2025年6月 8日 (日)

「国宝」二人の生き様

吉沢亮、横浜流星という新旧の大河ドラマ主演俳優をメインキャストに配した豪華なキャスティングです。
さすが今、旬の二人だけあって演技はなかなかの見応えでした。
本作は歌舞伎が題材になっており、二人とも数ヶ月も本格的な稽古を積んだということです。
劇中で見られる歌舞伎の所作や声の出し方にその稽古の成果が現れていると思います。
実はこの二人、吉沢亮さんがブレイクしたきっかけとなる「仮面ライダーフォーゼ」で演じた仮面ライダーメテオで共演しています。
当時は横浜流星さんはほぼ無名(その後「トッキュウジャー」でトッキュウ4号に抜擢)でしたが、吉沢亮さんが演じるメテオこと朔田流星の親友という役所でした。
吉沢さんの役名が、横浜さんの名前と一緒というのも何か運命的でもありますね。
横道外れてしまいました。
吉沢さん演じる喜久雄は親が極道でしたが、抗争のため親は死に、その後歌舞伎役者である花井半二郎に引き取られます。
その半次郎の息子であり、後継とみなされてたのが横浜さん演じる俊介。
本作は年が同じであるこの二人の半生が描かれます。
二人とも歌舞伎に魅入られ、その道を極めようとします。
喜久雄は天性の才を持ち、メキメキと頭角を表していくにつれ、俊介は自分の力のなさを感じ、逃げ出します。
また喜久雄は歌舞伎社会という伝統と血が重んじられる社会の中で、自らの出自のためにさまざまな障害で阻まれます。
二人は対立しながらも、お互いを認め合い、唯一無二の関係性を作っていきます。
それぞれが多くのものを犠牲にしながら、芸の道を究めていこうとします。
なぜ、すべてのものを犠牲にすることがわかっていながらも、魅入られるのか。
本人たちにも本当のところはわからないのかもしれません。
何かそこまで行けば、見える景色があるかもしれないという思い。
喜久雄が歌舞伎界から追放されて、地方のドサまわりをしている時の屋上のシーンが秀逸です。
彼は芸しか見えていない。
ずっと彼に付き従ってきていた女性も、自分のことを見ていないことによって去っていってしまう。
全てを失ってしまっても、彼は踊っている。
泣きながら、笑いながら。
それしか彼にはないから。
その時の吉沢さんの演技は鬼気迫るものがありました。
また横浜さんも素晴らしい。
俊介は糖尿病により片足を切断することになっても、なお舞台に立とうとします。
彼と喜久雄が一緒に舞台になった時、喜久雄はもう一方の足も壊死になりかけていることに気づきます。
痛みに耐えながらも俊介は死に物狂いで舞台を務める。
その思いをわかっているから喜久雄も舞台を続けようとする。
この二人の掛け合いが鳥肌が立つほどの緊張感がありました。
歌舞伎の興行を担当する会社の社員、竹野が彼らの舞台を見てつぶやきます。
「あんな生き方はできない」と。
何もかも、自分の命すら犠牲にしながらも、芸の道を極めようとする二人の生き様がそこにはありました。

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2025年6月 7日 (土)

