2018年7月15日 (日)

「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」 スピンオフの難しさ

「ローグ・ワン」に続く「スター・ウォーズ」シリーズのスピンオフです。
前回の「ローグ・ワン」ではメインストリームには関わらない名もなき人々を取り上げたことが新鮮で、彼らの献身がその後の帝国への逆襲へのきっかけとなったことが明らかにされました。
ローグ・ワンのメンバーたちが全滅してしまうという悲劇的な結末も今までの「スター・ウォーズ」シリーズとは異なり、新鮮な印象を受けました。
本作は「スター・ウォーズ」シリーズの中でも最も有名なキャラクターの一人であるハン・ソロを主人公としており、「ローグ・ワン」とは異なる難しさは持っていたと思います。
あまりにもハリソン・フォードが演じるハン・ソロのイメージが強く(私もそうですが)、彼以外の俳優が演じるハン・ソロが受け入れられるかということですね。
本作で若きハン・ソロを演じるはオールデン・エアエンライク。
私は全く彼が今まで出演した作品を見たことはなかったのですが、
上手な俳優であるとは思いました。
時折、以前のハン・ソロを彷彿とさせるような場面もありましたし。
ただやはりハリソン・フォードと比べてはしまいます。
この辺は重要なキャラクターについてスピンオフを作るということの難しさではあると思いました。
監督は職人ロン・ハワードですので、作り自体は手堅くまとめています。
こちらの作品は若手の監督を抜擢したところ、方向性の違いなどで製作サイドと意見が合わず、降板。
その後をロン・ハワードが引き継いだということです。
そのせいかこれといった新しさを感じることはありませんでした。
無難にまとまっているという感じですね。
ロン・ハワードは好きな監督なのですが、普段はもう少しエモーショナルな要素が強い監督だとは思いますが、なんとか作品として成立させるべくまとめた印象で、彼らしいという感じは受けなかったです。
ハン・ソロとトバイアスの親子・師弟を彷彿とさせる関係や、ソロとキーラの関係がもう少し深く描ければ、ロン・ハワードらしい感じが出たかなと思います。
そうすればもっとドラマチックにできたんではないでしょうか。
ストーリーとしても冗長な感じがややありましたね。
旧三部作につながるようなポイントもいくつかあり、「スター・ウォーズ」ファンとしては嬉しい部分もいくつかありましたが、それ自体は作品の出来とは別物であるので、そういったところばかりに注目がいくのもどうかとも思います。
日本では本作は好調のようですが、アメリカでは期待ほどにはいかなかった様子。
今後のスピンオフについてもいろいろ方向が変わる可能性があるとのこと。
どのように展開していくか、見守っていきたいと思います。

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2018年7月10日 (火)

「ラプラスの魔女」 これは三池作品なの?

タイトルの「ラプラスの魔女」は、フランスの数学者ラプラスが未来の決定性を表現し、のちに「ラプラスの悪魔」と呼ばれた概念からきています。
これはある瞬間における全ての物質の状態が全てわかり、それを解析できる能力があるのであれば、未来が予測できるというものです。
唱えられた19世紀には概念的なものでしたが、今の時代でしたらどうでしょうか?
様々な事象をデータ化することができ、それを解析できるコンピュータもある。
未来予測はできそうでしょうか?
けれどそれは原理的には無理です。
「ラプラスの悪魔」の概念はいわゆるニュートン物理学に基づくものです。
しかし、現在では不確定性原理により、粒子の場所と運動量を両方とも特定することは不可能とされています。
ですので、どうしても絶対的に確実な未来予測はできません。
特に気象などという様々な要因が絡まる事象では、特定の場所や時間に何かが起こると予想するのは難しいでしょう(「この辺りにこういうことが起こりそう」ということまでは言えるかもしれませんが)。
ですので、未来予測ができるという話には個人的には少々入りづらかったところがありました。
ま、フィクションなのであまりその辺突っ込んでもしょうがないのですけれども。

