2018年12月 1日 (土)

「スマホをおとしただけなのに」 命の次に大事なもの

現代社会の命の次に一番大事なものといったら確かにスマホかもしれません。
多くの人がそう思っているのではないでしょうか。
今や、手帳にスケジュールを書き込むこともしない、知り合いの連絡先はすべてスマホ、写真などのプライベートな記録もスマホに。
自分に関わる多くのことがスマホの中に入っています。
これを落としたりなどしたら・・・。
ちょっと恐ろしくなってしまいます。
そしてそれを拾った人が悪意を持っていたとしたら・・・ゾゾッ。
その恐ろしさを描いたのが、本作「スマホをおとしただけなのに」です。

<一部、ネタバレ的なところがあります>

ちょっと前に知り合いがFacebookのアカウントを乗っ取られて、なりすましで
「ともだち」にいくつもメッセージを送っていたということがありました。
なりすましは話には聞いてはいましたが、身近で起こるとちょっと薄気味悪くなりました。
乗っ取りの手口はけっこう巧妙で、本作の劇中でもあったようにログインのパスワードまで相手に変えられてしまったということです。
恐ろしい・・・。
あまり使っていないアカウントはそういうことになりやすいようなので(本人に気づかれにくいので)、アカウントを持っているならしばしば使うようにした方がいいかもしれません。

映画としてはシンプルに楽しめるサスペンスとなっていました。
スマホという現代人にとって欠かせないアイテムを中心に事件が進んでいくので、観ている人は自分の身にも同じようなことが起こるかもしれないという恐ろしさを感じながら観ることができると思います。
そういう意味で共感性の高い題材であったと思います。
また後半はサイコスリラー的な要素やミスリードや入れ替わりトリックなどミステリー要素もあり、サスペンスとしても素直に楽しめます。
ただそれほど複雑なことをしていないので、ミステリーに馴染みがない方でも楽しみやすいかと思います。
北川景子さんは当然前から知っていていくつも作品は観ていてはいるのですが、綺麗だなと思うことはあっても、すごく演技がうまいという印象ではありませんでした。
しかし、本作の中での恐怖表情はなかなかのものであったと思います。
もともと美人であるからこそ、すさまじい恐怖に襲われているときの表情が落差があっていい。
とてもホラームービーに向いている女優さんなのではないかと思いました(褒め言葉です)。
成田凌さんは今までほとんど作品を観たことがなかったのですが、サイコな犯人役はぶっ飛んでいてよかったです。
ほんとにアブナイ奴っぽい臭いがプンプンしていました。
北川さんにしても成田さんにしても、ふつうの邦画としてはくどい演技ではあると思うのですが、非日常であるホラー、サスペンス映画としては合っていると思います。
特に本作は日常的なパートがほとんどで後半で急にサスペンス色が強まるので、非日常的な落差を強調するためにも二人の演技はマッチしていると感じました。

ちなみに個人的にはスマホの中だけにしか様々なデータを置いておくと、無くしたり壊したりしたときにほんと死ぬほどがっくりくるので、多くのデータはクラウド上に置くようにしています。

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「GODZILLA 星を喰う者」 文明は何のために存在しているのか

いわゆるアニゴジシリーズ第3作にして最終章となる「GOZILLA 星を喰う者」です。
このシリーズはゴジラを扱いながらも従来の特撮とは異なった解釈で人を超越するゴジラという存在をハードSFテイストで描いています。
また脚本が虚淵玄さんが担当しているので、ある種、哲学的であり、また一面無情なテイストがあります。
虚淵さんのテイストに慣れている人にとっては馴染みのある感触ですが、初めての方は少々面食らうかも知れません。

1作目、2作目と見てきてこのシリーズは何をテーマにし、そしてどこに帰結するのかということが全く見えませんでした。
これら2つの作品ともにラストは鑑賞前に予想していた展開とは全く異なる方向に物語は転がっていきました。
そういう点においては3作目である本作も同様です。
しかし、シリーズをすべて見終えるとこれら作品のテーマが浮かび上がってきます。
それは「人間は、そして文明は何のために存在し、生きていくのか」です。
虚淵さんらしいテーマであると思いました。

