2016年11月19日 (土)

「デスノート Light up the NEW world」 二人のいない「デスノート」は・・・

大ヒットした「DEATH NOTE」シリーズの10年振りの続編です。
キラ「デスノート Light up the NEW world」=藤原竜也、L=松山ケンイチは物語上すでに姿を消しているわけですが、その後継者たちによるデスノートを巡る争奪戦が描かれます。
今回の監督は「GANTZ」「図書館戦争」の佐藤信介さんで、原作ものの映画化には定評がある方なのでちょっと期待をしていました(「L change the WorLd」は残念な出来であったので不安はありましたが)。
旧「DEATH NOTE」のヒットの要因の一つは二人の天才(キラとL)の個性あるキャラクター性、それを血肉ある存在として演じる俳優の力であったと思います。
藤原竜也さんは演技に込められるエネルギーは他の俳優とはレベルが違う印象がありますし、また松山ケンイチさんは原作のLのイメージそのままの完コピっぷりに驚きかされたものでした。
今回の続編では、今までとは異なり3人が主人公的ポジションとなっており、誰がキラの後継者であるか(またはキラは死んでいないのか)が謎のひとつとなっています。
しかしこの3人については、やはりキラやLのキャラクターの強さと比べるとどうしても個性が薄い。
キャラクター設計にしても、演技にしてもいろいろとがんばっているとは思うのですが、前作の二人を意識してがんばっているように見えすぎてしまうところがちょっとつらいところです。
もともと原作においてもLが死んでからは全体がトーンダウンしてしまったことは否めず、「DEATH NOTE」という物語はやはりこの二人がいてこそということはあるのかなとは思いました(「L change the WorLd」を観てわかるように片方だけでも難しい)。
そのため彼らがいないこの物語は「DEATH NOTE」であって「DEATH NOTE」にあらずという感じになっているようにも感じました。
また「DEATH NOTE」はデスノートを巡る知的なバトルという点が新しいポイントであったと思います。
バトルもので数々の成功を収めていた「少年ジャンプ」の中では珍しいタイプの漫画ではありましたが、その本質は「ジャンプ」らしいバトルです。
本作においても知的なバトルという点については十分に考慮してストーリーが作られていたと思いますが、謎の解明やどんでん返しなどが後半に集中されており、そこまでがやや盛り上がりに欠けるところがあります。
実際はそこまでの展開は観客をミスリードさせるためのものであったのですが、後半がバタバタしてしまった感はあります。
個人的には「デスノート」は最初っから最後までキラとLの丁々発止のやり取りでどちらが勝つかわからない予想の出来なさこそが魅力かと思っていて、どんでん返しではないような気がしているのですよね。
そう考えると二人のいない「デスノート」というのは、やはり難しいのだなと再確認してしまいますね。

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2016年10月31日 (月)

「SCOOP!」 執着心の帰結

「モテキ」「バクマン。」の大根仁監督の最新作「SCOOP!」は原田眞人監督の「盗写1/250秒」(1985年)という作品が原作らしい。
原田監督は好きでけっこう観ているほうだと思うのだけれど、「盗写1/250秒」という作品は聞いたことがない。
よくよく調べてみると、これは水曜ロードショー枠でオンエアされた「テレビ映画」のようだ。
「テレビ映画」というのは映画枠でオンエアされた長尺(2時間弱)のテレビドラマのことを以前はこう言っていたのですね。
最近はそもそも映画枠自体が少なくなっているので、こういったテレビ映画という言い方はしなくなっているに思うけれど、当時は映画のスタッフでこのような番組を作っていたようだ。
原田監督の若いときの作品なので、若手の発掘のようなセンスもあったのかな?(スピルバーグの「激突!」のようなものか)
大根監督はヒットした作品がわりと現代的でポップな印象なので、予告を観たとき本作は毛色が違うなと感じました。
どちらかというと昔の邦画が持っていたギラギラした感じが出ている作品のような印象です。
閉塞感というか、鬱屈感というか、路地裏の油がギトギトとした感じ。
最近の邦画はきれいなところばかりを映している感じがありますが(現代劇でもリアルというより現実味のないファンタジー的な感じがある)、昔の映画はもっとリアリティのある汚いところを映していたように思います。
誰かに作られた枠を壊そうと這いずりまわる人々を描くことこそがリアリティであるというような。
固く蓋をされてしまったエネルギーのマグマがふつふつと泡をふいているような暴発前の不穏な感じをかつての日本映画は持っていたような気がします。
作品ごとのカラーの違いはあるけれども、大根監督が描く人物は執着心の権化のようなところがあるようにも感じます。
「モテキ」の藤本は女の子にモテること、「バクマン。」の真城はマンガを描くことに執着します。
そして本作の主人公都城は写真を撮ることに。
まさに命がけで。
執着することは、人から見ればこっけいであったり、ばかげていたりするのかもしれません。
現代はそもそもそんな執着心、欲求がない人が増えてきている。
ギラギラしている人なんて見かけない。
失敗することを恐れるから、そもそも執着なんかしたくない。
執着心があるから自滅する、そう感じる人も多いかもしれない。
だからこそ大根監督はそういう執着心に支配された人に魅力を感じるのかもしれません。
リビドーにも似たエネルギーが暴発するような不穏さが感じられる作品でした(チョロ源はまさに暴発したとも言えます)。

