2019年5月20日 (月)

「バイス」 日米の政治観の違い

ジョージ・W・ブッシュ大統領の時の副大統領であったディック・チェイニーを主人公とした作品。
チェイニーの名前は当時の報道などで聞いていて、副大統領であったこと、あとはネオコン(新保守主義)に属する政治家であることは知っていました。
イラク戦争などを開始したことでアメリカが大きく変わり、それによって世界が変わっていこうとしていた時で、ネオコンという考え方にやや危険なものに感じていたので、覚えていたのだと思います(現在の方がさらに危険な匂いを感じますが)。
とはいえ、具体的にチェイニーが何をしたかということはよくは知ってはいませんでした。
予告を見た時は、大統領ではなく副大統領に目を付けるとは渋いところをついてくるなといった印象でした。
どちらかといえばクリスチャン・ベールがまるで見た目が違うチェイニーになりきって演じている様子に興味を持ちました。
彼はいつも役に合わせて、変幻自在に見た目から何から変えてきますが、その技を見たかったというのが鑑賞理由の第一でした。
確かにクリスチャン・ベールのなりきりっぷりは抜群でした。
「ウィンストン・チャーチル」でチャーチルになりきったゲイリー・オールドマンも素晴らしかったですが、クリスチャンもさすがです。
これも特殊メイクということですが、普段の彼の容貌がわからないくらいの変貌ぶりでした。
彼が演じるチェイニーと、本物のチェイニーの写真を比べれば確かに違うのですが、劇中の彼を見ていると印象はまさに本物のよう。
喋り方なども似せてきているのですよね。
容貌を寄せるだけではなく、その人物の特徴を巧みに捉える技はさすがです。
日本ではなかなか「バイス」のような実際の政治をテーマにした作品は見当たらないですよね。
色々と気を使うことがあるのでしょうが、こういうある政治的なスタンスが明らかな作品も作られるというのがアメリカらしいところだと思います。
どちらかといえば、アメリカで映画を作るような人々の多くはリベラルなので、ネオコンとは逆の立ち位置にいる方が多いかと思うので、この作品のようなスタンスの作品が作られるのだと思いますが。
本作はコメディのような笑いであったり、アイロニーを含んだ描かれ方をしています。
個人的にはアイロニーが効きすぎている気もしましたが、この目線も日本にはあまりない視点です。
日本では政治を笑い飛ばすと不謹慎であるという雰囲気がありますよね。
それは歴史的に政治は社会上高位にある人々が行ってきたという背景があり、庶民は口出ししてはいけないというイメージがあるのかもしれません。
日本では政治が身近ではないとよく言われますが、政治家だけの問題ではなく、一般人も何か遠いものと見るスタンスがあるのではないでしょうか。
アメリカは建国時から民主的な選挙で社会の代表を選び、政治を行ってもらうという体制をとった世界初の国です。
ですので、政治はそもそもが民衆のものという考えがあるのでしょう。
民衆の代表が政治を行っているわけですから、その中には時折おかしなことを言う者も出てくるというのが社会的には折り込み済みなのかもしれません。
ですから、そのようなものが出てくるとからかったり笑い飛ばしたりする。
それは彼らもそもそもが民衆の一人であるからという基本的なスタンスからきているような気がします。
政治とは関わるのは面倒くさい存在というより、大いに関わりあうべき存在なのでしょう。
日米の政治観の違いというのを感じた一作でした。

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2019年5月 4日 (土)

「アベンジャーズ/エンドゲーム」 文句なしの大傑作!

