でありながらも、厳かな空気を纏っています。
しかし、モンスター・ヴァースで描かれるゴジラは、生物が巨大になった存在であり、今は理解し難くとも研究が進めばいずれは理解できる存在であり、人智が及ぶ存在として描かれていると重ます。
この人間の手が届きそうか、届かないかという点が日本と欧米のゴジラ感の違いであり、それが作品にも色濃く反映されているように思えます。
日本のゴジラ映画も平成ゴジラシリーズの前あたりは、初期の頃に比べ、人間に近い存在として描かれていましたので、どれが正しいかなどという気は毛頭ないのですが、怪獣プロレスをやりたいのであれば、ゴジラでなくてもよかったかなと思いました。

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2024年4月27日 (土)

「アイアンクロー」束縛するも、解放するも、家族

タイトルにあるアイアンクローとは、本作の中心となるプロレスのエリック兄弟の父親フリッツ・フォン・エリックの必殺技である。
強靭な握力で相手の頭を握り潰す技だ。
大きな手でがっしりと頭を握られてしまうと、その万力のような力から逃げることは困難になる。
アイアンクローは父親の後を継ぐ息子たちにも引き継がれて象徴的な技となるが、もう一つ兄弟たちを縛り付け、逃れられられない力の暗喩だろう。
フリッツはプロレス団体を立ち上げ、そこで息子たちをスターにしようと目論む。
息子たちは幼い頃よりそう言い聞かされ、自然とその道を歩んでいくことになる。
長男は早逝したため、次男のケビンは自分こそが父親の期待に応えなければいけないと思っている。
そして三男のデビッド、四男のケリーも相次いでプロレス界に飛び込んでくるのだ。
興行として客を呼べると思ったか、父親の関心は華のあるデビッド、ケリーに移っていったため、ケビンは嫉妬に苦しむものの、ストイックに弟たちを支えようとする。
最後に兄弟の中では穏やかな性格でありミュージシャンを目指していたマイクもプロレスを始める。
そして彼ら兄弟たちに次々と不幸が訪れる。
父親のフリッツは息子たちに目標とそれを叶える義務を負わせる。
それらは自身の目標であり、夢なのだが、それと同じ夢を息子たちも持つものであると信じて疑わない。
息子たちにはそれぞれ個性があり、やりたいことも異なるのに、それを認めることができない。
だから義務は負わせるが、彼らの人生に対して責任は負わない。
また母親も同様なところがある。
一見、信心深い愛情のある母親にも見えるのだが、強い信仰心を持っているため、教義的に息子たちを縛る。
息子が隠れてマスターベーションをするシーンがあるが、彼らがそのような点でも非常に抑圧されていることが窺える。
この親たちが兄弟間のトラブルがあった際に助けを求められた時に言う言葉が「兄弟たちで話し合って解決しろ」だ。
父親も母親も子供たちを強く束縛し義務を負わせるが、彼らを救おうとはしない。
息子たちには強い義務が負わされ、そこから逃げられないということが、彼らに不幸な選択肢を取らせたことにつながったのだろう。
三男のデビッドは体調不良を我慢して父親の期待に応えようとしたために突然死。
四男のケリーは、世界王者になったものの交通事故で片足を失い、その鎮痛剤中毒に苦しんだ末に、自殺。
五男のマイクはプロレス試合中の負傷により後遺症を患い、それを苦に自殺。
彼らは両親の強い期待に応えようとしたが、その期待の重さに耐えられなくなったものの、逃げられなかった。
この両親は今の時代の言い方をすればまさに毒親なわけで、そこから彼らは逃げ出せばよかったのに、とも思うが、それをさせなかったのはやはり家族なのだろう。
彼らからすると、家族以外に拠り所となるところはなかった。
そこが全てだった。
だから逃れるのであれば、死しかなかったのだろう。
唯一、兄弟の生き残りとなったのはケビンであった。
彼も両親の束縛に耐え、期待に応えようとしたものの、いつしか期待をかけられる存在ではなくなり、別の苦しみを背負った。
その苦しみの中で、彼が持ち堪えられたのはやはり兄弟たちがあってこそだった。
また彼は兄弟の中で一人、愛する人と結婚し、子供を授かった。
彼には彼だけの家族、居場所ができたため、フリッツと同じ父親として対峙することができたのかもしれない。
人を束縛し苦しめるのも家族なら、苦しみから救い解放してくれるのも家族。
家族というのはかくも濃い。