「かくかくしかじか」見えるモノをそのままに受け取る素直さ

娘が見に行きたいというので、一緒に行ってきました。 今までは一緒に行くのはずっとアニメばっかりだったのに、ストーリーものの実写を見に行きたいと言ったところに成長を感じたりして。
さて本作は東村アキコさんの自伝的な漫画を原作にしています。
漫画家を目指していた東村さんと、絵の師匠であった日高先生との交流を描いています。
日高先生は現代からするとほぼ絶滅してしまったような人物です。
映画を拝見すると東村さんはほぼ私と同世代。
私が学生だった頃は学園ものにしてもとにかく先生はアツかった。
「金八先生」にしろ「スクールウォーズ」にしろ。
生徒を思うからこそ、その行動は真っ直ぐで。
本作の日高先生もそれに通じるものがあると思います。
生きてきた時代から私はこういう先生の物語を見ると、割と心に響いてくるのですが、現代の子どもたちから見た時、こういう先生はどのように見えるんでしょうね。
今っぽくないと思うのか、それとも逆に新鮮に見えるのか。
うちの娘は、ラストではくすんくすんとしていたので、心には届いているようでした。
そして日高先生は、物事を純粋にそのまましか見れない人でもありますね。
アキコがつく幼稚な嘘にも素直に騙されてしまう。
生徒の一人をチンパンジーに例えてしまうのも、それは揶揄うという意図ではなく、ただ単にそのように見えたということだけで。
これはモノを見てそのままを写しとるという画家の目を持つからこそかもしれません。
裏の意図とかそういうことを見ることはできなくて、ただ目に見えるものをそのまま受け取る素直さというか、そういうところが日高先生にあるのかもしれません。 アキコにとってはその素直さも重いとも思え、逃げ出すように師匠から離れることもありましたが、その真っ直ぐさは彼女が夢を追うことの力ともなったのです。
映画としても非常に素直なストーリーで、真っ直ぐにメッセージが届いてきます。
故に終盤では心にも大きく響いてきます。
本作の監督の関さんの作品はあまり見たことがなかったですが、絵作りが綺麗な印象です。
決して奇抜ではないのですが、画のレイアウトとかキーアイテムの使い方とか上手ですね。
公開前に出演者に関する報道でゴタゴタしていましたが、作品としては素直に感動できるものとして仕上がっていると思います。

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2025年5月10日 (土)

「パディントン 消えた黄金郷の秘密」良質なファミリー映画

前作2作は未見なのですが、娘が見たいというので一緒に行ってきました。
ユーモアあり、冒険あり、ハートウォーミングありと、良質なファミリームービーという印象です。
前2作はロンドンが舞台だったということですが、今回はパディントンの故郷であるペルーに舞台を写しています。
そのためアドベンチャー要素が増しているようですが、「インディ・ジョーンズ」などの80年台の冒険ものが好きな私としては見ていて楽しかったです。
なんとなく懐かしい気分にもなりました。
娘の方は途中途中で挟み込まれてくるユーモア要素がツボだったようで、楽しそうに笑って鑑賞していました。
私も、遺跡にアイテムを投入したら、自販機のように吐き出されるという件などは笑ってしまいました。
冒頭にあったフリをここで回収してくるとは!
前2作を見ていなかったため、パディントンとブラウン一家の関係について深くわかっていなかったので、ラストについては見ていたらもっとグッときていたのだろうな、と想像していた次第です。
アントニオ・バンデラスやヘイリー・アトウェルなど脇のキャストも充実しておりました。
冒頭に書いたように、ファミリームービーとしてさまざまな要素がバランスよく構成されているので、大人から子供まで安心して楽しめる作品に仕上がっていると思います。

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2025年5月 6日 (火)

「爆上戦隊ブンブンジャーVSキングオージャー」異なる個性の化学反応

毎年恒例のVS戦隊です。
いつもは劇場公開はスルーして配信で見ているのですが、今回は娘が行きたいと言ったので、一緒に行ってきました。
脚本は「ブンブンジャー」のメインライターである冨岡淳広さんです。
「VS」シリーズは違う世界観の戦隊が一緒に戦うのがコンセプトの一種お祭りムービーなので、ややもすると大味になりやすい。
特に今回は歴代の中でも最もSFファンタジー的世界観が強い「キングオージャー」と、王道回帰の「ブンブンジャー」の組み合わせなので、なかなか組み合わせは難しそう。
しかし冨岡さんはベテランの方なので、短い尺の中でも両戦隊をいいバランスで組み上げていたと思います。
それぞれの作品の中のエピソードも上手に拾いながら、本作の中に取り込んでいました。
唸ったのは、今回ダグデドを復活させるために必要な3つの聖なるレガリア(3種の神器のようなもの)が、夏の劇場版「ブンブンジャー」に登場したゲスト二コーラのつけていたペンダント(珠)、「キングオージャー」のオージャーカリバーゼロ(太刀)、そして鏡として星球魂
を持ってきたところですね。
それぞれがシリーズ、映画の中で重要なアイテムだったわけですが、それを3つ揃えて三種の神器にしてしまうっていうのはなかなかのアイデアです。
また、VSシリーズは違う作品の個性あるキャラクターを無理やりに組み合わせて生まれる化学反応も見所の一つ。
薄々気づいてましたが、ジェラミーと玄蕃は話しっぷりが似ていると思っていましたが、これを組み合わせてきますし、面白い。
女性陣三人+イターシャもなかなかよし。
最も良かったのはギラと大也でしょうか。
大也は理想を目指して戦ってきましたが、大人たちの都合で翻弄されて裏切られてきたとも言えます。
ギラの国、シュゴッダムを訪れて、自分の理想とも言える世界を見た時、無条件にそれを成し得たギラにリスペクトを感じます。
しかしギラはそれでもそこは完全でないし、完全にはなり得ないと大也に説きます。
つまりは大也の地球もまだまだ理想を目指すことができるということですね。
大也はいわば挫折を経験したヒーローですが、ギラと出会い、再び理想を追い求めるエネルギーを得られたような気がします。
このようなメッセージも込められつつ、基本的にはバトルも見応えありますし、VSシリーズらしい爽快感もあり、満足度の高い作品でした。
今回の敵はマンホールグルマーでしたが、マンホールを投げまくっていたので、どこかで釈由美子さんが出てくれるのではないかと思いましたが、出てこなかったですね(泣)。