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の第22作目であり、ひとまずのフィナーレとなる本作、観る前に事前情報をなるべくシャットアウトして劇場に足を運びました。
まさに期待以上の大傑作と言えるでしょう。
全てのMCU作品を観てきた私としましては大満足の結果でした。
そもそも「アイアンマン」からスタートした一つの世界観を共有するヒーロームービーの連作であるMCUという壮大な実験は少なからずエンターテイメント映画に多くの影響を与えたと言えるでしょう。
 
<ここからは大いにネタバレするので未見の方はご注意です>
 
前作「インフィニティ・ウォー」の衝撃的な結末を観た時、この話をどのように収束させるのか想像もつきませんでした。
いや、収束させるだけならまだ簡単かもしれません。
難しいのは今まで10年以上続けてきたこのシリーズのキャラクターたちのそれぞれのファンたちが納得できる、全てのキャラクターの結末を用意することが至難の技であったのだと思います。
結論からするとその困難な試みを本作のスタッフ及び出演者は成功することができたと感じました。
まず前作のラストでほとんど半分のヒーローが姿を消してしまうという衝撃的な結末に対し、どのようにその事態を解決するかということです。
まず私が感心したのは、この手のアメコミ映画でよく使われるタイムトラベル、もしくはマルチユニバース的な解決方法を安易に用いなかったことです。
マルチユニバースについてはそれをやってしまうと単独の世界観を共有するというMCUの試み自体を自己否定してしまうことになるので、この方法は取れなかったのだと考えます。
本作で用いているのはもう一つのタイムトラベル的な解決方法ですが、安易な過去改変による現在の問題を無かったことにするという考え方ではありませんでした。
劇中でも簡単にバナーやエンシェント・ワンが説明していましたが、過去を改変してしまうとそこで新たな時間軸が発生してしまうということになります。
その新たな世界では問題はなかったことになっていますが、もともといた時間軸ではその問題は何も解決をしていません。
いわばタイムトラベルと言っても別世界に行っているようなものなのですね。
本作ではそのような考えはとらず、あくまでサノスの指パッチンはあったという事実はなくならず、そこで存在しなくなってしまった者たちをいかに取り戻すことができるかということをトライしています。
タイムトラベルという世界間移動をしてしまうと、先ほどのマルチユニバース的な解決方法をとった場合と同じジレンマを抱えることになります。
このような考えにいたったスタッフたちは、私たちが考えている以上にこのMCUの世界を大事に思っていると感じました。
彼らにとってはMCUが描く世界こそが唯一の大切な世界だということです。
 