観に行こうと思ったきっかけは、監督が三池崇史さんだったからです。
三池さんは個人的には好きな監督なのですが、最近の作品ではあまりこれはいいと思った作品がなかったのですよね。
最近の数作品は三池監督らしくはあるのですが、どうも映画としてとっ散らかってしまっている感じを受けてしまっていました。
やりすぎと言われるくらいやってしまうというのが三池監督らしさではあるので、暴走とまとまりのバランスは難しいところではあるのですが。
さて本作ですが、観終わってみると、逆に三池監督らしさというのはほとんど感じられず、寂しい感じがしました。
言ってしまうとなんなのですが、監督名を聞かなければ誰の作品かわからなかったような印象です。
三池監督の作品は名前を聞いていなくても、観れば三池作品であることがわかる印がついてように感じるくらい個性が強いと思うのですが、それがほとんど抑えられていました。
ミステリーですので、あまり監督の個性を出しにくいということもあるのかもしれませんが、そうなるとあえて三池監督を起用した意図も良くわかりません。
主役は櫻井翔さんが演じる青江という地球化学の教授ですが、これも大変存在感がありません。
観客とともに不可能な事象を解き明かして行くというナビゲーターの役割なので致し方ないのかもしれませんが、ラストくらいにもなると、本当にそこにいるだけという感じになってしまいます。
クライマックスの場面では、他の人物たちに焦点が行ってしまっているのでナビゲータ役としても終了してしまっている感がありますね。
主人公なのに。
監督の件も、主役の件も何かチグハグな感じがする作品となっていました。
三池さんにはもっと個性が出せる作品をやってもらいたいです。

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2018年7月 7日 (土)

「焼肉ドラゴン」 家族のアイデンティティー

人間、何か自分のアイデンティティーが寄って立つものが必要なものです。
それは国であったり、会社であったり、家族であったり。
日本人などはやはり日本人であること、というのがアイデンティティーが寄って立つ柱の一つであると思うんですよね。
どの国の国民もそうだと思うのですが。
この物語の中心となる家族は、戦前に日本に連れてこられそしてそのまま日本に住むことになった朝鮮半島の人々。
いわゆる在日と呼ばれる方たちです。
彼らは想像すると、複雑なアイデンティティーを持っていると思うのですよね。
朝鮮民族であり、祖国に暮らす人々と文化を共有はしているけれども、やはり彼らと在日では置かれている環境が違うため、全く一つの価値観というわけではない。
また半島では同じ民族が二つの国に分かれている。
日本で暮らしているからといって日本人として扱われるわけでもなく、差別は受けている。
同じような環境に置かれ、共感を感じられる人々が非常に少ないマイノリティです。
だから、そういう境遇だからこそ、家族というものが非常に濃い存在になるのかもしれないです。
「焼肉ドラゴン」を切り盛りする龍吉は戦前に日本に連れてこられたが、故郷は戦争により壊滅して、家族みんなを失ってしまいました。
彼は妻と子供たちと日本で生きていくことを決めました。
子供たちは韓国語を話すことはできず、日本語しか話せません。
日本自体も戦後の復興期で、今までの価値観が大きく変わっていく時代でした。
そのような時代、龍吉はただ黙々と働き続けてきました。
小さくとも自分たち家族のいる場所を守り続けるために。
彼にとって家族だけが自分のアイデンティティーの拠り所だったのでしょう。
韓国も北朝鮮も日本も、彼の拠り所ではない。
彼にとっては家族だけ。
彼は日頃無口ですが、彼が話すときは全て家族に関する重要な場面なのですよね。
家族のことをどれだけ大切に思い、それこそが彼の全てであるかのように。
だから長男の自殺はショックであったに違いありません。
在日にとって暮らしやすいわけではない日本の環境。
差別に対抗するには、それに対抗できる実力(学力・経歴)を身につけなくてはいけない。
だからこそ長男にも頑張るように言っていたのだと思うのですが、それが息子を追い込んでしまった。
家族のために良かれと思ったのに・・・。
彼にとってはアイデンティティーが揺らぐような出来事であったと思うのですよね。
そういうことがあったからこそ、3人の娘がそれぞれの道を選んでいくとき、彼は何よりも彼女たちの気持ちを優先させた。
彼にとっては家族の幸せこそが全てであり、幸せは自分で進む道を選ぶことであると気づいたのかもしれません。
彼も若い頃に日本に強制的に連れてこられ、そして家族もそして腕も失ってしまった。
自分では道を選べなかったわけです。
息子も結果的には自分で道を選べず、追い込まれてしまった。
最後にオモニが言っていたように、家族の行く道は違うけれど、家族は繋がっているわけです。
進む道は違うけれどそれをそれぞれが選んだのであれば、辛いことがあっても幸せであるはず。
結果、彼らはそういう思いを共通に持ち、それが彼ら家族のアイデンティティーになっていくのかもしれません。