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「スター・トレック BEYOND」 SFとしての「スター・トレック」

J.J.エイブラムスが「スター・ウォーズ」のほうで忙しかったからか、監督は「ワイルド・スピード」シリーズのジャスティン・リンに交替です。
ジャスティン・リンは「ワイルド・スピード」の中興の祖ですので、シリーズを引き継ぐ役割にはピッタリではないでしょうか。
出来上がった作品を観ても、いい人選であったのではないかと思います。
本作はリブートした「スター・トレック」シリーズとしては3作目に当たりますが、今までの中でもテレビシリーズの「宇宙大作戦」のエッセンスが色濃く出ているように感じました。
「宇宙大作戦」は毎回「宇宙、それは最後のフロンティア」というナレーションで始まります。
カーク船長以下のUSSエンタープライズのクルーが、惑星連邦の辺縁部を5年間調査航海している中で出会う出来事を描いています。
連邦から遠く離れているところを単独で航行しているため、未知の知的種族や生物、現象と出会うことも多く、その場合はいちいち本部に確認して事態に対応することはできないわけで、より船長やクルーの対応力・判断が重要になるわけです。
「スター・トレック」シリーズでは船長やクルーたちにスポットがあたるのはそのためです。
彼らは新大陸の発見のために勇躍した大航海時代の船乗り、探検家、外交官のようなものかもしれません。
またそこには未知のものへの好奇心、冒険心といったものも感じられます。
大航海時代、多くの科学者も船に乗り世界中を周り、新しいものを発見していきました。
エンタープライズのクルーたちは彼らに似ているように思います。
J.J.エイブラムスが「スター・ウォーズ」と「スター・トレック」の違いは何かと問われたときに、『「スター・ウォーズ」はファンタジーだが、「スター・トレック」はSFだ』と言ったという記事を読んだことがありますが、まさにその通りです。
「スター・ウォーズ」はルーカスが神話を研究してそのエッセンスをSF的な要素で描き直したということは有名ですが、これはこの作品がファンタジーであるということを示唆しています。
ですので「スター・ウォーズ」は基本的にドラマティックで情感的であると思います。
「フォース」というものが人の精神に由来する不可思議な力というところであり、これは「ハリー・ポッター」でいう魔法のようなもので、極めてファンタジー的であると言えます。
対して「スター・トレック」は未知のものへの探求心ということがベースになっており、もしこんな生物がいたら、こんな現象が起こったらという仮説に対して、どのように対応していくかということを描くというかなり理性的なアプローチを描く物語なのですね。
そういう点でサイエンス・フィクション(SF)的です。
今回の「スター・トレック BEYOND」はそういったこのシリーズが持つ本来的なSF的エッセンスが色濃く出ている作品であると感じました。
未知のエリアを航行しているときの正体のわからぬ敵の攻撃。
エンタープライズが大破しまうという状況の中、クルーたちは事態を把握し、その対処方法を探していきます。
事態に対して、持っているリソースでクルーたちが自分たちのスキルを駆使して、どのように解決していくかという理性的なアプローチが「スター・トレック」らしい。
本作のテーマとしてはUSSエンタープライズのクルーたちが戦うことがレゾンデートルである軍人ではないということにスポットがあたっているように思いました。
彼らは探検家であり、科学者であり、外交官です。
未知のものに出会い、相互理解を深めていくことにより、平和を築いていくというのが彼ら本来の役割であるということが描かれており、その点でおいても「スター・トレック」らしさが出ている作品であると感じました。
かといって娯楽映画としての見せ所もふんだんに用意してあるので、飽きることもありませんでした。