エクシフはその発達した超科学により、未来を完全に予想することができるようになりました。
彼らの結論は宇宙は有限であり、それゆえ生命がどんなに栄えているように見えても、いずれは必ず滅んでしまうというものでした。
これは何を意味するのか。
いや、これをどう受け止めるのか。
初めてこの結論に達したとき、エクシフたちは大きな絶望と直面することになったのでしょう。
この結論は自分たちが存在することの意味は何もなく、宇宙の行く末にもなんら影響を与えられないということですから。
存在意義を否定された彼らは、そのままでは終わりません。
いや、終われなかったのかもしれません。
彼らは自分たちが存在していた意味を自ら作り出します。
自分たちとは異なる次元にいる存在、神とも呼べる存在であるギドラと接触することを彼らの超技術で可能とし、その神に自らを捧げることで自分たちの存在意義を作り出したのです。
彼らは自ら神を作ったと言えます。
その後、彼らは宇宙を放浪し、数知れない生命・文明を見てきました。
そしてそれらがいずれは自らの文明を滅ぼすほどの存在を生み出してしまうことを知ります。
人類にとってはそれはゴジラであるし、ビルサルドにとってはメカゴジラであるのでしょう。
文明はいずれ自らを喰らうモンスターを産み、そして最終的には神に喰らわれる。
これがエクシフの生命観であり宇宙観となっていったのです。
しかし、すべての生命がいずれ滅びることになったとしても、すべての生命・文明が無意味であったのでしょうか。
エクシフは結果こそがすべてと考えているように思えます。
しかし、滅びるのが運命としても、そこに至る過程のすべてがすべて無駄であったとは言い切れません。
生命が生まれ、文明を発展させる過程の中で、人々は確かに笑い、喜び、幸せな時を過ごしたわけです。
それが無駄であるわけはありません。
ハルオの生命が引き継がれていくように、生命の営みは連綿と続いていく。
その過程こそに意味がある。
文明は必ず滅ぶ。
そうであるなら存在する意味がないのか。
人は必ず死ぬ。
そうであるなら生きることは意味がないのか。
そうではありません。
生まれてから死ぬまでの過程、すなわち人生こそに意味ある。
そうであるならば文明もその過程にこそ意味があるのだと思います。
人生も山谷があるように、文明にも滅びに瀕する時がある。
それを乗り越え、繋いでいく過程こそが重要なのです。
いつかは文明も滅びる。
だから意味がないとは言わせない、言わせたくないとこの作品は訴えているように感じました。

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2018年11月25日 (日)

「ボヘミアン・ラプソディ」 自分の居場所

私は洋楽は疎いのですが、クイーンの曲は知っている曲が多いです。
本作で流れていた曲もほとんどが聞き覚えのあるものばかり。
クイーンの曲は様々な映画の中で使われていて印象に残っているからかもしれないですね。
そう言えば、私のクイーンの初体験は「フラッシュ・ゴードン」のテーマの「Flash」だったのではないかな(笑)。
キャッチーな「フラッシュ!アーアー!!」っていうフレーズが印象的でした。
クイーンのことは知ってはいても体系的な知識ではなかったのですが、本作の中でメンバーがクイーンは同じようなことを繰り返しおこなっていくようなことはしないというようなことを言っていましたが、その通りかもしれないと感じました。
彼らの曲を改めて聞いてみると、いわゆるヒットメーカーにありがちな同じようなパターンとかがあるわけでもなく、どの曲も他にはないユニークさを持っていますよね。
それでいて、どの曲もどこかしらクイーンらしさというのも感じます。
それが彼らのスピリットなのかもしれません。