父親の龍吉役をやったキム・サンホさんの演技が素晴らしく、彼中心の視点で記事を書きました。
オモニ役のイ・ジョンウンさんもそうですが、韓国の俳優さんは演技うまいですよね。

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2018年6月23日 (土)

「空飛ぶタイヤ」 己の良心との戦い

三菱自動車によるリコール隠し事件から発想を得た池井戸潤さんの同名小説の映画化作品です。
池井戸さんの作品は、圧倒的な権力に対して人々が一矢報いるとことにより読者も溜飲が下がる思いになるということが共通していますが、まさにこの作品もそうですね。
大手自動車メーカーのリコール隠しに対し、中小の運送会社の社長、メーカー内の社員、取引先の銀行、マスコミの記者らが妨害にも負けずに地道に原因を究明し、最後には一番の黒幕の罪を明らかにします。
大人になり社会の中で生きていると理不尽なことというのはあったりするものですが、大きな力に勇気を持って戦いを挑む物語に皆が心を動かされるのは、自分もそうありたいと皆思いつつも、なかなかできないという現実もあるのでしょうね。
「長いものには巻かれろ」という諺がありますが、諦めてそうなってしまうことも多々あることですしね。
しかし、自分の行為が具体的にどこかのだれかを傷つけてしまうかもしれないという想像力は失いたくないものです。
顔の見えないクレーマー、その他大勢のよく見えない客というものを対応しているという気持ちではいけません。
当然のことながら一人一人のお客様の顔は見えないわけですが、それを想像することができるという気持ちはメーカーに勤める人間としては持っていなくてはいけないことだと思います。
そうなくなってしまうと、本作の常務用のようになっていってしまう。
そしてそれは本人だけではなく、会社自体も傷つけることになるという意味でさらに罪深い。
真面目に働いている社員ですら、巻き込んでしまうわけですから。
三菱自動車、東芝など経営サイドの不祥事は一人一人のお客様の顔が見えなくなってしまい、社内の権力争いなど本質的ではないところにばかり目がいくようになってしまったからなのでしょう。
メーカーはお客様あってのものという意識をずっと持ち続けなければいけません。
また上や得意先に対して間違っていると思ったときに物申すというのは、死ぬほど勇気がいることであるのは間違いありません。
しかし、それを見過ごしてしまった後に、例えば本作のように誰かが傷ついてしまった時に味わう後悔は一生拭えないものになってしまうことでしょう。
その苦しさに比べれば、いっときの勇気を振り絞ることはとても大事なことなのですよね。
おそらく自分でも死ぬほど悩むと思いますが・・・。
赤松運送の社長赤松は会社が潰れるかもしれない状況の中で、譲れないと思い財閥系メーカーと戦います。
またメーカーの中の沢田をはじめ何人かの社員は自らの会社の不正を知り、告発をしようとします。
自分の地位がそれによって失われるかもしれなくても。
彼らは権力と戦っているわけですが、己の良心とも戦っているとも言えます。
大金を積まれたり、ポストを用意するので、口をつぐんでくれと言われたり、また逆に脅かされたり。
それでも自分自身の中にある良心が戦いを諦めることを許してくれない。
自分の良心と弱さの戦いです。
企業で働く人間はもしかしたら、自分も同じような立場になってしまうかもしれないという恐ろしさと、その時に自分も戦うことはできるのかということを問いかけてくる作品でした。