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2016年10月17日 (月)

「ハドソン川の奇跡」 ヒューマン・ファクター

本作は2009年に起こった「ハドソン川の奇跡」と呼ばれる航空事故を題材としています。
これはニューヨークの空港を離陸したばかりの航空機の2基のエンジンの両方が推力停止となったため航行不能となり、ハドソン川不時着水をした事故です。
冬場の川への着水であったにも関わらず、乗員乗客255名がすべて生存したということで「奇跡」と呼ばれるケースとなりました。
サレンバーガー機長は奇跡を起こした英雄としてマスコミなどには取り上げられますが、事故調査委員会は彼の判断に問題があるのではないかとし、公聴会を開きます。
諸条件を入力したコンピューターやベテランパイロットによるシミュレーションでは、ハドソン川に着水しなくても、トラブルは回避できたと、彼らは主張します。
人々の命を救った機長が実は・・・というのは、以前デンゼル・ワシントンが主演をした「フライト」がありますが、本作のサレンバーガー機長は安全を第一に考える立派な人物でした。
この事故は、ちょっとでもタイミングが悪ければ、あわや大惨事というケースでした。
ましてや9.11で航空機が引き起こした大惨事の数年後のニューヨークで起こったということもあるでしょう。
事故調査委員会としては、わかりやすい犯人捜しをして決着をつけたかったという心理が働いたのかもしれません。
原因がよくわからない場合だったり、日常的に防ぐことができないことが原因だったりすると、「また同じような事件が起こるかもしれない」といった不安ばかりが世間に広がってしまう。
誰かのミスであれば、少なくとも原因がわかることにより、このケースが個人に由来する特殊なものであることと人々は思ってもらえるのではないかと。
とはいえ本作はドロドロとした陰謀論というわけではありません。
本作の中では「ヒューマン・ファクター」や「ヒューマン・エラー」という言葉が頻出します。
航空事故では「ヒューマン・エラー」が原因の事故が多数あります。
いわゆる誤操作、誤認識など人間由来のミスによる事故のことですね。
マニュアルを充実させたり(航空機を飛ばすときの手順書は何十ものステップがある)、自動化を進めたり(最近の航空機の自動航行システムはすごいらしい)ということは、なるべく人間由来のミスをなくそうという試みでしょう。
人間は必ずミスをする、これは正しい認識です。
だからといって人間の関与を全くなくすということが正しいことかどうかは議論があるところでしょう。
「ヒューマン・ファクター」という言葉は、本作ではサレンバーガー機長がよく使っていたように思いますが、「ヒューマン・エラー」のようなネガティブな意味ではなく、ポジティブな意味で使っていたように思います。
マニュアル化、自動化という対策は「人は必ずミスをする」という前提で、想定されるケースでどのように対処するべきかということを取り決めたものと言えます。
これは一見正しいのですが、「想定外」のことが起こったときには実は役に立たなくなります。
マニュアル通りにしか行動できない人のことを「マニュアルくん」と揶揄したりすることがありますが、そういう人は「想定外」の状況にヨワイ。
自動化された機械も「想定外」のことが起こった場合はエラーを起こしてしまう。
この作品で描かれている状況は、離陸直後にバードアタックを受け、全エンジン停止という状況は誰も経験をしたことがない「想定外」の状況でした。
すでにデータがそろっている状態でのコンピューターシミュレーション、何度も練習をして挑むパイロットでやっとクリアできる状況であったわけです。
「想定外」のことが起こったとき、人間はより高次なレベルでの判断(何を優先させるべきか、何が最も可能性があるか)を行うことができます。
これは誰にでもできることではなく、高い経験値、冷静な判断力、実施可能なスキルが求められます。
「想定外」の状況のとき、マニュアルも自動化技術は対応できない可能性があり、それに対応できるのが「ヒューマン・ファクター」なのかもしれません。
今後AIのディープラーニングが進んでいくと、ベテランが持っている「カン」的なものも持つようになるかもしれませんが、まだまだそれに人の命を賭けられるかというと怖いものがあります。
またこの映画で描かれたのは航空機事故で、ふつうに暮らす我々からするとかなりレアなケースのようにも思えますが、遠くない未来で自動車の自動化が進んだ場合は、このようなケースも身近になるかもしれません。
「想定外」のことが起こったとき、「ヒューマン・ファクター」で対応できるのかどうか、今後話題になることも多くなるかもしれませんね。