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2024年4月13日 (土)

「ゴーストバスターズ / フローズン・サマー」やはりニューヨークがよく似合う

新生ゴーストバスターズである前作のヒットを受け、続編である本作は舞台をニューヨークに移しています。
やはり、ゴーストバスターズはニューヨークがよく似合います。
新生ゴーストバスターズは、初代のゴーストバスターズに比べるとドラマ部分が強化されている印象ですが、本作も引き続きその印象ですね。
主人公フィービーは前作から2年経っているので、15歳となっています。
前作の時は初見では男の子か女の子かわからないような感じでしたが、本作では15歳らしい女の子っぽさも垣間見えます。
この15歳という年頃、まさに大人と子供の間というところで、そこが本作のドラマ部分の中心になります。
フィービーは祖父譲りの頭脳を持っていて、そしてその行動力も含め、活躍っぷりは大人顔負けですし、本人も自信があります。
しかし、社会としてはまだ子供ですので、ゴーストバスターという危険な仕事に就くということを許してもらえません。
本人はそれを天職と思っているので、そこに対して不満が出てくるのもわかります。
加えて母親は娘を心配しているからではあるのですが、ゴーストバスターズから娘を遠ざけようとしますし、義父となったかつての恩師との関係も微妙です。
そのようなティーンの女の子の微妙な心の隙間を、ゴーストに狙われ、世界の破滅の危機を迎えることになります。
本作は前作ではちょっとだけ登場した初代ゴーストバスターズたちもガッツリ登場するのは旧作からのファンとしては嬉しいところ。
それぞれのキャラクターもそのままに活躍してくれるので見ていて楽しい。
「ゴーストバスターズ」と言えば、このようなキャラクターが立っているところが特徴ですが、それは初代だけでなく、新世代の方も同様のことが言えます。
ビビリだけど優しくていざという時は頼りになるフィービーの兄だったり、娘との距離の取り方に悩みジョークを飛ばしまくる父親だったり。
本作で新たに登場したファイアマスター、ナディームも癖があってよかったですね。
火を放つところは「エターナルズ」のキンゴを彷彿とさせました。
初代メンバーも入れた「ゴーストバスターズ」は2、3作作られる予定だとか。
ドラマを強化した新生ゴーストバスターズは見ていても面白いので、ぜひ続編も期待したいところです。
おそらくフィービーの成長に合わせて、ドラマが展開していくような気がしますが、そろそろ恋バナですかね。

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2024年4月12日 (金)

「変な家」なんでヒットしている?