企業人としての自分に対して問いかけをしてくる作品でありましたが、もう一つ家庭人としても問いかけがある作品でした。
日常の中で突然愛する家族がなくなった時、自分はどうするのか。
どう感じるのか。
本作の事件の被害者のお子さんの作文を読んだ時、やはり涙が出てきました。
家族がいる人ならば、これを聞いたら多くの人は心を揺さぶられることでしょう。
だからこそ、企業人は一生活者としての感覚を大事にしなくてはいけないと思います。
当たり前のことですが、企業人も生活者のひとり。
それを常に忘れずにありたい、と再確認させてくれる映画でした。

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2018年6月10日 (日)

「デッドプール2」 無駄遣いな笑い(いい意味で)

やはり他の映画よりも外国人の観客が多かったような・・・。
字幕を観ながらの鑑賞だと、英語を話す彼らと微妙に笑うタイミングが違うのですよね(苦笑)。
マーベルの中でも「アベンジャーズ」や「X-MEN」とは異なる方向を目指している異端児作品、「デッドプール」の続編です。
映画のマニアックな小ネタや、悪ノリお下品トークなどがふんだんに入り笑わされてくれた前作でしたが、本作もそのノリは継続しています。
個人的には前作よりも楽しめたかもしれません。
「デッドプール」の世界観に慣れてきたからかな。
前作ではまだ慣れておらず、どのように受け止めていいかがわからなかったところもありました。
本作はいくつも笑えるところや、面白かったところがあります。
なんというかむやみに無駄遣いな笑いがいいですよね。
いくつか自分のツボにはまったところを書いていきましょう。

まず笑わせてもらったのは「007」風のオープニング。
そもそも「007」っぽいオープニングってなんなんでしょうね。
ムードがある音楽と超スローモションな映像。
女性の肉体と武器のモチーフ。
幾何学的で抽象的なレイアウト・・・。
いろいろあると思うのですが、スタイルがあるからこそ出ているのがデッドプールでも「007」っぽいって見えるのですよね。
ところどころ「フラッシュダンス」も織り込んでくるし・・・(笑)。

せっかく集めたXフォースの面々が次から次へと脱落していくのも面白い。
ピーター以外は何かしらの超能力を持っているはずなのに、それを発揮するまもなく、あっさりと・・・。
まさに無駄遣い。
ピーターも実は何かあるのかなと思ったら、本当に何もなかったでしたねえ。
やっぱり無駄遣い。

あとはデッドプールが下半身を吹き飛ばされつつも、それが再生していく過程ですね。
下品と言えば下品なんですけれどね。
「クララが立った!」的なところはバカバカしくてサイコーでした。

もちろん「グリーンランタン」ネタも相変わらずで良かったです。
ライアン・レイノルズ的には無くしてしまいたい黒歴史なのですね。
いつまでもネタに使えるいい作品ではありますが(苦笑)。

新登場のキャラクターについてもケーブルはただの悪役かと思っていたら、存外いい奴でしたね。
ジョシュ・ブローリンは「インフィニティ・ウォー」のサノスといい、ただの悪役ではない味わい深い役が多いですね。
続編が作られるとしたら、Xフォースのメンバーとしてレギュラー定着ですかね。

あとドミノも良かったですね。
運がいいのが、超能力っていう。
デッドプールとは別の意味で絶対やられないというのが、新しいアイデアだと思いました。
だからこそアクションなど今までとは一風変わったアクションになっていたと感じました。

おちゃらけたところだけでなく、ストーリー的にもちょいといい感じのところがあるのもいいアクセントでした。
最初にデッドプールが「ファミリー映画だ!」と言ったところは、?と思いましたが、終わってみると確かにファミリーをテーマにした作品になっていました。
デッドプールが誰かのために戦うようになるとは思わなかったですが、作品に深みが出たと思います。

デッドプールがトニー・スタークにアベンジャーズに入りたいといって断られたというネタがネットに出ていましたが、それも20世紀フォックスがディズニー(マーベルが傘下)に買収されたら、実現しちゃうかもしれないですね。
されなくても、スパイダーマンみたくコラボしてもおもしろいかも!?