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2016年10月 9日 (日)

「仮面ライダーゴースト」 ゴーストのように印象薄い

歴史上の偉人の力を借りてフォームチェンジするというアイデア、ビジュアル的にも上着(パーカー)を装着したようなスタイリングと、従来のライダーとは異なるネガポジ反転のフェイスデザインなど、平成仮面ライダーらしい新しいアイデアが詰まった「仮面ライダーゴースト」でしたが、全体的に盛り上がりに欠ける印象を持ちました。
最近の平成ライダー「鎧武」「ドライブ」と比べても1年間続く物語のけん引力が弱かったかなと。
「鎧武」は当初からは想像できない展開で大河ドラマ性がありましたし、「ドライブ」についても進之助の殉職、真の悪役である蛮野が登場してからは大きく物語が動きました。
それに比べて「ゴースト」は特に終盤での引きの弱さが感じられました。
主人公タケルは第1回で眼魔に殺されてしまいますが、仮面ライダーゴーストとして復活。
しかし、これはあくまでゴーストとしての復活で本当に人間として蘇るには、99日(途中で1度リセット)間で15個の眼魂を集めなくてはいけないという設定になっています。
この設定を有効に使えば、タイムリミットサスペンス的な物語のけん引力がもっと出てきたはずだと思うのですが、さほど強くは感じられなかったのですよね。
劇場版のときのレビューにも書きましたが、中盤で一度タイムリミットが訪れる時を描いたのですが、割とあっさりリセットされてしまい、その重みがちょっと減じたように感じました。
その後もそれほどそこにストーリーの重点を置いたわけではなかったので、結果終盤の盛り上がりにはつながらなかった仕掛けであったかなと。
主人公のタケルもちょっと弱いキャラクターであったようにも感じます。
ホワッとしていていい青年なのですが、ちょっとクセがない。
真面目で正義感があるのだけれど、キャラクターとして弱かった。
主人公のキャラが弱いと物語全体の個性も弱く感じられるのですよね。
Amazonプライムビデオ用にオリジナルで作られた「仮面ライダーアマゾンズ」の制作発表会で東映の白倉プロデューサー(いままで数多くの平成仮面ライダーをプロデューサーを務めていた)が、「最近の仮面ライダーは面白いですか?」という問いを記者さんたちにしたという記事を読みました。
確かに平成仮面ライダーというコンテンツは「ゴースト」で17作目になり、歴史あるシリーズとなってきました。
意外性のあるモチーフやビジュアルを打ち出すという平成仮面ライダーらしさはまだ持っていると思いますが、物語や世界観においてはわりと手堅いという印象があります(最近でチャレンジャブルだったのは「鎧武」かな)。
TV番組だと周囲からの期待度が高く、失敗ができないということがあるかもしれないですが・・・。
またこれだったら当たるという成功法則が制作側ではあって、それによって手堅い作りになっているのかもしれません。
外さないというセンスは番組をずっと続けていくにあたってはとっても大事なことなのですが、驚くような冒険というのも見てみたかったりもします(ファンというのは欲深いですね)。
次の仮面ライダー「エグゼイド」もスタートしていますが、ビジュアル的なインパクトは申し分ありません。
あとはあまり手堅くまとめず、平成仮面ライダーとして新しいチャレンジをしていってほしいと思います。

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2016年10月 6日 (木)