本作は公開開始から観客動員数で4週連続でトップとなっています。
小説の方もベストセラーとなっていて興味はあったのですが、まだ未見です。
自分が想像していたよりもヒットしているので、気になって鑑賞してきました。
感想から言ってしまうと、なんでこんなにヒットしているのかよくわからないというのが本音です。
主人公たちが入手したある家の間取りをよくよく見ると通常の家にはないような設計が施されている。
その違和感の裏を探っていくと、この家に住んでいた家族の秘密が次第に明らかになっていくという仕立て。
間取りからミステリーが始まっていくというのはユニークな発想で、そこが私も原作に対する興味がおきたポイントでした。
映画に関しては前半は間取りからのミステリーはあり新しさは感じたものの、後半に関しては昭和の時代によくあった山村の怪奇談のような展開となり、既視感というか古臭さすら感じました。
前半の間取りから展開していく謎は、小説には向いているかもしれないですが、映画にはあまり向いていないような気もします。
これは「ある閉ざされた雪の山荘で」のレビューでも書いたのですが、映画ならではの見えすぎることによって小説で想像力で補われた曖昧な部分が見えてしまうことにより、謎があまり効いていないようにも見えました。
映像がとても説明的になってしまうのですよね。
映画の展開が原作と同じかどうかはわからないのですが、映画として成立させるためにB級ホラー的な展開になったのでないかと思えます。
昨今の原作改変問題というのもありますが、改変しても面白くなっていれば、個人的には良しというスタンスなのですが、本作についてはB級ホラーとして見ても、相当陳腐な感じがします。
ところどころで絡んでくる斉藤由貴さんのキャラクターは、怪しげではあるのですが、都合よく使われていて、なぜこの人はこんなことをしているのか、なんでここにいるのかと、冷静に考えると、結構無理があったりもするのですよね。
なんでこの映画、ヒットしているのだろう・・・?

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2024年4月 7日 (日)

「オッペンハイマー」揺れる

本作の冒頭にプロメテウスの神話の件が語られる。
すなわちプロメテウスは天上から火を奪い、人間に与えた罪により、ゼウスにカウカーソス山に磔になったと。
人はプロメテウスに与えられた火によって文明を発展させたものの、また武器を生み出し争いを続けるようになったのだ。
プロメテウスに与えられた火によって人間は後戻りできない道に踏み出したのだ。
オッペンハイマーはプロメテウスに準える。
彼は核の扉を開けた。
核は夢のエネルギーでもあったが、地球を破滅させることができるパワーでもあった。
核以前と、核以後は異なる世界であり、まさにオッペンハイマーは新世界を生み出したとも言える。
核爆弾はウランやプルトリウムにを爆薬により臨界点を突破させ、核分裂を引き起こすことにより莫大なエネルギーを生み出させる。
核分裂により飛び出した中性子は次々に周囲にも反応を連鎖させて急激にエネルギーを解放するのだ。
これが核爆弾の連鎖反応(チェーンリアクション)なのだが、オッペンハイマーの核爆弾により、米ソによる核開発競争という別のチェーンリアクションも引き起こさせる。
主人公であるオッペンハイマーは本作において常に揺れている。
世界や宇宙の成り立ちを探ろうとする冷静な洞察力を持っていて、周囲の誰よりも先見の明を持っているように見える。
しかし、目先の欲望や名誉に囚われて、馬鹿げた過ちも繰り返す。
戦中は熱心に核爆弾開発を指揮し、しかし広島・長崎への爆弾投下で動揺し、後悔する。
戦後はしばらくは核開発に従事するものの、その後核爆弾反対論へ転向する。
妻を愛し家庭を愛しているものの、ジーンとの関係にも溺れそこから抜けることもできない。
どちらが本当のオッペンハイマーなのか。
彼の主義はどこにあるのか。
彼はずっと揺れている。
彼は揺れ続けたまま、己の行為によって引き起こされた結果(原爆の投下やジーンの自殺)に慄くのだ。
しかし、両方とも彼なのかもしれない。
彼が信望する量子論で、光が波であり粒子でもあるように。
これがこういうものであるという確定さは人を安心させる。
ずっとこのままでいられると思えるからだ。
しかし、ノーラン監督はものが見えたままである確信をいつも揺さぶる。
「ダークナイト」では正義という価値観を揺さぶったし、「TENET」が常に時間が過去から未来へ流れるという前提を揺らがせた。
彼は全てのものの前提を揺さぶるのだ。
クリストファー・ノーランの演出は見事で、特に圧巻だったのが、原爆投下後にオッペンハイマーが研究所で多なったスピーチの場面だ。
彼が演説すると同僚たちは歓喜の叫び声をあげ、互いに肩を抱きながら泣く者も見える。
しかし、それは視点を変えて見てみると、原爆を落とされた広島・長崎の人々が苦しみの叫び声をあげ、悲しみで互いの肩を抱きながら泣いているようにも見えるのだ。
歓喜と悲哀という全く逆の感情をオーバーラップさせている。
原爆を生み出したことの両側面を表した驚異的な演出であり、物事は見えるままだけではないという彼の共通したものの見方を表した象徴的なシーンであったと思う。