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2018年6月 9日 (土)

「仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判」 二人の背負う十字架

「仮面ライダー」シリーズの劇場版となりますが、いわゆるテレビで放映されている平成仮面ライダーシリーズとは異なり、非常に大人向けの内容となっています。
そもそも「仮面ライダーアマゾンズ」とはアマゾンプライムでのネット配信用に作られたシリーズで、そのため色々なテレビでの表現上の制約(残酷描写など)から解き放たれて、かなりチャレンジングな内容となっています。
脚本は小林靖子さんで、仮面ライダーシリーズでは「仮面ライダー龍騎」で脚本を担当、13人の仮面ライダーが登場し、お互いに最後の一人になるまで戦い合うという当時としては非常にセンセーショナルな内容でした。
最近では「進撃の巨人」のアニメのシリーズ構成を担当しており、ご存知の通り、こちらも色々な意味でのセンセーショナルさを持っている作品でした。
本作で登場する怪人はアマゾンと言われる人工生命。
彼らは人間の科学によって生み出されたあたかも人間のような姿形をした生命ですが、彼らは人を喰う。
研究所から脱走したアマゾンズは人間社会の中に隠れ、人を喰らいます。
彼らを狩るために、アマゾンズを開発した科学者、鷹山仁は自らにアマゾン細胞を注入し、アマゾン化、アマゾンアルファとなります。
また人間とアマゾン細胞から生み出されたアマゾン、水澤悠はアマゾンでありながらも人を喰うことを厭います。
実はアマゾンの中にも人を喰わず、静かに暮らしたいと考える者もいたのです。
悠はアマゾンオメガとなり、人もアマゾンも守ろうとします。
「仮面ライダーアマゾンズ」はこの二人の物語です。
鷹山はアマゾンが誰であろうと(自分の子であろうと)、彼らを抹殺するという強迫観念を持っています。
彼のアマゾンへの行為は苛烈であり、彼の新年は半ば狂気のようになっています。
それが彼らを生み出してしまった自分の責任であると考えているのです。
彼は「生み出した者」として、十字架を背負ってしまったのです。
そして悠はアマゾンとして「生み出されてしまった者」です。
彼が人を喰うこといかに厭っても、その本能は抑えられない。
そのように生まれてしまったことに彼は責任はないのですが、しかしそういう自分を受け入れなければいけません。
彼はまた違った意味での十字架を背負っているのです。
このシリーズは善と悪との戦いを描いているわけではありません。
生き物が生きるか死ぬかという極限の中に追い込まれ、そのような状況においても尚、生きることを求めてしまうという生命が持つ業を描いているように思います。
劇場版においては鷹山も悠もそれぞれが持っていた「越えてはいけない一線」をも越えます。
鷹山は人を喰うアマゾンを滅ぼすために、アマゾンを抹殺しようとしていたわけですが、その彼が人間を殺してしまう。
また食らうことを忌避していた悠は鷹山を止めるため、アマゾンを喰らいます。
そこまで二人は追い込まれるわけです。
そこまでして二人は生きること、自分が存在している意味を果たそうとするわけです。
「越えてはいけない一線」を越えることは自分が守るべきことと矛盾が起こるわけですが、その矛盾を抱えることを承知で(さらに業を抱えることを承知で)、彼らは戦いに向かいます。
まさに生きるためにはなんでもする、生命の本質を彼らは体現しているのです。
スッキリとした答えが出る作品ではありません。
悶々とするところもあります。
それは理性や倫理、ルールという枠組みで見る味方に慣れているからかもしれません。
生命とはもっと生々しいものであるのでしょう。
「仮面ライダー」シリーズとしては非常に異質感のある作品です。
しかしある種の型ができてきているテレビシリーズに対するアンチテーゼでもあるのでしょう。
そういう作品を作れる「仮面ライダー」はまだまだ懐が深く、可能性を持っているシリーズであると感じました。

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2018年5月24日 (木)