「君の名は。」 吟味し抜いた107分

<ネタバレを含みますので、要注意>

知り合いのお子さん(10代男子)が5回見て、5回泣いたと言っていた本作、ようやく観に行ってきました。
良くできている作品だとは思うのですが、泣いたかと言われると泣かなかったのですよね。
たぶん40代男子はすれちゃっていてダメなんだろう。
というのは冗談で、こちらの作品を観ているとよく考えられて作っているなと感じるところがいくつかあり、感心して観ていたというところでしょうか。
わりと客観的に観てしまったため、泣けなかったというか。
新海誠監督は「秒速5センチメートル」等を作った方ですが、実は彼の作品を観るのは初めて。
デビュー作「ほしのこえ」は新海監督が監督・脚本・演出・作画・美術・編集をほとんど一人でやったということを以前聞いてびっくりした覚えがあります。
本作を観て思ったのは、この監督はきっちり計算して作品を作っているのではないかということ。
どういうふうな構成、演出であれば、観客は理解しやすいか、感情移入をしやすいかということを考えて、計算づくで(悪い意味ではなく)作っているように感じました。
作品のターゲットも10代の男女ときっちり設定しているのではないでしょうか。
おそらくこのターゲットはそれほど映画を観ている層ではないでしょう。
本作のように人が入れ替わったり、タイムラインが交錯したりする物語は複雑になりがちですが、観客側が頭を使って整理をしなくても、ストーリーの流れに身を任せていれば理解できる。
中身の入れ替え、時間のずれなども他の映画ではそこを解き明かすまでに時間がかかったりしますが、この作品ではそのあたりはわりとすんなりわかってしまう。
その仕掛け自体が重要であるという認識なのでしょう。
あと、先にハッピーエンドになりそうな予感があるのも10代にもいいかと。
冒頭に大人になった二人がすれ違うシーンがあるので、三葉が死ぬということは避けられるだろうということはわかります(よほどひねくれたストーリーでなければ)。
個人的には頭で結論が想像できるのはもったいないのでは、もっとハラハラさせたほうがよいのでは、と最初は思ったのですが、たぶんこちらのほうが安心して映画を観ることはできるかもしれないと思いました。
深い映画ファンでない若い世代は凝ったストーリーとか、どんでん返しを期待しているのではなく、ハッピーな気持ちになれるこを望んでいるのかもしれない。
そういう点で、この作品はきっと幸せな気持ちにさせてくれるという安心感が感じられるのですよね。
途中ハラハラする場面はあるのですけれど、なんだか悲劇的な結末には至らないという安心感があります。
どんでん返しを作品の肝にしているわけではなく(どんでん返しの肝の作品は二回目は見たいとあまり思わない)、主人公二人が困難を越えてハッピーになる物語なので、何度でも繰り返し観たいという気持ちになりやすい。
冒頭に紹介した10代男子のようにリピーターがこの作品には多いというのもそういう理由からではないでしょうか。
日経新聞に載っていた記事では監督あh作品の長さにもこだわりをもっているようです。
観客のことを考えなるべく作品の長さは短くすることを考えているようです。
監督が脚本から編集までをご自身で担当していることも、計算され吟味された無断がなくわかりやすい作品づくりにつながっているかもしれません。


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2016年10月 3日 (月)

「スーサイド・スクワッド」 DCはメジャーになれるのか?