やはり本作を語る上ではクイーンのボーカリストであり、本作の主役でもあるフレディ・マーキュリーについて触れないわけにはいきません。
一般的な知識として彼がエイズで亡くなったのは知っていましたが、彼の出身がインド系であることは全く知らなかったです。
彼の人生を描いた本作を観ると、彼がどこにも自分の居場所を感じられなかったということが痛いほどに伝わってきます。
イギリスで青春時代を過ごす中で、インド系であることによる疎外感。
伝統的な価値観の家族の中で、ロックに傾倒していく自分の居心地の悪さ。
そしてバイセクシャルであることを誰にも言えないことの閉塞感。
彼は彼らしく生きていこうとすればするほど、自分の居場所を失っていってしまう。
家族のような存在であったバンドも、そして恋人のルーシーも。
自分がどこを基盤としているかがわからないとても曖昧な不安定感。
まさに流浪の民、ボヘミアンなのですよね。
彼は自分の拠り所を探し、さまよいます。
そして結局、自分の居場所は家族とも言えるバンド、クイーンだったわけです。
その唯一の居場所を見出せたのに、彼の寿命は尽きようとしていた。
けれども最後に自分の大切な場所を見つけることができたとも言えるわけですね。
ずっと自分がどこにいるべきなのかわからなかった根無し草から、ここにいてもいいと言ってもらえる場所を見つけられた。
これはフレディにとっては幸せなことだったのですよね。

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2018年11月17日 (土)

「ヴェノム」 思っていたより「いい人」

世界各国で大ヒット、快進撃中の「ヴェノム」を観に行ってきました。
もともとヴェノムはコミックの「スパイダーマン」に登場するヴィラン(悪役)ですが、今回の作品ではスパイダーマンは登場せず、独立した作品となっています。
サム・ライミの「スパイダーマン3」には登場していましたよね。
またこちらはマーベル・シネマティック・ユニバースとも(今の所は)リンクしていません。
ヴェノムはもともとヴィランなので、今までのマーベルヒーローとは異なる真のダークヒーローという触れ込みでした。
しかし、観たあとの感想としてはちょっと思っていたのとは違うなというものでした。
ヴィランが主役になったダークヒーローということであるならば、もっともっと邪悪でいいんではないかと。
今回の作品に登場するヴェノムは人を食ったりするのですが、性格的にはユーモアのある兄ちゃんって感じなのですよね。
邪悪というのからはほど遠い。
自分には制御できない人を食いたいという欲望と戦うとか、もっとハードな展開を期待していていたのですが、結局のところもっと悪い奴が出てきてそれと戦ういいヒーローという位置付けに落ち着いてしまいました。
結局他のアメコミヒーローと変わらないじゃないかということですね。
同じような印象はDCの「スーサイド・スクワッド」でも受けました。
私が期待していたのは、「デビルマン」とか「ジキルとハイド」とか自分の中の悪と善がせめぎ合う葛藤を描くというイメージであったのですよね。
最近で言えばマーベルの「ローガン」などはそのような葛藤が描かれていて、それがハードな大人向けのアメコミヒーローという新しい方向性を提示できていたのではないかと思います。
自分で制御しきれない破壊衝動と己の両親が自分の中で戦うといったようなことを期待していたのですが、本作では自己の中での衝動と良心がせめぎ合うというようなところはほとんどありません。
私はエディとヴェノムが馴れ合ってしまっているような印象を受けました。
もう少し二人の間での確執などがあれば物語としては、他のマーベルヒーローとは異なる色が出せたのではないかと思います。
聞くところによれば製作のソニーは将来「スパイダーマン」とのクロスオーバーも考えて、R指定にはしなかったらしい。
撮ったけれども使われていないシーンもずいぶんとあるとのことで、もしもっとハードな展開があって、将来的なすけべ心のために作品の切れ味が弱くなったのであればちょっと悲しい。
まあ、会社としてはヒットしたので良い判断であったということなのだろうけれど、個人的にはもっとアメコミヒーローは色々な幅で広がりを持って行った方がいいのでないかと思います。

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2018年11月 1日 (木)