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2025年5月 3日 (土)

「サンダーボルツ*」ある意味MCUらしい

ある意味、MCUらしいと言ってもいいかもしれません。
MCUの第1作目「アイアンマン」でトニー・スタークは冒頭で紛争地域で自分の会社のミサイルが人々の命を奪っているのも目の当たりにし増田。
彼は自らの行為を悔い、人々を守るために戦おうとしたのです。
トニーと一緒に戦い続けたブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフもかつて暗殺者として多くの人々を手にかけてきたことを悔い、最後には人々のために自分の命を犠牲にするのです。
MCUに登場する多くのヒーローは、自らの内面に悔いと葛藤を抱えながら、戦ってきました。
「サンダーボルツ*」に登場する面々は、さらにその思いを強く持ちます。
本作のキャラクターの多くは、今までの作品の中で敵役として登場してきた者たちが多い。
ウィンター・ソルジャーことバッキー・バーンズ、姉と同じくウィドウであったエレーナ・べロワ、かつてアントマンと戦ったゴーストことエイヴァ・スター、手を血で汚した元キャプテン・アメリカ、ジョン・ウォーカー、ナターシャ・エレーナ姉妹と戦ったタスクマスター、そしてソビエトのキャプテン・アメリカ的存在レッド・ガーディアンことアレクセイ・ショスタコフ。
いずれも脛に傷を持つ面々です。
「サンダーボルツ*」の企画が始動したことを聞いた時、マーベル版の「スーサイド・スクワッド」になるのかと思いましたが、全く違いました。
ヴィランたちが暴れまくる作品ではなく、心に傷を持つ彼らが自らの過去を見つめ、そして再び生きる意義を見つけるという物語となっています。
彼らは罪を背負っています。
そしてそれを一人で背負おうとしていました。
背負うものは非常に重く、彼らはそれに押し潰されそうになっていたのです。
しかし、偶然にも彼らは一つのところに集まり、そして危機を乗り越えようとする中で、自分と同じように他のメンバーも背負っていることを知ります。
彼らには互いに、それぞれが背負っているものの真の重さがわかり、共感できる。
それに気づいた時、彼らは初めて仲間を得たのです。
彼らが戦うのは、強大な力を持つセントリーという超人ですが、これも一癖も二癖もある存在です。
セントリーはヴォイドという裏の側面を持っており、それが暴走し、人々を襲います。
その攻撃はまさに精神攻撃とも呼ぶべきもので、人々が抱える闇=トラウマの中に封じ込めてしまうというものでした。 サンダーボルツたちは、自らのトラウマと相対し、そしてセントリー自身も救おうとします。 彼らは互いに許し、許されるのです。 <ここからネタバレあり>
「サンダーボルツ*」の「*(アスタリスク)」の意味は最後の最後にわかります。 「ニュー・アベンジャーズ」になるということですね!
タイトルを見た時、彼らと二代目キャプテン・アメリカことサム・ウィルソンは合わないだろうな、と思っていたら、やっぱり揉めていることがミッドクレジットで明らかになります。 次の「アベンジャーズ」はサムが率いる正統な「アベンジャーズ」と「ニュー・アベンジャーズ」の2つのアベンジャーズが登場するのでしょうか。 カマラらも「ヤング・アベンジャーズ」を結成するような動きを見せいたので、もしかして3つ? 「ファンタスティック4」もアース616に来るような展開も示唆されましたね。 最後にタスクマスターがあっさり退場したのは、ちょっっと驚きでした。 オルガ・キュレンコ、顔見せ1カットだけでしたね・・・。