DCの悪人(ヴィラン)版「アベンジャーズ」と言ったところの作品。
コミックでDCと言えばマーベルと双璧の存在であるが、こと映画においてはその存在はマーベルに大きく水をあけられているように思える。
今年に入り「バットマンVSスーパーマン」の公開、続いて「ワンダーウーマン」も公開予定ということで、マーベル追撃の姿勢を見せているが、なかなか追いつくまではいけていないというのが私の印象だ。
この違いはどこにあるのだろう?
おそらくマーベルはスーパーヒーローものというジャンル系映画に興味を持たない人も取り込めているのに対して、DCはマニアックなオタク路線で展開しているということなのではないか。
言葉を替えれば、マーベルはスーパーヒーローもの等の素地がない人が見ても楽しめて親切なつくりになっているのに対し、DCはある程度ジャンルに対するバックボーンが求められるように思う。
マーベル・シネマティック・ユニバースは「アイアンマン」からスタートしたが、そもそもアイアンマンというヒーローはそれほど著名ではなかった。
しかしマーベルは主演にロバート・ダウニーJr.を起用したり、監督にはジョン・ファブローをあてたりとこのジャンルイメージとは違う布陣で挑んだ。
この布陣はジャンルムービーが持つマニアックさを抑え、メジャーな匂いがする作品にすることに貢献できたと思う。
このことにより、スーパーヒーローものはそのジャンルが好きな人々だけで楽しむというものではなく、それ以外の多くの観客に広く門戸を開くことに成功したと思う(一昔前はデートムービーにアメコミ映画を選ぶというセンスはなかったと思う)。
その後、他のマーベル・シネマティック・ユニバース作品でもマーベルはこのメジャー化戦略を推し進めていく。
また「アイアンマン」からスタートし、「インクレディブル・ハルク」「マイティ・ソー」「キャプテン・アメリカ」というようにユニバースを拡大し、「アベンジャーズ」としてフェイズ1をまとめ上げた。
アイアンマンにしてもソーにしても、バットマンやスーパーマンに比べれば当初はマイナーな存在であったのだが、マーベル・シネマティック・ユニバースを積み上げていくうちに、メジャーになっていた。
さらには全く知らないヒーローであっても、マーベルであるならばおもしろいと観客に思ってもらえるようになっていったと思う(「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」や「アントマン」等)。
いわば「マーベル」を信頼のブランドにすることができたのだ。
極めて「マーベル」は戦略的にマーケティングをしているようにみえる。
「スーサイド・スクワッド」の記事にもかかわらず、延々とマーベルの話を書いてしまったが、対してDCはどうか。
冒頭で書いたようにDCはマニアックすぎるアプローチをしているように見える。
本作をヴィラン版アベンジャーズと言ったが、これはかなり変化球な切り込み方だ。
確かにスーパーヒーローものでは悪役が人気となるケースは多くある。
本作にも登場するジョーカーなどはその筆頭だと思うが、そもそも悪役はヒーローがあってこその存在である(ヒーローは悪役あっての存在ともいえるが)。
なのでヴィランが主役の物語はあくまでサイドストーリーであるはずなのだが、本作の場合はサイドストーリーが先にできてしまったという感じがする。
アメコミマニアからすれば、デッドショットもハーレイ・クインもメジャーな存在なのかもしれないが、それほどこのジャンルに造詣が深くない観客からすれば「誰それ?」という感じだろう。
おそらく制作側もそれはわかっているからこそ本作で登場人物の背景を織り込んできたのだろうが、やはりキャラクターを魅力的に描くほどには踏み込めていない。
ジョーカーとハーレイ・クインの倒錯的な純愛は一本作れそうな可能性があると感じたのだが、本作の中ではダイジェストのような扱いであったので、少々もったいないと感じた。
DCもマーベルにならって、「アベンジャーズ」のようにヒーローたちの物語がクロスオーバーしていくジャスティス・リーグを展開していくことをもくろんでいくようだが、マニアックなアプローチのままだと大きなムーブメントにはなりにくいような気がする。
このマニアックなアプローチは本作の製作総指揮で入っていたザック・スナイダー(「ウオッチマン」「マン・オブ・スティール」)のセンスなのだろうと感じる。
「ダークナイト」のクリストファー・ノーランは作家性の強い監督であったが、マニアックではなかった。
作品の情報量は多かったがあくまでノーランがストーリーを描くためであって、マニアックなキャラクターを描くためではなかったと思う。
広い層をとっていくのか、マニアックな層をとっていくのかは、規模の大きいプロジェクトとしては大事なところなので、マーベルにならうだけではなく、DCの戦略が求められる気がする。
本作単体の評価として気になったところでいうと、ストーリーの組み立てが少々わかりにくい箇所がいくつかあった。
後半はスーサイド・スクワッドが派遣される事件について物語は展開するが、その直前にフラッグ大佐とジェーンが地下鉄に行くシーンから突然ジャンプしたように感じられた。
後で「実はそのとき・・・」的な描かれ方で補足されるのだが、少々わかりにくいように思う。

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2016年9月19日 (月)