「GODZILLA 決戦機動増殖都市」 諦めか、融和か、支配か

アニメーション版ゴジラ3部作の2作目です。
1作目は想像していたよりも、近年稀に見るSF色が強い作品でした。
前作のラストではようやく無敵のゴジラを倒したと人類が歓喜したその時、それは本当のゴジラではないことが判明、さらに巨大なオリジナルのゴジラが登場し、愕然としたところで物語は終わりました。
そしてさらに地球上には人類の子孫と思しき人々がおり、またかつて対ゴジラ決戦兵器と開発されたものの、開発途上でゴジラに破壊されたと思われていたメカゴジラが存在するかもしれないということが暗示された終わり方でした。
さては2作目はゴジラVSメカゴジラかと思ったわけですが、本作は予想を斜め上にいく展開でした。
本作におけるメカゴジラの本質はそれを構成するナノメタルでした。
これは自己増殖し、進化することができる金属素材です。
いわば金属でできたゴジラ細胞ともいうべきものでしょう。
ナノメタルはゴジラの目を逃れ増殖し、対ゴジラ用の要塞都市メカゴジラシティとなっていました。
人類らはこのメカゴジラシティを使い、再びゴジラに決戦を挑みます。

この3部作のSF色を強くしている設定の一つがゴジラに戦いを挑み、負け、放浪する羽目になったのが、人類だけではなく、エクシフ、ビルサルドという種族も一緒であるということです。
エクシフもビルサルドも故郷を追われ、地球にやってきました。
優れたSF作品は現実の社会問題などを暗示しているものが多いですが、この設定もそのようなものと受け止めることができます。
本作で明らかになるように人類と同様に、エクシフも怪獣「ギドラ」に故郷を滅ぼされました。
ギドラが彼らの技術によって生み出されたものであるかわかりませんが、彼らはその滅びからの学びによって自己犠牲や献身を解く宗教を持つようになります。
一方ビルサルドはやはり自らのテクノロジーで自分たちの世界を追われますが、彼らはあくまでテクノロジーで自然をコントロールできるという考え方を持っています。
本作において、彼らの考え方は顕著に表れ、自らの技術が生み出したナノメタルを使いゴジラと戦います。
しかし、劇中でも指摘されているように彼らの技術がゴジラに勝ったとても、それが新たなゴジラとなる危険性を孕んでいました。
これら3種族はともにテクノロジーの進化の過程で、自然・世界から大いなるしっぺ返しをくらい、滅びに面します。
その経験の中で、生物はどう学ぶことができるのかというこの作品は描いています。
その学びを経た上で生物はより進化することができる。
諦めるのか。
融和するのか。
支配するのか。
ビルサルドはあくまで自然を支配することを目指し、結果より圧倒的な力によってねじ伏せられます。
所詮力では自然を制することはできません。
ゴジラは野蛮で暴力的です。
それだからこそ自然の力を象徴したものとも言えます。
無限とも言える自然を征服することはできません。
それではただその力に屈服して、滅びを待つのか。
それとも融和の道はあるのか。
一つその可能性が見出せるのが、本作に登場した新たな種族フツアです。
彼らは人類の子孫と思われ、ゴジラに支配された世界に適応しています。
フツアはその遺伝子に昆虫のものも取り込んだと思われ、それによりゴジラ化した世界に順応したのです。
まさに融和と言えるでしょう。

圧倒的なゴジラになすすべもない3種族。
そして次回作ではエクシフを滅ぼした「ギドラ」の登場も暗示されます。
ゴジラVSギドラとなるのか。
はたまた再び斜め上を行く展開となるのでしょうか。
なかなか展開は読めませんが、そこがこのシリーズの面白いところ。
さらにハードなSF的な展開を期待したいと思います。

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2018年5月12日 (土)

