「『爆弾』」スズキタゴサクは何者なのか?
ある晩、名乗る冴えない中年男が野方署に連行された。
酔っ払って酒屋の自動販売機を壊し、その上店員にも暴行を働いたという。
その男は「スズキタゴサク」と名乗るが、取り調べをしていく中で「自分は霊感が強い」と言い、何かが起こると予言をし始める。
彼の言葉通り秋葉原で爆弾が爆発し、その後も次々と彼の予言通り東京の各所で爆発が起こっていく。
予告を見た時の本作の印象は、山田裕貴演じる捜査一課の類家と、佐藤二朗が演じる犯人スズキとの1対1のサイコサスペンスだった。
しかしいざ蓋を開けてみると、犯人スズキに対して、警察サイドは総掛かりで挑んでいる。
最初にスズキに対応するのは、野方署の刑事等々力で、次は捜査一課で類家の上司である清宮、そして最後に類家となる。
最後の類家とて、スズキの計画に肉薄するものの、事件を止めることはできない。
それほどまでに神がかった計画を立てたスズキタゴサクとは何者なのか?
普段から職場や学校に通うときに通っている道。
喉が渇いて目についた自動販売機でジュースを買った瞬間、爆発が起こり、吹き飛ばされる。
なんとも不条理である。
吹き飛ばされた人間に意識があれば、「なんで自分が」と思うだろう。
残された家族も「なんで彼が」と思うだろう。
不条理である、と。
本作には不条理に翻弄される人物が多く登場する。
野方署の巡査長矢吹もその一人。
彼は同僚に手柄を横取りされた結果、憧れの刑事になれず交番勤務を続けている。
彼にとっては不条理なことである。
彼が捜査の中で無鉄砲な行動をとりがちなのも、その不条理を取り消したいと考えるからであろう。
矢吹の同僚倖田は劇中でスズキに怒りに任せて迫る場面があるが、彼女の気持ちを動かしているのは不条理を許したくないという思いだろう。
これらの物語の発端となる野方署の長谷部の家族がその最たるものだ。
彼らは長谷部の起こした不祥事により、見知らぬ人々から心無い非難を浴びる。
確かに長谷部がしたことは恥ずべきことかもしれない。
しかし、だからと言ってこれほどまでに迫害されるほどのことなのか。
不条理である。
長谷部とコンビを組んでいた等々力にも同じような思いはあったろう。
不適切行為があったとはいえ、長谷部自身の刑事の力量や功績まで否定されるべきものではない。
その思いから出た言葉によって、また言われなく等々力自身も責め立てられる。
当事者は不条理と感じるが、実は当事者でない者にとってはそのように感じることはない。
部外者である彼らは、事件とは安全な距離を取れており、だからこそ無責任に推論し、勝手に発言する。
そしてそれが当事者たちをさらに苦しめるのだ。
しかし、スズキの行動は彼ら部外者を一気に当事者にした。
いつどこで、爆破に巻き込まれるかわからない。
不条理がいつ襲いかかってくるのか。
不条理、ということは理由がないと言うことである。
なぜそうなったか、ということが説明できない。
たまたま?偶然?
人は説明ができないことに対して、不安を抱く。
説明ができれば解決できる。
逆に言えば、説明ができないことは対処できない。
それは神の技かもしれない。
スズキの行為は神の視座とも言える。
彼はある意味、人を超越している。
彼は人間の良い面も悪い面も、強さも弱さも、そして人間こそが持つ矛盾も、深く理解している。
だからこそ人を翻弄できる。
スズキが等々力を好ましく思っているのは、彼が人の強さ、弱さ、矛盾を併せ持った人間らしい人物だからではないだろうか。
この映画の登場人物の中で、スズキの視座に迫れる唯一の人物が類家だ。
彼も鋭い観察眼、深い洞察力で犯人の本質に迫ろうとする。
彼は思考を深めていく過程で、スズキの視座に上がっていこうとする。
スズキもそれを楽しんでいるようだ。
しかし、類家自身が言っているように彼は人であることに「踏みとどまる」。
彼にとっては他人がどうしようもなくバカに見える。
自分の思考についてこれないことについて、イラつく。
しかし、それでも類家は人を超越しない。
神の視座には上がらない。
だからこそ、類家はスズキに勝てない。
スズキが仕掛けた最後の爆弾は結局見つからなかった。
事件に関わった者たちは、誰も容疑を認めていない。
類家の、警察の敗北である。
スズキタゴサクは何者なのか。
彼は不条理そのものである。

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