「X-MEN:アポカリプス」 エンターテイメントと思想のバランス

「X-MEN」新三部作の最終章です。
前作「フューチャー&パスト」ではタイムトラベル要素が入ってきたので、間が空いてから見るとタイムラインがわからなくなります。
しかし今回はジーンやサイクロップス、ストームなど「X-メン」の主なキャラクターが登場し、旧三部作と新三部作のリンクが明快になってきます(実際は前回過去の改変を行っているから、タイムライン的には別になりますが)。
ジーン、サイクロップス、ストームは旧三部作から俳優陣も若々しくなっています(過去を描いているので当たり前か)。
とはいえ助っ人として登場するあの人は変わらず。
他の誰が演じてもブーイングが来そうなので、なかなか変えづらいですよね。
不死の体だから老けないってことで。
「X-MEN」シリーズは登場人物も多いし、超能力もド派手なものが多いので、話のスケールがかなり大きくなりがちです。
ともすると大味になりやすいのですが、さすがブライアン・ジンガーは手堅くまとめ、その辺もバランス良くしていますね。
強大な力を持つ適役が登場すると、従来のキャラクターがこじんまり見えたり、妙なパワーアップをしたりと、話がインフレを起こしやすい。
今回などはX-MENサーガの時系列としては真ん中辺になるので、無理はパワーアップは先に繋がらなくなりますし、手加減が難しいところです。
究極に個の力を高めることにより、それ以外の人間を支配し、平和を実現しようとするアポカリプス。
彼が見ている世界は戦いがなく平和なのかもしれないですが、それぞれの人間は抑圧されている世界です。
しかし、プロフェッサーXが目指しているのは、誰でもがその違いにかかわらず平和に暮らしていける社会です。
旧三部作に比べ、ミュータントが象徴するマイノリティの苦しみ の描き方は新三部作薄いですが、それが「X-MEN」シリーズの描く思想であることは間違いないでしょう。
大作のアメコミ映画としてエンターテイメント感は強く出しつつも、「X-MEN」らしい思想は保っている作品となっていると感じました。
さてこれで「X-MEN」サーガは繋がったわけですが、次回はどういう風に展開しますかね。
個人的にはミスティークとマグニートがどう合流していくかが見てみたいところです。
(それとも新しいタイムラインでは合流しないのか?)

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2016年9月 9日 (金)

「ゴーストバスターズ(2016)」 オリジナルのテイストを大切にしてる

1984年に公開されて世界中でブームとなった「ゴーストバスターズ」。
公開当時、自分は高校生でこの映画を観てすごく楽しかった覚えがあります。
最近のハリウッドは昔のヒット作のリメイクものが多いので、こちらの作品もそういう要請によるものなのでしょうね。
昔の作品が好きだったりすると、リメイクやリブートであまりに改変されているとがっかりするものですが、本作は想像以上にオリジナルに忠実だと感じました。
大きく変わっている部分は、主人公ゴーストバスターズたちが男性から女性になったところです。
ただ大きく変わっているのはそこくらいで、4人のメンバーの役割もおおむね印象は同じでしたね。
ちなみにオリジナルと今回の作品のキャラクターの対比はこんな感じでしょうか。


ピーター(♂)  : エリン(♀)
レイモンド(♂) : アビー(♀)
イゴン(♂)   : ジリアン(♀)
ウィンストン(♂): パティ(♀)
ディナ(♀)   : ケヴィン(♂)


作品の雰囲気がオリジナルと大きく変わらなかったのは、旧作に関わっているメンバーがかなり関与しているからでしょうか。
オリジナルの監督であったアイヴァン・ライトマンが製作、出演者の一人であったダン・エイクロイドは製作総指揮を務めています。
ビル・マーレイはゴーストに懐疑的な研究者として劇中に、シガーニー・ウィーバーもエンディングでカメオ出演出演していました。
本作のパティのおじ役でちらりと顔をだしたのは、オリジナルで4人目のゴーストバスターズであったアーニー・ハドソンでしたね。
びっくり。
唯一旧ゴーストバスターズで出演していなかったのは、ハロルド・ライミス。
2年前に亡くなったようで、この作品は彼に献じられていました。
旧作とのイメージを大切にしているのは他にも。
ゴーストバスターズたちが出動するときに乗っていく車もイメージはオリジナルと一緒。
たぶんナンバープレートも同じじゃないかな?
あとオリジナルでゴーストバスターズの事務所だった旧消防所もちらり出てきました。
ちらりだけどけっこう重要なポジションでしたよね。
あれはオリジナルで使ったのと同じ場所なのかな?
オリジナルではシガニー・ウィーバーが演じたヒロインのディナがゴーストたちの憑代になっていましたが、本作では観賞用ヒーロー(ヒロイン?)であるケヴィン(クリス・ヘムズワース)が同じ役回り。
あまりにおバカな役っぷりでなかなか良かったです。
ストーリーの展開もオリジナルとは大きな隔たりはなかったので、旧作育ちの自分としては安心して観ることができました。
ラストでは「ズールー」というあの言葉が登場・・・。
リブートでも「ゴーストバスターズ2」もあるのかな。