「アベンジャーズ/インフィニティ・ ウォー」 無限に続く戦いか

ある意味、今までのマーベル・シネマティック・ユニバースの総決算とも言える作品ですね。
事前に観た方はかなりの高評価をしていたので、期待して観に行ってきました。
個人的には今までとは異なり、かなり重い展開であることと、登場人物が多くてやや話が忙しいのが気にはなりましたが、マーベルファンに対してのイベント映画としてはしっかりと堪能できました。
総決算と言えるくらいだけあって、登場するヒーローの数も半端ありません。
なかなかこれだけ出てくると、それぞれのキャラクターのことを描くのに時間がないと思うのですが、なんとかまとめあげていたと思います。
中でもアイアンマン、ソー、スターロードあたりが中心に話が進んで行きます。
とはいえ、真の主役と言ったら敵役のサノスになるのではないでしょうか。
登場したキャラクターの中でも最も時間をかけて語られていたのは彼ではなかったかと思います。
サノスについては今までのマーベルムービーの中でも名前は何度となく語られてきました。
曰く宇宙最強の敵と。
なので私はサノスはただただ無慈悲な完全な悪の存在であるというようなイメージを持っていました。
しかし、本作を観るとサノスは純粋な悪といった単純な人物ではありませんでした。
彼は容赦なく人々を殺していきますが、それは彼の中では慈悲でありました。
増えすぎた生き物がやがて資源の枯渇に滅びて行く。
そうなれば全ての生物が絶滅してしまう。
だから生き物を半分にし、余裕を持って行きていけるようにする。
宇宙のバランスを保つということを大義としています。
これは歪んだ考えであることは間違いありませんが、彼は彼なりの考えを持っているということがわかります。
そしてそれはある側面では説得力を持っているということがあります。
そしてまた彼は人としての感情、愛情を持っている(歪んではいますが)こともわかります。
ただただ単純な悪ではない。
彼なりに正しいと思う信念をサノスは持っています。
だから彼は強い。
強大なパワーを持っているから彼が強いわけではなく、彼が信念を曲げないから強いのですね。
それに対し、アベンジャーズたちは常に押されます。
かつてないほどの劣勢に彼らは立たされます。
そして衝撃的なラストを迎えます。
当然これでマーベル・シネマティック・ユニバースが終わるわけはないでしょう。
キーとなるのはドクター・ストレンジが持っていたタイムストーンかと思います。
インフィニティ・ウォーというタイトルからすると無限に続く戦いということですから、時間がポイントになるかと思うのですよね。
今はサノスの手に渡っていますが、これにドクター・ストレンジを何か仕掛けを施したような気がします。
タイムストーンなので、時間を巻き戻してしまうとか(アメコミではよく使われる手)。
もしくは人々を半減させるということで、片方はもう一つの宇宙(ユニバース)に移ったとか。
何かびっくりするような解決方法を見せてくれることでしょう。
劇場では「アントマン&ワスプ」の予告が入っていましたが、こちらはこのインフィニティ・ウォーより後の時間軸なのかな?
それでしたら、何かしらの答えが用意されているかもしれませんね。

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「レディ・プレイヤー1」 情報の洪水の中での宝物

初めて本作の予告を観た時、非常にびっくりしました。
デロリアンが爆走していて、アイアン・ジャイアントが大暴れしている!
なんじゃこりゃ!と。
それでもってスピルバーグ監督作品って・・・。
そして、実際に本編を観てみると、出るわ、出るわ。
キングコングにTレックス、チェストバスターにビートル・ジュースにガンダム、メカゴジラ!!
「オレはガンダムで出る!」って、日えー。
80年〜90年に若かりし頃を過ごした自分としては、ど真ん中の映画やアニメをネタとしたアイテムがエピソードが満載。
全く気づかなかったネタもいくつもありそうです。
使っている曲も有名な曲ばかり。
版権の許諾が非常に大変だったろうなあと想像するわけですが、これができるのはやはりスピルバーグだからでしょうねえ。
スピルバーグはまさに80年代以降のクリエーターではカリスマ中のカリスマ。
彼以降のクリエーターは少なからず彼の影響を受けていると考えていいでしょう。
そのカリスマから、映画の中に自分のキャラクターやアイテムを使いたいと言われたら、イエスと言いますよね。
彼くらいの大御所でしたら、作品に対してもリスペクトをしてくれて、大切に扱ってくれそうですし。
お話の筋自体はそれほど新しいものではありません。
自分たちの世界を支配しようとする組織に対し、アウトサイダーたちが協力してその支配に対して戦う。
しかし、先ほど書いたようなネタの情報量が半端ない。
それを追いかけて行くだけで大変。
また映像のスピードも速いし、画面上の情報量も多い。
その情報を処理する速度が要求されるので、観る方も疲れます。
私は普通の劇場で観たのですが、IMAXで3Dとかだったら、ぐったりしちゃうのじゃないかなあ。
情報処理力が要求されるということでは非常に現代的ではあります。
あと何度も確認で観てしまうといったフリークの方も出るかもしれないですね。
溢れそうになるほどの情報量があるというのは、現代的かもしれません。
インターネットには見切れないほどの情報があります。
人々はその情報のシャワーをまさに浴びています。
シャワーを浴びている中で、本当に大切なことは何かを見失ってしまうということはままあることです。
主人公は戦いの中で、本当に大切なこととは何かということを見つけられたのだと思います。
先ほどお話としてはよくあるパターンと書きましたが、この物語は主人公が冒険と試練を重ねた上で、宝物を得るというパターンでもあります。
主人公が手にしたのは、リアルの世界での本物の友情と愛情でした。
情報過多の中で、本質が見極めにくい世の中で、自分が本当に感じられる愛情こそが宝物なのかもしれません。