本作をもって多くの初期にMCUのヒーローたちが引退することとなります。
特にアイアンマン、キャプテン・アメリカはこの10年MCUを引っ張ってきた2大キャラクターですから、彼らのファンが納得できる幕引きをしなくてはいけません。
これも相当難易度が高いことであったと思いますが、これも成功したと思います。
まずアイアンマンことトニー・スターク。
彼は初登場作では鼻持ちならない大富豪でありましたが、ヒーローとして自覚を持ち人々のために戦うということを決心します。
基本的にプライドが高く自己中心的なところもありますが、人々を守りたいという強い意志を持ち今まで戦ってきました。
しかし前作でサノスの強大な力の前に屈し、彼は絶望を覚えます。
しかし彼は無事に生還し、また愛するポッツとも再会でき、そして彼女との間に娘を授かることもできました。
彼自身だけのことを考えれば、幸せと言えるかもしれません。
彼が戦えないと言っても誰もそれに文句は言えないでしょう。
けれども彼は多くの人々を助けることができ、自分の家族も守る可能性があるのであれば戦うと、立ち上がります。
彼には自分だけが幸せになってしまっていいのかという思いもあったはずです。
息子のように、弟子のように世話をしていたピーター・パーカーは彼の腕の中で消えてしまいました。
その時に感じた無力感、絶望感は、現在の幸せだけでは埋めがたかったのかもしれません。
失われた人々を助け、そしてサノスから世界を守るための戦いの中、彼は究極の選択を決断します。
人々を守るために自分の命を捧げることを。
彼はあそこで指パッチンをすれば自分が死ぬことはわかっていた。
そうなれば自分の家族と暮らすささやかな幸せを失うことも。
それでも彼は指を鳴らした。
元々は自分の為にだけ生きていた男が人のために自分の命を捧げた瞬間でした。
そしてキャプテン・アメリカ。
彼はそもそも自分ではなく人々を守りたい救いたいという思いのためだけに戦ってきました。
そもそも登場作品で彼はヒドラの野望から世界を守るために自分の命を捧げようとしたわけですから。
そういう意味ではトニー・スタークとは対照的です。
この対照性がその後の「シビル・ウォー」におけるスタンスの違いにつながるわけです。
本作においても希望をなくしてしまった世界で彼は少しでも人を救いたいと活動をしています。
そして多くの人を取り戻せる可能性が出てきた時、彼は迷わずそれを叶えようとします。
まさに人々のために戦ってきたキャプテン・アメリカです。
そしてサノスを食い止め、世界を救った時、あるべき場所にインフィティ・ストーンを戻すために再び過去に戻りますが、彼は結局戻ることはありませんでした。
そのまま過去に留まったのです。
彼は過去で生き別れとなってしまったマーガレットと再会し、彼女と幸せに暮らしていたのでした。
「自分の人生を生きてみたいと思った」と彼は言いました。
それまで人のために生きていた彼が、最後にこう言ったことに心が震えました。
アイアンマンとキャプテン・アメリカ。
対照的であった二人がそれぞれ彼らなりの生き様を見せてくれたラストに感激をしました。
ブラック・ウィドウやソーについても色々語りたいところもあるのですが、長くなるのでこれまでとしたいと思います。
「インフィニティ・ウォー」の指パッチンで消えたメンバーは最近のヒーローが多かったとは思いましたが、それは本作において勇退する初期のヒーローたちを描くことにフォーカスしたかったということと私は理解しました。
それは正解であったと思います。
これだけのドラマを彼らに用意できたのですから。
ラストバトルで消え去ってしまったヒーローたちも再び集結しサノスたちと戦うシーンも鳥肌ものでした。
これでこういう勇姿が見れなくなると思うと悲しくもあるのですが、仕方がないですよね。
こんなに素晴らしい物語を見せてくれたスタッフ、出演者に感謝したいです。
MCUはまだまだ続き、新たなサーガが始まります。
それはどのような物語かはまだわかりませんが、このスタッフたちが作るのであるならば何も心配することはないでしょう。
次の「スパイダーマン」の新作を心待ちにしたいと思います。

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2019年4月20日 (土)

「シャザム!」 DCも快進撃中!

一時はマーベルに遅れをとっていた感もあったDCですが、「ワンダーウーマン」「アクアマン」と当ててきて、勢いがついてきている気がします。
マーベル・シネマティック・ユニバースに対抗し、現在DCはDCエクステンデッド・ユニバースを展開していますが、最近はややユニバースとしての縛りを緩めてきていると思います。
初期のDCエクステンデッド・ユニバースは非常にザック・スナイダーの個性が強く出ていたがために、それぞれのヒーローの個性がやや抑えられていたようにも感じます。
これはMCUが一つの大河ドラマとして機能しつつも、それぞれの作品についてはチャレンジングな監督起用をすることにより、単独作品としての個性も大切にするということと対照的です。
最近ヒットしているDC作品については以前よりも、それぞれのヒーローの世界観を重視しているように思え、それが観客にも受け入れられうまくいっているように感じられます。
そのような流れの中での本作「シャザム!」です。
初期のDCエクステンデッド・ユニバースのザック・スナイダー的なダークなトーンとは全く相いれない作品の登場です。
個性的という点ではマーベル映画の中の「デットプール」的な位置付けじゃないですかね(あっちほど下品ではないですが)。
本作はスーパーヒーローものと言いつつも、基本的にはコメディであり、スーパーヒーローのパロディとも言えます。
ですので、スーパーヒーロー作品への造詣が深いほど楽しめる作品になっています(しかし、知らなくても全く問題がない)。
本作のヒーロー、シャザムの姿はまさに古典的なヒーローそのもの。
ムキムキ筋肉にぴっちりタイツ、そしてマント。
ぶっちゃけこれはスーパーマンのパロディです。
しかしこの作品がイケてるのは、いかにもヒーローなその姿に宿っている精神が14歳の少年であるということです。
シャザムはスーパーパワーを持っていますが、中身は14歳の少年なので、いたずらなどにも使っちゃう。
見かけと精神のアンバランスさが本作のコメディのエッセンスです。
肉体と精神が入れ替わったりでアンバランスな行動が笑いとなるというのは様々にありますが、それをヒーロー映画でやったのが新しいところですね。
コメディ映画とはなりますが、ヒーロー映画としてもしっかりとしています。
シャザムの力を受け継いだ少年ビリーはその力の意味を全く分かっていませんでした。
しかしスパイダーマンの「大いなる力には大いなる責任が伴う」ではないですが、その力がことによれば人を傷つけ、そしてまた人を救うことができるということに気づきます。
また彼の力を奪おうとするヴィランが登場し、彼自身が何のためにその力を使いたいのかということを考えるきっかけを与えます。
彼はその力を身近な大切な人を守りたいという決心をするわけですが、そこはヒーロー映画らしい胸が熱くなる展開となっています。
最後のヴィランとの対決についても、あっと驚くような展開となります(ネタバレになるので書きません)。
主人公ビリーの境遇やシャザムの力の謎などの設定が一気に回収されるので、この辺も小気味いいですね。
マーベルに負けず劣らず、DCも快進撃を続けています。
次にも期待ですね。