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2016年8月31日 (水)

「秘密 THE TOP SECRET」 パンドラの箱

<ネタバレ注意の記事になっています!>

この作品で描かれる事件の発端は、主人公である第九室長薪と連続殺人犯貝沼の出会いである。
重要なシーンであるので、ここを一度思い出したい。
貝沼は教会のミサに参加していた。
彼がキリスト教信者であるかは描かれていないが、身なりが貧しく、ミサ後教会の施しを受けたところを見ると、信者ではなく施しをもらいに来ていたのではないかと思われる。
ミサが終わった時、彼は椅子に忘れられていた財布を見つけ、持ち主に渡そうと立ち上がる。
しかし彼は足が悪いのかゆっくりとしか歩けず、持ち主を見失ってしまう。
その時、彼はちょっとした逡巡の後に財布を懐に入れてしまう。
おそらくそれほどの悪気はなく「まあ、いいか」「ちょっと得したな」というくらいだったのかもしれない。
しかしその一連の行為を見ていた薪は、警察であることを告げた上で、貝沼に罪を犯さないようにと言い、財布を預かる。
その上に貝沼がそういった行為をした背景をわかったように、金の施しを与えたのだ。
映画の中で描かているのはこう言った描写である。
これがどうしてその後の陰惨な事件の連鎖につながっていくのか。
おそらく、貝沼は薪に行為を見咎められ、施しをされた時に、財布を懐に入れてしまう逡巡と罪を犯そうとしているという自覚を全て、薪に見抜かれてしまったという気持ちになったのであろう。
誰でもある行為を行うときに心の中で善悪のせめぎ合いがあったりするものだ。
例えば、100円を拾ったときに誰も見ていなかったら交番に届けず、ラッキーと言ってポケットに入れてしまったり、電車で疲れて座っている時に目の前に老人が来ても寝たふりをしてしまったり。
罪の意識を感じながらもちょっとしたことをしてしまうということは誰でもあるだろう。
ただそれを誰かに「お前は気づいて席を譲らなくてはいけないと思ったのに譲らなかっただろう」と言われたら、顔から火が出るほど恥ずかしく感じるだろうし、言った相手に対し不快な気持ちも抱くことだと思う。
誰でも頭の中でちょっと人には言えないような恥ずかしいこと、不道徳なことを考える。
しかし普通は理性的に考えて大それたことを実行することはない(100円をポッケに入れてしまうことはあったとしても)。
貝沼は薪に指摘された時、自分の心にある恥ずかしい部分を露わにされたことに怒りを感じたのではないだろうか。
その相手である薪は悪意があるわけではなく、非常に純粋な気持ちで言ったということも貝原にはわかったであろう。
しかしだからこそ自分とは異なる、純粋な精神を持つ薪に苛立ちを感じたのではないか。
その純粋さを汚したいという衝動を貝原は持ったのではないかと思う。
そしてさらに薪が人の脳の記憶を読む技術を開発していることを貝沼は知った。
それはある意味人間の本分を超え、神の領域にも足を踏み出すこととも言える。
純粋な精神がさらに神の高みに登っていく。
貝沼の中に、薪を堕落させたいという衝動がより強くなっていったのだろう。
この作品には鍵というモチーフが各所に出てくる。
鍵とはみてはいけないものをしまっていくということ、禁忌の象徴。
薪は人の心がしまってある箱の鍵を開けてしまった。
その禁忌を破った時に出てくるのは絶望か、希望か。
まさに人間の心、記憶はパンドラの箱である。
貝沼から続く陰惨な事件は絶望である。
箱の中にあった暗い心を見てしまった人々は自殺をしたり、発狂したりした。
あまりの闇に触れた時、人は自分の心にも同様の闇が存在することに気づいてしまうのではないか。
自分自身すら気づいていなかた闇に絶望する。
おそらく開けてはいけない鍵なのだろう。
しかしパンドラの箱と同様に、そこにあるのは絶望だけではない。
物語の最後に出た幸せそうな風景。
これは盲目の少年のパートナーである犬が見ていた映像の記憶である。
犬が見ていたのは幸せそうな人々の光景であった。
人の世は絶望だけではなく、希望も確かに存在する。
それだけが救いであり、薪が生きていけるのもこれがあるからではないだろうか。

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