「億男」 やはりお金は難しい

「宝くじが当たったら何をする?」なんて話になったりすることもありますが、なかなか答えに困ります。
世界一周旅行?
出不精なので旅行を計画するのが面倒くさかったりするし、海外行くと色々心配しちゃうので気苦労ばかりが多くて、あまり楽しめないので、ちょっと・・・。
高級車?
最近あまり車を運転することがなくほとんどペーパードライバーだし、運転するのは意外と神経使って疲れるので、ちょっと・・・。
ブランド物を買う?
そもそもブランドをよく知らないし、ブランド物身につけている自分が想像できないので、ないかな・・・。
我ながらつまらない男だな、と思いますが、思いつかないものはしょうがない。
宝くじが当たってしまったことによって、身を滅ぼすという話も聞きますし、なんか当たってしまうことも怖い(当たるわけないですが)。
サラリーマンの生涯収入は2.5億円くらいと言われていますが、本作の一男が当たったのは3億円。
一生働かなくても生きていけそうな気がしますが、そうはいかない。
1億円の億ションみたいな大きな買い物をしてしまったら、もう一生分には足りない。
そこまで大きな買い物をしなくても、宝くじが当たってしまうと気が大きくなって、少しづつ高いものを買ってしまいがちになってしまうらしい。
そうなると結局は生涯収入2.5億円で回せるはずが、3億円でも足りないってことになる可能性も。
そう考えると3億円って額はかなり微妙。
大金持っているのに汗かいて働くっていうのは、なかなか意志が強くないとできにくい。
働かないと生きていけないから、それが原動力になる。
生きていくのに必要な金を稼ぐというのは、強いモチベーションの一つ。
それがなくなってしまうと、働くことに別の意義を求めないと務まらないですよね。
そう考えていくと、3億円なんて当たると困りそうなので、買わないというわけです。
お金というのはなければ困るし、ありすぎてもまた別の困ったことがある、なかなか難しいものですよね。
お金は物質的にはただの紙だったり、金属片だったりするわけですが、物質的にそれが価値があるというわけではありません。
印刷されている紙が、いつでもそこに書いてある額に見合った価値のものと交換できるという、皆の共通認識があるからこそ、そこに価値があるわけです。
この共通認識というのが曲者で、お金の額に見合った価値が上がったり下がったりするわけです。
これが為替ですね。
お金は何が起ころうとも変わらない絶対的な価値基準を持っているわけではありません。
例えば、人間が滅びても物理法則が変わらないというような。
絶対的ではないのにも関わらず、現代のすべての人間の活動はお金を基準に営われている。
これがお金をわけわからないものにし、また人を不安な気持ちにさせることなのだと思います。
人間の活動を評価する唯一の価値基準であるのにも関わらず、絶対的ではないので人を不安にさせる。
持っていても不安になる。
だからもっともっとと思ってしまう。
この作品に登場する人物は、それぞれがそれぞれのお金観を持っています。
百瀬はお金を儚いものとして見ているし、千住はお金を万能のものと見ている。
十和子はお金を安心材料として見ている。
どれも正しいように思えるところが、お金が正体不明であるということを表しているのかもしれません。
自分自身もお金のことをどう考えていいのやらわかりませんが、それだけに振り回されてしまうのは嫌だなと思います。
一男の妻が、借金のせいでお金のことしか考えないようになってしまったと言います。
一男の場合は借金ですが、千住などはお金持ちですがお金のことしか考えてません。
これが幸せなのか不幸なのか。
そうかといって生きていく分だけあればいいというように考えるほど、達観しているわけでもないのでもないのですよね、自分は。
なくても困る、あっても困る、やはりお金は難しい。

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2018年10月31日 (水)