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「デューン 砂の惑星 PART2」リアリティと幻想

前作の自分のレビューを見てみたら「壮大なプロローグ」というタイトルをつけていましたが、本作を鑑賞してみるとそれは的確に表現をしているなと改めて思いました。
PART2についてはそのようなプロローグを経ることにより、主人公ポールが戦う理由が明確になっており、本作では彼がどのようにハルコネン家と皇帝に対して戦いを挑んでいくかが描かれることにフォーカスされており、2時間半以上の長尺でありながら、非常に見やすいと思いました。
監督は前作に引き続きドゥニ・ヴィルヌーヴです。
彼の映像は独特で「メッセージ」にしても「ブレードランナー2049」にしても現在とは異なる世界を描いていながらも、非常にリアリティがあるのですね。
SF映画というのは昨今は特にCGの発達がすごいので、驚くような映像が作れるのですが、その分、箱庭感のような感触も拭いきれません。
しかし、ドゥニの映像はその世界に立っているような空気感があるように感じます。
多用される実風景を使ったロングショットや、砂埃でむせてしまうような空気感によって、見ている観客もデューンに立っているような感覚にさせてくれます(対局はザック・スナイダーとかでしょう)。
このような空気感を感じさせてくれる監督は最近はめっきり減りましたね。
そういったリアリティもある反面、ドゥニは幻想的なイメージもあります。
「メッセージ」での異星人との非言語によるコミュニケーション、「複製された男」が「ブレードランナー2049」でも不確かな記憶の描写などは非常に幻想的であり、ある種の不安を見ている者に感じさせます。
本作においても予知幻視などは同様の感覚にさせられます。
ドゥニの作品は確固たるリアリティがありながら、そのような幻想的な側面もあるため、より一層今の現実の不確かさが際立ちます。
そのような不確かさの中で主人公がどのような選択をしていくかのドラマが見応えのあるものになっていきます。
またドゥニの撮る映像はどのショットも構図も色も何から何までこだわり抜いているという印象がありますね。
抜き出して1枚絵になりそうなショットがいくつもあります。
アングルや構図にこだわり抜く姿勢は庵野監督などとも通じるもののような気がします。
彼が見せてくれる絵画のようなショットだけでも見る価値があると思います。
ドゥニの映像がリアリティと幻想というある意味逆の要素を持っている話をしましたが、本作の主人公も二つの価値観の中で揺れ動きます。
一つはデューンの民(フレメン)の一員として、帝国に対して反旗を翻し、星を取り戻そうとすること。
もう一つはアトレイデス家の生き残りとして、ハルコネン家と皇帝家への復讐を果たし、代わりに皇帝となること。
この目標は途中経過としてはハルコネン家と皇帝家の打倒ですが、ゴールは違います。
この異なる二つは劇中でも人物として象徴されていて、前者はポールの恋人だるフレメンのチャニであり、後者はポールの母親であるレディ・ジェシカとなります。
ポールは本作ではずっと前者の価値観で行動していたように見えますが、最後予知能力を持つようになってからは、後者の価値観で行動し始めたようにも見えます。
とはいえ、チャニへの思いも残っているようですので、彼の本心はまだ本当のところはわからないですね。
本作はここまででもデューンを開放したということで一旦の結末となったとも言えますが、上で書いたようにポールの真意がわからないという点ではモヤモヤが残ります。
本作は世界的には大ヒットしているということで、なんと先日PART3が制作されるということが発表されました。
ポールが皇帝となった後の物語となるとのことですが、彼の真意がそこではわかるのでしょうか。
何年後になるか分かりませんが、気になりますね。

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