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「#真相をお話しします」”今”のテーマに切り込む

現代のネット、特にSNSの暗部に鋭く切り込んだテーマで想像していたよりも見応えがありました。
もちろん、トリッキーな展開自体もよく練られていて、先行きが全く予想ができませんでしたが、やはり本作はテーマ性だと思います。
<ここから先はネタバレしないで書く自信がないので、注意です。>
うちの子供が好きで、赤ちゃんの成長記録っぽい配信をしている動画も一緒に見たりしたりしますl。
ただ、この子が成長した時、この動画のことをどう思うのかなという思いがよぎる時もあります。
親からすれば可愛い我が子をみんなに見てもらいたい、という気持ちかもしれないですが、子供のプライバシーの権利からするとどうなのかなとも思います。
また、生臭い話で言うと配信でお金も入るわけで、そのためにという気持ちが出てくるのも否めません。
以前、親子youtuberの親が子供が車内に閉じ込められてしまった様子を配信してしまい、炎上してしまったという事件もありました。
本作の中で報道されない事実を暴露することにより、投げ銭を得るという企画が展開されます。
この行為は、言論の自由、真実の探究、知る権利などといった基本的人権に則っているとも言えます。
ただ、これは他人のプライバシーを容赦無く晒している行為でもあり、その点では基本的人権を侵しているとも言えます。
つまり、非常にデリケートな領域なのです。
マスコミなど既存メディアは時として”マスゴミ”などと揶揄されるところはあるものの、これらについては一定のルールを定めながら、報道をしています。
そして何かルールを違反したり、権利侵害があった場合は、会社として責任を追及されるわけです。
しかし、ネットにおいては、個人においては上記のような法律的意識が少ない場合が多いですし、そもそも匿名のためペナルティを課せられる可能性が低い。
安全圏から好き勝手を言っていいという、非常に不均衡な関係性になっているのです。
基本的人権はすべての人々に認められているものですが、それぞれの権利は時にぶつかり合うこともあります。
そこは非常に判断が難しいところであるわけで慎重に考えなくてはいけません。
皆がそのようなリテラシーがあればいいのですが、ほとんどの人々はそのようなことを考えることはなく、安易にネット上で行動します。
そこに切り込んだという点で本作は非常にタイムリーな作品であると感じました。
本作のラストはいわゆるオープンエンドで、作品として結末で答えを出していません。
皆が、それぞれ考えてください、ということですね。
上記に書いた通り、多くの人はリテラシーがなく、考えてもらいたいという制作者側のメッセージはわからなくもありません。
ただ作品として純粋に見ると、投げっぱなしであるという感はありました。
繰り返しますが、本作は非常にセンシティブな問題をテーマにしています。
答えは一つではなく、何か正解なのかわからない、わけですが、だからこそ作品としては答えを出すべきだとは思いました。
その答えに対して色々な意見は出るでしょう。
だからこそ、人々が考えるきっかけにはなるような気がします。
オープンエンドは逃げている印象を残してしまいました。

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2025年5月 2日 (金)