「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」 そもそもメジャー狙いが間違い

公開後の評判がものすごく悪い本作、私はたまたまですが初日に観に行っていました。
三木聡監督の作風はちょっと独特なところあります。
不条理な設定や展開だったり、ちょっと世間からズレているキャラクターだったり。
本作でいうと主人公が住んでいる怪しげな人が集まっているエリアとかなどは現実的ではないですよね。
けれど、それが現実の吉祥寺の近くにあるような風に描いている。
何か日常とそこからちょっと斜めにズレているところが同居していう不可解な感じが三木ワールドだと思います。
この独特の不可解さというのは、なかなか一般ウケはしにくいでしょう。
深夜枠で放送するにはいいけど、ゴールデンタイム枠では無理という感じと言いましょうか。
この作品の評判がすごぶる悪いのは、こういう一般ウケしにくい三木ワールドなのにも関わらず、メジャーな売り方をしてしまったということでしょうか。
元々はこういう三木ワールドのテイストにはぴったりな阿部サダヲさんですが、今ではすっかりメジャーな俳優の一人です。
また吉岡里帆さんは今を時めく女優さん。
この二人が主演ですから、メジャーな売り方をしたくなるのはわかります。
けれどそういうメジャーな売り方をしてしまうと、三木ワールドの味わいがわからない人も見てしまうわけです。
普通の邦画を見慣れている人にとっては、なかなかこの作品はうまく味わいにくい。
最近の邦画は予定調和というか、見る側にあまり負担をかけない素直な作り方をしているものが多いですよね。
そのような作品は映画を見慣れていない人が劇場に足を運んでくれるようにするにはいいとは思うのですけれど。
けど、この作品というか、三木監督自体はそういうタイプの監督ではないと思います。
なんというか、歌舞伎町の裏の方でとてもおいしくて知る人ぞ知るの店が、間違って新宿の駅ビルに店を出してしまい「コレジャナイ」と一見のお客に言われてしまった感じというか。

作品の話ではなく、売り方の話をしてしまいましたが、個人的には三木監督の作風はキライじゃないので全くダメということではありません。
とはいえ今までの三木作品に比べると逆に切れ味が少ない感じがしました。
もっと世間とのズレた感があったほうが好きです。
作品もちょっとメジャーな方にずらしたのだけど、中途半端だったというところでしょうか。
三木監督にはTOHOシネマズでかかる映画ではなく、テアトルとかでかかるような作品を目指して欲しいです。

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2018年10月20日 (土)

「食べる女」 女ってたくましい

女性は誰もが「おいしいもの」に目がない。
何人か女性が集まって話していると中身の多くは食べ物の話だったりする。
すなわち「どこの店が美味しかった」とか、「今度どこそこに食べに行こう」とか。
あとは恋バナ。
自分を含め男性だけで集まった時に、食べ物の話でずっと話題が続くなんてことはほぼない。
恋バナもしかり。
根本的に女性と男性は興味関心ごとが違うのではないかと思ってしまう。

当たり前だが「食べる」ことはすなわち「生きる」こと。
食べなければ生き続けることはできない。
恋というのは、セックスにつながり、それは子を産むということにつながる。
これも生命の根本。
いずれもそれを行うことにより心と身体を満たすもので、人間の根源的な欲望だ。
非常に女の人の興味関心というのは、生命というものの本質につながっているような気がする。
それに比べると、男性の興味関心は生きるという根本よりももっと社会的な地位とか名誉とかそういった上っ面なことのようなことが多いように思える。

本作は食べること、そして男と良い関係(セックスを含め)を作るという女性の根本的な欲望について、何人かの女性の生き方を通じて描いている。
彼女たちの生き方は欲望に素直であり、それだから堂々としている。
色々と悩み欲望に素直じゃない女性もいたが、結局それを受け入れることで素敵に輝くように見えた。
そのような女性たちに比べ本作に登場する男たちは何故かいわゆる男性らしいたくましさは感じない。

主人公敦子の家の庭にある枯れ井戸は「女」そのものを象徴しているのだと思う。
枯れているように見えても、底の下には脈々と水が流れている。
年を取っても、男なんてもうウンザリと思っても、幸せすぎる環境でも、心底おいしいと思える恋を、男を求める心はやはり脈々と女の身体の奥底にはあるのだ。
それは女の性でもあり生でもある。
根源的なことだからこそ、強い。
たくましい。
そもそも小学生の女の子たちから物語はスタートし、彼女たちが脈々と流れる地下水の話をする。
そもそも女という存在が、そういった生きることに基づく性を生まれながらに持っていることの象徴でもあるのかとも感じた。
どんな状況でも、女性たちは生に基づく欲望に忠実な限り、たくましく生きているのだと思った。
これは男性にはないたくましさなのだと思う。