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2018年4月30日 (月)

「いぬやしき」 ヒーローの本質

奥浩哉さん作の漫画が原作で、「GANTZ」同様に佐藤信介監督がメガホンを取っています。
「GANTZ」は原作も映画も非常にタッチが硬質なのですよね。
圧倒的な状態に対して、無常感というか、自分ではどうしようもない感じがあります。
そのような環境の中で、人は人らしく生きて戦えるか、状況に飲み込まれて人らしさを失っていってしまうかというところが描かれていたと思います。
そういう点において、本作「いぬやしき」も同じようなテーマを感じました。
あるときに、何者かによって人間ではないものに作り変えられてしまった獅子神という高校生と、犬屋敷という中年サラリーマン。
彼らが得たのは同じ能力ですが、二人はその力を全く異なることに使います。
獅子神の状況は不幸なものであることには間違いないですが、言ってしまえば不幸であるのは彼だけではない。
しかし、もともと自分の心の中にあった鬱屈した思いを吐き出すことができる力を得てしまったおかげで、彼は変わってしまいます。
そして一線を越えてしまったおかげで、どんどんと周りの者も不幸に巻き込んでいってしまいます。
彼の中には「こんなはずじゃなかった」という思いがあったのだと思います。
そしてまたその鬱屈した思いが、他への攻撃という形で現れてしまった。
そういう点で言えば、彼は非常に幼い心の持ち主であったのかもしれません。
かたや犬屋敷という男も幸せではありません。
家庭でも職場でも蔑ろにされており、ただそういう自分を諦めて生きています。
しかし、彼が獅子神と違っていたところは、人の不幸も幸せも自分のことのように感じることができる共感性でしょう。
これは人が持つ人らしい力であるのですが、それを獅子神は持っていなかった。
犬屋敷は人の持つ当たり前の共感性という力を持っていたのですが、人のために役に立つ能力を今までは持っていなかった。
それを彼は得ることができ、その力を人のために使った。
それまで人の役に立てなかったからこそ、それが彼の生きがいのようになったのでしょう。
人は誰かの役に立ちたいという思いは普通に持っているものなのですよね。
そういう意味では犬屋敷が特別な人間ではあったわけではありません。
当たり前の男なのですよね。
獅子神は世の中をわかっているような感じで見ていますが、その実何もわかっていませんでした。
人がどのように喜び、悲しむかということを想像できなかった。
自分のことだけで、他人のことを考えることができなかった。
犬屋敷は人に対して共感できる心を持っていた。
誰かが喜ぶこと、悲しむことに思いを馳せることができた。
それがこの二人の違い。
それが一人を悪役にし、一人をヒーローにした。
ヒーローにとって大事なのは見かけやその能力なのではなく、人としての心であるわけです。
設定としては非常に変わった作品でしたが、描いているのはヒーローの本質でした。

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«「パシフィック・リム: アップライジング」 ここまでくるとトランスフォーマー?