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「ハンターキラー 潜航せよ」 潜水艦モノは面白い、しかし名作と呼ばれるには何か足りない

潜水艦映画好きなので、見逃すわけにはいきません。
「眼下の敵」「Uボート」「レッド・オクトーバーを追え!」「クリムゾン・タイト」・・・、潜水艦モノには好きな映画が多いです。
目を使うことはできず耳だけが頼りであり、狭い空間にいながら、常に周囲を高圧の海水に囲まれている。
海中に潜ってしまえば例え味方でも連絡は取りにくく、緊急事態においても判断は己で行わなければならない。
潜水艦という環境そのものが、精神的にハイプレッシャーを受ける状況なわけで、そこで展開されるドラマが面白くないわけがありません。
これが潜水艦映画にはハズレなしと言われる所以なのでしょう。
さて本作「ハンターキラー」はどうでしたでしょうか。
うん、悪くはない。
面白くないわけではありません。
ただそれがこの映画だからこそ面白いのかと言われると、上で書いた潜水艦映画で描かれる状況として基本的に持っている緊張感ゆえに面白いと言えなくもありません。
例えば「クリムゾン・タイト」であれば、潜水艦という狭い環境の中での強い信念を持った男同士の争いを合わせて描いていることが作品の個性であるし、「レッド・オクトーバーを追え!」であればスパイ映画風味を加えたところが作品のオリジナルさであると言えます。
それでは本作「ハンターキラー」はどうであったかというと、他の名作と言われる潜水艦作品と比べると際立った個性はあまり感じられません。
どちらかと言えば、今までの潜水艦モノで見たような既視感を感じるようなところもあります。
とは言え、決してつまらないわけでもありません。
潜水艦モノらしい緊張感はある作品になっているとは思います。
国とかは関係なく海にいる者同士が感じるリスペクトなどはやはり胸アツですしね。
ほんともう少しひねりが効いていれば、潜水艦映画の名作入りだったかもしれないのですけれどね。
潜水艦モノは普通にやっていても及第点は取れるいい題材なので、やはり名作と呼ばれるためにはもう少し際立った個性が必要であると思います。