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2018年10月14日 (日)

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」 コギャル文化の特殊性

公開開始後ずいぶん経ってから劇場に行きました。
お客さんは7〜8割くらいは女性だったと思います。
1990年代「コギャル」と呼ばれた女子高生たちがイキイキと文化を牽引していた時代。
そんな時代に「SUNNY」という仲良しグループを結成していた女子高生たち。
それから20数年経ち、彼女たちは一人の仲間をきっかけにして再開します。
隣に座っていた女性は、かなり前半から泣いていました。
確かに、主人公ががんを宣告された友人に出会い、それから他の仲間たちを探していく中で、心に響くエピソードはあります。
けれど泣くほどではなかったと感じたのですが、よくよく考えてみると「あの時代」を自分ゴトとして受け止められるか否かがこの作品の評価につながるのではないかと思いました。
隣の女性は(しっかり顔を見たわけではないですが)30〜40くらいの方だったように思います。
ちょうど主人公くらいの年齢だったのかもしれません。
彼女はちょうど「あの時代」を生きていた人だったのかも。
私は90年代は社会人になったばかりの頃で、「コギャル」と呼ばれた女子高生たちのスタイルは、自分からしてすでに異世界な文化に見えました。
彼女たちの象徴的なアイテムとしてルーズソックスがありますが、なんであれがカワイイのかがわからなかったですからね。
足首の太さを隠すためじゃないかと邪推したものです。
本作に登場する女子高生たちを見ていても「確かにこんな感じの娘たちはいたな」とは思いますが、自分が懐かしむような感覚は持てませんでした。
映画で過去のある時代を描く話というのはいくつもありますが、それによって共感性がないというわけはありません。
例えば自分自身は80年代がティーンだったわけですが、60年代を描いているからといって感動しないわけじゃない。
何かしら時代とは関係がない共通の感覚があって、それが共感性を引き出すのだと思います。
しかし、本作でいうと「コギャル」という存在が文化的にかなり特殊であるというように描かれていて、他の時代を生きた人からすると、その特異性により共感が阻害されているのではないかと感じました。
もちろん普遍的な人の気持ちが描かれていないわけではありません。
ジンとくる場面もいくつかありましたが、でもコギャルの圧倒的な存在感にちょっとひいてしまう感じがしました。
唯一登場キャラクターで共感しやすかったのは奈々でした。
彼女はコギャル文化の中に生きながらも何か冷めたところも持っている子であったので、逆に自分からするとわかりやすく、なじみやすいところがありました。
演じる池田エライザは演技をするのはほとんど初めて見ましたが、いいですね。
モデルをやっている女子高生という役柄ですので、それにあった存在感がありましたし、少し影のある役も似合っていたと思います。
「コギャル」文化の特殊性が際立っているため、個人的には共感が薄かったと書きましたが、この時代をリアルタイムで高校生として過ごしていた方が見たら、違って捉えるのでしょうね。
自分の奥さんはこの時代を生きた人なので、見せて感想を聞いてみたいと思いました。

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2018年10月 1日 (月)