「マインクラフト/ザ・ムービー」映画にも受け継がれるゲームの思想

マイクラ好きの娘と行ってきました。
ちなみに娘はクリエイティブ派で色んな建物を作っていて、私はサバイバル派で色んなところ冒険行って、掘りまくるのが好き。
マインクラフトというゲームは場を与えているだけであって、それ以外はルールがありません。
自分がしたいようにプレイをする。
娘は建物を作りますし、私は冒険をする。
楽しみ方はそれぞれ。
個性、自由、創造がマイクラを表すキーワードになると思います。
映画版もゲームが持っている思想をちゃんと押さえたものとなっていました。
登場する人びとは社会からちょっとはみ出した人たち。
かつて有名ゲーマーで今は借金まみれの中年。
頭はいいけど、学校に居場所がないもやし少年。 日常に飽き足らず、夢を追いかけてマイクラの世界に住み着いてしまった男、などなど。
うまく社会に適応できなかった人びとが主人公です。
彼らがマイクラの世界で自分たちの個性を発揮しながら、ネザーからの侵略を食い止めようとします。
現実世界は多様性と皆が言っていた時から、逆戻りしている感じがありますね。
違う価値観をお互いに認め合うというより、相手を攻撃する方に向かっていると思います。
そんな中で社会的に適応できない人たちははみ出していってしまいます。
本作では彼らが主人公です。
マイクラというゲームのもう一つのキーワードは無限だと思います。
クリエイティブモードでは資源は無限に使えますし、サバイバルモードは世界の果てはなくどこまでも行くことができる。
無限だからこそ、制約がなく、自分がやりたいようにやれる。
自分の個性を遠慮なく発揮できる。
映画でも登場人物はそれぞれの個性によって危機を乗り越え、そしてそれをお互いにリスペクトしています。
ちゃんとマイクラの思想が現れているなと思いました。
CGもよくできていて、あのマイクラの世界観がいい塩梅でリアリティで表現されていました。
クリーパーとかスケルトンとかマジ怖いです。
娘的には前段の現代パートが長かったようで、「これ、マイクラの映画?」と言っておりました。 マイクラの世界に行ってからは、楽しく見れたようです。 前半は私も少々長い感じもしましたが、あれがないと人物の成長が描けないんでね・・・。
娘よ、いつかはわかると思う。

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2025年4月27日 (日)

「アマチュア」スパイの成長

アクションスパイ映画というと「007」「ミッション・インポッシブル」「ボーン・アイデンティティ」などが浮かびます。
これらの主人公は超絶な肉体的能力・スキル、明晰な頭脳、そして精神力を持った、いわばスーパーマンです。
ですので、ありとあらゆるピンチでも彼らは自分の能力を最大限活かして、その危機を乗り越えます。
見ている方としては彼らがスーパーマンなのは知っているので、ある意味、安心して彼らのピンチを楽しめます。
対して本作の主人公はCIAの分析官チャーリー。
彼は天才的な頭脳は持っているものの、基本はデスクワーカーであり、スパイの現場に赴いたことはありません。
しかし、彼は出張に出かけた妻がテロに巻き込まれて死んでしまったことをきっかけに、テロリストたちに復讐を誓います。
しかし、彼が持つのは頭脳だけ。
肉体的・スキル的にもスパイには向かない平凡なデスクワーカーであり、タフネスを支えるのは妻への愛だけです。
彼は組織にテロリストを追ってほしい、と願いでますが、受け入れられず、単独行動を取り始めます。 冒頭に書いたようにスパイ映画の主人公たちは、絶対に死なないという安心感がありますが、チャーリーはそこが担保されていません。
いつ殺されてもおかしくない。
それが他の作品にはない緊張感を生み出します。
また、逃亡しながらテロリストを追っていく中で、彼自身も変わり始めます。
肉体的な能力は変わりませんが、明らかにタフネスさを身につけていく。
辛い別れも経験しつつ、修羅場を乗り越えていく中で、精神的にも逞しく、一人前のスパイとして成長していきます。
明らかに完成しているスパイヒーローとは異なり、その変わってく過程がこの作品をユニークにしていると思います。

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2025年4月19日 (土)