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「ダンボ」 ティム・バートンらしくもあり、らしくもない

ティム・バートンがあの「ダンボ」を実写映画化ということで期待して見に行ってきました。
彼が今まで撮ってきた映画の中に常に持っているテーマと「ダンボ」は親和性が高いと思ったのですよね。
ご存知の通りダンボは耳が非常に大きな子象で、その外見によってバカにされます。
しかしその大きな耳を翼のように使うことによって空を飛べることができるようになり、それによってダンボはサーカス団のスターになるのです。
ティム・バートンがその作品の中で描いてきたのは、異端者です。
彼らは外見や性格や趣味が他の人々とは異なるということだけで、のけもの扱いをされ、恐れられます。
ティム・バートンは彼らのその異質な点こそを良さと認めます。
人と違うことを気にするのではなく、そここそを自分らしさと認め、自分自身を受け入れるようにするということです。
これは彼自身の体験も反映されているのでしょう。
彼の物語は、異なった個性を受け入れられて幸せになるパターンと、結局は誰にも受け入れられず不幸せになるパターンとがありますが、何れにせよティム・バートン自身は異端者に寄り添っています。
そういうティム・バートンですので、ダンボにも非常に共感をしていたのではないかと思われます。
その点において本作実写版の「ダンボ」はティム・バートンらしい異端者への寄り添いが感じられる作品となっていました。
ダンボ自身が異端であることを恐れていたところで、周りの彼を助けてくれる人々の力をもらって彼は勇気を持って飛びます。
それによりダンボは自分自身を認めることができました。
とてもティム・バートンのスタンスが感じられ、かつディズニーらしい仕上がりになっていたと思います。
ただ残念なのはティム・バートンらしいスタンスが現れている作品であるとは思いますが、彼らしいトーンであったかというとやや疑問です。
ティム・バートンといえば、やはりややダークで非現実的な異質感を持っているトーンなのですが、その辺りはやや抑え気味であったかなと。
サーカス団のショウの中の描写でいくつからしさを感じるところもありましたが、全体としては非常にお行儀がよかったかなと感じました。
この作品は子供層も意識しているところでしょうから、ディズニーらしい健全なところを求められたのかもしれません。
ティム・バートンの世界観が好きな自分としては少々物足りなくもありました。

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2019年4月 6日 (土)

「バンブルビー」 シンプル イズ ベスト

「トランスフォーマー」の第1作を初めて見たときは度肝を抜かれました。
車からロボットへまるで手品を見ているかのように見事に変形する様に目を見張ったのです。
しかし人間とは怖いもので、一度は驚いた描写にもいつしか慣れてしまいます。
その思いを知ってかしらずか「トランスフォーマー」シリーズはいつしかビジュアルもストーリーも過剰に、過剰にという方向に向かっていったと思います。
個人的にはすでに2作目あたりでビジュアル的にはお腹いっぱいな気分になりました。
ストーリーも後付けで色々と設定が出てくるので「ロストエイジ」くらいからあんまり考えるのを止めました。
もうここまで見てきたから、仕方がなく付き合っている感じもします。
そういう満腹感を多くの人が感じていたからでしょうか、本作「バンブルビー」はビジュアル的にもストーリー的にもシンプルになっています。
「バンブルビー」が描くのは「トランスフォーマー」の第1作目よりも前の話でいわゆるプリクエルになります。
本作はサイバトロン星の記憶を無くしたバンブルビーと少女の交流をメインに描きます。
異世界の生き物を少年・少女の交感というのは、「E.T.」など多くの名作を生み出している黄金パターンと言えます。
本作は王道で典型的なストーリーとなりますが、複雑化している「トランスフォーマー」シリーズを意識すると、とてもシンプルでそれゆえ安心して見ていられます。
幼児退行してしまったかのようなバンブルビーは機械でありながら愛らしく、主人公チャーリーでなくとも守ってあげたい気分になりますよね。
この辺りに「E.T.」との類似性を強く感じるところです。
そう言えば、本作の製作総指揮はスピルバーグでしたね。
アクション部分については最近の「トランスフォーマー」シリーズのように画面あたりの情報量を抑えているように感じます。
そのためアクションの中心をしっかりと見ることができるので、見ていて疲れないです。
最近の「トランスフォーマー」は見終わるとほんと疲れますから(3D見ようものならなおさら)。
ビジュアル的にもストーリー的にもシンプルを意識した本作。
個人的には最近の「トランスフォーマー」シリーズの中では最も良いと思いました。
さて「バンブルビー」を経て「トランスフォーマー」シリーズはどこへ向かうのでしょうか。
本編の方は話を広げすぎて収集つかなくなっているようにも感じますが、果たして?