「散り椿」 日本人の美意識

この作品の前に観たのが「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」。
それぞれの作品が持つ価値観が、あまりに違うのでギャップに戸惑います(笑)。
本作はまさに日本人が(かつて持っていた)生き方の美意識を描こうとしていると言えるでしょう。
大義のために自分の命を犠牲にしようとする。
愛する人の想いを叶えるために自分の人生を賭ける。
友を救うために自分の命を捨てる。
誰かのために自分の想いを伏せる。
本作に登場する人物は皆、人のために自分の大切なものを犠牲にします。
それは自己犠牲的であり、極めてストイックな生き様です。
自由であることを重要視する現代に生きる人から見れば、それはとても不条理に見えるかもしれません。
人に縛られ、家に縛られ、藩に縛られる。
全く自由とはかけ離れているようにも思えます。
しかし、果たしてそうでしょうか。
彼らは皆、その生き方を自分で選んでいます。
人のため、大義のために自分の人生を賭ける。
それを選んでいる。
それはある意味、自由であるようにも思えます。
不自由な生き様に見えながらもその生き方に美しさを感じてしまうのは日本人だからでしょうか。
本作で描かれる映像は一言で言えば「静」でしょう。
人々の佇まいも静かです。
彼らが暮らす家にも街にも自然にも、余計なものはありません。
時代劇ですので殺陣も当然ありますが、極めて抑制的です。
チャンバラではありません。
主人公新兵衛が振るう剣は、一瞬。
瞬間的剣を抜き、相手を斬る。
まるで無駄がありません。
人々の想いもあからさまではありません。
言葉少なに自分の心よりも相手の想いを尊重する生き方。
これも抑制的であると言えるでしょう。
しかし重ねて書きますが、抑圧的ではないのですよね。
本作で描かれているのは余計なものを全て排除した時に残っている人の純な想いと言えるでしょう。
無駄なものが削ぎ落としているからこそ、それが純粋で美しく見える。
それが日本人の美意識なのかもしれません。

冒頭に書いた「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」と比べると全く逆で面白くもあります。
「マンマ・ミーア!」で描かれるのは自分がやりたいように人生を謳歌する自由さが描かれ、劇中ではアップテンポな音楽が流れ、ポップな色彩に溢れています。
対して「散り椿」では、人のために自分の人生を賭けるストイックさが描かれ、劇中の音楽は静かで、色彩のトーンも無彩色のように抑えられています。
どちらの生き方が良いかどうかではなく、作品それぞれの価値観が映画を表現する全てのものに反映されていることが興味深かったです。
このような視点も非常に面白い見方ではないかと思いました。

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「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」 奔放な娘

大ヒットしたミュージカル映画「マンマ・ミーア!」の続編です。
前作が公開されたのがちょうど10年前。
もうそんなに経ってしまったんですね。
始まってちょっとびっくりしたのは前作でメリル・ストリープが演じていたドナが亡くなっているという設定でした。
あれ、予告に出てこなかったっけ?

前作を観たのが10年前だったので、あまり内容を覚えていなかったのですが、女子話で盛り上がっている印象で、そのためかちょっと置いてかれていってしまったような気分だったように思います。
洋楽は全く詳しくないので、ABBAと言われても聞いたことあるなーという感じでしたし。
ですのでミュージカル映画は好きな方なのですが、それほど乗れなかったように記憶しています。
その印象は本作でも同様でした。
本作はドナの遺志を継ぎ娘のソフィアがホテルを改装オープンしようとする現代パートと、ドナが初めて島を訪れてソフィアの3人の「父親」に出会うかこの話を平行に描いています。
前作のドナと友人たちはかなりかしましい感じがありましたが、過去パートで描かれるドナと友人たちも若さもあってか、さらにかしましい。
時代の影響もあるのかもしれないですが、若かりしドナは非常に奔放で自由。
新しいものを見てみたい、自分にふさわしい場所を見つけたいという気持ちで世界をめぐり、ギリシャのある島にたどり着きます。
そこで将来ソフィのパパとなる3人と出会うわけです。
3人がパパ候補ということは、それなりのことはなされているわけで。
ほんと奔放です。
けれどドナは流されるわけではなく、すべて自分の意思と感情に基づいて行動をしています。
誰かのためではなく、自分のため。
それはそれで有意義な人生ですよね。
自分自身が共感できるか、というとそうではないのですけれど。
ですのでキャラクターに共感できて面白かったという印象は持ちませんでした。
これは前作と同様です。
男性と女性では本作の受け止め方は違うのかな。
監督はロブ・パーカーで、私は全く知らない方でした。
ミュージカルは初めてなのかな、ミュージカルパートの演出はいまいちだったような気がします。
ちょっと古臭かったかな。

あと久しぶりにアンディ・ガルシアを観たら、すごいカッコいいおじいさんになっていましたね。
こういう風にカッコよく老けられるといいです。
若い時よりもカッコ良い感じがしました。

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«「MEG ザ・モンスター」 意外にも王道アクションスリラー