「ミッキー17」彼らの解放運動

主人公ミッキーは借金取りに追われる身であったため、追っ手から逃れるために植民星に向かう宇宙船に乗り込もうとします。
その時、うっかり契約してしまったのが、とんでもない契約。
人類は人間の記憶を保存し、3Dプリンタのように出力した人間の体にインストールする技術を開発していました。
つまり、死んでも何度でも生き返るということです。
ミッキーは、死んでも何度でも生き返り、仕事を続けなければいけない、という契約にサインしてしまったのです。
死んでも何度でも生き返る、っていうのは一見「死なない」ってことと同義のように聞こえて、素晴らしい感じに思えなくもないですが、実際のところはとんでもない。
命というのは死んだら終わり、一回きりのもの、という前提があるからこそ、貴重であるわけですが、それが何度でもやり直しができるとなると、その重みは自然と軽くなってしまいます。
ミッキーはまさに「エクスペンダブル(消耗品)」と呼ばれ、モルモットのように実験台にされ、消費されていきます。
人間を出力する機械は、少し前のプリンタのように少し出したら引き戻して、重ねて印刷をするというような動きをしていて、最新式機械とは思えないアナログさを醸し出しています。
これは印刷を失敗したコピー紙をぐちゃぐちゃにしてポイ捨てしてしまうような感覚に繋がり、ミッキーそのものもその程度の重みでしかないことを印象付けます。
ただし、ミッキーも契約するまでは正真正銘の人間であって、ただサインをしてしまっただけでこのような人間扱いされない状態になってしまうのも不条理ではあります。
友人であったティモなどは特にひどく、彼のためにミッキーは借金を減ってしまったわけなのに、エクスペンダブルになったミッキーに対して、全く人間扱いをしません。
彼にとってはミッキーは別の生き物になってしまったかのようです。
これも歴史的には珍しいことではなく、かつての奴隷も同じような扱いであったのかもしれません。 ミッキーは奴隷のメタファーなのかもしれません。
ちょっとした手違いからミッキー17は死んだものと見做され、ミッキー18がプリントアウトされます。
本来彼らは同時に存在してはならず、そのため彼らは殺されそうになります。
そして搾取され続けることに嫌気がさしたミッキー18は移民団の支配者であるマーシャルを殺そうとします。
まさに彼らの奴隷解放運動です。
ミッキーの恋人であるナーシャだけは彼を人間として愛しており、彼の戦いを援護します。
結果、彼らの企みは成功し、マーシャルからミッキーは解放され、そして改めて本名であるミッキー・バーンズを名乗ります。
これも奴隷解放によって苗字を手に入れた黒人に通じるものがありますね。 本作は韓国の巨匠、ポン・ジュノが監督。
彼らしいブラックなユーモアがところどころにありますが、全体的にマイルドではあります。
彼の作品は見るのにかなりエネルギーを消耗するのですが、そういう点において気軽には見れます。
本来の彼の作品が好きな方には少々物足りないかもしれませんね。

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2025年4月 6日 (日)

「映画おしりたんてい スター・アンド・ムーン」魅力的なキャラクターたち

やはり永遠のライバルのような関係の名探偵と怪盗はいいですよね。
古くは明智小五郎と怪人二十面相、シャーロック・ホームズとモリアーティ教授と枚挙に暇はありません。
「おしりたんてい」で言えば、それはおしりたんていと怪盗Uでしょう。
彼らは永遠のライバルですが、お互いに不思議なリスペクトがあります。
本作の原作はちょうど先日、新刊が発売されていまして、ユニークな2冊同時刊行となっていました。(先に娘は原作を読んでいたため、一緒に見ていた時、ネタバレを言いそうになるのを止めるのに難儀しました・・・)
一つがスターサイドと言って、おしりたんていを中心としたストーリー。
もう一つがムーンサイドと言って、怪盗U中心のストーリーになっています。
映画はこれらを合体させたものになっています。
テレビシリーズの方では、アルファベットのつく怪盗たちが登場してきています。
怪盗Bや怪盗K、怪盗Zなどといったように。
それぞれユニークなキャラクターとなっていますが、彼らはみんな「怪盗アカデミー」という機関の卒業生になります。
そして本作はそのアカデミーの出身者である怪盗Gがおしりたんていの敵となります。
前作はおしりたんていの過去に触れたストーリーとなっていましたが、本作では怪盗U、そして助手のブラウンの過去に触れていきます。
そして怪盗Uの正体にもチラリと垣間見ることができます。 敵となる怪盗Gについても、彼は彼なりにある作戦を進める理由があり、そのこと自体には共感できる部分もあります。
そのように、今回はさまざまなキャラクターに関して掘り下げられており、ストーリーとしても見応えあるものに仕上がっていると思います。 怪盗Uに関してはまだまだ語られるべきストーリーもありそうなので、こちらも今後に期待したいですね。

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