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「運び屋」 良い人生?悪い人生?

自分勝手に生きてきた。
家庭よりも仕事優先。
家族のお祝いごとよりも、外での付き合いを重視する。
本作の主人公アールはこのように生きてきました。
そんな父親はかつての日本にも多くいました。
自分の父親の世代などはまさにこういう人ばかりだったと思います。
最近はイクメンと言われる人も増えて、家庭にも関与する父親も多く、隔世の感があります。
アールは自分の達成感がすべてで、家庭を顧みることはありませんでした。
そのため妻にも娘にも三行半を突きつけられてしまい、さらには時代の流れに取り残されて一番大事にしていた仕事も失ってしまいます。
ふとしたきっかけでかかわってしまった仕事も、それが麻薬輸送だとわかってからも続けます。
果たしてこのような人生は彼にとって良かったのでしょうか。
それとも悪かったのでしょうか。
答えは・・・「わからない」でしょう。
そもそも良い人生、悪い人生というのは何なのでしょうか。
アールはその人生のほとんどを自分がやりたいようにしてきました。
そしてそれなりの名声も得てきていたようです。
その点においては満ち足りた人生と言えるでしょう。
しかし家庭をないがしろにしてしまったため、晩年は家族とは疎遠になり人地ぼっちで過ごすことになります。
この視点では悪い人生と見えます。
彼はその後、麻薬の輸送に関わるようになりますが、彼なりのやり方で仕事を評価されていくようになります。
彼もそれなりに達成感を感じるようになります。
仕事の内容は別にして、歳をとっても仕事にやりがいを感じているという点はいい人生です。
しかし、結果的には彼の行為は露見して逮捕されることとなってしまいます。
人生最後に逮捕されるという点は最悪と言えるでしょう。
とはいえ、逮捕される前に愛していた妻の臨終には立ち会うことができました。
それは彼の人生は幸せだったといえるでしょうか。
言えないでしょうか。
やっぱりわからないです。
まだ自分は彼ほどの歳になっていないので実感はないのですが、人生を長く生きれば生きるほど、後悔したことはたまっていくに違いありません。
アールがすごいと思うのは、歳をとっていても前向きな点があるということです。
もちろん彼の人生も後悔ばかりです。
それでもまだ前を向けているというところが、ただの老人と違うという気はしました。
しかし彼の人生が幸せであったのかどうかはわかりません。
その答えがわかるのは、まさに彼が死ぬ時にどう自分の人生を振り返るかということなのでしょう。

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2019年3月24日 (日)

「キャプテン・マーベル」 Fearless Girl

「Fearless Girl(恐れを知らない少女)」という少女像をご存知でしょうか。
これはニューヨークのウォール・ストリートにある有名な雄牛の像(チャージング・ブル)の前に2017年に設置された少女の像です(現在は移設)。
巨大な雄牛を恐れずに、腰に手をあて敢然と立ち向かうかのようなこの像は、国際女性デーの前日に設置されました。
実はこれは女性の取締役を増やそうというキャンペーンを行なっている証券会社の依頼により設置されたものなのですが、最も男性的な社会と言われるウォール・ストリートにある、これまた男性の象徴である雄牛に立ち向かう、小さな少女の姿は、ダイバーシティを求める人々の間で大いに話題になりました。
本作「キャプテン・マーベル」はマーベル・シネマティック・ユニバースにおいて初めての女性単独ヒーローが主人公となる作品です。
予告でも出ていましたが、本編の中で最も印象的なシーンはキャプテン・マーベルことキャロル・ダンヴァースが記憶を取り戻し、過去の自分が様々な困難にも負けず立ち上がるシーンでした。
子供の頃から男勝りで何にでも挑戦し、その度に「女には無理だ」と言われ、壁にぶつかりながらも、彼女は何度でも立ち上がりました。
その立ち上がるカットがいくつもオーバーラップするのですが、ここのシーンで私は前述の「Fealess Girl」のことを思い浮かべたのです。
本作の舞台となるのが90年代というのも意味があると思います。
MCU的にはアベンジャーズ以前ということでこの時代に設定されたとも言えるでしょうが、女性の社会進出という視点でも意味があるでしょう。
90年代はアメリカも日本も女性の社会進出という話は出ていましたが、実際には目に見えない壁、いわゆる「ガラスの天井」がありました。
建前的には男女同権ですが、現実では女性はまだまだ差別がされていた時代でした。
そのような環境でも負けずにキャロルは何度でも立ち上がってきました。
MCUにおいて最強と言われるキャプテン・マーベルは異星人によりパワーを授かったわけですが、それゆえに最強なわけではなく、もともと持っている不屈のパーソナリティが彼女を最強にしているのだと感じました。
現時点でMCUの世界はサノスの指パッチンのために最悪の状況となっています。
「インフィニティ・ウォー」のラストで自らが消えゆく中、フューリーはキャプテン・マーベルのポケベルを鳴らします。
最悪の状況を救えるのは彼女しかいないと彼は考えたのでしょう。
それはどのヒーローにも負けないパワーを持っているからではありません。
彼女がどんなに厳しい状況でも諦めない、負けない気持ちを持っているということをフューリーは知っていたからです。
最悪の状況をひっくり返せるのは不屈の心だけ。
そう、もはや男だから、女だからという状況ではないのです。
恐れを知らない彼女にフューリーは世界を託したのです。

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「スパイダーマン:スパイダーバース」奇手でありながら王道

まずこの作品を評価するにあたり最も重要な点はその映像表現でしょう。
まるでアメコミのテイストがそのままアニメーションとなって動き出したかのようです。
それだけでなく、カメラワークなどは実写よりもさらに大胆でアニメーションでなくてはできない動きをしていました。
マイルズがピーター・B・パーカーを抱えながらスイング(というか引きづられている)シークエンスなどは実写じゃできないと思います。
技術的にできないというよりはアニメ的な誇張表現なためです。
それによりとてもポップで、ハイテンポ、かつユーモアのある作品に仕上がっています。
あまりこのようなテイストのアニメーションは見たことがなく、アニメの表現として一つの可能性を切り開いたような気がします。
いわゆるジャパニメーションやディズニーのアニメとはまた違った可能性が提示されたということで画期的であったと思います。
マルチバースを正面切って扱った点も興味深いですね。
アメコミでは一つのキャラクターを長い間使い回す(言い方が悪いけれど)際にマルチバースという概念を都合よく使ったりします。
マルチバースとはいわゆる多元宇宙というものですね。
もしスパイダーマンの物語が一つしかなかった場合、後から作られる作品はどうしてもその前提を守っていかなければ話として成立しません。
それを回避するためにスパイダーマンがいる宇宙が無数にあるという考え方にし、スパイダーマンのいる様々な物語が無数にあるというのがマルチバースの考え方です。
都合がいいと言えばそうなのですが、ファン的にはずっとそのヒーローの活躍を見ることができるので、出版社的にもファン的にもWinWinな考え方なのでしょうね。
日本でいうと平成仮面ライダーのシリーズはちょっと考え方が近いかもしれないです。
「ディケイド」や現在放映中の「ジオウ」などはスパイダーバース的な考え方とも言えなくもありません。
アニメであること、多元宇宙を扱っていることということでこの作品はどちらかというと「スパイダーマン」の映画としては奇手のように感じるところもあるかもしれませんが、とは言え「スパイダーマン」としての王道は外していません。
主人公はマイルスはある日蜘蛛に噛まれてスパイダーマンの能力を得ます。
彼はその能力をどうするべきかがわからない。
「スパイダーマン」というシリーズは特殊な能力を得た若者がその力をどのように使うべきかを悩み、そしてかけがえのない人の死によって人々のために使おうと自覚するということがきっかけになり、ヒーローとして覚醒するのです。
まさに本作は正しく「スパイダーマン」の物語でありました。
マイルスは慕っていた叔父の死、そしてまた別世界から来たピーター・B・パーカーら仲間のスパイダーマンたちとの別れを通じて、スパイダーマンとして生きることを決意します。
まさに「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ということを自覚したわけです。
これは少年が自分の生きる道を見つける物語でもありました。
「スパイダーマン:スパイダーバース」は奇手に見えながら王道であった作品だと思います。

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2019年3月23日 (土)

「グリーンブック」 自分は何者であるのか

自分は何者であるのか。
人間にとってこの問いは最も本質的な問題です。
この問いは自分のアイデンティティを問うもので、これに応えられるかどうかで精神的な安定性が得られるかどうかに関わります。
自分は日本人である。
自分は誰それの親である。
自分は◯◯社の社員である。
なんでもいい、自分は何かに属しているということが安心感を生みます。
本作で重要な役割を担うドク・シャーリーはこの問いに答えられませんでした。
自分は黒人なのか。
自分は白人なのか。
自分は何者であるのか。
この作品を観ていて最も印象的であったのは後半でドク・シャーリーが自分の思いを吐露するところです。
彼は言います。
自分は白人でもなく黒人でもない、と。
彼は才能があるピアニストでその実力は白人の成功者たちから評価されているものの、黒人であるがゆえに彼らのコミュニティに受け入れられることは決してありません。
だからと言って同じルーツを持つ黒人たちにも彼は受け入れられない。
南部ツアーのあるときにふと黒人たちが働いている畑に車を止めた時にシャーリーは何を感じたでしょうか。
自分を見つめる冷めた黒人たちの目。
その目は決して自分を受け入れくれている目ではありませんでした。
ドク・シャーリーはどちらのコミュニティからも拒絶されるという孤独を抱えています。
彼のやや高慢にも見える態度は、そういう拒絶に対抗するための彼なりの防御壁なのかもしれません。
彼らに拒絶されているのではない、そうではなく自分は孤高の人であると思いたかったのかもしれません。
その防御壁をトニーは持ち前の屈託のなさでやすやすと飛び越えてみせます。
もちろんトニーもあの時代を生きていた男なので偏見を持っていなかったわけではありません。
しかし、彼にはそういったステレオタイプ的な見方ではなく、人の本質を見る目がありました。
すぐに彼はシャーリーという男の本質を見、彼の才能に感銘を受けるのです。
彼らは長い旅路の中で、黒人である、白人であるという枠組みではなく、ドク・シャーリーとして、トニー・リップとして互いに認めあい、それによって自分の立ち位置を得ることができます。
ドク・シャーリーにとっては黒人・白人という立ち位置ではなく、トニーの友人であるというアイデンティティを得ることができたのだと思います。
自分が属し、自分が存在することを認めてくれる場、コミュニティを人は求めるものです。
ようやくシャーリーはそれを得ることができたのです。
本作品について「白人の救世主」の典型的なパターンと評する意見もありますが、個人的にはそうではないかなと思いました。
シャーリーとトニーの間にある関係性は黒人であるとか白人であるとかという人種による見方を越えてしまい、個として認め合っているように感じました。
人種問題を題材にしていつつも、時折挟まれるユーモアも心地よく無理なく見ることができる良作です。
監督が「メリーに首ったけ」を撮った人であることを後で知り、ちょっとびっくりでした。

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«「映画しまじろう しまじろうとうるるのヒーローランド」 娘の映画体験記第2弾